公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

Reference Sites

« 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第2回 | トップページ | 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第4回 »

2005/08/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第3回

川西正彦
(掲載 平成17年8月27日)

  

 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する

(承前)

4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーでもある

 
 日本天皇の正統性という観点で決定的なのは、天孫降臨以来連綿と受け継がれてきた「天つ日嗣高御座の業」(天から受け継いだ国を統治する事業)、皇祖神裔統治、皇孫思想であります。つまり万世一系の皇位であります。 永久に渝ることのない国制イデオロギーですが、万世一系の皇位、それは反易姓革命イデオロギーということは既に述べました。一部第2節(2)と重複しますがご了解下さい。
 反易姓革命イデオロギーの最大の受益者は国民だと思う。我が国が伝統的に文化資本が蓄積し経済が繁栄し豊かで安定的な社会であったのは、王朝交替、異姓簒奪、革命のない安定した社会構造にある。現代において質の良い豊かなライフスタイルを国民が享受できるのは国制イデオロギー堅持してきたお陰である、だから受益者たる国民は、安易に国制イデオロギーを捨て去ってよいというものではないのであります。ところがけしからんことに、女帝ブームに乗りたいために政府は国制イデオロギーを葬り去ろうとしている。
 
 我皇朝と中国王権の相違点はそれ自体大きなテーマなのですが、逃げるわけではないが、文化相対主義的にどちらが優れた制度かということまで結論しません。しかし私は日本人であり、我が国の歴史と伝統を重んじるので少なくとも反易姓革命イデオロギーについてはこれを信奉します。
 
 儀制令1天子条において、天子(祭祀に称する所)。天皇(詔書に称する所)。皇帝(華夷に称する所)。と君主号は用途に応じて使い分けることになっていますが、「天子」は『令集解』の諸説では、古記によると祭書に将い記す字で「辞はスメミマノミコトと称するのみなり」とのべ、令釈も俗語には「皇御孫命」というあり、大嘗祭や祈年祭などの祝詞に「皇御孫の命」とあるのに対応している。祭祀では実際にはスメミマノミコトと宣られた(註1)。古くからの律令国家祭祀において天子は皇御孫命(スメミマノミコト)と称され、素人目にみてもこれは万世一系血統原理による皇孫思想そのものを意味しているようにも思える。
 
 中国皇帝は、日本や高句麗の君主にみられる天神の血統を承け、天孫として天神と系譜で繋がっているとは主張しないのである。中国において天子とは、天からの命を受けた至徳者の称号(註2)とみなされる。天神の子孫という性格では全くない。皇帝は原義的には世界を統御する唯一最高君主であるが、中国においては受命思想にもとづく正当性であって、堯・舜の故事に示される、至徳者から異姓の至徳者への禅譲形式を理想とする思想があり、易姓革命が是認されている。 中国では世襲原理に相反する受命思想や革命思想によって王朝交替が正当化されやすい思想的風土がある。というより「魏武輔漢の故事」で禅譲革命の手順がマニュアル化されているので、真の実力者が革命を起こそうと思えば、マニュアルに従って手順を踏んでいきさえすれば帝位を継承できるシステムが千八百年前からできている。少なくともこの点についてはわが国の国制と本質的に異なるのである(もちろん類似点もあることは補説で述べる)。
 
 前漢末、王莽が帝位に登ったとき「皇天上帝は隆んにら大いなる佑けを顕わし、成命(天から受けた命)により統序せしめんがため、符契の図文と金匱の策書をもって神明の詔告とし、予に天下の兆民を委嘱なされた。赤帝漢氏高皇帝(劉邦)の霊は、天が命ぜし伝国金策の書を授けられた。予はなはだ慎み畏るるも、敢えて欽受せずにいられようか」(『漢書』王莽伝)と述べ、天命が劉氏から王氏に移ったとして自らの王朝、新を建てた(西暦9年-註3)。なお帝位を奪われた孺子劉嬰は「定安公」に封じられている。
 王莽の革命は本質的には太皇太后の権能を利用した漢王朝簒奪であったが(註4)符契の図文と金匱の策書が作為的なものであろうと、このように中国の伝統では受命思想にもとづいて王朝創始者の徳をになう至徳者であることを明示することにより王権簒奪が正当化できる。
 易姓革命の禅譲形式は王莽を嚆矢として、次いで220年に魏の曹丕が後漢の献帝劉協から位を譲られて例を開いた。曹操は、献帝を奉戴するが皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で革命がなった。
 石井仁が曹操の王権簒奪の巧妙な点を述べている(註5)。表向き献帝の漢室擁護政策とみせかけつつ、213年「天下を定むるの功」にむくうるとして、魏公に封ずる詔により事実上冀州の河東・河内・魏郡など十郡が割譲されるとともに、九爵を賜り、魏公国が成立した。曹操は慎重にことを運んだ。列侯と王に割り込むかたちでの「公」という選択である。皇帝の子や兄弟は王に封じられるが、いきなり「王」ではなく、まず「公」であった。漢の爵制に公位は存在しないが、前漢末に周の末裔を「鄭公(のち衛公)」殷の末裔を「宋公」に封じ後漢においても賓客として優待された。王莽も「安漢公」の称号を承けて、宰衡から仮皇帝と身位を進めた。魏公は諸王侯の上とされ、216年魏王に身位を進め、皇帝に准じた礼遇となる。ここまでくると易姓禅譲革命は時間の問題で曹操の子、曹丕が献帝から帝位を譲られた。
 220年易姓禅譲革命の最終段階の冊は「咨爾魏王よ。昔者帝堯は位を虞舜に禅り、舜もまた以て禹に命ず。天命は常にあらず、惟れ有徳に帰す。‥‥皇霊は瑞を降し、人神は徴を告げ、誕いに惟れ亮采たり。師、朕に命を錫ひ、みな曰ぐ、爾度りて虞舜に克協し、用て我が唐典に率ひ、爾の位を敬遜すべしと。於戯、天の暦数は爾の躬に在り、允に其の中を執らば、天禄は永に終らん。君、それ大礼を祇順し、万国を饗茲し、以て天命を粛承せよ」『魏志』巻二文帝紀(註6)であった。
 次いで265年、晋の司馬炎が魏の元帝から位を譲られた。司馬氏は魏の中央軍を掌握して実権者となり、司馬昭が晋公から晋王に封じられ、魏晋革命の最終段階は魏の元帝に驃騎将軍、車騎将軍より幾度となくを暗に恫喝するような禅譲を迫る上奏「暦数(魏王朝の寿命)はすでに尽きており、天命でございます」が奉られた。宮廷には王権簒奪に表立って反対する者は一人もなく、元帝は観念し、晋王司馬炎に皇帝の璽綬と策命を奉じさせた。策命は「咨、爾晋王よ」に始まり「肆、予一人、祗みて天序を承け、以て敬みて爾に位を授く。歴数は実に爾の躬に在り、允に其の中を執らば、天禄永く終らん。於戯、王其れ欽みて天命に順え。訓典に率循し、四国(四方)を綏んずるに底り、用て天の休いを保ち、我が二皇の弘烈を替らしむること無かれ」で終わった(註7)。司馬炎は型どおり礼に従って辞退したが茶番劇にほかならない。晋王国の丞相、御史大夫の固請によりようやく受諾した。
 この魏晋革命で易姓革命の禅譲形式が定型化された。禅譲といっても実態としては陰険な権力抗争であり、政権実力者による王権簒奪を正当化させるものとなっている。禅譲形式による易姓革命はこの後、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁など、宋までで14例とされている(註8)。
 
 ということで、中国では永く続いた王朝でも周が867年間、漢が426年間です。しかし我が国は2665年王朝交替がない。世界史的に類例のない永続的王朝である。
 2ちゃんねる日本史板の書き込みからの孫引きになるが--橋本義彦氏によると「『古事記』『日本書紀』の伝える古代天皇の系譜に疑いをさしはさみ様々な古代王朝説が唱えられた。いわく葛城王朝、いわく近江王朝、いわく難波王朝など、種々の憶測が提示されているが、なかには「殆どナンセンス」に近いと評されるものがありまだ確説の域に達したものはない」「一時世上に喧伝された「騎馬民族説」(征服王朝説)も現在の考古学界では否定的見解が大勢を占めている」と述べている(『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館 平成八年 3~4頁)。要するに王朝交替説は退けられているし、なかったのである。‥‥‥仮に肯定したくない説だが、もっともシビアに日本書紀に批判的な学説でも継体・欽明朝王権画期説だから、千五百年である。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」というように天命永固永続的な王権であることにかわりない。我が国には古くから孟子の思想は受容されているし、中国の王権の在り方を意識していた。反易姓革命イデオロギーの国家思想により、万世一系の皇位、国体の尊厳が堅持されている。--筆者も同意見である。
  
 保立道久が万世一系思想について論じられているが、「定型化された万世一系イデオロギーは、唐・新羅王朝の転覆を目前にしながら王朝の血統を維持した支配層の国際意識を反映した国制イデオロギー」とされ「その中世まで続く形態の成立は八世紀後半以降」であるされている(註10)とりわけ重要な見解とみなしているのが、奈良時代の光仁朝、宝暦十年(779年)五月の唐使と天皇の応接儀礼でに関連するものである。このとき当代一流の文人、中納言石上宅嗣の主張により「彼は大、此は小なり、すべからく藩国の儀を用うべし」とされ、天皇が御座を降りて信書を受け取る形式をとった。石上宅嗣の判断は無難で穏当だとは思うが、ある貴族は次のように批判した。中華帝国は「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」という悪しき伝統を持つ国であって、師範とするに足りない。それに対して日本の国柄は「我皇朝、(中略)天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず、寧ぞ、彼の漢の逆乱の風を学ぶものか」いう議論が展開された(註11)。
 これは易姓禅譲革命により王朝交替を繰り返した中国に対する日本の優位性を主張するもので、決定的な国制イデオロギーとして評価したいと思う。要するに中国のような異姓簒奪否定が万世一系国制イデオロギーであることは明白であります。
 
 同様の国家思想として保立道久(註12)が取り上げている『続日本後紀』嘉祥二年(849年)三月二六日条
 仁明天皇の四十の御賀で献上された興福寺の僧の長歌。

「日の本の 野馬臺の国を かみろぎの 少那彦名が 葦管を 殖ゑ生しつゝ 国固め 造りけむより(中略)御世御世に相承襲て 皇ごとに現人神と成り給いませば 四方の国 隣の皇は百嗣に継ぐというとも、何にてか等しくあらむ(中略)帝の御世 万代に重ね飾りて、栄えさせたてまつらむ」

隣の王は百嗣であるというのは天命をうけた王朝は百代にわたって続くという東アジアの思想に対し、日本天皇は現人神であり万代も続くという。これぞまさしく万世一系国制イデオロギーであります。

関連して次の蘇我馬子の王権賛歌と『古今集』の国歌の原型は万世一系思想だと保立道久は言っている(註13)。
『日本書紀』推古紀二〇年正月条に
あらわれる大臣蘇我馬子が奉った寿歌
「やすみしし 我が大君の隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば万代に かくしもがも 千代にもかくしもがも 畏みて 仕え奉らむ」

『古今集』賀部冒頭読み人知らず (国歌の原型)
「わが君は千世に八千世にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」

 
『夫木和歌集』の「雑部十三・郡・里」にある君が代和歌群。保立道久は君が代イデオロギーを濃厚に反映し、読み込まれている地名はしばしば大嘗会屏風に登場するもので、。水田労働の総体が大嘗会と王権のイデオロギーを賛嘆するために遂行されるというイデオロギーであると解説している。(註14)

「君が代はやすのこほりの御つき物 ゆにわのいなほつきそはしむる」
「万代のためしにいねをつきしより ひかみのこほり民そさかえん」
「君が代はにまの里人つくる田の いねのほ末の数にまかせん」
「名にたてるよし田の里のいねなれば つくともつきし千代の秋まで」
「としことにますたの里のいねなれば つくともつきし千代の秋まで」

 関連して 北畠親房の『紹運篇』は「大日本は神国なり。」「唯此の国のみ昔より譲りのまゝに天日嗣をうけ給つることたうとき事なるべし。さればもろこしの大宋の太宗皇帝はうらやみ給けるとぞ書伝に見えたり、日本を神国と云伝えたることはこれにてはかりしるべし。」とのべ、『神皇正統記』は「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり、異朝にし其たぐひなし。此故に神国と云なり。」「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにおきてもおのずと傍より伝給しから猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。是しかしながら神明の御誓あらたにして餘国にことなるべきいはれなり。」(註15)「天地も昔に代わらず、日月も光を改めず、仰て尊び奉るべきは我国の天日嗣天皇になんなします。」(註16)瓊々杵尊の条に「此の如く分明なるをもて、天下に照臨し給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙をもて、天下をしろしめせ。神剣をひきさげて順はざるものをたいらげ給へ。」といふ勅をあげて「此の国の神霊として、皇統の一種たゞしくましますことまことにこれらの勅にみえたり」(註17)「我朝は神国なる故に、殊更上を上とし、正を正として‥‥」(註18)とのべているが、「一種姓」「皇統の一種」であるから万世一系-反易姓革命思想です。

関連して 「準国歌」の原型、大伴家持の陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首
『万葉集』巻第十八 4094
「葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ (中略)大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕えし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ(後略)」

 もし易姓革命なら、国歌・「準国歌」の思想を全面的に否定することになる。まとまりのない作文になりましたが、要するに万世一系、反易姓革命が我が国の国制イデオロギーの根幹であり、これを否定してはならないということを申し上げました

(註1)大津透『古代の天皇制』岩波書店1999 8頁
(註2)小島毅「天子と皇帝」松原正毅編「『王権の位相』弘文堂1991年、大原良通『王権の確立と授受』汲古書院 2003 20頁より孫引き。 
(註3)丸山松幸「革命」溝口・丸山・池田編『中国思想文化事典』東京大学出版会 2001 160頁
(註4)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
(註5)石井仁『曹操 魏の武帝』新人物往来社 2000 212頁以下
(註6)尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店1979 300頁
(註7)福原啓郎『西晉の武帝司馬炎』白帝社1995 138頁
(註8)窪添慶文「補説2禅譲」松丸・池田・斯波ほか編 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996 19頁
(註9)2ちゃんねる 日本史板 男系断絶!女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part30  2005-6-23 609の匿名者から引用
(註10)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004 164頁
(註11)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁 なお『栗里先生雑著』巻八「石上宅嗣補伝」からの出所であるが筆者は読んでいない。保立道久「現代歴史学と「国民文化」-社会史・「平安文化」・東アジア」『歴史学研究』743号 『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』「「万世一系」の王権と氏的国制」校倉書房 2004 24頁
(註12)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 156頁
保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註13)保立道久「「国歌・君が代」と九世紀史 」『歴史地理教育』2004年9月号
(註14)保立道久『歴史学を見つめ直す-封建制概念の放棄』校倉書房2004、257頁
(註15)久保田収『北畠父子と足利兄弟』皇學館大学出版部1987 181
(註16)久保田収 前掲書 78頁
(註17)久保田収 前掲書 179~180頁
(註18)久保田収 前掲書 144頁
(註19)新編古典文学全集9『萬葉集』④〈全四冊〉小学館1996、256頁

つづく

« 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第2回 | トップページ | 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第4回 »

皇室典範問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第3回:

« 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第2回 | トップページ | 女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第4回 »

最近のトラックバック

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30