女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第6回
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
(1)継嗣令王娶親王条の意義
(2)天武と持統の婚姻政策の違い
(3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
(4)宗法制度との違い (以上第4回掲載)
(5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
〔1〕令義解及び明法家の注釈
〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ (以上第5回掲載)
〔4〕諸説の検討
〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上今回掲載)
川西正彦-平成17年9月3日
承前。悠長なことを言っている場合じゃないだろとお叱りを受けるかも知れないが、出遅れたのは仕方ないし、本心はかなり焦っているわけですが、自分としてはマイペースで先方の論点をひとつづつ潰していくしかないので、あまりのテンポの遅さにイライラさせて閲覧者の方には申し訳ないが、絶対反対論はほぼ予定どおり掲載していきたいと思います。
〔4〕諸説の検討
継嗣令皇兄弟子条、「女帝子亦同」の本註について先行学説としては、成清弘和説(註32)米田雄介説(註33)しか読んでいなかったのですが、高森明勅説(註34)を受けた論説としては、最近、中川八洋氏の著書(註35)における高森明勅氏批判と、既に第5回の註24で触れていますが、名指ししないものの5月31日有識者会議に呼ばれた八木秀次氏、6月8日有識者会議に呼ばれた所功氏の見解(註36)を首相官邸のウェブサイトで読みました。所功氏は女帝即位女系論者である。高森氏の次に所氏の立論を批判することが肝要と考えるので、所氏の見解(特に皇室典範12条の改変に言及されている点重大なので)を批判しなければなりませんが、それは別途として、継嗣令皇兄弟子条の解釈に関する限りわかりやすいし、所功は女帝即位女系容認論者ではあっても継嗣令皇兄弟子条を女系継承の論拠とはできないことを明確に述べていますので、まず引用します。
「‥‥この「女帝の子」というものは何を意味するかということです。明治18年(1885年)に小中村清矩という先生が「女帝考」という論文を書かれまして、その中で「女帝未ダ内親王タリシ時、四世以上ノ諸王ニ嫁シテ……生レ玉ヒシ子アラバ、即位ノ後ニ親王ト為スコトノ義」と解釈されております。
つまり、「女帝の子」と言っても、決して女帝になられてからのお子さんということではなくて、それ以前にお生まれになった方、具体的には皇極天皇が初め内親王として高向王(用明天皇の孫)と結婚されまして、その間に漢皇子という諸王が生まれています。そのような方も母の内親王が即位されることによって親王の扱いを受けるという意味に解しておられます。
確かに、私も大宝前後の実情と照らし合わせてみれば、女帝が即位後に結婚もしくは再婚して御子をもうけられ、その御子が続いて即位するという、いわゆる女系継承まで容認した、もしくは予想したものとは考え難いと思っております。
ただ、仮にそうだとしましても、この「継嗣令」の規定では、内親王が結婚できるのは4世以上の諸王、つまり皇族でありますから、それでも男系継承は維持されるということになろうかと思います。
いずれにしましても、注記であれ、「大宝・養老令」に「女帝」の存在が明記されていることの意味は大きい。ただ、これを根拠にして、「女帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されてきた」とまでみる説は、やはり言い過ぎであろうと存じます」
上記引用した部分に限定したうえで所氏の見解に同意する。(敏達曾孫の宝皇女は内親王ではないと思うがそれは些末なことである)。
次に女帝問題とは無関係な論文だが、米田雄介説(註37)。正倉院事務所長などを歴任している歴史家です。
「「女帝子亦同」とあることから男帝・女帝の区別はなく、したがって男系・女系の区別がないと考えられるかもしれないが、もともとこの文言は日本令の元になった唐令には見えず、大宝令の制定当時のわが国の現実を踏まえて挿入されたもので、本質的には男系主義であったと考えられる」とする。
結論に同意するが論拠を具体的に述べていない。
次に中川八洋氏の見解ですが(註38)、細部において疑問点がないわけではありませんが、総じて賛同します。高森明勅のいう「明治以前における双系主義の制度的枠組みを確認した」という空前絶後の嘘、虚構の奇説と論じておられるなど、全く同感である。また平安時代以降、「親王宣下」が無ければ皇子ですら、親王になりえない制度になったこと。継嗣令の当該条文は無視されており、空文化していることを述べてますが重要な論点を突いている。筆者も同感です。高森明勅は意図的に皇親の範囲を四世王までに限定する皇兄弟子条を殊更強調する趣旨に出ているように思える。
慶雲三年の格制は皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰しているので問題としないが、弘仁五年に親王宣下、内親王宣下、源氏賜姓が創始され、親王位が生得的概念ではなくなり天皇の意思で授与される制度になったこと。平安後期には孫王でも親王宣下をうけて親王になれたこと。さらに中世以降の世襲宮家のように、代々親王宣下をうける例がある。一方中世においては未定名号のままの皇子女も少なくなかった。歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。また後嵯峨や後光厳などのように、践祚当日の元服まで未定名号で諱すらなく親王宣下もなく践祚の例もある。室町時代になると内親王位は消滅し皇女は「比丘尼御所」に入室した。このように皇親の概念は明らかに変化しており、皇親の範囲を大化前代より限定したものと解釈されている皇兄弟子条の皇親概念は決して通史的に一貫したものではなく、むしろ令意に反する時代のほうが長期に及んでいることも考慮しなければならない。
次に成清弘和氏の見解ですが、現今の女帝問題とは基本的に無関係で、純粋に古代史の論文である。解釈というよりも、令の規定に女帝という語が唯一登場するのが継嗣令皇兄弟子条であることに着目され、朱説が古記を引用していることから大宝令にも本註が存在したことを述べたうえで、「文武というよりも持統太上天皇の影響力が強かったであろう律令政府は、女帝を間欠的で、かつ異常な政情を一時的に回避する不安定な制度ではなく、安定した制度として法規定に定着させようとした」(註39)とする意義があるという見解である。
それはそうかもしれないから成清説を一概に否定はしない。中国でいえば、帝嗣未定で皇帝が亡くなると、帝嗣策定決裁者は、夫婦一体の原則から先帝の徳を分有する先帝皇后が有し、年少の皇帝が即位せざるを得ない場合は先帝皇后が権力を掌握する。漢代の太后臨朝(註40)、宋代の太后垂簾聴政(註41)がそうである。我が国の場合も藤原基経や忠平が摂政を辞するときの言上や上表からみて「太后臨朝」「太后称制」が一種の正統な政治形態と理解されていたのだろうが(註42)、日本の場合は中国的な意味での太后臨朝は根付かなかった。皇后が原則として皇女、皇親女子であるため、臨朝称制のみならず即位が可能なのである。後漢などは太后臨朝のケースが多く、外戚政治となったが、わが国は女帝即位が可能なので外戚政治に依存することもない利点があったし、たんに幼帝回避ではなく、皇位継承争いの権力抗争の緩衝剤としての意義も認められるので、女帝を法規定に定着させようとしたという見解を全面的には否定しない。
しかし、後世においては摂関政治や院政によって、幼帝即位でも太后臨朝や女帝即位の必要もなく安定的に皇位継承が可能なシステムができたわけだし、近代国家においてはそもそも皇位継承争いを想定しておらず、権力抗争の緩衝剤として女帝が即位する理由はなく、仮に成清説を肯定するとしても、現今の状況で女帝を是認する理由にはならない。
また一方で、成清弘和は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されていることは、参考になる意見である。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註43)。この趣旨からも、女系継承はありえないといえるだろう。
この論点と関連していうと、所功は6月8日の有識者会議において原武史「女帝論議のために」朝日新聞2005年2月7日夕刊の見解を批判し「最近、もし女性天皇になったら、新嘗祭などの宮中祭祀ができないというようなことを言われる方があります。けれども、それは大変な誤解であります。現に、宮中では女性の内掌典などが奉仕しておられますし、また過去、新嘗祭以上に重要な大嘗祭がちゃんと女性天皇の下で行われてまいりました」と述べているが、重大な論点だが、質問もなかった。
しかしこれは、所功が有識者会議に出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」の13頁(26)を読むと「何となれば古代以来の「斉王」も戦後の「祭主」も、現に宮中三殿奉仕の「内掌典」も全て女性である‥‥」(註44)と述べているように、一般論と、不婚即位の歴史上の女帝の大嘗祭に言及しているだけで、女帝の妊娠・出産を想定した場合に踏み込んでの見解ではなく、所氏がこの問題を解決しているわけではない。
私は素人ですが、非婚内親王の即位なら、祭祀に関しては問題ないかもしれないが、古記に「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」とある以上、結婚を前提した女帝即位はやはり支障があるのではないか。
又、成清説は孝謙・称徳女帝は、中継ぎではなく、男帝と何ら異なることのない真の女性天皇と評価されるが(註45)かなり問題だ。称徳朝については敵対勢力を実力で打倒し排除したうえでの政権掌握であり、左大臣藤原永手が腹心で近親、右大臣吉備真備が阿倍内親王の東宮大夫兼東宮学士で、東宮時代から近臣でもあったように、左右大臣を近臣で固め、上皇も三后も皇太子も不在であったから、天皇に権力が収斂された強力な体制であることを認めるが、皇太后との共同統治であった孝謙女帝については、皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を女帝が掌握していないことなどからみても真の意味での天皇大権を掌握したのは淳仁-仲麻呂派との奪権闘争に勝利した後であるから、そのような積極的な評価はできない。孝謙女帝の評価は後に詳しく検討する。
総じていえば成清説は女帝を法規定に定着させようとしたという説であってそのような脈絡において、高森説のように女系継承を容認したという「虚構の奇説」とは違う
以上、いずれにせよ、先行学説の引用としては少なかったが、高森説のような継嗣令の意図的に歪められた解釈はきわめて異色のものであるという認識でよいわけである。
むしろ継嗣令の意義は傍系継承がスムーズに合理的に実現することにあったとみるべきではないかというのが私の意見である。「女帝子亦同」の本註問題から離れるが、、第5回に述べた筧敏生の見解(註46)を重視したい。『古事類苑』『皇室制度史料』が孫王(二世王)身分から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度(註△)の嚆矢とみなしている(戦前の皇親制度の総括的研究である竹島寛の『王朝時代皇室史の研究』も同様)点を批判され、大宝令の注釈書で天平十年(738)に編纂された「古記」の注釈で「未知。三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」とあることから、傍系二世王から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げは、特別の措置ではなく、継嗣令皇兄弟子条の適用であるとされる。そうすると従来の研究者が古記を見落としていたことになり、重要な発見であったと思う。
つまり、皇位が傍系に移っても自動的に諸王が親王に格上げになる制度であること。令制本来の在り方としては(たぶん、少なくとも実態面からみて)、傍系継承で傍系皇親が前代の猶子となる必要はない。そのような直系継承の擬制は本来必要なかったということである。ここでは傍系親の絡む皇位継承について奈良時代から南北朝まで要点のみ言及する。
淳仁、光仁、光孝即位のケースで明らかなように直系継承の擬制はなされていないとみてよい。淳仁天皇(大炊王)の立太子は聖武上皇崩後にもかかわらず、聖武の皇太子とされていたのであるが(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)、孝謙上皇の反対にもかかわらず光明皇太后の決裁で淳仁天皇の先考舎人親王に崇道尽敬皇帝号の謚号を贈り、生母当麻山背に大夫人号など舎人親王系皇統の創成を図っている(註47)。つまり聖武の草壁皇統の猶子ではなく、あくまでも天武-舎人親王-淳仁という皇統を創成して皇位継承の正統化が図られている。先考舎人親王の皇帝号追号は、淳仁の兄弟姉妹、船王、池田王、室女王、飛鳥田女王の親王格上げの前提になっているようにも思えるので、直系継承の擬制がなくても皇位継承されるとみてよいだろう。孝謙上皇にしてみれば草壁皇統正統意識が強いし、そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子(聖武)の補佐を受け持つこととされたのだから、一品親王といっても上皇にとってみれば家臣みたいなもので我慢ならないものがあったのだろうが、単純に草壁皇子系皇統から舎人親王系に移行としたと理解するほかない。
関連して舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)の和気王(父は御原王)が臣籍から皇親に復帰したことについても一応ふれておくと(註48)、天平勝宝七年、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。であるから追尊皇帝号による新たな皇統の形成は重要な意義がある。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年功田五〇町を賜った。しかし謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)。角田文衛がいうように、「有力な皇親を殺戮したり、追放したりするのは古典帝国の皇帝の宿命であり(中略)称徳女帝に至っては、崩御の日に至るまで強大な権力をもった手のつけられない女帝であったのである」(註49)。
次に光仁天皇(白壁王)即位であるが、宝亀元年十一月詔により先考施基皇子に天皇号を追贈(御春日宮天皇)、墓を山陵に改め、田原天皇とも称された。光仁生母紀橡姫は贈皇太后、光仁の兄弟姉妹皇子女は親王に格上げとなった。天智-施基皇子系皇統を正統化するものである。ただ聖武皇女井上内親王が皇后に立ち、天智系に移行しても女系で聖武に繋が他戸親王が立太子(翌年正月)されたが、宝亀三年に他戸は廃位され、異母兄山部親王(桓武)の立太子により、聖武とは女系でも繋がらなくなったが、むろん井上内親王を妻としていたことは、皇位継承に有利であったが、それが決定的ではなく、直系継承の擬制はないとみてよいだろう。いずれにせよ、たんに実態面からみても男系主義の脈絡からみて光仁の兄弟・姉妹と皇子女の親王格上げの意義は大きく、継嗣令皇兄弟子条は少なくとも男系への傍系継承をスムーズにする意義を認めてよいのである。
光孝(仁明皇子時康親王)即位のケースは事実上藤原基経が陽成廃黜、光孝擁立を断行したもので、光孝は皇太子にも立っていないので直系継承の擬制はない。というより陽成上皇復辟の可能性を潰すために、あえて皇親長老格の一品式部卿仁明皇子時康親王が即位し(なお、この時点で最長老としては嵯峨皇子秀良親王が在世されているが、親王は承和の変で恒貞廃太子後皇位継承に意欲を示したため失脚したという説がある)、光孝天皇は承和の旧例に復すことを方針とした。
光孝天皇は表向き皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下した。このことから光孝が一代限りの即位という位置づけだったという説もあるが、たぶんあらたに44人の親王を支えるには財政的に苦しいことと、藤原基経を憚ってのものだろう。
光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極が実現した。宇多天皇即位により、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃))、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である(註50)。本来なら継嗣令の適用で光孝即位の時点で光孝の皇子女はすべて親王・内親王とされてよいわけであるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。
但し、傍系親の絡む皇位継承で直系継承の擬制がないわけではない。筧敏生(註51)は『神皇正統記』が仁明天皇について「此御門は西院の帝(淳和)の猶子の儀ましましければ、朝覲も両皇にせさせ給」(但し、西院への朝覲行幸は承和元年のみ-上皇の辞退による)、『皇年代略記』が淳和上皇は仁明の伯父にあたるが「父帝二擬ス」と記述を引用し、太上天皇・天皇間の猶子関係の先駆とみなされ、その由来を古代社会における族長権継承が傍系親に行われても、始祖と融合一体化した単線的継承に擬される系譜意識によるとされる。
しかし私は、嵯峨-淳和-仁明-恒貞親王(承和の変で廃太子)という皇位継承路線が嵯峨系と淳和系の両統迭立であることから、傍系親が絡んでも皇位継承を軋轢なく安定的に推移させるための擬制とみてよいと思う。淳和后正子内親王は仁明の同母妹だが皇太后となし(但し内親王は皇太后尊号を辞退)、恒貞親王は仁明天皇の従兄弟でも甥でもあるが、仁明天皇の正嗣として皇太子に立てられた。実際、淳和上皇と仁明天皇は良好な関係であったと考えられている。淳和天皇は草書を善くし、仁明天皇は淳和天皇について書法を学ばれ、識別することの出来ない程になられた(註52)。恒貞親王伝によると承和十年七月春宮坊帯刀伴健岑の「謀反」により皇太子は恐懼して辞表を上ったが、天皇は独り健岑の凶逆にして太子の関はるべきにあらず、意を強うして介するなかれとの優答を与えている。
しかし承和の変は教訓になった。仁明天皇と恒貞親王の関係がいかに良好であっても、藤原良房(源潔姫の婿)を主軸とする嵯峨系門閥の思惑は異なり、仁明天皇が健康面で不安を抱えていたこともあり、恒貞親王が即位するような事態を望んでいなかった。直系継承の擬制は有力貴族の力関係次第で容易に破綻してしまうのである。
そういうことで、太上天皇と天皇が実の父子関係でない場合に猶子とされることは鎌倉時代以前はほとんどない。平城-嵯峨、嵯峨-淳和、朱雀-村上、冷泉-円融、後一条-後朱雀といった兄弟継承で猶子とはされていない。たんなる兄弟継承である(註53)。
円融上皇は、甥にあたる花山天皇の政権には影響力がなく、皇子の一条天皇の政権には人事などで影響力を行使したことからも明らかなように(例えば院司の藤原実資を参議に昇進させるよう摂政兼家に圧力をかけた。一条天皇の春日行幸に難色を示し、いったんは延期を決定させたなど)、冷泉系と円融系の迭立では猶子関係はない。
白河法皇が曾孫の顕仁親王(崇徳)を猶子とした特殊な例はあるが、兄弟継承で猶子関係の擬制があるのは鎌倉末期から南北朝では、後伏見と花園、光厳-光明のケースしかないのである(註54)。傍系継承が絡むケースで後小松上皇と-後花園天皇の猶子関係があるが(なお、後小松と後花園の猶子関係をめぐる後小松と伏見宮貞成親王との争いは、後小松崩後に貞成親王の太上天皇の称号が実現しているので最終的には伏見宮側が勝利したとみてもよい。後光厳-後円融-後小松系は武家政権に擁立された傍流であくまでも後花園の伏見宮家が持明院統の正嫡であると私は考えるが、この問題は複雑なので、後に「世襲宮家の成立」伏見宮家成立過程で改めて論じたい)、上記の三例はいずれも、院政を敷くための前提であった。直系尊属、実父や祖父であることが、逆に言えば治天の君として院政が敷かれるのは、直系卑属の皇子や皇孫が即位したケースに限られ、たんに前代の天皇ということでは院政を敷くことはできないというルールは歴史的に確立しており、後伏見-花園、光厳-光明、後小松-後花園の猶子関係は院政の前提として必要なものであるが皇位継承の正当化とは無関係に論じてもよいのである。
逆説的にいえばこういうことです。直系継承の政治的意義は幼帝即位でも太后臨朝でなくても安定政権が維持できる摂関政治、とりわけ院政に適合的であるからであって、決定的に直系継承にこだわらなければならない根拠もない。例えば福井俊彦(註55)が、平城即位、神野親王(嵯峨)立皇太弟は自明のものではなく、平城天皇の政権基盤が強ければ、たとえ九歳でも平城皇子高岳親王を皇太子に立て、直系継承を指向したはずであるが、そうならないのは神野親王が政治力を有していたからであるとしているが、このようにバランス・オブ・パワーで直系継承ができないこともありうるのである。
近世以後の展開は深入りしないこととして、いずれにせよ令制本来の在り方としては傍系親や兄弟の絡む皇位継承において直系継承の擬制の必然性はないのであって、直系継承の擬制がなくても、歴代天皇の全てが男系で天皇と繋がり、単系出自を貫徹していることにより、万世一系の皇位とされているものと考える。
なお、令の規定では皇親の養子・猶子の規定はないが、竹島寛(註56)が、淳和天皇の養子に嵯峨皇子源定、仁明天皇の養子に嵯峨皇子源融。醍醐天皇に宇多天皇御薙髪後の皇子雅明、行明、冷泉上皇に花山天皇御薙髪後の皇子清仁、昭登、三条天皇に孫王で、敦明親王の御子、敦貞、敦昌、敦元、敦賢が、それぞれ御猶子として親王宣下された例をあげているが、后腹で皇位継承候補者だった敦明親王(小一条院)の御子の親王宣下は政治的意義をみとめてよいが、それ以外は、竹島寛がいうように御父帝が皇子の行く末を案じて当代の帝にの将来を御依嘱遊ばされたというで、平安時代に関する限り、養子というのは皇位継承の正当化と関連するものではない。
傍系親(リネージ)が絡んだ複雑な皇位継承例は少なくないが無難なところで鎌倉末期を客観的にとりあげることとする。幕府は「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書)(註57)という方針である。つまり後深草系と亀山系の皇統だが、亀山系は後二条系、後醍醐系、恒明親王〈常磐井宮〉と三派に分裂して、このために正中三年三月皇太子邦良親王薨後の、東宮候補に後深草系(持明院統)嫡流から一人、亀山系各派から三人計四人が推薦され、東宮ポストを争った(註58-大覚寺統が三派に分裂する経緯は後に掲載する補説皇親の概念について「世襲宮家の成立」をみてください)。亀山系各派もそれぞれが嫡流を主張し和解不能ともいわれる泥沼状態になったが(四人というのは各派から推薦者が一人にしぼられているので皇位継承資格者の実数になればもっと多い)、四流全てが嫡流を主張でき、後嵯峨を共通の父祖とした単系出自の親族(リネージ)と相互に認識していることにかわりはない。
なお後深草系の分派として鎌倉将軍宮、さらに順徳系の四辻宮、岩蔵宮も存在したので、鎌倉末期 には少なくとも後鳥羽を起点とするリネージが少なく数えただけでも七流存在したこととなる。もっとも現実政治において、順徳系は皇位継承候補から排除されたがそれは幕府の方針であって、管領所領も有していたので皇統として存続した。
このように鎌倉時代後半期は皇位継承者がリネージからリネージへの移行する例を繰り返しており、その調停者が武家政権となっているケースだが、単系出自系譜であることにかわりなく、直系継承にこだわることなく、万世一系の皇位なのである。
そんなことで、結論を述べますと、継嗣令皇兄弟子条は、傍系親への皇位継承を想定したうえで、それがスムーズに継承できるための制度でもあり、いずれにせよ男系主義の脈絡で理解すべきであって、高森明勅説は有識者会議の論点整理でも「皇位継承制度の根本は、皇統に属する皇族による皇位の継承であり、女系も皇統に含まれる」(註59)の「女系も皇統に含まれる」に反映されているようだが、却下されなければならない。
〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
だいたい、高森明勅の説明(註60)は論理的でなく混乱している。継体即位を女系継承と論じている点もそうである。私は欽明以後の歴代天皇が継体后手白香皇女を通じて、女系で仁賢天皇と繋がっていることを認める。また継体即位が手白香皇女立后を前提として王権を継承したことも認めるが、高森が肯定しているように継体が応神五世孫だから、明確に男系継承なのである。女系が皇統として機能していたとする高森説では、手白香が非王族と結婚しても皇位継承されることでなければならない。継体即位を女系継承と言い切ってしまうことは継体簒奪王朝説を認めたのと同じことで、日本書記の信憑性を否定する考え方になる。仮に継体の出自を疑問視する見方をとるとしても、イデオロギー的には男系継承なのである。
(註32)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999
(註33)米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房2004 473頁
(註34)高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号
(註35)中川八洋『皇統断絶』ビジネス社 2005
(註36)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html
6月8日有識者会議における所功氏の発言
(註37)米田雄介 前掲論文
(註38)中川八洋 前掲書
(註39)成清弘和 前掲書 131頁
(註40)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
谷口やすよ「漢代の『太后臨朝』」『歴史評論』359
(註41)秦玲子「宋代の后と帝嗣決定権」『中国伝統社会と家族』汲古書院1993
(註42)木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981
(註43)成清弘和 前掲書141頁。
(註44)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.pdf
所功「皇位継承の在り方に関する管見」〈 PDFです〉
(註45)成清弘和 前掲書 142頁以下
(註46)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立 校倉書房 2002(初出1994)160頁以下
(註△)皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのちこれを称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王たりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうけて皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女の分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。
(註47)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 147頁
(註48)倉本一宏 前掲書174頁
(註49)角田文衛『律令国家の展開』「天皇権力と皇親勢力」塙書房1965、27頁
(註50)角田文衛「敦仁親王の立太子」『王朝の明暗 』 東京堂出版, 1977
(註51)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 247頁 注(19)
(註52)川上多助『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会1982
(註53)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 233頁
(註54)筧敏生 前掲書236~237頁
(註55)福井俊彦「平城天皇の譲位について」久保哲三先生追悼論集刊行会 『翔古論聚』真陽社 京都 1993
(註56)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936、161頁
(註57)森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝へ』講談社選書 2005 217頁
(註58)森茂暁 前掲書 59頁以下
(註59)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10siryou1.html
平成17年7月26日皇室典範に関する有識者会議 今後の検討に向けた論点の整理
(註60) 高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号
つづく。
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