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2005/08/21

女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第1回

川西正彦
(掲載 平成17年8月21日

  目次

 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   

Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
 

 1.はじめに
 

 2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ
  
 (1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する

 (2)「吾朝は皇胤一統なり」

 (3)日本的家制度との類比問題

 (4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)

   (中国王権と同じパターンの王朝名の由来)

   (日本は王朝名)

 (5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか

 (6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない
 (7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
                   
         

  (以上第一回掲載分)

(以下、今後逐次掲載予定-状況いかんで順序内容を変更します)

 3. 世論重視=孟子の革命説の採用は危険思想だ
 

 4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーである
 

 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定 

 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との違い
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7) 平安中期以後の違法婚

補説1 日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する

補説2 令制皇親の概念について
  (1)皇親の員数
  (2)皇親の待遇
  (3)親王宣下制度
  (4)世襲宮家
  (5)中世における非婚皇女

(ここまではほぼ原稿ができており推敲している段階です)

 Ⅱ たとえ生涯非婚内親王でも女帝に反対なのは、現今の状況では正当性、論理性に欠く
 Ⅲ 女性当主は社会秩序・家族規範を崩壊させる

第二部 有識者会議の見解の批判的検討

(仕事が遅くて申し訳ないが、第二部は未着手です)

第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由

  

 Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する

 

1.はじめに
 

 文部省『国体の本義』昭和12年によれば註1
 「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いゐる。而してそれは、国家の発展と共に、彌々鞏く、天壤と共に窮るところがない。‥‥我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊々杵尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂のに降臨せしめ給うたときに存する。(中略)‥‥皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、
 豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ、行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、當に天壌と窮りなかるべし。
 と仰せられてある。即ちこゝ儼然たる君臣の大義が昭示しせられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。(中略)‥‥皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すぢの天ッ日嗣である。皇位は、皇祖の神裔にましまし、皇祖皇宗の肇め給うた国を承け継ぎ、これを安国と平らけくしろしめすとさせ給ふ「すめろぎ」の御位であり、皇祖と御一体となってその大御心を今に顕し、国を栄えしめ民を慈しみ給ふ天皇の御地位である。臣民は現御神にまします天皇を仰ぐことに於て同時に皇祖皇宗を拝し、その御恵の下に我が国の臣民となるのである。かくの如く皇位は尊厳極まりなき高御座であり、永遠に揺るぎなき国の大本である。高御座に即き給ふ天皇が、万世一系の皇統より出でさせ給ふことは、永久に渝ることのない大義である。(後略)」

 この度の皇室典範見直し問題で、報道されている政府案(2005年1月4日読売新聞など)なるものは、男系継嗣を否定するもので、まさに「永遠にゆるぎなき国の大本」を否定し、「永久に渝ることのない大義」を棄て去るものであるから、到底容認されるはずがない。政府案がまかりとおるなら、木の葉が沈んで石が流れる思いだ。国制の根幹、伝統的秩序規範意識を混乱させるもので到底容認しがたい。

 そもそも筆者のようなペイペイのヒラというか小身の者が、分際もわきまえず、畏れ多くも皇位継承を云々することは憚られることである。あってはならないことである。お叱りを覚悟のうえで、しかしながら、國體の精華と謳われる男系による万世一系の皇統譜を途絶させ、寶祚の無窮、万邦無比の國體の尊厳を否定する典範の改正は絶対にあってはならないことであって、最悪の政策として厳しく非難されなければならない。大義を棄ててまでフェミニズムに迎合したいというのが耐え難く不愉快だ。
 我國體の精華を永遠に亙って護持することは、畏くも皇室を本宗と仰ぎ奉る臣民に課せられた責務であります。神聖不可侵の皇位國體、皇朝、日本朝最大の危機に際して、愛国者の一人として傍観しているわけにもいかないのであります。生意気ではあるが、やむにやまれず意見を述べることをどうかお許しください。
 
(なお、私自身は素人である。とくに近世・近代と近世以降の国学についてあまり研究したことがなく、論旨としてはどちらかというと古代・中世史に比重をおいている。自分一人であらゆる論点をカバーできないことは初めに断っておく)

 もちろん現時点で男子皇孫誕生の望みが完全に絶たれたわけではない。朱雀天皇御誕生は、生母醍醐后藤原穏子が39歳であった。村上天皇御誕生時は42歳である。しかし妃殿下が高齢になられるので、後宮制度の再構築も考慮することが望ましい。皇孫誕生の可能性を模索してこれに賭けるということがあってもよいのだ。
 例えば令制後宮職員令にある夫人三員、嬪四員を復活させる。もしくは女御・御休所・御匣殿といった令外の制でもよいが、公式令35~37平出条、太皇太后以下七員の身位のうち平安中期以後途絶えた、皇太夫人という身位を復活し、東宮生母が嫡妻の后妃でなく次妻格以下の夫人もしくは女御等であった場合、所生の親王が即位した時点で皇太夫人に身位を進めることができる制度化を検討してもよいのではないかと思う。むろんこの場合は、嫡妻たる妃殿下の御身位と嫡妻たる権限を毀損することが決してないよう細心の注意をもって制度化しなければならないのは当然のことである。
 しかし、そういう努力もいっさいなく、政府は女帝即位-女系継承という危険な方向へ突っ走ろうとしている。いずれにしても非公式的にせよ女帝容認という政府の方針がさかんに報道されてしまってますから、もう建前で皇孫誕生の可能性などとは言わないで、皇統は既に血統的袋小路に入ってしまったという認識を前提として自分の意見を述べます。
 
 当初ブログの第一回は別のテーマ(セクハラ処罰反対論など)を掲載するつもりで準備していたが、逃げたわけではないが、こちらの方も相当な危機感があり、私自身インターネットに掲載するのは初めて経験で、比較的無難なテーマで精神的負担の軽い、皇室典範問題にさしかえることとした。既に有識者会議が本格的議論に入っているのにかなり出遅れてしまい、論点が錯綜していささか冗長になりすぎた記述になってしまったが、時機を逸すると取り返しがつかないので手遅れになる前に掲載に踏み切ることとした。小出しにするつもりはなかったが、長文になるので何回かに分けて掲載する。

註1)文部省編纂『国体の本義』内閣印刷局 1937
貝塚茂樹監修『戦後道徳教育文献資料集第Ⅰ期 2国体の本義/臣民の道』日本図書セン
ター 2003所収

2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ

 読売新聞2005年1月4日付1面によると、皇室典範改正の政府案とは次のようなものだ。
 男女を問わず皇位継承資格を認めたうえで、現行皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているのを廃し、内親王や女王は民間人と結婚した場合でも、当主に予定されないプリンスコンソート(婚入配偶者)を迎えて内親王・女王の身位を保持できるものとし、女性当主の皇室、世襲宮家創立を可能にしようとするもので、女性当主-女系継承を是認する内容になっている。そのうえで継承者の順位は世数限定案、初生子限定案、直宮家永世皇族案のなかから選択していこうというもので、尋常な神経とはとても思えない。異姓簒奪、易姓革命による王朝交替を必然化させる恐ろしく急進的な内容になっている。事実上の易姓禅譲革命是認(註1)であり、万邦無比の國體の尊厳を全面的に否定するもので、最悪の政策と断じる。分別をわきまえた日本人なら到底容認できるはずがない(なお新聞記事はプリンスコンソートという語を用いていないが、見出しにある婿養子は家督相続者・当主予定者として迎えられるのが庶民の家制度の慣行であるから、女性当主案とは矛盾する表現といえるので、わざわざプリンスコンソートと訳している)。
 
 また毎日新聞2005年2月22日付1面によると小泉首相に近い政府筋によれば「皇太子さまの次は愛子さまに行くことになる」という政府の方針が報道されており、女性立太子から即位の実現は既定方針のように報道されている。
 
 私はたとえ皇室の伝統的ルールに則り、元正、孝謙、明正、後桜町天皇のように生涯非婚独身を前提としても女性立太子、唯一の前例は天平十年の阿倍内親王(孝謙)立太子だが特異な例でありこれを前例として踏襲することには絶対反対(その理由は後に詳述)。つまり女帝即位はどのようなケースでも絶対反対(その理由は後に詳述)だが、まず、正月から報道されている政府案とされるものについて反対意見を述べる。

 (1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する

  
 冒頭に述べた読売新聞1月4日の伝える政府案では女系継承-非皇親(非王姓)帝嗣(継嗣)の即位の段階が事実上の易姓禅譲革命となる。状況如何では漢魏-魏晋革命以来定型化された禅譲形式の採用により女帝の退位により易姓革命が早まることも想定しうる。則天武后の武周革命は子から母への帝位継承で実現したものだが、政府案では母子帝位継承が易姓禅譲革命を想定できる恐ろしく危険な政策なのである。
 
 女系継承-非皇親(非王姓)帝嗣の即位、このケースの女帝の御子を皇嗣でなく帝嗣もしくはより客観的に継嗣と記しておきたい。皇胤一統、皇統一種、天孫降臨以来連綿と承け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」(「皇位」をあらわす用語として『続日本紀』の宣命などに頻用される。天から受け継いだ、天皇として国を統治する事業の意 註2)。すなわち皇位は男系で神武天皇に繋がる、皇胤・王胤でなければならないから、非皇親、非王姓者を父とする御子は天皇位を継承する正統性、論理性が全くないので、易姓革命の禅譲形式により異姓への継承がありうる中国王権と同次元で帝位継承もしくはたんに非王姓継嗣として表現したいからである。
 もちろん、史料上、学術的にも天皇位を帝位と称している例も少なくないことは知っているが、一般的に中国王権も含めた広い概念でも帝位という語を用いられているのでそう称したい。
 非皇親・非王姓を具体的にどう定義すべきかは詳しく検討しなければならない重大な問題なので後に詳述したいと思いますが、ここでは仮に、皇別氏族で歴史家の精査によっても単系(男系)出自系譜で皇裔とみなされる御血筋を王姓者とみなし、そうではない民間人男子、もしくは外国人男子が、プリンスコンソートとなり、その御子が帝位継承者となった場合を一応、非皇親(非王姓)帝嗣(継嗣)と定義しておく。

 
 女帝の係累で非皇親・非王姓帝嗣(継嗣)となると皇胤、王胤でないから、天孫降臨以来連綿と承け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」すなわち万世一系の皇統譜、皇胤一統、皇統一種、神孫(裔)統治は遂に途絶し、異姓間の帝位継承となり易姓革命が実現し、史上初の王朝交替となる。新帝が男系で歴代天皇に繋がっていないので、非皇親(非王姓)者へ禅譲により新王朝がひらかれるということである。つまり皇室は廃止され、最後の女帝は帝母になるから相当の尊号を称することになろうが、プリンスコンソートは上皇に准じた尊号を称することになり、易姓革命の時点が死後であった場合は、「皇考」に類比されてしかるべき尊号を称することになり。プリンスコンソート氏を帝室とする新王朝が創業されるのである。これは全く新しい王朝であり、万世一系が杜絶すれば、もはや「天つ日嗣高御座の業」とはいえないのです。

(2)「吾朝は皇胤一統なり」

 
 厳然たる男系による皇統譜で自明な事柄ですが、歴代天皇の全てが父系で天皇に繋がっている。歴代天皇の出自系譜は傍系親も含む単系(男系)出自である。皇位国体を否定する女性当主-女系継承は絶対反対である。

 鎌倉末期、明天子の誉れ高く稀に見る学道殊勝の帝であった花園上皇の『誡太子書』(註3)は元弘の変の前年、元徳二年(1330年)二月、花園上皇の猶子で甥の皇太子量仁親王(光厳)に参らせたもので雄渾華麗、堂々たる大文章とされている。

「‥‥所以に秦政強しと雖も、漢にあわされ、隋煬盛なりと雖も、唐に滅ぼさるゝなり。而るに諂諛の愚人以為へらく、吾朝は皇胤一統し、彼の外国の徳を以て鼎を遷し、勢に依りて鹿を逐ふに同じからず。故に徳微なりと雖も、隣国窺覦の危無く、政乱ると雖も、異姓簒奪の恐無し、是れ其の宗廟社稷の助け余国に卓礫する者なり。(以下略)」

 大略して要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子に説いたものだが、鎌倉末期、皇統が幾重にも分裂し未曾有の危機であったが、花園上皇は易姓革命の恐れなし、つまり皇位国体は安泰なること自明との仰せであります。それはなぜか余裕があれば論述したいと思いますが、とにかく「吾朝は皇胤一統なり」であります。
 
 皇胤一統が破られれば、異姓簒奪-易姓革命となります。そういうことは絶対ありえないというのが全く日本における常識的観念であるということです。もっとも南北朝動乱は王権にとってかなり危機的な時代であって、南北朝合一直前に朝廷は武家政権に世俗権を事実上接収されるところまでいくが、それでも王権が簒奪されることはなかった。易姓革命の恐れなしという観念は間違いではなかったのである。
 ところが今日において、絶対ありえないと考えられていた、万世一系の皇位、皇胤一統を崩壊させる女系継承案、つまり易姓革命を肯定する恐ろしい反国体思想が急浮上している。つまり今、本朝の安否にかかわる史上最大の危機に直面していることになる。それだけに事態は極めて深刻だと認識せざるをえない。
 
 われわれは易姓革命は絶対ありえないという国制イデオロギーのもとに日本人としてのアイデンティティ-を形成してきた。それが否定されたときの日本人をやめなければならないという衝撃ははかりしれなく大きい。というよりも万世一系国制イデオロギーは我が国の特殊性と優越性を説明するものである。それが否定されるならば我が国の終焉にほかならないのであります。神聖不可侵の皇朝を否定し終焉させようとする、女性当主・女系宮家・女帝立太子・易姓禅譲革命容認の皇室典範改正など絶対にあってはならないことであります。
 
 清和天皇が貞観十一年(869年)の新羅賊船が博多湾に侵入し豊前国年貢船を襲撃した事件などを「隣国兵革の事」の予兆と捉え、筑前国宗像大神にささげた宣命(『日本三代実録』貞観十二年二月十五日条)には
「然我日本朝は、所謂神明之国なり。神明の助護り賜ば何の兵寇か可近来き。亦我皇太神は、掛も畏き大帯日姫(神功皇后)の彼新羅人降伏賜時に、相共に加力賜て、我朝を救賜ひ守賜なり。(中略)天皇朝廷を宝位无動、常磐堅磐に夜守昼守に、護幸へ矜奉給へと、恐み恐みも申し賜はくと申。」註4
 「我日本朝はいわゆる神明の国なり」神聖不可侵の日本朝が遂に、政府の狂気に等しい、反国体・易姓革命容認政策により崩壊する。そんなばかなことは絶対あってはならないのであります。だから死んでも反対だ。
 
 国体論が登場するのは江戸期の水戸学や国学であるかもしれないが、万世一系国家思想それ自体は古いものです。七世紀の推古女帝の時代からみられる、とりわけ九世紀のナショナリズム高揚期の王権賛歌にみられることは保立道久註5がしきりに強調されていることで「定型化された万世一系イデオロギーは、唐・新羅王朝の転覆を目前にしながら王朝の血統を維持した支配層の国際意識を反映した国制イデオロギー」とされ事柄の性質上「その中世まで続く形態の成立は八世紀後半以降」でとされている(註6)。
 但し、万世一系という語それ自体は古くない。河内祥輔註7によれば明治二年(1869)の岩倉具視の国事意見書に「万世一系の天子」とあり、明治五年の詔に「万世一系の帝祚を紹ぎ」とあり、明治九年の『日本国憲按』(元老院草案)には日本帝国は万世一系の皇統を以て之を治む」とあり、また大日本国憲法の『上諭』に「朕(略)万世一系の帝位を祚み」とあり、明治以後にも用いられたとするが、しかしながら、それは江戸時代にも常識的な観念であったとされる。国体の自覚にもとづく万世一系思想は江戸時代以後という見解のようである。
 又、河内祥輔は幕末から明治初期に日本史教科書でよく読まれたものが文政九年(1826)初版の岩垣松苗の『国史略』と青山延于の『皇朝史略』であったが、『国史略』の一節に「世を歴て天皇は正統一統なり。万世に亘って革まらず」を引いたうえで(文意は「皇位継承は正しく一筋に連続してきた。日本には中国のような易姓革命はない」)、この一節が「万世一系」の原型である可能性を示唆されている。
 私は素人なので『国史略』は読んでいないが京都で出版され北朝を歴代としており、ここでいう正統というのは正閏論ではなく、単純な意味で異姓簒奪のない単系出自系譜の正統一系という意味とすれば、そうすると万世一系とは異姓簒奪のない正統性で、要するに易姓革命のない王朝という思想である。
 渡辺治註8によると、明治憲法第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と規定し、天皇支配の正統性が国体論に沿って規定された。ここで規定されたのは、日本の国家は中国における王朝交替の型である「尭舜の禅譲、湯武の放伐」のいずれでもなく、またヨーロッパの国家とも異なり「一系の皇統と相依て終始し古今永遠に亙り一ありて二なく常ありて変なきこと」(伊藤博文『憲法義解』)であった。と説明されているように、まぎれもなく万世一系国制イデオロギーと反易姓革命そのものであるといってさしつかえないのであります。

 反易姓革命思想という観点では保立道久が言及している、奈良時代の光仁朝、宝暦十年(779年)五月の唐使と天皇の応接儀礼に関連する議論が重要だと思う(註9)。このとき当代一流の文人貴族でもある、中納言石上宅嗣の主張により「彼は大、此は小なり、すべからく藩国の儀を用うべし」とされ、天皇が御座を降りて信書を受け取る形式をとった。外交形式いかんによっては敵対国と受け取られる懸念がありますから、石上宅嗣の判断は穏やかで無難なものとは思うが、ある貴族は次のように批判した。

中華帝国は「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」という悪しき伝統を持つ国であって、師範とするに足りない。それに対して日本の国柄は「我皇朝、(中略)天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず、寧ぞ、彼の漢の逆乱の風を学ぶものか」いう議論が展開された。

 これは易姓禅譲革命により王朝交替を繰り返した中国に対し儒教的論理により日本の優位性を主張するもので、決定的な国制イデオロギーとして評価したいと思う。要するに異姓簒奪否定が万世一系国制イデオロギーであることは明白であります。
 
 同様の国家思想として保立道久(註10)が取り上げている『続日本後紀』嘉祥二年(849年)三月二六日条
 仁明天皇の四十の御賀で献上された興福寺の僧の長歌。

「日の本の 野馬臺の国を かみろぎの 少那彦名が 葦管を 殖ゑ生しつゝ 国固め 造りけむより  (中略) 御世御世に相承襲て 皇ごとに現人神と成り給いませば 四方の国 隣の皇は百嗣に継ぐというとも 何にてか等しくあらむ (中略) 帝の御世 万代に重ね飾りて 栄えさせたてまつらむ  (中略)  日の本の 倭の国は 言玉の 幸ふ国とぞ 古語に流れ来たれる 神語に流れ来たれる」

 隣の王は百嗣であるというのは天命をうけた王朝は百代にわたって続くという東アジアの思想に対し、日本天皇は現人神であり万代も続くという。これも外国に対する優越性を述べている。これぞまさしく反易姓革命万世一系国制イデオロギーであります。

 ということで古代からの万世一系思想も、近世近代の万世一系思想も反易姓革命イデオロギーであり同じことです。

 あたりまえなことですが、万世一系の皇位とは皇胤一統、皇嗣は必ず男系継承でなければならない。
 つまり歴代天皇の全てが父系で天皇に繋がっているということです。これは厳然たる男系による皇統譜で自明な事柄です。
 私は素人なので人類学的に厳密に定義することはできませんが、皇位継承の規則性は、徹底した父系規則であり、傍系親も含めた単系(父系)出自系譜、しかもその血縁関係は「皇胤一統」というように生理学的に貫徹し、双系親や姻族をイデオロギー的に擬制することは徹底的に排除され、皇位継承候補たりうるのは単系(父系)出自ということになるのではないかと思います。だたし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。宗法制度とちがって未婚女子も父系血縁親族の帰属性を有する。
 とはいえ人類学の出自理論というのはアフリカ部族社会の民族誌から分析されたもので、人類学者によって解釈が仕方がかなり異なる。我が国においても蒲生正男-中根千枝論争があったが、蒲生説、中根説いずれも批判的見解があり(註11)、私は素人なので「リネージ」のような人類学用語を用いることについては慎重にしたいが、同一祖先の分枝という脈絡で俗説的に使いたいと思う。また「系」とか「出自系譜」という語は用いたい。客観的に官文娜(註1)が語の説明をしているので引用すると、「系」とは上・下を統合して系統的な集合をなすことであり、派系、語系、水系などの使い方があり、祖先から一定の規則によって血筋を受け継ぎ子孫に伝達する人々の集合を「世系」という。「系譜」とは規則的、系統的に有形、無形のものを配列して記すことだが、「出自系譜」の「出自」とは本来論語に由来するが、日本の社会科学では人類学のdescentに相当するものとされ、中国では「継嗣」「世系」のことであるという。「出自系譜」は祖先より一定の規則によって血筋を受け継ぎ子孫に伝達する人々の集団成員権をさす。
 東洋法制史研究者の滋賀秀三(註13)によると、中国では共通祖先から分かれ出た男系血統の枝々のすべて総括して一つの宗という。つまり女系を排除した親族概念を宗という。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念としているが、皇祖皇宗と云う場合の皇宗は単系(父系)出自系譜であることは自明の事柄であると私は思う。
 内親王が臣下に降嫁することは継嗣令王娶親王条により明確に違法ですが平安時代後半期には勅許による違法婚の例が少なからずある。甚だ令意に反していますが、例えば、醍醐皇女康子内親王が藤原師輔に降嫁した。その御子が太政大臣藤原公季、公季を祖とする閑院流藤原氏は清華家として村上源氏とともに摂関家に次ぐ上流貴族となりますが、閑院流藤原氏は康子内親王の父醍醐天皇に繋がってもそれは女系だから、単系出自の皇統の概念には含まれず、あくまでも藤原氏です。要するに醍醐の外孫である藤原公季のようなケースは太政大臣になれても即位は絶対にない。そういう明確な規則性が単系(父系)出自系譜である。報道されている政府案は藤原公季のようなケースでも即位させて、皇胤一統を破ってしまえという無茶苦茶な政策なんですね。だから絶対許せない。

(3)日本的家制度との類比問題

 
 このように皇位継承の規則性は一貫して明白なのですが、皇位継承のルールと、一般的な姓氏や氏族の問題は明確に区別して議論すべきで混同することを避けたい。宇根俊範(註14)の指摘するように九世紀以後の「氏族」の性格は甚だ曖昧であり、奈良貴族と平安貴族はストレートに直結しない。「氏族」の特性のひとつとされる「同一の祖先から出た」ということが九世紀以後の新氏族にはあてはまらないからである。

 いうまでもなく我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(註15)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。同姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 関連して実務官人では11世紀には諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(註16)とする。
 
 ここで日本的家の女系継承や非血縁養子の歴史的由来と異姓養子厳禁父系規則の貫徹する宗法・儒教文化とくに韓国の門中などとの比較文化論をやると、それだけでかなり長文になってしまうので、ここでは深入りしないこととしますが、さしあたり明石一紀(註17)の論説を引用しておく。
 鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。明石が列挙されている事例は中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、非血縁継承や女系継承のある原型は院政期以前に遡ると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者(後述)となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏である。もとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石一紀(註18)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。それはそうだろうが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。家の非血縁継承の重要な先例だと思う。
 
 くだくだいわずに単純にいってしまえばこういうことです。宮地正人(註19)が近世朝廷と諸職の関係の重要性について論じている。例えば朝廷最高の医官は典薬頭の官職をもった半井家・今大路家であるが、両家を頂点として、医師たちは法印・法眼・法橋という位階を朝廷からもらうことによってピラミッド型に組織され、絵師も同様に御用絵師土佐・狩野両家を頂点とする構造があった。全国の暦道、天文道、陰陽道を職とする人間はすべて土御門家の支配下にあった。盲人の社会的存在は厳しい階層制があったが、座頭から検校にあがるのに七一九両の「官金」を用するところの久我家を本所とする官職補任システムがあった。また、全国ほとんどの鋳物師は禁裏蔵人所真継家の支配をうけていた。それだけではない。ありとあらゆる職人が受領・位階を朝廷からうけることによって社会的プレステ-ジを獲得していたのある。官職授与は武家や神職のみならず、職人などにも授与されていたのである。そういう朝廷の権能と朝廷によって社会的プレステ-ジが附与される意義というのは無視してよいほど小さなものではなかったと思う。
 
「禁裏番衆所之記」寛永十九年条には次の職人受領のことがのっている。

二・四 瓦師藤原紹真任摂津掾、同藤原真清任河内大掾

二・九 香具屋藤原芳隆任河内目

二・二六 筆結藤原方富任若狭目

三・六 大工藤原宗政任播磨大掾、同藤原友庸任越前大掾、檜大工壬生盛政任近江大掾、各叙正七位下

五・二八 油煙師藤原貞鎮任豊後掾、上卿三条大納言 奉行綏光朝臣(以下略)(註20
 
 上記の例では八名のうち七名が本姓藤原氏とされていることに着目したい。井戸田博史(註21)によると明治四年十月十二日一切公用文書に姓を除き苗字を用いるとの太政官布告により、苗字(公家の場合は近衛・九条等の称号)に一元化された。つまり藤原朝臣実美ではなく三条実実、越智宿祢博文ではなく伊藤博文と書くべきだと命じたのであるから、今日においては源平藤橘等の古代的姓氏は用いることはできないが、近世においては本姓(古代的姓氏)と苗字の二元システムだった。戦国時代から近世においても源平藤橘等の天皇の賜与認定による古代的姓氏は国家的礼的秩序に編成されており、当然現実的意味を有していた。
 大藤修(註22)によると官位を天皇から賜わるには朝臣として由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」に改姓し、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により「従五位下三河守源家康」宣下を得た。寛永一八年『寛永諸家系図伝』は大名・旗本の系譜集だが、武家の姓氏の秩序を徳川氏中心に再編成することを意図していた。近世は姓氏の二元システムになっていて、朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土屋藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる(註23)。要するに天皇との君臣関係は公式的には苗字(名字)ではなく古代的姓氏(本姓)であった。
 武家や神職のみならず、職人にも官職が授与されていたから、職人も本姓を認定されていたのである。職人受領は藤原氏が多いのであるが、推薦者が藤原氏だから藤氏になるのだろうか。系譜関係が不明である。これは近世の事例であるが、このように「氏族」の性格はかなり曖昧なところがあると認識でき、異分子を包含する広い概念にもなりうる点で融通無碍なところがあったのである
 しかし万世一系の皇位は、そうした氏族の概念とは性格が違うんです。醍醐天皇の外孫である藤原為光や公季のようなケースで皇位を継承することは絶対ありえない。外孫養子や女系継承、非血縁継承といういうことは絶対ないし、そのようなことがあったら易姓革命で日本国終焉だ。王権と日本的家制度では全く次元が違うんです。この点の分別はきちんとしてもらいたい。

 つまり家名・家業・家職・家産の非血縁継承、女系継承のありうる我々庶民の家制度とは性格が異なりますから、全く次元の異なる事柄として明確に区別して議論したい。しかし仮に日本的家制度を類比して議論するとしても女性当主、女系継承という結論を導き出すことは次の理由でできません。
 

 日本的家制度においては、女性当主というのはありえません。入婿というのはあくまでも家督相続者、つまり家長予定者となる婚入配偶者なのであって、たんなる子づくりと労働力のための入夫ではないんです。
 もし婿が、家長(予定者)として迎えられないということは、日本の家族慣行に反するもので男子の尊厳を著しく毀損するもので、醇風美俗・社会規範が崩壊する。もちろん皇室と日本的家制度は全く別の次元ですが、明治以降の皇室は婚姻家族モデルにもなっている経緯があるため、皇室の女性当主とプリンスコンソートを認めてしまうと、まさに庶民の家族規範まで崩壊する危機になりかねない。もちろん皇室においても、女帝は先帝皇后、先帝生母、生涯非婚内親王に限られ、皇親内婚の男帝優先原則(第5章(5)〔6〕参照、後日掲載予定)は明白なことで、たとえ皇后が皇女であっても、御配偶の傍系皇親が在世されているかぎり、女帝として即位することは絶対になく、夫が当主であることは、日本的家制度と同じことである。私は万世一系、国体護持、反易姓革命だけでなく、皇室の男帝優先原理という伝統にも反するという観点から女性当主-女系継承に反対ですが、それだけでなく、そもそも女性当主が一般庶民の婚姻家族規範を崩壊させる悪しき例となることを警戒しているゆえ、女帝-女系継承に反対します。
 

 婿は家長(予定者)の地位であると人類学的に明確に定義されている。厳密な理論構成で定評のある清水昭俊(註24)が明確に、実子であれ入婿(婿養子)であれ夫が家長で、妻が主婦であるということを理論化しているので明白であります(註。入婿はあくまでも家長(予定者)として婚入する。入婿が肩身が狭いというのは心理的側面を表現しているだけであって、あくまでも婿が家督相続者。もちろん後家が長男が成人するまでの間、家長代行者として家業を指揮することはありますが、それは中継に代わる在り方です。あくまでも夫が家長でなければならない。それが否定されることは男子の尊厳を否定することになるから絶対的に容認できない。そこまで男子が卑屈になることはない、死んでも容認できません。この一線は譲れない。
 
 
 標準的な村落の日本的家制度の家成員交替過程の規則性については、清水昭俊(註25)が出雲地方の調査のうえ、現地の慣行を詳細に分析して厳密な定義を行っており、庶民の一般的な慣行を示していると思うので引用する。
 清水昭俊は家成員を実子、養子、婚入者(婿・嫁)、家成員からの排除を、婚出、養出、分家設立と定義したうえ、家の時間的連続は次代の家長(夫)と主婦(妻)を確保することによって保証されるとする。
 但し、次の二点で清水は特徴的な見解を示す。第一に「婿養子」という用語は法律用語、民俗用語としてはともかく、学的用語としては不適切とする。「嫁養子」という言葉はないから、たんに「婿」でよいのだという。なぜならば、「婿養子」はたんなる配偶者、養子ではなく、「家督相続」と学的に認識されており、婿とは家長(予定者)、嫁とは主婦(予定者)の地位である、という説明が要領をえており理屈のうえでは清水の見解に従うが、日本的家制度の歴史的成立過程については別途述べたいと思いますが、婿養子は、外孫の養取による女系継承に類比することもできるから、婿養子という言葉を用いないというわけにはいかない。
 第二に婚姻に先立って家成員である者を「家連続者」という概念を提示し、家督相続予定者の概念と区別している点。つまり通常は長男が「家連続者」であり家督相続者でもあるが、男子のないとき又は死亡したときは長女が「家連続者」になって婚入配偶者(婿)を迎える、この場合婿が家督相続者、長女が主婦となる。
 最下世代の夫が結婚後死亡し実子がなく寡婦が結婚可能な年齢である場合、生家に帰されることもあるが、家内に亡夫の弟がいれば、寡婦となった嫁が亡夫の弟に再嫁するレヴィレート婚(逆縁婚)が選択されるが、弟がいない場合には「家連続者」となってあらたに家外から婚入配偶者(婿)を迎えることもある。婚入配偶者の嫁も家成員であるから「家連続者」たりうるのである。このケースは血筋は中切れになる(先に述べた畠山氏のケースがこの原型だと思う)。清水の理論は家成員の実子、養子、婚入配偶者は全て、婚入配偶者を迎えて家連続者たりうるということで明快であり、それがまさに日本的家制度の特徴といってもよい。優れた概念提示であると思う。
 さらに出雲地方の現地調査から家連続者には優先順の規範性があることを示している。アンシャンレジーム時代のフランスのパリ-オルレアン地域が父母権が強く選定相続の慣習であったことが知られているが(註26)、日本の家は違う。慣習上の規範性がある。
1-最下世代夫婦の長男、2-同夫婦の長男に次ぐ長男子、3-同夫婦の長女子(婿が家督相続者となる)、4-同夫婦内の家連続者の弟、5-同じく妹(婿が家督相続者となる)、6-家外に求めた養子 
 この出雲地方の事例はたぶん庶民的な家の標準的な在り方を示しているとみなしてよいだろう。つまり第一の規則は父系継承、第二の規則は双系的継承、第三の規則は事実上非血縁継承。もっとも家格の上の家ほど血筋の中切れを嫌う。中切れによって家格の下降をもたらす要因と認識されているという(註27)。

*補遺なお、清水説(註11)論文の批判として、村武精一 研究展望「一系と双系」『民族学研究』50巻2号1985は、〈氏〉の継承は第二次世界大戦から現在にいたるまで、ほぼ99%の男系的継承率だといわれ、日本の家を特徴づけているものは、家の継承が父系的に維持しようとするその一系性にあるとされ、双系出自概念を疑問とされている。しかし、日本的家制度の一系性的性質を強調することは、純粋な父系規則を貫徹する韓国の門中・両班姓族との区別がしにくくなるので、私は反対である。

 

 これは血統として生理学的に貫徹する単系出自系譜の王権継承のルールと全然違うものである。人類学的にも王権の継承と日本的家制度とは明確に異なるものとして定義できる。たんに家業・家職の小さな経営体にすぎない家継承のルールとは全く次元が異なるんです。それと同列に論じるな。仮に類比して論じるとしても、日本的家制度というのは実子であれ婿養子であれ非血縁養子であれ夫が家長であることは自明ですから、プリンスコンソートというのはありえないのであって伝統にも反するし、庶民の家族慣行にも反する異常な在り方だから到底容認できるわけがない。断乎として夫が当主でなければならないです。
 繰り返し述べます。私が、女性当主-女系継承に反対するのは、皇室の伝統に反する、たんに皇位国体の安泰ということだけではありません。もちろん、万世一系の皇位国体の安泰は至上命題であり、それだけの理由でも十分ですが、加えて、我々一般庶民の家族規範を崩壊させるという意味があります。家長予定者・家督相続者として迎えられるからこそ入婿なのであって、そうでなければ婿養子も難しくなります。日本的家制度も瓦解してしまいますよ。社会秩序・規範の危機であります。それゆえに女性当主に強硬に反対なのであります。

なお、2005年1月4日の読売新聞の見出しが「女性天皇前提に皇位継承3案」「政府検討婿養子容認」となってますが、婿養子が家督相続者であるは、既に述べたとおりであるからねこの見出しには論理性がないということになる

(4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)

 日本国号の由来や歴史的経過からみて、我が国も中国における国家をもって一姓の業とする概念を継受しているのこれから述べる理由から確実である。従って易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-私なりに「第4章万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーである」で説明するつもりだったが、前倒して大筋はここで述べておくこととする)となれば国号を改めなければならない。即ち日本国、日本朝の終焉であります。要するに事実上報道されている政府案というのは日本国号を棄て去るという恐るべき重大な決断を示したものである。
 もっとも我が国は宗法制度は継受していない。同姓不娶という鉄則が受容されていないその一点だけでも明白であり、徳川幕府は朱子学を官学としたが宗教政策は寺請制度であったから、一般的に我が国の広い社会階層において祖先祭祀は仏教の祖先供養であり、位牌のように部分的に儒教的要素が取り入れられているだけである。高麗は元を宗主国として、宗法制度が移入され、李氏朝鮮が朱子学を国策とし、儒者による仏教排撃運動(高麗末期)があり、儒教による祖先祭祀が普及した朝鮮とは文化が異なっている。(儒教規範では祭り祭られる、生理的血縁関係の規範が明確なので韓国での門中は徹底した父系規則になった)。そういう歴史的経過から日本の同族が宗法制度的に再編されることはなかったのである。もっとも明治民法制定頃まで士族は筋目尊重主義として異姓養子を忌避する考え方もあったわけだが、明治民法は起草者の梅謙次郎の主張により儒教規範に反する逆縁婚を是認するなど庶民の家族慣行を重視したものとなったため、日本的家制度においては女系継承や非血縁継承がありうるので、父系規則は徹底していない。しかしながら我が国の国家概念は中国の国家概念を継受しているので、一般庶民の親族構造とは無関係に、女系継承のありえない中国の王権と同じく、王権が父系規則で徹底しているのは当然のことなのである。父系出自規則が破られれば、いかなるケースでも易姓革命といえます。
 
 滋賀秀三(註28)によると「通志氏族序に「天子諸侯建国、故以国為氏、虞・夏・商・周・魯・衛・斉・宋之類是也」というように、上代の王朝や国の名は、実は王や諸侯の氏の名にほかならない。氏とは別に国号が生じたのは、劉邦が天下をとって国号を漢と称したことに始まる。」と述べている。

 しかし、漢代以後も国号は氏(姓)概念そのものである。尾形勇(註29)は斉から梁への易姓禅譲革命において王朝交替後の武帝の告天文(梁書巻二武帝記天監元年四月丙寅条)「斉氏、暦運既に既き、否終すれば亨なるを以て、天応を欽若して以て(蕭)衍に命ず。‥‥天命は常にはあらず。帝王は一族のみには非ず。唐は謝し虞は受け、漢は替り魏は升り、ここに晋・宋に及び、憲章は昔に在り」を引いて、この条文においては「易姓」は「斉氏」から「梁氏」の形式にて述べられているとされ、又、漢魏易姓禅譲革命について論じ、「魏」という王朝名ないしは国号もひとつの「姓」であったのであり、漢から魏への交替は「劉氏」から「曹氏」への「易姓」であるのと同時に、「漢氏」から「魏氏」への「易姓」でもあったのされるのである。
 また「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦数の序を以て漢の禅を承く。まさに天心たるべし」と見えることを論拠として、漢魏易姓禅譲革命の構造は、まず「皇帝位」が「劉氏」の献帝から「曹氏」の曹丕へと「冊」を媒介して禅位され、次に「天子位」が「天命」の移行を前提として「漢氏(漢家)」から「魏氏(魏家)」へと譲位するものだとされる。
漢魏革命を前例として、中国では宋代まで少なくとも14回の、禅譲革命の繰り返しになるが、国家概念は基本的にそういうものであったし、この国家概念は我が国にも継受されているのは当然のことだろう。

 また井上順理(註30)によると「中国では古来国家をもって一姓の業とし、王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義であったから、王姓の変更はそのまま王朝の交代を意味した。」これがもっとも簡潔でわかりやすい説明である。

 厳密にいうと姓と氏では概念は異なること、先秦時代に存在した晋・魏・宋・唐などと後代の王朝はどう違うかという細かい問題に深入りしないが、要するに、漢は劉氏(姓)、魏は曹氏、晋は司馬氏、隋は楊氏、唐は李氏、宋は趙氏、明は朱氏、清は愛新覚羅氏の王朝である。日本も女系継承-異姓簒奪なら日本国は終焉して、事実上の易姓禅譲革命で国号を改めざるをえなくなります。全く必然であります。政府案は日本国号を棄て去りたい、皇位国体を潰したいという、極左暴力集団より過激な最悪の反日政策というほかないのであります。今からでも遅くない、だから政府は女性当主、女系継承案を撤回するべきである。

 高麗から李氏朝鮮も易姓革命である。李朝の太祖李成桂は咸鏡南道の土豪の出身で女真と倭寇との戦いで頭角をあらわし、首都開城を占領、軍事力をもって王の廃立を繰り返したが、1392年恭順王を廃して自ら王位に即いた(註31)。であるから異姓間の王権継承なら国号を改めるのが筋目であります。
 
 もっとも天皇は姓をもたない。日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。しかし官文娜によると(註32)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系出自系譜の皇統譜にある集団成員、皇親という概念も「姓」とほぼ同義ともみなしてよいと思う。実際、「非王姓」とする語が日本書紀天武八年正月詔「非王姓」母の拝礼禁止に見えますから(註33)、天皇に姓はなくても、天皇の親族である皇親に姓概念をあてはめて理解してよいのである。
 なお、『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註34)。従って継嗣が男系出自にあたらない、非王姓であれば、それは易姓革命である。
 
 さらに、日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。その理由については、補説1「日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する」を掲載する予定だったが、前倒しして大筋についてはここで述べておきたい。
 吉田孝(註35)が「倭」を「日本」を改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝になってからだとしている(36)。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。この論点については補説をみていただくこととして、次の説は基本的に正しいと思う。

(中国王権と同じパターンの王朝名の由来)

 岩橋小弥太は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である(37)。

問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。
問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 
 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
 
 平安時代に朝廷の主催する日本書紀の購読が行われていたが、上記は『釈日本紀』に引く「延喜開第記」つまり延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である(38)。『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期の見解、博士は藤原春海。
 
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受し、ているのは確実で、要するに中国王権の国号の由来とするパターンと同じということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。わが国では古くから讖緯説による革命理論(辛酉革命、甲子革令、戊午革運)が知られていた(39)。神武東征の開始が甲寅年から始まるのは、甲寅始起説に基づく(40)。神武天皇即位は辛酉年である。中国思想の影響はいうまでもないことですね。
 
  周王朝との類比はわかりやすいと思います。大和に大国があり四方の小国に威令を及ぼしていたいたのが古墳時代、令制前の国家は、朝廷が畿内(ウチツクニ)を直轄統治し、地方の統治は国造を服属させる間接統治で、この構造は周王朝とも似ている。周は中原地区の西部・東部を掌握し威令を及ぼしていた。西周時代の場合、鎬京とラク邑の周囲が畿内に相当する。

 ちなみに漢王朝は、秦滅亡後、項羽が天下を処置して、討秦軍の諸将、六国の旧王族及び秦の降将など十八人を全国各地に封じて王としたが、このとき、劉邦が漢王として漢水上流域の漢中の地に封ぜられ、漢の社稷を立て、人民に爵位を与え漢王朝が成立した。漢王劉邦は項羽を滅ぼして天下を統一し皇帝位に即いたが、国号は天下統一後も王朝成立の地である漢王朝なのである。
 王莽が漢室劉氏から簒奪して新を建国したが、国号の新の由来は、もともと王莽が南陽新野の都郷千五百戸の新都侯であったからである。
 魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後も国号は魏である。
 唐の場合は、初代皇帝高祖李淵の祖父李虎が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。

 我が国も周や漢などの中国王権も王業成立の地(魏晋南北朝時代以降は前王朝から与えられた爵位が通例ともいわれるが、王号は漢代以降は皇帝によって与えられる爵位であるから理屈のうえでは同じこと)を国号とする全く同じパターンである。
 つまり天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられたから、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本という文字を当てたのが、日本国号の由来というのが岩崎小弥太説であるが、こうした国号の由来からみても中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承-易姓革命なら国号を
改めなければならない。
 

 我が国は中国の国家概念を継受しているというのは次のような意味でも明らかだと思う。いわゆる皇孫思想、神裔統治の思想ですが、天孫降臨には貴族の始祖も語られており、例えば天児屋命は中臣氏の祖であるが、天神の裔は多であるから、皇統と天神系氏族は明確に区別されなければならない。この論理性は重要である。なぜならば、例えば高句麗太王も天神の裔である。渤海王も天神の裔を僭称した。たんに天神の子孫というだけでは、大八嶋国統治の正統性はないのである。たとえば今度の女系継承案でプリンスコンソートが天神の裔ということにでっちあげられるかもしれないが、天神の裔というだけでは駄目です。天神の子孫でも父系で神武天皇に繋がる特定の血筋が皇統です。
 神野志隆光は(註41)、『古事記』と『日本書紀』の論理性の違いについて説明している。
 「『古事記』では降臨したニニギははじめから葦原中国を支配することを保障されていた。しかし、『日本書紀』の場合、天と地とは基本的に対等なのだから、天の神であるということでは、地上世界の支配者であることは保障されない」とされ「地上世界の支配を実現しタカヒムスヒの発意を果たしたのは降った神とその子孫の特にカムヤマトイワレビコ〔神日本磐余彦〕=神武天皇の経営による。大和に移って天下を治めることを果たそうといい、それを実現して天皇の世界はひらかれたのである。いわゆる東征のはじまりにあたって示された神武天皇のことばのなかに
 「余謂ふに、彼の地は、必ず以て、大業(あまつひつぎ)をひらきのべて、天下に光宅るを足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か」(即位前紀)。
 (わたしが思うに、その国はきっと、大業を弘め天下に君臨するに足る土地であろう。さだめし国の中心であろう)」そのとおり中心にある大和で天下を治めることは神武天皇の働き(経営)によってひらかれたのであり、それを決定的な意義とみなす。
 さらに、神野志隆光は(註42)。「天皇が血統としてつながっているという結果に基づいて、タカミムスヒは「皇祖」ニニギは「皇孫」とよばれるのである」。と述べる。
 結果論であってもそれが正論であるということはある。時間軸では矛盾しても事の本質において矛盾していない構設として理解すれば思います。そんなことで神話よりも地上世界の現実の統治から理屈を組み立てていく中国的論理でもわかりやすく建国が説明されているのが日本書記であると思う。
 そういうと、冒頭に述べた『国体の本義』「皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」という神話の確信に基づく論理と違うことを言ってると批判されるかもしれないが、これは皇祖の神勅、神権統治の意義を毀損する趣旨では全くない。例えば新約聖書でも、コリント前書(真正パウロ)とエペソ書等(第二パウロ書簡)では結婚の意義づけが異なるように、異なる解釈があってもさしつかえないのであって、皇位の正統性については、ただ一つの説明ということでなく、多角的に論じてよいのではないか。
 
 中国皇帝は、日本や高句麗の君主にみられる天神の血統を承け、天孫として天神と系譜で繋がっているとは主張しない。中国において天子とは、天からの命を受けた至徳者の称号とみなされる(註43)。天神の子孫という性格では全くない。皇帝は原義的には世界を統御する唯一最高君主であるが、中国においては受命思想にもとづく正当性であって、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が是認されている。 中国では世襲原理に相反する受命思想や革命思想によって王朝交替が正当化されやすいと思想的風土がある。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので(註44)、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。
 そういうわけで、中国では永く続いた王朝でも周が867年間、漢が426年間です(註45)。特に漢魏革命以降は短期間で王朝交替が多いです。我が国だけが皇朝2665年であります。
禅譲形式の嚆矢とされる劉氏の漢王朝を簒奪した王莽による革命だが、「皇天上帝は隆んにら大いなる佑けを顕わし、成命(天から受けた命)により統序せしめんがため、符契の図文と金匱の策書をもって神明の詔告とし、予に天下の兆民を委嘱なされた。赤帝漢氏高皇帝(劉邦)の霊は、天が命ぜし伝国金策の書を授けられた。予はなはだ慎み畏るるも、敢えて欽受せずにいられようか」(『漢書』王莽伝)と述べ、天命が劉氏から王氏に移ったとして自らの王朝、新を建てた(西暦9年-註46)。なお帝位を奪われた孺子劉嬰は「定安公」に封じられている。
 王莽の革命は本質的には太皇太后の権能を利用した漢王朝簒奪であったが(47)符契の図文と金匱の策書が作為的なものであろうと、このように中国の伝統では受命思想にもとづいて王朝創始者の徳をになう至徳者であることを明示することにより王権簒奪が正当化できる。
 中国では作為的であろうが陰険な権力抗争であろうが禅譲であれ放伐であれ、自力で王業を成就させることが事実として重要なのであって、天神の子孫とされていた高句麗が滅ぼされたように、たんに天神の裔ということでは王権の正統性にならないのである。
 従って、神武天皇が自力で大和において王業を成就せられたことが決定的なのであって、その王権が2665年永続しているという事実が重要なのであって、この点では日本書記が我が国の成立過程を中国的論理でも建国の意義が説明できるようになっている。

 (日本は王朝名)

  ところで、吉田孝によれば「日本」の名称は中国の「隋」「唐」、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」同じように本来は王朝名(ある王統の支配体制の名称)として成立した」(註48)「王朝(dynasty)の名、すなわちヤマトの天皇の王朝の名」(註49)とされている
 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)であるが、神野志隆光は吉田孝と日本国号の由来について対立した見解を述べているが、日本は国土の呼称ではなく、吉田孝の言うように王朝名だとしている。その論拠は、大宝公式令詔書式の意義である(50)。
 御宇日本天皇詔旨
 御宇天皇詔旨
 御大八州天皇詔旨
 「御宇」と「御大八州」が等価なのであって「日本」と「大八洲」と同じ次元で並ぶ国の呼び方ではなく、「日本」は「日本天皇」というかたちで意味をもつので、これは王朝名であるとされている。また『日本書紀』は中国の正史である『漢書』『後漢書』『晋書』にならったもので、王朝の名を冠しているとされている。なるほど、『日本三代実録』とは『日本(王朝)三代実録』で意味が通ります。この説は決定的なので全面的に従いたい。
 実際に日本朝という語が起請文で用いられるし、決定的な意味では「我日本朝はいわゆる神明の国なり」という清和天皇の貞観十二年の願文があります。明らかに日本は王朝名ですね。
 素人ながら私が言い換えればこういうことです。古記によれば対蕃国、隣国使用とされる御宇日本天皇詔旨(あめのしたしろしめすやまとのすめらみことのみことらま)は天下を統御し支配する日本天皇という意味です。(但し、対隣国使用は疑問であるが、この点に深入りしない)
 蕃国使(新羅)に「天下を統御し支配する日本天皇」と称し、咸くに聞きたまえと命令を下すのであって、天皇は天下を知ろしめす(統治の総括的表現)のであって、日本を統治するのではない。天皇が王朝名である日本を統治するというのは論理矛盾になる。仮に日本の原意が東夷の極なら、西方の藩国に対して天皇が東夷を知ろしめすということでは全く意味が通じない。
 国内向けのは大事を宣する辞としている御大八州天皇詔旨(おおやしまぐにしろしめすすめらみことのみことらま)は国土(もしくは地上世界)を統治する天皇という意味になります。
 国土呼称は大八洲なのであって日本ではない。大八洲の意味については、岩橋小弥太(51)によると神道家には葦原の中つ国と同じく、大地を悉く指す、八島は多数の意とされる見解があるという。この解釈では広く地上世界である。しかし本居宣長は古事記に依拠して八つの島であるという。『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会1889)においても「我カ帝国ノ版図古二大八島ト謂ヘルハ、淡路島 即今ノ淡路 秋津島 即本島 伊予ノ二名島 即四国 筑紫島 即九州 壱岐島津島 津島即対馬 隠岐島佐渡島ヲイヘルコト、古典ニ載セタリ」とある(註52)。しかしながら、どの島とどの島で八つの島なのか異説がある。しかし八つの島とはおおよそ国郡制の施行地域の枠内であるから、国土呼称とみなしてもよいと思う(なお七世紀末より八世紀にはいわゆる日本内地を「華夏」「華土」「中国」と称していた。西嶋定雄(53)は日本にとって華夷とは国郡制施行地域とその周辺外の蝦夷、隼人、西南諸島の範囲にとどまり、唐王朝はもちろん新羅は華夷の枠外であるとされている)。
 公式令詔書式によればあくまでも国土呼称は大八州であって、日本ではない。日本は王朝名(王統の支配体制)であり、天皇という君主号とむすびついて、日本天皇として意味をもつ。われわれが日本内地と慣用している国土指称は、日本王朝(朝廷)の直轄統治地域つまり五畿七道諸国、国郡制施行地域、律令施行域であった歴史的由来に依拠しているのであって、王朝交替、易姓革命により、日本王朝でなくなれば、もはや日本内地ではなくなるという性質のものである。
 西洋でいえば日本というのはカペー朝、プランタジネット朝と同じ王朝名、ダイナスティであって、フランスとかイングランドというような土地の呼称ではない。
従って、報道されている政府案の女系継承、易姓革命是認によって王朝交替となれば、当然のことながら日本国号は改めなければなりません。政府案の本質が恐るべき反日政策であるということを断言します。
 
 従って異姓簒奪・易姓革命による王朝交替なら日本国号は廃されなければなりません。全く当然であります。ここに神聖不可侵、神明の国なりとされた皇朝、日本朝は廃され、ああ遂に日本国は終焉し、新国家、新王朝、新国号、新君主号に改められます。全く当然です。要するに政府案と伝えられるものはプリンスコンソート氏による異姓簒奪、皇室も日本国も終焉させることを合法化させるものであります。
 われわれは遂に日本国籍を喪失するのである。大変遺憾なことであるが政府の愚策によってわれわれは日本人をやめなければならない。フェミニズムに迎合した代償はあまりにも大きかった。我々は政府の我が儘と無責任な民意にひきづられるかたちで祖国と歴史と伝統を喪失するということである。

 
(5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか


 
 もっとも、政府首脳部に王権を簒奪する野心や悪意があるとは思わない。あるいは外国統治者(どこの国とは言わない)の御子孫をプリンスコンソートに三顧の礼で迎えて、例えばかつて日本と高句麗が君臣関係を義としつつも兄弟国とされていた時代があったから、某国と兄弟国になるとか、そういうサプライズで政権浮揚という仰天プランがあれば凄いと思う。そういう天地がひっくり返るような驚きがあればむしろ感心してしまいますよ。しかしそこまで凄い策略があって女帝ブームという布石を打っているともとても思えないのである。
 表向き皇位継承資格者の枯渇の解消という名目とするが、女帝ブームに乗って政権浮揚、女性当主、女系宮家を実現してフェミニズムや女性世論に迎合して人気を取りたいということなのだろう。しかし主観的には国家を滅ぼす悪意はなくても、客観的にみて、政府案というものは、内親王に日本朝のラストエンペラーとして易姓禅譲革命の演出を強要するものである。これほど、皇族を貶めようとする政策はない。
 要するに内親王は後漢の献帝や、魏の後廃帝や元帝のような立場に追い込まれることを意味しますが、内親王が聡明な方なら耐え難く辛く憤懣やるかたない役回りである。政府の身勝手な我が儘や無責任な世論に引きづられたために、最悪の役回りをふられる内親王はたまったものじゃない。
 いったん易姓革命を是認してしまえば、中国の歴史において「魏武輔漢の故事」(54)という禅譲革命の手順がマニュアル化されてますから、革命は一気に進めることができます。報道されている政府案では最悪の事態、最悪の政策になると私は断言します。

(6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない

 女帝即位女系継承論者は既成事実をつくってしまえばいいんだ、やってしまえというかもしれないが、とんでもない。事実上の異姓簒奪ということでは、神璽鏡剣(神器)は無論のこと、天孫降臨以来連綿と受け継がれた天つ日嗣高御座の即位は許されるはずがない。異姓簒奪者が神器を承継するのは絶対論理矛盾になるから絶対にあってはなりません。それは皇祖皇宗を冒涜するものであって絶対許されるはずがない。儀式の由緒も無視して強行すれば無節操も甚だしい。原理原則をわきまえない国とみなされ、内外から嘲られることになるでしょう。
 原武史(註55)によれば「三種の神器」と呼ばれるのは南北朝時代から、明治時代には「祖宗の神器」と呼ばれた。明治皇室典範第十条に「天皇崩するときは皇嗣即ち践祚し祖宗の神器を承く」とあり、「祖宗の神器」であるから、男系血統にあたらない異姓簒奪者が承継できるはずがない。それは全く論理矛盾である
 神璽とは神権性を保障するしるしであり、たんなるレガリアの授受ではない。神野志隆光(註56)によると神祇令13践祚条は即位にあたって「凡そ践祚之日には、中臣、天神の寿詞を奏し、忌部、神璽の鏡剣を上れ」と規定するが忌部氏が重要な役割を果たす意義について次に引用する『古語拾遺』を根拠としている。神器とは皇祖神が皇孫に授けた天璽(あまつしるし)なのである。政府官僚は異姓簒奪者に承継してもかまわんとでも思っているのか。そんな無茶苦茶なことは許されるはずなどない。そんなことをやったら天地がひっくりかえったも同然だ。
時に天祖天照大神・高皇産霊尊、乃ち相語りて曰はく、「夫、葦原の瑞穂国は、吾が世子孫の王たるべき地なり。皇孫就でまして治めたまへ。宝祚の隆えまさむこと、天壌と与に窮り无かるべし」とのりたまふ。即ち、八咫鏡及び草薙剣二種の神宝を以て、皇孫に授け賜ひて、永に天璽〔所謂神璽の剣・鏡是なり〕と為たまふ。矛・玉は自らに従ふ。即ち、勅曰したまはく、「吾が児此の宝の鏡を視まさむこと、吾を視るごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、斎の鏡し為べし」とのりたまふ。仍りて、天児屋命・太玉命・天鈿女命を以て、配へ侍すはしめたまふ。

 そして神武天皇が天璽の鏡・剣を奉じて即位したのである。天皇の正統性の証なのである。天皇の正統性とは男系による万世一系の皇位であります。それを非皇親帝嗣に承継させるなどということは全く論理性がない。

(7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
 

 天皇位の象徴である「天つ日嗣高御座の業」とは延喜式祝詞式の祝詞などでのべられているように、皇祖神の仰せにより、皇御孫命が、天つ高御座に坐せて、天つ璽の鏡剣を授けて大八洲豊葦原瑞穂国の統治を委ね、天孫降臨が行われたという神話に由来する(57)。皇胤一系、皇統一種、厳然たる男系の万世一系の皇統譜が破られ、事実上、異姓の者が帝位を継承したとした場合は、高御座で即位する資格は全くないというべきである。ヒツギノミコでありえない異姓帝嗣、異姓簒奪者に高御座登壇を容認するなどできるはずがない。そんな無茶苦茶なことをやったら天地がひっくりかえったも同然だ。高御座で即位できないということは天皇位を継承できない。皇位の象徴が天つ日嗣高御座である。異姓簒奪なら、皇帝もしくは別の君主号でなければならず、中国の易姓禅譲革命の儀式で帝位継承がなされるべきだ。
 同様の理由で異姓簒奪では、食国天下の政、その象徴的儀礼である大嘗祭の資格もないので、全国統治の正当性は認められない。大嘗祭は食国天下の政、天皇の四方国(畿外の国郡)統治の正当性を確認する儀式と考える。畿外の国郡が悠紀・主基国に卜定され新穀を天皇に献上し「食国」(オスクニ)により服属奉仕を示す儀式であるが、大津透によれば大化前代には四方国の多くの国造が儀式に参加したと推測され、畿外の国造全体が天皇に服属することを象徴的に意味したのだという(註58)。

 柳沼千枝(註59)は伝存する近衛天皇の大嘗祭で大中臣清親により奏上された天神寿詞(次に一部引用)の意義について同時代の大嘗祭の本質を反映しているとされる。すなわち、前半部で天神が「ゆ庭の瑞穂」と「天つ水」を事依さし(委任)、後半部ではその「事依さし」に従って瑞穂・天つ水を黒酒・白酒として聞こしめすことにより、天皇の治世が栄え、天つ神・国つ神たちもそれを祝福する。天神による事依さしとはすなわち、国土支配権の委任であるから、「ゆ庭の瑞穂」と「天つ水」は、支配権を象徴する物実であり、それを飲食することにより天皇の支配権が確認されるという論理=食国儀礼の論理を読み取ることができると解説する。

天神寿詞(註60
 現つ御神と大八嶋国知ろし食す大倭根子天皇が大前に、天つ神の寿詞を称へ辞定め奉らくと申す。
高天の原に神留り坐す皇親神漏岐・神漏美の命を持ちて、八百万の神等を集へ賜ひて、皇孫の尊は高天の原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく知ろし食して、天つ日嗣の天つ高御座に御坐して、天つ御の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に瑞穂を平らけく安らけくゆ庭に知ろし食せと事依そと奉りて、天降り坐しし後に、中臣の遠つ祖天児屋根命、皇御孫の尊の御前に仕え奉りて、天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて、神漏岐・神漏美の命の前に受け給はり申して、皇御孫の尊の御膳つ水は、うつし国の水部、天つ水を立奉らむと申ししをり、事教へ給ひしに依りて、天忍雲根神天の浮雲に乗りて、天の二上に上り坐して、神漏岐・神漏美の命の前に申せば、天の玉櫛を事依さし奉りて、この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔戸の太詔刀言を以ちて告れ。(以下略)

 政府官僚は異姓継嗣でも既成事実をつくっちまえば関係ない、やってしまえとでも思っているのか。異姓簒奪者がこのように神聖な儀式を挙行してよいはずがないのである。皇祖の天壌無窮の神勅に反する、非王姓者の王権簒奪を容認するはずがなく、天つ神、国つ神も祝福するはずがない。祭祀の意義を無視して異姓簒奪の非皇親帝嗣が大嘗祭を挙行するとなれば、皇祖皇宗を冒涜するものであり、もしそれを強行するというならきわめて異常な事態と強く非難したいし、たとえ異姓簒奪新政府によって監獄にぶちこまれても、異姓簒奪の新帝に全国統治の正統性なしと断言する。
 もう断言してしまったから、簒奪革命政府から反逆罪で監獄にぶちこまれても仕方ないです。自分は皇朝、日本朝に忠誠を尽くしても、簒奪王権に忠誠義務はないと考えますから、大義のために命を惜しまず。殉教を躊躇しない。それが清く正しい生き方であるということは、文部省教学局『臣民の道』昭和16年においても「元正天皇の詔には『至にして私無きは國士の常風なり。忠を以て君に事ふるは臣子の恆道なり』と仰せられてある。北畠親房は神皇正統記「凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人民の道なり。」と教へてゐる。即ち臣民の道は、私を捨てて忠を致し、天壤無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それが公定イデオロギーであります。
  
 ということで、皇位国体護持、大義のために命を惜しまず、私は女帝即位-女系宮家、女性当主-易姓禅譲革命の全てに反対し最後まで頑張り筋を通したいと思いますが、結局、報道されている政府案では、「魏武輔漢の故事」、魏晋南北朝時代の易姓革命の禅譲形式を研究して、従来と違ったタイプの儀式体系を創出する必要が出てくる。それを現代風にアレンジして、華やかなイベントにすることなど全く容易なことです。無責任な人間からみれば面白いかもしれない。しかし失うものが大きすぎる。
 それでもいいんだ。国が滅びようとどうでもいいんだ。なにがなんでも政府はフェミニズムに迎合したいので不退転の決意で女系継承、女系宮家から易姓禅譲革命により皇室を廃止したい意向で、おまえのような反革命分子を監獄にぶちこんでやるぞというなら、それでもいいです。皇位国体護持という大義があり、こちらが正論なのだから、たとえ恐怖政治に移行してもひるむ理由など全くないのであります。
 私は筋が通らないことが大嫌いなんです。女性当主-女系継承というフェミニズム迎合の名目でなにげなく易姓禅譲革命に突入するというのは最悪です。政府がどうしてもそれをやりたいなら、演出や作為があってもよいから、明確な論理性をもって皇室の暦数は尽きたとして魏晋南北朝時代みたいに堂々と異姓簒奪を正当化したほうが明快でよりましなのだ。新王朝がひらかれることを内外に宣言し、二千数百年の日本朝は終焉させますと正々堂々宣言すべきです。国号もきちんと改める。異姓簒奪なのに国号も改めないなどというインチキは認められない。非論理的で筋の通らない無茶苦茶なやり方に絶対的に耐え難いのであります。

(註1)易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-)。中国では受命思想にもとづき、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が容易に正当化できる。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。易姓革命の禅譲形式は前漢末の王莽の王権簒奪を嚆矢として、魏晋革命で定型化された。禅譲といっても実態としては陰険な権力抗争であり、政権実力者による王権簒奪を正当化させるものであるが、禅譲形式による易姓革命はこの後、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁など、宋までで14例とされている。易姓禅譲革命の意義については次を参照した。
井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
大原良通『王権の確立と授受』汲古書院2003
尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店1979 280頁以下
谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001
村井章介「易姓革命の思想と天皇制度」『講座前近代の天皇 五 世界史のなかの天皇』 青木書店 1995
窪添慶文「補説2禅譲」松丸・池田・斯波ほか編 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996 19頁
(註2)溝口睦子『王権神話の二元構造』吉川弘文館2000 177頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』風間書房、1972 310頁 
(註4)村井章介「王土王民思想と九世紀の転換」『思想』847 1994
(註5)保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号、保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004所収
(註6)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004 164頁
(註7)河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社 日本史リブレット22 2003
(註8)渡辺治「国体」原武史・吉田裕編『岩波 天皇皇室辞典「』2005 」178頁
(註9)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁 なお『栗里先生雑著』巻八「石上宅嗣補伝」からの出所であるが筆者は読んでいない。保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号 『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』「「万世一系」の王権と氏的国制」校倉書房 2004 24頁。
(註10)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 156頁
保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註11)清水昭俊 研究展望「日本の家」『民族学研究』50巻1号 1985
(註12)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 104頁、 大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註13)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 19頁
(註14)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
(註15)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99
(註16)曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
(註17)明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
(註18)明石一紀 前掲書
(註19)宮地正人『天皇制の政治史的研究』校倉書房1981、24頁以下
(註20)宮地正人 前掲書 29頁
(註21)井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣出版1986、83頁以下
(註22)大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 169頁以下
(註23)大藤修 前掲書 172頁
(註24)清水昭俊「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 1973(この論文に婿は家長(予定者)と明確に定義されている)関連して「〈家〉と親族:家成員交替過程-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』37巻3号 1972
(註25)清水昭俊「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 1973
(註26)エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリー木下賢一訳「慣習法の体系」アナール論文選2『家の歴史社会学』
(註27)清水昭俊「〈家〉の内的構造と村落共同体」『民族学研究』35巻3号 1970 212頁 
(註28)滋賀秀三 『中国家族法原理』創文社1967 44頁 註(29) 
(註29)尾形勇「中国古代の『家』と国家」岩波書店 1979 302頁
(註30)井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
(註31)村井章介「易姓革命の思想と天皇制度」『講座前近代の天皇 五 世界史のなかの天皇』 青木書店 1995
(註32))官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁 、大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註33)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998、35頁
(註34)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下 
(註35)吉田孝『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁 
(註36)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁
(註37)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下
(註38)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、121頁以下。
(註39)川崎晃「倭王権と五世紀の東アジア-倭王武・百済王上表文と金石文」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001所収
(註40)岡田正之『近江奈良朝の漢文学』川崎晃前掲論文から孫引き。
(註41)神野志隆光『古事記と日本書紀』講談社現代新書1436 1999、133頁以下
(註42)神野志隆光 同じく132頁
(註43)小島毅「天子と皇帝」松原正毅編「『王権の位相』弘文堂1991年 大原良通の著書より孫引き。
(註44)石井仁 『曹操-魏の武帝』人物往来社 2000 217頁
(註45)尾形勇 前掲書303頁「禅代衆事」からの引用
(註46)丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001 160頁
(註47)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
(註48)吉田孝 日本の歴史2『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書332 1999、187頁
(註49)吉田孝 同じく90頁
(註50)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、25頁以下
(註51)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)54頁
(註52)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、195頁
(註53)西嶋定生「遣唐使と国書」『倭国の出現』東京大学出版会1999、234頁以下、初出『遣唐使研究と資料』東海大学出版会1987 
(註54)石井仁 『曹操-魏の武帝』人物往来社 2000 217頁
(註55)原武史・吉田裕編『岩波 天皇皇室辞典』 2005 13頁以下
(註56)神野志隆光『古事記と日本書紀』講談社現代新書1436 1999 168頁
(註57)大津透『古代の天皇制』岩波書店1999 52頁
(註58)大津透 前掲書 62頁
(註59)柳沼千絵「大嘗祭饗宴の構造と特質」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001
(註60)訓読文 中臣寿詞 青木紀元『祝詞全評釈 延喜式祝詞 中臣寿詞』右文書院2000 379頁

  つづく               

                         

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