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2005/09/07

合衆国最高裁レーンキスト主席判事葬儀に思う

川西正彦-平成17年9月7日

 連邦最高裁レーンキスト主席判事は、9月3日甲状腺癌の合併症で亡くなった(享年80歳)との報道をみました。同判事が甲状腺癌であることは昨年の暮れから報道されているので想定の範囲内であるが、オコーナー判事の引退に続いて米国では大きなニュースになっている。レーンキストは1972年ニクソン任命で最高裁入り、1986年レーガン任命により主席判事、就任当初より最右派、司法自制主義の裁判官との評判でした。実務的手腕においても有能な最高裁長官とされている。本日(9月7日)葬儀があり国立墓地に埋葬されます。残念ながら私は葬儀に際して申し訳ないが、同判事を批判したいと思います。
 それはやっぱり1986年のヴィンソン判決MERITOR SAVINGS BANK v. VINSON, 477 U.S. 57 (註)で、レーンキストが法廷意見を記しいわゆる敵対的・不良職場環型のセクハラでも雇用条件における具体的、経済的不利益がなくても公民権法タイトル7に基づき訴えることができる判示したたため、セクハラ訴訟の増加を決定的なものとした事に対する強い不満です。
 ヴィンソン女史は1974年にMeritor Savings銀行の金銭出納係訓練生として雇用され、金銭出納係から係長にまで昇進したが1978年11月病欠を過度に使いすぎたために解雇された。上司Taylor氏に初めて誘われたのは彼女が訓練生の時だった。Taylor氏に夕食に招かれた時、モーテルに行こうとの誘いがあった。彼女は仕事を失うことを恐れ、同意したのだという。その後数年間にわたり、解雇を恐れるあまり上司Taylor氏と営業時間内、営業時間外にわたって40~50回の性関係に陥ったという主張である。又、ある証言によればTaylor氏は他の従業員の前で彼女を撫でていた。又Taylor氏はトイレに入っている彼女をレイプしたという。しかしヴィンソン女史はTaylor氏を恐れていたため、Taylor氏の上司には相談していない。またこの銀行には苦情処理制度があるがそれも利用していない。Taylor氏は否認しており、銀行もこのことは知らなかった。ただ事実審では相反する証言があってもそれは自主的な関係で銀行における継続的雇用と無関係という判断からセクハラとは認定していない。この記録を読む限り私は女性に全然同情しないし、する必要もないです。上司に不満なら早くやめたらよかったのに。それだけです。むしろ貶められた上司に同情します。私は常識的に物事を判断します。性関係が続いている間彼女は解雇されなかったうえに昇進もしているのだから、40~50回の性関係は彼女にとってもメリットがあった。そうみるのが自然です。40~50回の性関係の具体的状況を知らないのですが、常識的に考えて、できてしまった男女関係なんじゃないのとも思うわけです。
 私は、一審連邦地裁の判断でよいのであって最高裁の判断は誤りであると断定します。私が裁判官だったら、公民権法タイトル7は雇用環境の純粋に心理的な側面まで保護していないという被告側の主張を支持し、敵対的虐待的環境型のセクハラみたいな男性を貶めるような訴訟提起など認める必要はないという常識的な判断から強硬な反対意見を書きます。
 だいたい法廷意見を記したレーンキスト判事はなんですか。司法自制主義で筋金入りの保守派という評判と実績で陪席判事から主席判事になった人物ですが、そうではないことがわかりました。セクハラ事件になると司法積極主義に変身するというのは変じゃないですか。
 そもそも、1970年代後半から連邦下級審裁判所がセクハラを1964年公民権法タイトル7雇用差別禁止規定に反する性別による差別であり違法とする誤った司法判断により、嫌がらせが意図的であり、原告が解雇や昇進しなかったというような、有形の経済的損失を被った場合に損害賠償を認めるようになったが、そもそもセクハラなんていうのは裁判所が積極的に訴訟を容認する必要はなかった。特にセクハラを性差別とする理屈が屁理屈であり論理性に欠くものであり、セクハラ訴訟容認は悪しき司法積極主義であると思う。要するにわたくしは、「セクハラ被害者」に一切同情しないし救済など一切必要なかったというのが原則的立場である。とくにセクハラ概念を敵対的虐待的職場環境型にまで拡大させたことが問題だ。 ヴィンソン判決はまさしくセクハラ概念を拡大してしまったということで大きなミスです。
 従来連邦裁判所はそれは個人的性癖の問題であって会社の方針とは無関係としてきた。公民権法タイトル7雇用差別禁止規定への適用を否定してきたのである。
 Tomkins v.Public Serice Electlic & Gas Co.568F.2d 1044(3dCir.1977)においては次の理由により公民権法タイトル7の適用を認めなかった。
 「性的欲求と性別とは問題が異なり、セクシャル・ハラスメントにおける問題は性別(による差別)ではない。性的欲求による物理的強姦(Physical attack)暗い夜道ではなくたまたま会社内で生じたからといって、その救済を与えることが公民権法タイトル7の立法趣旨ではない」(註)。それでよかったじゃないですか。イェール法学教授でロバート・ボークという著名な法学者がいますが、ボーク氏がコロンビア特別区の連邦控訴裁判所判事だった当時、「女に言い寄ることが性差別であるはずがない」と述べたというように(出所を明示したいが失念した)、私もそう思います。
 ヴィンソン判決でセクハラ訴訟の範囲が広がっただけでなく、フェミニストがセクハラを拡大解釈して宣伝したために、我々男性は迷惑を蒙ってます。これはワースト判決の一つです。その理由はセクハラを性差別とみなす論理性は全くないということです。この問題は研究中途なので、女帝問題が片づいたら、いずれとりあげますが、いずれにせよ、ヴィンソン判決は世界中の男性にとってえらい迷惑千万ということでレーンキストには良い心証がもてないです。
 1964年公民権法タイトル7は「報酬、労働条件、または雇用上の特典に関して人種、肌の色、宗教、性別、または出身国を理由に、どんな個人についても雇用を拒否したり、解雇したり、もしくは差別したりすることが、使用者による違法な雇用慣行になる」と規定するが、いうまでもなくこの主たる立法趣旨は人種差別撤廃であって、もともとジョンソン大統領の提案した原案に「性別」の規定はなかった。ところが公民権法の通過に激しく反対していたバージニアのハワード・スミス下院議員が法案通過を阻止する狙いで「性別」を加える修正がなされた。ところがその2日後にハプニング的に修正案が可決されてしまい、本来議事妨害のために挿入した性差別禁止が盛り込まれてしまったのである。それゆえに立法目的の証拠に乏しい規定である。
 セクハラをタイトル7の用差別禁止規定の性別による性差別とみなす理屈が奇妙で論理性が全くない。例えば下級審判例で Barnes V.Costle 561F.2d 983(D.C.Cir1977)は、使用者としての権限のある者が性的関係を結べば好遇することを示唆し、この誘いを断った当該従業員を解雇したquid pro quo型の判例ですが、もし当該従業員が男性であったら、性的要求が雇用条件になっていなかったから、これは性別ゆえに課された条件、すなわち性別による差別である(註)。とするものですが、屁理屈としかいいようがない。
 タイトル7の基本理念は特定の人種、特定の肌の色、特定の宗教、特定の性、特定の出身国という集団概念による予断に基づいて雇用判断をなすことを否定し、こうした集団概念により労働者を類別しないということです。雇用上の性別による差別とは、報酬、労働条件、特典について、労働者を性別という集団概念で分類すること。露骨にいえば解剖学的差異、その人の持ち物がペニスかヴァギナかによって労働者を分類し、雇用条件を設定することが性差別である。例えば女性のみの労働時間の制限、女性のみ重量物取扱規制、作業現場において女性のみ椅子が与えられる規則などである。たんに特定の性であるという理由での雇用判断は違法だが、業務遂行のための個人的能力を理由に特定の女性の雇用判断は性差別ではない。
 Barnes V.Costleは女性であるというそれだけの理由で、性的要求に応えることが雇用条件としているものではないから、性別による差別とみなすわけにはいかない。当該従業員が上司から性的要求が事実上課されたとしても、たんに女性であるからということではなく、上司の性的興味の対象となったからであって、特定の性という集団概念によるものではない。性的要求に応じることが雇用条件となるか否かの労働者の類別は解剖学的差異、性別という集団概念に基づくものではなく、当該従業員は上司の性的関心、好みによって類別されたのであるから性別による差別ではないのである。
従って、男性であれば性的要求はなかったからセクハラは女性差別などというのは屁理屈であって、論理性は全くないのである。従って セクハラをタイトル7に基づいて訴えることができるとした司法判断は不正義であり誤っており、悪しき司法積極主義といわなければならない。セクハラ訴訟を認める必要は全くなかった。ヴィンソン判決についてここで深入りすると睡眠不足になるのでやめますが、理屈が不明瞭です。いずれにせよ間違ってます。
 私はセクハラ規制なんて必要なしという考え方である。だいたい女とは性的に誘惑する物体であるという説がある。そもそもヒトの女というものは霊長類学的にみて性的受容性が高いことを際だった特徴を有しており、年中発情が可能な生物学的特徴をもっている。男性はアウグスティヌスが「意思せずとも勃起する」と言って悩んだように比較的単純な構造なのですが、女は淑女にも娼婦にもなりうる妖怪変化的自在性を有している、これは他の動物にみることができない特徴である。基本的にほ乳類は授乳期の雌が発情することはない。ところがヒトの女というものは授乳期の子どもを抱えていても、間男とやってしまう恐るべき生き物である。ヒトの女は閉経があるが年中無休で発情可能という性的受容性の高い恐るべき生き物は他に存在しない。ヒトの女とはまさに性のつわものだ。その恐るべき生き物がビジネスの世界で男性と協同して働く選択を行った以上、性的関係が生じるのはあたりまえのことなのである。なぜならばアダムの罪により死・病気・淫欲が人間の経験に入った。性欲は病気や死ととも免れることはできないのであって、性欲を統制することは死を統制できないことと同じように全く不可能であるから。であるから男と女が協同して働く以上、性的関係があってあたりまえそれが自然なのである。男性というものは勃起を意思でコントロールできない構造だからそれが自然なのである。それがいやなら家庭婦人に収まるか、女性だけの職場で働きなさい。それでいいんだと思います。ビジネスの世界がきれいごとですまないことは、なにも居酒屋で苦労人に説教されなくてもわかっているよ。とくに米国の場合は現場のボスが解雇・昇進等雇用判断に大きな権限を有している雇用慣行で性的関係が生じやすいといえる。野心的な女性は上司の性的要求に応えて昇進を狙います。世俗社会で労働している人間は、修道士や童貞女の尼さんのように禁欲生活を課されられる必要など全くない。世俗国家がくだらないロマンチックパターナリズムを強要するのはおかしい。コモンロー上の解雇自由原則で、上司に不満ならやめたら。それでいいんじゃないか。そもそも意思でコントロールできない勃起不能を要求するというフェミニストの非人間的要求に男子が屈する必要はない、司法積極主義でセクハラ訴訟を認めたのは大きな司法判断のミス。ということで、私は本日の葬儀においてもレーンキストをを悼む気持ちはさらさらありません。
 
 (註)さしあたり客観的に論評しているものとして平野晋「セクシャル・ハラスメント法入門」『国際商事法務』19巻12号(1991)をみてください。この論文は14年前のもので1993年合衆国の連邦最高裁ハリス対フォークリフトシステムズ事件判決 HARRIS v.FORKLIFT SYSTEMS,Inc以降の展開について言及されていませんが、我が国の研究者がほとんど無視している重要な連邦高裁判例や下級審判例を紹介しており参考になりました。

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