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2005/10/12

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第3回)

  石清水八幡宮の託宣の意義を否定してよいのか

川西正彦(平成17年10月12日)

 石清水八幡宮(京都府八幡市)は、古来より、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟と称せられ、歴代天皇の崇敬が深く、行幸啓・奉幣はしばしばで、行幸は永祚元年(989)正月二十一日の円融法皇の御参詣を初めとし、明治十年、明治天皇の行幸に至るまで天皇・上皇の行幸や美幸は二百四十度にも及ぶ。(註25)
 八馬朱代「円融天皇と石清水八幡宮」(註26)によれば、八幡神の祈願の特徴について①乱平定の神(藤原広嗣の乱、承平・天慶の乱)②対外の神(新羅賊船侵入事件)③皇位継承・守護の神(道鏡事件、天皇の即位報告)と三つの側面を有するとされ、、嵯峨朝より仁明朝に八幡神は「皇位の正統性を承認・守護する神」としての神格を朝廷より付加されたと概括され、宇佐八幡宮の即位奉幣の初例は天長十年四月五日の仁明天皇であるが、後一条天皇まで(宇多・村上・冷泉天皇を除いて)代々即位奉幣が八幡神に対して行われていた。
 円融上皇の石清水八幡宮への信仰が顕著にあらわれているのは、永祚元年(991)のことで一条天皇に「御悩」があり、そのことを安倍晴明に占いをさせ、報告があった直後から石清水八幡宮への御幸を行い、奉幣活動を度々行っていることから、度重なる祈願は一条天皇の在位を維持したいという思いにより、「皇位の正統性を承認・守護する神」という八幡神に深い信仰を抱かせたのではないかという。なるほど、円融天皇はただひとりの皇子である懐仁親王(一条)が誕生しなけければ、一代限りで、冷泉天皇から花山天皇への中継ぎにすぎなかった。しかし、石清水八幡の祈願のためか、皇孫の後一条以後歴代天皇は全て円融系の皇統となっている。
 持明院統の歴代天皇も幕府においても石清水八幡を尊崇していたことはいうまでもない。足利義教は石清水八幡で行われたくじ引きて選ばれた将軍だが、恐怖政治で評判の悪い独裁者である。しかし伏見宮贔屓であり、後花園を支えたことは評価されてよいのではないか。

 さて、後崇光院伏見宮貞成親王(当時-貞成王)は応永二十八年の八月二十八日の石清水八幡宮に代参を立てた。この時の奉納祈願の願文の内容であるが、「‥‥そのひとつは無官無位にして世にあらむ事、名をはづかしむる第一の恨とす。又一つは窮困のうれへ、法に過て世路をわたるに治術なし。わづかに管領の地ありといへども、闕乏をおきぬ(補)うにたらず、殊眼目とたのむ懸命の地は別相伝なり(中略)抑先親かたじけなくも岩(石)清水の正流を受たりといへども、宿運つたなきによりて皇統忽ちに断絶せり。この神明のさだむる所の前葉(業カ)のしからしむるゆへか、凡慮さらにわきまへがたし。しかりといへども、子孫猶相続て一流の絶えざらむ事をこいねがふ。庶流なを区々に跡を残せり、況嫡流においてふ(ママ)や。ことに八幡(菩薩)は正直の頭にやとりまします。われつたなき身にも正直ならむと思心ふかし。又他の人よりは我人はちがひまします。いかでか正嫡をすて給はんや。我齢すでに知命に及べり。いまいとけなき緑子あり(中略)寿福のふたつことにねがふ所なり。かつうは又父祖の怨念をやすめたてまつりて、孝子の心ざしをとげんと思ふ。願は相伝の旧領を本に復して、宮中二たび繁盛せしめ、殊には官位の先途を達して、朝廷にまじはる名を子孫につたへん。小児息災安穏にして、一流万代に相続せし給へ。いま祈請する所過分の望をも祈らず。たゞ理運の願ばかりけり(後略)」(註27)とある。小児息災安穏の小児とは彦仁王(後花園)のことであるが、自らが皇統の正嫡であり、嫡流が不遇の境界に置かれ放しなのはいかにも道理に合わぬこととしている。位藤邦生は、願文といいながら個性的な文章と評され、一面からみれば甚だ欲深な内容に満ちており、八幡の神と取引する気味が感じられ、後小松上皇、称光天皇健在の時点では過激な文章との論評(註28)だが、それだけ強い正統、嫡流意識を持っていたということである。
 伏見宮貞成親王の『椿葉記』であるが、崇光院流の正統性、太上天皇号の望み、天皇としての心構え等を記し、後花園天皇の叡覧に訴えた内容の書であるが、この書名が石清水八幡宮と深いかかわりをもっている。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」とあり、八幡の御託宣とは「古今著聞集」「増鏡」の後嵯峨院の逸話のことで「古今著聞集」では「仁治元年冬の比、八幡へまいらせ給て、御出家の御いとま申させ給けるに、暁御寶殿のうちに「徳是北辰、椿葉影再改」と鈴のこゑのやうにて、まさしくきこえさせ給ければ、これこそ示現ならめと、うれしく思し召して還御ありけり」(註29)との話である。「椿葉影云々」とは『新撰朗詠集』の大江朝綱の「聖化万年春」のことで「徳是北辰、椿葉影再改、尊猶南面松花之色十廻」の句のことで、後嵯峨が二十歳を過ぎても元服の沙汰もなく、一旦御出家も思召立たれようとされたが、石清水八幡宮に参籠した際、「徳是北辰、椿葉影再改」という御託宣を蒙った。意味するところは、帝王となってその徳高く、子孫の栄え久からむこと(註30)であるが、四条天皇が事故で急に崩御になられ、嗣子なく、入って大統を継がせられるようになった事例をさしている。称光天皇に嗣子なく、皇位を継承した後花園の事例がそれに類似しているので、石清水八幡宮に尊崇あつい貞成親王がこの託宣から書名としている。したがって『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨天皇のその皇子後深草の正嫡の皇統の永続の意義がこめられているといってよいだろう。
 貞成親王がの石清水八幡宮の神徳を詠んだ歌は非常に多く、
 おとこやまたゝしき御代をまもるへき神のちかひは今の時かも
 なみならぬ恵そふかき石清水むすふ契や代々をかけけん
 君が代を猶こそいのれ男山さかゆくすゑに我やあふとて
 わか人の数ならすとも男山さかゆく末をまもらさらめや

  などがある(註31)

 いま後崇光院の皇統、すなわち後花園の子孫である今日の皇室と、後花園より永世伏見殿御所の称号を許された貞常親王の子孫、つまり伏見宮の御分かれ、旧皇族ですが、後崇光院の皇統を全面的に否定して女系宮家、女系継承で易姓革命を事実上是認する制度化を計ろうとしているのが有識者会議です。とんでもないことですね。それでは石清水八幡の託宣や、貞成親王の願文「一流万代に相続せし給へ」の意味を否定するもので全く無意味になってしまう。絶対にあってはならないことです。「皇位の正統性を承認・守護する神」がそんなことを容認するでしょうか。後崇光院にどう申し開きしますかと問いたいです。

つづく

(註25)http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html
(註26)八馬朱代「円融天皇と石清水八幡宮」『日本歴史』684号2005年5月 

(註27)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 200頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979
(註28)位藤邦生『伏見宮貞成の文学』清文堂出版社(大阪)1991 328頁
(註29)位藤邦生 前掲書 323~324頁
(註30)鹿島曻 『日本王朝興亡史』新国民社1989 477頁 同氏の見解にはむろん賛同しないが、後嵯峨の逸話の意味について引用した。

(註31)位藤邦生 前掲書 324~325頁

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