女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第10回
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日-その2
(1)継嗣令王娶親王条の意義
(2)天武と持統の婚姻政策の違い
(3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
(4)宗法制度との根本的な違い(以上第4回掲載)
(5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
〔1〕令義解及び明法家の注釈
〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ(以上第5回掲載)
〔4〕諸説の検討
〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性(以上第6回掲載)
〔6〕皇親内婚の男帝優先
〔7〕女帝は皇統を形成できない
イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
明正女帝
後桜町女帝(以上第7回掲載)
二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性) (第8回掲載)
ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
①譲位より出家が先行の変則性
②政務を託されたのは光明皇后
③光明皇后の指示による孝謙即位 (以上第9回掲載)
ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
(今回掲載)
ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
聖武の突然の出家によって国政の庶事は光明皇后に委ねられた。天平勝宝元年〔749年〕八月皇后の附属職司である皇后宮職を紫微中台(史上最大の令外官司)に改組し、孝謙を即位(同年七月)させたうえで、太后臨朝称制に准じるかたちの統治体制としたものとみる。岸俊男によると紫微中台の職掌は「居中奉勅、頒行諸司」〔『続日本紀』天平宝字二年八月甲子条-758年〕といわれるように光明皇太后の大政を輔佐し、太政官の中務省に代って、その詔勅奏啓を吐納することにあったといわれる。また皇権のシンボルたる鈴璽も皇太后に置かれていた(『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条)(註89)。このためにその長官である紫微令大納言藤原朝臣仲麻呂が、事実上、太政官決裁者たる左大臣橘朝臣諸兄よりも政治的求心力と実権を有することになった体制として語られることが多い。。
紫微中台官人の構成であるが、紫微令仲麻呂以外に、藤原氏から起用されていないので、藤原政権では全くない。発足当初のメンバーは、紫微大弼に参議大伴友宿禰兄麻呂、参議治部卿石川朝臣年足、紫微少弼に百済王孝忠、式部大輔巨勢勢朝臣堺麻呂、中衛少将背奈王福信である。人事官庁と衛府の官人が兼官しているが、紫微令大納言仲麻呂は前式部卿(孝謙即位後の式部卿は紀朝臣麻呂)であり、紫微少弼の式部大輔巨勢朝臣堺麻呂は仲麻呂に近い官人で、人事官庁は仲麻呂が掌握していたとみてよいのである。
紫微中台というネーミングは諸説あるが、則天武后時代に三省のひとつである尚書省が中台と改称した例がある。また玄宗皇帝初世に中書省を紫微省と改称した例があり、唐の中書省と尚書省を合体した強力なものだった(註90)。
太后臨朝称制は中国では漢代から正統な政治形態として確立されているが、紫微中台が特異な変則的体制とみなされている理由は、本来、天皇と太政官の二極体制である律令国家のシステムであるのに実質的に令外官司が太政官と並び立つもしくはそれを凌ぐ求心力を有する政権になったこと。孝謙女帝が32歳で即位し成人であるにもかかわらず完全な執政権が付与されず、皇太后が大きな実権を掌握している体制というところにある。
ただし冒頭に述べた岸俊男の見解はかなり問題がある。『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条に橘奈良麻呂の変を語る記事で「皇太后宮を傾けて鈴璽を取らむ」とあり、皇権のシンボルたる鈴璽(鈴印契)が皇太后宮にあったことが知られている。しかしそれは聖武上皇崩後のことである。また当初から皇太后が紫微中台単独の署名で勅書が作成されていたわけではないという説がある。
近藤毅大によれば孝謙即位後も鈴璽は聖武上皇がもち、上皇崩御前後の時期に皇太后の手元に移ったのだという。又、当初、光明皇太后は「令旨」を発給していたが〔これは公式令の規定どおり〕、ある時期から紫微中台と侍従の連署で皇太后の意思を「勅」とするようになり、仲麻呂が紫微内相になると紫微中台単独の署名で光明皇太后の勅書が作成されたという(註91)。なお、孝謙女帝の詔は太政官ルートで中務卿により宣せられている。
聖武崩後の体制は「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれているように日と月にたとえられる皇太后との共同統治体制ということにはなっている。しかし、近藤説によれば皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を孝謙女帝が掌握したことは一度もない。即位当初は聖武上皇、後に光明皇太后が鈴璽を掌握しており、孝謙女帝にかわって皇権を行使していたということである。皇太后の意思も「詔」「勅」とされていることはある意味で上皇と同じ(例えば天平十六年二月二十六日難波を皇都と定めた勅は元正上皇とみなす歴史家が多い)ともいえるが、鈴璽(鈴印契)を掌握していない以上、孝謙女帝が完全な執政権を有していないということである。それは皇嗣とはみなされない女帝の限界であったと考えられる。
さらに天平宝字元年五月の大納言藤原仲麻呂の任紫微内相であるが、岸俊男は次のように説明する。紫微内相は待遇上大臣相当官で、内外諸兵事を掌る軍事総監として置かれた。一般に統帥権は行政権とは平行的に終局的にはともに天皇の掌握するところで、太政官に属する太政大臣、左右大臣、大納言に通常絶対的な軍事権はない。紫微内相は仲麻呂が本来直接天皇が掌握する軍事権を手中にするための令外官とされている(註92)。大臣相当官で軍事も掌握するから強力なポストであるが、これは不穏な情勢(奈良麻呂の変)が察知されていたこともある。そうすると紫微内相は皇太后の直属の部下であっても、女帝の直属の部下ではないから、女帝の腹心である藤原永手が中納言に昇進しバランスをとっているとはいえ、孝謙女帝は軍事権を掌握していないことになる。
ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
前回述べた天平宝字六年六月三日詔で、孝謙上皇が草壁皇統嫡系を強弁しているにもかかわらず、女帝には草壁皇統のシンボルたる草壁皇子の佩刀が譲られていないことである。瀧浪貞子によれば、佩刀は草壁皇子-藤原不比等-文武-不比等-聖武と伝えられたが、聖武崩後の天平勝宝八年六月二十一日に光明子により東大寺に献納されている。佩刀の授受に終止符が打たれたことは草壁嫡系がいなくなったことを物語り、聖武上皇の遺詔により天武孫の道祖王(孝謙女帝によって廃位)が皇太子に立てられたことによって草壁皇統は終焉した(註93)。瀧浪氏はまた次のようにも述べておられる「『不改常典』の論理は‥‥嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系相承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるを得なかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武-聖武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意味も、あらためて理解されよう。これが、孝謙が皇位を継承できても皇統の継承者として認められなかった理由であり‥‥‥」(註94)。
私の考えは、『不改常典』の解釈いかんにかかわらず、端的に、女帝は皇位を継承できても皇統の継承者としては認められないと言い切ってさしつかえないと思う。
次に淳仁天皇(大炊王)は前の聖武天皇の皇太子と定められていたことである。淳仁天皇の光明皇太后に対する言葉「『前聖武天皇乃皇太子』と定めていただき即位させていただいた」(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)であるが、『前聖武天皇乃皇太子』は光明皇太后が事実上定めたものであることがわかる。大炊王立太子は聖武崩後であり、しかも皇嗣策定会議(天平宝字元年四月四日条)で大炊王立太子を切り出し決裁したのが孝謙女帝であリ、孝謙の譲位により即位したにもかかわらず、それでも、前聖武天皇の皇太子である。瀧浪貞子は、大炊王を聖武の正統な後継者とするために擬制的に聖武の嫡子に仕立てようとしたとされ、皇統が孝謙を飛び越えて聖武から継承されたということにほかならないとされている。(註95)、皇統が孝謙を飛び越えた、それはそうだが、先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成したのであるから、前代が女帝でないかぎり、ことさら『前聖武天皇乃』とされる必要はなかったと考える。このことは直系継承の擬制というよりはむしろ聖武天皇即位詔「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」を連想させる(第7回のロ参照)。この理屈では女帝からの継承性がないのである。女帝が皇統から外されており、大炊王の『前聖武天皇乃皇太子』は男系継承の論理性を示すものであり、端的に女帝は皇統を形成できないことを示している例であると思う。
また木本好信(註96)は孝謙の譲位に光明皇太后は重大な役割を演じているとしている。天平宝字二年八月庚子条で、孝謙女帝は譲位の理由として、大政を聴くことは労苦の多いことで、長く在位していることは力の弱い自分には荷が重すぎて堪えられないこと。母光明皇太后に対して、今は人の子として孝養を尽くせないので、退位してゆっくりと子として仕えたいとしているが、この前後に皇太后の病気などのこともみえないから不自然として、光明皇太后が政治的理由で譲位を望んだ結果と論じている。
木元説の新味は、従来、淳仁天皇は仲麻呂の権勢獲得の手段として語られる傾向が強かったのだが、光明皇太后が天武系皇統の存続を思慮した結果であるとされていることである。例えば、先に触れた天平宝字三年六月庚戌条でも「太皇太后(光明)の御命以て朕(淳仁)に語らひ宣りたまはく、‥‥吾が子(淳仁)して皇太子と定めて先ず君の位に昇げ奉り畢へて」とある。
光明皇太后は則天武后に比擬されることが多い、国分寺創建と東大寺廬舎那大仏造営は、光明皇后が推進したものだが、国分寺は則天武后が全国にもうけた官寺の大雲寺、大仏は龍門奉先寺の廬舎那大仏に範をとったものであり、四字年号も則天武后の影響とされている(註97)。しかし決定的に異なるのは、則天武后は李氏唐室を簒奪し武周を建国したのであるが、光明皇后は、孝謙上皇の反対にもかかわらず、舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号など舎人親王系皇統の創成に尽力されたのである。草壁皇統が血統的袋小路に入った以上、新しい皇統を創成しなければならない。スムーズに草壁皇統から舎人親王系皇統への継承させるために、木本説は光明皇太后が政治的に孝謙女帝を帝位から下ろした、実質的には退位を命じたという解釈である。そのような意味でも孝謙は中継ぎであったのである。ということは当初から孝謙女帝は執政権を完全に掌握する本格政権は想定されていなかったということになる。
以上述べたように孝謙は即位したが皇位継承の正当性に乏しく天皇大権を掌握できない中途半端な存在だった。上皇としても理屈のうえでは、淳仁に親権を行使できない立場にあった。保良宮から平城京に還御されたとき上皇は出家されたにもかかわらず怒りを爆発させ、奪権闘争に突入、実力で仲麻呂や氷上真人塩焼の斬殺、淳仁の廃位により敵対勢力を打倒することによって真に執政権を有する女帝となったのであった。
光明皇太后の意図は、望まない退位を強要された孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚と淳仁の廃位で台無しになったのである。
にもかかわらず私は称徳女帝を高く評価したい。筧敏生か誰だったか出所を明示できないが、孝謙上皇の重祚は「もはや天皇でなければならないという意思のあらわれ」と述べているのを読んだ記憶がある。藤原京と奈良時代は、天皇と上皇の共治体制の例が多かったが、天皇に権力が収斂されたのは通説では薬子の変であるが、孝謙の重祚を重視する見解である。称徳朝には上皇・三后・皇太子が不在で天皇に権力が収斂されたのである。このことは天皇を中心とする律令国家体制を固めた意義のあるものと評価してよいのである。
一方保立道久のような称徳女帝=平和主義論もある(註98)。新羅出兵計画を推進したのは淳仁天皇と藤原仲麻呂としたうえで、孝謙上皇がブレーキ役になり、淳仁の外交大権の回収で解消したというのである。称徳女帝は神護景雲二年十月に新羅交易物を購入するため八万五千屯の綿を左右大臣以下政権首脳部・皇族に賜与しているが、舶来品は需要があるのであって、国家間の緊張関係は別として現実主義的な政策といえる。当時の新羅は国力が充実しており、新羅征討に突入するのは軍事的冒険になる。この点で女帝は現実主義的な政策判断をとったと評価してよいのかもしれない。
以上、歴史上の女帝、生涯非婚内親王四方の即位の経緯を逐一検討したが、結論は全て男系主義的脈絡における中継ぎであり、女帝は皇権を継承するが皇統を形成することはできないことを各論で示した。女系継承などありえないのである。ところが男系も女系も認めようとか、男系も女系も皇統などという無茶苦茶な見解が世論を誘導しているとんでもないことである。
(註89)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 1987新装版 初版は1969
112頁
(註90)愛宕元「補説23武則天と光明皇后」松丸・池田・斯波・神田・濱下編『世界歴史体系 中国史2-三国~唐』山川出版社1996
(註91)近藤毅大「紫微中台と光明太后の『勅』」『ヒストリア』No.155 (153)1997年6(註92)岸俊男 前掲書 198~201頁
(註93)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」79頁以下
(註94)瀧浪貞子 前掲書81頁
(註95)瀧浪貞子 前掲書70~72頁
(註96)木本好信『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう 2004、但し初出2002、181頁以下
(註97)愛宕元 前掲論文
(註98)保立道久『黄金国家』青木書店2004 71頁以下
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