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2005/10/23

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回

今回の内容-高橋紘の軽薄な発言

川西正彦(平成17年10月23日)

 高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」(『週刊ポスト』37巻43号、2005年10月21日号 47~48頁)そんなばかな。こういういい加減な人の意見を有識者会議が採用してよいのか。

 今回は本筋から離れてしまいますが、見逃すことのできないふざけた発言を読んだので批判しておきたい。『週刊ポスト』の10月21日号(先々週の発売)の46頁に「愛子さまは「女性天皇」の扉を開くか」という記事があり、女性天皇容認論者として 高橋紘の発言が載っていて「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの。もちろん伝統は大切だが、時代と共に変わってもいい」というのである。多くの民衆は天皇の存在すら知らなかっただと、そんなばかなことはない。とんでもない誤った歴史認識だ。

 私は財政史について全く素人で、とやかくいえる立場ではないが、上島亨が中世王権の民衆的基盤について、一国平均役と、官位秩序の社会への浸透などについて述べ、中世王権の社会的浸透は現代にまで影響しているということは一般向けの書物で述べていることであり(註54)、多くの民衆が天皇や朝廷の存在を理解していない無知蒙昧であったということはない。歴史を無視した軽口を叩くこういういいかげんな人が世論を誘導したうえ、元東大学長らの有識者会議もそれに追随して、易姓革命を是認し国を滅ぼす方向で結論しようとしている。これは全く不幸なことだといわなければならない。

一国平均役

 一国平均役とは平安後期(11世紀中葉以降)に成立した荘園・公領(国衙)の別なく国内あまねく賦課される臨時徴税で、「造内裏役」(内裏造営)、大嘗会、「役夫工米」(伊勢神宮式年遷宮用途)、斉宮関係、御願寺・一宮などの費用に限られる。後白河の時代に課役体制が確立され、鎌倉期を通じて維持されたとされているが、具体的な事例での実効性については私は素人なので検証していない。
 その起源は、調庸・雑搖の系譜をひく臨時雑役で、律令制の租税制度が崩壊したのち、全国一律の国家的租税としては一国平均役だけが室町時代まで存続した(註55)。一国平均役の賦課・免除権は朝廷にあったが、足利義満の時代に幕府に接収(公武合体政権とみることもできるが)されることにより、その役割は段銭賦課に移行することとなる。 
 上島亨は「一国平均役は‥国内支配を一任された受領が経費負担をまかなうため生み出した租税であった‥‥天皇や伊勢神宮などの存在を強調し、国内のすべての田地に一国平均役を課すことで、任国支配の強化を図ったのである」とされ、この受領が築いた民衆的基盤に立脚して、後白河天皇が保元新制で宣言した王土思想は、中世王権が社会的民衆的基盤を確立したことを示すとの見解であるが(註56)、いずれにせよ、一国平均役があるからどんなに辺鄙な田舎の百姓でも天皇の存在は理解していたはずである。われわれ一般庶民の祖先は中世においてまず確実といってもよいほど国家的臨時徴税である一国平均役のために勤仕してきたはずだし、臨時徴税の意味するところの天皇や大神宮の存在も理解していなかったとはとても考えられない。

 地下官人の成功と衛門・兵衛などの民衆社会への浸透 

 次に成功(じょうごう)制の展開について、上島亨は従来成功が「売位・売官」とみなされ、消極的側面を強調していたのは誤りである。平安・鎌倉時代を通じて成功を「売位・売官」とみなす例はほとんどない。成功の「功」とは朝廷に対する功績を意味し、むしろ国家財政のなかで果たした役割を積極的に評価すべきとの見解である(註57)。
 成功制は時代的変遷があり、10世紀後半において造営事業の請負において出現した。11世紀末より受領功過定による受領統制の弛緩で国宛や臨時召物の進納が悪化し、庄園の不輸不入権の付与により、12世紀中葉にはますます悪化する。このため12世紀中期より、成功での経費調達を目的に臨時除目(闕官を前提としていない)が行われ国家財政の一翼を担うようになる。恒常的、臨時的公事経費の調達のために地下官人の成功を大量に採用することになった。
 受領の莫大な費用を要する造営事業についてはここでは論じない。官位秩序の社会的浸透という観点では任官・叙爵を目的とする地下官人の成功が重要である。元暦元年(1184)の後鳥羽天皇の即位式は源平争乱(治承・寿永の内乱)により国宛が滞ったため、経費は全て成功でまかなわれた。成功が多用されるとともに、12世紀には功を成しても容易に希望する官職に任官できない状況が生じていたが、この時は成功希望者の要求で、朝廷は経費進納者を任じる臨時除目を実施している(註58)。朝廷は経費確保の必要性から地下官人の成功を採用せざるをえなかったのである。

 地下官人はあらかじめ申文で希望官職を申請する。成功の補任対象は既に形骸化していた六位以下に対応する諸官司の三等官・四等官であったが、富を持つ有力者は競って成功に応じたとみられている。武官、とりわけ左右衛門尉、左右兵衛尉、左右馬允、近衛将監あるいは内舎人の任官希望者が殺到した。衛門尉として任官しても検非違使と活動できるわけでも官職に伴う所得があるわけでもない。官職は形骸化しても身分の標識として価値があったのである。また従五位下も成功による補任対象になっており身分標識として特別な意味を持った(註59)。
 鎌倉時代に公事用途調達はますます成功に依存するようになった。もっとも寛元四年の後深草天皇の大嘗会は全て諸国調進でまかなわれている。しかし即位式になると三分の一が幕府からの進納に依存している。また恒例公事用途をみてみると、「賀茂祭」の調進物修理物についての成功の額について土御門天皇の建仁元年(1201)に九千疋だったものが、四条天皇の嘉禎時(1235頃)には五万疋、後深草天皇の宝治時(1247頃)になると十三万疋というように、成功への依存度を増している。そうしたことで後嵯峨天皇は公事用途の経費を見直すため成功の停止といった抜本的改革に意欲を持ち、慣例を破って鬼間議定に出御され、実務的中級貴族から直接意見を聴取したが(註60)、結局抜本改革にはならなかった。
 地下官人の成功は官職のインフレ状況を惹起させ健全な財政の在り方とはいえないかもしれない。しかしこのことが、大夫(従五位下)や衛門尉、兵衛尉といった官職を在地に浸透させたことは社会史的に重大な意義がある。地方名士クラスにおいてはステータスであり、それは、支配者階層の末端に連なることを意味した。
 鎌倉後期より宮座が形成され、村落上層民は官途を有し、惣村という法人組織から大夫、衛門、兵衛などの身分標識が付与されていた。むろんそれは朝廷の補任ではなく、惣村が独自に付与するものであるが、上島亨は官位秩序が惣村の身分規範とされたことから、社会に広く浸透したことを重視している(註61)。要するに惣村の自治組織は朝廷の叙位除目を模倣して衛門・兵衛をいった官途を付与して身分規範としたということです。

秀吉や家康といった天下人といえども官位秩序に代わる身分構成原理を創出できなかったのは、中世王権が民衆を基盤にして深く社会に浸透したためであり、江戸時代の町人・百姓の通称「太郎衛門」とか「次郎兵衛」も王権の民衆への浸透の結果である。
 明治政府の布告(明治三年十一月の国名・旧官名禁止令)で旧官名が禁止されているが、実際には完全に実施されておらず、いつしか沙汰やみになり禁令が終焉したらしい。村落社会には「衛門」を名乗る家筋と、「兵衛」を名乗る家筋というような村法があり、そう簡単に改められるものでもなかったのである。大正初期の総理大臣に山本権兵衛があった。武田薬品の社長は武田長兵衛を襲名することになっていた。デパートの松坂屋の伊藤家も次郎左衛門の名を継ぐのがしきたりで、今日でもこうした例は格別珍しくない。もっとも明治政府の布告の趣旨もそれなりに浸透していったようで、四郎右衛門はたんに四郎、武右衛門は武一、庄兵衛は庄七、源助は源作というように、旧官職名をつけない命名が広まっていったことも事実である(註62)。つまり旧官名禁止令は名前の近代化を促したとみてもよいが、しかしながら現代においても「ドラえもん」や「ホリエモン」というニックネームが存在する。
 「ドラえもん」を見ている多くの子どもは天皇を警護する官人である衛門尉に由来するということは知らないかもしれない。しかしこうした官名がこれほど民衆に根付いていたのに、江戸時代以前の多くの民衆が天皇の存在すら知らなかったというそんなばかなことはないはずだ。
 
 近世朝廷と社会諸階層

 江戸時代の朝廷の社会諸階層への深い関わりについては既に女帝即位絶対反対論の第1回で宮地正人の著作(註63)から引用し言及していることだが、繰り返し述べます。
 医師や絵師は、朝廷から法印・法眼・法橋という位階をもらうことによって組織され、典薬頭に半井・今大路両家、絵師は狩野・土佐両家を頂点としてピラミッド型に組織された。
 神職は白川家との関係をつけるか、基本的には吉田家の神道裁許状と受領名をもらうことが身分を確定し、社会的プレステージを高める決定的要件であった。中世末から戦国期は守護大名クラスが神職補任状を出していたが、幕府の統制によって、寛文年中までに朝廷による神職への徹底した官位授与制になったのだという。このような身分制を維持するために、神道では吉田家や白川家は江戸出張所をはじめとして全国各地に役所や諸機関を設置して、各地域の身分行政を寺社奉行と協同で担当していた。
 暦道・天文道・陰陽道は土御門家が支配し、盲人は中世より検校・別当・勾当・座頭の四階層に分かれ、座的な支配をおこなっていたが、座頭から検校にあがるのに七一九両の「官金」を要するところの久我家を本所とする官職補任システムがあった。全国ほとんどの鋳物師は禁裏蔵人所真継家の支配をうけていて、鋳物師代替わりに上京して継目の許状をうけ、天皇即位のときは上京して祝儀勤仕をおこなっていたが、朝廷との関係は鋳物師だけでなく、職人層全体がふかく受領・位階を朝廷よりうけることによって社会的プレステージを高めていた。
 浄土宗は増上寺の上申をえた宮門跡寺の知恩院が朝廷から僧綱、上人号、紫衣勅許をもらい、真言宗では宮門跡寺の仁和寺・大覚寺両寺をへて僧綱が勅許され、曹洞宗は永平寺から寺社伝奏の勧修寺家を仲介として勅許をえていた。修験は宮門跡の聖護院、摂家門跡醍醐寺三宝院が支配する仕組みであった。このようにすべての宗派の本寺・末寺関係の上下関係と統制は、朝廷の存在が前提となっていた。

 江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、明和八年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても二百万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政十三年の場合は、約五百万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せている(註64)。
 
 だから、高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった」なんてそんなばかなことはないです。あまりにも軽薄すぎる。だから伝統なんて無視していいんだみたいな物言いは暴言というほかない。ところが、元東大学長以下の有識者会議がこういういいかげんな人の意見を採用し追随しようとしているわけです。こんな異常なことまかりとおってよいのですかと訴えたいです。

(註54)大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島亨・米谷匡史ほか『日本の歴史第08巻 古代天皇制を考える』の上島亨「第六章中世王権の創出と院政」
(註55))京大日本史辞典編纂会『新編日本史辞典』東京創元社1990「一国平均役」(棚橋光雄)
(註56)上島亨 前掲書 280~281頁
(註57)上島亨「成功制の展開」『史林』75巻4号1992-7
(註58)上島亨 前掲論文 106頁以下
(註59)上島亨註54「第六章中世王権の創出と院政」281頁以下
(註60)白川哲郎「鎌倉期王朝国家の政治機構-公事用途調達を素材とした基礎的考察」『日本史研究』347号1991-7
(註61)上島亨註54「第六章中世王権の創出と院政」285頁以下
(註62) 井戸田博史『『家』に探る苗字と名前』雄山閣出版1984 115頁以下
(註63)宮地正人『天皇制の政治史的研究』校倉書房 1981 25~54頁
(註64)山口千代己「多くの民衆伊勢へ「おかげまいり」」
http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/BUNKA/mieb0239.ht

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