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2005/09/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第13回

補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
川西正彦(掲載 平成17年9月27日)
  はじめに-近代の皇族概念との違い
 (1) 皇親の員数
 (2) 皇親の待遇
 (3)皇親賜姓と皇位継承問題
    文室真人浄三・文室真人大市
    氷上真人志計志麻呂と川継
     属籍を復すこともありうる
    源融の自薦
 (4)親王宣下制度
  (5)未定名号の皇子の即位
   未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
   未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
            
(以上第12回掲載)
 (6)中世~近世の非婚皇女
             (今回掲載)
  中世世襲宮家成立の意義
    常磐井宮(中世)-亀山法皇が正嫡と定めた皇統
    木寺宮-大覚寺統嫡流の後二条御流
    伏見宮-正統長嫡・持明院統嫡流の皇統

            (掲載未定)

 
  (6)中世~近世の非婚皇女

原稿を間違えました9月28日に差し替えてます

  一方、皇女であるが、院政期から鎌倉時代にかけて、生涯非婚内親王の立后、准三宮宣下、女院宣下の例が多く、経済的にも厚遇された時代である。非婚内親王が厚遇されるひとつの画期としては白河上皇の第一皇女で堀河皇姉(母は中宮藤原賢子)前斎王ヤス子内親王が准三宮・年官年爵、千戸封から堀河准母として立后、二年後に后位を退いて女院(郁芳門院)になったことである(堀河妻后篤子内親王立后のため后位を退く必要があったため)。
   これは院政期から鎌倉時代末まで11例ある非婚内親王の立后の初例である(ヤス子内親王のみ中宮、あとの10例は皇后宮)。 成立期の女院は一条生母藤原詮子(東三条院)、後一条・後朱雀生母藤原彰子(上東門院)、後三条生母禎子内親王(陽明門院)というように天皇生母に限られ、太上天皇に准じ后位に勝るとも劣らない顕位であったが、院政期に性格が変質していく。
  郁芳門院にいたって落飾しないで女院となり(なお三后の落飾、出家と后位の停廃、院号宣下とは基本的には無関係)、非婚内親王から后位さらに女院というルートがひらかれた。
  「皇后 謂、天子之嫡妻也」という令意に反するが、非婚皇后が歴史上存在した。そういう制度もありうるということです。橋本義彦は「白河上皇はヤス子内親王を鍾愛のあまり、強いて必要のない准母を立てて皇后とした」(註21)とされ、醍醐養母藤原温子を皇太夫人となし中宮職が附置された前例は弁解がましいとされるが、それなりの論拠といえるのではないか。郁芳門院は「進退美麗風容甚ださかん、性本寛仁、心に接し施しを好む」(中右記)」白河上皇の特殊な寵愛が指摘されている。実に白河上皇の「第一最愛の女」(中右記)であった(註22)。立后時堀河天皇11歳、ヤス子内親王16歳と考えられるが、准母というには不自然とはいえない。ヤス子内親王は六条邸に白河上皇と同殿し、朝覲行幸では堀河天皇より父母として拝されている。
 これについても、先例を検討するならば仁明天皇が淳和上皇・皇太后正子内親王御所の淳和院への朝覲行幸の例があり、正子内親王は仁明の実母妹(二卵性異性双生児であった可能性が高い)であるから、皇姉妹が母儀たる立場になっても不可解ではないのである。もっともこれは淳和と正子が太上天皇、皇太后の尊号を固辞し続けたため承和元年に停止されているが、白河天皇の中宮藤原賢子(実は源顕房女)は早く崩ぜられ、女御藤原道子は善子内親王出産の後、参内せず、賢子の妹源師子は藤原忠実の正妻(白河上皇の古女戴き)となったので(註23)、次妻格の女性もいなかったから、賢子を母とする ヤス子内親王が堀河の母儀となっても不可解なものではないと考える。
   次の非婚内親王の立后例である白河皇女令子内親王(前斎院、堀河の同母妹、鳥羽の伯母)は准母としての性格が明確である。鳥羽天皇は五歳の幼弱であり、生母藤原苡子は産後まもなく薨じ、行幸以下の諸儀式には天皇を扶持する准母が必要であったため、天皇の即位の宣命に立后の趣旨を載せて、令子内親王を皇后となしたのである。
 野村育代(註24)は、非婚内親王立后の意義を上皇の院政構想による政治的意義のあるものと評価した。なるほど陽明門院(後三条生母禎子内親王)崩御により三宮輔仁親王を担ごうとする勢力は衰退していたとはいえ、幼帝鳥羽の即位は貴族の全面的合意を得たものではない。先帝堀河の妹である令子が皇后に立つことにより直系継承正当化の意義もあったと考えられる。
  長承三年、鳥羽上皇の宮に入侍していた藤原泰子が皇后に立ち、令子内親王は皇后より皇太后を飛び越して太皇太后に上った。これは系譜上、崇徳天皇の祖母(実は異母姉だろうが)にあたるためである。(非婚内親王の皇后は太皇太后にのぼった令子内親王をのぞきすべて女院になっている)。
  令子内親王は太皇太后にまでのぼせられ、政争に巻きこまれることもなく、67年の生涯を平穏裡に終え、最吉の佳例となった。 以後、後宇多皇女後醍醐皇姉奨子内親王にいたるまで、非婚内親王の立后が慣例となる(註25)。

第三の非婚内親王の立后は、保元三年の鳥羽皇女統子内親王である。この立后は、東宮守仁親王(二条)妃よし内親王の准母とも後白河の准母とも伝えられる、後白河より一歳年長の同母姉であり、 准母は名目的といえる(註26)。 わずか一年後に后位を退き女院(上西門院)となった。鳥羽院政が荘園整理を放棄し、院庁下文で積極的に荘園を認可し、女院御願寺などには荘園が寄進されてふくれあがった。待賢門院(藤原璋子-鳥羽后、崇徳・後白河生母)領は、法金剛院領を中心に、娘の統子内親王に伝領され、上西門院領は後白河院領となった。もし統子内親王が東宮妃の准母だとするなら、美福門院は待賢門院領も分捕って二条とよし子の子孫に伝えようとしたのだろうか。
  統子内親王といえば、政治史的に問題となるのは鳥羽法皇崩後の崇徳上皇の行動である。崇徳上皇は保元元年七月二日に法皇御所(鳥羽東殿安楽寿院)に駆けつけながら対面を拒絶され鳥羽田中殿に引き籠もっていたが、九日の夜半過ぎに隠密行動で洛東白河の前斎院統子内親王の御所に行幸された。『兵範記』によれば「上下奇をなす。親疎知らずと云々」と人々の驚きを伝えている。その後、上皇は白河北殿に入ったが、河内祥輔(註27)は、保元の乱の通説を批判したうえ、上皇が権威を復活させるために白河殿を占拠したのであって挙兵ではないとする。 上皇は後白河天皇が攻撃を仕掛るはずがないと過信していたとみなしている。私はこの見解に従いたい。
  しかしこの行動は後白河が容認できるものではなかった。内親王は不在だったようだが、崇徳上皇が統子内親王の御所に行幸されたこともかなり問題である。統子内親王と後白河(雅仁親王)姉弟は待賢門院の手許で一緒に育てられ絆が強かった。崇徳にとっても統子内親王は同母妹ではあるけれども。
  そんなことで、後白河上皇は上西門院統子内親王と親しく、上西門院女房の小弁局(平滋子)が殊寵を蒙り、応保元年に上皇皇子が誕生した。高倉天皇である。
   一方、鳥羽院領や美福門院(近衛生母二条養母藤原得子)領は鳥羽皇女近衛皇姉、母は美福門院である八条院(暲子内親王)に伝領された。暲子内親王は10歳で准三宮の宣下を受け、25歳で二条准母の名目で女院となった。非婚内親王が后位を経ずに女院となった初例で、このケースは24例ある。この時代から女院制度の最盛期になる。しかしなぜか八条院暲子内親王は、大富豪中の大富豪であるはずなのに、蔵は空っぽで、埃っぽい御所でもかまわずのんびりと暮らしていたのだという。

 八条院は二条天皇の准母としての院号宣下であるから本来遺領は二条天皇の子孫に伝えられるべきものだろうが、二条の皇統は途絶する一方、八条院は以仁王やその王女を猶子としていた。龍野加代子(註28)によると八条院はまず以仁王女が相続し、王女没後に後鳥羽皇女昇子内親王と九条良輔が相続するという奏請をしていたが、朝廷の公認を得られなった。そもそも以仁王女は謀反人の娘で内親王ではないから家政機関を組織することができず、内親王宣下されない限り以仁王女に相続する資格はなかった。八条院崩後その遺領の大方は猶子になっていた後鳥羽皇女春華門院昇子内親王に伝領されたが、春華門院もほぼ同時期に崩御になられたので、後鳥羽上皇の管領下におかれた。結局のところ女院の一存では膨大な所領群を処分できなかったのである。
 承久の乱で没収された旧八条院領は、幕府によって事実上擁立された後高倉院の皇女邦子内親王に返還され、邦子内親王は後堀河准母として皇后となりさらに安嘉門院となった。後堀河皇女の利子内親王は四条准母として立后され式乾門院、さらに後深草天皇の准母として後嵯峨皇姉の曦子内親王(のち仙華門院)も皇后に立った。邦子内親王、利子内親王、曦子内親王が天皇生母が在世されているにもかかわらず准母となっている例であるが、栗山圭子(註29)によれば、幼帝即位では、天皇生母が后位にのぼせられていないケースと、母后が院号宣下により女院である場合は、「帝王・皇后・斉王」だけが乗輿を認められるしきたりから、准母立后が必要になるという。
 天子の御配偶にあらざる皇后、非婚内親王が天皇准母として后位にのぼせられるというのは、非婚内親王の女院宣下もそうだが、わが国の独自性溢れる制度といえるだろう

このように院政期から鎌倉時代は内親王は厚遇された時代だったが、南北朝動乱期から状況が著しく変化した。 女院制度は天皇生母を遇する地位として存続したが、 内親王の女院宣下はなくなった。 准三宮宣下もなくなり、というよりも、室町時代になると内親王宣下がなくなったので、内親王も消滅した。
  室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となった。 尼五山の住持は殆どが皇室・将軍家出自の尼であり、足利幕府に経済的に丸抱えの存在だった。南北朝動乱期に皇室領が解体過程を辿ったため、内親王のための経済的基盤がなくなったためと考えられる。皇女は出家により身を処す時代となった。
 
 江戸時代になると、出家する皇親の数が多くなり、元和元年(1615)の公家諸法度で皇子・王子等男僧の入室する門跡寺院の寺格を定めた。皇女・皇女等尼僧の入室する寺院は比丘尼御所というが、門跡寺院に准じ一定の寺格が定められるようになった。つまり皇女のみが入室する比丘尼御所を御宮室といい、大聖寺・宝鏡寺・曇華院・中宮寺・光照院・霊鑑寺・円照寺・林丘寺の八箇寺である。江戸時代後期になると御宮室のなかのいくつかの寺院に御所号が勅賜された。これは比丘尼皇女の待遇が高められた意義を有するが、次第に御宮室に入室する皇女がなくなって、明治維新後皇族の出家が禁止されたので、御宮室各寺は華族の子女によって承けつがれ今日に至っている(註30)。
 以上、中世より近世の非婚皇女についておおまかなところを述べたが、その意義は継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚規定の趣旨に沿うものである。安易に臣下に婚嫁するということはほとんどなくなっている。明治維新以後は出家が禁止されたので事情は変化したにせよ、今日の皇室典範12条から、皇族内婚以外、皇族の身位を保持できないので皇親内婚の規範性は歴史的に一貫しており、それゆえ12条の改変は絶対反対ということを重ねて強調しておきたい。

(註21)橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962、なお非婚内親王の皇后の説明は主として橋本氏の著作に依存している。
(註22)河野房雄『平安末期政治史研究』東京堂出版1979「白河天皇の御性向」247頁
(註23)角田文衛『待賢門院璋子の生涯』朝日選書281 1985

(註24)野村育代「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 1992
(註25・26)橋本義彦前掲「中宮の意義と沿革」

(註27)河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館2002 65頁以下

(註28)龍野加代子「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号
(註29)栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 2001
(註30)荒川玲子「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」『書陵部紀要』38号 1986

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