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2005年9月の10件の記事

2005/09/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第13回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月27日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            
(以上第12回掲載)
 (6)中世~近世の非婚皇女
             (今回掲載)
  中世世襲宮家成立の意義
    常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
    木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
    伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

 
  (6)中世~近世の非婚皇女

原稿を間違えました9月28日に差し替えてます

  一方、皇女であるが、院政期から鎌倉時代にかけて、生涯非婚内親王の立后、准三宮宣下、女院宣下の例が多く、経済的にも厚遇された時代である。非婚内親王が厚遇されるひとつの画期としては白河上皇の第一皇女で堀河皇姉(母は中宮藤原賢子)前斎王ヤス子内親王が准三宮・年官年爵、千戸封から堀河准母として立后、二年後に后位を退いて女院(郁芳門院)になったことである(堀河妻后篤子内親王立后のため后位を退く必要があったため)。
   これは院政期から鎌倉時代末まで11例ある非婚内親王の立后の初例である(ヤス子内親王のみ中宮、あとの10例は皇后宮)。 成立期の女院は一条生母藤原詮子(東三条院)、後一条・後朱雀生母藤原彰子(上東門院)、後三条生母禎子内親王(陽明門院)というように天皇生母に限られ、太上天皇に准じ后位に勝るとも劣らない顕位であったが、院政期に性格が変質していく。
  郁芳門院にいたって落飾しないで女院となり(なお三后の落飾、出家と后位の停廃、院号宣下とは基本的には無関係)、非婚内親王から后位さらに女院というルートがひらかれた。
  「皇后 謂、天子之嫡妻也」という令意に反するが、非婚皇后が歴史上存在した。そういう制度もありうるということです。橋本義彦は「白河上皇はヤス子内親王を鍾愛のあまり、強いて必要のない准母を立てて皇后とした」(註21)とされ、醍醐養母藤原温子を皇太夫人となし中宮職が附置された前例は弁解がましいとされるが、それなりの論拠といえるのではないか。郁芳門院は「進退美麗風容甚ださかん、性本寛仁、心に接し施しを好む」(中右記)」白河上皇の特殊な寵愛が指摘されている。実に白河上皇の「第一最愛の女」(中右記)であった(註22)。立后時堀河天皇11歳、ヤス子内親王16歳と考えられるが、准母というには不自然とはいえない。ヤス子内親王は六条邸に白河上皇と同殿し、朝覲行幸では堀河天皇より父母として拝されている。
 これについても、先例を検討するならば仁明天皇が淳和上皇・皇太后正子内親王御所の淳和院への朝覲行幸の例があり、正子内親王は仁明の実母妹(二卵性異性双生児であった可能性が高い)であるから、皇姉妹が母儀たる立場になっても不可解ではないのである。もっともこれは淳和と正子が太上天皇、皇太后の尊号を固辞し続けたため承和元年に停止されているが、白河天皇の中宮藤原賢子(実は源顕房女)は早く崩ぜられ、女御藤原道子は善子内親王出産の後、参内せず、賢子の妹源師子は藤原忠実の正妻(白河上皇の古女戴き)となったので(註23)、次妻格の女性もいなかったから、賢子を母とする ヤス子内親王が堀河の母儀となっても不可解なものではないと考える。
   次の非婚内親王の立后例である白河皇女令子内親王(前斎院、堀河の同母妹、鳥羽の伯母)は准母としての性格が明確である。鳥羽天皇は五歳の幼弱であり、生母藤原苡子は産後まもなく薨じ、行幸以下の諸儀式には天皇を扶持する准母が必要であったため、天皇の即位の宣命に立后の趣旨を載せて、令子内親王を皇后となしたのである。
 野村育代(註24)は、非婚内親王立后の意義を上皇の院政構想による政治的意義のあるものと評価した。なるほど陽明門院(後三条生母禎子内親王)崩御により三宮輔仁親王を担ごうとする勢力は衰退していたとはいえ、幼帝鳥羽の即位は貴族の全面的合意を得たものではない。先帝堀河の妹である令子が皇后に立つことにより直系継承正当化の意義もあったと考えられる。
  長承三年、鳥羽上皇の宮に入侍していた藤原泰子が皇后に立ち、令子内親王は皇后より皇太后を飛び越して太皇太后に上った。これは系譜上、崇徳天皇の祖母(実は異母姉だろうが)にあたるためである。(非婚内親王の皇后は太皇太后にのぼった令子内親王をのぞきすべて女院になっている)。
  令子内親王は太皇太后にまでのぼせられ、政争に巻きこまれることもなく、67年の生涯を平穏裡に終え、最吉の佳例となった。 以後、後宇多皇女後醍醐皇姉奨子内親王にいたるまで、非婚内親王の立后が慣例となる(註25)。

第三の非婚内親王の立后は、保元三年の鳥羽皇女統子内親王である。この立后は、東宮守仁親王(二条)妃よし内親王の准母とも後白河の准母とも伝えられる、後白河より一歳年長の同母姉であり、 准母は名目的といえる(註26)。 わずか一年後に后位を退き女院(上西門院)となった。鳥羽院政が荘園整理を放棄し、院庁下文で積極的に荘園を認可し、女院御願寺などには荘園が寄進されてふくれあがった。待賢門院(藤原璋子-鳥羽后、崇徳・後白河生母)領は、法金剛院領を中心に、娘の統子内親王に伝領され、上西門院領は後白河院領となった。もし統子内親王が東宮妃の准母だとするなら、美福門院は待賢門院領も分捕って二条とよし子の子孫に伝えようとしたのだろうか。
  統子内親王といえば、政治史的に問題となるのは鳥羽法皇崩後の崇徳上皇の行動である。崇徳上皇は保元元年七月二日に法皇御所(鳥羽東殿安楽寿院)に駆けつけながら対面を拒絶され鳥羽田中殿に引き籠もっていたが、九日の夜半過ぎに隠密行動で洛東白河の前斎院統子内親王の御所に行幸された。『兵範記』によれば「上下奇をなす。親疎知らずと云々」と人々の驚きを伝えている。その後、上皇は白河北殿に入ったが、河内祥輔(註27)は、保元の乱の通説を批判したうえ、上皇が権威を復活させるために白河殿を占拠したのであって挙兵ではないとする。 上皇は後白河天皇が攻撃を仕掛るはずがないと過信していたとみなしている。私はこの見解に従いたい。
  しかしこの行動は後白河が容認できるものではなかった。内親王は不在だったようだが、崇徳上皇が統子内親王の御所に行幸されたこともかなり問題である。統子内親王と後白河(雅仁親王)姉弟は待賢門院の手許で一緒に育てられ絆が強かった。崇徳にとっても統子内親王は同母妹ではあるけれども。
  そんなことで、後白河上皇は上西門院統子内親王と親しく、上西門院女房の小弁局(平滋子)が殊寵を蒙り、応保元年に上皇皇子が誕生した。高倉天皇である。
   一方、鳥羽院領や美福門院(近衛生母二条養母藤原得子)領は鳥羽皇女近衛皇姉、母は美福門院である八条院(暲子内親王)に伝領された。暲子内親王は10歳で准三宮の宣下を受け、25歳で二条准母の名目で女院となった。非婚内親王が后位を経ずに女院となった初例で、このケースは24例ある。この時代から女院制度の最盛期になる。しかしなぜか八条院暲子内親王は、大富豪中の大富豪であるはずなのに、蔵は空っぽで、埃っぽい御所でもかまわずのんびりと暮らしていたのだという。

 八条院は二条天皇の准母としての院号宣下であるから本来遺領は二条天皇の子孫に伝えられるべきものだろうが、二条の皇統は途絶する一方、八条院は以仁王やその王女を猶子としていた。龍野加代子(註28)によると八条院はまず以仁王女が相続し、王女没後に後鳥羽皇女昇子内親王と九条良輔が相続するという奏請をしていたが、朝廷の公認を得られなった。そもそも以仁王女は謀反人の娘で内親王ではないから家政機関を組織することができず、内親王宣下されない限り以仁王女に相続する資格はなかった。八条院崩後その遺領の大方は猶子になっていた後鳥羽皇女春華門院昇子内親王に伝領されたが、春華門院もほぼ同時期に崩御になられたので、後鳥羽上皇の管領下におかれた。結局のところ女院の一存では膨大な所領群を処分できなかったのである。
 承久の乱で没収された旧八条院領は、幕府によって事実上擁立された後高倉院の皇女邦子内親王に返還され、邦子内親王は後堀河准母として皇后となりさらに安嘉門院となった。後堀河皇女の利子内親王は四条准母として立后され式乾門院、さらに後深草天皇の准母として後嵯峨皇姉の曦子内親王(のち仙華門院)も皇后に立った。邦子内親王、利子内親王、曦子内親王が天皇生母が在世されているにもかかわらず准母となっている例であるが、栗山圭子(註29)によれば、幼帝即位では、天皇生母が后位にのぼせられていないケースと、母后が院号宣下により女院である場合は、「帝王・皇后・斉王」だけが乗輿を認められるしきたりから、准母立后が必要になるという。
 天子の御配偶にあらざる皇后、非婚内親王が天皇准母として后位にのぼせられるというのは、非婚内親王の女院宣下もそうだが、わが国の独自性溢れる制度といえるだろう

このように院政期から鎌倉時代は内親王は厚遇された時代だったが、南北朝動乱期から状況が著しく変化した。 女院制度は天皇生母を遇する地位として存続したが、 内親王の女院宣下はなくなった。 准三宮宣下もなくなり、というよりも、室町時代になると内親王宣下がなくなったので、内親王も消滅した。
  室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となった。 尼五山の住持は殆どが皇室・将軍家出自の尼であり、足利幕府に経済的に丸抱えの存在だった。南北朝動乱期に皇室領が解体過程を辿ったため、内親王のための経済的基盤がなくなったためと考えられる。皇女は出家により身を処す時代となった。
 
 江戸時代になると、出家する皇親の数が多くなり、元和元年(1615)の公家諸法度で皇子・王子等男僧の入室する門跡寺院の寺格を定めた。皇女・皇女等尼僧の入室する寺院は比丘尼御所というが、門跡寺院に准じ一定の寺格が定められるようになった。つまり皇女のみが入室する比丘尼御所を御宮室といい、大聖寺・宝鏡寺・曇華院・中宮寺・光照院・霊鑑寺・円照寺・林丘寺の八箇寺である。江戸時代後期になると御宮室のなかのいくつかの寺院に御所号が勅賜された。これは比丘尼皇女の待遇が高められた意義を有するが、次第に御宮室に入室する皇女がなくなって、明治維新後皇族の出家が禁止されたので、御宮室各寺は華族の子女によって承けつがれ今日に至っている(註30)。
 以上、中世より近世の非婚皇女についておおまかなところを述べたが、その意義は継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規定の趣旨に沿うものである。安易に臣下に婚嫁するということはほとんどなくなっている。明治維新以後は出家が禁止されたので事情は変化したにせよ、今日の皇室典範12条から、皇族内婚以外、皇族の身位を保持できないので皇親内婚の規範性は歴史的に一貫しており、それゆえ12条の改変は絶対反対ということを重ねて強調しておきたい。

(註21)橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962、なお非婚内親王の皇后の説明は主として橋本氏の著作に依存している。
(註22)河野房雄『平安末期政治史研究』東京堂出版1979「白河天皇の御性向」247頁
(註23)角田文衛『待賢門院璋子の生涯』朝日選書281 1985

(註24)野村育代「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 1992
(註25・26)橋本義彦前掲「中宮の意義と沿革」

(註27)河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館2002 65頁以下

(註28)龍野加代子「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号
(註29)栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 2001
(註30)荒川玲子「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」『書陵部紀要』38号 1986

2005/09/25

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第12回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月25日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            (以上今回掲載)
    中世~近世の非婚皇女と内親王位の消滅
    中世世襲宮家成立の意義
     常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
     木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
     伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

はじめに-近代の皇族概念との違い

 テーマが大きすぎるが一応掲載する。
 天皇の親族である皇親概念は歴史的に変化しているが、基本的には、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」で、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とした(註1)。また、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している。
 明治の皇室典範における皇族は皇玄孫の四世孫まで親王・内親王であるので令制の概念と異なる。また太皇太后・皇太后・皇后のほか皇胤の男女子及びその正配は悉く皇族であるから皇親の概念と異なる。昭憲皇太后(一条忠香女)や貞明皇后(九条道孝女)も皇族という範疇になる。
 今日の皇室典範ではもとは民間人である、皇后や、皇太子妃、親王妃といった婚入配偶者も含めて皇族なのである。要するに現今の皇族概念は、皇后、親王妃という身位ゆえに皇族ということになっているが、令制の皇親とは非皇親のキサキを含まない概念である。つまり婚姻家族概念とは明確に違って、自然血統主義的な父系出自系譜の親族概念である。
 
(1) 皇親の員数
 

  竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという。しかし平安末期より皇子出家の風が盛んに行われ、多く法親王とならせらるる時代になると、何時となく諸王と申し上げる方がなくなったとされる(註2)。
 十世紀以降の律令国家収取体系の変質(これを構造改革として肯定的な見方もあるが)により、 禄制は崩壊過程をたどり(註3)、11世紀末までには崩壊したとみられる。つまり受領功過定の監察体制が機能としていたのは堀河天皇の関白師通期までで(註4)、康和-天仁期以後、12世紀には形骸化し、限定的に支給されていた位禄ですら支給されなくった。国家財政の変質により、12世紀以降、諸王の経済的基盤は喪失したのではないだろうか。
 いずれにせよ、すでに位禄王禄時服月料などの財源不足になった九世紀末期において少なくとも430人の皇親の員数である。世界第二の経済大国たる我が国における皇族の数は少なすぎるといわなければならない。


(2)皇親の待遇
 
 皇親の待遇についてまず藤木邦彦(註5)の説明がわかりやすいので引用する。君主制国家において、君主と血縁でつながりをもつ者が、その尊貴の故をもって国家・社会から特別の待遇をうけることは君主を重んずるゆえをもって所以であって、当然の現象であるが、位階は親王は一品から四品の品位が与えられ、諸王は一位から五位の区別が立てられた。大宝律令から親王と諸王・諸臣の区別になったのことは親王の地位を高めた。皇親には不課の特典があるが、皇親でない五世・六世王にも蔭または蔭に准じて不課とされ、皇親には蔭の特典があり親王は有品・無品にかかわらず二一歳になると従四位下が与えられ、諸王の子は従五位下が与えられるが、諸臣一位の嫡子の待遇と同じである。皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に八〇町、二品六〇町、三品五〇町、四品四〇町、食封は親王一品に八〇〇戸、二品六〇〇戸、四品三〇〇戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく。なお、親王の封禄や皇室経済の時代的変遷については研究蓄積のある分野であるが、それらについて今言及する余裕がない。
 家政機関については竹島寛(註6)より引用する。所属の職員には親王には特に、文学・家令・扶・従などがあり文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内という近侍して雑用に当たる者が、一品親王なら百六十人、品位によって差等がある。平安中期以後になると、家令・扶の号は廃れて、摂関家のように別当・家司が附属し、政所で事務を執った。諸王の待遇は親王とは違って所属の職員もなく、礼遇でも劣っていた。
   また親王の礼遇は、太政大臣より下、左右大臣より上、薨去葬喪の際は、天皇は朝を廃し、治部大輔をして喪事を監護せしめ、装束司・山作司を任命する。極めて優渥な御待遇であったが、江戸時代には親王は公家法度第二条により左右大臣より下に置申すこと定めた。つまり近世の朝廷は厳しい序列社会だが五摂家-親王という序列になってしまった。しかしこれは令制本来の姿ではないだろう。
   
(3)皇親賜姓と皇位継承問題
 
 皇親賜姓については先行研究(註7)をいちいち検討する余裕がなく省略するが、臣籍に降下した者が皇位継承候補たりうることを述べる。
 安田政彦の専論がある(註8)ので検討する。まず、安田は「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」とし「当時の貴族層が何よりも血統を重視していた」にならないとしている。
 具体的に臣籍に降下したにもかかわらず皇位継承候補に浮上したケースをみておこう。

 文室真人浄三・文室真人大市

 『続日本紀』宝亀元年八月四日条では、称徳女帝が不予に陥り厳戒態勢のなか左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備、参議兵部卿藤原朝臣宿奈麻呂(良継)、参議民部卿藤原朝臣縄麻呂、参議式部卿石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂による皇嗣策定会議で、大納言白壁王(光仁)を皇嗣に定め奏上、称徳女帝も承諾したとされている。ところが、『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条は「百川伝」を引いて皇嗣策定会議は激論紛糾したことが伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、文室真人浄三(前御史大夫〔大納言〕もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとった。藤原氏に出し抜かれた吉備真備は恥をかいて到仕を願い出たというものである。 
 瀧浪貞子は(註9)、従来『続日本紀』に疑義がもたれ「百川伝」や『水鏡』を重視してきた解釈は誤りとされ、称徳朝を支えてきた藤原永手の政治力で白壁王に一本化し、それは称徳女帝の意向でもあり承諾されたのだという。百川は光仁擁立に関与していないという見解である。
 なるほど永手は道祖王廃太子後の皇嗣策定会議でも聖武皇女不破内親王を妻とする塩焼王を推薦していて、白壁王が聖武皇女井上内親王を妻としていることから、理屈のうえでは一貫している。しかも白壁王は仲麻呂の乱の戦功で永手、真備や追討将軍蔵下麻呂らとともに勲二等を授けられ、孝謙上皇派なのであった。また女帝の紀伊行幸では白壁王が御前次第司長官をつとめ、女帝の信任もあり、白壁王擁立は自然の流れと思える。素人目にみても百川は当時、左中弁・右兵衛督・内匠頭・河内守で皇嗣策定会議に呼ばれるほどの政権首脳部であったかは疑問である。しかし「百川伝」に疑義を呈する瀧浪氏でも、議論が白熱したであろうこと。皇統をせめて天武の傍系に戻そうとするのはいかにも儒者の真備らしい意見とされている。
 安田政彦は、浄三と大市が出家していることから、出家が皇位継承の放棄とはみなされていないとする。いずれにせよ、天武曾孫では新田部親王系で氷上真人志計志麻呂・川継、高市皇子系で豊野真人、美和真人などもあったが、この時点で皇位継承候補となる天武孫は浄三と大市だけだった。こうした状況では臣籍に降下した者も皇位継承候補者たりうることを示している。
 
  氷上真人志計志麻呂と川継
 
 仲麻呂が近江に脱出する際、淳仁天皇の身柄を確保せず「玉」を抛擲したことは致命的とされるが、このとき新田部親王の子の中納言文部卿氷上真人塩焼(もと塩焼王、天平宝字元年八月三日氷上真人賜姓)が追いつめられた状況で、仲麻呂側の今帝に偽立されたが(天平宝字八年九月甲寅条)琵琶湖畔で斬殺された。しかし塩焼の子の志計志麻呂と川継が不破内親王の所生ゆえ赦された。志計志麻呂と川継は兄弟と考えられるが安田政彦は同一人物説である。
神護景雲三年、不破内親王と氷上真人志計志麻呂が巫蠱に坐す事件(五月壬辰条)が起きる。これは県犬養姉女が不破内親王と結合し、忍坂女王・石田女王・河内女王という宮廷女性を一味に引き込んでなされた、後宮女性によるおどろおどろしい呪詛陰謀事件で、女帝の頭髪を手に入れ佐保川で拾ってきた髑髏のなかにつめこみ宮中に持ち込んで、ひそかに厭魅呪詛の行法を行っていた。その目的は、朝廷を傾け奉り、氷上真人志計志麻呂を「天日嗣と為む」ことであった。志計志麻呂は土佐配流、不破内親王は厨真人厨女の姓名に貶められたうえ京外に追放された。ところが、宝亀二年八月辛酉条によると、この事件は丹比宿禰乙女の誣告とされ、宝亀二年に忍坂女王・県犬養姉女らは復権を果たし、厨真人厨女は宝亀三年十二月に属籍を復している(註10)。
 さらに光仁上皇崩後の諒闇期間中の延暦元年閏正月に因幡国守従五位下氷上真人川継謀反事件が起きる。川継の伊豆配流、不破内親王と川継の姉妹の淡路配流のほか、大量の連坐者を出した。川継の妻の父、大宰員外師藤原朝臣浜成は参議侍従を免官され、山上朝臣船主、三方王、参議左大弁大伴宿禰家持、右衛士督坂上大忌寸刈田麻呂、伊勢朝臣老人、大原真人美気、藤原朝臣継彦らは与同の罪で職を解かれ、京外追放、その他川継の姻戚・知友35人、さらに参議中宮大夫右衛門督宮内卿大伴伯麻呂も解官、同年の左大臣藤原朝臣魚名の左降は理由が不明で問題になる。林陸朗は参議三人に加えて武官長老の刈田麻呂の連坐を重くみて、相当な企画性をもった深刻な事件とみなしているが(註10)、阿倍猛(註11)や倉本一宏(註12)のように浜成と年内に薨じた伯麻呂と魚名を除いて短期間で赦免されていることから陰謀そのものを疑問視する見方もある。桓武天皇が光仁上皇の諒闇期間の短期間に、川継の陰謀を奇貨、もしくは口実にして、前代の重臣(魚名)と反主流派貴族(浜成)を粛清し、天皇主導の政権基盤を確立していったという見方もできるだろう。
氷上真人川継事件の真相は不明な部分が多いが、いずれにせよ氷上真人志計志麻呂と川継は、天武曾孫であり母方で聖武と繋がっており、臣籍に降下してもなお、皇位継承候補として担がれる可能性がある存在と認識されていたのである。
 
 属籍を復すこともありうる

 天武曾孫で岡真人賜姓から属籍を復した和気王について第6回で言及したが、例えば天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみると天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える。

  源融の自薦

 史料上、陽成遜位思食により皇位継承候補として浮上したのは承和の変で廃太子後出家入道淳和皇子恒貞親王、仁明皇子一品式部卿時康親王、仁明皇子二品兵部卿本康親王と自薦候補にすぎないが嵯峨皇子(仁明猶子)左大臣源融の四人である。関白太政大臣藤原基経は、左大臣源融、右大臣源多を引き連れて、恒貞親王推戴の志を陳べたが、親王は涙を流し、出家の身であることを理由に数日間食を絶ち頑強に固辞された(恒貞親王伝)。次に時康親王であるが、再三固辞され、時康親王は本康親王を推薦したが、結局、時康親王(光孝)が皇位継承者となった。たぶん恒貞が固辞するのは親王の性格から折り込み済でたんに一拶を入れただけ。皇位継承候補に急浮上した本康親王は当て馬のようでもあり、基経の素意は初めから時康親王であったのだろう。
 それはともかく、『大鏡』藤原基経の段で源融が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承の意欲をみせたところ、基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴し、「さもあることなれ」と貴族層が基経の見解に同意したというエピソードが伝えられている。
 安田政彦はこれが事実だとすると、源定省(宇多)の登極と矛盾することを問題視され、陽成遜位後のエピソードでなく宇多擁立時にふさわしいとされ、『大鏡』の虚構性を論じていて、源定省は臣籍に降下してから官歴を有していないが、源融は大臣にまで昇進して、太政大臣の下に立つ身であることを基経は言っているのだという。さらに賜姓源氏は生母の血筋が劣るゆえに皇位継承者たりえない。融と定省では血筋・経歴に大きな違いがあるとされている(源定省の母が班子女王であること。光孝が一代限りで擁立されたので臣籍に降下したまでで、母の血筋で劣るゆえに臣籍に降下した例ではないとされるが)が、問題を難しくし考え過ぎておりこの見解はかなり疑問に思う。
 端的にいうと、このエピソードは事実上の政務決裁者で政府を率いている藤原基経が軽口を叩いた左大臣源融を一喝したということで、基経の政治家としての実力が勝っていることを示している。もっとも、大臣は王権の安定性という観点から、皇位継承者となることは好ましくないと思う。瀧浪貞子が、吉備真備が大納言白壁王を飛び越えて右大臣に昇任していることを重くみて、それは白壁王の立太子構想があったからとしているが(註13)、やはり太政官決裁者たる大臣の立太子は好ましくないという判断が働いている。陽成遜位当時は親王が多く実在し、賜姓源氏まで皇位継承候補を拡大する必要はなかった。基経の意中は初めから時康親王だったから、源融を一喝して退けたという解釈でさしつかえないと思う。
なお、母が女御であれば親王宣下は普通であり、母が女御であれば皇位継承資格を有するとのは当然だが、源融の母、大原真人全子で更衣ですらない。門閥体制という観点で母の血筋は問題になる。例えば近衛生母藤原得子は善勝寺流藤原氏で、そもそも女御とはなれない家格である。少なくとも摂関期以後の女御は家政機関を組織できるのが前提条件で、上流貴族でなければならなかった。家格として劣っていたから、体仁親王(近衛)は崇徳后藤原聖子(関白忠通女)の猶子として親王宣下されている。しかし、中世以降母の血筋を上流貴族に限定しなくなったので、母の血筋云々は決定的に皇位継承資格を欠くということにはならないと思う。
  後述するように中世においては、後嵯峨や後光厳のように践祚当日まで諱すらなく、親王宣下もなく登極する例があることから、親王号、王号を称していることが皇位継承資格の決定的要件とは思えない。
なお、宇多天皇(源定省)の例については広く知られていることでもあり、ここでは省略して先に進める。


(4)親王宣下制度
 
  皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのち称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王とたりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうける皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女に分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、弘仁五年五月から卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。
      
  親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。陽成遜位後、藤原基経以下貴族首脳部の推戴により仁明皇子一品式部卿時康親王が即位した。光孝天皇は皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下したが、光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極した。宇多天皇即位により、であるが、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃)、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。(なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である)。もともと、継嗣令皇兄弟子条は天皇の兄弟姉妹と子女はすべて親王・内親王であるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。
 
  平安後期になると諸王でも宣下をうければ親王・内親王になりうるとした。三条皇孫で敦明親王(小一条院)の御子である二王、二女王の親王宣下がそうした例である。 鎌倉時代には後鳥羽の皇子・皇孫が相次いで親王宣下をうけて六条宮を称し、後嵯峨の皇子・皇孫、後深草の皇子・皇孫が親王宣下をうけ鎌倉将軍宮となった(註14)。
  青山幹哉が後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍の賜姓と親王宣下について論じ(註15)、よく引用されている。鎌倉将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである。
  弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。
  従って、将軍源惟康の親王宣下は政治色の濃いものであり、事実上、院政停止、皇位継承に干渉するほどの政治力を有した幕府首脳部の意向によるものであるが、親王宣下について私の考えでは、親王は令制本来のありかたとしては格としては一国にひとしい家政機関を組織するのであるから、親王たるにふさわしい家政機関を維持する経済的基盤を有することが、親王宣下の前提であると同時に、親王は有力な皇位継承候補となりうるので、安易に孫王以下を親王宣下されるべき性格のものでもなかったと考える。 
 
  (5)未定名号の皇子の即位
 
  一方、皇子であっても臣籍降下でもなく親王宣下もうけない場合がある。平家討滅の令旨で著名な後白河皇子以仁王はよく知られているが、中世においては親王宣下も臣籍降下もなく、たんに某宮、未定名号の状態のケースも少なくない。法親王は白河皇子覚行法親王に始まり、出家された後に親王宣下されるのである。
  歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。 、
  未定名号の皇族が、践祚当日まで諱もなく登極する例もある。このことは、親王宣下は皇位継承者の決定的要件ではなく血統原理が第一であるということがわかる。後堀河、後嵯峨、後光厳のケースについていえば、親王宣下をうけていない皇族が即位するというのは王権側の皇位継承候補から外れている皇族、ともいえるが、後小松のように外戚に経済的余裕がなく家政機関を組織できないケースも考えられる。
  なお、筆者は素人なので、親王宣下の有無は米田雄介編『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館2003により判断した。次のケースである。後鳥羽天皇、土御門天皇、後堀河天皇、後嵯峨天皇、後光厳天皇、後小松天皇、後花園天皇、光格天皇である。
このうち、非常事態での即位のケース、後嵯峨と、後光厳のケースについて述べる。
   
   未定名号から践祚の例1 後嵯峨天皇
 

  仁治三年正月九日、十二歳の四条天皇が廊下を滑って顛倒する事故で夭折、皇子がいなかったため、後高倉皇統が途絶したが、朝廷の実権者前関白九条道家(将軍頼経の父でもある)や西園寺公経など貴族首脳部は順徳皇子の佐渡宮推戴の方針で固まっていた。摂政近衛兼経以下諸公卿は関東にこの意嚮を関東に伝え同意を求めることとし、ために空位十一日に及んだ。しかし佐渡配流の順徳上皇は当時在世されていて、討幕の謀議に深く関与したことから、幕府は還京運動から上皇の復権に結びつくことを警戒していたので、順徳皇子推戴はありえなかった。執権北条泰時は親幕的で討幕に一切関与せず、御自らすすんで土佐-阿波に遷御された土御門上皇の第三皇子の阿波宮を奏請する方針をとった。
  もっとも表向きは鶴岡八幡宮の神慮と称し(若宮でくじをひいたと伝えている)土御門皇子を推すこととしたのである。京に向かう東使安達義景は順徳皇子践祚と既成事実となるった事態を懸念し、泰時に対策を請うたところ「おろし参らすべし」との指示であった。東使は道家に会う前に、阿波宮の養育者である前内大臣土御門定通に会っている。関東の方針を察知した西園寺公経は道家と離反したため流れは決まった。23歳の皇子は諱すらなく、同年正月二十日俄に元服式が挙行され邦仁と命名、同日直ちに践祚した。後嵯峨天皇である。広橋経光は「帝位事、猶東夷計也、末代事、可悲者歟」と幕府の露骨な皇位介入に悲憤慷慨したがいかんともできなかった(註16)。

   未定名号から践祚の例2 後光厳天皇
 
観応二年(1351)十月二十四日足利尊氏は関東に下向して弟直義を討つため、南朝に帰順し、尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、正平の一統なる。十一月四日尊氏は関東に進発、しかしこのことは光厳上皇に知らされておらず、前太政大臣洞院公賢は「両院・主上以下可奉取之旨南方形勢之由風聞、驚動御気色云々、更不信用事也、如此狂事‥‥」と上皇らの驚愕を報じている(註17)。十一月七日崇光天皇廃位。南朝は神器を接収し北朝の官位叙任を破棄させた。しかし光厳に長講堂領を安堵、光厳・光明・崇光に太上天皇の尊号が宣下され、宥和策がとられた。正平七年(1352)二月南朝は足利義詮に後村上天皇の還京を伝え、二月二十六日大和賀名生を発ち、河内東条より摂津住吉、さらに八幡まで進んだ。一方、鎌倉では二月二十六日尊氏により直義は毒殺されるが、南朝は一転して宥和策より強硬策に転じ 閏二月六日尊氏の将軍位剥奪、在信濃の宗良親王に将軍宣下、閏二月二十日北畠顕能率いる南軍は京都に突入、足利義詮は市街戦で大敗し近江に敗走、三上皇(光厳・光明・崇光)廃太子(花園皇子直仁親王)八幡遷座(『椿葉記』は南朝の天気(後村上の思召)により八幡の軍陣に幸しましますとの表現-註18- 。事実上は南軍による拉致軟禁とみられる)、三月十五日義詮は態勢を立て直し京都を奪回したが、三上皇廃太子は三月三日河内東条、さらに六月には大和賀名生に遷幸された。
 幕府は三上皇廃太子が南朝の本拠地に送致されるという異常事態で北朝再建のために、後伏見女御で光厳・光明生母の広義門院(西園寺寧子)の令旨をもって上皇の政務を代行するプランとなった。女院は当初固辞されたが、佐々木道誉の意を受けて、勧修寺経顕の説得のよるものであった。女院は関白二条良基に「天下政務内々御計」として事実上政務は委任されたが皇嗣策定決裁者は王権女性尊長の女院という形式をとっている。
 三上皇拉致は異常であっても、天皇祖母が最終決裁者となることは異例ではない。例えば文徳急崩後、皇太子惟仁親王九歳擁護のため急遽皇太子と同殿されたのが文徳生母皇太后藤原順子であり、太政大臣藤原良房が万機を摂行する体制を継続するためには、形式的には皇太后の意思決定を受けたものとみなすべきである。朱雀譲位村上受禅は皇太后藤原穏子の示唆によるもので、また後冷泉朝において摂関任免の最終決裁権は天皇祖母上東門院藤原彰子にあった。鳥羽法皇崩後、平清盛らが忠誠を誓ったのは、後白河天皇ではなく近衛生母美福門院藤原得子であり、後白河譲位二条受禅は事実上美福門院の方針で決まったという実例がある。元徳三年光厳践祚後の 十一月八日故邦良親王の嫡子康仁親王立坊、幕府は邦良妃の崇明門院(後宇多皇女)を上皇になぞらえて、大覚寺統の家父長代行者として立坊の責任者に指名した例がある(註19)。
  北朝-幕府側は南朝と楠正儀の縁者を使者として上皇らの還京交渉も行っているが、南朝は強硬姿勢であったので、妙法院門跡に入室する予定で日野資名に養育されていた未定名号の光厳第二皇子が、観応三年(正平七年)八月十七日元服して弥仁と命名され、親王宣下もなく直ちに践祚した。後光厳天皇であるが、神器を収めた小唐櫃が探し出されて、空箱を神器に見立てるという異例の皇位継承であった(註18)。
 
このような前例がある以上、親王位という身位にあらざるとも皇位継承は全く問題はない。
 
 
 引用参考文献

(註1)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970
(註2)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁

(註3)吉川真司『律令官僚制の研究』「禄制の再編」369頁以下 初出1989
(註4)佐々木宗雄『日本王朝国家論』名著出版1994「十~十一世紀の授領と中央政府」初出1990
(註5)藤木邦彦 前掲書 205頁、210頁以下
(註6)竹島寛 前掲書 165頁
(註7)藤木邦彦 前掲書、赤木志津子「賜姓源氏考」『摂関時代の諸相』近藤出版社1988、初出1964、林陸朗「嵯峨源氏の研究」「賜姓源氏の成立事情」『上代政治社会の研究』同淳和・仁明天皇と賜姓源氏」『國學院雑誌』89号1988、同「平安初期政界における嵯峨源氏」『古代文化』460号 1997、宇根俊範「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓-」『史学研究』147号 1980、宇根俊範「律令制下における賜姓についてー宿禰賜姓ー」『ヒストリア』99号 1983、安田政彦『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998第二章平安時代の皇親賜姓 
(註8)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号 (通号 506) [2001.3]
(註9)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註10)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9
(註11)阿倍猛「天応二年の氷上川継事件」『平安前期政治史研究』新生社、初出1958
(註12)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 211頁
(註13)瀧浪貞子 前掲書116頁
(註14)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館「宮家の役割」15頁以下参照。
(註15)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註16)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000、330頁
(註17)今谷明「観応三年広義門院の「政務」について」『室町時代政治史論』塙書房2000 
(註18)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 123頁
(註19)森茂暁『南朝全史』講談社選書メチエ 2005 69頁
(註20)今谷明『室町の王権-足利義満の王権簒奪計画』中公新書 中央公論新社 1990

2005/09/22

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第11回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月22日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
   
(第5~10回)
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7)平安中期以後の違法婚
       (今回掲載)

(6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
 

 中だるみ状態でピッチが遅すぎて、閲覧者には大変申し訳ありません。でも苦しくも悶えても最後まで頑張ります。険しい道でも皇位国体護持のため神風が吹くのを祈りたい心境だ。

(5)では、高森明勅の継嗣令の下条、王娶親王条の意義をふまえない継嗣令皇兄弟子条の本註の誤った解釈、律令国家は双系主義という虚構の奇説を批判するため、生涯非婚女帝の即位の経緯まで逐一検討して女帝は皇統を形成できないという、ごくあたりまえのことを述べた。ここで本題の皇親女性の皇親内婚規則、継嗣令王娶親王条の歴史的経緯に戻ることとし、長くなりすぎたのでこのテーマは今回で終え、次回より別の観点で女帝絶対反対論を続行する。

 継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規則は奈良時代において、一例を除いて違法例がなく、よく守られていたことを述べた。しかし、皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註99)。任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能としたのである。令制の皇親内婚の理念は大きく後退したように思える。これは有力貴族をミウチとして取り込む政策的意義というより、素人考えながら桓武天皇が内寵を好まれ多くの皇子女をもうけたこともあるのではないか。
 但し、二世女王降嫁の初例は、承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐などを歴任し、良吏として知られる藤原衛(右大臣内麿十男)に、淳和皇子恒世親王女が降嫁(結婚の具体的な時期は不明)した例であり(註100)、桓武天皇の治世からかなり後のことである。
 仁明皇子人康親王女の藤原基経への降嫁は二世女王だから延暦十二年詔により合法である。そもそも摂政藤原基経と一品式部卿時康親王(光孝)は母方でいとこで血縁関係があり、人康親王女は光孝の姪であり姻戚関係もあった。基経が陽成廃黜、光孝天皇擁立を断行したのもそういう事情が背景にある。人康親王女を母とする時平、仲平の元服式が天皇の加冠により挙行されたのも、基経の権力の大きさを物語るといえるが、前代未聞、仲平以後は絶後の殊遇は、時平や仲平が母方で承和聖帝(仁明天皇)と繋がっているためでもあろう。なお、人康親王女を母とするのは、時平・仲平・穏子で、忠平については歴史家により見解が異なるようだ。また時平は仁明皇子本康親王の女廉子女王を娶っているが、これも二世女王なので合法である。

 嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。源潔姫は、太皇太后藤原明子(文徳女御・清和生母)の母である。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている
 それでも依然として、内親王降嫁は明確に違法である。今日の皇室典範第12条においても、皇族女子は天皇及び皇族以外の者と結婚した場合は、内親王、女王という身位を保持できないことになっており、民間人への降嫁はあっても継嗣令王娶親王条の皇親内婚の趣旨は継受されているものと私は理解している。
 
(7)平安中期以後の違法婚
 
 とはいえ平安中期以降、内親王の藤原氏や源氏への降嫁のケースが少なからずみられる。違法であるが勅許によるものだろう。甚だ令意に反する事態といわなければにならない。十世紀には昇殿制にともなう天皇との直接の関係に基づく公卿・殿上人というあらたな特権階層を作り出し、日常的に側近を殿上に候せしめる総側近官僚型政治、あるいは「内裏・太政官一体型政務」が展開されることにより、天皇と有力貴族の日常的な距離が接近したことからこのような事態もやむをえないと考える。
 
 例えば藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)結婚した例などである(註101)。さすがに康子内親王は后腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註102)。同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてもよいだろう。
 保立道久によれば「村上天皇の同母姉=康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」などと伝えられている(『大鏡』『中外抄』)(註103)とされ、公然周知の醜聞だった。
  このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としている(註104)。
 しかし為光や公季は醍醐天皇の外孫、村上天皇の甥にあたるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇位継承者には絶対的になりえない。母方で天皇と繋がってもそれは全く意味をなさないのである。
 母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえる。しかし男系で天皇と繋がっていないから、太政大臣にはなれても皇位継承資格はない。当然のことですね。
 太政大臣は慣例として天皇の元服加冠の儀の加冠役だが、その大役にふさわしい上流貴族であることはもちろんである。
しかし、父系出自系譜で天皇に繋がっていないから、皇親にはならない。あくまでも藤原氏です。あたりまえのことですね。それでも女系だといいはる人は、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。ありえないことだが為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。だから女系継承なんてありえないですね。
  正月から報道されている政府案(1月4日読売など)の女系継承は為光や公季と同じようなケースでも皇位継承を認めようとするものですが、そういう無茶苦茶なことはあっては絶対ならないです。

以上長文になりすぎた感がありますが、王娶親王条の意義についてはここで終えることとします。要するに私のいいたいことはこうです。実際には違法だが勅許により例外である内親王降嫁もあった。令制では違法婚でも内親王の身位は保持されたとされていますが、この点現代の皇室典範とは違います。しかしそれによって王権が危機に陥ったわけではないから結果オーライです。女系継承などありえなかったのです。まさしく花園上皇の仰せのとおり「吾が朝は皇胤一統なり」です。歴史上の内親王降嫁という例外は許容しますが、しかし皇親女子の皇親内婚という規則・規範を否定することは絶対にあってはなりません。
 王娶親王条の理念は現代でも 「皇室典範第12条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」。ということで。実質的に継承されています。この規範は絶対堅持していただきたい。規範性は明白なのです。これを破って棄てたら易姓革命で日本国は終焉します。それをやったらおしまいだ。皇朝は終焉して、われわれは日本人をやめることになります。全てが台無しになります。鎌倉時代から近世にかけて皇女は非婚であるケースが大半という状況になりました。むろん鎌倉時代の非婚内親王は大変厚遇された時代ですが、室町時代から近世は皇女の大半が比丘尼御所に入室し身を処す時代になりました。こんなところで、12条を改変したら、いったい中世~近世の多くの皇女がなんのために生涯非婚だったのか意味がなくなるじゃないですか。そういう伝統的脈絡を全面的に否定していいんですか。12条改変で世の中は無茶苦茶なことになりますから、それだけは絶対やめてください。
 8月31日の有識者会議で「憲法では世襲と規定しているのみであり、男系ということは規定していない。憲法の世襲は血統という意味であり、男系も女系も入る」と発言している人がいますが、そういう拡張解釈は疑問に思う。たかだか60年の憲法がなんだと言い返したい。そんな新奇な思想を容認するわけには断乎いかない。2665年の皇室の歴史があり、千数百年の重大な婚姻規範を、こんなところで捨て去らないでください。それだけはなにがなんでもやめてください、やめてくださいと絶叫します。
 
(註99)専論として、安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註100)栗原弘「藤原内麿家族について」『日本歴史』511
(註101)米田雄介前掲論文 485頁以下。
(註102)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註103)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註104)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」
名著普及会1982復刊、初版は1922

2005/09/19

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第10回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日-その2
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
            明正女帝
       後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
 (第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
 (以上第9回掲載)
 ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
                     (今回掲載)

ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 
 聖武の突然の出家によって国政の庶事は光明皇后に委ねられた。天平勝宝元年〔749年〕八月皇后の附属職司である皇后宮職を紫微中台(史上最大の令外官司)に改組し、孝謙を即位(同年七月)させたうえで、太后臨朝称制に准じるかたちの統治体制としたものとみる。岸俊男によると紫微中台の職掌は「居中奉勅、頒行諸司」〔『続日本紀』天平宝字二年八月甲子条-758年〕といわれるように光明皇太后の大政を輔佐し、太政官の中務省に代って、その詔勅奏啓を吐納することにあったといわれる。また皇権のシンボルたる鈴璽も皇太后に置かれていた(『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条)(註89)。このためにその長官である紫微令大納言藤原朝臣仲麻呂が、事実上、太政官決裁者たる左大臣橘朝臣諸兄よりも政治的求心力と実権を有することになった体制として語られることが多い。。
 紫微中台官人の構成であるが、紫微令仲麻呂以外に、藤原氏から起用されていないので、藤原政権では全くない。発足当初のメンバーは、紫微大弼に参議大伴友宿禰兄麻呂、参議治部卿石川朝臣年足、紫微少弼に百済王孝忠、式部大輔巨勢勢朝臣堺麻呂、中衛少将背奈王福信である。人事官庁と衛府の官人が兼官しているが、紫微令大納言仲麻呂は前式部卿(孝謙即位後の式部卿は紀朝臣麻呂)であり、紫微少弼の式部大輔巨勢朝臣堺麻呂は仲麻呂に近い官人で、人事官庁は仲麻呂が掌握していたとみてよいのである。
 紫微中台というネーミングは諸説あるが、則天武后時代に三省のひとつである尚書省が中台と改称した例がある。また玄宗皇帝初世に中書省を紫微省と改称した例があり、唐の中書省と尚書省を合体した強力なものだった(註90)。
 太后臨朝称制は中国では漢代から正統な政治形態として確立されているが、紫微中台が特異な変則的体制とみなされている理由は、本来、天皇と太政官の二極体制である律令国家のシステムであるのに実質的に令外官司が太政官と並び立つもしくはそれを凌ぐ求心力を有する政権になったこと。孝謙女帝が32歳で即位し成人であるにもかかわらず完全な執政権が付与されず、皇太后が大きな実権を掌握している体制というところにある。

 ただし冒頭に述べた岸俊男の見解はかなり問題がある。『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条に橘奈良麻呂の変を語る記事で「皇太后宮を傾けて鈴璽を取らむ」とあり、皇権のシンボルたる鈴璽(鈴印契)が皇太后宮にあったことが知られている。しかしそれは聖武上皇崩後のことである。また当初から皇太后が紫微中台単独の署名で勅書が作成されていたわけではないという説がある。
 近藤毅大によれば孝謙即位後も鈴璽は聖武上皇がもち、上皇崩御前後の時期に皇太后の手元に移ったのだという。又、当初、光明皇太后は「令旨」を発給していたが〔これは公式令の規定どおり〕、ある時期から紫微中台と侍従の連署で皇太后の意思を「勅」とするようになり、仲麻呂が紫微内相になると紫微中台単独の署名で光明皇太后の勅書が作成されたという(註91)。なお、孝謙女帝の詔は太政官ルートで中務卿により宣せられている。
 聖武崩後の体制は「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれているように日と月にたとえられる皇太后との共同統治体制ということにはなっている。しかし、近藤説によれば皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を孝謙女帝が掌握したことは一度もない。即位当初は聖武上皇、後に光明皇太后が鈴璽を掌握しており、孝謙女帝にかわって皇権を行使していたということである。皇太后の意思も「詔」「勅」とされていることはある意味で上皇と同じ(例えば天平十六年二月二十六日難波を皇都と定めた勅は元正上皇とみなす歴史家が多い)ともいえるが、鈴璽(鈴印契)を掌握していない以上、孝謙女帝が完全な執政権を有していないということである。それは皇嗣とはみなされない女帝の限界であったと考えられる。
 さらに天平宝字元年五月の大納言藤原仲麻呂の任紫微内相であるが、岸俊男は次のように説明する。紫微内相は待遇上大臣相当官で、内外諸兵事を掌る軍事総監として置かれた。一般に統帥権は行政権とは平行的に終局的にはともに天皇の掌握するところで、太政官に属する太政大臣、左右大臣、大納言に通常絶対的な軍事権はない。紫微内相は仲麻呂が本来直接天皇が掌握する軍事権を手中にするための令外官とされている(註92)。大臣相当官で軍事も掌握するから強力なポストであるが、これは不穏な情勢(奈良麻呂の変)が察知されていたこともある。そうすると紫微内相は皇太后の直属の部下であっても、女帝の直属の部下ではないから、女帝の腹心である藤原永手が中納言に昇進しバランスをとっているとはいえ、孝謙女帝は軍事権を掌握していないことになる。
 

 ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
 
 前回述べた天平宝字六年六月三日詔で、孝謙上皇が草壁皇統嫡系を強弁しているにもかかわらず、女帝には草壁皇統のシンボルたる草壁皇子の佩刀が譲られていないことである。瀧浪貞子によれば、佩刀は草壁皇子-藤原不比等-文武-不比等-聖武と伝えられたが、聖武崩後の天平勝宝八年六月二十一日に光明子により東大寺に献納されている。佩刀の授受に終止符が打たれたことは草壁嫡系がいなくなったことを物語り、聖武上皇の遺詔により天武孫の道祖王(孝謙女帝によって廃位)が皇太子に立てられたことによって草壁皇統は終焉した(註93)。瀧浪氏はまた次のようにも述べておられる「『不改常典』の論理は‥‥嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系相承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるを得なかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武-聖武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意味も、あらためて理解されよう。これが、孝謙が皇位を継承できても皇統の継承者として認められなかった理由であり‥‥‥」(註94)。
 私の考えは、『不改常典』の解釈いかんにかかわらず、端的に、女帝は皇位を継承できても皇統の継承者としては認められないと言い切ってさしつかえないと思う。

 次に淳仁天皇(大炊王)は前の聖武天皇の皇太子と定められていたことである。淳仁天皇の光明皇太后に対する言葉「『前聖武天皇乃皇太子』と定めていただき即位させていただいた」(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)であるが、『前聖武天皇乃皇太子』は光明皇太后が事実上定めたものであることがわかる。大炊王立太子は聖武崩後であり、しかも皇嗣策定会議(天平宝字元年四月四日条)で大炊王立太子を切り出し決裁したのが孝謙女帝であリ、孝謙の譲位により即位したにもかかわらず、それでも、前聖武天皇の皇太子である。瀧浪貞子は、大炊王を聖武の正統な後継者とするために擬制的に聖武の嫡子に仕立てようとしたとされ、皇統が孝謙を飛び越えて聖武から継承されたということにほかならないとされている。(註95)、皇統が孝謙を飛び越えた、それはそうだが、先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成したのであるから、前代が女帝でないかぎり、ことさら『前聖武天皇乃』とされる必要はなかったと考える。このことは直系継承の擬制というよりはむしろ聖武天皇即位詔「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」を連想させる(第7回のロ参照)。この理屈では女帝からの継承性がないのである。女帝が皇統から外されており、大炊王の『前聖武天皇乃皇太子』は男系継承の論理性を示すものであり、端的に女帝は皇統を形成できないことを示している例であると思う。
 また木本好信(註96)は孝謙の譲位に光明皇太后は重大な役割を演じているとしている。天平宝字二年八月庚子条で、孝謙女帝は譲位の理由として、大政を聴くことは労苦の多いことで、長く在位していることは力の弱い自分には荷が重すぎて堪えられないこと。母光明皇太后に対して、今は人の子として孝養を尽くせないので、退位してゆっくりと子として仕えたいとしているが、この前後に皇太后の病気などのこともみえないから不自然として、光明皇太后が政治的理由で譲位を望んだ結果と論じている。
 木元説の新味は、従来、淳仁天皇は仲麻呂の権勢獲得の手段として語られる傾向が強かったのだが、光明皇太后が天武系皇統の存続を思慮した結果であるとされていることである。例えば、先に触れた天平宝字三年六月庚戌条でも「太皇太后(光明)の御命以て朕(淳仁)に語らひ宣りたまはく、‥‥吾が子(淳仁)して皇太子と定めて先ず君の位に昇げ奉り畢へて」とある。
 光明皇太后は則天武后に比擬されることが多い、国分寺創建と東大寺廬舎那大仏造営は、光明皇后が推進したものだが、国分寺は則天武后が全国にもうけた官寺の大雲寺、大仏は龍門奉先寺の廬舎那大仏に範をとったものであり、四字年号も則天武后の影響とされている(註97)。しかし決定的に異なるのは、則天武后は李氏唐室を簒奪し武周を建国したのであるが、光明皇后は、孝謙上皇の反対にもかかわらず、舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号など舎人親王系皇統の創成に尽力されたのである。草壁皇統が血統的袋小路に入った以上、新しい皇統を創成しなければならない。スムーズに草壁皇統から舎人親王系皇統への継承させるために、木本説は光明皇太后が政治的に孝謙女帝を帝位から下ろした、実質的には退位を命じたという解釈である。そのような意味でも孝謙は中継ぎであったのである。ということは当初から孝謙女帝は執政権を完全に掌握する本格政権は想定されていなかったということになる。 
 以上述べたように孝謙は即位したが皇位継承の正当性に乏しく天皇大権を掌握できない中途半端な存在だった。上皇としても理屈のうえでは、淳仁に親権を行使できない立場にあった。保良宮から平城京に還御されたとき上皇は出家されたにもかかわらず怒りを爆発させ、奪権闘争に突入、実力で仲麻呂や氷上真人塩焼の斬殺、淳仁の廃位により敵対勢力を打倒することによって真に執政権を有する女帝となったのであった。
 光明皇太后の意図は、望まない退位を強要された孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚と淳仁の廃位で台無しになったのである。
 にもかかわらず私は称徳女帝を高く評価したい。筧敏生か誰だったか出所を明示できないが、孝謙上皇の重祚は「もはや天皇でなければならないという意思のあらわれ」と述べているのを読んだ記憶がある。藤原京と奈良時代は、天皇と上皇の共治体制の例が多かったが、天皇に権力が収斂されたのは通説では薬子の変であるが、孝謙の重祚を重視する見解である。称徳朝には上皇・三后・皇太子が不在で天皇に権力が収斂されたのである。このことは天皇を中心とする律令国家体制を固めた意義のあるものと評価してよいのである。
 一方保立道久のような称徳女帝=平和主義論もある(註98)。新羅出兵計画を推進したのは淳仁天皇と藤原仲麻呂としたうえで、孝謙上皇がブレーキ役になり、淳仁の外交大権の回収で解消したというのである。称徳女帝は神護景雲二年十月に新羅交易物を購入するため八万五千屯の綿を左右大臣以下政権首脳部・皇族に賜与しているが、舶来品は需要があるのであって、国家間の緊張関係は別として現実主義的な政策といえる。当時の新羅は国力が充実しており、新羅征討に突入するのは軍事的冒険になる。この点で女帝は現実主義的な政策判断をとったと評価してよいのかもしれない。 

 以上、歴史上の女帝、生涯非婚内親王四方の即位の経緯を逐一検討したが、結論は全て男系主義的脈絡における中継ぎであり、女帝は皇権を継承するが皇統を形成することはできないことを各論で示した。女系継承などありえないのである。ところが男系も女系も認めようとか、男系も女系も皇統などという無茶苦茶な見解が世論を誘導しているとんでもないことである。

(註89)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 1987新装版 初版は1969
112頁
(註90)愛宕元「補説23武則天と光明皇后」松丸・池田・斯波・神田・濱下編『世界歴史体系 中国史2-三国~唐』山川出版社1996
(註91)近藤毅大「紫微中台と光明太后の『勅』」『ヒストリア』No.155 (153)1997年6(註92)岸俊男 前掲書 198~201頁
(註93)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」79頁以下
(註94)瀧浪貞子 前掲書81頁
(註95)瀧浪貞子 前掲書70~72頁
(註96)木本好信『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう 2004、但し初出2002、181頁以下
(註97)愛宕元 前掲論文
(註98)保立道久『黄金国家』青木書店2004 71頁以下

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第9回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
   イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性) 
(第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
                (今回掲載)
     ホ-3天皇大権を掌握していない孝謙女帝
     ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
               
(次回掲載予定)

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性

 女帝は皇統を形成できない。前回述べたとおり、皇統が血統的に袋小路になって直系継承が不可能で、いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、あえて非婚女帝が即位した例は、聖武天皇が陸奥産金の報らせに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出したともいわれる状況で即位した、孝謙天皇だけである(明正天皇は践祚の時点で父帝後水尾の皇子がいなかったが、若宮誕生後に譲位する中継ぎであったことは第7回で述べたとおり)。あってはならないことだが、もし現今の状況で女帝が即位するとすれば、直系継承が不可能なのに時間稼ぎ的な皇位継承になり、孝謙即位のケースが現今の状況に類似しているといえるだろう。そういうわけで、現今の女帝論議においても孝謙女帝をどう評価するかが、生涯非婚であることは絶対条件としても女帝を容認しうるか否かの判断において重要であると考えるので、ここで孝謙女帝論を述べることとする(長文になるため今回は途中までである)。
 
  もちろん現今の状況とは異なる面も多分にある。天平十年の阿倍内親王立太子の時点では中継ぎが想定されていた可能性がある(阿倍内親王と10年の年齢差のある異母弟聖武皇子安積親王が健在だった。次妻格以下の藤原氏女腹皇子の誕生の可能性もあった)。決定的には草壁皇統は袋小路になったが、孝謙即位の時点で皇親がかなり多数実在していたことである。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人系では船王・池田王・守部王・大炊王、三世王の和気王、新田部系では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王の子、安宿王・黄文王・山背王、長親王系は智努王、大市王、奈良王がいた。結果論をいうと、称徳朝までに天武系で臣籍に降下していない有力皇親が殺戮や追放によって除かれてしまったために、称徳女帝不予の際の皇嗣策定会議で天武系にこだわった右大臣吉備真備が、臣籍に降下したうえ出家していた、天武孫の文室真人浄三(智努王)や文室真人大市(大市王)を皇位継承者に推薦せざるをえなくなっているが(註79)、それはともかく、藤木邦彦によると孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註80)、皇位継承資格を有する諸王はかなり多数実在していたのであるから、現今の枯渇的状況とは異なる。
 
 結論を先に述べます。いずれ傍系へ継承することがわかっているのに即位した孝謙のケースは特異で変則的な在り方である。孝謙即位の皇位継承の論理性・正当性はかなり弱い。光明皇太后の「皇太后朝」ないし皇太后摂政ないし皇太后称制ないし紫微中台政権を正当化させるための役割をふられた感がある。
 しかし私は柔軟な考え方をとる。光明皇太后は東大寺や国分寺創建の発意者であり仏教事業や福祉政策に偉大な治績を有するだけでなく、いわゆる仲麻呂政権№2の石川年足は能吏タイプと評価され、「皇太后朝」は善政との評価があり、三后は政治的権能をもともと有しておりそれもありうる体制だった。「皇太后朝」紫微中台政権は必ずしも特異な体制とみなす必要はなく、正統な政治形態である太后臨朝称制の変態とみなすことができ、結果的には紫微中台政権は、草壁皇統から舎人親王系皇統へ過渡的政権となり、皇権の危機をもたらしたものでもない。逆説的にいうと太政官権力を掣肘していることから、実質的には君主の政治的権威をなお一層高めたと評価もできるし、天皇を中心とする律令国家体制を固めるために有意義だったという見方もできるかもしれない。そうした脈絡で光明皇太后の天皇大権掌握を正統的政治形態とみなし好意的な見方を示すこともできる。その観点から、傍系皇親へのつなぎ期間の共同統治者の一人として、かろうじて孝謙が皇位を継承した意義を認めてもよい。
 
 しかし現今の女帝論議は傍系皇族への皇位継承への時間かせぎということでもなく、皇太后称制による安定的強力政権で律令国家体制を成熟させていく国家的課題があるわけでもなく、女帝即位の絶対条件である非婚独身を貫くということでもない。孝謙即位の条件とはかなり異なるのである。プリンスコンソートを迎えての女系継承が前提とされており、事実上の皇朝の廃止、易姓禅譲革命、日本国の終焉の合法化になるもので到底容認することができない。
 現今の状況-直系継承が袋小路で傍系皇族も否定されている状況ではたとえ、時間かせぎの観点で生涯非婚内親王の即位であってもその次の皇位継承者に不安があり、容認しがたい。私は生涯非婚内親王の即位ですら反対だから、表題のとおり絶対反対論です。歴史上の女帝の意義は認めても、現今の女帝論議は、女帝は非婚でなければならないことが絶対条件にされてないので、無茶苦茶な理屈になっている。プリンスコンソートなんてもってのほか。傍系皇親が多数実在していた状況での孝謙即位のケースでも正当性に乏しいのに、傍系男子皇族への皇位継承の見込みを否定して、易姓革命を是認し国を滅ぼす政策を合法化するなど、絶対的に容認できるはずがない。以下孝謙即位の異常性を挙げるとともに、女帝が皇統を形成できないという意義についても考察していきたい。
 
  ホ-1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識

 第一に天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯宿禰全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註81)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である以上、女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたのである。
 
  ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
 
 論点は次の三点である。
①聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
②聖武天皇は光明皇后に政務を托したのであって孝謙即位は形式的な実現とみられること
③天平宝字六年六月三日詔で孝謙上皇は、父帝聖武ではなく母光明皇后の命で即位したとされているのは奇妙である。
 結論を先に述べますと、聖武天皇は政務を光明皇后に托し出家した。聖武が在世されているのに皇后称制というのは奇妙で特異な在り方となること、聖武天皇の出家という既成事実が先行してしまったので、光明皇后の主導によって形式的に聖武譲位、皇太子阿倍内親王即位が実現した。聖武上皇崩後は形式上、「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれる共治体制となった。と私は考える。光明皇后の存在の大きさもさることながら、この変則的な皇位継承の在り方は、阿倍内親王が皇太子でありながら結局は皇嗣=嫡子と認められていないこと。皇統を形成できない女帝即位の論理性、正当性の弱さを物語っていると解釈する以外にないのである。
 
 
 ①譲位より出家が先行の変則性
 
 聖武天皇は天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日に阿倍内親王に譲位した。『続日本紀』に「皇太子、禅りを受けて大極殿に即位きたまふ」とあり、譲位宣命とそれを承けた孝謙の即位宣命があることから明白である。ところが、天平感宝元年(四月改元-749)の閏五月二十日に聖武は大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺などに種々の品々と墾田地を施入し、あらゆる大乗・小乗の経典を読誦させ、聖武自信の延命と衆生の救済を願う詔を発しているが、その願文中に聖武はみずからを「太上天皇沙弥勝満」と称し、『続日本紀』は閏五月二十日条に続いて「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ」とある。
 沙弥とは十戒を受持した出家者(見習い僧)を意味するので、出家した身で天皇として政務をとれない(もっともこの点は称徳女帝が先例を破っているが)から宮中から薬師寺宮に遷御され、このことが孝謙の即位を導き出したとふつう理解されている。
 聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
 川崎庸(註82)が先行説を検討しているが、孫引きになるが、ほぼそのまま引用する。
 中川収説(「聖武天皇の譲位」『奈良朝政治史の研究』高科書店1994 初出1983)は、聖武は元正天皇や藤原夫人・行基といった近親・関係者の死没による精神的打撃と不祥事連続のさなかに、陸奥国から産金の報がもたらされるとその歓びの衝動で仏道専念を決意、政務を光明皇后に託して閏五月二十日の時点で皇位を離れ、出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、譲位と阿倍内親王の即位を七月二日に形式的に実現したとされた。
 遠山美都男説(『彷徨の王権聖武天皇』角川書店は183~187頁)聖武の譲位は衝動的なものではなく、『扶桑略記抄』の記事に従い、天平二十一年(749)正月十四日に出家、廬舎那仏造立を通じて国家内的権力の頂点にある天皇を超越する立場として「太上天皇沙弥勝満」と称したとされ、聖武の自称に積極的な意味をもたせた。
 瀧浪貞子説(『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社2000 240~247頁)は、聖武の譲位は7月2日であり、「太上天皇沙弥勝満」は聖武のあくまで自称にすぎず、聖武の願望、強烈な意思表示であり、実際にはないものとされた。
 川崎庸の見解は、『扶桑略記抄』の記事は信憑性に乏しい。聖武の受戒は天平十六年の甲賀寺廬舎那大仏造立の時点も考えられ、授戒は行基でなく玄昉である。神格化した天皇の出家が前例のないものであったなどの理由から出家が遅れたとする。聖武は陸奥産金の報に四月一日東大寺に行幸「三宝の奴と仕へ奉る天皇」と自称したが、その後出家(沙弥戒)して譲位の意思を固め、閏五月二十日に「太上天皇沙弥勝満」と称したとされる。
 中川説、黄金産出の報に歓んで衝動的に出家したというのはスト-リーとして面白いし、出家の動機の一つになっていると思うが、川崎説などを勘案するとそれは計画的なものであったかもしれない。川崎庸によると、聖武天皇は早く天平六年の時点で「身を全くして命を述べ、民を安みし業を存するは、経史の中、釈教を最上」とし、「三宝に憑り一乗に帰依」することを表明しているように、かなり以前から出家を望む傾向があったとみてよい。
 一方、瀧浪説であるが、奈良時代においては、平安期において慣例化した天皇が内裏を出て、後院に天皇が遷御し譲位する在り方(『儀式』)を基準に論じる理由はないということはわかる。元正上皇が中宮西院という平城宮内を居所とされていたように、平安期のように上皇が後院に遷御されることが必然ではなかった。しかし「薬師寺宮に入ったからといってただちに出家したというわけではない」というのは空位を否定するための苦しい見解のように思える。既成事実として譲位より出家が先行してしまったという見方でさしつかえないのではないか。
 
 ②政務を託されたのは光明皇后
  
 次に聖武天皇は国政を光明皇后に委ねたとみられる点である。
 天平宝字元年七月の橘朝臣奈良麻呂の謀反が密告された際の光明皇太后の詔であるが、
 詔畢りて、更に右大臣(藤原豊成)以下の群臣を召し入れて、皇太后(光明子)、詔して曰はく、「汝たち諸は吾が近き姪なり。また竪子卿は天皇(聖武)が大命以て汝たちを召して屡詔りたまひしく、『朕が後に太后に能く仕え奉り助け奉れ』と詔りたまひき。また大伴・佐伯の宿禰等は遠天皇の御世より内の兵として仕へ奉り来、また大伴宿禰等は吾が族にも在り。諸同じ心にして皇が朝を助け仕へ奉らむ時に、如是の醜事は聞えじ。汝たちの能すらぬに依りて如是在るらし。諸明き清き心を以て皇が朝を助け仕へ奉れと宣りたまふ」とのたまふ
 群臣(特に大伴、佐伯氏)の不能を激しく糺し、厳しい態度で群臣の仕奉を要求しているが、聖武が群臣に対し、自分の崩後は光明子によく仕奉せよとの詔をしばしば発していたことが示されている(註83)。女帝によく仕奉せよではなく、皇太后によく仕奉せよである。よく知られていることを述べるだけだが、王権の掌握者、実質的な統治者、最終政務決裁者が女帝でなく皇太后であるということである。
 このことは、聖武譲位の経緯でも同じことだと思う。持統以前の皇親皇后を別として、少なくとも人臣女子では光明皇后が共知型の史上最強の皇后であることは、前回述べたとおりである。天平元年八月の光明立后宣命に「‥天下の政におきて、独知るべき物に有らず。必ずもしりへの政有るべし。此は事立つに有らず。天に日月在る如、地に山川在る如く、並び坐して有るべしといふ事は、汝等王臣等、明らけく見知られたり‥」とある。
 光明皇后は文字どおり「並び坐して有るべし」というように、天皇・上皇と並び立つ執政者であった。「天下政‥‥必母斯理倍乃政有倍之」は『儀式』立皇后儀に載せる宣命に継承されているが、「しりへの政」の意義(註84)については諸説あり、嵯峨后橘嘉智子以降は後宮及び皇族女性の統率といった限定的な概念に後退したという見方もある。この問題に深入りしないが、私は不確定概念だと思う。状況如何によっては拡大解釈が可能な余地がある。いずれにせよ三后は皇太子に准じて令旨を発給し、政治的権能を有するけれども、実態面で天皇と並び立つ共治者・執政者といえる皇后は奈良時代以降では光明皇后だけだろう。
 例えば九世紀の三后皇太夫人の附属職司の活動についていえば、文徳生母藤原順子の御願寺安祥寺の造営、陽成生母藤原高子の御願寺東光寺の造営が知られている。御願寺は官寺であるからこうした仏教事業も三后皇太夫人の政治活動なのである。また淳和太后正子内親王は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた(註85)。太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきで、こうした事業も太后の政治活動とみなしてよいわけである。
 しかし国政にしめるウエイト、事業規模からみて、光明皇后の事業に比べたら小さな活動だといわなければいわない。なんといっても光明皇后は東大寺・国分寺創建の発意者であり『続紀』の崩伝によると天皇より積極的だったとみられている。膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。
井上薫(註86)が皇后の事業を論じているが、光明子は藤原不比等の封戸を相続し、天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。光明の皇后宮職は大和の国分尼寺とされ、唐にない尼寺を僧寺と並べたことも光明皇后の指図である。写経事業を推進したのも皇后宮職である。初期の活動は他官司の能筆の官人が動員されたが、天平八年九月二十八日から一切経5048巻の書写が開始され14年たっても完了しない膨大なものだった。また皇后宮職の官人は金光明寺(のち東大寺)写経所、金光明寺造仏所、造東大寺司の官人が任命されていることからみて、東大寺の創建というものは光明皇后が勧めた政策なのであった。
仏教指向が強いのは聖武天皇も同じことであり、政策を共有している皇后は皇権の共治体制の一翼を担っていたのである。のみならず、附属職司の皇后宮職の規模が大きかった。中林隆之(註87)によると皇后宮職の下級官司として政所、縫製所、掃部所、勇女所、染所、主薪所、浄清所、泉木屋所、写経司(天平十四年以降は金光明寺写経所となる)、造仏所、施薬院、悲田院、酒司、嶋院、外嶋院、法華寺政所のほかに蔵を管理しており、内供奉、舎人長、蔵部という奉仕組織があった。天皇の内廷に類比しうる規模が備えられたのである。
 要するに、聖武が出家されるとなれば、もう一人の執政者、光明皇后に国政が委ねられたのは政策の継承という観点からも安定的で自然の成り行きとみてよいのである。
 孝謙女帝は執政権を委任しうる光明皇后という強力な存在によって異例であるが即位することができたとみることもできる。

  ③光明皇后の指示による孝謙即位

 天平宝字六年六月三日の、孝謙上皇が保良宮から平城京に還御されたときの詔。いわゆる奪権闘争宣言の冒頭の意義が問題になる。
‥‥朕が御祖太皇后の御命以て朕に告りたまひしに、『岡宮に御宇しし天皇の日継は、かくて絶えなむとす。女子の継には在れども嗣がしめむ』と宣りたまひて、此の政行ひ給ひき‥‥
 であるが、孝謙上皇の詔で、草壁皇統が淳仁天皇の舎人親王系皇統より圧倒的に優位にあるという主張はそれなりに理解できる。そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子の補佐を受け持つこととされたのだから。しかし、女子であるにもかかわらず、光明皇后の命により岡宮御宇天皇(草壁皇子)の日嗣=皇統を絶やさないために即位したとする点が論理矛盾であり、ひどく苦しい強弁である。重大なのは孝謙は父帝聖武からの譲位であるはずなのに、母光明皇后の命だとされていることであるが、倉本一宏は「孝謙の即位自体が、光明皇太后の指示によって行われた」(註88)との解釈であり、私は国政が委ねられた光明皇后の執政を正当化するために孝謙が即位したことを裏付けていると解釈する。聖武譲位それ自体も光明皇后の主導とみなすべきかは精査はしなければなるまいが、私の結論はこうである。
 要するに、天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日の聖武譲位孝謙即位は形式的であり、実質的には光明皇后に政務が委ねられた。孝謙は「皇太后朝」を正当化するための役割をふられた。前代天皇が在世されているにもかかわらず、皇后の指示で即位したというきわめて特異な皇位継承例である。ストレートに孝謙が執政権を掌握できないのは、孝謙即位の正当性の弱さ、立太子のうえ即位したにもかかわらず、結局は皇嗣=嫡子と認められない、皇統を形成できない女帝であるからである。

 
(註79)『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条
(註80)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註81)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註82)川崎晃「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会2004
(註83) 倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館 1997 436頁
(註84)井山温子「しりへの政」その権能の所在と展開 『古代史研究』13 1995
田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981-11
(註85)『日本三代実録』元慶三年三月二十三日条
(註86)井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978
(註87)中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994
(註88) 倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998、95頁

2005/09/11

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第8回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月11日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
      (今回掲載)

 二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

 内親王立太子の前例は歴史上唯一、天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王立太子(のち孝謙女帝-当時21歳)のみである。このきわめて異例な立太子は、瀧浪貞子(註73)が論じるように阿倍内親王の生母光明皇后(右大臣藤原朝臣不比等女安宿媛)の異母兄弟(右大臣藤原朝臣武智麻呂、参議民部卿房前、参議式部卿兼大宰師宇合、参議兵部卿麻呂)が天平九年の大疫癘、天然痘の猛威により相次いで薨じたことによる社会的動揺と関連する。藤四卿が不測の事態で薨じたことは朝廷にとって大きな痛手になった。政権首脳部が次々に亡くなるということは異常なことであり、それ自体大事件なのである。
 また瀧浪氏は阿倍立太子の時点で光明皇后が38歳であり、后腹皇子誕生が難しくなったこと、夫人県犬養宿禰広刀自所生の安積親王が11歳(但し天平十六年に急逝)となり、成長した安積親王を抑える意味もある(註73)とされているが、以上の見解についてはほぼ賛同できる。
 先行説もあげておくと、岸俊男は、光明皇后あたりの意見が相当強く働いたと推測され、機先を制したという見方である、大納言橘諸兄は複雑な血縁環境で微妙な立場にあり、反藤原氏の旗色を鮮明にする暇もなく押し切られたとの推測である(註74)。
 須田春子の見解は明快で「皇后光明子を立てて自家勢力の伸張と維持を期する藤原氏一族の、強い執念とも云うべき意図のもとに阿倍内親王は東宮に立ち‥‥阿倍皇女は誕生以来決して際だった特別の存在ではなく、当時藤原氏所生の唯一の皇族であるために推されて皇太子となり、やがて皇位に登る廻り合わせとなったまでのことで、端的に云うならば藤原一族の私的事情を除いては、当時必ずしも内親王立坊の決定的理由乃至根拠はなかったと思われる。なぜならば、その頃皇族諸王には天智・天武の皇子・皇孫が幾人も実在した。いやそれよりも聖武第二皇子安積親王は天平十年には已に十一歳に達している」(註75)とされているが、安積親王の天平十六年急逝は藤原仲麻呂の毒殺とみなす見解(横田健一説)があることはこの間の情勢を反映している。
 しかし瀧浪氏は、聖武天皇の皇位継承構想が、阿倍内親王から安積親王であったと推定されている(註76)。瀧浪説の特徴は、阿倍立太子が光明皇后や藤原氏の意向をふまえたというよりも、あくまでも聖武天皇の意思決定とみなしている点、安積親王への皇位継承のためにも阿倍立太子が必要だった。「不改常典」の嫡系相承の論理から、阿倍内親王の立太子は不可欠な手続きであったとし、それなりの意義を認めている点だが、聖武天皇による意思決定については異存はない。参議兵部卿藤原豊成が策略家タイプでないので藤原氏策略説をとる必要はない。それはもっともである。
 しかし瀧浪氏が聖武天皇も光明皇后もたとえ女子でも后腹で年長の阿倍をさしおいて、安積の立太子は考えられなかったという見方をとっているのは問題だ(註77)。この見解は通時代史的にいえば常識的とはいえない。少なくとも同世代では后腹皇子が非后腹皇子より皇位継承候補として勝っていることは当然の理屈だが、皇女にまで拡大するのは他の時代にはみられない理屈である。
 光仁皇女酒人内親王(母は廃后井上内親王)や鳥羽皇女暲子内親王(母は皇后藤原得子-美福門院)が女帝候補に浮上したことはある。しかし結局、非后腹の桓武、后腹という条件は同じで後白河が登極したのである。一般的にいえば后腹の内親王は厚遇されるのは当然のこととして、后妃候補、斉宮候補、平安末期以降では准三宮から、非婚准母皇后、非婚の女院候補になるとしても、皇子をさしおいてまで女帝候補に浮上するということはない。
 例えば、三条皇女禎子内親王は后腹で、藤原道長を外祖父とするゆえ、同じく后腹とはいえ藤原済時を外祖父とする三条皇子小一条院敦明親王より政治力学的に有利な立場にあったということは、ここで当時の藤原道長の権勢の説明する必要はないだろうし、禎子内親王は道長存命のうちは大変厚遇されていた。しかし皇子ではないから敦明親王をさしおいて立太子ということはならない。禎子内親王は後朱雀后となっても女帝候補にはならないのである。後鳥羽后藤原任子所生の昇子内親王(春華門院)は、膨大な八条院領を相続したが、たとえ外祖父九条兼実の関白罷免事件がなくても、非后腹の為仁(土御門)をさしおいて皇位継承者となるということは考えにくい。
 従ってこれは光明立后の史的意義と関連する問題としてとらえたい。光明皇后は、持統以前の皇親皇后を別問題として、人臣女子では共知型(天皇・上皇と並び立つ執政者)といえる史上最強の皇后であり、施薬院や悲田院(貧窮・病者への福祉事業)を設立し、国家的仏教事業(膨大な写経・勘経事業・造仏事業など)を推進した。附属職司の皇后宮職は、天皇の内廷に類比しうる規模を有し実務官人の養成機関としての性格も有していた(註78)。後に附属職司が紫微中台に改組され、太政官機構と並ぶあるいはそれを凌ぐ政治拠点となったことからも明らかなように、元正上皇が在世されているうちはありえないことだが、聖武天皇が政治に飽きてしまえばいつでも太后臨朝称制もしくは皇太后摂政という形式で国政を委任できるような態勢にあったと考える。
 もし、もうこの時点で聖武天皇はいずれは国政を光明皇后に委ねて出家する意向があったとすれば、阿倍内親王が即位したほうが皇太后摂政、皇太后称制はスムーズに移行できるのであり、そのような長期構想から阿倍立太子の意思決定がなされた蓋然性もあると私は考える。
 藤原氏からすれば、もちろん后腹皇子の皇位継承が最善であったが、皇太子基王は夭折した。光明皇后は38歳になった。次善策は藤原氏女腹の皇子誕生だが、入内した武智麻呂女も房前女も皇子女をもうけていない。阿倍内親王立太子は次の次の善処策ということであろう。
 天平六~九年前後に武智麻呂女と房前女が夫人として入内しており、天平十年の時点では藤原氏女腹皇子が誕生する可能性はまだあった。ただ藤原腹皇子の誕生を見込むとしても年齢差からみて中継ぎは必要であり、阿倍内親王が皇太子である限り、安積親王を担ぐ不穏な動きを封じられるので政治的安定にとっても好ましいと判断されたのだと思う。
 もう少し無難な見方を示しておくならば、阿倍立太子と同日に橘宿禰諸兄が右大臣に昇進していることからみて、これは、社会的動揺を抑え政局の安定化を図るためのバランス人事とみることはできるだろう。
 太政官決裁者は藤原不比等-長屋王-藤原武智麻呂と推移してきた。藤原氏は議政官の半数を占め、藤四卿体制といわれるように政権を主導してきた。しかし四卿薨後、藤氏で参議に昇進したのは豊成(兵部卿を兼ねる)だけで、又、文官人事を掌握する式部卿は、武智麻呂、宇合と歴任し20年近く藤氏がおさえていたポストであったが、天平十年正月の中納言多治比真人広成の任用により、政権における藤氏の比重は大きく後退した。しかし政権変動に伴う動揺は最小限に抑えなければならない。
 
 そもそも聖武天皇の母と妻后は藤原不比等を父とする異母姉妹で、光明子とは同年齢で霊亀二年16歳で結婚したが、もともと不比等邸で一緒に育てられていたので非常に絆の強い天皇と皇后である。東宮傅として皇太子時代の養育責任者が叔父の武智麻呂であった。聖武朝が外戚藤原氏を主軸として支えられ、光明皇后が皇権の一翼を担う共同統治者としての性格を有している以上、太政官決裁者に橘宿禰諸兄(敏達裔)を起用し、台閣第二席、第三席級も鈴鹿王(天武孫)、多治比朝臣広成(宣化裔)と王氏に偏った政権になってしまったからには、異例ではあるが藤氏を近親とし后腹でもある阿倍内親王の立太子により政治的なバランスをとる必要があったといえる。要するに聖武天皇がこの時点で安績立太子のような外戚の利害を無視し、政治的に不安定な状況をもたらす人事を強行することはありえない。聖武上皇の遺詔で道祖王が立太子されたが、道祖王の父新田部親王の母が藤原鎌足女でやはり藤氏と縁のある傍系皇親を選んだことでも明らなことである。聖武天皇と藤原氏のむすびつきは強いのである。
   本題に戻ると、阿倍立太子の時点では異母弟の安積親王が健在であること(既に述べたように瀧浪氏はこの時点で阿倍-安積という皇位継承を想定されている)、光明皇后が皇子を儲けるのは38歳(聖武と同年齢)という年齢的に難しくなったが、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、阿倍内親王は立太子の時点で中継ぎを想定してよいと思う。
   いずれにせよ、天平十年の立太子例は特異な事例であること。天平九年の大疫癘にともなう社会的動揺と政権変動に対する対応、光明皇后という強力な皇后の存在という政治的背景があり、この特異な先例をもって現代において女性立太子を正当化できるものではない。阿倍内親王立太子の時点では、安積親王のほか、まだ皇子誕生の可能性があったほか、傍系皇親は多数実在しているから、現今のような皇位継承候補者が枯渇し血統的に袋小路の状況とは異なっており、そのような意味でも中継ぎと理解してさしつかえない。
   しかし即位の時点では聖武皇子はなく、聖武は出家されたので草壁皇統が血統的に袋小路の状況になった。いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、聖武天皇が陸奥産金の知らせに喜ぶあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出した状況で即位した。これが現今の状況に類似している。
 あってはならないことだが、現代で女帝即位となれば、現今の状況にもっとも類似しているのが、孝謙即位のケースである。したがって、女帝即位は生涯非婚独身が絶対条件、であることは当然として、女帝即位の是非は、孝謙女帝即位の評価の一点にかかっている。孝謙女帝の評価が全てである。結論を先に述べるとたとえ生涯非婚独身であっても現今の状況で女帝即位の正当性、論理性は全くない。この問題は長文になるので次回に回すこととする。
 
(註73)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「第一章光明子の立后とその破綻」29頁
(註74)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 新装版 1987(初版1969)72頁
(註75)須田春子『律令制女性史研究』千代田書房1978「高野天皇」492頁

(註76)瀧浪氏の見解「‥(藤氏)四兄弟の急死という不測の事態のなかで、成長する安積を抑えるために取った措置であったとみるべきである。それはいつか安積の皇位継承を期待する聖武にとっても不都合でなかったと思われる」前掲書29頁
(註77)瀧浪氏の見解「‥嫡系相承にこだわる聖武にとって、安積よりも年長の阿倍を差し置いて、安積を皇位継承者とすることは到底考えられなかった。それは光明子とても同様であった」、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 
(註78)光明皇后の政治活動につき 井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978 中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994

2005/09/10

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回

川西正彦(掲載 平成17年9月10日) 
 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝(以上今回掲載)
   

 次回予定
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

〔6〕皇親内婚の男帝優先
 
 既に述べたとおり、皇親女子は配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対にない。皇親内婚における男帝優先は自明である。つまり、草壁皇子が早世し、所生の文武も早世したから元明が即位したのであって、草壁をさしおいて元明が即位することありえない。皇女を后妃とする傍系皇親が即位するケースは少なからず例があるが、傍系の継体(応神五世孫)が皇位を継承したのであって仁賢皇女の手白香皇女はあくまでも皇后である。傍系の光仁(天智孫白壁王)が皇位継承したのであって、聖武皇女井上内親王はあくまでも皇后である。近世でいえば傍系の光格(閑院宮典仁親王第六王子祐宮)が皇位を継承したのであって、前代の後桃園皇女欣子内親王はあくまでも皇后です。傍系皇親男子と、前代の直系卑属皇親女子との結婚では、男子皇親が皇位を継承し、直系卑属の内親王は皇后でなければならない。
 内親王を后妃とすることは皇位継承を正当化する決定的なものとは断定しない。しかし皇位継承を正当化しやすいとはいえる。光仁天皇が前斉王聖武皇女の井上内親王を皇后に立て、桓武天皇は井上内親王を母とする前斉王酒人内親王を妃(異母兄妹婚)とし、平城天皇が酒人内親王を母とする前斉王朝原内親王を妃(異母兄妹婚)した例は、継体、安閑、宣化がそれぞれ仁賢皇女を皇后に立てたことと類比する意義を有するとも考えられるだろう。又、内親王の立后が皇位継承の前提になっているケースも少なくないと思う。冷泉天皇、堀河天皇、二条天皇がそうだろうし、ほかにもあるだろう。なお冷泉天皇は傍系ではないが、皇太子時代に元服式の時点で朱雀天皇の唯一の皇子女である昌子内親王を東宮妃とされたのは、この皇統の正統化という意義があったとみてもよいのである。
 いずれにせよ、皇親内婚では皇親男子が傍系であれ直系であれ男帝優先である。いうまでもないことである。現今の女帝論議では、内親王が女帝として即位しても、結婚相手を王姓者(皇親)に限定すれば男系継承上問題ないという意見もあるようだが、私は大反対です。あくまでも伝統は男帝優先であり、前代の直系卑属が優先するわけではありません。この場合は、傍系王姓者(皇親)が即位し、内親王は皇后です。皇后というは、もともと皇女が原則であった、「しりへの政」(註61)という不確定概念ではあるが政治的権能を有し、持統や光明皇后にみられるように、皇権の一翼を担う、共同統治型の強力な皇后も歴史上存在したことからみて、皇后という身位で不足ということは絶対ありません。女性当主・女帝即位にしなければ気が済まないという考え方は大きな誤りです。
 継嗣令王娶親王条の皇親女子の内婚規則の趣旨から女系継承はありえないと再三述べましたが、男帝優先原則から、皇親女子の結婚相手である皇親男子をさしおいて皇親女子が即位することは絶対あってはならない。それが皇室の伝統です。
 
 〔7〕女帝は皇統を形成できない
 
 女帝は皇統を形成できない。この細節では生涯非婚内親王の女帝四方の即位の意義と問題点を考察し、私の意見を述べたい。なお聖武天皇即位詔と次回の孝謙女帝については瀧浪貞子説(註62)を主として引用したうえ私の意見を述べる(もっとも瀧浪貞子は毎日新聞2005年1月24日の「論点女性天皇どう考える」で古代女帝に関する持論を要約して述べ歴史に学ばない安直な議論を避けるべきだしとしつつも、女性天皇に賛同するというのである。瀧浪氏の持説からすれば女系継承に反対してよさそうだが、とてもがっかりした)。

 我が国の経済繁栄の基礎は奈良時代、元明・元正朝の貨殖富国政策にある(現今の状況で女帝即位は絶対的に反対であるということと歴史上の女帝の治績を讃えることは決して矛盾するものではない)。
 
  イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義

 元正女帝(霊亀元年即位-715年)の詔勅「国家の隆泰は、要ず、民を富ましむるに在り。民を富ましむる本は、務、貨食に従ふ。故に、男は耕運に勤め、女はジム織を脩め、家に衣食の饒有りて、人に廉恥の心生ぜば、刑錯の化け爰に興り、太平の風到るべし‥‥」(霊亀元年十月七日条)。民を富ませることが国政の基本方針であることを述べ、人民に貨殖に励むよう諭し、勤勉に働くよう命じた。日本人が勤勉であるとされるのはたぶんそのためである。又、徹底した文書主義による律令国家収取体系が確立したのは元正女帝の養老年間とみなされているから、国家財政を確立したのは元正女帝である。百万町歩開墾計画や三世一身法を施行したうえでの譲位であるから、私のような素人目にみても経済・財政重視の政策を遂行し、ぶれのない統治者と高く評価できる。素人目からみて仏教依存傾向が強く、陸奥産金の報らせに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出したともいわれる聖武天皇よりも安定的で堅実な統治者と評価できるだろう。
 律令国家は天譴思想や徳治思想により天皇に政治責任を要求する。そのような意味では現代の「象徴」という在り方とは違った意味で、君主に厳しい試練がある。元正朝においてはとくに元明上皇崩後、政権の動揺があったが、女帝はそれを乗りきった。井上亘によれば、元正女帝は、天意に自己を向き合わせて刻苦自勉し、人事においては「万方辜有らば、余一人に有り」「向隅の怨、余一人に有り」という深い自責をもって「仁恕之典」を施行した。また「面従して退き、後言有ること無かれ」と政治批判にも耳を傾け、実情を把握すべく「極諫」を求めた(註63)。国家のトップであれ企業のトップであれ、耳にしたくない悪い情報も把握しなければ裸の王様だ。当然のことだと思います。元正女帝は統治者の資質として優れていたことは明白であります。また春名宏昭によれば元正は譲位後も太上天皇として国政の総覧者、天皇大権の掌握者だった(註64)とされる。
 
しかしながら元正朝の基本的性格は、あくまでも甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が成長するまでの中継ぎであることは、自明なのであります。むろん聖武即位後も上皇として国政の総覧者であったから、聖武の後楯としての位置づけもあったかもしれないが、中継ぎにすぎないことは自明であります。

 元明女帝の和銅七年(714)六月に首皇子(のち聖武天皇)が立太子、元服を加えた、翌霊亀元年正月一品を授けられ、九月二日(庚辰)元明女帝の譲りをうけて即位した。

天皇、位を氷高内親王に禅りたまふ。詔して曰はく「乾道は天を統べ、文明是に暦を馭す。大いなる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。(中略)今、精華漸く衰へてむくいわく耄期斯に倦み、深く閑逸を求めて高く風雲を踏まむとす。累を釈き塵を遺るること、脱シに同じからむとす。因てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉く祗み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ。(註66)

 元明女帝は政務に疲れたので、皇太子に譲りたいが、まだ幼稚であり、一日に万機ある政務決裁能力に疑問ということだろうが、聡明であり沈着冷静、政務決裁能力のある元正に、皇太子が成長するまで中継ぎとして、皇位を継承させるという趣旨であろう。

 当時、皇太子首皇子が15歳で、文武天皇が15歳で即位した例からみて、年齢的に支障はないはずという見解があるが、そう思わない。文武即位は、持統上皇との共治体制であり、文武天皇には強力な共同統治者が存在したからこそ15歳で即位できた。もし、元明から直接首皇子に継承されると、祖母から孫への継承となり一世代飛び越えてしまう。 これは、持統から文武への継承と同じことではあるが、結果的に元明が即位せざるをえなかったように、やはり一世代飛び越すのは皇位の安定的継承という観点から問題がある。
 もし首皇子が后腹なら先帝皇后が後見者であってもよいのだが、文武は皇后を立てなかった。首皇子の生母、夫人藤原宮子は后位にのぼせられてなかったし、「久廃人事」という重い鬱病で無力な存在であり、伯母にあたる元正女帝の中継ぎと後楯が必要だったということだと思う。聖武生母藤原宮子が宮廷における求心力がなく、皇太夫人として政治力を発揮することが全く期待できないこと。聖武のように非王姓腹の天皇は大友皇子を除けば崇峻以来であり王権の安定的継承という観点で、首皇子には母后の後楯がないに等しく、伯母にあたる元正の後見は必要だったと考える。そこで文武皇姉の氷高内親王が生涯非婚独身であることを前提として即位したのだろう。 むろん、舎人親王や新田部親王といった天武皇子が中継ぎとして即位してもよいわけだが、それでは軋轢を生じて、皇太子への直系継承路線が破綻しかねないし、王権の安定的継承という観点では伯母にあたる非婚内親王の中継ぎがベストという判断によるものだろう。
 
   
  ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)

女帝は皇統を形成できない。それは神亀元年二月四日聖武天皇即位詔の論理で明白なことである。
二月甲午、禅を受けて、大極殿に即位きたまふ。天下に大赦す。詔して曰はく、「現神と大八洲知らしめす倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ大命を親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。
高天原に神留り坐す皇親神魯岐・神魯美命の、吾孫の知らさむ食国天下と、よさし奉りしまにまに、高天原に事はじめて、四方の食国天下の政を、弥高に弥広に天日嗣と高御座に坐して、大八嶋国知らしめす倭根子天皇の、大命に坐せ詔りたまはく、「此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に天下知らしめししみましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業」と、詔りたまふ大命を、聞きたまへ恐み受け賜はり懼り坐す事を、衆聞きたまへと宣る。
「かく賜へる時に、みまし親王の齢の弱きに、荷重きは堪へじかと念し坐して、皇祖母と坐ししかけまくも畏きは我が皇天皇に授け奉りき。此に依りて是の平城大宮に現御神と坐して大八嶋国知らしめして、霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業、食国天下の政を朕に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、『かけまくも畏き淡海大津宮に、御宇しめしし倭根子天皇の、万世に改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我が子に、さだかにむくさかに過つ事無く授け賜へ』と負せ賜ひ詔り賜ひしに、坐す間に去年の九月、天地のたまへる大き瑞物顕れ来り。また四方の食国の年実豊にむくさかに得たりと見賜ひて、神ながらにも念し行すに、うつくしくも皇朕が御世に当りて顕見るる物には在らじ。今嗣ぎ坐さむ御世の名を記して応へ来りて顕れ来る物に在るらしと念し坐して、今神亀の二字を御世の年名と定めて、養老八年を改めて神亀元年として、天日嗣高御座、食国天下の業を吾が子みまし王に授け賜ひ譲り賜ふ」と詔り賜ふ天皇が大命を、頂に受け賜はり恐み持ちて‥‥‥(後略)」(註66)

 早川庄八の口語訳(註67)は「高天原にまします皇祖の男神・女神が、わが子孫の統治すべき食国天下であると子孫に委ねられたままに、高天原に事をはじめて以来、四方の食国天下のマツリゴトをいよいよ高くいよいよ広く、皇孫として天皇位にあって大八嶋国を統治してこられた倭根子天皇、それが元正天皇です。その元正天皇が聖武天皇にこういいました。『この食国天下はかけまくもかしこき藤原宮で天下を統治していた、ミマシの父であられる天皇(文武天皇のことです)が、ミマシに賜った、神意に沿って治めるべき天下である』と。そのようにおっしゃるオオミコトを、自分(聖武)はお聞きなって恐懼していることをみんな聞け」というのが第一段。
 元正上皇が聖武天皇に語ることばはさらに続いて(ここからは直の引用ではありません)、「文武天皇はミマシ親王(首皇子-当時7歳)が年少で荷が重いことは堪えられないだろうと思って皇祖母(皇族女性尊長)の元明天皇さらに霊亀元年、朕(元正)に天つ日嗣高御座の業(天皇位)、食国天下の政(国土統治権)を授けられ譲られたのだが(この時点で首皇子は15歳)、そのとき母元明は『天智天皇の不改常典に従って法の随に、天皇位と統治権を吾が子(孫だけれども吾が子)に確実に過つなく授けなさい』とお命じになったので、朕が在位している間に、昨年の九月大瑞物(白亀)が顕れ、四方の食国(畿外の国郡)も実り豊かであることから、このめでたいことは、朕の御世にあたってあらわれたものでなく、これから天皇位を嗣ごうとなさっているかたの御世の名を記して応えようとしているものだろうと思って、いま神亀の二文字を御世の名と定め、養老八年を改めて神亀元年とし、天つ日嗣高御座(天皇位)、食国天下の業(国土統治権)を吾が子(甥であるが吾が子)であるミマシ王に授け譲る」

「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」(此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に、天下知らしめしし、みましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業)この食国天下はあなたの父である文武天皇があなたに賜った天下であるという元正上皇の仰せであります。
 「不改常典」の意義については諸説あり定説はないと思うが、瀧浪貞子は「不改常典」についてこう解説している。「一つは皇位の継承を大きく制約する結果をもたらしたことである。すなわち八世紀では嫡系継承は社会的な慣行ではなく、極端にいえば、皇位継承者は皇胤でさえあればよかった。兄弟継承や時には遠い皇親の即位がみられた理由である。それが皇位が草壁系に独占されたことにより、草壁系(皇統)以外は正統な継承者ではないという観念-皇統意識を生み出した。つまり皇位の継承に皇統という要素が加わってきたわけである。‥‥二つには、拠り所にされた「不改常典」の論理は、右にいう皇統から女性を排除し、女帝の立場を著しく制約する方向で作用したことである。‥‥文武以後の皇位は、文武-元明-元正-聖武へと継承されたにもかかわらず、元明は元正に対し、皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承されるのだ。と述べている。とくに元正は草壁の子でありながらその皇統から除外されている。けだし嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系継承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるをえなかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意義もあらためて理解されよう」(註68)。
 
 つまり「不改常典」において女帝は皇権を継承できるが、皇統を形成できない。非婚内親王だから皇統を形成できないのは自明だが、「皇統」からも除外されているのであるから、女系継承がありえないのは明白なことである。「不改常典」については諸説あり、必ずしも嫡嫡継承、直系継承をさすものという固定観念を私はもっていないが、私は瀧浪氏が説明している「皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承される」という論理は「不改常典」の解釈に限定することもなく、「不改常典」の解釈いかんにかかわらず皇位継承における男系継承の論理とみなしても大きな誤りはないと思う。少なくとも実際には文武-元明-元正-聖武と継承されているにもかかわらず文武から聖武に継承されると言い切っているわけだから、女帝の中継ぎは男系主義的脈絡で理解する以外にない。
 要するに元正女帝は、天武皇子で皇親年長者の舎人親王と新田部親王を皇太子首皇子の輔政者と位置づけ首皇子を支える万全の態勢をしいて、元明上皇崩後の政権の動揺があったがこれも乗り切ったうえで譲位されたのですが、あくまでも元明の命令は中継ぎであるからその役割に徹したのだし、だからこそ、禁欲的な非婚独身の女帝であったのであります。皇統はあくまでも、草壁皇子(即位していないが正統の皇位継承予定者である)-文武-聖武と継承されたのであって、女帝は一時皇権を預かっていただけという解釈でよいと思います。

 ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである

 生涯非婚の女帝の即位の経緯を分析すると、即位の時点で直系継承のための男帝への中継ぎとしての性格が明白なケースが三例(元正・明正・後桜町)である。
 元正天皇は、皇太子首皇子の成長までの期間、草壁皇統直系継承のための中継ぎとして即位したことは『続日本紀』神亀元年二月、聖武天皇即位詔などで明白であることは上記に述べたとおりである。焦点は孝謙女帝の評価になるが次回に回し、天平十年の阿倍内親王立太子は特異な例であるが、この時点では安績親王が健在だったことと、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、中継ぎを想定してよい。その前に近世の女帝についても言及しておこう。
 
 
 明正女帝
 
 明正女帝のケース(寛永六年践祚 1629年)は父帝後水尾に皇子がない時点での譲位受禅でありきわめて異例の皇位継承だが、しかも幕府に無断で譲位を強行したことによる政治的波紋が大きくかなり特異なケースといえるが、結論としては中継ぎである。
 後水尾天皇は幕府の対朝廷強硬策への憤懣が募っていたようだ。天皇が即位して数年後元和元年「禁中並公家諸法度」が幕府によって作られましたが、天皇の御行動がそういうものによって拘束されるというのは未曾有のことであった。とりわけ寛永四年に徳川幕府が紫衣勅許と上人号勅許の事実上無効を決定した事件があり、寛永五年八月に譲位を表明したが、幕府は慰留した。しかし寛永六年(1629年)五月再び譲位の意思を公卿等に覚書として示した。それは小槻孝亮の日記に記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」とあり(註69)、そのとおり異母弟の後光明に皇位は継承されたので、やはり直系継承のための中継ぎとみるべきである(後水尾は譲位の時点で34歳)。譲位の意思は幕府に伝えられたが、大御所秀忠、将軍家光ともに時期尚早として認めていない。
 同年十月に将軍家光の乳母ふくが上洛し、これは譲位の理由となっている疾病が本当なのか偵察ともいわれているが、無位無官の身で拝謁し天盃が授けられ春日局の名号を許されている。荒木敏夫によれば、後水尾は屈辱的な対応を強いられ憤懣がピークに達したようだ(註70)。
 中宮源和子(徳川秀忠女)所生女一宮7歳は未定名号の状態だったが、春日局が上洛中の十月二十九日内親王とする宣下が下され興子内親王となった(中世以降、未定名号のままの皇子女も少なくなく、とりわけ南北朝時代以降、内親王位が消滅した時期があり、皇女は比丘尼として比丘尼御所に入室し身を処す時代となっていた。女一宮は后腹で、しかも徳川秀忠を外祖父としているから内親王宣下は当然なのだろうが、この時点で内親王践祚は予測されていない)。
 十一月八日早朝突如公家衆に束帯を着けて直ちに参内せよとの触れがまわり「俄の御譲位」が決行された。このことは中御門宣衡以外誰も事前に知らされておらず、幕府の同意もなく、しかも幕府の嫌悪する女帝践祚が強行されたことで異例中の異例であった。
 京都所司代板倉重宗が内親王践祚の情報を得たのは八日申刻であるが「不慮俄御譲位、中々廃亡、言語道断」と驚きを隠さず、九日急報の飛脚が発するとともに、江戸表の指示があるまで上皇を軟禁し、これ以上の皇位継承儀礼の凍結を暗に要請するが、上皇の決意は固く女院号定めなどが強行されたのである。
 十二月一日に所司代重宗は武家伝奏を召還し、「江戸両御所、何之故御譲位候哉、一端不審可被申候間、如何様御事にても御返答覚悟、公私共肝要事候」という、大御所秀忠、将軍家光の不快感と疑惑を告げ、幕府儒官林羅山の女帝践祚に否定的な見解が披瀝され、連日のように緊迫した朝幕交渉がなされた。今谷明(註71)によると幕府は自らの権威失墜となる無断践祚の女帝出現を阻止すべく、女帝践祚の既成事実を認めずに、後水尾の復位と、内親王を皇位から「おろし参らす」可能性を探るため、懸命の説得がなされたのだという。
 しかし、京都で情報を収集していた前豊前小倉城主細川三斎(忠興)の践祚取り消しが不可能という書状もあり、幕府は十二月下旬には復位工作を断念した。今谷明は明正践祚は近世の朝幕関係でも重大事件であり、「承久以来は武家より計らい申す」と言われて定着していた公武協議による皇位継承の伝統の明瞭な背反を是認したことにより、徳川秀忠が京都朝廷に全面的に屈服した政治的意義のあるものと評価されている。むろん後水尾天皇の腫れ物の持病については、毎朝暁、水ごりをとって神拝するという、天皇にとってが大切な神事がままならないほど悪化していたという見方もあるが、一方、単純に言ってしまえば、俄御譲位-明正践祚は幕府に対するあてつけというか意趣返しのような政治行為のようにも思える。

 後桜町女帝
 
 後桜町女帝のケース(宝暦十二年践祚 1762年)は、一歳年下の異母弟である桃園天皇が22歳の若さで崩御になられたうえ、忘れ形見の英仁親王(のち後桃園天皇)が5歳と幼少であるため「暫ク御在位在ラセラル様ニ御治定」と壬生知音の日記にあるように、儲君英仁親王が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である(註72)。皇位継承予定者の伯母が中継ぎという点では元正のケースに類似する。
 あえて女帝即位はそれなりの事情があった。ひとつは、中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましいことではなかったこと。決定的には宝暦事件(竹内式部一件)の教訓である。宝暦六年、桃園天皇の近習徳大寺公城が天皇に竹内式部の進講を勧めたが、垂加流神道説に傾倒する天皇近習ら一部公家衆の行動は、摂家衆に多大な不安を与え、桃園養母青綺門院藤原舎子の諫めにより中止されたが、桃園天皇は漢学に造詣深く、向学心旺盛で、すこぶるこの神道説に傾倒されていたため、これが不満で、進講再開をめぐって状況は一転、二転し、宝暦八年七月、摂家衆は相計り、主立った近習(徳大寺公城、烏丸光胤、正親町三条公積、坊城俊逸、西洞院時名、高野隆古ら)が処罰された。徳大寺らは天皇に取り入り、朝儀を勝手気儘に運営しようとし、関白をはじめとする摂家や武家伝奏、議奏を天皇から遠ざけるよう画策したということが処罰理由とされているが、この事件は近習衆の台頭により、天皇と摂家の対立が先鋭化した事件といえるだろう。その三年後に天皇は急に崩ぜられたが、緋宮智子内親王践祚は、摂家衆の密議で決定され、関白近衛内前が摂家衆の総意として皇室の尊長である青綺門院藤原舎子に伝え、女院は英仁親王への皇位継承を望んだが、結局関白の説得で承認したものである。久保貴子は、宝暦事件により公家社会に動揺が残っていて、朝廷内が不安定な時期に英仁親王を天皇に立てた場合、その周囲の環境に自信がもてなかったのではなかろうかとの見解である(註73)。後桜町生母が関白二条吉忠女青綺門院藤原舎子で、明正女帝の先例もあり、暫くは智子内親王の中継ぎが政情安定のためには無難であるという政治判断によるものだろう。
 
   
(註61)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
 田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
(註62)瀧浪貞子の次の著書を参照した。『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991のⅠ皇位と皇統、『最後の女帝孝謙天皇』吉川弘文館歴史ライブラリー44 1998、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000、「孝謙・称徳天皇-「不改常典」に呪縛された女帝-」『東アジアの古代文化』119、2004・春(特集日本の女帝)、『女性天皇』集英社新書0262D  2004、
(註63)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998「元正政権論」85頁
(註64)春名宏昭「太上天皇制の成立」『史学雑誌』99編2号1990
(註65)『続日本紀 一』新日本古典文学大系岩波書店
(註66)高天原以下 早川庄八『続日本紀(古典講読シリーズ)』岩波セミナーブックス109 1993 143頁以下
(註67)早川庄八 前掲書 143頁以下
(註68)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」81頁。なお『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 94頁、『女性天皇』集英社新書0262D  2004 142頁にも同趣旨の見解を述べておられる。
(註69)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註70)荒木敏夫 前掲書 275頁以下
(註71)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000所収
(註72)荒木敏夫 前掲書 286頁
(註73)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「第五章上皇・天皇の早世と朝廷運営」215頁

つづく

2005/09/07

合衆国最高裁レーンキスト主席判事葬儀に思う

川西正彦-平成17年9月7日

 連邦最高裁レーンキスト主席判事は、9月3日甲状腺癌の合併症で亡くなった(享年80歳)との報道をみました。同判事が甲状腺癌であることは昨年の暮れから報道されているので想定の範囲内であるが、オコーナー判事の引退に続いて米国では大きなニュースになっている。レーンキストは1972年ニクソン任命で最高裁入り、1986年レーガン任命により主席判事、就任当初より最右派、司法自制主義の裁判官との評判でした。実務的手腕においても有能な最高裁長官とされている。本日(9月7日)葬儀があり国立墓地に埋葬されます。残念ながら私は葬儀に際して申し訳ないが、同判事を批判したいと思います。
 それはやっぱり1986年のヴィンソン判決MERITOR SAVINGS BANK v. VINSON, 477 U.S. 57 (註)で、レーンキストが法廷意見を記しいわゆる敵対的・不良職場環型のセクハラでも雇用条件における具体的、経済的不利益がなくても公民権法タイトル7に基づき訴えることができる判示したたため、セクハラ訴訟の増加を決定的なものとした事に対する強い不満です。
 ヴィンソン女史は1974年にMeritor Savings銀行の金銭出納係訓練生として雇用され、金銭出納係から係長にまで昇進したが1978年11月病欠を過度に使いすぎたために解雇された。上司Taylor氏に初めて誘われたのは彼女が訓練生の時だった。Taylor氏に夕食に招かれた時、モーテルに行こうとの誘いがあった。彼女は仕事を失うことを恐れ、同意したのだという。その後数年間にわたり、解雇を恐れるあまり上司Taylor氏と営業時間内、営業時間外にわたって40~50回の性関係に陥ったという主張である。又、ある証言によればTaylor氏は他の従業員の前で彼女を撫でていた。又Taylor氏はトイレに入っている彼女をレイプしたという。しかしヴィンソン女史はTaylor氏を恐れていたため、Taylor氏の上司には相談していない。またこの銀行には苦情処理制度があるがそれも利用していない。Taylor氏は否認しており、銀行もこのことは知らなかった。ただ事実審では相反する証言があってもそれは自主的な関係で銀行における継続的雇用と無関係という判断からセクハラとは認定していない。この記録を読む限り私は女性に全然同情しないし、する必要もないです。上司に不満なら早くやめたらよかったのに。それだけです。むしろ貶められた上司に同情します。私は常識的に物事を判断します。性関係が続いている間彼女は解雇されなかったうえに昇進もしているのだから、40~50回の性関係は彼女にとってもメリットがあった。そうみるのが自然です。40~50回の性関係の具体的状況を知らないのですが、常識的に考えて、できてしまった男女関係なんじゃないのとも思うわけです。
 私は、一審連邦地裁の判断でよいのであって最高裁の判断は誤りであると断定します。私が裁判官だったら、公民権法タイトル7は雇用環境の純粋に心理的な側面まで保護していないという被告側の主張を支持し、敵対的虐待的環境型のセクハラみたいな男性を貶めるような訴訟提起など認める必要はないという常識的な判断から強硬な反対意見を書きます。
 だいたい法廷意見を記したレーンキスト判事はなんですか。司法自制主義で筋金入りの保守派という評判と実績で陪席判事から主席判事になった人物ですが、そうではないことがわかりました。セクハラ事件になると司法積極主義に変身するというのは変じゃないですか。
 そもそも、1970年代後半から連邦下級審裁判所がセクハラを1964年公民権法タイトル7雇用差別禁止規定に反する性別による差別であり違法とする誤った司法判断により、嫌がらせが意図的であり、原告が解雇や昇進しなかったというような、有形の経済的損失を被った場合に損害賠償を認めるようになったが、そもそもセクハラなんていうのは裁判所が積極的に訴訟を容認する必要はなかった。特にセクハラを性差別とする理屈が屁理屈であり論理性に欠くものであり、セクハラ訴訟容認は悪しき司法積極主義であると思う。要するにわたくしは、「セクハラ被害者」に一切同情しないし救済など一切必要なかったというのが原則的立場である。とくにセクハラ概念を敵対的虐待的職場環境型にまで拡大させたことが問題だ。 ヴィンソン判決はまさしくセクハラ概念を拡大してしまったということで大きなミスです。
 従来連邦裁判所はそれは個人的性癖の問題であって会社の方針とは無関係としてきた。公民権法タイトル7雇用差別禁止規定への適用を否定してきたのである。
 Tomkins v.Public Serice Electlic & Gas Co.568F.2d 1044(3dCir.1977)においては次の理由により公民権法タイトル7の適用を認めなかった。
 「性的欲求と性別とは問題が異なり、セクシャル・ハラスメントにおける問題は性別(による差別)ではない。性的欲求による物理的強姦(Physical attack)暗い夜道ではなくたまたま会社内で生じたからといって、その救済を与えることが公民権法タイトル7の立法趣旨ではない」(註)。それでよかったじゃないですか。イェール法学教授でロバート・ボークという著名な法学者がいますが、ボーク氏がコロンビア特別区の連邦控訴裁判所判事だった当時、「女に言い寄ることが性差別であるはずがない」と述べたというように(出所を明示したいが失念した)、私もそう思います。
 ヴィンソン判決でセクハラ訴訟の範囲が広がっただけでなく、フェミニストがセクハラを拡大解釈して宣伝したために、我々男性は迷惑を蒙ってます。これはワースト判決の一つです。その理由はセクハラを性差別とみなす論理性は全くないということです。この問題は研究中途なので、女帝問題が片づいたら、いずれとりあげますが、いずれにせよ、ヴィンソン判決は世界中の男性にとってえらい迷惑千万ということでレーンキストには良い心証がもてないです。
 1964年公民権法タイトル7は「報酬、労働条件、または雇用上の特典に関して人種、肌の色、宗教、性別、または出身国を理由に、どんな個人についても雇用を拒否したり、解雇したり、もしくは差別したりすることが、使用者による違法な雇用慣行になる」と規定するが、いうまでもなくこの主たる立法趣旨は人種差別撤廃であって、もともとジョンソン大統領の提案した原案に「性別」の規定はなかった。ところが公民権法の通過に激しく反対していたバージニアのハワード・スミス下院議員が法案通過を阻止する狙いで「性別」を加える修正がなされた。ところがその2日後にハプニング的に修正案が可決されてしまい、本来議事妨害のために挿入した性差別禁止が盛り込まれてしまったのである。それゆえに立法目的の証拠に乏しい規定である。
 セクハラをタイトル7の用差別禁止規定の性別による性差別とみなす理屈が奇妙で論理性が全くない。例えば下級審判例で Barnes V.Costle 561F.2d 983(D.C.Cir1977)は、使用者としての権限のある者が性的関係を結べば好遇することを示唆し、この誘いを断った当該従業員を解雇したquid pro quo型の判例ですが、もし当該従業員が男性であったら、性的要求が雇用条件になっていなかったから、これは性別ゆえに課された条件、すなわち性別による差別である(註)。とするものですが、屁理屈としかいいようがない。
 タイトル7の基本理念は特定の人種、特定の肌の色、特定の宗教、特定の性、特定の出身国という集団概念による予断に基づいて雇用判断をなすことを否定し、こうした集団概念により労働者を類別しないということです。雇用上の性別による差別とは、報酬、労働条件、特典について、労働者を性別という集団概念で分類すること。露骨にいえば解剖学的差異、その人の持ち物がペニスかヴァギナかによって労働者を分類し、雇用条件を設定することが性差別である。例えば女性のみの労働時間の制限、女性のみ重量物取扱規制、作業現場において女性のみ椅子が与えられる規則などである。たんに特定の性であるという理由での雇用判断は違法だが、業務遂行のための個人的能力を理由に特定の女性の雇用判断は性差別ではない。
 Barnes V.Costleは女性であるというそれだけの理由で、性的要求に応えることが雇用条件としているものではないから、性別による差別とみなすわけにはいかない。当該従業員が上司から性的要求が事実上課されたとしても、たんに女性であるからということではなく、上司の性的興味の対象となったからであって、特定の性という集団概念によるものではない。性的要求に応じることが雇用条件となるか否かの労働者の類別は解剖学的差異、性別という集団概念に基づくものではなく、当該従業員は上司の性的関心、好みによって類別されたのであるから性別による差別ではないのである。
従って、男性であれば性的要求はなかったからセクハラは女性差別などというのは屁理屈であって、論理性は全くないのである。従って セクハラをタイトル7に基づいて訴えることができるとした司法判断は不正義であり誤っており、悪しき司法積極主義といわなければならない。セクハラ訴訟を認める必要は全くなかった。ヴィンソン判決についてここで深入りすると睡眠不足になるのでやめますが、理屈が不明瞭です。いずれにせよ間違ってます。
 私はセクハラ規制なんて必要なしという考え方である。だいたい女とは性的に誘惑する物体であるという説がある。そもそもヒトの女というものは霊長類学的にみて性的受容性が高いことを際だった特徴を有しており、年中発情が可能な生物学的特徴をもっている。男性はアウグスティヌスが「意思せずとも勃起する」と言って悩んだように比較的単純な構造なのですが、女は淑女にも娼婦にもなりうる妖怪変化的自在性を有している、これは他の動物にみることができない特徴である。基本的にほ乳類は授乳期の雌が発情することはない。ところがヒトの女というものは授乳期の子どもを抱えていても、間男とやってしまう恐るべき生き物である。ヒトの女は閉経があるが年中無休で発情可能という性的受容性の高い恐るべき生き物は他に存在しない。ヒトの女とはまさに性のつわものだ。その恐るべき生き物がビジネスの世界で男性と協同して働く選択を行った以上、性的関係が生じるのはあたりまえのことなのである。なぜならばアダムの罪により死・病気・淫欲が人間の経験に入った。性欲は病気や死ととも免れることはできないのであって、性欲を統制することは死を統制できないことと同じように全く不可能であるから。であるから男と女が協同して働く以上、性的関係があってあたりまえそれが自然なのである。男性というものは勃起を意思でコントロールできない構造だからそれが自然なのである。それがいやなら家庭婦人に収まるか、女性だけの職場で働きなさい。それでいいんだと思います。ビジネスの世界がきれいごとですまないことは、なにも居酒屋で苦労人に説教されなくてもわかっているよ。とくに米国の場合は現場のボスが解雇・昇進等雇用判断に大きな権限を有している雇用慣行で性的関係が生じやすいといえる。野心的な女性は上司の性的要求に応えて昇進を狙います。世俗社会で労働している人間は、修道士や童貞女の尼さんのように禁欲生活を課されられる必要など全くない。世俗国家がくだらないロマンチックパターナリズムを強要するのはおかしい。コモンロー上の解雇自由原則で、上司に不満ならやめたら。それでいいんじゃないか。そもそも意思でコントロールできない勃起不能を要求するというフェミニストの非人間的要求に男子が屈する必要はない、司法積極主義でセクハラ訴訟を認めたのは大きな司法判断のミス。ということで、私は本日の葬儀においてもレーンキストをを悼む気持ちはさらさらありません。
 
 (註)さしあたり客観的に論評しているものとして平野晋「セクシャル・ハラスメント法入門」『国際商事法務』19巻12号(1991)をみてください。この論文は14年前のもので1993年合衆国の連邦最高裁ハリス対フォークリフトシステムズ事件判決 HARRIS v.FORKLIFT SYSTEMS,Inc以降の展開について言及されていませんが、我が国の研究者がほとんど無視している重要な連邦高裁判例や下級審判例を紹介しており参考になりました。

2005/09/03

女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第6回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定 

 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との違い   
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ              
 (以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性

               (以上今回掲載)

川西正彦-平成17年9月3日

承前。悠長なことを言っている場合じゃないだろとお叱りを受けるかも知れないが、出遅れたのは仕方ないし、本心はかなり焦っているわけですが、自分としてはマイペースで先方の論点をひとつづつ潰していくしかないので、あまりのテンポの遅さにイライラさせて閲覧者の方には申し訳ないが、絶対反対論はほぼ予定どおり掲載していきたいと思います。

〔4〕諸説の検討

 継嗣令皇兄弟子条、「女帝子亦同」の本註について先行学説としては、成清弘和説(註32)米田雄介説(註33)しか読んでいなかったのですが、高森明勅説(註34)を受けた論説としては、最近、中川八洋氏の著書(註35)における高森明勅氏批判と、既に第5回の註24で触れていますが、名指ししないものの5月31日有識者会議に呼ばれた八木秀次氏、6月8日有識者会議に呼ばれた所功氏の見解(註36)を首相官邸のウェブサイトで読みました。所功氏は女帝即位女系論者である。高森氏の次に所氏の立論を批判することが肝要と考えるので、所氏の見解(特に皇室典範12条の改変に言及されている点重大なので)を批判しなければなりませんが、それは別途として、継嗣令皇兄弟子条の解釈に関する限りわかりやすいし、所功は女帝即位女系容認論者ではあっても継嗣令皇兄弟子条を女系継承の論拠とはできないことを明確に述べていますので、まず引用します。
 
「‥‥この「女帝の子」というものは何を意味するかということです。明治18年(1885年)に小中村清矩という先生が「女帝考」という論文を書かれまして、その中で「女帝未ダ内親王タリシ時、四世以上ノ諸王ニ嫁シテ……生レ玉ヒシ子アラバ、即位ノ後ニ親王ト為スコトノ義」と解釈されております。
  つまり、「女帝の子」と言っても、決して女帝になられてからのお子さんということではなくて、それ以前にお生まれになった方、具体的には皇極天皇が初め内親王として高向王(用明天皇の孫)と結婚されまして、その間に漢皇子という諸王が生まれています。そのような方も母の内親王が即位されることによって親王の扱いを受けるという意味に解しておられます。
 確かに、私も大宝前後の実情と照らし合わせてみれば、女帝が即位後に結婚もしくは再婚して御子をもうけられ、その御子が続いて即位するという、いわゆる女系継承まで容認した、もしくは予想したものとは考え難いと思っております。
  ただ、仮にそうだとしましても、この「継嗣令」の規定では、内親王が結婚できるのは4世以上の諸王、つまり皇族でありますから、それでも男系継承は維持されるということになろうかと思います。
 いずれにしましても、注記であれ、「大宝・養老令」に「女帝」の存在が明記されていることの意味は大きい。ただ、これを根拠にして、「女帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されてきた」とまでみる説は、やはり言い過ぎであろうと存じます」
 上記引用した部分に限定したうえで所氏の見解に同意する。(敏達曾孫の宝皇女は内親王ではないと思うがそれは些末なことである)。
  
 次に女帝問題とは無関係な論文だが、米田雄介説(註37)。正倉院事務所長などを歴任している歴史家です。
「「女帝子亦同」とあることから男帝・女帝の区別はなく、したがって男系・女系の区別がないと考えられるかもしれないが、もともとこの文言は日本令の元になった唐令には見えず、大宝令の制定当時のわが国の現実を踏まえて挿入されたもので、本質的には男系主義であったと考えられる」とする。
 結論に同意するが論拠を具体的に述べていない。
 
 次に中川八洋氏の見解ですが(註38)、細部において疑問点がないわけではありませんが、総じて賛同します。高森明勅のいう「明治以前における双系主義の制度的枠組みを確認した」という空前絶後の嘘、虚構の奇説と論じておられるなど、全く同感である。また平安時代以降、「親王宣下」が無ければ皇子ですら、親王になりえない制度になったこと。継嗣令の当該条文は無視されており、空文化していることを述べてますが重要な論点を突いている。筆者も同感です。高森明勅は意図的に皇親の範囲を四世王までに限定する皇兄弟子条を殊更強調する趣旨に出ているように思える。
 慶雲三年の格制は皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰しているので問題としないが、弘仁五年に親王宣下、内親王宣下、源氏賜姓が創始され、親王位が生得的概念ではなくなり天皇の意思で授与される制度になったこと。平安後期には孫王でも親王宣下をうけて親王になれたこと。さらに中世以降の世襲宮家のように、代々親王宣下をうける例がある。一方中世においては未定名号のままの皇子女も少なくなかった。歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。また後嵯峨や後光厳などのように、践祚当日の元服まで未定名号で諱すらなく親王宣下もなく践祚の例もある。室町時代になると内親王位は消滅し皇女は「比丘尼御所」に入室した。このように皇親の概念は明らかに変化しており、皇親の範囲を大化前代より限定したものと解釈されている皇兄弟子条の皇親概念は決して通史的に一貫したものではなく、むしろ令意に反する時代のほうが長期に及んでいることも考慮しなければならない。


 次に成清弘和氏の見解ですが、現今の女帝問題とは基本的に無関係で、純粋に古代史の論文である。解釈というよりも、令の規定に女帝という語が唯一登場するのが継嗣令皇兄弟子条であることに着目され、朱説が古記を引用していることから大宝令にも本註が存在したことを述べたうえで、「文武というよりも持統太上天皇の影響力が強かったであろう律令政府は、女帝を間欠的で、かつ異常な政情を一時的に回避する不安定な制度ではなく、安定した制度として法規定に定着させようとした」(註39)とする意義があるという見解である。
 それはそうかもしれないから成清説を一概に否定はしない。中国でいえば、帝嗣未定で皇帝が亡くなると、帝嗣策定決裁者は、夫婦一体の原則から先帝の徳を分有する先帝皇后が有し、年少の皇帝が即位せざるを得ない場合は先帝皇后が権力を掌握する。漢代の太后臨朝(註40)、宋代の太后垂簾聴政(註41)がそうである。我が国の場合も藤原基経や忠平が摂政を辞するときの言上や上表からみて「太后臨朝」「太后称制」が一種の正統な政治形態と理解されていたのだろうが(註42)、日本の場合は中国的な意味での太后臨朝は根付かなかった。皇后が原則として皇女、皇親女子であるため、臨朝称制のみならず即位が可能なのである。後漢などは太后臨朝のケースが多く、外戚政治となったが、わが国は女帝即位が可能なので外戚政治に依存することもない利点があったし、たんに幼帝回避ではなく、皇位継承争いの権力抗争の緩衝剤としての意義も認められるので、女帝を法規定に定着させようとしたという見解を全面的には否定しない。
 しかし、後世においては摂関政治や院政によって、幼帝即位でも太后臨朝や女帝即位の必要もなく安定的に皇位継承が可能なシステムができたわけだし、近代国家においてはそもそも皇位継承争いを想定しておらず、権力抗争の緩衝剤として女帝が即位する理由はなく、仮に成清説を肯定するとしても、現今の状況で女帝を是認する理由にはならない。 
 
 また一方で、成清弘和は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されていることは、参考になる意見である。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註43)。この趣旨からも、女系継承はありえないといえるだろう。

 この論点と関連していうと、所功は6月8日の有識者会議において原武史「女帝論議のために」朝日新聞2005年2月7日夕刊の見解を批判し「最近、もし女性天皇になったら、新嘗祭などの宮中祭祀ができないというようなことを言われる方があります。けれども、それは大変な誤解であります。現に、宮中では女性の内掌典などが奉仕しておられますし、また過去、新嘗祭以上に重要な大嘗祭がちゃんと女性天皇の下で行われてまいりました」と述べているが、重大な論点だが、質問もなかった。
 しかしこれは、所功が有識者会議に出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」の13頁(26)を読むと「何となれば古代以来の「斉王」も戦後の「祭主」も、現に宮中三殿奉仕の「内掌典」も全て女性である‥‥」(註44)と述べているように、一般論と、不婚即位の歴史上の女帝の大嘗祭に言及しているだけで、女帝の妊娠・出産を想定した場合に踏み込んでの見解ではなく、所氏がこの問題を解決しているわけではない。
 私は素人ですが、非婚内親王の即位なら、祭祀に関しては問題ないかもしれないが、古記に「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」とある以上、結婚を前提した女帝即位はやはり支障があるのではないか。
 
 又、成清説は孝謙・称徳女帝は、中継ぎではなく、男帝と何ら異なることのない真の女性天皇と評価されるが(註45)かなり問題だ。称徳朝については敵対勢力を実力で打倒し排除したうえでの政権掌握であり、左大臣藤原永手が腹心で近親、右大臣吉備真備が阿倍内親王の東宮大夫兼東宮学士で、東宮時代から近臣でもあったように、左右大臣を近臣で固め、上皇も三后も皇太子も不在であったから、天皇に権力が収斂された強力な体制であることを認めるが、皇太后との共同統治であった孝謙女帝については、皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を女帝が掌握していないことなどからみても真の意味での天皇大権を掌握したのは淳仁-仲麻呂派との奪権闘争に勝利した後であるから、そのような積極的な評価はできない。孝謙女帝の評価は後に詳しく検討する。
 総じていえば成清説は女帝を法規定に定着させようとしたという説であってそのような脈絡において、高森説のように女系継承を容認したという「虚構の奇説」とは違う
 以上、いずれにせよ、先行学説の引用としては少なかったが、高森説のような継嗣令の意図的に歪められた解釈はきわめて異色のものであるという認識でよいわけである。

 むしろ継嗣令の意義は傍系継承がスムーズに合理的に実現することにあったとみるべきではないかというのが私の意見である。「女帝子亦同」の本註問題から離れるが、、第5回に述べた筧敏生の見解(註46)を重視したい。『古事類苑』『皇室制度史料』が孫王(二世王)身分から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度(註△)の嚆矢とみなしている(戦前の皇親制度の総括的研究である竹島寛の『王朝時代皇室史の研究』も同様)点を批判され、大宝令の注釈書で天平十年(738)に編纂された「古記」の注釈で「未知。三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」とあることから、傍系二世王から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げは、特別の措置ではなく、継嗣令皇兄弟子条の適用であるとされる。そうすると従来の研究者が古記を見落としていたことになり、重要な発見であったと思う。
 つまり、皇位が傍系に移っても自動的に諸王が親王に格上げになる制度であること。令制本来の在り方としては(たぶん、少なくとも実態面からみて)、傍系継承で傍系皇親が前代の猶子となる必要はない。そのような直系継承の擬制は本来必要なかったということである。ここでは傍系親の絡む皇位継承について奈良時代から南北朝まで要点のみ言及する。
 淳仁、光仁、光孝即位のケースで明らかなように直系継承の擬制はなされていないとみてよい。淳仁天皇(大炊王)の立太子は聖武上皇崩後にもかかわらず、聖武の皇太子とされていたのであるが(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)、孝謙上皇の反対にもかかわらず光明皇太后の決裁で淳仁天皇の先考舎人親王に崇道尽敬皇帝号の謚号を贈り、生母当麻山背に大夫人号など舎人親王系皇統の創成を図っている(註47)。つまり聖武の草壁皇統の猶子ではなく、あくまでも天武-舎人親王-淳仁という皇統を創成して皇位継承の正統化が図られている。先考舎人親王の皇帝号追号は、淳仁の兄弟姉妹、船王、池田王、室女王、飛鳥田女王の親王格上げの前提になっているようにも思えるので、直系継承の擬制がなくても皇位継承されるとみてよいだろう。孝謙上皇にしてみれば草壁皇統正統意識が強いし、そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子(聖武)の補佐を受け持つこととされたのだから、一品親王といっても上皇にとってみれば家臣みたいなもので我慢ならないものがあったのだろうが、単純に草壁皇子系皇統から舎人親王系に移行としたと理解するほかない。
 関連して舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)の和気王(父は御原王)が臣籍から皇親に復帰したことについても一応ふれておくと(註48)、天平勝宝七年、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。であるから追尊皇帝号による新たな皇統の形成は重要な意義がある。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年功田五〇町を賜った。しかし謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)。角田文衛がいうように、「有力な皇親を殺戮したり、追放したりするのは古典帝国の皇帝の宿命であり(中略)称徳女帝に至っては、崩御の日に至るまで強大な権力をもった手のつけられない女帝であったのである」(註49)。

 次に光仁天皇(白壁王)即位であるが、宝亀元年十一月詔により先考施基皇子に天皇号を追贈(御春日宮天皇)、墓を山陵に改め、田原天皇とも称された。光仁生母紀橡姫は贈皇太后、光仁の兄弟姉妹皇子女は親王に格上げとなった。天智-施基皇子系皇統を正統化するものである。ただ聖武皇女井上内親王が皇后に立ち、天智系に移行しても女系で聖武に繋が他戸親王が立太子(翌年正月)されたが、宝亀三年に他戸は廃位され、異母兄山部親王(桓武)の立太子により、聖武とは女系でも繋がらなくなったが、むろん井上内親王を妻としていたことは、皇位継承に有利であったが、それが決定的ではなく、直系継承の擬制はないとみてよいだろう。いずれにせよ、たんに実態面からみても男系主義の脈絡からみて光仁の兄弟・姉妹と皇子女の親王格上げの意義は大きく、継嗣令皇兄弟子条は少なくとも男系への傍系継承をスムーズにする意義を認めてよいのである。
 光孝(仁明皇子時康親王)即位のケースは事実上藤原基経が陽成廃黜、光孝擁立を断行したもので、光孝は皇太子にも立っていないので直系継承の擬制はない。というより陽成上皇復辟の可能性を潰すために、あえて皇親長老格の一品式部卿仁明皇子時康親王が即位し(なお、この時点で最長老としては嵯峨皇子秀良親王が在世されているが、親王は承和の変で恒貞廃太子後皇位継承に意欲を示したため失脚したという説がある)、光孝天皇は承和の旧例に復すことを方針とした。
 光孝天皇は表向き皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下した。このことから光孝が一代限りの即位という位置づけだったという説もあるが、たぶんあらたに44人の親王を支えるには財政的に苦しいことと、藤原基経を憚ってのものだろう。
 光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極が実現した。宇多天皇即位により、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃))、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である(註50)。本来なら継嗣令の適用で光孝即位の時点で光孝の皇子女はすべて親王・内親王とされてよいわけであるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。 
 但し、傍系親の絡む皇位継承で直系継承の擬制がないわけではない。筧敏生(註51)は『神皇正統記』が仁明天皇について「此御門は西院の帝(淳和)の猶子の儀ましましければ、朝覲も両皇にせさせ給」(但し、西院への朝覲行幸は承和元年のみ-上皇の辞退による)、『皇年代略記』が淳和上皇は仁明の伯父にあたるが「父帝二擬ス」と記述を引用し、太上天皇・天皇間の猶子関係の先駆とみなされ、その由来を古代社会における族長権継承が傍系親に行われても、始祖と融合一体化した単線的継承に擬される系譜意識によるとされる。
 しかし私は、嵯峨-淳和-仁明-恒貞親王(承和の変で廃太子)という皇位継承路線が嵯峨系と淳和系の両統迭立であることから、傍系親が絡んでも皇位継承を軋轢なく安定的に推移させるための擬制とみてよいと思う。淳和后正子内親王は仁明の同母妹だが皇太后となし(但し内親王は皇太后尊号を辞退)、恒貞親王は仁明天皇の従兄弟でも甥でもあるが、仁明天皇の正嗣として皇太子に立てられた。実際、淳和上皇と仁明天皇は良好な関係であったと考えられている。淳和天皇は草書を善くし、仁明天皇は淳和天皇について書法を学ばれ、識別することの出来ない程になられた(註52)。恒貞親王伝によると承和十年七月春宮坊帯刀伴健岑の「謀反」により皇太子は恐懼して辞表を上ったが、天皇は独り健岑の凶逆にして太子の関はるべきにあらず、意を強うして介するなかれとの優答を与えている。
 しかし承和の変は教訓になった。仁明天皇と恒貞親王の関係がいかに良好であっても、藤原良房(源潔姫の婿)を主軸とする嵯峨系門閥の思惑は異なり、仁明天皇が健康面で不安を抱えていたこともあり、恒貞親王が即位するような事態を望んでいなかった。直系継承の擬制は有力貴族の力関係次第で容易に破綻してしまうのである。
 そういうことで、太上天皇と天皇が実の父子関係でない場合に猶子とされることは鎌倉時代以前はほとんどない。平城-嵯峨、嵯峨-淳和、朱雀-村上、冷泉-円融、後一条-後朱雀といった兄弟継承で猶子とはされていない。たんなる兄弟継承である(註53)。
 円融上皇は、甥にあたる花山天皇の政権には影響力がなく、皇子の一条天皇の政権には人事などで影響力を行使したことからも明らかなように(例えば院司の藤原実資を参議に昇進させるよう摂政兼家に圧力をかけた。一条天皇の春日行幸に難色を示し、いったんは延期を決定させたなど)、冷泉系と円融系の迭立では猶子関係はない。
 白河法皇が曾孫の顕仁親王(崇徳)を猶子とした特殊な例はあるが、兄弟継承で猶子関係の擬制があるのは鎌倉末期から南北朝では、後伏見と花園、光厳-光明のケースしかないのである(註54)。傍系継承が絡むケースで後小松上皇と-後花園天皇の猶子関係があるが(なお、後小松と後花園の猶子関係をめぐる後小松と伏見宮貞成親王との争いは、後小松崩後に貞成親王の太上天皇の称号が実現しているので最終的には伏見宮側が勝利したとみてもよい。後光厳-後円融-後小松系は武家政権に擁立された傍流であくまでも後花園の伏見宮家が持明院統の正嫡であると私は考えるが、この問題は複雑なので、後に「世襲宮家の成立」伏見宮家成立過程で改めて論じたい)、上記の三例はいずれも、院政を敷くための前提であった。直系尊属、実父や祖父であることが、逆に言えば治天の君として院政が敷かれるのは、直系卑属の皇子や皇孫が即位したケースに限られ、たんに前代の天皇ということでは院政を敷くことはできないというルールは歴史的に確立しており、後伏見-花園、光厳-光明、後小松-後花園の猶子関係は院政の前提として必要なものであるが皇位継承の正当化とは無関係に論じてもよいのである。
 逆説的にいえばこういうことです。直系継承の政治的意義は幼帝即位でも太后臨朝でなくても安定政権が維持できる摂関政治、とりわけ院政に適合的であるからであって、決定的に直系継承にこだわらなければならない根拠もない。例えば福井俊彦(註55)が、平城即位、神野親王(嵯峨)立皇太弟は自明のものではなく、平城天皇の政権基盤が強ければ、たとえ九歳でも平城皇子高岳親王を皇太子に立て、直系継承を指向したはずであるが、そうならないのは神野親王が政治力を有していたからであるとしているが、このようにバランス・オブ・パワーで直系継承ができないこともありうるのである。
 近世以後の展開は深入りしないこととして、いずれにせよ令制本来の在り方としては傍系親や兄弟の絡む皇位継承において直系継承の擬制の必然性はないのであって、直系継承の擬制がなくても、歴代天皇の全てが男系で天皇と繋がり、単系出自を貫徹していることにより、万世一系の皇位とされているものと考える。
 なお、令の規定では皇親の養子・猶子の規定はないが、竹島寛(註56)が、淳和天皇の養子に嵯峨皇子源定、仁明天皇の養子に嵯峨皇子源融。醍醐天皇に宇多天皇御薙髪後の皇子雅明、行明、冷泉上皇に花山天皇御薙髪後の皇子清仁、昭登、三条天皇に孫王で、敦明親王の御子、敦貞、敦昌、敦元、敦賢が、それぞれ御猶子として親王宣下された例をあげているが、后腹で皇位継承候補者だった敦明親王(小一条院)の御子の親王宣下は政治的意義をみとめてよいが、それ以外は、竹島寛がいうように御父帝が皇子の行く末を案じて当代の帝にの将来を御依嘱遊ばされたというで、平安時代に関する限り、養子というのは皇位継承の正当化と関連するものではない。
 傍系親(リネージ)が絡んだ複雑な皇位継承例は少なくないが無難なところで鎌倉末期を客観的にとりあげることとする。幕府は「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書)(註57)という方針である。つまり後深草系と亀山系の皇統だが、亀山系は後二条系、後醍醐系、恒明親王〈常磐井宮〉と三派に分裂して、このために正中三年三月皇太子邦良親王薨後の、東宮候補に後深草系(持明院統)嫡流から一人、亀山系各派から三人計四人が推薦され、東宮ポストを争った(註58-大覚寺統が三派に分裂する経緯は後に掲載する補説皇親の概念について「世襲宮家の成立」をみてください)。亀山系各派もそれぞれが嫡流を主張し和解不能ともいわれる泥沼状態になったが(四人というのは各派から推薦者が一人にしぼられているので皇位継承資格者の実数になればもっと多い)、四流全てが嫡流を主張でき、後嵯峨を共通の父祖とした単系出自の親族(リネージ)と相互に認識していることにかわりはない。
 なお後深草系の分派として鎌倉将軍宮、さらに順徳系の四辻宮、岩蔵宮も存在したので、鎌倉末期 には少なくとも後鳥羽を起点とするリネージが少なく数えただけでも七流存在したこととなる。もっとも現実政治において、順徳系は皇位継承候補から排除されたがそれは幕府の方針であって、管領所領も有していたので皇統として存続した。
 このように鎌倉時代後半期は皇位継承者がリネージからリネージへの移行する例を繰り返しており、その調停者が武家政権となっているケースだが、単系出自系譜であることにかわりなく、直系継承にこだわることなく、万世一系の皇位なのである。
 そんなことで、結論を述べますと、継嗣令皇兄弟子条は、傍系親への皇位継承を想定したうえで、それがスムーズに継承できるための制度でもあり、いずれにせよ男系主義の脈絡で理解すべきであって、高森明勅説は有識者会議の論点整理でも「皇位継承制度の根本は、皇統に属する皇族による皇位の継承であり、女系も皇統に含まれる」(註59)の「女系も皇統に含まれる」に反映されているようだが、却下されなければならない。

 
 〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性

 だいたい、高森明勅の説明(註60)は論理的でなく混乱している。継体即位を女系継承と論じている点もそうである。私は欽明以後の歴代天皇が継体后手白香皇女を通じて、女系で仁賢天皇と繋がっていることを認める。また継体即位が手白香皇女立后を前提として王権を継承したことも認めるが、高森が肯定しているように継体が応神五世孫だから、明確に男系継承なのである。女系が皇統として機能していたとする高森説では、手白香が非王族と結婚しても皇位継承されることでなければならない。継体即位を女系継承と言い切ってしまうことは継体簒奪王朝説を認めたのと同じことで、日本書記の信憑性を否定する考え方になる。仮に継体の出自を疑問視する見方をとるとしても、イデオロギー的には男系継承なのである。

(註32)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999
(註33)米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房2004 473頁
(註34)高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号 
(註35)中川八洋『皇統断絶』ビジネス社 2005 
(註36)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html
    6月8日有識者会議における所功氏の発言
(註37)米田雄介 前掲論文
(註38)中川八洋 前掲書
(註39)成清弘和 前掲書 131頁
(註40)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
     谷口やすよ「漢代の『太后臨朝』」『歴史評論』359
(註41)秦玲子「宋代の后と帝嗣決定権」『中国伝統社会と家族』汲古書院1993
(註42)木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981
(註43)成清弘和 前掲書141頁。
(註44)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.pdf
     所功「皇位継承の在り方に関する管見」〈 PDFです〉
(註45)成清弘和 前掲書 142頁以下
(註46)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立  校倉書房 2002(初出1994)160頁以下
(註△)皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのちこれを称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王たりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうけて皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女の分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。

(註47)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 147頁
(註48)倉本一宏 前掲書174頁
(註49)角田文衛『律令国家の展開』「天皇権力と皇親勢力」塙書房1965、27頁
(註50)角田文衛「敦仁親王の立太子」『王朝の明暗 』 東京堂出版, 1977
(註51)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 247頁 注(19)
(註52)川上多助『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会1982
(註53)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 233頁
(註54)筧敏生 前掲書236~237頁
(註55)福井俊彦「平城天皇の譲位について」久保哲三先生追悼論集刊行会 『翔古論聚』真陽社 京都 1993 
(註56)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936、161頁
(註57)森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝へ』講談社選書 2005 217頁
(註58)森茂暁 前掲書 59頁以下
(註59)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10siryou1.html
    平成17年7月26日皇室典範に関する有識者会議 今後の検討に向けた論点の整理
(註60) 高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号

つづく。

2005/09/01

今日の朝刊(9月1日)を読んで

川西正彦-平成17年9月1日掲載

 8月31日「皇室典範に関する有識者会議」(座長吉川弘之元東大学長)の第11回会合に関する記事を読んだが、きわめて不愉快だ。東京新聞によれば--男系男子による皇位継承は「安定性の面で非常に懸念が残る」との認識で一致した。(中略)また旧皇族の復帰による男系継承についても吉川座長は「安定性の意味ではよくない」と慎重な姿勢を示した--とされ、次回より女性・女系天皇を認めた場合の皇位継承順や皇族の範囲の具体的検討に入ると報じている。
 吉川座長の言っていることは論理矛盾も甚だしい。女系では、再三述べているように、非皇親(非王姓)のプリンスコンソートを迎えると継嗣が即位した時点で事実上の異姓簒奪、易姓革命になり異姓間の帝位継承で日本国は終焉するのだから、国が滅びる道を選択することになる。むしろ本当の意味での異姓簒奪にならない皇位継承資格者を枯渇させる政策である。皇朝の皇位継承者を枯渇させる政策が安定性だとわめいている、全く異常なことだといわなければならない。
 どうも、有識者会議は安定性をキーワードにして(継嗣の安定的確保という意味だろうが)、万世一系の皇位国体を否定し、異姓簒奪を容認し、内親王に禅譲革命を演出する最悪の役割を強要し、日本国を終焉させたいようだ。これほどひどい政策はない。
 そんなに安定性というなら、旧皇族にかぎらず、実系で男系で天皇に繋がる家系も含め、複数程度といわず一挙に5つも6つも宮家を復帰・創設すればよいのである。政府要人は三顧の礼を尽くして頭を下げて、それこそ政治家の出番だが、粘り強く交渉していけば、それなりに成果が出るのではないですか。
 そんなに安定的確保、安定的確保と騒ぐなら、私がウェブログの第1回の「はじめに」で述べたように、後宮制度を再構築すればよい。明治15年~18年に民間の家族制度では法律上の妾制が廃止されているとはいえ、キリスト教を公定宗教としているわけではないから、単婚制にこだわる必然性はない。とりわけ皇室については。
 後宮といっても、次妻格以下のキサキは御所を居所とする必要もなく、里第で比較的自由に優雅にすごしていただければいいじゃないですか。妃殿下にとってもプレッシャーから解放され悪くないのでは。その際、円融后藤原遵子が「素腹の后」と女御にすぎなかった一条生母皇太后藤原詮子(のち東三条院と女院宣下)の女房に嘲られたように、妻后と帝母の地位が逆転することがないように、嫡妻たる妃殿下の身位が毀損されることがないように、制度設計する必要はあります。あくまでも妃殿下が后位で、もし次妻格以下が東宮生母から天皇生母となった場合でも后位の嫡妻の権限を毀損することがないように、例えば皇太后(天皇の公式の母)と皇太夫人(天皇実母)と並び立っても、嫡妻の権限と公式の母ははあくまでも実母でなくても皇太后であることを明確にするとか、そういう制度設計は専門家がいるんでしょう。
 皇位国体護持が最優先政策であるべきです。そのための後宮再構築なら費用がいくらかかってもかまわないじゃないですか。公務員住宅を潰して公費で里第となる宮殿を建設してもいいんじゃないかと思います。つまらないことでけちけちして、国を滅ぼすことはない。
 

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