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2005/10/10

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第2回)

川西正彦(平成17年10月10日)

今回の内容(補遺 伏見宮の成立過程)

1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性

2 栄仁親王と緒仁親王との皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収

前回がかなり粗っぽい作文になったため、まず持明院統所領の伝領過程について補足しておきたい。

1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性

 正平九年(文和三-1354)三月、三上皇廃太子(光厳・光明・崇光・花園皇子直仁親王)は大和賀名生より河内金剛寺観蔵院に遷られた。賀名生の掘立小屋程度より居住環境はずっと良くなっていて、京都への通信も可能になった。この地で光厳法皇は正平十一年(延文元)までに崇光上皇に持明院統正嫡の「帝王学」である琵琶の秘曲を伝授されている(註13)。持明院統相伝の琵琶の秘曲を伝授したということは正嫡と認められたことを意味する。光厳第二皇子(実は第三皇子)の後光厳が皇位についたにもかかわらず、光厳法皇が第一皇子の崇光を正嫡と定めたということにほかならない。
 ところが実は、康永三年(1344)の時点では光厳上皇(当時は、光明天皇・東宮興仁親王)は、花園皇子直仁親王を正嫡に定めていたのである。それは、康永三年四月の置文と譲状により、直仁親王を将来継体とし、荘園群のなかでももっとも重要な長講堂領は光明天皇から直仁に伝領されるように定められ、興仁(のち崇光天皇)には因幡国と法金剛院領を譲るが、一期ののちは直仁に伝領するよう定めたことで明確なのである(註14)。
 持明院統の正統長嫡路線からみて、第一皇子の興仁親王の皇子は必ず仏門に入れよとされ、興仁親王(崇光)が中継ぎの扱いで、光厳の従兄弟にあたる直仁が正嫡とされたのは不可解というほかない。ところが直仁親王の母宣光門院(正親町実明女藤原実子)は花園院最愛の寵人であるから、花園皇子とされているが、実は直仁親王は光厳胤子であり、宣光門院が懐妊する前に春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生した。このことは光厳上皇と宣光門院以外他人は全く知らないことと置文に記されていた。つまり不義の交際があったことを上皇御自ら告白されているのである(註15)。春日大明神のお告げにより実は第二皇子の直仁親王を正嫡に定めたということらしい。(この文書は事の性質上戦後になって明らかになった)
 しかし、足利将軍家の内訌による観応の擾乱は、足利直義が南朝に降ったことから争乱が大規模になり、和睦も模索されたが、桃井直常のような直義党の強硬派が和睦を拒否したため、観応二年(1351)十月ついに足利尊氏は、直義を討つため南朝に降って尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、尊氏は関東に進発した。
 正平一統とよばれる南朝による政権の接収により状況は大きく変化した。崇光天皇(当時18歳)は大嘗祭未遂のまま廃位、神器も南朝に回収された。正平一統は直義が毒殺された時点で破綻し、正平七年(1352)閏二月北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走する大失態で、結果、三上皇皇太子は大和賀名生まで連れて来られた。ここにいたって登極していない直仁親王を正嫡と定めることに無理があり、崇光上皇を正嫡と定める方針となったとみられる。
 
 三上皇皇太子が南朝本拠地へ移送される異常事態のため、京都では妙法院門跡に入室する予定で日野資名に養育されていた光厳第二(実は第三)皇子(当時15歳)の後光厳践祚により北朝が再建された。
 後光厳天皇が皇位について後、ほどなく南軍の攻撃が開始され、文和二年(1353)六月に南軍の楠正儀や山名時氏が京都を攻め、足利義詮は敗退して、後光厳天皇を奉じ美濃の垂井に走り、同国の小島を行宮とした。京都は奪還され天皇は還御され、尊氏も京都に戻ったが、あくことなく足利方の武将の抗争は続いて、文和三年十二月にも尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺に逃れた。翌年、足利直冬、山名時氏、桃井直常の南軍が入京、二月から三月にかけて京都内外で激戦がくり返され、南軍は敗れて京都を退き、三月二十八日に後光厳天皇の還幸をあおぐことができた。
 そうしたことで南朝強硬派の北畠親房も文和三年に薨じており、南朝が北朝の上皇や廃太子を抑留する意味が薄れてきた。まず光明法皇は正平十年(文和四)に帰京され伏見法安寺に入っている。光明法皇は繊細な性質の人で長期の幽閉生活には耐えられなかったようだ。
 正平十二年(延文二-1357)に光厳法皇・崇光上皇と直仁親王が突然、河内金剛寺より還幸され、光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇は大光明寺の伏見殿に還御された。
 長講堂領など持明院統の管領所領は、上皇の政務を代行していた光厳・光明生母広義門院(西園寺寧子)の沙汰とされていたが延文二年閏七月に崩ぜられたことから、貞治二年(1363)までには光厳法皇の管領に属していたとみられている(註16)。光厳法皇は帰京後、政務に関するかかわりをいっさい断っているが、北朝内部の所轄権、管領所領の処分権は法皇に属したのである。
 貞治二年四月に光厳法皇は、長講堂領・法金剛院領・熱田社領・播磨国衙など持明院統主要所領を崇光上皇に譲与され(註17)直仁親王は花園上皇が相続した旧室町院領だけが譲られ、親王の歿後は宗領に返付されるものとされた。
 持明院統の文庫や琵琶も崇光上皇に伝えられている。飯倉晴武によると、後光厳は光厳院の承認をえないで践祚した天皇で、よくいっても緊急避難としての中継ぎの天皇としての存在という認識であり、光厳院は皇位は正嫡崇光院流にもどすよう考えられていたとされる(註18)。後光厳天皇が相続したのは祖母の広義門院領だけであり、経済的基盤の弱さは否めない。それは政治力にも影響するものだったとみてよいだろう。この光厳院の措置に後光厳天皇もかたくなな気持ちになって父子の間を冷たくしたといわれている。
 しかし、『椿葉記』にある光厳法皇の置文の内容はあらゆる事態が想定されていて、よく練られたものであったと思う。
 崇光上皇に譲与された長講堂領など主要所領について、「(一)(崇光院の)親王践祚あらば、ただちに相続すべし。(二)もししからずば禁裏(後光厳天皇)御管領あるべし(三)ただし、末代両方(崇光院流・後光厳流)御治天あらば、正統(嫡流)につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべき由‥‥」(註19)とされている。また武家政権が後光厳を支持し崇光皇子の子孫が即位できない場合でも、最低限経済的基盤が維持できるようにされていた。つまり光厳法皇は長講堂領のうち、伏見御領(伏見荘)については切り離して大光明寺に寄進し、仙洞=崇光院の子孫の管掌とされた。崇光院流は別相伝所領を有することとなり、政局がどう転んでも宮家として存続できる工夫がなされているのである。伏見宮家が昭和二十二年まで存続したひとつの根拠は歴史を辿っていけば光厳法皇の先見の明にあったといえると思います。
 光厳上皇の事績については歴史家、中世文学研究者により高く評価されています。
 例えば岩佐美代子の「光厳天皇-その人と歌-」(註20)から長文ですが引用させていただきます。
「光厳天皇は、近江の番場まで六波羅勢と逃れてそこで捕らわれて退位されます。まさに土崩瓦解の乱世の中で、建武三年、尊氏が後醍醐天皇に反して一旦敗れて、二月十日に九州に逃れますけれども、その時三宝院賢俊を仲介として、光厳院の院宣を受けている。どういう事情で、どういうふうなお心持で、光厳院が尊氏に院宣を授けられたかということは、従来ほとんど考察されていないと思います。‥‥そのすぐ後、三月十四日、二十五日、二十九日の三回に亙りまして、宸筆の般若心経を、伊勢・石清水・春日社にそれぞれ奉納して、三界流転の衆生の救済を願っておられる。‥「日吉山王七社和歌」‥恐らくこれも同じ頃に詠まれたかと思われる。そういう資料の存在から考えまして、花園院の教えを実践するために、正統長嫡である持明院統、--伏見院以来、持明院統の方々は正統長嫡の天子ということを非常に強調なさる。これは系図でご覧の通り、後嵯峨から後深草・伏見・後伏見・光厳というのはまさに正統長嫡に違いないので、これは後醍醐といえども否定することができない。その正統長嫡である持明院統に皇位を回復するのはこの時をおいて外には無い、という光厳さんの一大決断であったと考えられます。‥‥光厳院は文和元年(1352)賀名生で出家なさいまして‥‥延文二年許されてようやく帰京なさいますけれども、以後は人を避けて小倉山に小さい庵を結び、貞治二年(1362)に法隆寺に参詣、それから高野山を巡拝なさって、『太平記』によりますと、吉野にもいらして後村上天皇とお会いになる。それから各地を廻って、戦没者の霊を弔い、‥常照寺に入られます。そして山寺の一老僧として貞治三年(1364)七月七日、五十二歳で亡くなられるのでございます。光厳天皇という方は、御自分で望んだのでもない、苛酷な運命に弄ばれながら、歴代天皇の中でおそらくたったお一人、天皇というご自分の地位がもたらした、いろいろな罪障に対して、はっきりとした態度なり行動を以て贖罪を果たし、ただ一人の人間となって亡くなられた方でございます。日本の天皇の中に、こういうお方が、お一人でもいらしたということを皆様に知っていただきたいと思います。」
 光厳天皇は元弘の年江州番場宿において(関東に遷られる途中)、六波羅勢四百三十人の集団自害という血なまぐさい陰惨な地獄を見た。歴代天皇の中で戦乱に会ったケースはあるが、ならず者に包囲され拘引されるという屈辱は光厳天皇だけといってもよい。それでありながら、確固たる正統意識のもとに皇権の回復に努めた。院宣が多数であることから光厳上皇は政務に意欲的だったといわれる。しかし尊氏の裏切りにより、掘立小屋での幽閉生活を強いられた。大変な苦労をされている。
 その光厳院が正統と定めた崇光院流、それは栄仁親王-伏見宮貞成親王の皇統です。後花園天皇と永世伏見殿御所の称号を許された貞常親王の父が後崇光院貞成親王ですから、今日の皇室と伏見宮御流も含めた系統でもあるわけです。こんなところで女帝-女系継承で、上皇の皇統の永続性を全面的に否定してよいのでしょうか、もしそんなことをやって有識者会議の方々はどう申し開きしますか。
 
 2 栄仁親王と緒仁親王との皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収
 
 応安三年(1370)半ばから、後光厳天皇は皇子緒仁親王(後円融)に譲位の意向を持ったようで、この風聞から崇光上皇は中納言日野教光を使者として幕府に送り「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、崇光皇子栄仁親王の践祚を積極的に申し入れていた。しかし、後光厳天皇は柳原忠光を使者に立て、三宝院光済を介して、幕政の実権者細川頼之にはたらきかけ、細川頼之の判断は「聖断たるべきよし」とされ、後光厳天皇の裁断とされたのである。むろん、幕府は政権の安定性という観点で正嫡栄仁親王を支持する選択肢もあったはずである。しかし戦陣の間苦楽を共にして二十年近い長期在位となった後光厳天皇の意思を尊重せざるをえなかった。応安四年(1371)三月後円融践祚、後光厳院政となった。
 しかし新帝の即位式挙行を目前とした十二月二日に興福寺衆徒が、一乗院、大乗院の処罰を要求して春日神木を捧げて入洛、後光厳上皇が神木を大原野神社に遷して即位式を挙行しようとしたため、衆徒が憤激し、院側近の柳原忠光、広橋仲光、中御門宣方らを次々と放氏したため院政は混乱に陥った。しかも四年にわたって春日神木が王城に鎮座し続けたため、後円融の即位式も延期され、深刻な政治的空白を生じたのである(註21)。
 応安七年(1374)は後光厳上皇(37歳)は疱瘡にかかって急に崩御になられた。これは春日の怒りにふれたと噂された。17歳の後円融親政となりますが、天皇は政務に意欲があったが、神木入洛の後遺症による廷臣の無気力はいかんともしがたく朝廷政治は惨憺たる様相になり、この間に朝儀が衰退していった。
 後円融天皇は、永徳二年(1382)6歳の第一皇子後小松天皇に譲位した。この時崇光上皇は栄仁親王(当時32歳)を推す公然たる動きをみせることもなかった。すでに足利義満の権力基盤が固められていたためだろう。
 明徳三年(1392)閏十月崇光上皇は剃髪入道されました。また南北朝の合一がなりました。応永五年(1398)正月十三日崇光法皇は崩御になられました。つまり35年の長期にわたって崇光上皇が持明院統の長講堂領、法金剛院領などの主要所領の本所であった。それは後光厳天皇の記録所の所轄外であった。崇光上皇が治天の君ではないので政治力に疑問を持つのである。素人目にみても院宣の数は少ないとされており、南北朝の動乱期において、現地の違乱などは少なくなかっただろうと推定できます。
 崇光法皇の崩後、百日をすぎた頃に、栄仁親王にとって晴天の霹靂としかいいようのない事態が生じた。伏見殿の所領として栄仁親王に伝えられるはずの所領のうち長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙が後小松天皇によって召し上げられてしまったのである(註22)(ただ、この所領移管は栄仁親王が践祚できない場合は、禁裏が管領するとした貞治二年の光厳法皇の「置文」の趣旨に沿っているので、理は後小松天皇にあるともいえる)。むろん所領没収は、後小松を支えている義満の権力を背景としており栄仁親王は同年五月二十六日義満の沙汰により剃髪入道を余儀なくされている。
 栄仁親王は窮境に陥った。突然の発心入道に驚いた近臣の庭田経有は、「凡そ天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり。只、悲涙に溺れおわんぬ」と同情を惜しまず、「御前途を期せらるゝの処、にわかの此の如き御進退。さりながら、彼の相国の申沙汰なり」と記し、貞成親王の後年の言(『椿葉記』)によれば「あまりになさけなき次第、申せばさらなり」とある(註23)。
 しかし同年十月に旧室町院領の一部(持明院統の傍系の廃太子直仁親王の遺領)、播磨国衙、同別納十箇所が栄仁親王に与えられ(註24)、応永十五年には貞治二年の光厳法皇の置文により長講堂領だが崇光の子孫へ別相伝としていた伏見御領も返還され、栄仁親王家の所領となっている。
 私としては「天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり」の言にみられるように、確固とした正統意識がみられる点を強調しておきたい。窮境に陥ったが崇光院流こそ正統なのである。
 
つづく
 
(註13)飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 193頁
(註14)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 185頁以下 
(註15)飯倉晴武 前掲書 139頁
(註16)森茂暁『南北朝公武関係史の研究』文献出版1984 227頁以下
(註17)森茂暁 前掲書 247頁 註(58)、金井静香 前掲書 236頁、飯倉晴武 前掲書 207頁以下
(註18)飯倉晴武 前掲書 202頁
(註19)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 44頁。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

(註20)岩佐美代子「光厳天皇-その人と和歌」『駒沢国文』29号 1992  
(註21)小川剛生『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』臨川書院(京都)2003 141頁
(註22)横井清 前掲書 43頁
(註23)横井清 前掲書 45~46頁
(註24)金井静香 前掲書 236頁

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