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2005/10/03

有識者会議の論点整理について反対意見1

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか

川西正彦(平成17年10月3日)

  女帝-女系論者で世論を誘導している 高橋紘は伏見宮御流を虚仮にしまくっている。5月31日の皇室典範に関する有識者会議の席上でも次のように発言した。
  「11宮家の皇籍離脱の理由はきちんとあるわけです。有識者会議の資料を拝見いたしますと、そのような勉強もされたようでありますけれども、現在の天皇家から終戦当時既に550 年前に分かれた宮家、伏見宮家一統の方々なのです。
 昔、宮内庁を取材しておりまして話を聞いたのですけれども、その11宮家の中に香淳皇后のお里の久邇宮家はどうするとか、あるいはご長女の照宮様が嫁がれた東久邇宮家はどうするとか、または昭和天皇の叔母様方、北白川宮家、竹田宮家など、そういった方々をどうするのかというような議論もあったということです。しかし、それほど大きな議論にはならなかった。なぜか。要するに天皇家と遠い血、親等がずっと離れているという問題。この冷厳な事実が基準とされたということです。もちろん、過去の例として、継体天皇とか何人かの天皇は、そういった遠系から即位されたという例はありますけれども、皇籍を離脱いたしまして、もう既に六十年近く経っているという方を、男系男子を存続させるために、わざわざ養子にお迎えするということが、果たして現在の国民感情に合うのかどうかという気がします。 」(註1)
 要するに初代栄仁親王から昭和二十二年皇籍を離脱するまで550年の長きにわたって相承されたきた伏見宮御流を蹴っ飛ばして切り捨てろという暴論です。何様のつもりか知りませんが、伏見宮御流を虚仮にして国民の理解なんてありえないと勝手に決めつけ切って棄てる乱暴な立論です。
 この見解は7月26日の有識者会議の論点の整理でも採用されていて
「旧皇族は、60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通の祖先は約600年前にさかのぼる遠い血筋の方々である。このような旧皇族やその子孫を皇族とすることについて、国民の理解を得るのは難しいのではないか。」(註2)とありますが、この暴論は女系継承論の根拠の一つにされるのではないかと思います。
 要するに有識者会議は伏見宮御流を虚仮にしまくっている高橋紘の勝手な見解を丸呑みにして、女帝-女系継承-易姓革命是認-日本国滅亡路線に暴走しようとしているわけです。伏見宮切り捨て論という暴論に対してはそれこそしかるべき歴史家によって明確に反駁されるべき事柄ではありますが、僭越ながら私自身は王権ファンというほどでもない素人であるけれども重要な点なのでコメントしておきたいと思います。そのために、世襲宮家成立の歴史的意義を縷々述べることとしますが(補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義-後日掲載予定)まず今回は基本的な考え方だけを述べます。

 (伏見宮家成立の歴史的意義と後花園天皇即位の歴史的意義)
 
 これ自体大きなテーマで、概略的なことしか述べられませんが、ここでは伏見宮家-定親王家成立過程を、栄仁親王から後崇光院貞成親王の幅で検討します。
 
 後花園天皇は、寛正の大飢饉の際、将軍足利義政の奢侈を誡める詩を作るなど、「近来の聖主」と讃えられましたが、南北朝史の第一人者である村田正志は後花園天皇即位の歴史的意義につき「かくて皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まるとともに寶祚愈御光を添へ、皇運益々固きを加へられた。これ偏へに皇祖天照大神の神慮、國體の精華と拝し奉る次第である」と述べておられます(註3)。
 
 端的にいえば、持明院統傍系庶流の後光厳系が武家政権に擁立されて、嫡流の伏見宮家が皇位を継承できない捻れた状況が解消されたという意義です。後花園以後、二度と崇光院流でない皇統に皇位が移ることはなくなりました。ゆえに、安定的な皇位継承路線となったことの意義もあると思います。
  崇光曾孫で伏見宮貞成親王の御子彦仁王(後花園)は後小松上皇の猶子として即位しており、形式的には後光厳系の皇統の継承者にされていますが、崇光院流伏見宮家の正統性、持明院統正嫡たることは、後花園の実父後崇光院伏見宮貞成(さだふさ)親王の『椿葉記』(後花園天皇に献呈された-註4)に示されているとおりです。後光厳-後円融-後小松-称光の後光厳系については女帝絶対反対論第12回でもふれたが、正平の一統の後、正平七年(1352)南朝が反幕府強硬策で攻勢をかけ、三上皇(光厳・光明・崇光)廃太子(花園皇子直仁親王)の大和賀名生遷幸(拉致軟禁ともいわれる)という異常事態において、北朝再建の窮余の策として、光厳第二皇子、崇光皇弟で妙法院門跡に入室する予定だった後光厳が即位したもので、後光厳系は持明院統の正嫡の皇統とはいえないのである。後光厳は祖母の広義門院領しか相続してない(註5)、あくまでも傍系庶流の扱いである。三上皇廃太子は延文二年(1357)に還京され、崇光上皇は洛南の伏見殿を居所とされた。後光厳の次の皇位継承者が問題になった。崇光上皇は「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、御子の栄仁(よしひと)親王の践祚を幕府に申し入れるが、後光厳天皇の意向は御子の緒仁親王(後円融)であり、皇位継承争いとなったが、当時の幕府実権者執事細川頼之は、後円融を支持したため、正嫡たる栄仁親王は敗者となったのである。
伏見宮について「終戦当時既に550 年前に分かれた宮家」と高橋は発言していますが、なにか伏見宮が分派、庶流にすぎないみたいな心証を与え、誤解を招くもので不適切である。
 崇光上皇が伏見殿と称されたことが宮家の由来ですが、持明院統正嫡たる崇光上皇が持明院統の主要所領である長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙を相続し、崇光法皇が応永五年(1398)に正月に崩御したとき、後小松天皇が武家政権を背景にして栄仁親王から持明院統代々の所領を没収した。しかし同年十月に旧室町院領の一部(持明院統の傍系の廃太子直仁親王の遺領)、播磨国衙、同別納十箇所が栄仁親王に与えられ、その後も内裏や幕府から幾つかの荘園・国衙領が勧められて伏見宮家領が成立した(註6)、さらに、後花園天皇は皇弟の貞常親王が猶子とされ、熱田社領は貞常親王に還された。
 伏見宮家は経済的基盤を有した。のみならず伏見宮の正統性というものはたんに持明院統正嫡という血統原理だけではない。伏見宮家は、後嵯峨天皇以来の皇室の重要記録文書を所蔵していて、火災で焼失はした分もかなりあるが、後崇光院貞成親王がよく文書類を整理保管しており二千点にのぼるとされています。伏見宮家文書は現在宮内庁書陵部が所蔵していますが、古い記録類が多く貴重なものです。後光厳流には古い文書は伝えられておらず、『看聞日記』永享二・七・二四によると、大嘗祭関係の記録と、「累代之文書」で、「代々御秘蔵」であった神膳に関する後深草院・伏見院・後伏見院の自筆の日記を後小松上皇に進献したとあり、これは貞成親王が後小松の猶子となった実子の彦仁王の即位に備えるためのものであるが、後花園即位によって、伏見宮家の文化資本が後小松上皇や後花園天皇に進献されていったのである。しかし全てではなかった。松薗斉(註7)が述べているように、文安三年の貞成親王による宮家を継承した子息貞常親王への譲状によると、御記(代々天皇の日記)だけが、禁裏(後花園)に進められたが、その他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示している。
 また、貞常親王に伝えられたものとして琵琶がある。天皇が習得されるべき芸能について順徳天皇の『禁秘抄』は学問・管弦・和歌の順に記されているが、伏見宮貞成親王の『椿葉記』は楽道・学問・和歌の順である。伏見宮貞成親王は、後小松天皇の例により笙を始められるという風聞のあった後花園天皇に琵琶を強く勧めた(註8)。その理由は、後深草、伏見、後伏見、光厳、崇光、栄仁親王が琵琶を能くされ、貞成親王も百日稽古などで熱心だったことが知られている。琵琶は持明院統正嫡の「帝王学」だったのである。しかし、後花園天皇は筝と笙の「絃管」を習得されたので、琵琶は天皇の弟の貞常親王に伝えられることとなった。このように禁裏に継承されなかった文化資本は宮家でカバーする役割も有していたとみてよいだろう。
 そのような伏見宮家成立の過程からみて、伏見宮というのは分派、分流ではないです。正統長嫡が伏見宮で、後小松の系統が庶流だったわけです。後光厳の系統より伏見宮に皇室の文化資本が蓄積しているという捻れの状況が後花園が皇位継承したことで解消した意義があります。また伏見宮に伝わった文化資本の全てが後花園に伝えられたわけではなく、伏見宮家の文化資本のかなりの部分は宮家を継いだ貞常親王に継承されることとなったのである。要するに、後花園と皇弟で猶子の貞常親王は親しく、禁裏と宮家の双方で王権の文化資本が継承され現代にまでいたったのである。 
 
 次に後花園天皇即位の政治的経緯について述べます。称光天皇は病弱、歴代天皇のなかでも暗愚とされ評判はよくありませんが、もう一人の皇子小川宮も応永三十二年(1425)若くして亡くなられたため後小松上皇は、大覚寺統の小倉宮の挙兵の動きもあり、急ぎ皇嗣を決定しなければならなかった。正長元年崇光天皇の曾孫で伏見宮貞成(さだふさ)親王の御子彦仁王を親王宣下のないまま猶子とした。正長元年(1429)後小松天皇の後光厳流が、称光天皇が嗣子のないまま崩御され杜絶したため、彦仁王践祚。後花園天皇である。もっとも後小松上皇は後小松胤の宗純王(一休)か伏見宮の彦仁王(後花園)で迷っていたとの説がある(註9)。称光天皇御大病の状況で、後亀山皇孫の小倉宮が皇位継承を熱望し、御在所嵯峨を出奔されたので幕府としても万全の策を講じる必要に迫られ、上皇に無断ではあるが幕府の計らいで彦仁王は伏見御所より若王子社に渡御あり、赤松の兵之を厳重に警護した。このことは御用心のためとされており、新主御決定は上皇の叡慮によるものだが(註10)、若王子坊渡御の計らいは将軍足利義教以下幕府首脳部の推載の意思を行動示したものだろう。
 問題は後小松上皇が直系継承の擬制に拘り、あくまでも猶子の後花園を実父と切り離して後光厳流は断絶していないことを示そうとしたことである。
 永享五年(1433)後小松上皇は危篤の床で勅書を認めた。史上に知れた「遺詔」であるが、それによると貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず。御追号は後小松院たるべきこと(註11)であった。
 後花園天皇は後小松の猶子として即位したため御報恩の誠を致させ給ひし御事績あり、しかし後花園天皇は後小松上皇の遺詔に反し、文安四年(1447)実父伏見宮貞成親王に太上天皇尊号を宣下された。翌年辞退されていますが、この意義は重いものであって、天皇実父が無品親王で終わった例はなく、光仁天皇の即位で先考施基皇子に春日宮天皇と追尊、山陵の地により田原天皇とも称されたが、天智-施基皇子系皇統を創成したのである。そうした先例にもとづいての太上天皇尊号は当然の事と考える。これは皇統がもともと持明院統正嫡であった崇光院流に定まったことを示すものである。
 
  要するに後花園即位は皇位継承の安定化という観点で決定的な歴史的意義を有するということです。すなわち元中九年(明徳三年)閏十月五日三種の神器が、大覚寺より後小松天皇の京都御所に渡御されて南北朝合一なる。鎌倉時代からの不幸なる皇統の紛糾は基本的に解決されたのである。
  南北朝正閏論争については明治44年3月3日に首相桂太郎の奏請により南朝正統の勅裁が下され決着しましたが、村田正志によると「勅裁の経過内容はもとより伺ひ知るべくもないが、仄聞するところによれば、後醍醐天皇より後小松天皇の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇たるべきに御認定あらせられ、ただし光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては御尊崇の思召に依り、尊号・御陵・御祭典等は従来通りたるべき事の御沙汰があった由である」(註12)とされているように、後小松天皇は南朝正統論においても正位の天皇であり、後小松の猶子となり即位した後花園が正位であることはいうまでもない。
   もっとも嘉吉三年(1443)九月の後南朝一味による神器強奪事件(禁闕の変)や応仁・文明の乱で西軍の旗頭に「小倉宮」が擁立され入洛した事件もありましたが、大勢に影響はなく、皇統は崇光院流で安定的確固たるものとなりました。いうまでもなく今上陛下は父系で遡っていくと後花園、後崇光院伏見宮貞成親王、栄仁親王、崇光、光厳、後伏見、伏見、後深草と持明院統正嫡に繋がっているのであります。
 以上のような歴史的脈絡から考えて、伏見宮家存続は安定的な皇位継承と文化資本の継承に大きな貢献があり、皇室の藩屏の役割を果たしてきた意義を正当に評価することもなく、ジャーナリストの伏見宮御流を虚仮にして国民が理解するはずがないから切り捨て当然だみたいな物言いは到底容認できません。真に良識的で国と自国の文化を愛している人は、そういう暴論を吐くはずがない。それでも高橋紘の伏見宮御流切り捨て論に丸呑みして、有識者会議は女系継承の結論に暴走するのでしょう。それは易姓革命から日本国を終焉させる第一歩となる決定的に誤った政策判断になるでしょう。

 つづく 
 
(註1)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou2.html
(註2)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10siryou1.html
(註3)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」137頁
(註4)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 
(註5)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 171頁
(註6)金井静香 前掲書 236頁
(註7)松薗斉『日記の家』吉川弘文館「持明院統天皇家の分裂」186頁以下
(註8)相馬万里子「『代々琵琶秘曲御伝受事』とその前後-持明院統天皇の琵琶-」『書陵部紀要』36号 1984   
(註9)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000 331頁
(註10)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」

桜井英治『日本の歴史第12巻室町人の精神』講談社「称光天皇の死」127頁 双方を参照した。
(註11)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 319頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979 、
(註12)『村田正志著作集第1巻増補南北朝史論』思文閣出版(京都)1983
36頁、なお長慶天皇は大正十五年10月21日に詔書により正式に皇統に加えられた。

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平成22年11月7日
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