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2005/09/25

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第12回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月25日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            (以上今回掲載)
    中世~近世の非婚皇女と内親王位の消滅
    中世世襲宮家成立の意義
     常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
     木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
     伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

はじめに-近代の皇族概念との違い

 テーマが大きすぎるが一応掲載する。
 天皇の親族である皇親概念は歴史的に変化しているが、基本的には、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」で、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とした(註1)。また、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している。
 明治の皇室典範における皇族は皇玄孫の四世孫まで親王・内親王であるので令制の概念と異なる。また太皇太后・皇太后・皇后のほか皇胤の男女子及びその正配は悉く皇族であるから皇親の概念と異なる。昭憲皇太后(一条忠香女)や貞明皇后(九条道孝女)も皇族という範疇になる。
 今日の皇室典範ではもとは民間人である、皇后や、皇太子妃、親王妃といった婚入配偶者も含めて皇族なのである。要するに現今の皇族概念は、皇后、親王妃という身位ゆえに皇族ということになっているが、令制の皇親とは非皇親のキサキを含まない概念である。つまり婚姻家族概念とは明確に違って、自然血統主義的な父系出自系譜の親族概念である。
 
(1) 皇親の員数
 

  竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという。しかし平安末期より皇子出家の風が盛んに行われ、多く法親王とならせらるる時代になると、何時となく諸王と申し上げる方がなくなったとされる(註2)。
 十世紀以降の律令国家収取体系の変質(これを構造改革として肯定的な見方もあるが)により、 禄制は崩壊過程をたどり(註3)、11世紀末までには崩壊したとみられる。つまり受領功過定の監察体制が機能としていたのは堀河天皇の関白師通期までで(註4)、康和-天仁期以後、12世紀には形骸化し、限定的に支給されていた位禄ですら支給されなくった。国家財政の変質により、12世紀以降、諸王の経済的基盤は喪失したのではないだろうか。
 いずれにせよ、すでに位禄王禄時服月料などの財源不足になった九世紀末期において少なくとも430人の皇親の員数である。世界第二の経済大国たる我が国における皇族の数は少なすぎるといわなければならない。


(2)皇親の待遇
 
 皇親の待遇についてまず藤木邦彦(註5)の説明がわかりやすいので引用する。君主制国家において、君主と血縁でつながりをもつ者が、その尊貴の故をもって国家・社会から特別の待遇をうけることは君主を重んずるゆえをもって所以であって、当然の現象であるが、位階は親王は一品から四品の品位が与えられ、諸王は一位から五位の区別が立てられた。大宝律令から親王と諸王・諸臣の区別になったのことは親王の地位を高めた。皇親には不課の特典があるが、皇親でない五世・六世王にも蔭または蔭に准じて不課とされ、皇親には蔭の特典があり親王は有品・無品にかかわらず二一歳になると従四位下が与えられ、諸王の子は従五位下が与えられるが、諸臣一位の嫡子の待遇と同じである。皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に八〇町、二品六〇町、三品五〇町、四品四〇町、食封は親王一品に八〇〇戸、二品六〇〇戸、四品三〇〇戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく。なお、親王の封禄や皇室経済の時代的変遷については研究蓄積のある分野であるが、それらについて今言及する余裕がない。
 家政機関については竹島寛(註6)より引用する。所属の職員には親王には特に、文学・家令・扶・従などがあり文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内という近侍して雑用に当たる者が、一品親王なら百六十人、品位によって差等がある。平安中期以後になると、家令・扶の号は廃れて、摂関家のように別当・家司が附属し、政所で事務を執った。諸王の待遇は親王とは違って所属の職員もなく、礼遇でも劣っていた。
   また親王の礼遇は、太政大臣より下、左右大臣より上、薨去葬喪の際は、天皇は朝を廃し、治部大輔をして喪事を監護せしめ、装束司・山作司を任命する。極めて優渥な御待遇であったが、江戸時代には親王は公家法度第二条により左右大臣より下に置申すこと定めた。つまり近世の朝廷は厳しい序列社会だが五摂家-親王という序列になってしまった。しかしこれは令制本来の姿ではないだろう。
   
(3)皇親賜姓と皇位継承問題
 
 皇親賜姓については先行研究(註7)をいちいち検討する余裕がなく省略するが、臣籍に降下した者が皇位継承候補たりうることを述べる。
 安田政彦の専論がある(註8)ので検討する。まず、安田は「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」とし「当時の貴族層が何よりも血統を重視していた」にならないとしている。
 具体的に臣籍に降下したにもかかわらず皇位継承候補に浮上したケースをみておこう。

 文室真人浄三・文室真人大市

 『続日本紀』宝亀元年八月四日条では、称徳女帝が不予に陥り厳戒態勢のなか左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備、参議兵部卿藤原朝臣宿奈麻呂(良継)、参議民部卿藤原朝臣縄麻呂、参議式部卿石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂による皇嗣策定会議で、大納言白壁王(光仁)を皇嗣に定め奏上、称徳女帝も承諾したとされている。ところが、『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条は「百川伝」を引いて皇嗣策定会議は激論紛糾したことが伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、文室真人浄三(前御史大夫〔大納言〕もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとった。藤原氏に出し抜かれた吉備真備は恥をかいて到仕を願い出たというものである。 
 瀧浪貞子は(註9)、従来『続日本紀』に疑義がもたれ「百川伝」や『水鏡』を重視してきた解釈は誤りとされ、称徳朝を支えてきた藤原永手の政治力で白壁王に一本化し、それは称徳女帝の意向でもあり承諾されたのだという。百川は光仁擁立に関与していないという見解である。
 なるほど永手は道祖王廃太子後の皇嗣策定会議でも聖武皇女不破内親王を妻とする塩焼王を推薦していて、白壁王が聖武皇女井上内親王を妻としていることから、理屈のうえでは一貫している。しかも白壁王は仲麻呂の乱の戦功で永手、真備や追討将軍蔵下麻呂らとともに勲二等を授けられ、孝謙上皇派なのであった。また女帝の紀伊行幸では白壁王が御前次第司長官をつとめ、女帝の信任もあり、白壁王擁立は自然の流れと思える。素人目にみても百川は当時、左中弁・右兵衛督・内匠頭・河内守で皇嗣策定会議に呼ばれるほどの政権首脳部であったかは疑問である。しかし「百川伝」に疑義を呈する瀧浪氏でも、議論が白熱したであろうこと。皇統をせめて天武の傍系に戻そうとするのはいかにも儒者の真備らしい意見とされている。
 安田政彦は、浄三と大市が出家していることから、出家が皇位継承の放棄とはみなされていないとする。いずれにせよ、天武曾孫では新田部親王系で氷上真人志計志麻呂・川継、高市皇子系で豊野真人、美和真人などもあったが、この時点で皇位継承候補となる天武孫は浄三と大市だけだった。こうした状況では臣籍に降下した者も皇位継承候補者たりうることを示している。
 
  氷上真人志計志麻呂と川継
 
 仲麻呂が近江に脱出する際、淳仁天皇の身柄を確保せず「玉」を抛擲したことは致命的とされるが、このとき新田部親王の子の中納言文部卿氷上真人塩焼(もと塩焼王、天平宝字元年八月三日氷上真人賜姓)が追いつめられた状況で、仲麻呂側の今帝に偽立されたが(天平宝字八年九月甲寅条)琵琶湖畔で斬殺された。しかし塩焼の子の志計志麻呂と川継が不破内親王の所生ゆえ赦された。志計志麻呂と川継は兄弟と考えられるが安田政彦は同一人物説である。
神護景雲三年、不破内親王と氷上真人志計志麻呂が巫蠱に坐す事件(五月壬辰条)が起きる。これは県犬養姉女が不破内親王と結合し、忍坂女王・石田女王・河内女王という宮廷女性を一味に引き込んでなされた、後宮女性によるおどろおどろしい呪詛陰謀事件で、女帝の頭髪を手に入れ佐保川で拾ってきた髑髏のなかにつめこみ宮中に持ち込んで、ひそかに厭魅呪詛の行法を行っていた。その目的は、朝廷を傾け奉り、氷上真人志計志麻呂を「天日嗣と為む」ことであった。志計志麻呂は土佐配流、不破内親王は厨真人厨女の姓名に貶められたうえ京外に追放された。ところが、宝亀二年八月辛酉条によると、この事件は丹比宿禰乙女の誣告とされ、宝亀二年に忍坂女王・県犬養姉女らは復権を果たし、厨真人厨女は宝亀三年十二月に属籍を復している(註10)。
 さらに光仁上皇崩後の諒闇期間中の延暦元年閏正月に因幡国守従五位下氷上真人川継謀反事件が起きる。川継の伊豆配流、不破内親王と川継の姉妹の淡路配流のほか、大量の連坐者を出した。川継の妻の父、大宰員外師藤原朝臣浜成は参議侍従を免官され、山上朝臣船主、三方王、参議左大弁大伴宿禰家持、右衛士督坂上大忌寸刈田麻呂、伊勢朝臣老人、大原真人美気、藤原朝臣継彦らは与同の罪で職を解かれ、京外追放、その他川継の姻戚・知友35人、さらに参議中宮大夫右衛門督宮内卿大伴伯麻呂も解官、同年の左大臣藤原朝臣魚名の左降は理由が不明で問題になる。林陸朗は参議三人に加えて武官長老の刈田麻呂の連坐を重くみて、相当な企画性をもった深刻な事件とみなしているが(註10)、阿倍猛(註11)や倉本一宏(註12)のように浜成と年内に薨じた伯麻呂と魚名を除いて短期間で赦免されていることから陰謀そのものを疑問視する見方もある。桓武天皇が光仁上皇の諒闇期間の短期間に、川継の陰謀を奇貨、もしくは口実にして、前代の重臣(魚名)と反主流派貴族(浜成)を粛清し、天皇主導の政権基盤を確立していったという見方もできるだろう。
氷上真人川継事件の真相は不明な部分が多いが、いずれにせよ氷上真人志計志麻呂と川継は、天武曾孫であり母方で聖武と繋がっており、臣籍に降下してもなお、皇位継承候補として担がれる可能性がある存在と認識されていたのである。
 
 属籍を復すこともありうる

 天武曾孫で岡真人賜姓から属籍を復した和気王について第6回で言及したが、例えば天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみると天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える。

  源融の自薦

 史料上、陽成遜位思食により皇位継承候補として浮上したのは承和の変で廃太子後出家入道淳和皇子恒貞親王、仁明皇子一品式部卿時康親王、仁明皇子二品兵部卿本康親王と自薦候補にすぎないが嵯峨皇子(仁明猶子)左大臣源融の四人である。関白太政大臣藤原基経は、左大臣源融、右大臣源多を引き連れて、恒貞親王推戴の志を陳べたが、親王は涙を流し、出家の身であることを理由に数日間食を絶ち頑強に固辞された(恒貞親王伝)。次に時康親王であるが、再三固辞され、時康親王は本康親王を推薦したが、結局、時康親王(光孝)が皇位継承者となった。たぶん恒貞が固辞するのは親王の性格から折り込み済でたんに一拶を入れただけ。皇位継承候補に急浮上した本康親王は当て馬のようでもあり、基経の素意は初めから時康親王であったのだろう。
 それはともかく、『大鏡』藤原基経の段で源融が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承の意欲をみせたところ、基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴し、「さもあることなれ」と貴族層が基経の見解に同意したというエピソードが伝えられている。
 安田政彦はこれが事実だとすると、源定省(宇多)の登極と矛盾することを問題視され、陽成遜位後のエピソードでなく宇多擁立時にふさわしいとされ、『大鏡』の虚構性を論じていて、源定省は臣籍に降下してから官歴を有していないが、源融は大臣にまで昇進して、太政大臣の下に立つ身であることを基経は言っているのだという。さらに賜姓源氏は生母の血筋が劣るゆえに皇位継承者たりえない。融と定省では血筋・経歴に大きな違いがあるとされている(源定省の母が班子女王であること。光孝が一代限りで擁立されたので臣籍に降下したまでで、母の血筋で劣るゆえに臣籍に降下した例ではないとされるが)が、問題を難しくし考え過ぎておりこの見解はかなり疑問に思う。
 端的にいうと、このエピソードは事実上の政務決裁者で政府を率いている藤原基経が軽口を叩いた左大臣源融を一喝したということで、基経の政治家としての実力が勝っていることを示している。もっとも、大臣は王権の安定性という観点から、皇位継承者となることは好ましくないと思う。瀧浪貞子が、吉備真備が大納言白壁王を飛び越えて右大臣に昇任していることを重くみて、それは白壁王の立太子構想があったからとしているが(註13)、やはり太政官決裁者たる大臣の立太子は好ましくないという判断が働いている。陽成遜位当時は親王が多く実在し、賜姓源氏まで皇位継承候補を拡大する必要はなかった。基経の意中は初めから時康親王だったから、源融を一喝して退けたという解釈でさしつかえないと思う。
なお、母が女御であれば親王宣下は普通であり、母が女御であれば皇位継承資格を有するとのは当然だが、源融の母、大原真人全子で更衣ですらない。門閥体制という観点で母の血筋は問題になる。例えば近衛生母藤原得子は善勝寺流藤原氏で、そもそも女御とはなれない家格である。少なくとも摂関期以後の女御は家政機関を組織できるのが前提条件で、上流貴族でなければならなかった。家格として劣っていたから、体仁親王(近衛)は崇徳后藤原聖子(関白忠通女)の猶子として親王宣下されている。しかし、中世以降母の血筋を上流貴族に限定しなくなったので、母の血筋云々は決定的に皇位継承資格を欠くということにはならないと思う。
  後述するように中世においては、後嵯峨や後光厳のように践祚当日まで諱すらなく、親王宣下もなく登極する例があることから、親王号、王号を称していることが皇位継承資格の決定的要件とは思えない。
なお、宇多天皇(源定省)の例については広く知られていることでもあり、ここでは省略して先に進める。


(4)親王宣下制度
 
  皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのち称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王とたりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうける皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女に分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、弘仁五年五月から卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。
      
  親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。陽成遜位後、藤原基経以下貴族首脳部の推戴により仁明皇子一品式部卿時康親王が即位した。光孝天皇は皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下したが、光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極した。宇多天皇即位により、であるが、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃)、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。(なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である)。もともと、継嗣令皇兄弟子条は天皇の兄弟姉妹と子女はすべて親王・内親王であるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。
 
  平安後期になると諸王でも宣下をうければ親王・内親王になりうるとした。三条皇孫で敦明親王(小一条院)の御子である二王、二女王の親王宣下がそうした例である。 鎌倉時代には後鳥羽の皇子・皇孫が相次いで親王宣下をうけて六条宮を称し、後嵯峨の皇子・皇孫、後深草の皇子・皇孫が親王宣下をうけ鎌倉将軍宮となった(註14)。
  青山幹哉が後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍の賜姓と親王宣下について論じ(註15)、よく引用されている。鎌倉将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである。
  弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。
  従って、将軍源惟康の親王宣下は政治色の濃いものであり、事実上、院政停止、皇位継承に干渉するほどの政治力を有した幕府首脳部の意向によるものであるが、親王宣下について私の考えでは、親王は令制本来のありかたとしては格としては一国にひとしい家政機関を組織するのであるから、親王たるにふさわしい家政機関を維持する経済的基盤を有することが、親王宣下の前提であると同時に、親王は有力な皇位継承候補となりうるので、安易に孫王以下を親王宣下されるべき性格のものでもなかったと考える。 
 
  (5)未定名号の皇子の即位
 
  一方、皇子であっても臣籍降下でもなく親王宣下もうけない場合がある。平家討滅の令旨で著名な後白河皇子以仁王はよく知られているが、中世においては親王宣下も臣籍降下もなく、たんに某宮、未定名号の状態のケースも少なくない。法親王は白河皇子覚行法親王に始まり、出家された後に親王宣下されるのである。
  歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。 、
  未定名号の皇族が、践祚当日まで諱もなく登極する例もある。このことは、親王宣下は皇位継承者の決定的要件ではなく血統原理が第一であるということがわかる。後堀河、後嵯峨、後光厳のケースについていえば、親王宣下をうけていない皇族が即位するというのは王権側の皇位継承候補から外れている皇族、ともいえるが、後小松のように外戚に経済的余裕がなく家政機関を組織できないケースも考えられる。
  なお、筆者は素人なので、親王宣下の有無は米田雄介編『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館2003により判断した。次のケースである。後鳥羽天皇、土御門天皇、後堀河天皇、後嵯峨天皇、後光厳天皇、後小松天皇、後花園天皇、光格天皇である。
このうち、非常事態での即位のケース、後嵯峨と、後光厳のケースについて述べる。
   
   未定名号から践祚の例1 後嵯峨天皇
 

  仁治三年正月九日、十二歳の四条天皇が廊下を滑って顛倒する事故で夭折、皇子がいなかったため、後高倉皇統が途絶したが、朝廷の実権者前関白九条道家(将軍頼経の父でもある)や西園寺公経など貴族首脳部は順徳皇子の佐渡宮推戴の方針で固まっていた。摂政近衛兼経以下諸公卿は関東にこの意嚮を関東に伝え同意を求めることとし、ために空位十一日に及んだ。しかし佐渡配流の順徳上皇は当時在世されていて、討幕の謀議に深く関与したことから、幕府は還京運動から上皇の復権に結びつくことを警戒していたので、順徳皇子推戴はありえなかった。執権北条泰時は親幕的で討幕に一切関与せず、御自らすすんで土佐-阿波に遷御された土御門上皇の第三皇子の阿波宮を奏請する方針をとった。
  もっとも表向きは鶴岡八幡宮の神慮と称し(若宮でくじをひいたと伝えている)土御門皇子を推すこととしたのである。京に向かう東使安達義景は順徳皇子践祚と既成事実となるった事態を懸念し、泰時に対策を請うたところ「おろし参らすべし」との指示であった。東使は道家に会う前に、阿波宮の養育者である前内大臣土御門定通に会っている。関東の方針を察知した西園寺公経は道家と離反したため流れは決まった。23歳の皇子は諱すらなく、同年正月二十日俄に元服式が挙行され邦仁と命名、同日直ちに践祚した。後嵯峨天皇である。広橋経光は「帝位事、猶東夷計也、末代事、可悲者歟」と幕府の露骨な皇位介入に悲憤慷慨したがいかんともできなかった(註16)。

   未定名号から践祚の例2 後光厳天皇
 
観応二年(1351)十月二十四日足利尊氏は関東に下向して弟直義を討つため、南朝に帰順し、尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、正平の一統なる。十一月四日尊氏は関東に進発、しかしこのことは光厳上皇に知らされておらず、前太政大臣洞院公賢は「両院・主上以下可奉取之旨南方形勢之由風聞、驚動御気色云々、更不信用事也、如此狂事‥‥」と上皇らの驚愕を報じている(註17)。十一月七日崇光天皇廃位。南朝は神器を接収し北朝の官位叙任を破棄させた。しかし光厳に長講堂領を安堵、光厳・光明・崇光に太上天皇の尊号が宣下され、宥和策がとられた。正平七年(1352)二月南朝は足利義詮に後村上天皇の還京を伝え、二月二十六日大和賀名生を発ち、河内東条より摂津住吉、さらに八幡まで進んだ。一方、鎌倉では二月二十六日尊氏により直義は毒殺されるが、南朝は一転して宥和策より強硬策に転じ 閏二月六日尊氏の将軍位剥奪、在信濃の宗良親王に将軍宣下、閏二月二十日北畠顕能率いる南軍は京都に突入、足利義詮は市街戦で大敗し近江に敗走、三上皇(光厳・光明・崇光)廃太子(花園皇子直仁親王)八幡遷座(『椿葉記』は南朝の天気(後村上の思召)により八幡の軍陣に幸しましますとの表現-註18- 。事実上は南軍による拉致軟禁とみられる)、三月十五日義詮は態勢を立て直し京都を奪回したが、三上皇廃太子は三月三日河内東条、さらに六月には大和賀名生に遷幸された。
 幕府は三上皇廃太子が南朝の本拠地に送致されるという異常事態で北朝再建のために、後伏見女御で光厳・光明生母の広義門院(西園寺寧子)の令旨をもって上皇の政務を代行するプランとなった。女院は当初固辞されたが、佐々木道誉の意を受けて、勧修寺経顕の説得のよるものであった。女院は関白二条良基に「天下政務内々御計」として事実上政務は委任されたが皇嗣策定決裁者は王権女性尊長の女院という形式をとっている。
 三上皇拉致は異常であっても、天皇祖母が最終決裁者となることは異例ではない。例えば文徳急崩後、皇太子惟仁親王九歳擁護のため急遽皇太子と同殿されたのが文徳生母皇太后藤原順子であり、太政大臣藤原良房が万機を摂行する体制を継続するためには、形式的には皇太后の意思決定を受けたものとみなすべきである。朱雀譲位村上受禅は皇太后藤原穏子の示唆によるもので、また後冷泉朝において摂関任免の最終決裁権は天皇祖母上東門院藤原彰子にあった。鳥羽法皇崩後、平清盛らが忠誠を誓ったのは、後白河天皇ではなく近衛生母美福門院藤原得子であり、後白河譲位二条受禅は事実上美福門院の方針で決まったという実例がある。元徳三年光厳践祚後の 十一月八日故邦良親王の嫡子康仁親王立坊、幕府は邦良妃の崇明門院(後宇多皇女)を上皇になぞらえて、大覚寺統の家父長代行者として立坊の責任者に指名した例がある(註19)。
  北朝-幕府側は南朝と楠正儀の縁者を使者として上皇らの還京交渉も行っているが、南朝は強硬姿勢であったので、妙法院門跡に入室する予定で日野資名に養育されていた未定名号の光厳第二皇子が、観応三年(正平七年)八月十七日元服して弥仁と命名され、親王宣下もなく直ちに践祚した。後光厳天皇であるが、神器を収めた小唐櫃が探し出されて、空箱を神器に見立てるという異例の皇位継承であった(註18)。
 
このような前例がある以上、親王位という身位にあらざるとも皇位継承は全く問題はない。
 
 
 引用参考文献

(註1)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970
(註2)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁

(註3)吉川真司『律令官僚制の研究』「禄制の再編」369頁以下 初出1989
(註4)佐々木宗雄『日本王朝国家論』名著出版1994「十~十一世紀の授領と中央政府」初出1990
(註5)藤木邦彦 前掲書 205頁、210頁以下
(註6)竹島寛 前掲書 165頁
(註7)藤木邦彦 前掲書、赤木志津子「賜姓源氏考」『摂関時代の諸相』近藤出版社1988、初出1964、林陸朗「嵯峨源氏の研究」「賜姓源氏の成立事情」『上代政治社会の研究』同淳和・仁明天皇と賜姓源氏」『國學院雑誌』89号1988、同「平安初期政界における嵯峨源氏」『古代文化』460号 1997、宇根俊範「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓-」『史学研究』147号 1980、宇根俊範「律令制下における賜姓についてー宿禰賜姓ー」『ヒストリア』99号 1983、安田政彦『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998第二章平安時代の皇親賜姓 
(註8)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号 (通号 506) [2001.3]
(註9)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註10)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9
(註11)阿倍猛「天応二年の氷上川継事件」『平安前期政治史研究』新生社、初出1958
(註12)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 211頁
(註13)瀧浪貞子 前掲書116頁
(註14)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館「宮家の役割」15頁以下参照。
(註15)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註16)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000、330頁
(註17)今谷明「観応三年広義門院の「政務」について」『室町時代政治史論』塙書房2000 
(註18)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 123頁
(註19)森茂暁『南朝全史』講談社選書メチエ 2005 69頁
(註20)今谷明『室町の王権-足利義満の王権簒奪計画』中公新書 中央公論新社 1990

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