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2005/09/22

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第11回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月22日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
   
(第5~10回)
 (6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
  (7)平安中期以後の違法婚
       (今回掲載)

(6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
 

 中だるみ状態でピッチが遅すぎて、閲覧者には大変申し訳ありません。でも苦しくも悶えても最後まで頑張ります。険しい道でも皇位国体護持のため神風が吹くのを祈りたい心境だ。

(5)では、高森明勅の継嗣令の下条、王娶親王条の意義をふまえない継嗣令皇兄弟子条の本註の誤った解釈、律令国家は双系主義という虚構の奇説を批判するため、生涯非婚女帝の即位の経緯まで逐一検討して女帝は皇統を形成できないという、ごくあたりまえのことを述べた。ここで本題の皇親女性の皇親内婚規則、継嗣令王娶親王条の歴史的経緯に戻ることとし、長くなりすぎたのでこのテーマは今回で終え、次回より別の観点で女帝絶対反対論を続行する。

 継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規則は奈良時代において、一例を除いて違法例がなく、よく守られていたことを述べた。しかし、皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註99)。任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能としたのである。令制の皇親内婚の理念は大きく後退したように思える。これは有力貴族をミウチとして取り込む政策的意義というより、素人考えながら桓武天皇が内寵を好まれ多くの皇子女をもうけたこともあるのではないか。
 但し、二世女王降嫁の初例は、承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐などを歴任し、良吏として知られる藤原衛(右大臣内麿十男)に、淳和皇子恒世親王女が降嫁(結婚の具体的な時期は不明)した例であり(註100)、桓武天皇の治世からかなり後のことである。
 仁明皇子人康親王女の藤原基経への降嫁は二世女王だから延暦十二年詔により合法である。そもそも摂政藤原基経と一品式部卿時康親王(光孝)は母方でいとこで血縁関係があり、人康親王女は光孝の姪であり姻戚関係もあった。基経が陽成廃黜、光孝天皇擁立を断行したのもそういう事情が背景にある。人康親王女を母とする時平、仲平の元服式が天皇の加冠により挙行されたのも、基経の権力の大きさを物語るといえるが、前代未聞、仲平以後は絶後の殊遇は、時平や仲平が母方で承和聖帝(仁明天皇)と繋がっているためでもあろう。なお、人康親王女を母とするのは、時平・仲平・穏子で、忠平については歴史家により見解が異なるようだ。また時平は仁明皇子本康親王の女廉子女王を娶っているが、これも二世女王なので合法である。

 嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。源潔姫は、太皇太后藤原明子(文徳女御・清和生母)の母である。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている
 それでも依然として、内親王降嫁は明確に違法である。今日の皇室典範第12条においても、皇族女子は天皇及び皇族以外の者と結婚した場合は、内親王、女王という身位を保持できないことになっており、民間人への降嫁はあっても継嗣令王娶親王条の皇親内婚の趣旨は継受されているものと私は理解している。
 
(7)平安中期以後の違法婚
 
 とはいえ平安中期以降、内親王の藤原氏や源氏への降嫁のケースが少なからずみられる。違法であるが勅許によるものだろう。甚だ令意に反する事態といわなければにならない。十世紀には昇殿制にともなう天皇との直接の関係に基づく公卿・殿上人というあらたな特権階層を作り出し、日常的に側近を殿上に候せしめる総側近官僚型政治、あるいは「内裏・太政官一体型政務」が展開されることにより、天皇と有力貴族の日常的な距離が接近したことからこのような事態もやむをえないと考える。
 
 例えば藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)結婚した例などである(註101)。さすがに康子内親王は后腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註102)。同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてもよいだろう。
 保立道久によれば「村上天皇の同母姉=康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」などと伝えられている(『大鏡』『中外抄』)(註103)とされ、公然周知の醜聞だった。
  このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としている(註104)。
 しかし為光や公季は醍醐天皇の外孫、村上天皇の甥にあたるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇位継承者には絶対的になりえない。母方で天皇と繋がってもそれは全く意味をなさないのである。
 母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえる。しかし男系で天皇と繋がっていないから、太政大臣にはなれても皇位継承資格はない。当然のことですね。
 太政大臣は慣例として天皇の元服加冠の儀の加冠役だが、その大役にふさわしい上流貴族であることはもちろんである。
しかし、父系出自系譜で天皇に繋がっていないから、皇親にはならない。あくまでも藤原氏です。あたりまえのことですね。それでも女系だといいはる人は、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。ありえないことだが為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。だから女系継承なんてありえないですね。
  正月から報道されている政府案(1月4日読売など)の女系継承は為光や公季と同じようなケースでも皇位継承を認めようとするものですが、そういう無茶苦茶なことはあっては絶対ならないです。

以上長文になりすぎた感がありますが、王娶親王条の意義についてはここで終えることとします。要するに私のいいたいことはこうです。実際には違法だが勅許により例外である内親王降嫁もあった。令制では違法婚でも内親王の身位は保持されたとされていますが、この点現代の皇室典範とは違います。しかしそれによって王権が危機に陥ったわけではないから結果オーライです。女系継承などありえなかったのです。まさしく花園上皇の仰せのとおり「吾が朝は皇胤一統なり」です。歴史上の内親王降嫁という例外は許容しますが、しかし皇親女子の皇親内婚という規則・規範を否定することは絶対にあってはなりません。
 王娶親王条の理念は現代でも 「皇室典範第12条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」。ということで。実質的に継承されています。この規範は絶対堅持していただきたい。規範性は明白なのです。これを破って棄てたら易姓革命で日本国は終焉します。それをやったらおしまいだ。皇朝は終焉して、われわれは日本人をやめることになります。全てが台無しになります。鎌倉時代から近世にかけて皇女は非婚であるケースが大半という状況になりました。むろん鎌倉時代の非婚内親王は大変厚遇された時代ですが、室町時代から近世は皇女の大半が比丘尼御所に入室し身を処す時代になりました。こんなところで、12条を改変したら、いったい中世~近世の多くの皇女がなんのために生涯非婚だったのか意味がなくなるじゃないですか。そういう伝統的脈絡を全面的に否定していいんですか。12条改変で世の中は無茶苦茶なことになりますから、それだけは絶対やめてください。
 8月31日の有識者会議で「憲法では世襲と規定しているのみであり、男系ということは規定していない。憲法の世襲は血統という意味であり、男系も女系も入る」と発言している人がいますが、そういう拡張解釈は疑問に思う。たかだか60年の憲法がなんだと言い返したい。そんな新奇な思想を容認するわけには断乎いかない。2665年の皇室の歴史があり、千数百年の重大な婚姻規範を、こんなところで捨て去らないでください。それだけはなにがなんでもやめてください、やめてくださいと絶叫します。
 
(註99)専論として、安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註100)栗原弘「藤原内麿家族について」『日本歴史』511
(註101)米田雄介前掲論文 485頁以下。
(註102)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註103)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註104)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」
名著普及会1982復刊、初版は1922

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