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2005/09/10

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回

川西正彦(掲載 平成17年9月10日) 
 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝(以上今回掲載)
   

 次回予定
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

〔6〕皇親内婚の男帝優先
 
 既に述べたとおり、皇親女子は配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対にない。皇親内婚における男帝優先は自明である。つまり、草壁皇子が早世し、所生の文武も早世したから元明が即位したのであって、草壁をさしおいて元明が即位することありえない。皇女を后妃とする傍系皇親が即位するケースは少なからず例があるが、傍系の継体(応神五世孫)が皇位を継承したのであって仁賢皇女の手白香皇女はあくまでも皇后である。傍系の光仁(天智孫白壁王)が皇位継承したのであって、聖武皇女井上内親王はあくまでも皇后である。近世でいえば傍系の光格(閑院宮典仁親王第六王子祐宮)が皇位を継承したのであって、前代の後桃園皇女欣子内親王はあくまでも皇后です。傍系皇親男子と、前代の直系卑属皇親女子との結婚では、男子皇親が皇位を継承し、直系卑属の内親王は皇后でなければならない。
 内親王を后妃とすることは皇位継承を正当化する決定的なものとは断定しない。しかし皇位継承を正当化しやすいとはいえる。光仁天皇が前斉王聖武皇女の井上内親王を皇后に立て、桓武天皇は井上内親王を母とする前斉王酒人内親王を妃(異母兄妹婚)とし、平城天皇が酒人内親王を母とする前斉王朝原内親王を妃(異母兄妹婚)した例は、継体、安閑、宣化がそれぞれ仁賢皇女を皇后に立てたことと類比する意義を有するとも考えられるだろう。又、内親王の立后が皇位継承の前提になっているケースも少なくないと思う。冷泉天皇、堀河天皇、二条天皇がそうだろうし、ほかにもあるだろう。なお冷泉天皇は傍系ではないが、皇太子時代に元服式の時点で朱雀天皇の唯一の皇子女である昌子内親王を東宮妃とされたのは、この皇統の正統化という意義があったとみてもよいのである。
 いずれにせよ、皇親内婚では皇親男子が傍系であれ直系であれ男帝優先である。いうまでもないことである。現今の女帝論議では、内親王が女帝として即位しても、結婚相手を王姓者(皇親)に限定すれば男系継承上問題ないという意見もあるようだが、私は大反対です。あくまでも伝統は男帝優先であり、前代の直系卑属が優先するわけではありません。この場合は、傍系王姓者(皇親)が即位し、内親王は皇后です。皇后というは、もともと皇女が原則であった、「しりへの政」(註61)という不確定概念ではあるが政治的権能を有し、持統や光明皇后にみられるように、皇権の一翼を担う、共同統治型の強力な皇后も歴史上存在したことからみて、皇后という身位で不足ということは絶対ありません。女性当主・女帝即位にしなければ気が済まないという考え方は大きな誤りです。
 継嗣令王娶親王条の皇親女子の内婚規則の趣旨から女系継承はありえないと再三述べましたが、男帝優先原則から、皇親女子の結婚相手である皇親男子をさしおいて皇親女子が即位することは絶対あってはならない。それが皇室の伝統です。
 
 〔7〕女帝は皇統を形成できない
 
 女帝は皇統を形成できない。この細節では生涯非婚内親王の女帝四方の即位の意義と問題点を考察し、私の意見を述べたい。なお聖武天皇即位詔と次回の孝謙女帝については瀧浪貞子説(註62)を主として引用したうえ私の意見を述べる(もっとも瀧浪貞子は毎日新聞2005年1月24日の「論点女性天皇どう考える」で古代女帝に関する持論を要約して述べ歴史に学ばない安直な議論を避けるべきだしとしつつも、女性天皇に賛同するというのである。瀧浪氏の持説からすれば女系継承に反対してよさそうだが、とてもがっかりした)。

 我が国の経済繁栄の基礎は奈良時代、元明・元正朝の貨殖富国政策にある(現今の状況で女帝即位は絶対的に反対であるということと歴史上の女帝の治績を讃えることは決して矛盾するものではない)。
 
  イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義

 元正女帝(霊亀元年即位-715年)の詔勅「国家の隆泰は、要ず、民を富ましむるに在り。民を富ましむる本は、務、貨食に従ふ。故に、男は耕運に勤め、女はジム織を脩め、家に衣食の饒有りて、人に廉恥の心生ぜば、刑錯の化け爰に興り、太平の風到るべし‥‥」(霊亀元年十月七日条)。民を富ませることが国政の基本方針であることを述べ、人民に貨殖に励むよう諭し、勤勉に働くよう命じた。日本人が勤勉であるとされるのはたぶんそのためである。又、徹底した文書主義による律令国家収取体系が確立したのは元正女帝の養老年間とみなされているから、国家財政を確立したのは元正女帝である。百万町歩開墾計画や三世一身法を施行したうえでの譲位であるから、私のような素人目にみても経済・財政重視の政策を遂行し、ぶれのない統治者と高く評価できる。素人目からみて仏教依存傾向が強く、陸奥産金の報らせに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出したともいわれる聖武天皇よりも安定的で堅実な統治者と評価できるだろう。
 律令国家は天譴思想や徳治思想により天皇に政治責任を要求する。そのような意味では現代の「象徴」という在り方とは違った意味で、君主に厳しい試練がある。元正朝においてはとくに元明上皇崩後、政権の動揺があったが、女帝はそれを乗りきった。井上亘によれば、元正女帝は、天意に自己を向き合わせて刻苦自勉し、人事においては「万方辜有らば、余一人に有り」「向隅の怨、余一人に有り」という深い自責をもって「仁恕之典」を施行した。また「面従して退き、後言有ること無かれ」と政治批判にも耳を傾け、実情を把握すべく「極諫」を求めた(註63)。国家のトップであれ企業のトップであれ、耳にしたくない悪い情報も把握しなければ裸の王様だ。当然のことだと思います。元正女帝は統治者の資質として優れていたことは明白であります。また春名宏昭によれば元正は譲位後も太上天皇として国政の総覧者、天皇大権の掌握者だった(註64)とされる。
 
しかしながら元正朝の基本的性格は、あくまでも甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が成長するまでの中継ぎであることは、自明なのであります。むろん聖武即位後も上皇として国政の総覧者であったから、聖武の後楯としての位置づけもあったかもしれないが、中継ぎにすぎないことは自明であります。

 元明女帝の和銅七年(714)六月に首皇子(のち聖武天皇)が立太子、元服を加えた、翌霊亀元年正月一品を授けられ、九月二日(庚辰)元明女帝の譲りをうけて即位した。

天皇、位を氷高内親王に禅りたまふ。詔して曰はく「乾道は天を統べ、文明是に暦を馭す。大いなる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。(中略)今、精華漸く衰へてむくいわく耄期斯に倦み、深く閑逸を求めて高く風雲を踏まむとす。累を釈き塵を遺るること、脱シに同じからむとす。因てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉く祗み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ。(註66)

 元明女帝は政務に疲れたので、皇太子に譲りたいが、まだ幼稚であり、一日に万機ある政務決裁能力に疑問ということだろうが、聡明であり沈着冷静、政務決裁能力のある元正に、皇太子が成長するまで中継ぎとして、皇位を継承させるという趣旨であろう。

 当時、皇太子首皇子が15歳で、文武天皇が15歳で即位した例からみて、年齢的に支障はないはずという見解があるが、そう思わない。文武即位は、持統上皇との共治体制であり、文武天皇には強力な共同統治者が存在したからこそ15歳で即位できた。もし、元明から直接首皇子に継承されると、祖母から孫への継承となり一世代飛び越えてしまう。 これは、持統から文武への継承と同じことではあるが、結果的に元明が即位せざるをえなかったように、やはり一世代飛び越すのは皇位の安定的継承という観点から問題がある。
 もし首皇子が后腹なら先帝皇后が後見者であってもよいのだが、文武は皇后を立てなかった。首皇子の生母、夫人藤原宮子は后位にのぼせられてなかったし、「久廃人事」という重い鬱病で無力な存在であり、伯母にあたる元正女帝の中継ぎと後楯が必要だったということだと思う。聖武生母藤原宮子が宮廷における求心力がなく、皇太夫人として政治力を発揮することが全く期待できないこと。聖武のように非王姓腹の天皇は大友皇子を除けば崇峻以来であり王権の安定的継承という観点で、首皇子には母后の後楯がないに等しく、伯母にあたる元正の後見は必要だったと考える。そこで文武皇姉の氷高内親王が生涯非婚独身であることを前提として即位したのだろう。 むろん、舎人親王や新田部親王といった天武皇子が中継ぎとして即位してもよいわけだが、それでは軋轢を生じて、皇太子への直系継承路線が破綻しかねないし、王権の安定的継承という観点では伯母にあたる非婚内親王の中継ぎがベストという判断によるものだろう。
 
   
  ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)

女帝は皇統を形成できない。それは神亀元年二月四日聖武天皇即位詔の論理で明白なことである。
二月甲午、禅を受けて、大極殿に即位きたまふ。天下に大赦す。詔して曰はく、「現神と大八洲知らしめす倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ大命を親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。
高天原に神留り坐す皇親神魯岐・神魯美命の、吾孫の知らさむ食国天下と、よさし奉りしまにまに、高天原に事はじめて、四方の食国天下の政を、弥高に弥広に天日嗣と高御座に坐して、大八嶋国知らしめす倭根子天皇の、大命に坐せ詔りたまはく、「此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に天下知らしめししみましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業」と、詔りたまふ大命を、聞きたまへ恐み受け賜はり懼り坐す事を、衆聞きたまへと宣る。
「かく賜へる時に、みまし親王の齢の弱きに、荷重きは堪へじかと念し坐して、皇祖母と坐ししかけまくも畏きは我が皇天皇に授け奉りき。此に依りて是の平城大宮に現御神と坐して大八嶋国知らしめして、霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業、食国天下の政を朕に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、『かけまくも畏き淡海大津宮に、御宇しめしし倭根子天皇の、万世に改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我が子に、さだかにむくさかに過つ事無く授け賜へ』と負せ賜ひ詔り賜ひしに、坐す間に去年の九月、天地のたまへる大き瑞物顕れ来り。また四方の食国の年実豊にむくさかに得たりと見賜ひて、神ながらにも念し行すに、うつくしくも皇朕が御世に当りて顕見るる物には在らじ。今嗣ぎ坐さむ御世の名を記して応へ来りて顕れ来る物に在るらしと念し坐して、今神亀の二字を御世の年名と定めて、養老八年を改めて神亀元年として、天日嗣高御座、食国天下の業を吾が子みまし王に授け賜ひ譲り賜ふ」と詔り賜ふ天皇が大命を、頂に受け賜はり恐み持ちて‥‥‥(後略)」(註66)

 早川庄八の口語訳(註67)は「高天原にまします皇祖の男神・女神が、わが子孫の統治すべき食国天下であると子孫に委ねられたままに、高天原に事をはじめて以来、四方の食国天下のマツリゴトをいよいよ高くいよいよ広く、皇孫として天皇位にあって大八嶋国を統治してこられた倭根子天皇、それが元正天皇です。その元正天皇が聖武天皇にこういいました。『この食国天下はかけまくもかしこき藤原宮で天下を統治していた、ミマシの父であられる天皇(文武天皇のことです)が、ミマシに賜った、神意に沿って治めるべき天下である』と。そのようにおっしゃるオオミコトを、自分(聖武)はお聞きなって恐懼していることをみんな聞け」というのが第一段。
 元正上皇が聖武天皇に語ることばはさらに続いて(ここからは直の引用ではありません)、「文武天皇はミマシ親王(首皇子-当時7歳)が年少で荷が重いことは堪えられないだろうと思って皇祖母(皇族女性尊長)の元明天皇さらに霊亀元年、朕(元正)に天つ日嗣高御座の業(天皇位)、食国天下の政(国土統治権)を授けられ譲られたのだが(この時点で首皇子は15歳)、そのとき母元明は『天智天皇の不改常典に従って法の随に、天皇位と統治権を吾が子(孫だけれども吾が子)に確実に過つなく授けなさい』とお命じになったので、朕が在位している間に、昨年の九月大瑞物(白亀)が顕れ、四方の食国(畿外の国郡)も実り豊かであることから、このめでたいことは、朕の御世にあたってあらわれたものでなく、これから天皇位を嗣ごうとなさっているかたの御世の名を記して応えようとしているものだろうと思って、いま神亀の二文字を御世の名と定め、養老八年を改めて神亀元年とし、天つ日嗣高御座(天皇位)、食国天下の業(国土統治権)を吾が子(甥であるが吾が子)であるミマシ王に授け譲る」

「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」(此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に、天下知らしめしし、みましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業)この食国天下はあなたの父である文武天皇があなたに賜った天下であるという元正上皇の仰せであります。
 「不改常典」の意義については諸説あり定説はないと思うが、瀧浪貞子は「不改常典」についてこう解説している。「一つは皇位の継承を大きく制約する結果をもたらしたことである。すなわち八世紀では嫡系継承は社会的な慣行ではなく、極端にいえば、皇位継承者は皇胤でさえあればよかった。兄弟継承や時には遠い皇親の即位がみられた理由である。それが皇位が草壁系に独占されたことにより、草壁系(皇統)以外は正統な継承者ではないという観念-皇統意識を生み出した。つまり皇位の継承に皇統という要素が加わってきたわけである。‥‥二つには、拠り所にされた「不改常典」の論理は、右にいう皇統から女性を排除し、女帝の立場を著しく制約する方向で作用したことである。‥‥文武以後の皇位は、文武-元明-元正-聖武へと継承されたにもかかわらず、元明は元正に対し、皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承されるのだ。と述べている。とくに元正は草壁の子でありながらその皇統から除外されている。けだし嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系継承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるをえなかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意義もあらためて理解されよう」(註68)。
 
 つまり「不改常典」において女帝は皇権を継承できるが、皇統を形成できない。非婚内親王だから皇統を形成できないのは自明だが、「皇統」からも除外されているのであるから、女系継承がありえないのは明白なことである。「不改常典」については諸説あり、必ずしも嫡嫡継承、直系継承をさすものという固定観念を私はもっていないが、私は瀧浪氏が説明している「皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承される」という論理は「不改常典」の解釈に限定することもなく、「不改常典」の解釈いかんにかかわらず皇位継承における男系継承の論理とみなしても大きな誤りはないと思う。少なくとも実際には文武-元明-元正-聖武と継承されているにもかかわらず文武から聖武に継承されると言い切っているわけだから、女帝の中継ぎは男系主義的脈絡で理解する以外にない。
 要するに元正女帝は、天武皇子で皇親年長者の舎人親王と新田部親王を皇太子首皇子の輔政者と位置づけ首皇子を支える万全の態勢をしいて、元明上皇崩後の政権の動揺があったがこれも乗り切ったうえで譲位されたのですが、あくまでも元明の命令は中継ぎであるからその役割に徹したのだし、だからこそ、禁欲的な非婚独身の女帝であったのであります。皇統はあくまでも、草壁皇子(即位していないが正統の皇位継承予定者である)-文武-聖武と継承されたのであって、女帝は一時皇権を預かっていただけという解釈でよいと思います。

 ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである

 生涯非婚の女帝の即位の経緯を分析すると、即位の時点で直系継承のための男帝への中継ぎとしての性格が明白なケースが三例(元正・明正・後桜町)である。
 元正天皇は、皇太子首皇子の成長までの期間、草壁皇統直系継承のための中継ぎとして即位したことは『続日本紀』神亀元年二月、聖武天皇即位詔などで明白であることは上記に述べたとおりである。焦点は孝謙女帝の評価になるが次回に回し、天平十年の阿倍内親王立太子は特異な例であるが、この時点では安績親王が健在だったことと、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、中継ぎを想定してよい。その前に近世の女帝についても言及しておこう。
 
 
 明正女帝
 
 明正女帝のケース(寛永六年践祚 1629年)は父帝後水尾に皇子がない時点での譲位受禅でありきわめて異例の皇位継承だが、しかも幕府に無断で譲位を強行したことによる政治的波紋が大きくかなり特異なケースといえるが、結論としては中継ぎである。
 後水尾天皇は幕府の対朝廷強硬策への憤懣が募っていたようだ。天皇が即位して数年後元和元年「禁中並公家諸法度」が幕府によって作られましたが、天皇の御行動がそういうものによって拘束されるというのは未曾有のことであった。とりわけ寛永四年に徳川幕府が紫衣勅許と上人号勅許の事実上無効を決定した事件があり、寛永五年八月に譲位を表明したが、幕府は慰留した。しかし寛永六年(1629年)五月再び譲位の意思を公卿等に覚書として示した。それは小槻孝亮の日記に記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」とあり(註69)、そのとおり異母弟の後光明に皇位は継承されたので、やはり直系継承のための中継ぎとみるべきである(後水尾は譲位の時点で34歳)。譲位の意思は幕府に伝えられたが、大御所秀忠、将軍家光ともに時期尚早として認めていない。
 同年十月に将軍家光の乳母ふくが上洛し、これは譲位の理由となっている疾病が本当なのか偵察ともいわれているが、無位無官の身で拝謁し天盃が授けられ春日局の名号を許されている。荒木敏夫によれば、後水尾は屈辱的な対応を強いられ憤懣がピークに達したようだ(註70)。
 中宮源和子(徳川秀忠女)所生女一宮7歳は未定名号の状態だったが、春日局が上洛中の十月二十九日内親王とする宣下が下され興子内親王となった(中世以降、未定名号のままの皇子女も少なくなく、とりわけ南北朝時代以降、内親王位が消滅した時期があり、皇女は比丘尼として比丘尼御所に入室し身を処す時代となっていた。女一宮は后腹で、しかも徳川秀忠を外祖父としているから内親王宣下は当然なのだろうが、この時点で内親王践祚は予測されていない)。
 十一月八日早朝突如公家衆に束帯を着けて直ちに参内せよとの触れがまわり「俄の御譲位」が決行された。このことは中御門宣衡以外誰も事前に知らされておらず、幕府の同意もなく、しかも幕府の嫌悪する女帝践祚が強行されたことで異例中の異例であった。
 京都所司代板倉重宗が内親王践祚の情報を得たのは八日申刻であるが「不慮俄御譲位、中々廃亡、言語道断」と驚きを隠さず、九日急報の飛脚が発するとともに、江戸表の指示があるまで上皇を軟禁し、これ以上の皇位継承儀礼の凍結を暗に要請するが、上皇の決意は固く女院号定めなどが強行されたのである。
 十二月一日に所司代重宗は武家伝奏を召還し、「江戸両御所、何之故御譲位候哉、一端不審可被申候間、如何様御事にても御返答覚悟、公私共肝要事候」という、大御所秀忠、将軍家光の不快感と疑惑を告げ、幕府儒官林羅山の女帝践祚に否定的な見解が披瀝され、連日のように緊迫した朝幕交渉がなされた。今谷明(註71)によると幕府は自らの権威失墜となる無断践祚の女帝出現を阻止すべく、女帝践祚の既成事実を認めずに、後水尾の復位と、内親王を皇位から「おろし参らす」可能性を探るため、懸命の説得がなされたのだという。
 しかし、京都で情報を収集していた前豊前小倉城主細川三斎(忠興)の践祚取り消しが不可能という書状もあり、幕府は十二月下旬には復位工作を断念した。今谷明は明正践祚は近世の朝幕関係でも重大事件であり、「承久以来は武家より計らい申す」と言われて定着していた公武協議による皇位継承の伝統の明瞭な背反を是認したことにより、徳川秀忠が京都朝廷に全面的に屈服した政治的意義のあるものと評価されている。むろん後水尾天皇の腫れ物の持病については、毎朝暁、水ごりをとって神拝するという、天皇にとってが大切な神事がままならないほど悪化していたという見方もあるが、一方、単純に言ってしまえば、俄御譲位-明正践祚は幕府に対するあてつけというか意趣返しのような政治行為のようにも思える。

 後桜町女帝
 
 後桜町女帝のケース(宝暦十二年践祚 1762年)は、一歳年下の異母弟である桃園天皇が22歳の若さで崩御になられたうえ、忘れ形見の英仁親王(のち後桃園天皇)が5歳と幼少であるため「暫ク御在位在ラセラル様ニ御治定」と壬生知音の日記にあるように、儲君英仁親王が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である(註72)。皇位継承予定者の伯母が中継ぎという点では元正のケースに類似する。
 あえて女帝即位はそれなりの事情があった。ひとつは、中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましいことではなかったこと。決定的には宝暦事件(竹内式部一件)の教訓である。宝暦六年、桃園天皇の近習徳大寺公城が天皇に竹内式部の進講を勧めたが、垂加流神道説に傾倒する天皇近習ら一部公家衆の行動は、摂家衆に多大な不安を与え、桃園養母青綺門院藤原舎子の諫めにより中止されたが、桃園天皇は漢学に造詣深く、向学心旺盛で、すこぶるこの神道説に傾倒されていたため、これが不満で、進講再開をめぐって状況は一転、二転し、宝暦八年七月、摂家衆は相計り、主立った近習(徳大寺公城、烏丸光胤、正親町三条公積、坊城俊逸、西洞院時名、高野隆古ら)が処罰された。徳大寺らは天皇に取り入り、朝儀を勝手気儘に運営しようとし、関白をはじめとする摂家や武家伝奏、議奏を天皇から遠ざけるよう画策したということが処罰理由とされているが、この事件は近習衆の台頭により、天皇と摂家の対立が先鋭化した事件といえるだろう。その三年後に天皇は急に崩ぜられたが、緋宮智子内親王践祚は、摂家衆の密議で決定され、関白近衛内前が摂家衆の総意として皇室の尊長である青綺門院藤原舎子に伝え、女院は英仁親王への皇位継承を望んだが、結局関白の説得で承認したものである。久保貴子は、宝暦事件により公家社会に動揺が残っていて、朝廷内が不安定な時期に英仁親王を天皇に立てた場合、その周囲の環境に自信がもてなかったのではなかろうかとの見解である(註73)。後桜町生母が関白二条吉忠女青綺門院藤原舎子で、明正女帝の先例もあり、暫くは智子内親王の中継ぎが政情安定のためには無難であるという政治判断によるものだろう。
 
   
(註61)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
 田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
(註62)瀧浪貞子の次の著書を参照した。『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991のⅠ皇位と皇統、『最後の女帝孝謙天皇』吉川弘文館歴史ライブラリー44 1998、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000、「孝謙・称徳天皇-「不改常典」に呪縛された女帝-」『東アジアの古代文化』119、2004・春(特集日本の女帝)、『女性天皇』集英社新書0262D  2004、
(註63)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998「元正政権論」85頁
(註64)春名宏昭「太上天皇制の成立」『史学雑誌』99編2号1990
(註65)『続日本紀 一』新日本古典文学大系岩波書店
(註66)高天原以下 早川庄八『続日本紀(古典講読シリーズ)』岩波セミナーブックス109 1993 143頁以下
(註67)早川庄八 前掲書 143頁以下
(註68)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」81頁。なお『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 94頁、『女性天皇』集英社新書0262D  2004 142頁にも同趣旨の見解を述べておられる。
(註69)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註70)荒木敏夫 前掲書 275頁以下
(註71)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000所収
(註72)荒木敏夫 前掲書 286頁
(註73)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「第五章上皇・天皇の早世と朝廷運営」215頁

つづく

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