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2005/09/19

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第9回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
   イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性) 
(第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
                (今回掲載)
     ホ-3天皇大権を掌握していない孝謙女帝
     ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
               
(次回掲載予定)

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性

 女帝は皇統を形成できない。前回述べたとおり、皇統が血統的に袋小路になって直系継承が不可能で、いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、あえて非婚女帝が即位した例は、聖武天皇が陸奥産金の報らせに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出したともいわれる状況で即位した、孝謙天皇だけである(明正天皇は践祚の時点で父帝後水尾の皇子がいなかったが、若宮誕生後に譲位する中継ぎであったことは第7回で述べたとおり)。あってはならないことだが、もし現今の状況で女帝が即位するとすれば、直系継承が不可能なのに時間稼ぎ的な皇位継承になり、孝謙即位のケースが現今の状況に類似しているといえるだろう。そういうわけで、現今の女帝論議においても孝謙女帝をどう評価するかが、生涯非婚であることは絶対条件としても女帝を容認しうるか否かの判断において重要であると考えるので、ここで孝謙女帝論を述べることとする(長文になるため今回は途中までである)。
 
  もちろん現今の状況とは異なる面も多分にある。天平十年の阿倍内親王立太子の時点では中継ぎが想定されていた可能性がある(阿倍内親王と10年の年齢差のある異母弟聖武皇子安積親王が健在だった。次妻格以下の藤原氏女腹皇子の誕生の可能性もあった)。決定的には草壁皇統は袋小路になったが、孝謙即位の時点で皇親がかなり多数実在していたことである。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人系では船王・池田王・守部王・大炊王、三世王の和気王、新田部系では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王の子、安宿王・黄文王・山背王、長親王系は智努王、大市王、奈良王がいた。結果論をいうと、称徳朝までに天武系で臣籍に降下していない有力皇親が殺戮や追放によって除かれてしまったために、称徳女帝不予の際の皇嗣策定会議で天武系にこだわった右大臣吉備真備が、臣籍に降下したうえ出家していた、天武孫の文室真人浄三(智努王)や文室真人大市(大市王)を皇位継承者に推薦せざるをえなくなっているが(註79)、それはともかく、藤木邦彦によると孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註80)、皇位継承資格を有する諸王はかなり多数実在していたのであるから、現今の枯渇的状況とは異なる。
 
 結論を先に述べます。いずれ傍系へ継承することがわかっているのに即位した孝謙のケースは特異で変則的な在り方である。孝謙即位の皇位継承の論理性・正当性はかなり弱い。光明皇太后の「皇太后朝」ないし皇太后摂政ないし皇太后称制ないし紫微中台政権を正当化させるための役割をふられた感がある。
 しかし私は柔軟な考え方をとる。光明皇太后は東大寺や国分寺創建の発意者であり仏教事業や福祉政策に偉大な治績を有するだけでなく、いわゆる仲麻呂政権№2の石川年足は能吏タイプと評価され、「皇太后朝」は善政との評価があり、三后は政治的権能をもともと有しておりそれもありうる体制だった。「皇太后朝」紫微中台政権は必ずしも特異な体制とみなす必要はなく、正統な政治形態である太后臨朝称制の変態とみなすことができ、結果的には紫微中台政権は、草壁皇統から舎人親王系皇統へ過渡的政権となり、皇権の危機をもたらしたものでもない。逆説的にいうと太政官権力を掣肘していることから、実質的には君主の政治的権威をなお一層高めたと評価もできるし、天皇を中心とする律令国家体制を固めるために有意義だったという見方もできるかもしれない。そうした脈絡で光明皇太后の天皇大権掌握を正統的政治形態とみなし好意的な見方を示すこともできる。その観点から、傍系皇親へのつなぎ期間の共同統治者の一人として、かろうじて孝謙が皇位を継承した意義を認めてもよい。
 
 しかし現今の女帝論議は傍系皇族への皇位継承への時間かせぎということでもなく、皇太后称制による安定的強力政権で律令国家体制を成熟させていく国家的課題があるわけでもなく、女帝即位の絶対条件である非婚独身を貫くということでもない。孝謙即位の条件とはかなり異なるのである。プリンスコンソートを迎えての女系継承が前提とされており、事実上の皇朝の廃止、易姓禅譲革命、日本国の終焉の合法化になるもので到底容認することができない。
 現今の状況-直系継承が袋小路で傍系皇族も否定されている状況ではたとえ、時間かせぎの観点で生涯非婚内親王の即位であってもその次の皇位継承者に不安があり、容認しがたい。私は生涯非婚内親王の即位ですら反対だから、表題のとおり絶対反対論です。歴史上の女帝の意義は認めても、現今の女帝論議は、女帝は非婚でなければならないことが絶対条件にされてないので、無茶苦茶な理屈になっている。プリンスコンソートなんてもってのほか。傍系皇親が多数実在していた状況での孝謙即位のケースでも正当性に乏しいのに、傍系男子皇族への皇位継承の見込みを否定して、易姓革命を是認し国を滅ぼす政策を合法化するなど、絶対的に容認できるはずがない。以下孝謙即位の異常性を挙げるとともに、女帝が皇統を形成できないという意義についても考察していきたい。
 
  ホ-1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識

 第一に天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯宿禰全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註81)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である以上、女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたのである。
 
  ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
 
 論点は次の三点である。
①聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
②聖武天皇は光明皇后に政務を托したのであって孝謙即位は形式的な実現とみられること
③天平宝字六年六月三日詔で孝謙上皇は、父帝聖武ではなく母光明皇后の命で即位したとされているのは奇妙である。
 結論を先に述べますと、聖武天皇は政務を光明皇后に托し出家した。聖武が在世されているのに皇后称制というのは奇妙で特異な在り方となること、聖武天皇の出家という既成事実が先行してしまったので、光明皇后の主導によって形式的に聖武譲位、皇太子阿倍内親王即位が実現した。聖武上皇崩後は形式上、「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれる共治体制となった。と私は考える。光明皇后の存在の大きさもさることながら、この変則的な皇位継承の在り方は、阿倍内親王が皇太子でありながら結局は皇嗣=嫡子と認められていないこと。皇統を形成できない女帝即位の論理性、正当性の弱さを物語っていると解釈する以外にないのである。
 
 
 ①譲位より出家が先行の変則性
 
 聖武天皇は天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日に阿倍内親王に譲位した。『続日本紀』に「皇太子、禅りを受けて大極殿に即位きたまふ」とあり、譲位宣命とそれを承けた孝謙の即位宣命があることから明白である。ところが、天平感宝元年(四月改元-749)の閏五月二十日に聖武は大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺などに種々の品々と墾田地を施入し、あらゆる大乗・小乗の経典を読誦させ、聖武自信の延命と衆生の救済を願う詔を発しているが、その願文中に聖武はみずからを「太上天皇沙弥勝満」と称し、『続日本紀』は閏五月二十日条に続いて「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ」とある。
 沙弥とは十戒を受持した出家者(見習い僧)を意味するので、出家した身で天皇として政務をとれない(もっともこの点は称徳女帝が先例を破っているが)から宮中から薬師寺宮に遷御され、このことが孝謙の即位を導き出したとふつう理解されている。
 聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
 川崎庸(註82)が先行説を検討しているが、孫引きになるが、ほぼそのまま引用する。
 中川収説(「聖武天皇の譲位」『奈良朝政治史の研究』高科書店1994 初出1983)は、聖武は元正天皇や藤原夫人・行基といった近親・関係者の死没による精神的打撃と不祥事連続のさなかに、陸奥国から産金の報がもたらされるとその歓びの衝動で仏道専念を決意、政務を光明皇后に託して閏五月二十日の時点で皇位を離れ、出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、譲位と阿倍内親王の即位を七月二日に形式的に実現したとされた。
 遠山美都男説(『彷徨の王権聖武天皇』角川書店は183~187頁)聖武の譲位は衝動的なものではなく、『扶桑略記抄』の記事に従い、天平二十一年(749)正月十四日に出家、廬舎那仏造立を通じて国家内的権力の頂点にある天皇を超越する立場として「太上天皇沙弥勝満」と称したとされ、聖武の自称に積極的な意味をもたせた。
 瀧浪貞子説(『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社2000 240~247頁)は、聖武の譲位は7月2日であり、「太上天皇沙弥勝満」は聖武のあくまで自称にすぎず、聖武の願望、強烈な意思表示であり、実際にはないものとされた。
 川崎庸の見解は、『扶桑略記抄』の記事は信憑性に乏しい。聖武の受戒は天平十六年の甲賀寺廬舎那大仏造立の時点も考えられ、授戒は行基でなく玄昉である。神格化した天皇の出家が前例のないものであったなどの理由から出家が遅れたとする。聖武は陸奥産金の報に四月一日東大寺に行幸「三宝の奴と仕へ奉る天皇」と自称したが、その後出家(沙弥戒)して譲位の意思を固め、閏五月二十日に「太上天皇沙弥勝満」と称したとされる。
 中川説、黄金産出の報に歓んで衝動的に出家したというのはスト-リーとして面白いし、出家の動機の一つになっていると思うが、川崎説などを勘案するとそれは計画的なものであったかもしれない。川崎庸によると、聖武天皇は早く天平六年の時点で「身を全くして命を述べ、民を安みし業を存するは、経史の中、釈教を最上」とし、「三宝に憑り一乗に帰依」することを表明しているように、かなり以前から出家を望む傾向があったとみてよい。
 一方、瀧浪説であるが、奈良時代においては、平安期において慣例化した天皇が内裏を出て、後院に天皇が遷御し譲位する在り方(『儀式』)を基準に論じる理由はないということはわかる。元正上皇が中宮西院という平城宮内を居所とされていたように、平安期のように上皇が後院に遷御されることが必然ではなかった。しかし「薬師寺宮に入ったからといってただちに出家したというわけではない」というのは空位を否定するための苦しい見解のように思える。既成事実として譲位より出家が先行してしまったという見方でさしつかえないのではないか。
 
 ②政務を託されたのは光明皇后
  
 次に聖武天皇は国政を光明皇后に委ねたとみられる点である。
 天平宝字元年七月の橘朝臣奈良麻呂の謀反が密告された際の光明皇太后の詔であるが、
 詔畢りて、更に右大臣(藤原豊成)以下の群臣を召し入れて、皇太后(光明子)、詔して曰はく、「汝たち諸は吾が近き姪なり。また竪子卿は天皇(聖武)が大命以て汝たちを召して屡詔りたまひしく、『朕が後に太后に能く仕え奉り助け奉れ』と詔りたまひき。また大伴・佐伯の宿禰等は遠天皇の御世より内の兵として仕へ奉り来、また大伴宿禰等は吾が族にも在り。諸同じ心にして皇が朝を助け仕へ奉らむ時に、如是の醜事は聞えじ。汝たちの能すらぬに依りて如是在るらし。諸明き清き心を以て皇が朝を助け仕へ奉れと宣りたまふ」とのたまふ
 群臣(特に大伴、佐伯氏)の不能を激しく糺し、厳しい態度で群臣の仕奉を要求しているが、聖武が群臣に対し、自分の崩後は光明子によく仕奉せよとの詔をしばしば発していたことが示されている(註83)。女帝によく仕奉せよではなく、皇太后によく仕奉せよである。よく知られていることを述べるだけだが、王権の掌握者、実質的な統治者、最終政務決裁者が女帝でなく皇太后であるということである。
 このことは、聖武譲位の経緯でも同じことだと思う。持統以前の皇親皇后を別として、少なくとも人臣女子では光明皇后が共知型の史上最強の皇后であることは、前回述べたとおりである。天平元年八月の光明立后宣命に「‥天下の政におきて、独知るべき物に有らず。必ずもしりへの政有るべし。此は事立つに有らず。天に日月在る如、地に山川在る如く、並び坐して有るべしといふ事は、汝等王臣等、明らけく見知られたり‥」とある。
 光明皇后は文字どおり「並び坐して有るべし」というように、天皇・上皇と並び立つ執政者であった。「天下政‥‥必母斯理倍乃政有倍之」は『儀式』立皇后儀に載せる宣命に継承されているが、「しりへの政」の意義(註84)については諸説あり、嵯峨后橘嘉智子以降は後宮及び皇族女性の統率といった限定的な概念に後退したという見方もある。この問題に深入りしないが、私は不確定概念だと思う。状況如何によっては拡大解釈が可能な余地がある。いずれにせよ三后は皇太子に准じて令旨を発給し、政治的権能を有するけれども、実態面で天皇と並び立つ共治者・執政者といえる皇后は奈良時代以降では光明皇后だけだろう。
 例えば九世紀の三后皇太夫人の附属職司の活動についていえば、文徳生母藤原順子の御願寺安祥寺の造営、陽成生母藤原高子の御願寺東光寺の造営が知られている。御願寺は官寺であるからこうした仏教事業も三后皇太夫人の政治活動なのである。また淳和太后正子内親王は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた(註85)。太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきで、こうした事業も太后の政治活動とみなしてよいわけである。
 しかし国政にしめるウエイト、事業規模からみて、光明皇后の事業に比べたら小さな活動だといわなければいわない。なんといっても光明皇后は東大寺・国分寺創建の発意者であり『続紀』の崩伝によると天皇より積極的だったとみられている。膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。
井上薫(註86)が皇后の事業を論じているが、光明子は藤原不比等の封戸を相続し、天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。光明の皇后宮職は大和の国分尼寺とされ、唐にない尼寺を僧寺と並べたことも光明皇后の指図である。写経事業を推進したのも皇后宮職である。初期の活動は他官司の能筆の官人が動員されたが、天平八年九月二十八日から一切経5048巻の書写が開始され14年たっても完了しない膨大なものだった。また皇后宮職の官人は金光明寺(のち東大寺)写経所、金光明寺造仏所、造東大寺司の官人が任命されていることからみて、東大寺の創建というものは光明皇后が勧めた政策なのであった。
仏教指向が強いのは聖武天皇も同じことであり、政策を共有している皇后は皇権の共治体制の一翼を担っていたのである。のみならず、附属職司の皇后宮職の規模が大きかった。中林隆之(註87)によると皇后宮職の下級官司として政所、縫製所、掃部所、勇女所、染所、主薪所、浄清所、泉木屋所、写経司(天平十四年以降は金光明寺写経所となる)、造仏所、施薬院、悲田院、酒司、嶋院、外嶋院、法華寺政所のほかに蔵を管理しており、内供奉、舎人長、蔵部という奉仕組織があった。天皇の内廷に類比しうる規模が備えられたのである。
 要するに、聖武が出家されるとなれば、もう一人の執政者、光明皇后に国政が委ねられたのは政策の継承という観点からも安定的で自然の成り行きとみてよいのである。
 孝謙女帝は執政権を委任しうる光明皇后という強力な存在によって異例であるが即位することができたとみることもできる。

  ③光明皇后の指示による孝謙即位

 天平宝字六年六月三日の、孝謙上皇が保良宮から平城京に還御されたときの詔。いわゆる奪権闘争宣言の冒頭の意義が問題になる。
‥‥朕が御祖太皇后の御命以て朕に告りたまひしに、『岡宮に御宇しし天皇の日継は、かくて絶えなむとす。女子の継には在れども嗣がしめむ』と宣りたまひて、此の政行ひ給ひき‥‥
 であるが、孝謙上皇の詔で、草壁皇統が淳仁天皇の舎人親王系皇統より圧倒的に優位にあるという主張はそれなりに理解できる。そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子の補佐を受け持つこととされたのだから。しかし、女子であるにもかかわらず、光明皇后の命により岡宮御宇天皇(草壁皇子)の日嗣=皇統を絶やさないために即位したとする点が論理矛盾であり、ひどく苦しい強弁である。重大なのは孝謙は父帝聖武からの譲位であるはずなのに、母光明皇后の命だとされていることであるが、倉本一宏は「孝謙の即位自体が、光明皇太后の指示によって行われた」(註88)との解釈であり、私は国政が委ねられた光明皇后の執政を正当化するために孝謙が即位したことを裏付けていると解釈する。聖武譲位それ自体も光明皇后の主導とみなすべきかは精査はしなければなるまいが、私の結論はこうである。
 要するに、天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日の聖武譲位孝謙即位は形式的であり、実質的には光明皇后に政務が委ねられた。孝謙は「皇太后朝」を正当化するための役割をふられた。前代天皇が在世されているにもかかわらず、皇后の指示で即位したというきわめて特異な皇位継承例である。ストレートに孝謙が執政権を掌握できないのは、孝謙即位の正当性の弱さ、立太子のうえ即位したにもかかわらず、結局は皇嗣=嫡子と認められない、皇統を形成できない女帝であるからである。

 
(註79)『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条
(註80)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註81)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註82)川崎晃「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会2004
(註83) 倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館 1997 436頁
(註84)井山温子「しりへの政」その権能の所在と展開 『古代史研究』13 1995
田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981-11
(註85)『日本三代実録』元慶三年三月二十三日条
(註86)井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978
(註87)中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994
(註88) 倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998、95頁

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女帝への 是非問はぬ 流れ危ぶむ頃 しらみつ居る宴を ほくそ笑まん音萌え 騒ぎ鬼強請り目 ちよていへのせひとはぬなかれあやふむころしらみつ ゐるうたけをほくそゑまんねもえさわきおにゆすりめ  小泉氏選挙に圧勝して何でも出来るといふ政治環境に浮かれてか一昨日邊のニュースにては皇室会議女帝容認に大きく舵切りたるごとき報道あれど、任期高々数年の一介の総理が、千数百年に亘り継続し来たる原則を軽々にいぢるべからず、さなくば手痛き火傷負ふのみと警告し置いてよからむ。或る意味これは足利三代将軍義満が天位を履ま... [続きを読む]

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