公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

州公務員団体交渉制度オーバーホールの動き-注目州

合衆国-労働サイト(アンチ・ユニオン系・その他)

合衆国-連邦政府行政

合衆国-州政治

Reference Sites

2018/06/30

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の概要への意見  確定版その2

【該当箇所】

 

(1)定義

 不当な差別的言動

 「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」

第二条の規定(※)と同義

 表現活動

集団行進及び集団示威運動、インターネットによる方法等により行う表現行為

(2)

公の施設において不当な差別的言動が行われることを防止するための

※以下2つの両方を満たすことを要件

 ①不当な差別的言動が行われる蓋然性が高いこと

 ②不当な差別的言動が行われることで、公の施設の安全を確保できない危険性が

 高いことが客観的かつ明白に明らかであること 5

(1)定義

 不当な差別的言動

 「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」

第二条の規定(※)と同義

 表現活動

集団行進及び集団示威運動、インターネットによる方法等により行う表現行為

※ア 対象が本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に

居住する者であること

 差別的意識を助長し、又は、誘発する目的を有すること

 本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由としていること

 本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動するものであること

 

 

 

意見内容】

 ヘイトスピーチ対策のすべての政策、とくに公の施設において不当な差別的言動が行われることを防止する条例に反対する。「公の施設の安全を確保できない危険性が 高いことが客観的かつ明白に明らかであること」という基準は、泉佐野市民会館関西空港反対集会使用拒否事件で最高裁が示した使用拒否の判断基準より緩いように思われ、納得いかない。

 

理由】

 

理由その1

 公の施設は、社会的に嫌悪されている団体の利用、集会の、テーマ、内容、反対者の抗議活動があることを理由として利用拒否はできないのであって集会内容や団体に着目して規制を明文化する条例などもってのほか

 

 住民に開かれた市民会館・公民館等の公共施設の利用拒否については多くの判例があり、その到達点といいえるのが等の祝儀を優先する確固たる方針もなかったとして、本件不許可処分を違法としている。 上尾福祉会館組合幹部合同葬使用拒否事件 最高裁第二小法廷平8・3・15判決 判タ906号であるが、平成元年12月2日JR総連総務部長が帰宅途中殺害された。JR総連は故人の追悼のため翌年2月1日、2日に上尾市福祉会館大ホールにて合同葬の使用許可申請をした。週刊現代2006年8月7日発売号などによると、殺害された旧動労幹部は革マル派の活動家で、対立するセクトである革労協に襲撃された。当時新聞記事でもそのような報道がなされた。 館長(専決権者)は上告人に反対する者らが合同葬を妨害して混乱が生じることが懸念され、結婚式場その他の施設の利用にも支障があるとの結論に達し、市長の了解を得て12月26日不許可処分としたため、これを違憲・違法として損害賠償訴訟を提起したものである。なお、合同葬は日比谷公会堂に会場を移して行われたが妨害行為はなかった。また本件福祉会館では元市長の市民葬を除き、一般の葬儀で使用されたことはなかった。 

 一審は不許可処分を違法としたが、二審は適法と判決した。上告審判決は英米法の理論である「敵意ある聴衆の理論」にふれ、主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する者らが、もこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争をおこすおそれだけを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるべきところ、本件に特別な事情は認められないとした。また大ホールとその他の施設の出入口を異にすること、合同葬の本件会館使用は設置目的に反するものでなく、結婚式等の祝儀を優先する確固たる方針もなかったとして、本件不許可処分を違法としている。

  アメリカの判例理論であるパブリックフォーラムや表現内容・主題に着目した規制は厳格司法審査という理論は我が国ではとられていないとはいえ、それが天皇制反対集会であれ、同和行政批判集会であれ、日教組教研集会であれ、利用する団体の性格、集会のテーマ、内容に着目した利用拒否は違法と判断されている。反対者の抗議活動があることも利用拒否の理由にはならない。

  社会的に嫌悪される言論を嫌悪感によって禁止することを禁ずるのが言論・出版の自由の根本原理なのであり、周囲から嫌悪されている表現こそ保護されるべきなのである。

 したがってヘイトスピ―チがなされる蓋然性という表現内容や団体に着目した規制は容認できない。 

(なお東京都においても動くゲイとレズビアンの会府中青年の家利用申込不承認事件で控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、東京都教委が同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱し違法と判示している。都立王子養護学校事件東京地判平18.6.23判タ1239169頁は、都障害児学校労働組合(都障労組)の教研集会の使用不許可処分が裁量権の逸脱であり違法としている。)

  例外的に、集会使用不許可を認めた判例が泉佐野市民会館「中核派」関西空港反対集会使用不許可事件最三小判平737民集49巻3号687頁であるが「公の秩序をみだすおそれがある場合」に当たるとして不許可とした処分は、当時、右集会の実質上の主催者と目されるグループが、関西新空港の建設に反対して違法な実力行使を繰り返し、対立する他のグループと暴力による抗争を続けてきており、右集会が右会館で開かれたならば、右会館内又はその付近の路上等においてグループ間で暴力の行使を伴う衝突が起こるなどの事態が生じ、その結果、右会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害される事態を生ずることが客観的事実によって具体的に明らかに予見されたという判示の事情の下においては、憲法21条、地方自治法244条に違反しないとしている。 「本件条例七条一号は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ、右のような趣旨からして本会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である‥‥。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法二一条に違反するものではなく、また、地方自治法二四四条に違反するものでもないというべきである。」という判示にくらべると「公の施設の安全を確保できない危険性が 高いことが客観的かつ明白に明らかであること」という東京都の基準は、「人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を」という具体的な文言がなく、緩い感じがする。

  もっと厳格な基準か泉佐野市民会館判決をなぞった基準でなければ納得しない。条例化に強く反対する。

 

理由2

 

 私は、そもそもヘイトスピーチ対策法にも反対だったし、ヘイトスピーチ禁止を憲法違反とする合衆国最高裁の判例法理を支持するので全面的に反対である。

 

 アメリカの表現権の法理をおおまかにいって、時・場所・態様の規制については、合理的な理由があれば容認するが、表現内容や主題に着目した規制は違憲が推定される厳格司法審査をとっていて、星条旗焼却、人種的憎悪、バーチャルチャイルドポルノ、暴力的ビデオゲーム等の規制の違憲判決があるほか、ナチスの鉤十字を掲げたデモ行進の規制も下級審判例だか違憲判決がある。

 私は、表現内容、主題にもとづく着目した規制を許さない連邦最高裁の表現権理論を支持するため憎悪表現、集団誹謗表現規制立法には強く反対なのである。

  表現権の現代的到達点ともいうべきもっとも高く評価されるべき判例は1992年のR.A.V. v. City of St. Paul, Minnesota判決である。スカリア判事法廷意見は社会的に嫌悪される見解をその嫌悪感を理由に禁止することを禁じることが修正一条の根本原理という従来の連邦最高裁の見解をふまえ、人種等の憎悪に基づく表現領域を規制すること自体が違憲であるとし、セントポール市の憎悪表現規制市条例を文面上違憲としたものである。さらに暴力的ビデオ・ゲームを未成年に販売することを禁止した州法を違憲とした2011年のBrown v. Entertainment Merchants Association (formerly titled as Schwarzenegger v. Entertainment Merchants Association) のスカリア法廷意見は、保護されない言論とされる新たなカテゴリーをバランシングによって創設することを求める政府側の主張を斥け、長い禁止の伝統を欠くような保護されない言論を新設することはないとした。この法廷意見が覆されない限り、合衆国では、立法府が低価値であるとする、あるいは政治的な理由で保護されない表現領域が新た立法化されることはない。国連の委員会が何といおうが、そんなものは関係ない。

 結局合衆国ではユダヤ系住民の多い街であっても鉤十字を掲げたデモ行進の規制は憲法違反であり、焼かれた十字架も脅迫にならない限り憲法理論では容認されるものである。

 人々は多くの見解のなかから何が正解なのかを判断する。今回の条例案のように特定の主題、見解の表明を禁止することは、率直にものが言えなくなるばかりか精神的自由の枯渇と深刻な事態と受けとめたい。

 また我が国は人種差別撤廃条約第四条(a)(b)を留保し、アメリカ合衆国も同様であるが、人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」は表現の自由を侵害するものとして憲法学者の多くが否定的であり、この方面のロビー活動に応じることがないようにしてもらいたいと意見を追加しておく。

 

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の概要への意見  確定版その1

先ほどメールで―送信しました。12時まで時間があるのでもうワールドカップを見ながら見ながらもう1本書きます。  

 

【該当箇所】


  オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現

 (2)都の責務

都は、東京2020大会を契機として、多様性を尊重する国際都市を実現するため、人権尊重の理念を東京の隅々にまで浸透させるべく、必要な取組を推進

(3)都民や事業者の責務

都民、事業者がそれぞれの立場で取組を推進

 

【意見内容】


 オリンピック開催に便乗し 都民や事業者に人権を尊重する責務を課す政策に全面的に反対。オリンピックとダイバーシティと人権を無理やり結びつけている感がある。

とくに雇用・住居・ビジネスにおける私人間の契約、雇用判断等雇用主や大家の裁量権の規制や配慮義務の策定、事業運営への干渉、商品やサービスの提供での差別を禁止する政策の策定に強く反対する。

 LGBT人権尊重政策、平等要求に応える政策に全面的に反対。性自認や性的指向等を理由とする差別禁止法は、米国で20州ほどあるが、混乱をもたらしており強く反対する。

 また同性パートナーシップの保護政策、法律婚と同等のベネフィットを付与する政策に進むことも反対。

集団的誹謗表現の規制に強く反対、ポリティカルコレクトネスの公定化に反対。地方政府が言葉遣いの基準を策定したりすることは、表現権の侵害になるので強く反対。我が国は人種差別撤廃条約第四条(a)「人種差別の煽動処罰」と(b)の留保しているとおり、「人種差別の煽動処罰」は表現の自由を侵害するものとして憲法学者の多くが否定的である。人種差別撤廃NGOネットワークはヘイトクライム法を推進しようとしているがこれに乗じた政策には強く反対する。

 道徳的選好に公権力が干渉するようなことは絶対反対。同性愛行為を道徳的に不承認とする都民の市民的自由に干渉するすべての政策に反対するし、宗教的信念や哲学的異議等でないとしても、端的にいえば性器性交(ペニスとヴァギナの結合)でエクスタシーを得ることがノーマルで健全であり、肛門性交は不自然でアブノーマルなものとして嫌悪するのは普通の感情として認められてよいものであり、そうした価値判断の意識改革を都民に要求するような政策のすべてに反対する。

  2017年カリフォルニア州法のような、トランスジェンダーを第三の性として承認する「ジェンダー認知法」も必要ない。

 ただ生来の性、解剖学的性ではなく、性自認に基づくトイレ、更衣室、浴室の利用を東京都の公営施設や都立高校等に限り認める程度の政策を容認することにやぶさかではないが、民間企業の施設管理権に干渉することには強く反対する。

 


【理由】



理由その1

 

 

 雇用・住居・ビジネスの分野で事業運営、私人間の契約の自由、雇用判断等の裁量権に干渉し規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対するのは、取引(営業)制限からの自由、契約自由、私的自治は近代市民的自由の核心であり、三菱樹脂事件最高裁判決を引用するまでもなく。どのような理由であり雇用主にとって好ましい人を雇用し、大家は好ましい人に賃貸借契約する自由があるはずだ

 人権尊重の名のもとに、特定集団に特別に配慮するよう行政が強要して、契約自由・私的自治という自由企業体制の根幹、市民的自由が侵食されていく傾向を不快におもっている。ダイバーシティーどはヒューマンリソースマネジメントの一環として、P&Gなどの大企業がはじめたことで個別企業の経営・人事管理政策の一つであって、企業の裁量権でおこなうべきもの。行政が干渉する必要はないし、人権政策と結びつける必要もない。。

 とりわけ宗教的、哲学的異議、同性愛を道徳的に承認しない価値観をもつ都民に対して、意思に反する契約や判断を強要し民間の事業運営に干渉する条例化は絶対反対。

 

理由その2

 

 東京都直営の公共施設利用権について、LBGTであることを理由とした不当な扱いをなくすことをあえて否定しないが、動くゲイとレズビアンの会府中青年の家利用申込不承認事件で控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、東京都教委が同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱し違法と判示し都教委は敗訴している。この事件以来東京都はこの種の問題に敏感になっているから条例化する必要はないと思う。

 不当な差別的扱いは、それが過激派であれ右翼の政治団体であれしてはならないのは同じことだからLBGTを特別視する理由がない。公共サービスの優先処遇も理由がない。

 

 

理由その3

 

 民間事業における商品やサービスの入手において差別を禁止することは強く反対。同性愛を道徳的に承認しない人々がビジネスにおいてゲイとレズビアンの人々に商品やサービスを提供しない契約自由、私的自治を否定すべきではない

 LGBT運動は、公民権法に人種、性、国籍等に加えて「セクシャル・オリエンテーションやジェンダー・アイデンティティ」による差別禁止を加えることを要求しているが、実現はみしていない。米国では連邦法では性的指向についての差別禁止法は存在しない。

ただし20州で性的指向の差別を禁止する法があるけれども各地でトラブルが起き、市民権委員会が同性愛を道徳的に承認しない人々を虐める事態になっており、東京もそのような都市になることを憂う。 つまり公民権型の人種、性別、出身国、民族、宗教にもとづく差別禁止に加えて性的指向に関する差別禁止規定をもうける法制は強く反対である

 

 201865日の連邦最高裁判決Masterpiece Cakeshop, Ltd. v. Colorado Civil Rights Commissionhttps://www.nationalreview.com/2018/06/masterpiece-cakeshop-supreme-court-decision-free-speech-temporary-respite/、宗教的信念によりゲイカップルを祝うカスタムウェディングケーキの提供を拒否したケーキ屋さんがコロラド州の差別禁止法違反とされ、コロラド市民権委員会は会社の方針の従業員の再教育を要求したうえ、サービスを拒否したケーキ屋さんに対してナチ呼ばわりし、奴隷所有者、同性愛恐怖症、頑固者その他の暴言が吐かれ、利益の大きいウェディングケーキ事業から撤退せざるをえなくなったというものである。

 最高裁は72でケーキ屋に有利な判決を下した。判決は市民権委員会の事件の扱いには、彼の異議、誠実な宗教的信念に対して明確で容認できない敵意の要素がいくつかあり、コロラド州法は宗教にもとづく差別を禁止しており、法律の公正な施行でなく不適切な対応としている。なお、この判決は憲法上の権利には踏み込んでいない。

 差別禁止において、宗教的哲学的異議を持つ者を適用除外とすればよいのではないかというかもしれないが、それでも反対である。一度LBGTの人権尊重や平等要求を法制化するとLBGTコミュニティや人権派の立場が圧倒的に強くなる。宗教的信念というけれどもあなたは教会で礼拝しているのか、聖句を引用できるか、哲学的異議というけれどもあなたはアリストテレスやトマスの著書を読んだことがあるのかなど尋問され、宗教や哲学は偽装で差別したのはヘイトが目的とか勝手に決めつけられたりして、結局正統的な道徳的教訓を重んじる良心的で保守的な人々を迫害する法になることを憂う。

 つまり逆差別を生み出すのである。我が国には厳格なクリスチャンは少ないが、宗教上の少数派としてモルモン教徒やエホバの証人は当然同性愛を容認しないだろうから、これらの人々の信教の自由を侵害する。人口比率では真性同性愛者のほうが多数派であり、人権派がこれに加担してキリスト教的道徳基準をもつ人、信仰のある人々がいじめられる可能性が高い。

 信仰よりも世俗的時流の思想に共鳴することを公権力が強要することは許されない。

 だから性的指向差別禁止やLBGTの人権尊重を義務付けること自体に反対。それは結局同性愛行為(肛門性交・口腔性交)を道徳的に承認しない正統的な価値観を有する都民を愚弄することになる。同性愛行為に対する非難の根拠がユダヤ・キリスト教の道徳基準と倫理基準に基づいていることからすれば、道徳を実践しているまじめな人々が、事業方針を変更するよう命令されたりして、ビジネスができなくなったりするのは最悪の事態だと思う。

 類似した事件は他の地域でも起きてワシントンで同性婚カップルを祝うフラワーアレンジメントのサービスの提供を拒否した花屋さんの事件もあり、結局、性的指向差別禁止法は混乱をもたらす。米国でも過半数以上の州で立法化されていないことであり、東京都が先進的なことを狙って冒険する必要はない。

 東京都は、事業運営に干渉してあれこれ指導をしたいのかもしれないが、都民にとっては余計なお世話と言いたい。

 

 

理由その4


 同性のパートナーシップの保護政策に進むことも強く反対する

 

 世界的に見て近年のゲイの平等要求の最大の焦点が同性婚の承認であった、その前段階として法律婚と同等のペネフィット、税法上の配偶者控除、配偶者相続税免除、寡婦、寡夫年金、配偶者医療保険、療養中のパートナーの訪問権、外国人パートナーの永住権の取得が要求され、正式の結婚とはちがうが「シヴィル・ユニオン」「ドメスティック・パートナーズ」としてこれらの特典を得る運動が展開された。

 我が国でもいきなり同性婚ではなく「シヴィル・ユニオン」「ドメスティック・パートナーズ」から初められるのかもしれないが、強く反対である。

 そもそも異性愛者でも生涯未婚率が上昇し、結婚できない人が増えているのに、ゲイカップルの保護政策など苦々しく思う。

 そもそもこうした政策を実施することとオリンピックを成功裡に開催することとは何の関係もない。

 結婚をどう定義するか、西洋の単婚理念をあらわすものとしてひとくちでいえばユスティニアヌス帝の法学提要にある「婚姻を唯一の生活共同体とする一男一女の結合」といえるだろう[船田享二1971 24頁]。結婚とはあくまでも男と女の結合でなければならない。我が国は明治15年に妾制を廃止し西洋の単婚理念を継受しており、もちろん花婿キリストと花嫁教会の一致を象徴するしるしとしてサクラメントとするキリスト教婚姻理念からしてもそれは男と女の結合である。

 Obergefell v. Hodges,_ (2015)はある州で正式に結婚の認定を受けた同性のカップルには、他の全州でも正式に結婚の資格を認定することを義務付けた衝撃的な連邦最高裁判例である。

 私は異人種婚禁止州法を違憲とし結婚の自由を基本的権利と宣言したLoving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967)に賛同しつつも、婚姻の自由を「重婚」する権利や「同性婚」に拡大することには反対なので同判決には反対である。我国でも渋谷区のパートナーシップ条例などの動きがあるが、このような政策のオリンピックとは無関係であり、先進的政策を望まない。

 憲法上の権利というものは、東京都のような自治体が良く使う人権概念のようにむやみやたらと拡大すべきではなく、法によって保護されるべき自由としてとらえる。

 この点で、私は1923年のマイヤー判決マクレイノルズ法廷意見(最も反動的な裁判官として知られる)や19世紀後期随一の憲法体系書のクーリに近い立場をとっているのである。 私は Loving の意義を認めつつ、憲法上の基本的権利はこの国の伝統に根ざし秩序づけられた自由の範疇でとらえるべきという限定を付するのが正当だったと考える。

 この点ではアリート判事のUnited States v. Windsor2013)の反対意見が妥当と考える。先例としてWashington v. Glucksberg, 521 U.S. 702 (1997)が長い歴史と伝統に支えられたものか否かが基本的権利を承認する判断基準としており、このグラックスバーグテストに照らせば同性婚を行う権利は「我が国の伝統に深く根差したものではない」としたのである。[高橋正明2017

 したがって同性婚には反対であり、渋谷区のパートナーシップ条例の例はあるが、より広域的で人口も多い自治体である都が、都民の合意もないのにこの方向に突き進むことを強く懸念する。

 (引用)

高橋正明

2017『ロバーツコートの立憲主義』大林啓吾・溜箭将之編 成文堂第三章平等-ケネディ裁判官の影響力の増加

 

 

理由その5



 トランスジェンダーのために、生来の性、解剖学的な性ではなく、性自認に基づいたトイレ、ロッカールーム、浴室利用を、東京都が管轄する施設と都立高校等で実施することは容認するが、民間企業の施設管理権に自治体が干渉して、トイレや更衣室の使用方法を指導することは反対。また第三の性を承認して公文書に、男、女、第三の性と並べることを義務づけるようなことは、社会的合意も得ていないから反対である。 

 

 

 

理由その6


 同性愛行為を非難し道徳的に承認しない価値観は、西洋文明の正統的な法思想の系譜に属する以上、そのような価値観を有する人々の市民的自由も尊重されなければならない。これらの人々を非難したり、意識改革を求める政策は、精神的自由の侵害となるので反対。同性愛者の人権尊重を都民に義務付けることによって、正統的な道徳的価値の基盤が崩れていくことを非常におそれている

 

(詳論)

 

反同性愛が西洋文明の正統的な法思想であるであり、これを否定できないのでLGBT運動に反対する。

 

 

西洋文明で男色行為(ホモセクシャルソドミー)が悪行とされるのは、人間の本性に従った自然な性行為ではなく、反自然的、自然の秩序に反する性行為だからである。(主として松平光央1987からの引用)

 

1)人間本性論=自然法論

 

 プラトンは、対話篇八巻『法律』において、男子との交わりは、「神の憎しみ給うもの、恥ずべきことのなかでも最も恥ずべきこと」と指弾し、法律で禁止べきとした。また,生殖と無関係な不毛な交わりを反自然的行為とみなす見解のほか、男性同性愛行為は、男性として望ましい属性である、勇気・節制・度量・知恵等の発達を阻害し、一方の男性を女性の地位に下落させるというのも禁止すべき理由としており、説得力のある見解といえる。

アリストテレスは、人間の行為を自然な行為を善、不自然な行為を悪として二分する考え方を示した。神に祝福される結婚という形態を介しての生殖行為は善、同性愛、獣姦そのたの不自然な性行為は悪とした。男性同性愛行為は人間の本性にもとづく種族の保持、人類の生存という欲求を否定し、人類を意図的に絶滅させるから、法律で禁止すべきであるというのがプラトン、アリストテレスの人間本性論である。

これは聖アウグスティヌスの『神の国』やトマス・アクィナスの『神学大全』によって自然法の掟として理論的に深化される。[松平光央1987

 このギリシャ主知主義哲学とキリスト教神学の混淆といえる人間本性論=自然法論の系譜の反同性愛思想は西洋文明の正統的な法思想といってよいのであり、それを曲げる理由もない。

 

2)聖書思想

 ソドムとゴモラの崩壊が著名だが、レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」は同性愛を明確に悪とする根拠といえる。

西洋文明の夫婦斉体思想の根拠になっているのが創世記2.23-24である。

これこそついに私の骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

 

 ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。

ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]

 新約聖書の引用は略すが、聖書には明確は反同性愛思想がある。

 

3)ローマ法では男性同性愛行為が反逆罪に相当する重罪

旧約聖書のソドムとゴモラの崩壊が、性的紊乱特に男色行為が神の怒りに触れたと信じられており、たんに不道徳といただけでなく国家・社会を崩壊させる行為と認識していたためである。

テシオドス一世やユスティニアヌス帝は洪水、地震、飢餓等の自然災害や黒死病そのたの疫病も男性子同性愛者と無関係ではないと判断していた。

 

4)中世より近世

 教会裁判所では、不敬罪、異端、魔術、姦通等の罪と並んで裁判され、有罪が宣告されれば、ソドムとゴモラの伝統に従って火刑に処された。

イギリス古代のゴート族の慣行では男子同性愛者は火刑か生き埋めに処された

 ヘンリー八世は教会裁判所より管轄を移して制定法によりソドミーを処罰することとした。The Buggery Act 1533である。https://www.bl.uk/collection-items/the-buggery-act-1533、同法では僧侶の立会いのない絞首刑という重罪だった。なぜならば「不逞の輩の忌まわしく、かつ憎むべき悪行(the detestable and abominable vice of Buggery)」だからである。

 なお大英博物館のサイトによれば、1533年法にもとずいて19世紀においても3人が死刑に処されている。

 エリザベス一世の制定法もソドミーを重罪としているが、その立法趣旨は、全能の神の名において不逞の輩の忌まわしい悪行の蔓延の阻止を強調し、彼らの存在自体が公序良俗の維持に有害であるばかりではなく、その存在を放置すれば神の怒りに触れ災害を招来するためであった。[松平光央1987

 

5)コモン・ロー法学

 コーク、ヘイル、ブラックストンにおいても、男色行為は反自然的、自然の秩序に反する性行為と把握され、ブラックストンは異常性行為を公的不法行為の一類型として説明している。

 独立したアメリカ合衆国13州のソドミー処罰制定法の基本になっているのは、w。ブラックストンの『英法釈義』176569であるが、男色行為への非難は‥より嫌悪すべき(more detestable)、より悪性な(deeper malignity)、悪名の高い(infamous)破廉恥な(disgraceful)といった言葉で修飾されているのである。

 私は、LGBT運動の新規な思想より、聖書は無論のこと、男色行為は不自然な性行為で悪行と断定した、知の巨人たるプラトンやアリストテレス、聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス等を圧倒的に信用するものである。 コーク、ヘイル、ブラックストンといったコモン・ロー法学の巨人も圧倒的な信用するものである。これらの書物や思想をLGBTの人権を否定したものとして焚書にするならば我々は文明規範を逸脱し野蛮人に戻るしかないし、すべての世界遺産をミサイルで破壊する暴挙に等しい。

 神聖なのは取引の自由、契約の自由という近代市民的自由の方であって、インフレ化した人権概念ではない。東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。[パネンベルク1990] その聖書は同性愛行為を悪行としているのだから、神学的に同性愛者に人間の尊厳を認めることは論理的にありえない。

 私はレビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」を

信奉するゆえ、死後の安寧と幸福のために、最後の審判で申し開きができるように西洋文明規範を掘りくずすLGBT運動に反対することが、誠実な生き方としてこの意見を書いているので譲歩するところは何もないし、バーガー連邦最高裁長官がハードウィック判決1986年の補足意見で述べた「至福千年の道徳教訓を棄て去る」ことに同意できないのである。

 

引用

 

W.パネンベルク

1990  佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局

ペイゲルス 絹川・出村訳

1993『アダムとエバと蛇「楽園神話」解釈の変遷』ヨルダン社

松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻23

 

 

理由その7


端的に肛門性交は反自然的、アブノーマルとして嫌悪する異性愛者マジョリティの感情が否定される理由はない

 

 私は、高尚な神学や哲学的な異議から離れても、性器性交(ペニスをヴァギナに挿入)が自然の行為でノーマルなものであり、性器性交でエクスタシーを得るのが、精神医学的にも正常で健全なものであり、肛門性交は反自然的、アブノーマルという認識が悪い価値観ということはありえないと考える。肛門性交に寛容であれという人権啓発は青少年の教育においても疑問である。

 快楽追求のための性行為を否定しないが、性器性交でフィニッシュが健全であり、われわれはLBGT人権尊重のために、肛門性交を嫌悪することを否定される理由など全くないのである。都民には肛門性交やソドミー行為を嫌悪する自由もある。私は高校生の時日比谷図書館のトイレの前で、「なめてあげる金を払うからしゃぶらせて」と言い寄せられたことがあるが拒否した。男が女のように媚びてバックから犯されたくないというのは普通の感覚だといってもジェンダー差別とされ糾弾されるのか。またヘテロセクシャルのオーラルセックスは生殖行為の前戯として価値をみいだすことができるが、同性愛者のフェラチオに何の価値を見出すことができないのである。わが国には、戦国時代の念友を極盛期として男色文化があり、男の味を知ってから、女を楽しむのが通人ともいわれたが、それはわが国が野蛮だった時代のことである。近代化の過程で西洋の反同性愛文化も受容しているのであり、戦国時代に戻らなければならない理由など全くないし、西洋において同性愛者が火刑、生き埋め、絞首刑に処された怨念の復讐として文明の正統的規範意識をもつマジョリティの市民的自由が制約を受ける理由も全くないのである。



理由その8


 公共団体が言葉遣いの基準を策定するのは危険だ

 

 脅迫や名誉棄損など、現行法制でも違法とされる表現はともかく、慣用的、俗語として使われている「おかま」や「ホモ」などを禁句とするのは適切でない。言葉の使いかたにしても、直接相手をなじるために使ったのではなく、たんに軽蔑の含意というだけ自治体が取り締まるようなことは、表現権の宗教の自由、思想の自由の重大な侵害になりうる。

 ファックザドラフト(徴兵なんか糞くらえ)という四文字語をつかった下品な表現が憲法上保護されるとしたのは、連邦最高裁のハーラン判事だが、個人主義的自由よりマイノリティの利益促進は間違った政策である。

 集団誹謗表現の規制は絶対反対である、特定個人にむけられたわけでもないのに、それをやると聖書、神学、経典、哲学、文学あらゆるものが、女性、同性愛者、人種、民族といった集団概念について差別的な表現を行っており、これらを否定すれば、文明規範は崩壊してしまう、心にも思っていないことを言わされ、本音がいえない社会は、一面従順、他面反噬といった倫理的存在たる人間の精神作用を分裂させて二重人格の形成を馴致するもので、精神的な病んだ抑圧的な社会になる。

 また人種差別撤廃委員会は、二〇〇一年と二〇一〇年の日本政府報告書審査の結果として、日本政府に対して、(一)人種差別禁止法を制定すること、(二)人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の留保を撤回し、ヘイト・クライムに法的対処を行うように勧告したが、人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」問題である。ヘイトクライム法は、人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」は表現の自由を侵害するものとして憲法学者の多くが否定的である。 私はヘイトクライム法や人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」には表現権重視の見地から強く反対である。

 政府はこの条約には問題があるので留保しているのであって、ここを突き崩すような立法を望まない。

「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の概要への意見 」 パブリックコメント下書きその3

 

該当箇所

 オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現

(1)目的

○性自認や性的指向等を理由とする差別の解消及び不当な差別的言動の解消の取組

 

意見

 オリンピック開催に便乗したLGBT人権尊重政策、平等要求に応える政策に全面的に反対。とくに雇用・住居・ビジネスにおける私人間の契約、雇用判断等雇用主や大家の裁量権の規制や配慮義務の策定、事業運営への干渉、商品やサービスの提供での差別を禁止する政策の策定に強く反対する。

 性自認や性的指向等を理由とする差別禁止法は、米国で20州ほどあるが、混乱をもたらしており強く反対する。

 またパートナーシップの保護政策、法律婚と同等のベネフィットを付与する政策に進むことも反対。

集団的誹謗表現の規制に強く反対、ポリティカルコレクトネスの公定化に反対。地方政府が言葉遣いの基準を策定したりすることは、表現権の侵害になるので強く反対。

 道徳的選好に公権力が干渉するようなことは絶対反対。同性愛行為を道徳的に不承認とする都民の市民的自由に干渉するすべての政策に反対するし、宗教的信念や哲学的異議等でないとしても、端的にいえば性器性交(ペニスとヴァギナの結合)でエクスタシーを得ることがノーマルで健全であり、肛門性交は不自然でアブノーマルなものとして嫌悪するのは普通の感情として認められてよいものであり、そうした価値判断の意識改革を都民に要求するような政策のすべてに反対する。

 2017年のカリフォルニア州法のような、トランスジェンダーを第三の性として承認する「ジェンダー認知法」も必要ない。

 ただ生来の性、解剖学的性ではなく、性自認に基づくトイレ、更衣室、浴室の利用を東京都の公営施設や都立高校等に限り認める程度の政策を容認することにやぶさかではないが、民間企業の施設管理権に干渉することには強く反対する。

 また憎悪犯罪防止法のような政策も不要なもので立法化に反対である。

 

理由その1

 

 男色行為を処罰対象としないことが同性愛者の人権尊重の中心にある議論であり、西欧諸国は1980年代大多数の国で非犯罪化がなされ、米国では1986年ソドミー処罰法を合憲としたものの2003年に判例変更し、実体的デュープロセスにより違憲と判示しされたため、先進国では今世紀になって非犯罪化が世界的趨勢となった。

 我が国ではそもそも反自然的性行為を処罰する法思想が希薄で、男色行為を犯罪としておらず、プライバシーに官憲が干渉することもない。同性愛者に寛容な社会であり、憎悪や敵意をかきたてる文化的土壌もない。

 我が国では同性愛は精神的欠陥や変態ではなく、生来的、非選択的セクシャリティとして、深い人格的一特徴という認識が一般的になっている。

 人権はもともと尊重されており、格別法制化の必要はなく、むしろ特別視することにより、同性愛行為を道徳的に不承認の市民が逆に攻撃にさらされる弊害が大きいので、東京都の人権尊重条例に反対する。

 西欧諸国が欧州人権条約を背景として、ソチ冬季オリンピックでロシアを非難していたのは「同性愛宣言禁止法」の存在だった。そのような反同性愛法が存在せず寛容な我が国が、世界から非難される理由などなく、ソチでの開催自体、オリンピック開催のために国内法の法整備をしなければならないというものでもない。LGBTの平等要求運動とオリンピック開催を結びつける必然性はないのである。

 同性婚できない国イスタンブールとか北京でもオリンピックを開催してよいのである。。オリンピック開催を口実としてLGBT運動の要求に応えることを欲していない都民は少なくないのではないか。

 

(詳論)

 我が国は、西洋文明諸国の歴史的、宗教的背景が異なり、もともと同性愛タブーに乏しい寛容な社会である。世俗化が進んだ西欧諸国の大多数ではでは1980年代に男色行為の非犯罪化を達成し、これは米国より20~30年早かった。EU諸国は欧州人権条約を背景として、非西欧圏(旧ソ連圏含む)の男色行為を犯罪としたままの国を非難することがしばしばある。同性愛者の人権という場合クリアしなければならないのが非犯罪化であるが、我が国では成人間の合意による同性愛行為はもともと犯罪ではなかった。警察が麻薬や児童ポルノは別として、私的空間でのプライバシーに干渉してくることはないので、国際的に非難されることはありえず、オリンピックに便乗してLGBT人権尊重を法制化する必要はなく、やり過ごしてよい問題である。

 西洋文明圏では、ソドミー、男性同性愛行為は神の定め給う自然法の掟に反し、「自然に反する罪」「自然に反する性行為の罪」とする法文化で、キリスト教徒にとっては異端であり、あるいは社会の存続にとって危険な行為とされてきた。英国では19世紀においても死刑に処されている。

 第二次世界大戦後も、欧米で同性愛は刑罰の対象とされたままであった。同性愛者は、政府の役人となることを禁止され、兵役から締め出され、移民法の適用対象外となり、警察の捜査対象となり、交際する権利に負担が課せられた。

 一方我が国では、西洋と違って同性愛を自然に反する性行為とする法文化に乏しく、院政期より近世初期まで「待童」「小姓」「念友」といった男色行為の盛行がみられる。とくに室町から戦国時代が男色の極盛期とされる。左大臣藤原頼長が『台記』で同時精液発射は至高との快楽と記したように罪悪感は微塵もみられない。徳川時代に衆道禁止令、明治期に西洋思想を吸収し「鶏姦スル者ハ懲役九十日」等の処罰法の存在が指摘されているが適用例はほとんどないものと思われ、大筋において我が国にはソドミー処罰法は存在していなかったといってよい。

 ナポレオン法典が非犯罪化の端緒とする著書もあるが、英米法の脈絡ではソドミー(男色行為)の非犯罪化は、1954年英国のウォルフェンデン卿委員会の勧告がきっかけである。これは売春、賭博も含めて「被害者なき犯罪」の非犯罪化の提唱であった。道徳に対する罪と法律上の罪を区別するという基本哲学であるが、道徳の罪の非犯罪化は社会的・道徳的紐帯を崩壊させるという反対論も有力で 白熱した学術的論争がなされた。

 非犯罪化の刑事政策は、警察は市民の生命や財産を侵害する犯罪に注力すべきで被害者なき犯罪にかまう必要はないという刑事政策の議論であって憲法や人権の問題ではない。私は、売春や賭博も非犯罪化してよいと思うが、非犯罪化論それ自体は同性愛者だけを格別重視しているものではない。

 英国では1967年に同性愛行為を合法化 (但しスコットランドは1980年)し、その後80年代までに西欧諸国の大多数が同性愛行為を合法化している(勿論バチカンは反対)。ヨーロッパ人権裁判所は、80年代に同性愛行為を禁止する北アイルランド法をヨーロッパ人権条約違反としている。  

 米国においてもアメリカ法曹協会が合意による男色行為は実害のない犯罪として、諸州の異常性行為(ソドミー)処罰法の廃止が提言されたが、連邦最高裁は Bowers v. Hardwick (1986)で5対4の僅差で、肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(フェラチオ)といった異常性行為(適用の対象は男色行為)を処罰する州法を合憲として、男色行為はいわゆるプライバシー権によって憲法上保護されないことを明らかし、西欧の非犯罪化の趨勢とは一線を画した。米国は欧州ほど世俗化されていないためである。社会の道徳的紐帯を重視する共和主義憲法理論を示した名判決と評価されている。

 とりわけバーガー主席判事(連邦最高裁長官)の凄みのある補足意見が印象的である。

「男性同性愛行為に関する個人の決定は西欧文明の歴史を通じて常に国家の規制に服してきた。その種の行為に対する非難はユダヤ・キリストの道徳的・倫理的規範に強固に根ざしている。男性同性愛行為は、ローマ法においても死刑に相当する犯罪だった。‥‥イギリス法でも、教会法の管轄権が国王裁判所の管轄権に移された宗教改革の時代に、男性同性愛行為を刑法上の犯罪と定めた。最初のイギリス制定法(1533)が議会で制定されている。W・ブラックストンによれば、この男性同性愛行為という自然に反する破廉恥な行為"the infamous crime against nature"は強姦よりも重大な悪行"deeper malignity"であって、その行為に言及することですら人間の本性に羞恥となるような極悪な行為"the very mention of which is a disgrace to human nature,"、最も卑劣な犯罪"a crime not fit to be named."である。と述べられている。[ W. Blackstone4, Commentaries *215. The common law of England(179569)]イギリスのコモン・ローは、この男性同性愛行為処罰を含めて、ジョージア州その他のアメリカの植民地の法として継受され‥‥‥そのような歴史的意味有する男性同性愛行為を、連邦最高裁判所が、ここで、合衆国憲法上の基本的権として保障されるのだと判示することは、至福千年の道徳的教訓aside millennia of moral teachingを棄て去ることになるだろう。‥」[松平光央1987]

 ブラックストンは公的不法行為としており、合衆国各州で継受され、ソドミー処罰法となっているのであり。歴史に根差しているという認識は正しいと考える。

 

 バーガー主席判事補足意見はホワイト判事の法廷意見のいう男色行為が、アメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものである、秩序だった自由の概念に黙示的に包含されるという被上告人の主張は『笑止千万お笑い草』述べた部分を補足したものである。

 明文で規定されないが憲法上の権利とされてよいのはアメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものであり、秩序だった自由(順序づけられた自由)というまさに精髄でなければならない決まり文句が、男色行為を憲法上の権利として承認しない決め手とされているのである。

 しかし米国では、この判決を覆そうという運動が起きたため17年後のLawrence v. Texas539 U.S. 558 (2003)という連邦最高裁判決で先例を覆し、私的な空間での合意による性行為はそれが男色行為であれ、憲法の実体的デュープロセスによって保護されるという6対3の判決で、男色行為処罰州法を違憲としたので、全米で同性愛行為の非犯罪化がなされた。 

 ケネディ法廷意見は「Bowers判決では『ソドミー行為は古来に淵源を持ち、禁止されている』とされたが、イギリスの植民地時代や独立初期時代のソドミー法は同性愛者のみを対象とせず、未成年者に対する暴行や強姦、獣姦などの利己的な行為に行使されていた。多くの州で同性愛行為が処罰の対象とされたのは1970年代以降である 。したがって、同性愛行為を禁止するソドミー法の歴史は「古くから付いている」ものではないとするがこの判断は疑問である。罰則適用者が少ないのはそれが住居という私的空間に踏み込むことに私生活の干渉に謙抑的なのが近現代の法文化であるといっているだけで、一種の技術的な印象操作で歴史認識を覆してしまったといってよい。

 ヘンリー8世やエリザベス1世の制定法の無視、コーク、へイル、ブラックストンの無視は容認しがたい。判例変更する根拠に乏しく、事実上の裁判官による立法、悪しき司法積極主義と考える。特に法源とはならない外国や国際組織の立法の引用は不適切である。西欧諸国は世俗化が進んでおりキリスト教的規範が重んじられてない。米国人のように毎週教会に礼拝する人は少ない、米国はEUの子分でないし、現代西欧がどうであれ現代のイスラエルであるべき米国の見識を示すべきであった。

 私は、スカリア判事の反対意見がだと妥当と考えるが、ケネディ法廷意見の核心部分は「個人が一生の中で行う最も親密でかつ個人的な諸選択(personal choices)は、個人の尊厳と自律にとって核心部分であり、第14修正によって保護される自由の核心的部分である。自由の核心的部分とは、自身の存在、価値、普遍性、そして生命の神秘さを定義する権利である。これは州の強制力によっても侵害できない‥‥このことは異性愛者と同様に、同性愛者にも個人の自律を追求できることを示唆している。」と述べたくだりで、個人の自律の重視、個人生活の核心部分に政府は干渉しないという立論である。

 私はこの見解にも懐疑的だが、いずれにせよ、男色行為を処罰対象としないことが同性愛者の人権尊重の中心にある議論であり、アメリカでは2003年になって達成されたのである。今世紀になって先進国で普通になったということだが、我が国ではもともと犯罪とはしてこなかったので、同性愛者の人権はもともと尊重されており、格別法制化の必要はなく、むしろ特別視することによる弊害が大きいので、東京都の人権尊重条例に反対する。

 ついでにいうと、たぶん国際スポーツ組織の世界では西欧諸国の発言権が強いだろうし、彼らは欧州人権条約を自画自賛し、非犯罪化が洗練されており世の趨勢として、旧ソ連圏や中東、アフリカなど同性愛タブーの残っている地域を批判しているのだろうが、文化相対主義の観点からは厚かましいと思う。

 競技スポーツで同性愛者を差別しないポリシーをとることはそれ自体悪いことではないにしても、一般社会の事業運営までそれと同じレベルで差別禁止を求めるのはやりすぎである。

 我が国は、西洋と違って同性愛タブーに乏しく格別同性愛者に憎悪や敵意をかきたてる文化的背景がないのが特徴といえるのである。

実例としては、「おねえ系」タレントの人気、テレビなどで活躍している例を挙げてよい。 カルセール麻紀、美川憲一、池畑慎之介、おすぎとピーコ、KABA.ちゃん、KINYA 假屋崎省吾、クリス松村、IKKO、はるな愛、マツコ・デラックス。『2011ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10になった楽しんごの「ドドスコスコスコ‥‥ラブ注入」というギャグは肛門性交を連想させるが、賞を受けるたけでなく大手企業のCMにも起用されるタレントで、我が国では同性愛は生来的セクシャリティとして認識され偏見がないことを証明している。

 東京都は今回の条例で言葉狩りをやりたいのだろうが、マツコ・デラックスなどは、テレビで「おかま」と自称しており、必ずしも軽蔑を意味するものとは限らず、禁句とする必要はないと考える。

 

(引用)

 松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻23

 

 

由その2

 

 雇用・住居・ビジネスの分野で事業運営、私人間の契約の自由、雇用判断等の裁量権に干渉し規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対するのは、取引(営業)制限からの自由、契約自由、私的自治は近代市民的自由の核心であり、三菱樹脂事件最高裁判決を引用するまでもなく。どのような理由であり雇用主にとって好ましい人を雇用し、大家は好ましい人に賃貸借契約する自由があるはずだ

 人権尊重の名のもとに、特定集団に特別に配慮するよう行政が強要して、契約自由・私的自治という自由企業体制の根幹、市民的自由が侵食されていく傾向を不快におもっている。ダイバーシティーなどはヒューマンリソースマネジメントの一環として、P&Gなどの大企業がはじめたことで個別企業の人事管理政策の一つであって、企業の裁量権でおこなうべきもの。行政が干渉する必要はない。

 とりわけ宗教的、哲学的異議、同性愛を道徳的に承認しない価値観をもつ都民に対して、意思に反する契約や判断を強要し民間の事業運営に干渉する条例化は絶対反対。

 

理由その3

 

 東京都直営の公共施設利用権について、LBGTであることを理由とした不当な扱いをなくすことをあえて否定しないが、動くゲイとレズビアンの会府中青年の家利用申込不承認事件で控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、東京都教委が同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱し違法と判示し都教委は敗訴している。この事件以来東京都はこの種の問題に敏感になっているから条例化する必要はないと思う。

 不当な差別的扱いは、それが過激派であれ右翼の政治団体であれしてはならないのは同じことだからLBGTを特別視する理由がない。公共サービスの優先処遇も理由がない。

 

 

理由その4

 

 民間事業における商品やサービスの入手において差別を禁止することは強く反対。同性愛を道徳的に承認しない人々がビジネスにおいてゲイとレズビアンの人々に商品やサービスを提供しない契約自由、私的自治を否定すべきではない

 LGBT運動は、公民権法に人種、性、国籍等に加えて「セクシャル・オリエンテーションやジェンダー・アイデンティティ」による差別禁止を加えることを要求しているが、実現はみしていない。米国では連邦法では性的指向についての差別禁止法は存在しない。

ただし20州で性的指向の差別を禁止する法があるけれども各地でトラブルが起き、市民権委員会が同性愛を道徳的に承認しない人々を虐める事態になっており、東京もそのような都市になることを憂う。 つまり公民権型の人種、性別、出身国、民族、宗教にもとづく差別禁止に加えて性的指向に関する差別禁止規定をもうける法制は強く反対である

 

 201865日の連邦最高裁判決Masterpiece Cakeshop, Ltd. v. Colorado Civil Rights Commissionhttps://www.nationalreview.com/2018/06/masterpiece-cakeshop-supreme-court-decision-free-speech-temporary-respite/、宗教的信念によりゲイカップルを祝うカスタムウェディングケーキの提供を拒否したケーキ屋さんがコロラド州の差別禁止法違反とされ、コロラド市民権委員会は会社の方針の従業員の再教育を要求したうえ、サービスを拒否したケーキ屋さんに対してナチ呼ばわりし、奴隷所有者、同性愛恐怖症、頑固者その他の暴言が吐かれ、利益の大きいウェディングケーキ事業から撤退せざるをえなくなったというものである。

 最高裁は72でケーキ屋に有利な判決を下した。判決は市民権委員会の事件の扱いには、彼の異議、誠実な宗教的信念に対して明確で容認できない敵意の要素がいくつかあり、コロラド州法は宗教にもとづく差別を禁止しており、法律の公正な施行でなく不適切な対応としている。なお、この判決は憲法上の権利には踏み込んでいない。

 差別禁止において、宗教的哲学的異議を持つ者を適用除外とすればよいのではないかというかもしれないが、それでも反対である。一度LBGTの人権尊重や平等要求を法制化するとLBGTコミュニティや人権派の立場が圧倒的に強くなる。宗教的信念というけれどもあなたは教会で礼拝しているのか、聖句を引用できるか、哲学的異議というけれどもあなたはアリストテレスやトマスの著書を読んだことがあるのかなど尋問され、宗教や哲学は偽装で差別したのはヘイトが目的とか勝手に決めつけられたりして、結局正統的な道徳的教訓を重んじる良心的で保守的な人々を迫害する法になることを憂う。

 つまり逆差別を生み出すのである。我が国には厳格なクリスチャンは少ないが、宗教上の少数派としてモルモン教徒やエホバの証人は当然同性愛を容認しないだろうから、これらの人々の信教の自由を侵害する。人口比率では真性同性愛者のほうが多数派であり、人権派がこれに加担してキリスト教的道徳基準をもつ人、信仰のある人々がいじめられる可能性が高い。

 信仰よりも世俗的時流の思想に共鳴することを公権力が強要することは許されない。

 だから性的指向差別禁止やLBGTの人権尊重を義務付けること自体に反対。それは結局同性愛行為(肛門性交・口腔性交)を道徳的に承認しない正統的な価値観を有する都民を愚弄することになる。同性愛行為に対する非難の根拠がユダヤ・キリスト教の道徳基準と倫理基準に基づいていることからすれば、道徳を実践しているまじめな人々が、事業方針を変更するよう命令されたりして、ビジネスができなくなったりするのは最悪の事態だと思う。

 類似した事件は他の地域でも起きてワシントンで同性婚カップルを祝うフラワーアレンジメントのサービスの提供を拒否した花屋さんの事件もあり、結局、性的指向差別禁止法は混乱をもたらす。米国でも過半数以上の州で立法化されていないことであり、東京都が先進的なことを狙って冒険する必要はない。

 東京都は、事業運営に干渉してあれこれ指導をしたいのかもしれないが、都民にとっては余計なお世話と言いたい。

 

 

理由その5

 同性のパートナーシップの保護政策に進むことも強く反対する

 

 世界的に見て近年のゲイの平等要求の最大の焦点が同性婚の承認であった、その前段階として法律婚と同等のペネフィット、税法上の配偶者控除、配偶者相続税免除、寡婦、寡夫年金、配偶者医療保険、療養中のパートナーの訪問権、外国人パートナーの永住権の取得が要求され、正式の結婚とはちがうが「シヴィル・ユニオン」「ドメスティック・パートナーズ」としてこれらの特典を得る運動が展開された。

 我が国でもいきなり同性婚ではなく「シヴィル・ユニオン」「ドメスティック・パートナーズ」から初められるのかもしれないが、強く反対である。

 そもそも異性愛者でも生涯未婚率が上昇し、結婚できない人が増えているのに、ゲイカップルの保護政策など苦々しく思う。

 そもそもこうした政策を実施することとオリンピックを成功裡に開催することとは何の関係もない。

 結婚をどう定義するか、西洋の単婚理念をあらわすものとしてひとくちでいえばユスティニアヌス帝の法学提要にある「婚姻を唯一の生活共同体とする一男一女の結合」といえるだろう[船田享二1971 24頁]。結婚とはあくまでも男と女の結合でなければならない。我が国は明治15年に妾制を廃止し西洋の単婚理念を継受しており、もちろん花婿キリストと花嫁教会の一致を象徴するしるしとしてサクラメントとするキリスト教婚姻理念からしてもそれは男と女の結合である。

 Obergefell v. Hodges,_ (2015)はある州で正式に結婚の認定を受けた同性のカップルには、他の全州でも正式に結婚の資格を認定することを義務付けた衝撃的な連邦最高裁判例である。

 私は異人種婚禁止州法を違憲とし結婚の自由を基本的権利と宣言したLoving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967)に賛同しつつも、婚姻の自由を「重婚」する権利や「同性婚」に拡大することには反対なので同判決には反対である。我国でも渋谷区のパートナーシップ条例などの動きがあるが、このような政策のオリンピックとは無関係であり、先進的政策を望まない。

 憲法上の権利というものは、東京都のような自治体が良く使う人権概念のようにむやみやたらと拡大すべきではなく、法によって保護されるべき自由としてとらえる。

 この点で、私は1923年のマイヤー判決マクレイノルズ法廷意見(最も反動的な裁判官として知られる)や19世紀後期随一の憲法体系書のクーリに近い立場をとっているのである。 私は Loving の意義を認めつつ、憲法上の基本的権利はこの国の伝統に根ざし秩序づけられた自由の範疇でとらえるべきという限定を付するのが正当だったと考える。

 この点ではアリート判事のUnited States v. Windsor2013)の反対意見が妥当と考える。先例としてWashington v. Glucksberg, 521 U.S. 702 (1997)が長い歴史と伝統に支えられたものか否かが基本的権利を承認する判断基準としており、このグラックスバーグテストに照らせば同性婚を行う権利は「我が国の伝統に深く根差したものではない」としたのである。[高橋正明2017

 したがって同性婚には反対であり、渋谷区のパートナーシップ条例の例はあるが、より広域的で人口も多い自治体である都が、都民の合意もないのにこの方向に突き進むことを強く懸念する。

 (引用)

高橋正明

2017『ロバーツコートの立憲主義』大林啓吾・溜箭将之編 成文堂第三章平等-ケネディ裁判官の影響力の増加

 

理由その6

 トランスジェンダーのために、生来の性、解剖学的な性ではなく、性自認に基づいたトイレ、ロッカールーム、浴室利用を、東京都が管轄する施設と都立高校等で実施することは容認するが、民間企業の施設管理権に自治体が干渉して、トイレや更衣室の使用方法を指導することは反対。また第三の性を承認して公文書に、男、女、第三の性と並べることを義務づけるようなことは、社会的合意も得ていないから反対である。 

 

理由その7

 同性愛行為を非難し道徳的に承認しない価値観は、西洋文明の正統的な法思想の系譜に属する以上、そのような価値観を有する人々の市民的自由も尊重されなければならない。これらの人々を非難したり、意識改革を求める政策は、精神的自由の侵害となるので反対。同性愛者の人権尊重を都民に義務付けることによって、正統的な道徳的価値の基盤が崩れていくことを非常におそれている

 

(詳論)

 

反同性愛が西洋文明の正統的な法思想であるであり、これを否定できないのでLGBT運動に反対する。

 

 

西洋文明で男色行為(ホモセクシャルソドミー)が悪行とされるのは、人間の本性に従った自然な性行為ではなく、反自然的、自然の秩序に反する性行為だからである。(主として松平光央1987からの引用)

 

1)人間本性論=自然法論

 

 プラトンは、対話篇八巻『法律』において、男子との交わりは、「神の憎しみ給うもの、恥ずべきことのなかでも最も恥ずべきこと」と指弾し、法律で禁止べきとした。また,生殖と無関係な不毛な交わりを反自然的行為とみなす見解のほか、男性同性愛行為は、男性として望ましい属性である、勇気・節制・度量・知恵等の発達を阻害し、一方の男性を女性の地位に下落させるというのも禁止すべき理由としており、説得力のある見解といえる。

アリストテレスは、人間の行為を自然な行為を善、不自然な行為を悪として二分する考え方を示した。神に祝福される結婚という形態を介しての生殖行為は善、同性愛、獣姦そのたの不自然な性行為は悪とした。男性同性愛行為は人間の本性にもとづく種族の保持、人類の生存という欲求を否定し、人類を意図的に絶滅させるから、法律で禁止すべきであるというのがプラトン、アリストテレスの人間本性論である。

これは聖アウグスティヌスの『神の国』やトマス・アクィナスの『神学大全』によって自然法の掟として理論的に深化される。[松平光央1987

 このギリシャ主知主義哲学とキリスト教神学の混淆といえる人間本性論=自然法論の系譜の反同性愛思想は西洋文明の正統的な法思想といってよいのであり、それを曲げる理由もない。

 

2)聖書思想

 ソドムとゴモラの崩壊が著名だが、レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」は同性愛を明確に悪とする根拠といえる。

西洋文明の夫婦斉体思想の根拠になっているのが創世記2.23-24である。

これこそついに私の骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

 

 ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。

ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]

 新約聖書の引用は略すが、聖書には明確は反同性愛思想がある。

 

3)ローマ法では男性同性愛行為が反逆罪に相当する重罪

旧約聖書のソドムとゴモラの崩壊が、性的紊乱特に男色行為が神の怒りに触れたと信じられており、たんに不道徳といただけでなく国家・社会を崩壊させる行為と認識していたためである。

テシオドス一世やユスティニアヌス帝は洪水、地震、飢餓等の自然災害や黒死病そのたの疫病も男性子同性愛者と無関係ではないと判断していた。

4)中世より近世

 教会裁判所では、不敬罪、異端、魔術、姦通等の罪と並んで裁判され、有罪が宣告されれば、ソドムとゴモラの伝統に従って火刑に処された。

イギリス古代のゴート族の慣行では男子同性愛者は火刑か生き埋めに処された

 ヘンリー八世は教会裁判所より管轄を移して制定法によりソドミーを処罰することとした。The Buggery Act 1533である。https://www.bl.uk/collection-items/the-buggery-act-1533、同法では僧侶の立会いのない絞首刑という重罪だった。なぜならば「不逞の輩の忌まわしく、かつ憎むべき悪行(the detestable and abominable vice of Buggery)」だからである。

 なお大英博物館のサイトによれば、1533年法にもとずいて19世紀においても3人が死刑に処されている。

 エリザベス一世の制定法もソドミーを重罪としているが、その立法趣旨は、全能の神の名において不逞の輩の忌まわしい悪行の蔓延の阻止を強調し、彼らの存在自体が公序良俗の維持に有害であるばかりではなく、その存在を放置すれば神の怒りに触れ災害を招来するためであった。[松平光央1987

 

5)コモン・ロー法学

 コーク、ヘイル、ブラックストンにおいても、男色行為は反自然的、自然の秩序に反する性行為と把握され、ブラックストンは異常性行為を公的不法行為の一類型として説明している。

 独立したアメリカ合衆国13州のソドミー処罰制定法の基本になっているのは、w。ブラックストンの『英法釈義』176569であるが、男色行為への非難は‥より嫌悪すべき(more detestable)、より悪性な(deeper malignity)、悪名の高い(infamous)破廉恥な(disgraceful)といった言葉で修飾されているのである。

 私は、LGBT運動の新規な思想より、聖書は無論のこと、男色行為は不自然な性行為で悪行と断定した、知の巨人たるプラトンやアリストテレス、聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス等を圧倒的に信用するものである。 コーク、ヘイル、ブラックストンといったコモン・ロー法学の巨人も圧倒的な信用するものである。これらの書物や思想をLGBTの人権を否定したものとして焚書にするならば我々は文明規範を逸脱し野蛮人に戻るしかないし、すべての世界遺産をミサイルで破壊する暴挙に等しい。

 神聖なのは取引の自由、契約の自由という近代市民的自由の方であって、インフレ化した人権概念ではない。東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。[パネンベルク1990] その聖書は同性愛行為を悪行としているのだから、神学的に同性愛者に人間の尊厳を認めることは論理的にありえない。

 私はレビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」を

信奉するゆえ、死後の安寧と幸福のために、最後の審判で申し開きができるように西洋文明規範を掘りくずすLGBT運動に反対することが、誠実な生き方としてこの意見を書いているので譲歩するところは何もないし、バーガー連邦最高裁長官がハードウィック判決1986年の補足意見で述べた「至福千年の道徳教訓を棄て去る」ことに同意できないのである。

 

引用

 

W.パネンベルク

1990  佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局

ペイゲルス 絹川・出村訳

1993『アダムとエバと蛇「楽園神話」解釈の変遷』ヨルダン社

松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻23

 

理由その8

端的に肛門性交は反自然的、アブノーマルとして嫌悪する異性愛者マジョリティの感情が否定される理由はない

 

 私は、高尚な神学や哲学的な異議から離れても、性器性交(ペニスをヴァギナに挿入)が自然の行為でノーマルなものであり、性器性交でエクスタシーを得るのが、精神医学的にも正常で健全なものであり、肛門性交は反自然的、アブノーマルという認識が悪い価値観ということはありえないと考える。肛門性交に寛容であれという人権啓発は青少年の教育においても疑問である。

 快楽追求のための性行為を否定しないが、性器性交でフィニッシュが健全であり、われわれはLBGT人権尊重のために、肛門性交を嫌悪することを否定される理由など全くないのである。都民には肛門性交やソドミー行為を嫌悪する自由もある。私は高校生の時日比谷図書館のトイレの前で、「なめてあげる金を払うからしゃぶらせて」と言い寄せられたことがあるが拒否した。男が女のように媚びてバックから犯されたくないというのは普通の感覚だといってもジェンダー差別とされ糾弾されるのか。またヘテロセクシャルのオーラルセックスは生殖行為の前戯として価値をみいだすことができるが、同性愛者のフェラチオに何の価値を見出すことができないのである。わが国には、戦国時代の念友を極盛期として男色文化があり、男の味を知ってから、女を楽しむのが通人ともいわれたが、それはわが国が野蛮だった時代のことである。近代化の過程で西洋の反同性愛文化も受容しているのであり、戦国時代に戻らなければならない理由など全くないし、西洋において同性愛者が火刑、生き埋め、絞首刑に処された怨念の復讐として文明の正統的規範意識をもつマジョリティの市民的自由が制約を受ける理由も全くないのである。

 

理由その9 公共団体が言葉遣いの基準を策定するのは危険だ

 

 脅迫や名誉棄損など、現行法制でも違法とされる表現はともかく、慣用的、俗語として使われている「おかま」や「ホモ」などを禁句とするのは適切でない。言葉の使いかたにしても、直接相手をなじるために使ったのではなく、たんに軽蔑の含意というだけ自治体が取り締まるようなことは、表現権の宗教の自由、思想の自由の重大な侵害になりうる。

 ファックザドラフト(徴兵なんか糞くらえ)という四文字語をつかった下品な表現が憲法上保護されるとしたのは、連邦最高裁のハーラン判事だが、個人主義的自由よりマイノリティの利益促進は間違った政策である。

 集団誹謗表現の規制は絶対反対である、特定個人にむけられたわけでもないのに、それをやると聖書、神学、経典、哲学、文学あらゆるものが、女性、同性愛者、人種、民族といった集団概念について差別的な表現を行っており、これらを否定すれば、文明規範は崩壊してしまう、心にも思っていないことを言わされ、本音がいえない社会は、一面従順、他面反噬といった倫理的存在たる人間の精神作用を分裂させて二重人格の形成を馴致するもので、精神的な病んだ抑圧的な社会になる。

2018/06/29

連邦最高裁開廷期末に反労働組合、リバタリアン陣営大勝利 Janus v. AFSCME判決  

 連邦最高裁は6月27日、5対4で公共部門の労働組合が非組合員に対して団体交渉の成果のただ乗りをさせないため団体交渉コスト(いわゆる組合費)の強制徴収(エージェンシーショップ)制度を否定しました。この判決は反労働組合陣営の大勝利です。 https://www.cnbc.com/2018/06/27/supreme-court-rules-in-janus-labor-union-case.html?__source=sharebar|twitter&par=sharebar
 修正1条の言論の自由と結社の自由に反するということをアリート判事は言ってます。
 このところ20年以上、最高裁のキャスティングボードを握って、大きな影響力を行使してきたアンソニー・ケネディ判事引退も大きなニュースになっている。ケネディはレーガン任命で同性婚判決などでリベラルでしたが、それ以外はほぼ保守派陣営でした。トランプは保守派を起用するだろうからまず安心してます。

「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の概要への意見  パブリックコメント下書きその2

該当箇所
1 オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現
(1)目的
○性自認や性的指向等を理由とする差別の解消及び不当な差別的言動の解消の取組

意見

 オリンピック開催に便乗したLGBT人権尊重政策に全面的に反対。とくに雇用・住居・ビジネスにおける私人間の契約、雇用判断等雇用主や大家の裁量権の規制や配慮義務の策定、事業運営への干渉、商品やサービスの提供での差別を禁止する政策の策定に強く反対する。またバートナーシップの保護政策に進むことも反対。集団的誹謗表現の規制に強く反対、ポリティカルコレクトネスの公定化に反対。地方政府が言葉遣いの基準を策定したりすることは、表現権の侵害になるので強く反対。
 道徳的選好に公権力が干渉するようなことは絶対反対。同性愛行為を道徳的に不承認とする都民の市民的自由に干渉するすべての政策に反対するし、宗教的信念や哲学的異議等でないとしても、端的にいえば性器性交(ペニスとヴァギナの結合)でエクスタシーを得ることがノーマルで健全であり、肛門性交は不自然でアブノーマルなものとして嫌悪するのは普通の感情として認められてよいものであり、そうした価値判断の意識改革を都民に要求するような政策のすべてに反対する


理由その1
 我が国は、西洋文明諸国の歴史的、宗教的背景が異なり、もともと同性愛タブーに乏しい寛容な社会である。世俗化が進んだ多声多数の西欧諸国では1980年代に男色行為の非犯罪化を達成し、これは米国より20~30年早かった。EU諸国は欧州人権条約を背景として、非西欧圏(旧ソ連圏含む)の男色行為を犯罪としたままの国を非難することがしばしばある。同性愛者の人権という場合クリアしなければならないのが非犯罪化であるが、我が国では成人間の合意による同性愛行為はもともと犯罪ではなかった。警察が麻薬や児童ポルノは別として、私的空間でのプライバシーに干渉してくることはないので、国際的に非難されることはありえず、オリンピックに便乗してLGBT人権尊重を法制化する必要はなく、やり過ごしてよい問題である。
 西洋文明圏では、ソドミー、男性同性愛行為は神の定め給う自然法の掟に反し、「自然に反する罪」「自然に反する性行為の罪」とする法文化で、キリスト教徒にとっては異端であり、あるいは社会の存続にとって危険な行為とされてきた。英国では19世紀においても死刑に処されている。
 第二次世界大戦後も、欧米で同性愛は刑罰の対象とされたままであった。同性愛者は、政府の役人となることを禁止され、兵役から締め出され、移民法の適用対象外となり、警察の捜査対象となり、交際する権利に負担が課せられた。
 一方我が国では、西洋と違って同性愛を自然に反する性行為とする法文化に乏しく、院政期より近世初期まで「待童」「小姓」「念友」といった男色行為の盛行がみられる。とくに室町から戦国時代が男色の極盛期とされる。左大臣藤原頼長が『台記』で同時精液発射は至高との快楽と記したように罪悪感は微塵もみられない。徳川時代に衆道禁止令、明治期に西洋思想を吸収し「鶏姦スル者ハ懲役九十日」等の処罰法の存在が指摘されているが適用例はほとんどないものと思われ、大筋において我が国にはソドミー処罰法は存在していなかったといってよい。
 
 欧米諸外国におけるソドミー(男色行為)の非犯罪化は、1954年英国のウォルフェンデン卿委員会の勧告がきっかけである。これは売春、賭博も含めて「被害者なき犯罪」の非犯罪化の提唱であった。道徳に対する罪と法律上の罪を区別するという基本哲学であるが、道徳の罪の非犯罪化は社会的・道徳的紐帯を崩壊させるという反対論も有力で 白熱した学術的論争がなされた。
 非犯罪化の刑事政策は、警察は市民の生命や財産を侵害する犯罪に注力すべきで。被害者なき犯罪にかまう必要はないという刑事政策の議論であって憲法や人権の問題ではない。私は、売春や賭博も非犯罪化してよいと思うが、非犯罪化論それ自体は同性愛者だけを格別重視しているものではない。
 英国では1967年に同性愛行為を合法化 (但しスコットランドは1980年)し、その後80年代までに西欧諸国のの大多数が同性愛行為を合法化している(勿論バチカンは反対)。ヨーロッパ人権裁判所は、80年代に同性愛行為を禁止する北アイルランド法をヨーロッパ人権条約違反としている。  
 米国においてもアメリカ法曹協会が合意による男色行為は実害のない犯罪として、諸州の異常性行為(ソドミー)処罰法の廃止が提言されたが、連邦最高裁は Bowers v. Hardwick (1986)で5対4の僅差で、肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(フェラチオ)といった異常性行為(適用の対象は男色行為)を処罰する州法を合憲として、男色行為はいわゆるプライバシー権によって憲法上保護されないことを明らかし、西欧の非犯罪化の趨勢とは一線を画した。米国は欧州ほど世俗化されていないためである。社会の道徳的紐帯を重視する共和主義憲法理論を示した名判決と評価されている。
 とりわけバーガー主席判事(連邦最高裁長官)の凄みのある補足意見が印象的である。
「男性同性愛行為に関する個人の決定は西欧文明の歴史を通じて常に国家の規制に服してきた。その種の行為に対する非難はユダヤ・キリストの道徳的・倫理的規範に強固に根ざしている。男性同性愛行為は、ローマ法においても死刑に相当する犯罪だった。‥‥イギリス法でも、教会法の管轄権が国王裁判所の管轄権に移された宗教改革の時代に、男性同性愛行為をを刑法上の犯罪と定めた。最初のイギリス制定法(1533)が議会で制定されている。W・ブラックストンによれば、この男性同性愛行為という自然に反する破廉恥な行為"the infamous crime against nature"は強姦よりも重大な悪行"deeper malignity"であって、その行為に言及することですら人間の本性に羞恥となるような極悪な行為"the very mention of which is a disgrace to human nature,"、最も卑劣な犯罪"a crime not fit to be named."である。と述べられている。[ W. Blackstone4, Commentaries *215. The common law of England(1795~69)]イギリスのコモン・ローは、この男性同性愛行為処罰を含めて、ジョージア州その他のアメリカの植民地の法として継受され‥‥‥そのような歴史的意味有する男性同性愛行為を、連邦最高裁判所が、ここで、合衆国憲法上の基本的権として保障されるのだと判示することは、至福千年の道徳的教訓aside millennia of moral teachingを棄て去ることになるだろう。‥」[松平光央1987]
 ブラックストンは公的不法行為としており、合衆国各州で継受され、ソドミー処罰法となっているのであり。歴史に根差しているという認識は正しいと考える。
 
 バーガー主席判事補足意見はホワイト判事の法廷意見のいう男色行為が、アメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものである、秩序だった自由の概念に黙示的に包含されるという被上告人の主張は『笑止千万お笑い草』述べた部分を補足したものである。
 明文で規定されないが憲法上の権利とされてよいのはアメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものであり、秩序だった自由(順序づけられた自由)というまさに精髄でなければならない決まり文句が、男色行為を憲法上の権利として承認しない決め手とされているのである。
 しかし米国では、この判決を覆そうという運動が起きたため17年後のLawrence v. Texas、539 U.S. 558 (2003)という連邦最高裁判決で先例を覆し、私的な空間での合意による性行為はそれが男色行為であれ、憲法の実体的デュープロセスによって保護されるという6対3の判決で、男色行為処罰州法を違憲としたので、全米で同性愛行為の非犯罪化がなされた。 
 ケネディ法廷意見は「Bowers判決では『ソドミー行為は古来に淵源を持ち、禁止されている』とされたが、イギリスの植民地時代や独立初期時代のソドミー法は同性愛者のみを対象とせず、未成年者に対する暴行や強姦、獣姦などの利己的な行為に行使されていた。多くの州で同性愛行為が処罰の対象とされたのは1970年代以降である 。したがって、同性愛行為を禁止するソドミー法の歴史は「古くから付いている」ものではないするがこの判断は疑問である。罰則適用者が少ないのはそれは住居という私的空間に踏み込むことに私生活の干渉に謙抑的なのが近現代の法文化であるといっているだけで、一種の技術的な印象操作で歴史認識を覆してしまったといってよい。  ヘンリー8世やエリザベス1世の制定法の無視、コーク、へイル、ブラックストンの無視は容認しがたい。判例変更する根拠に乏しく、事実上の裁判官による立法、悪しき司法積極主義と考える。特に法源とはならない外国や国際組織の立法の引用は不適切である。西欧諸国は世俗化が進んでおりキリスト教的規範が重んじられてない。米国人のように毎週教会に礼拝する人は少ない、米国はEUの子分でないし、現代西欧がどうであれ現代のイスラエルであるべき米国の見識を示すべきであった。
 私は、スカリア判事の反対意見がだと妥当と考えるが、ケネディ法廷意見の核心部分は「個人が一生の中で行う最も親密でかつ個人的な諸選択(personal choices)は、個人の尊厳と自律にとって核心部分であり、第14修正によって保護される自由の核心的部分である。自由の核心的部分とは、自身の存在、価値、普遍性、そして生命の神秘さを定義する権利である。これは州の強制力によっても侵害できない‥‥このことは異性愛者と同様に、同性愛者にも個人の自律を追求できることを示唆している。」と述べたくだりで、個人の自律の重視、個人生活の核心部分に政府は干渉しないという立論である。
 私はこの見解にも懐疑的だが、いずれにせよ、男色行為を処罰対象としないことが同性愛者の人権尊重の中心にある議論であり、アメリカでは2003年になって達成されたのである。今世紀になって先進国で普通になったということだが、我が国ではもともと犯罪とはしてこなかったので、同性愛者の人権はもともと尊重されており、格別法制化の必要はなく、むしろ特別視することによる弊害が大きいので、東京都の人権尊重条例に反対する。
 ついでにいうと、たぶん国際スポーツ組織の世界では西欧諸国の発言権が強いだろうし、彼らは欧州人権条約を自画自賛し、非犯罪化が洗練されており世の趨勢として、旧ソ連圏や中東、アフリカなど同性愛タブーの残っている地域を批判しているのだろうが、文化相対主義の観点からは厚かましいと思う。
 競技スポーツで同性愛者を差別しないポリシーをとることはそれ自体悪いことではないにしても、一般社会の事業運営までそれと同じレベルで差別禁止を求めるのはやりすぎである。
 我が国は、西洋と違って同性愛タブーに乏しく格別同性愛者に憎悪や敵意をかきたてる文化的背景がないのが特徴といえるのである。実例としては、「おねえ系」タレントの人気、テレビなどで活躍している例を挙げてよい。
 カルセール麻紀、美川憲一、池畑慎之介、おすぎとピーコ、KABA.ちゃん、KINYA、 假屋崎省吾、クリス松村、IKKO、はるな愛、マツコ・デラックス。『2011ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10になった楽しんごの「ドドスコスコスコ‥‥ラブ注入」というギャグは肛門性交を連想させるが、賞を受けるたけでなく大手企業のCMにも起用されるタレントで、我が国では偏見がないことを証明している。
 東京都は今回の条例で言葉狩りをやりたいのだろうが、マツコ・デラックスなどは、テレビで「おかま」と自称しており、必ずしも軽蔑を意味するものとは限らず、禁句とする必要はないと考える。
 松平光央
1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻2・3

2018/06/28

「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の概要への意見  パブリックコメント下書きその1

該当箇所

  オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現

 (1)目的

○あらゆる人がいかなる種類の差別も受けることがなく、人権尊重の理念が広く都民に一層浸透した社会を実現

 

意見

全面的に反対である。競技スポーツの世界の憲章を一般社会に拡大する道理など全くない。オリンピック開催に便乗したLGBTの人権尊重や、ダイバーシティとか共生社会の実現等といった特定の思想を背景とした偏った政策を推進されるのは都民として甚だ迷惑。

人権尊重社会の実現とは、結局特定社会階層や特定の集団、ノイジー・マイノリティ等圧力団体の利益を常に優先する政策のことであり、彼らの発言権を強くするためのものであり都民一般の利益を促進しない。人権尊重とは、特定集団の利益のために公共団体を奉仕させ公権力を利用するための口実であるというのがその本質である。

 

理由その1

 人権尊重推進というのは、特定の社会集団、ノイジー・マイノリティーの利益促進政策というべきで、クラス立法。東京都民一般の利益にはならない不要な政策。

特定のマイノリティの差別解消を名目として、善良な一番市民の近代市民的自由(契約の自由、取引(営業)の自由、私的自治、宗教の自由、表現権)の規制、制約を目指すもの。社会主義的政策であり自由企業体制、自由市場経済に敵対するもの。

 私はクラス立法を否定する、レッセフェール自由主義(古典的自由主義)が最善の社会という考え方なので強く反対する。

 

理由その2。

 神聖なのは、営業の自由、契約自由等経済的自由や私的自治といった近代市民的自由、個人の精神的自由、宗教の自由といった個人主義的自由であり、人権尊重社会が実現すれば、特定の集団に対する配慮が強要され、ビジネス、雇用、取引、契約における自由な裁量、判断が制限されたり、本心を語ることもできず、心にも思ってないことを言わされたり、嫌いな人、リスペクトしたくない人も好きにならなければならず、言葉も規制されてとても鬱陶しい社会になる。

 

理由その3

 東京都は人権という概念をむやみやたらに拡大しすぎる。東京都が非常にずるいのは人権それ自体が不確定概念、人格権をいっているのか人格的尊厳をいっているのか、たんに雰囲気でなんでも人権に祭り上げ、けっして憲法上の権利とはいわないところだ。憲法上の権利といってしまうと、三菱樹脂事件最高裁判決のように私人間効力が否定されるので、都民や事業者に差別を禁止したり責務を課すことしが困難になるためと思われる。

人権尊重という単純なスローガンに都民はだまされるべきではない。それはノイジー・マイノリティーの運動に公共団体が利用されることであり、特定階層、団体の利益の促進であり、そのためにマジョリティや伝統的な道徳的基準をもつ善良な人々を攻撃する口実をつくるための政策なのだ。

 国連や欧州人権条約以上の人権のインフレ状況は好ましくない。

 私は、そのような趣旨で反人権の立場である。私は基本的権利というのは 「法によって保護されるべき自由」といった19世紀のコモン・ロー法学のクーリーのような堅実な考え方に賛成なのだ。

たとえばMeyer v. Nebraska, 262 U.S. 390 (1923) のマクレイノルズ判事の列挙したもの。憲法修正第14条が保障する自由とは「単に身体的な拘束からの自由のみならず、個人が契約し、なんらかの普通の生業に従事し、有用な知識を習得し、結婚して家庭を築いて子供を育て、自己の良心の命ずるところに従って神を礼拝する権利、および公民(freemen)が通常幸福追求にあたって不可欠なものとして コモン・ローにおいて長い間によって認められている諸特権(privileges を遍く享受する権利をさす。」ここには表現権はないが、およそこの程度で十分、それ以上のノイジーマイノリティの優先処遇は必要ないし、人権尊重や差別禁止、ダイバーシィ、多様性。共生社会の大合唱にうんざりしている。

 真性同性愛者やバイセクシャルは人口比率からいって、彼らの利益を促進すれば政治家は票になると踏んでいる。票になりさえすれば同性愛や肛門性交を道徳的に不承認とする人々の自由はどうでもいいという非常に危険な政策だと思う。

 基本的権利の拡張や承認に抑制的な理論としては、マクレイノルズと全く反対の陣営だが、カードーゾ判事の1937年のパルコ対コネティカット判決Palko v. Connecticut, 302 U.S. 319 (1937)がよく知られている。名裁判官である同判事は合衆国憲法における基本的権利とは何か。次のように説明している「それら権利が否定されたなら自由も正義も存在しないだろうという信念」「秩序だった自由というまさに精髄」「基本的と位置づけられるほど、われわれ同胞の伝統と良識に基づいている正義の大原則」「他のほとんどの自由の基盤であり、また欠くことのできない条件」とする。Washington v. Glucksberg, 521 U.S. 702 (1997)が長い歴史と伝統に支えられたものか否かを基本的権利を承認する判断基準としていてる。

 われわれはLGBT運動のような新奇な思想が「それら権利が否定されたなら自由も正義も存在しないだろうという信念」「秩序だった自由というまさに精髄」「基本的と位置づけられるほど、われわれ同胞の伝統と良識に基づいている正義の大原則」は到底思えないから反対なのである。

 

理由その4 

社会的な偏見を是正させるための啓発活動は、地方政府や公権力が行うのではなく、ボランタリズムで民間の団体、NGOなどが勝手にやればいいこと。条例によって賛同しない都民もに責務をはたすことを要求したりすべきではない。

 

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(4)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

一  性的指向に基づく差別禁止、LBGTの人権尊重を都民に義務付けることに反対
 
(一)雇用・住居・ビジネスの分野で事業運営、私人間の契約の自由、雇用判断等の裁量権に干渉し規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対する。取引の自由、私的自治は近代市民的自由の核心であり、三菱樹脂事件最高裁判決を引用するまでもなく。雇用主にとって好ましい人を雇用し、大家は好ましい人に賃貸借契約する自由があるはずだ。とりわけ宗教的、哲学的異議、同性愛を道徳的に承認しない価値観をもつ都民に対して、意思に反する契約や判断を強要し民間の事業運営に干渉する条例化は絶対反対。
 

(二)東京都直営の公共サービスの利用権について、LBGTであることを理由とした不当な扱いをなくすことをあえて否定しないが、動くゲイとレズビアンの会府中青年の家利用申込不承認事件で控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、都教委が同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱し違法と判示しており、この事件以来東京都はこの種の問題に敏感になっているから条例化する必要はないと思う。
 一方、民間事業において商品やサービス入手について差別を禁止することは強く反対。同性愛を道徳的に承認しない人々がビジネスにおいてゲイとレズビアンの人々に商品やサービスを提供しない自由を否定すべきではない。

 米国では連邦法では性的指向についての差別禁止法は存在しないが、20州で性的指向の差別を禁止する法があるけれども各地でトラブルが発生している。
 2018年6月5日の連邦最高裁判決Masterpiece Cakeshop, Ltd. v. Colorado Civil Rights Commissionはhttps://www.nationalreview.com/2018/06/masterpiece-cakeshop-supreme-court-decision-free-speech-temporary-respite/、宗教的信念によりゲイカップルを祝うカスタムウェディングケーキの提供を拒否したケーキ屋がコロラド州の差別禁止法違反とされ、コロラド市民権委員会は会社の方針の変更を要求したため、利益の大きいウェディングケーキ事業から撤退せざるをえなくなったというものである。
 最高裁は7対2でケーキ屋に有利な判決を下した。判決は市民権委員会の事件の扱いには、彼の異議は誠実なもので宗教的信念に対して明確で容認できない敵意の要素がいくつかあり、コロラド州法は宗教にもとづく差別を禁止しており不適切な対応としている。
 差別禁止において、宗教的哲学的意義を持つ者を適用除外とすればよいのではないかというかもしれないが、それでも反対である。一度LBGTの人権尊重を法制化するとLBGTコミュニティや人権派の立場が圧倒的に強くなる。宗教的信念というけれどもあなたは教会で礼拝しているのか、聖句を引用できるか、哲学的異議というけれどもあなたはアリストテレスやトマスの著書を読んだことがあるのかなど尋問され、宗教や哲学は偽装で差別したのはヘイトが目的とか勝手に決めつけられたりして、結局に正統的な道徳的教訓を重んじる良心的で保守的な人々を迫害する法になることを憂う。
 だからLBGTの人権尊重を義務付けること自体に反対。それは結局同性愛行為(肛門性交・口腔性交)を道徳的に承認しない正統的な価値観を有する都民を愚弄することになる。同性愛行為に対する非難の根拠がユダヤ・キリスト教の道徳基準と倫理基準に基づいていることからすれば、道徳を実践しているまじめな人々が叩かれ、事業方針を変更するよう要求されたりして、信念を曲げない人から生業を奪い、ビジネスをできなくさせるのは最悪の事態である。
 
 
二 同性のパートナーシップ、同性カップルの保護政策に進むことも強く反対
  Obergefell v. Hodges,_ (2015)はある州で正式に結婚の認定を受けた同性のカップルには、他の全州でも正式に結婚の資格を認定することを義務付けた衝撃的な連邦最高裁判例である。
 私は異人種婚禁止州法を違憲とし結婚の自由を基本的権利と宣言したLoving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967)に賛同しつつも、婚姻の自由を「重婚」する権利や「同性婚」に拡大することには反対なので同判決には反対である。我国でも渋谷区のパートナーシップ条例などの動きがあるが、このような政策のオリンピックとは無関係であり、先進的政策を望まない。
  憲法上の権利というものは、いわゆる自治体が良く使う人権概念のようにむやみやたらと拡大すべきではなく、法によって保護されるべき自由としてとらえる。
 この点で、私は1923年のマイヤー判決マクレイノルズ法廷意見(最も反動的な裁判官として知られる)や19世紀後期随一の憲法体系書のクーリに近い立場をとっているのである。
 私は Loving の意義を認めつつ、憲法上の基本的権利はこの国の伝統に根ざし秩序づけられた自由の範疇でとらえるべきという限定を付するのが正当だったと考える。
 結婚はどう定義されるべきだろうか。西洋の単婚理念をあらわすものとしてひとくちでいえばユスティニアヌス帝の法学提要にある「婚姻を唯一の生活共同体とする一男一女の結合」といえるだろう[船田享二1971 24頁]。結婚とはあくまでも男と女の結合でなければならない。
 この点ではアリート判事のUnited States v. Windsor(2013)の反対意見が妥当と考える。先例としてWashington v. Glucksberg, 521 U.S. 702 (1997)が長い歴史と伝統に支えられたものか否かを基本的権利を承認する判断基準としており、このグラックスバーグテストに照らせば同性婚を行う権利は「我が国の伝統に深く根差したものではない」としたのである。
[高橋正明2017]
 
 
三 我が国は、西洋文明諸国の歴史的、宗教的背景が異なり、同性愛タブーに乏しい。法によって規制してきた経験に乏しく、もともと寛容な社会である。欧州人権条約を背景として、世俗化した西欧諸国が、非西欧圏(旧ソ連圏含む)男色行為を犯罪としたままの国を非難することがあるが、我が国では成人間の合意による同性愛行為はもともと犯罪ではなかったし、警察がプライバシーに干渉してくることはないので、国際的に非難されることはありえず、オリンピックに便乗してLGBT人権尊重を法制化する必要はなく、やり過ごしてよい問題である。
 西洋文明圏では、ソドミー、男性同性愛行為は神の定め給う自然法の掟に反し、「自然に反する罪」「自然に反する性行為の罪」とされ、キリスト教徒にとっては異端であり、あるいは社会の存続にとって危険な行為とされてきた。
 第二次世界大戦後も、同性愛は刑罰の対象とされたままであった。同性愛者は、政府の役人となることを禁止され、兵役から締め出され、移民法の適用対象外となり、警察の捜査対象となり、交際する権利に負担が課せられた。しかし我が国にはそのようなことはない。
 一方我が国では、西洋と違って同性愛を自然に反する性行為として処罰するという法文化に乏しく、院政期より近世初期まで「待童」「小姓」「念友」といった男色行為の盛行がみられる。とくに室町から戦国時代が男色の極盛期とされる。左大臣藤原頼長が『台記』で同時精液発射は至高との快楽と記したように罪悪感は微塵もみられない。徳川時代に衆道禁止令、明治期に西洋思想を吸収し「鶏姦スル者ハ懲役九十日」等の処罰法の存在が指摘されているが適用例はほとんどないものと思われ、大筋において我が国には欧米諸国なら普通だったソドミー処罰法は存在していなかったといってよいだろう。
 実際、我が国は、西洋と違って同性愛タブーに乏しく格別同性愛者に憎悪や敵意をかきたてる文化的背景がないのが特徴といえる。実例としては、「おねえ系」タレントの人気、メディアで活躍している例を挙げてよい。
 カルセール麻紀、美川憲一、池畑慎之介、おすぎとピーコ、KABA.ちゃん、KINYA、 假屋崎省吾、クリス松村、IKKO、はるな愛、マツコ・デラックス。『2011ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10になった楽しんごの「ドドスコスコスコ‥‥ラブ注入」というギャグは肛門性交を連想させるが、賞を受けるたけでなく大手企業のCMにも起用されるタレントで、我が国では偏見がないことを証明している。
 要するに、アメリカ合衆国は2003年まで、同性愛行為は犯罪としていた州があったが、我が国もともと同性愛行為を私的空間でなす権利を認めていたし政府は干渉しない社会だった。だからことさら同性愛者の人権を法制化する理由はないのである。
 
 欧米諸外国におけるソドミー(男色行為)の非犯罪化は、1954年英国のウォルフェンデン卿委員会の勧告がきっかけである。これは売春、賭博も含めて「被害者なき犯罪」の非犯罪化の提唱であった。道徳に対する罪と法律上の罪を区別するという基本哲学であるが、道徳の罪の非犯罪化は社会的・道徳的紐帯を崩壊させるという反対論も有力で 白熱した学術的論争がなされた。
 非犯罪化の刑事政策は、警察は市民の生命や財産を侵害する犯罪に注力すべきで。被害者なき犯罪にかまう必要はないという刑事政策の議論であって憲法問題ではない。私は、売春や賭博も非犯罪化してよいと思うが、非犯罪化論は同性愛者だけを格別重視しているものではない。
 英国では1967年に同性愛行為を合法化 (但しスコットランドは1980年)し、その後1980年代までに西欧諸国のの大多数が同性愛行為を合法化している(勿論バチカンは反対)。
 ヨーロッパ人権裁判所は、80年代に同性愛行為を禁止する北アイルランド法をヨーロッパ人権条約違反としている。  
 米国においてもアメリカ法曹協会が合意による男色行為は実害のない犯罪として、諸州の異常性行為(ソドミー)処罰法の廃止が提言されたが、連邦最高裁は Bowers v. Hardwick (1986)で5対4の僅差で、肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(フェラチオ)といった異常性行為(適用の対象は男色行為)を処罰する州法を合憲として、男色行為はいわゆるプライバシー権によって憲法上保護されないことを明らかし、西欧の非犯罪化の趨勢とは一線を画した。米国は欧州ほど世俗化されておらず、社会の道徳的紐帯を重視する共和主義憲法理論を示した名判決である。
 とりわけバーガー主席判事(連邦最高裁長官)の凄みのある補足意見が印象的である。
「男性同性愛行為に関する個人の決定は西欧文明の歴史を通じて常に国家の規制に服してきた。その種の行為に対する非難はユダヤ・キリストの道徳的・倫理的規範に強固に根ざしている。男性同性愛行為は、ローマ法においても死刑に相当する犯罪だった。‥‥イギリス法でも、教会法の管轄権が国王裁判所の管轄権に移された宗教改革の時代に、男性同性愛行為をを刑法上の犯罪と定めた。最初のイギリス制定法(1533)が議会で制定されている。W・ブラックストンによれば、この男性同性愛行為という自然に反する破廉恥な行為"the infamous crime against nature"は強姦よりも重大な悪行"deeper malignity"であって、その行為に言及することですら人間の本性に羞恥となるような極悪な行為"the very mention of which is a disgrace to human nature,"、最も卑劣な犯罪"a crime not fit to be named."である。と述べられている。[ W. Blackstone4, Commentaries *215. The common law of England(1795~69)]イギリスのコモン・ローは、この男性同性愛行為処罰を含めて、ジョージア州その他のアメリカの植民地の法として継受され‥‥‥そのような歴史的意味有する男性同性愛行為を、連邦最高裁判所が、ここで、合衆国憲法上の基本的権として保障されるのだと判示することは、至福千年の道徳的教訓aside millennia of moral teachingを棄て去ることになるだろう。‥」[松平光央1987]
 ブラックストンは公的不法行為としており、合衆国各州で継受され、ソドミー処罰法となっているのであり。歴史に根差しているという認識は正しいと考える。
 
 バーガー主席判事補足意見はホワイト判事の法廷意見のいう男色行為が、アメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものである、秩序だった自由の概念に黙示的に包含されるという被上告人の主張は『笑止千万お笑い草』述べた部分を補足したものである。
 明文で規定されないが憲法上の権利とされてよいのはアメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものであり、秩序だった自由(順序づけられた自由)というまさに精髄でなければならない決まり文句が、男色行為を憲法上の権利として承認しない決め手とされているのである。
 この立論はカードーゾ判事の1937年のパルコ対コネティカット判決Palko v. Connecticut, 302 U.S. 319 (1937)に由来する。同判事は合衆国憲法における基本的権利とは何か。次のように説明している「それら権利が否定されたなら自由も正義も存在しないだろうという信念」「秩序だった自由というまさに精髄」「基本的と位置づけられるほど、われわれ同胞の伝統と良識に基づいている正義の大原則」「他のほとんどの自由の基盤であり、また欠くことのできない条件」とする。
 しかし米国では、こま判決の覆そうという運動が起きたため17年後のLawrence v. Texas、539 U.S. 558 (2003)という連邦最高裁判決で先例を覆し、私的な空間での合意による性行為はそれが男色行為であれ、憲法の実体的デュープロセスによって保護されるという6対3の判決で、男色行為処罰州法を違憲としたので、全米で同性愛行為の非犯罪化がなされた。 
 ケネディ法廷意見は「Bowers判決では「ソドミー行為は古来に淵源を持ち、禁止されている」とされたが、イギリスの植民地時代や独立初期時代のソドミー法は同性愛者のみを対象とせず、未成年者に対する暴行や強姦、獣姦などの利己的な行為に行使されていた。多くの州で同性愛行為が処罰の対象とされたのは1970年代以降である 。したがって、同性愛行為を禁止するソドミー法の歴史は「古くから付いている」ものではないするがこの判断は疑問である。罰則適用者が少ないのはそれは住居という私的空間に踏み込むことに私生活の干渉に謙抑的なのが近現代の法文化であるといっているだけで、一種の技術的な印象操作であ歴史認識を覆してしまったといってよい。ヘンリー8世やエリザベス1世の制定法の無視、コーク、へイル、ブラックストンの無視は容認しがたい。判例変更する根拠に乏しく、事実上の裁判官による立法、悪しき司法積極主義と考える。特に法源とはならない外国や国際組織の立法の引用は不適切である。西欧諸国は世俗化が進んでおりキリスト教的規範が重んじられてない。米国人のように毎週教会に礼拝する人は少ない、米国はEUの子分でないし、現代西欧がどうであれ現代のイスラエルであるべき米国の見識を示すべきであった。
 私は、スカリア判事の反対意見がだと妥当と考えるが、ケネディ法廷意見の核心部分は「Planned Parenthood of Southeastern Pa v. Casey35では、「個人が一生の中で行う最も親密でかつ個人的な諸選択(personal choices)は、個人の尊厳と自律にとって核心部分であり、第14修正によって保護される自由の核心的部分である。自由の核心的部分とは、自身の存在、価値、普遍性、そして生命の神秘さを定義する権利である。これは州の強制力によっても侵害できない」として、個人の自律が保護された。このことは異性愛者と同様に、同性愛者にも個人の自律を追求できることを示唆している。」と述べたくだりで、親密な個人的人間関係を築くことの権利を言っているようである。
 この見解についても批判したいが、いずれにせよ、男色行為を処罰対象としないことが同性愛者の人権尊重の中心にある議論であり、今世紀になって先進国で普通になったということだが、我が国ではもともと犯罪とはしてこなかったので、同性愛者の人権はもともと尊重されており、格別法制化の必要はなく、むしろ特別視することによる弊害が大きいので、東京都の人権尊重条例に反対する。
 ついでにいうと、たぶん国際スポーツ組織の世界では西欧諸国の発言権が強いだろうし、彼らは欧州人権条約を自画自賛し、非犯罪化が洗練されており世の趨勢として、旧ソ連圏や中東、アフリカなど同性愛タブーの残っている地域を批判しているのだろうが、文化相対主義の観点からは厚かましいと思う。
 競技スポーツで同性愛者を差別しないポリシーをとることはそれ自体悪いことではないにしても、一般社会にまでそれと同じレベルで差別禁止を求めるのはやりすぎである。
 
四 同性愛行為を非難し道徳的に承認しない価値観は、西洋文明の正統的な法思想の系譜に属する以上、そのような価値観を有する人々の市民的自由も尊重されなければならない

反同性愛が西洋文明の正統的な法思想である

 
西洋文明で男色行為(ホモセクシャルソドミー)が悪とされるのは、人間の本性に従った自然な性行為ではなく、反自然的、自然の秩序に反する性行為だからである。(主として松平光央1987からの引用]

(1)人間本性論=自然法論

  プラトンは、対話篇八巻『法律』において、男子との交わりは、「神の憎しみ給うもの、恥ずべきことのなかでも最も恥ずべきこと」と指弾し、法律で禁止べきとした。また,生殖と無関係な不毛な交わりを反自然的行為とみなす見解のほか、男性同性愛行為は、男性として望ましい属性である、勇気・節制・度量・知恵等の発達を阻害し、一方の男性を女性の地位に下落させるというのも禁止すべき理由としており、説得力のある見解といえる。
アリストテレスは、人間の行為を自然な行為を善、不自然な行為を悪として二分する考え方を示した。神に祝福される結婚という形態を介しての生殖行為は善、同性愛、獣姦そのたの不自然な性行為は悪とした。男性同性愛行為は人間の本性にもとづく種族の保持、人類の生存という欲求を否定し、人類を意図的に絶滅させるから、法律で禁止すべきであるというのがプラトン、アリストテレスの人間本性論である。
これは聖アウグスティヌスの『神の国』やトマス・アクィナスの『神学大全』とによって自然法の掟として理論的に深化される。[松平光央1987]
  このギリシャ主知主義哲学とキリスト教神学の混淆といえる人間本性論=自然法論の系譜の反同性愛思想は西洋文明の正統的な法思想といってよいのであり、それを曲げる理由もない。

(2)聖書思想
 ソドムとゴモラの崩壊が著名だが、レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」は同性愛を明確に悪とする根拠といえる。
西洋文明の夫婦斉体思想の根拠になっているのが創世記2.23-24である。
これこそついに私の骨と骨、
わたしの肉と肉
彼女は女とよばれることになろう。
彼女は男より取られたのだから。
それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。
ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]k
 新約聖書の引用は略すが、聖書には明確は反同性愛思想がある。
 
(3)ローマ法では男性同性愛行為が反逆罪に相当する重罪
旧約聖書のソドムとゴモラの崩壊が、性的紊乱特に男色行為が神の怒りに触れたと信じられており、たんに不道徳といただけでなく国家・社会を崩壊させる行為と認識していたためである。
テシオドス一世やユスティニアヌス帝は洪水、地震、飢餓等の自然災害や黒死病そのたの疫病も男性子同性愛者と無関係ではないと判断していた。
(4)中世より近世
 教会裁判所では、不敬罪、異端、魔術、姦通等の罪と並んで裁判され、有罪が宣告されれば、ソドムとゴモラの伝統に従って火刑に処された。
イギリス古代のゴート族の慣行では男子同性愛者は火刑か生き埋めに処された
ヘンリー八世は教会裁判所より管轄を移して制定法によりソドミーを処罰することとした。The Buggery Act 1533である。https://www.bl.uk/collection-items/the-buggery-act-1533、同法では僧侶の立会いのない絞首刑という重罪だった。なぜならば「不逞の輩の忌まわしく、かつ憎むべき悪行(the detestable and abominable vice of  Buggery)」だからである。
 なお大英博物館のサイトによれば、1533年法にもとずいて19世紀においても3人が死刑に処されている。
エリザベス一世の制定法もソドミーを重罪としているが、その立法趣旨は、全能の神の名において不逞の輩の忌まわしい悪行の蔓延の阻止を強調し、彼らの存在自体が公序良俗の維持に有害であるばかりではなく、その存在を放置すれば神の怒りに触れ災害を招来するためであった。

(5)コモン・ロー法学
コーク、ヘイル、ブラックストンにおいても、男色行為は反自然的、自然の秩序に反する性行為と把握され、ブラックストンは異常性行為を公的不法行為の一類型として説明している。
 独立したアメリカ合衆国13州のソドミー処罰制定法の基本になっているのは、w。ブラックストンの『英法釈義』1765~69であるが、男色行為への非難は‥より嫌悪すべき(more detestable)、より悪性な(deeper malignity)、悪名の高い(infamous)破廉恥な(disgraceful)といった言葉ーで修飾されているの
 
 私は、LGBT運動の新規な思想より、聖書は無論のこと、男色行為は不自然な性行為で悪行と断定した、知の巨人たるプラトンやアリストテレス、聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス等を圧倒的に信用するものである。 コーク、ヘイル、ブラックストンといったコモン・ロー法学の巨人も圧倒的な信用するものである。これらの書物や思想をLGBTの人権を否定したものとして焚書にするならば我々は文明規範を逸脱し野蛮人に戻るしかないし、すべての世界遺産をミサイルで破壊する暴挙に等しい。
 
 神聖なのは取引の自由、契約の自由という近代市民的自由の方であって、インフレ化した人権概念ではない。東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。[パネンベルク1990] つまり人間の尊厳とは人間(男性)が神の似姿として造られたという神学的フィクションにすぎない。その聖句がなければ所詮人間は「糞が詰まった革袋」以外の何物でもない。
 しかし一方で、人間は原罪によって倫理性は致命的に腐敗しているというのも西洋文明1500年の正統的な思想であるから、「人間の尊厳」とか東京都が勝手に「人権」と称している思想それ自体懐疑的である。神律こそ正しく人間性やヒューマニズムを全く信用しないというのが正しい思想と考える。米国のバイブルベルトの保守的クリスチャンが「世俗的ヒューマニズム」を悪としていることに私は共鳴するものである。
  一方、人格とは理性的本姓をもつ個体のことで、人間を理性的動物とするギリシア思想に由来するとする見方もあるが、古典古代の異教思想はキリスト教的に克服されなければならないというのが西洋文明の正統的な脈絡である。人格権概念は聖書思想に由来するとみてよいのである。
 私が、同性愛を道徳的に承認しない理由の第一は、西洋文明2500年の伝統である。
 レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」
 聖書思想は人格権の根拠でもあるが、男色行為を憎むべきことと教えているので、同性愛者に人間尊厳を認めることは神学的に論理矛盾でありえないことである。
 
五、端的に肛門性交は反自然的、アブノーマルとして嫌悪する異性愛者マジョリティの感情が否定される理由はない
 
 私は、高尚な神学や哲学的な異議から離れても、性器性交(ペニスをヴァギナに挿入)が自然の行為でノーマルなものであり、性器性交でエクスタシーを得るのが、精神医学的にも正常で健全なものであり、肛門性交は反自然的、アブノーマルという認識が悪い価値観ということはありえないと考える。肛門性交に寛容であれという人権啓発は青少年の教育においても疑問である。
 快楽追求のための性行為を否定しないが、性器性交でフィニッシュが健全であり、われわれはLBGT人権尊重のために、肛門性交を嫌悪することを否定される理由など全くないのである。小池さんが、ドン内田氏や、石原元知事、森元首相を嫌う自由であるのと同じように、都民には肛門性交やソドミー行為を嫌悪する自由もある。私は高校生の時日比谷図書館のトイレの前で、「なめてあげる金を払うからしゃぶらせて」と言い寄せられたことがあるが拒否した。男に犯されたくないというのは普通の感覚だといっても差別、それは否定されるべきなのか。またヘテロセクシャルのオーラルセックスは生殖行為の前戯として価値をみいだすことができるが、同性愛者のフェラチオに何の価値を見出すことができないのである。わが国には、戦国時代の念友を極盛期として男色文化があり、男の味を知ってから、女を楽しむのが通人ともいわれたが、それはわが国が野蛮だった時代のことである。近代化の過程で西洋の反同性愛文化も受容しているのであり、戦国時代に戻らなければならない理由など全くないし、西洋において同性愛者が火刑、生き埋め、絞首刑に処された怨念の復讐として文明の正統的規範意識をもつマジョリティの市民的自由が制約を受ける理由も全くないのである。 
 
 
 
主な引用・参考文献
石田尚
1988『実体的適法手続: アメリカ判例解説シリーズ 1』信山社
上田宏和
2016 「Obergefell 判決における同性婚と婚姻の権利 」
創価法学46巻1号
2013「アメリカ憲法学における「自己決定権」の保護範囲 ―Lawrence v. Texas を契機として― 」
創価大学大学院紀要 35
2012「アメリカ憲法学におけるプライバシー権の展開」
創価大学大学院紀要 34
2010「アメリカ憲法における「自己決定権」 : Bowers v. HardwickとLawrence v. Texasの比較検討」 創価大学大学院紀要 32
 古賀敬太
2018『西洋政治思想と宗教-思想家列伝』風行社
高橋正明
2017『ロバーツコートの立憲主義』大林啓吾・溜箭将之編 成文堂第三章平等-ケネディ裁判官の影響力の増加
立石直子
  「アメリカ合衆国におけるファミリー・プライヴァシー概念について」
      
 萩原滋
2012「実体的デュー・プロセス論の再考 : Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 ..」白山法学 (8), 1-18, 201
W.パネンベルク
1990  佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局
東野治之
1979「日記にみる藤原頼長の男色関係―王朝貴族のウィタセクスアリス」ヒストリア84号
船田享二
1971『ローマ法第四巻』岩波書店1971年改版 
ペイゲルス 絹川・出村訳
1993『アダムとエバと蛇「楽園神話」解釈の変遷』ヨルダン社
 
 松平光央
1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻2・3号

2018/06/27

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(3)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

一  性的指向に関する差別禁止、LBGTの人権尊重を都民に義務付けることに反対

 

 

(一)雇用・住居・ビジネスの分野で事業運営、私人間契約の自由、雇用判断等の裁量権に干渉し規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対する。取引の自由、私的自治は近代市民的自由の核心であり、三菱樹脂事件を引用するまでもなく。雇用主にとって好ましい人を雇用し、大家は好ましい人に賃貸借契約する自由があるはずだ。とりわけ宗教的、哲学的異議、同性愛を道徳的に承認しない価値観をもつ都民に対して、意思に反する契約や判断を強要し民間の事業運営に干渉する条例化は絶対反対

 

(二)公営の公共サービスの提供について、LBGTであることを理由とした不利益をなくすことにあえて否定しないが、民間事業において商品やサービス入手にいて差別を禁止することは強く反対。同性愛を道徳的に承認しない人々がビジネスにおいてゲイとレズビアンの人々に商品やサービスを提供しない自由を否定すべきではない。

 米国では連邦法では性的指向についての差別禁止法は存在しないが、20州で性的指向の差別を禁止する法があるけれどもかなりの問題がある。

 201865日の連邦最高裁判決Masterpiece Cakeshop, Ltd. v. Colorado Civil Rights Commissionhttps://www.nationalreview.com/2018/06/masterpiece-cakeshop-supreme-court-decision-free-speech-temporary-respite/、宗教的信念によりゲイカップルを祝うカスタムウェディングケーキの提供を拒否したパン屋がコロラド州の差別禁止法違反とされ、コロラド市民権委員会は会社の方針の変更を要求したため、利益の大きいウェディングケーキ事業から撤退せざるをえなくなったというものである。

 最高裁は72でパン屋に有利な判決を下した。判決は市民権委員会の事件の扱いには、彼の異議、誠実な宗教的信念に対して明確で容認できない敵意の要素がいくつかあり、コロラド州法は宗教にもとづく差別を禁止しており不適切な対応としている。

 差別禁止において、宗教的哲学的意義を持つ者を適用除外とすればよいのではないかというかもしれないが、それでも反対である。一度LBGTの人権尊重を法制化するとLBGTコミュニティや人権派の立場が圧倒的に強くなる。宗教的信念というけれどもあなたは教会で礼拝しているのか、聖句を引用できるか、哲学的異議というけれどもあなたはアリストテレスやトマスの著書を読んだことがあるのかなど尋問され、宗教や哲学は偽装で差別したのはヘイトが目的とか勝手に決めつけられたりして、結局正統的な道徳的教訓を重んじる良心的で保守的な人々を迫害する法になることを憂う。

 だからLBGTの人権尊重を義務付けること自体に反対。それは結局同性愛行為(肛門性交・口腔性交)を道徳的に承認しない正統的な価値観を有する都民を愚弄することになる。同性愛行為に対する非難の根拠がユダヤ・キリスト教の道徳基準と倫理基準に基づいていることからすれば、道徳を実践しているまじめな人々が、事業方針を変更するよう命令されたりして、ビジネスができなくなったりするのは最悪の事態だと思う。

 

 

二 同性のパートナーシップ、同性カップルの保護にも反対

 

 Obergefell v. Hodges,_ (2015)はある州で正式に結婚の認定を受けた同性のカップルには、他の全州でも正式に結婚の資格を認定することを義務付けた衝撃的な連邦最高裁判例である。

 私は結婚の自由を基本的権利としたLoving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967)に賛同しつつも、婚姻の自由を「重婚」する権利や「同性婚」に拡大することには反対なので同判決には反対であることを付け加えておく。

 憲法上の権利というものは、いわゆる自治体が良く使う人権概念のようにむやみやたらと拡大すべきではなく、法によって保護されるべき自由としてとらえる。

 この点で、私は1923年のマイヤー判決マクレイノルズ法廷意見(最も反動的な裁判官として知られる)や19世紀後期随一の憲法体系書のクーリに近い立場をとっているのである。

 私は Loving の意義を認めつつ、憲法上の基本的権利はこの国の伝統に根ざし秩序づけられた自由の範疇でとらえるべきという限定を付するのが正当だったと考える。

 結婚はどう定義されるべきだろうか。西洋の単婚理念をあらわすものとしてひとくちでいえばユスティニアヌス帝の法学提要にある「婚姻を唯一の生活共同体とする一男一女の結合」といえるだろう[船田享二1971 24頁]。結婚とはあくまでも男と女の結合でなければならない。

 この点ではアリート判事のUnited States v. Windsor2013)の反対意見が妥当と考える。先例としてWashington v. Glucksberg, 521 U.S. 702 (1997)が長い歴史と伝統に支えられたものか否かを基本的権利を承認する判断基準としており、このグラックスバーグテストに照らせば同性婚を行う権利は「我が国の伝統に深く根差したものではない」としたのである[高橋正明2017

 

三 (未完成)

 

 

 

 

 

四 同性愛行為を非難し道徳的に承認しない価値観は、西洋文明の正統的な法思想の系譜に属する以上、そのような価値観を有する人々の市民的自由も尊重されなければならない

 

 反同性愛が西洋文明の正統的な法思想である

 

 

 西洋文明で男色行為(ホモセクシャルソドミー)が悪とされるのは、人間の本性に従った自然な性行為ではなく、反自然的、自然の秩序に反する性行為だからである。(主として松平光央1987からの引用]

 

1)人間本性論=自然法論

 

 プラトンは、対話篇八巻『法律』において、男子との交わりは、「神の憎しみ給うもの、恥ずべきことのなかでも最も恥ずべきこと」と指弾し、法律で禁止べきとした。また,生殖と無関係な不毛な交わりを反自然的行為とみなす見解のほか、男性同性愛行為は、男性として望ましい属性である、勇気・節制・度量・知恵等の発達を阻害し、一方の男性を女性の地位に下落させるというのも禁止すべき理由としており、説得力のある見解といえる。

 アリストテレスは、人間の行為を自然な行為を善、不自然な行為を悪として二分する考え方を示した。神に祝福される結婚という形態を介しての生殖行為は善、同性愛、獣姦そのたの不自然な性行為は悪とした。男性同性愛行為は人間の本性にもとづく種族の保持、人類の生存という欲求を否定し、人類を意図的に絶滅させるから、法律で禁止すべきであるというのがプラトン、アリストテレスの人間本性論である。

 これは聖アウグスティヌスの『神の国』やトマス・アクィナスの『神学大全』とによって自然法の掟として理論的に深化される。[松平光央1987

 このギリシャ主知主義哲学とキリスト教神学の混淆といえる人間本性論=自然法論の系譜の反同性愛思想は西洋文明の正統的な法思想といってよいのであり、それを曲げる理由もない。

 

2)聖書思想

 

  ソドムとゴモラの崩壊が著名だが、レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」は同性愛を明確に悪とする根拠といえる。

 西洋文明の夫婦斉体思想の根拠になっているのが創世記2.23-24である。

 これこそついに私の骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

 

 ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。

ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]k

  新約聖書の引用は略すが、聖書には明確は反同性愛思想がある。

  

 3)ローマ法では男性同性愛行為が反逆罪に相当する重罪

 

 旧約聖書のソドムとゴモラの崩壊が、性的紊乱特に男色行為が神の怒りに触れたと信じられており、たんに不道徳といただけでなく国家・社会を崩壊させる行為と認識していたためである。

テシオドス一世やユスティニアヌス帝は洪水、地震、飢餓等の自然災害や黒死病そのたの疫病も男性子同性愛者と無関係ではないと判断していた。

 

4)中世より近世

 

 教会裁判所では、不敬罪、異端、魔術、姦通等の罪と並んで裁判され、有罪が宣告されれば、ソドムとゴモラの伝統に従って火刑に処された。

 イギリス古代のゴート族の慣行では男子同性愛者は火刑か生き埋めに処された

 ヘンリー八世は教会裁判所より管轄を移して制定法によりソドミーを処罰することとした。The Buggery Act 1533である。https://www.bl.uk/collection-items/the-buggery-act-1533、同法では僧侶の立会いのない絞首刑という重罪だった。なぜならば「不逞の輩の忌まわしく、かつ憎むべき悪行(the detestable and abominable vice of Buggery)」だからである。

 なお大英博物館のサイトによれば、1533年法にもとずいて19世紀においても3人が死刑に処されている。

 エリザベス一世の制定法もソドミーを重罪としているが、その立法趣旨は、全能の神の名において不逞の輩の忌まわしい悪行の蔓延の阻止を強調し、彼らの存在自体が公序良俗の維持に有害であるばかりではなく、その存在を放置すれば神の怒りに触れ災害を招来するためであった。

 

 5)コモン・ロー法学

 

 コーク、ヘイル、ブラックストンにおいても、男色行為は反自然的、自然の秩序に反する性行為と把握され、ブラックストンは異常性行為を公的不法行為の一類型として説明している。

 独立したアメリカ合衆国13州のソドミー処罰制定法の基本になっているのは、w。ブラックストンの『英法釈義』176569であるが、男色行為への非難は‥より嫌悪すべき(more detestable)、より悪性な(deeper malignity)、悪名の高い(infamous)破廉恥な(disgraceful)といった言葉ーで修飾されているの

 

 私は、LGBT運動の新規な思想より、聖書は無論のこと、男色行為は不自然な性行為で悪行と断定した、知の巨人たるプラトンやアリストテレス、聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス等を圧倒的に信用するものである。 コーク、ヘイル、ブラックストンといったコモン・ロー法学の巨人も圧倒的な信用するものである。これらの書物や思想をLGBTの人権を否定したものとして焚書にするならば我々は文明規範を逸脱し野蛮人に戻るしかないし、すべての世界遺産をミサイルで破壊する暴挙に等しい。

 

 神聖なのは取引の自由、契約の自由という近代市民的自由の方であって、インフレ化した人権概念ではない。東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。[パネンベルク1990] つまり人間の尊厳とは人間(男性)が神の似姿として造られたという神学的フィクションにすぎない。その聖句がなければ所詮人間なんていうものは「糞が詰まった革袋」以外の何物でもない。

 しかし一方で、人間は原罪によって倫理性は致命的に腐敗しているというのも西洋文明1500年の正統的な思想であるから、「人間の尊厳」とか東京都が勝手に「人権」と称している思想それ自体懐疑的である。神律こそ正しく人間性やヒューマニズムを全く信用しないというのが正しい思想と考える。米国のバイブルベルトの保守的クリスチャンが「世俗的ヒューマニズム」を悪としていることに私は共鳴するものである。

  一方、人格とは理性的本姓をもつ個体のことで、人間を理性的動物とするギリシア思想に由来するとする見方もあるが、古典古代の異教思想はキリスト教的に克服されなければならないというのが西洋文明の正統的な脈絡である。人格権概念のもとは聖書思想に由来するとみてよいのである。

 私が、同性愛を道徳的に承認しない理由の第一は、西洋文明2500年の伝統である。

 レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」

 聖書思想は人格権の根拠でもあるが、男色行為を憎むべきことと教えているので、同性愛者に人間尊厳を認めることは神学的に論理矛盾でありえないことである。

 

 

 

 

 

主な引用・参考文献

 

石田尚

1988『実体的適法手続: アメリカ判例解説シリーズ 1』信山社

 

上田宏和

2016 「Obergefell 判決における同性婚と婚姻の権利 

創価法学461

2013「アメリカ憲法学における「自己決定権」の保護範囲 Lawrence v. Texas を契機として― 

創価大学大学院紀要 35

2012「アメリカ憲法学におけるプライバシー権の展開」 

創価大学大学院紀要 34

2010「アメリカ憲法における「自己決定権」 : Bowers v. HardwickLawrence v. Texasの比較検討」 創価大学大学院紀要 32

 

古賀敬太

2018『西洋政治思想と宗教-思想家列伝』風行社

 

高橋正明

2017『ロバーツコートの立憲主義』大林啓吾・溜箭将之編 成文堂第三章平等-ケネディ裁判官の影響力の増加

 

立石直子

  「アメリカ合衆国におけるファミリー・プライヴァシー概念について」

 

萩原滋

2012「実体的デュー・プロセス論の再考 : Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 ..」白山法学 (8), 1-18, 201

 

W.パネンベルク

1990  佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局

 

東野治之

1979「日記にみる藤原頼長の男色関係―王朝貴族のウィタセクスアリス」ヒストリア84

 

船田享二

1971『ローマ法第四巻』岩波書店1971年改版 

 

ペイゲルス 絹川・出村訳

1993『アダムとエバと蛇「楽園神話」解釈の変遷』ヨルダン社

 

松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)60巻23

 

 

2018/06/17

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(2)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

承前

(3)同性愛行為が自然法に反するというのは西洋文明規範なので否定することはできない

 

ユダヤ・キリスト教2500年の伝統にやいて次の夫婦が一体となるという思想もかなり重要であるが、これは同時に反自然的な性行為を悪とする根拠にもなっていた。

 

創世記2.23-24

 

これこそついに私の骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

 

 

西洋文明の夫婦斉体思想の根拠は創世記だった。

それだけでなくユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。

ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。

ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]。

 

 さらに私が反同性愛は西洋文明規範の核心と確信をもったのが、Bowers v. Hardwick (1986)のバーガー主席判事の補足意見に感銘したことである。 ジョージア州異常性行為処罰法(通称ソドミー処罰法)は1816年にコモン・ローの自然に反する罪という用語で制定され、1933年、1968年に自然に反する方法による性交等の文言が漠然性により無効との批判をかわすため具体的文言に修正され、一方の性器と他の人間の口または肛門とによる性行為を行なうか、合意した者を1年~20年の懲役刑と規定する。ただし州裁判所の解釈では、クリニングスについては異性愛者もレズビアンにも適用されないとされていた。全米では、1986年当時同様のソドミー処罰法が25州で存在していた。

 事案は大略して次のとおりである。アトランタ在住のハードウィックは別の容疑でベッドルームに侵入してきた警官に同性愛行為を発見され、ソドミー処罰法違反として逮捕された。州地方検事は、証拠不十分だとして不起訴処分としたが、同人が常習であったことから、将来逮捕の危険性を恐れ、同州法の違憲確認を求めて、訴えを提起した。1985年の第11巡回区連邦控訴裁判所判決は、私的な場所で成人が合意とてなされる同性愛行為は、憲法に明文の条文はないが、憲法修正9条と修正14条のデュープロセス条項に根拠をもつプライバシー権によって保障されていると判示した。

 連邦最高裁は54の僅差で控訴審の違憲判決を破棄した。ホワイト判事による法廷意見は、含羞国憲法は男色行為を基本的人権として承認していない。過去のプライバシー権判例で承認された権利は、家族関係・結婚・生殖に関するものが中心で、本件と類似性がない。被上告人の主張を承認することは我々が最もやりたくにいことである。男色行為が、アメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものである、秩序ある自由の概念に黙示的に包含されるという被上告人の主張は『笑止千万お笑い草』であると述べた。

 ホワイト法廷意見には同性愛者に対する軽蔑を看取できるが、判決の日の夜、全米各地で虹旗を掲げる自然発生的なデモが起こったのである。

 バーガー主席判事と、パウエル判事の単独の補足意見がある。ブラックマン判事が反対意見を記し、ブレナン、マーシャル、スティーブンス各判事が同意し、スティーブンス判事は単独でも反対意見を記した。

 この判決は17年後のLawrence v. Texas539 U.S. 558 (2003))で判例変更されているが、裏話があり実は多数意見に賛同しているパウエル判事は、当初ブラックマンの陣営に与し違憲判決となるところだったが、決定票を握っていたパウエル判事が後悔し、主席判事に投票のやり直しを要請し、ひっくり返ったのである。

 私は、妥当な判決であり、国家・社会の擬集力となる道徳・倫理を重んじた共和主義的憲法理論として評価する。ホワイト法廷意見の論旨に問題はなく、判例変更した2003年の判決にかなり問題があると考えている。

 しかし、感銘を受けたのは、ユダヤ・キリスト教の伝統を継承する西欧文明諸国家の歴史においては、一貫して、男性同性愛行為は自然に反する忌まわしい醜悪行為と看倣され、宗教的、道徳的、法的規制の対象とされてきたのであって、同性愛行為を憲法上の人権として承認することは、西欧文明の至福千年の道徳的教訓を破棄するに等しいと断じた、バーガー主席判事の補足意見である。

 バーガー主席判事は、ニクソン任命の共和党員であり、ウォーレンコートの左傾化を正す期待から起用されたものの、ロー対ウエード判決の多数意見に与したため保守派からは期待外れと評される。しかし、私は同判事の「秩序を重んじたうえでの自由」という理念は賛同するものであり、特にアーミッシュやエホバの証人といった宗教上の少数派の思想の自由を擁護した判決を高く評価してよく、良心的な穏健保守派の裁判官といってよい。

 歴史と伝統を重視した見解は、国教樹立禁止条項が争点となった、クリスマスのキリスト生誕シーンの人形への公金支出、議会の牧師による祈祷を合憲としたて判決にもみられるが、この補足意見も同様であるが、もっとも強い印象をもつ。

 

バーガー主席判事(連邦最高裁長官)の凄みのある補足意見

「男性同性愛行為に関する個人の決定は西欧文明の歴史を通じて常に国家の規制に服してきた。その種の行為に対する非難はユダヤ・キリストの道徳的・倫理的規範に強固に根ざしている。男性同性愛行為は、ローマ法においても死刑に相当する犯罪だった。‥‥イギリス法でも、教会法の管轄権が国王裁判所の管轄権に移された宗教改革の時代に、男性同性愛行為をを刑法上の犯罪と定めた。最初のイギリス制定法(1533)が議会で制定されている。W・ブラックストンによれば、この男性同性愛行為という自然に反する破廉恥な行為"the infamous crime against nature"強姦よりも重大な悪行"deeper malignity"であって、その行為に言及することですら人間の本性に羞恥となるような極悪な行為"the very mention of which is a disgrace to human nature,"最も卑劣な犯罪"a crime not fit to be named."である。と述べられている。[ W. Blackstone4, Commentaries *215. The common law of England(179569)]イギリスのコモン・ローは、この男性同性愛行為

処罰を含めて、ジョージア州その他のアメリカの植民地の法として継受され‥‥‥そのような歴史的意味有する男性同性愛行為を、連邦最高裁判所が、ここで、合衆国憲法上の基本的権として保障されるのだと判示することは、至福千年の道徳的教訓aside millennia of moral teachingを棄て去ることになるだろう。‥」[松平光央1987]

 

(続く)

 

 

CHIEF JUSTICE BURGER, concurring.

 

I join the Court's opinion, but I write separately to underscore my view that in constitutional terms there is no such thing as a fundamental right to commit homosexual sodomy.

 

As the Court notes, ante, at 192, the proscriptions against sodomy have very "ancient roots." Decisions of individuals relating to homosexual conduct have been subject to state intervention throughout the history of Western civilization. Condemnation of those practices is firmly rooted in Judeao-Christian moral and ethical standards. Homosexual sodomy was a capital crime under Roman law. See Code Theod. 9.7.6; Code Just. 9.9.31. See also D. Bailey, Homosexuality [478 U.S. 186, 197] and the Western Christian Tradition 70-81 (1975). During the English Reformation when powers of the ecclesiastical courts were transferred to the King's Courts, the first English statute criminalizing sodomy was passed. 25 Hen. VIII, ch. 6. Blackstone described "the infamous crime against nature" as an offense of "deeper malignity" than rape, a heinous act "the very mention of which is a disgrace to human nature," and "a crime not fit to be named." 4 W. Blackstone, Commentaries *215. The common law of England, including its prohibition of sodomy, became the received law of Georgia and the other Colonies. In 1816 the Georgia Legislature passed the statute at issue here, and that statute has been continuously in force in one form or another since that time. To hold that the act of homosexual sodomy is somehow protected as a fundamental right would be to cast aside millennia of moral teaching.

 

This is essentially not a question of personal "preferences" but rather of the legislative authority of the State. I find nothing in the Constitution depriving a State of the power to enact the statute challenged here.

 

引用

 

イレイン・ペイゲルス.

1993『アダムとエバと蛇―「楽園神話」解釈の変遷』絹川・出村訳 ヨルダン社.

 

松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)

」60巻23

2018/06/10

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(1)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

1. 「人権」よりも近代市民的自由が重要、特に、「人権」尊重政策として私人間の契約(雇用判断や住宅の賃貸等)の自由を規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対する。

 (1) LBGTの人権という思想の過ち
 東京都は人権という概念をむやみに拡大しすぎる。東京都が非常にずるいのは人権それ自体が不確定概念、人格権をいっているのか人格的尊厳をいっているのか、厳密な定義もなく用い、たんに雰囲気でなんでも人権に祭り上げ、けっして憲法上の権利とはいわないところだ。憲法上の権利といってしまうと、私人間効力が否定されるので、都民や事業者に差別を禁止したり責務を課すことしが困難になるためと思われる。
 問題は、LBGTの人権尊重という思想のうちに、同性愛を道徳的に承認しない西洋文明の伝統的な規範意識をもつ人や、反同性愛の根拠となっている聖書思想やギリシャ哲学、保守的なクリスチャン等への敵意が看取でき、そうした人々、伝統的には正統的な立場にあるまともな人々の意識を変革しようという思想統制、全体主義の側面があるだけでなく、雇用判断(採用、昇進、解雇等)やその他契約の自由(大家さんが自由に賃貸人と契約する権利)をに干渉し、近代自由主義経済の原則である契約の自由の侵害を正当化させ、人権尊重の名のもとで近代的市民自由が規制、制約されていくことである。
 声を大にしていいたいのは、市民には、同性愛を道徳的に不承認とする価値観、信念をもつ自由があり、そのために市民的自由(契約の自由)が制約されるべきではない。小池都知事や都議会に、都民に道徳的選好を強要する権利などないということだ。
 文明規範の危機として憂う事態である。
 小池都知事や都民ファーストはLBGT運動が時流とみてたぶんロビー攻勢もあり、票になると踏んでやりたいのだろうが、競技スポーツで同性愛者を差別しないとことをオリンピックの政策とするのは運営者の勝手であるが、そのために一般社会も巻き込んでいくのはやり過ぎである。こんなことなら、オリンピックは招致しないほうがよかった。
 近年、残業時間規制や女性活躍のためのポジティブアクションなどもそうだが、雇用契約という本来自由主義では政府が干渉してはならない領域に干渉する準社会主義政策がはやっているが、近代市民的自由、自由企業体制の危機と訴えたい。
 票になることが正しい政治なのではない。一般に、真性に近い男性同性愛者は、人口の5~10%、女性は3~5%、バイセクシャルはその倍とされているので、選挙を左右するほどの勢力を有し、LBGT運動は近年急速に発言権を強くしているが、人権尊重と称して同性愛を道徳的に承認しない伝統規範を信奉する人々が攻撃されたり、多数者である異性愛者が肩身の狭い思いをさせられり、市民的自由を制約されるいわれはなく、ノイジーマイノリティに踊らされる政治ほど不愉快なものはない。
もとより、私は1980年代に広まったエイズ保菌者はすべて同性愛者であるというような誤解に与することはしないし、軽蔑するようなことはしない、むしろ有能な人物が多いことも知っている。合意のもとでの同性愛行為それ自体実害のないものであり、敵意もない。むしろその噂で歌手が紅白出場を降ろされたりするのは気の毒とさえ思った
 しかし東京都のような地方自治体であれ中央政府であれ、国民に特定の道徳的選好を強いることは全体主義であり許されない。同性愛が不道徳であるとい人々の信念を変えさせられたり、少数者によって多数者の価値観を覆させられるいわれはない。絶対反対である。

(2)欧米と比較して同性愛タブーの乏しい我が国で深刻な問題はない
 西洋文明圏では、ソドミー、男性同性愛行為は神の定め給う自然法の掟に反し、「自然に反する罪」「自然に反する性行為の罪」とされ、キリスト教徒にとっては異端であり、あるいは社会の存続にとって危険な行為とされてきた。
 欧米諸外国ではソドミー(男色行為)は刑罰の対象とされてきたが、見直しが行われるようになったのは、1954年英国のウォルフェンデン卿委員会の勧告がきっかけである。これは売春も含めて被害者なき犯罪の非犯罪化の提唱であった。道徳に対する罪と法律上の罪を区別するという基本哲学であるが、道徳の罪の非犯罪化は社会的・道徳的紐帯を崩壊させるという反対論も有力で 白熱した学術的論争がなされた。しかし英国では1967年に同性愛行為を合法化 (但しスコットランドは1980年)し、その後1980年代までに西欧諸国のの大多数が同性愛行為を合法化している(勿論バチカンは反対)。
 米国においてもアメリカ法曹協会が合意による男色行為は実害のない犯罪として、諸州の異常性行為(ソドミー)処罰法の廃止が提言されたが、連邦最高裁は Bowers v. Hardwick (1986)で5対4の僅差で、肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(フェラチオ)といった異常性行為(適用の対象は男色行為)を処罰する州法を合憲として、男色行為はいわゆるプライバシー権によって憲法上保護されないことを明らかし、西欧の非犯罪化の趨勢とは一線を画した。米国は欧州ほど世俗化されておらず、社会の道徳的紐帯を重視する共和主義憲法理論を示した名判決である。
 ところが、連邦最高裁はLawrence v. Texas、539 U.S. 558 (2003))で先例を覆し、私的な空間での合意による性行為はそれが男色行為でれ、憲法の実体的デュープロセスによって保護されるという6対3の判決で、男色行為処罰州法を違憲としたので、全米で同性愛行為の非犯罪化がなされた。
 一方、我が国では、西洋と違って同性愛を自然に反する性行為として処罰するという法文化に乏しく、院政期より近世初期まで「待童」「小姓」「念友」といった男色行為の盛行がみられる。とくに室町から戦国時代が男色の極盛期とされる。左大臣藤原長が『台記』で同時精液発射は至高との快楽と記したように罪悪感は微塵もみられない。徳川時代に衆道禁止令、明治期に「鶏姦スル者ハ懲役九十日」等の処罰法の存在が指摘されているが、大筋において我が国には欧米諸国なら普通だったソドミー処罰法は存在していなかったといってよいだろう。米国では21世紀に入っても男色行為処罰法が生きていたという状況とは全然違うのであり、我が国は性的快楽追求を否定せず、オーラルセックス(フェラチオ、クリニン具すにも、アナルセックスにもそれが同性であっても罪悪感に乏しく寛容な文化といえるのである。
 要するに、アメリカ合衆国は2003年まで、同性愛行為を行う権利を憲法上の基本的人権と承認していなかったが、我が国はそうではない、同性愛行為を行う権利を認めていた。だからことさら同性愛者の人権を法制化する理由はないのである。
同性愛者に雇用、社会生活上の便宜供与や優先処遇を与えるとなれば、一般市民の私法上の権利、契約の自由といったものとバッティングすることになり、契約の自由を制限してまで同性愛者を厚遇しなければならない根拠というものも乏しいのである。
 実際、我が国は、西洋と違って同性愛タブーに乏しく格別同性愛者に憎悪や敵意をかきたてる文化的背景がないのが特徴といえる。実例ちとては、「おねえ系」タレントが人気がありメディアで活躍しているをあげてよいと思う。例えばカルセール麻紀、美川憲一、池畑慎之介、おすぎとピーコ、KABA.ちゃん、KINYA、 假屋崎省吾、クリス松村、IKKO、はるな愛、マツコ・デラックス。『2011ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10になった楽しんごの「ドドスコスコ‥‥ラブ注入」というギャグは肛門性交を連想させるが、賞を受けるたけでなく大手企業のCMにも起用されるタレントで、我が国では偏見がないことを証明している。
 私は、ウォルフェンデン卿委員会のリベラルな刑事政策に賛成であるゆえ、売春や賭博の非犯罪化も妥当と考えるから、もとより私的空間での合意による性行為の自由という価値判断も妥当と考えるものであるが、我が国には男色行為を処罰するという発想はもともとなかったので、この点で欧米の前世紀の状況のような深刻な問題はない。ことさら同性愛者の人権を強調する必要はないというべきである。
 もっとも、東京都教委は、青年の家利用拒否事件で同性愛団体から訴えられたことがある。府中青年の家利用申込不承認事件・東京地裁平6・3・30判決判タ859号163頁は、平成2年2月、動くゲイとレズビアンの会は、府中市是政にある府中青年の家(東都の条例により設置され、利用にあたっては教育委員会の承認を要する)において勉強会合宿を行った際、他の利用者から嫌がらせを受けたため、青年の家に対し善処を求め、更に5月にも宿泊使用すべく申込みをし、館長及び都教育長担当課長と交渉を重ねたが、教育委員会は最終的に東京都青年の家条例八条一号(「秩序を乱すおそれがある」)、及び二号(「管理上支障がある」)に該当するとして利用不承認処分とした。なお、青年の家は一室に複数の利用者が宿泊する形態であった。
 動くゲイとレズビアンの会は、不承認無処分が憲法21条、26条から導かれる施設利用権を違法に侵害しているその他の主張により損害賠償を請求した。
 判決は、都教育委員会にも職務を行うにつき過失があったものといわざるをえないとして損害賠償を認めた。
 東京都教育庁担当課長は、団体側の弁護士に対して、「まじめな団体だといってるけど本当は何をしている団体か分かりませんよね」「何のために青年の家を利用するか疑わしいですよね」「同性愛者がいっしょにいるというだけで、子供たちは悪い影響を受けますよ」などと発言していたが、初めからこの利用申込み者を軽蔑していたようにも思える。これは過失があったと指弾される心証を与えている。裁判所は教育委員会が、性的行為が行われるという具体的可能性もないのに、誤った予断にもとづいて不承認の判断を行ったとみたようだ。
 この問題は決着がついて、控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱したものであって,違法であるなどとしたが,原判決を変更して、弁護士費用を認めず認容額を減縮して、請求の一部を認容した。都教委は上告せず確定判決となっている。判例によって同性愛者の公共施設利用が不当に侵害されることは違法であることは明白であり、東京都も反省していることだから、ことさら同性愛者の人権を強調する必要性はないというべきである。 
 
 (3)同性愛者に「人間の尊厳」は該当しない

 東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。
 つまり人間の尊厳とは人間(男性)が神の似姿として造られたという神学的フィクションにすぎない。そんなものは虚構だ。その聖句がなければ所詮人間なんていうものは「糞が詰まった革袋」以外の何物でもないというほかない。
 勿論私は、イエスが人間の神的創造の基準だった完全な神の似姿であると言う新約聖書の思想、男性こそ神の似姿であり、女性より優位にあるという思想を否定することは絶対にしない。神の似姿性は、人間が自己の身体、能力を他者に侵害されることなく自由に処分するという自由主義の源泉でもあるから尊重するのである。
 しかし一方で、人間は原罪によって倫理性は致命的に腐敗しているというのも西洋文明1500年の正統的な思想であるから、「人間の尊厳」とか東京都が勝手に「人権」と称している思想それ自体懐疑的である。人間性やヒューマニズムを全く信用しないというのが正しい思想と考える。米国のバイブルベルトの保守的クリスチャンが「世俗的ヒューマニズム」を悪としていることに私は共鳴するものである。
  一方、人格とは理性的本姓をもつ個体のことで、人間を理性的動物 とするギリシア思想に由来するとする見方もあるが、古典古代の異教思想はキリスト教的に克服されなければならないというのが西洋文明の正統的な脈絡である。人格権概念のもとは聖書思想に由来するとみてよいのである。
 私が、同性愛を道徳的に承認しない理由の第一は、西洋文明2500年の伝統である。
 レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」同性愛を明確に悪とする根拠である。
 聖書思想は人格権の根拠でもあるが、男色行為を憎むべきことと教えているので、同性愛者に人間尊厳を認めることは神学的に論理矛盾でありえないことである。
(続く)
引用・参考 
W.パネンベルク
1990 佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局
東野治之
1979「日記にみる藤原頼長の男色関係―王朝貴族のウィタセクスアリス」ヒストリア84号
松平光央
1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)
」60巻2・3号

«私鉄総連春闘ワッペン闘争の法的評価(下書きその3)

最近の記事

最近のトラックバック

2018年6月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

世界旅行・建築

シンクタンクその他

リポジトリ及び電子化した研究紀要等のリンク