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2005年11月の7件の記事

2005/11/23

女帝反対論批判の反論(その4)

 宮門跡還俗による伏見宮系宮家の創設の意義
 
 幕末維新期から伏見宮系宮家の創設が相次ぐが、その経過について『神社新報』の「皇室典範改正問題と神道人の課題(第七回)」(平成17年9月5日)に詳しいので適宜引用・要約して記す。
 幕末動乱期、徳川慶喜・島津久光などの「公武合体派」の要請で文久三年(1862)二月青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王となる(後に賀陽宮、久邇宮に改称)。同年十二月には、徳川慶喜・松平慶永・松平容保・伊達宗城・島津久光が連署して書を朝廷に上り勧修寺宮済範親王の還俗を請ふた。文久四年(1863)正月に山階宮晃親王となり両親王は国事に参与された。晃親王は宮門跡制度の廃止を主張し、慶応になると岩倉具視などの公家からも続々と宮門跡還俗論が出て明治初年以降、続々と宮門跡還俗による宮家が創設されたが、それらは伏見宮系である。これは維新政府の「神仏分離政策」に先行するもので、「皇室の神仏分離」を促す結果になった。明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている。
 また継嗣のいなくなった閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承された。明治以後桂宮・有栖川宮両家は断絶したため、終戦の時点で十一宮家はすべて伏見宮系である。戦前は宮家が多すぎたという人もいるが、現実に「皇位継承資格者」が枯渇状況になってしまっている以上、宮家は多すぎたなどといえない。
 以上の歴史的経過をみると、宮門跡還俗による宮家創設政策の原点が文久三年の徳川慶喜の正月十日の奏請にあることがわかる。「是迄皇胤之御方々夫々御法体被為成来候御事何共恐入候事二付此後之処ハ御法体無之親王二被為立候様有之度事」「青蓮院宮御儀方今皇国之御為厚御憂慮被為在候趣殊二乍憚御英敏之御事共兼々承リ候事二御座候間何卒御還俗有之万機御相談ヲモ被下ハ、至極之御事ニテ於関東モ怡悦可被到存候」と奏請。
 幕末維新期に宮門跡の還俗や、制度それ自体の廃止がぶちあげられたのは革新的なことである。これは政治的理由によるものであって、新井白石の献策のように皇位継承候補の確保という意味ではないようだが、結果論として伏見宮系の宮家がこれだけ多く創設されたということで、ある意味では徳川慶喜を評価してよいのかもしれない。
 

 持明院統文庫の伏見宮家相続の意義

 私は、10月3日ブログで、持明院統文庫の相続について松薗斉の『日記の家』吉川弘文館1997に依って、「文安三年の貞成親王による宮家を継承した子息貞常親王への譲状によると、御記(代々天皇の日記)だけが、禁裏(後花園)に進められたが、その他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示している」(一部字句訂正)と書きました。10月16日ブログでも、「松薗斉は家記の継承を軸にした家継承を論じ、同氏の見解では持明院統の家記を失った(後花園天皇が継承されたため)貞常親王が継承した家、つまり伏見宮家とは貞成の「看聞御記」を「支證」とする「日記の家」だから、太上天皇後崇光院を「曩祖」とするという見解である」と書きました。松薗斉の見解では、持明院統文庫は、御記が禁裏に、その他の文書は伏見宮家で分割相続されたということになってますが、少し松薗斉の見解に引きづられたことを後悔してます。不勉強で恐縮しますが、それとニュアンスがかなり異なる見解があるの最近知りました。
 飯倉晴武(奥羽大学教授・元宮内庁書陵部主席研究官)の『日本中世の政治と史料』吉川弘文館2003、「中・近世公家文庫の内容と伝来」の243頁以下です。
「崇光天皇の曾孫後花園天皇が皇位を継承しました‥‥ところが持明院統に伝わる皇室文庫は伏見宮の方に残されたままでした。これは後花園が称光の父後小松天皇の猶子として即位したのが原因かもしれません。後小松はあくまでも後光厳院流が皇位を継承するのだといって、崇光院流と対立姿勢をしめしたので、後花園の父貞成親王が第二皇子に文庫を譲って伏見宮を存続させ」と述べておられます。持明院統文庫、つまり文和三・四年の「仙洞御文書目録」(仙洞とは光厳上皇をさす)と、応永年間の「即成院預置伏見宮所蔵目録」「大光明寺預置目録」(後崇光院貞成親王が伏見の寺に預け置いていたものを点検した時の目録)はあくまでも貞成親王の第二皇子に譲られ、伏見宮家の所蔵として代々伝えられた。明治五年(1872)に伏見宮家より『看聞御記』が太政官文庫に献納され(のちに御物となる)、同時にそれより同七年にかけて、宮家の命によって家従の浦野直輝が宮家蔵の古記録・古文書を書写し、目録を含めて八十八冊とし、『伏見宮記録文書』と題した。現在、宮内庁書陵部の所蔵となっている(『国史大辞典』-伏見宮記録文書)。さらに昭和二十五年頃、宮家の臣籍降下により、経済的理由で蔵書を全て手離さざるを得ず、伏見宮家にあった原本・写本の一切を国費で宮内庁書陵部が買い上げ国のものになっている。788部1666点ともいわれる。
 飯倉氏は伏見宮旧蔵本の価値の高いことを述べてます。質・量とも最高のものです。「書陵部に伏見宮家旧蔵本というのがたくさんございます。伏見宮旧蔵の記録類はですね。たとえば『水左記』の平安時代の原本が含まれていたり、あるいは鎌倉時代の写しになります『小右記』『中右記』『平戸記』という著名な現在伝えられている古記録のもっとも古いといわれている写本がほとんど伏見宮旧蔵の本でございます。‥‥」。「で、この伏見宮家の文書のなかには伏見天皇の日記や『花園天皇日記』『花園天皇宸記』として有名ですが、そういう持明院統の天皇の日記も入っております〔この点は松薗斉と見解が異なるように思う〕。この時の目録にはみえないけれども、持明院統の正統はこちらだということを暗に主張していたと思うわけです。その後、天皇家が記録を取り戻すのはいつかというと‥‥(江戸時代には四親王家となり)伏見宮家という宮家の存在が薄くなったかにみえます。でも実際には皇位の正統を伝えるべくこういう皇室の記録文書は伏見宮家にある。天皇家としてはそういう記録文書を備えていなければ、他の公家がそれぞれの記録文書を持っているのと同じように、天皇家として成り立たなかった状況があったと思うんですね。‥‥そこで江戸時代朝儀が復活されるころにあわせて‥‥後西天皇が記録類の筆写をはじめます。もちろん自分でやるのではなく、公家たちを動員してやるのですけれども、それが東山御文庫といわれるものですね。‥‥記録類をもつというのはその家の、とくに近世にはいってから非常に大事なことされ、後西天皇、霊元天皇、東山天皇、その後も引き続き文庫の維持、作成に力を尽くすのですけれども、たくさん写本を作り出してます。どういう写本かといいますと、やはりですね近世の公家が写したように『小右記』『中右記』『権記』『平戸記』等伏見宮家で持っているものと同じものの写本を作り出していきます。‥‥内容について、秘密にするものだとか、大変なものが書かれているとか、そういうものはないんですね。ありきたりの各公家が持っている古記録のの写本と同じです。」(飯倉前掲書「古記録について」223~228頁)
 飯倉氏の説明で、伏見宮旧蔵本と東山御文庫で、『小右記』など同じものを備えているとしてもはどちらの価値が高いかは明白です。伏見宮旧蔵本は、原本が伝えられてない史料は最も古い鎌倉時代の写本が伝えられているし、『水左記』のように原本もある。東山御文庫は江戸時代中頃の収書・写本にすぎないんです。
 要するに公家であれば嫡流の家に伝えられるべき重要な記録類が、皇室でなく伏見宮家に伝えられていた。伏見宮家が終戦後までそれを手離してないというのは、持明院統文庫、その蔵書がステータスシンボルであり、正統の王統であることの証明でもあるからですが、皇室のほうは朝幕関係が安定した時期に独自に東山御文庫を作り出すしかなかったわけです。
 このことからも伏見宮家が家系と家格にたいする矜持が極めて高いことが理解できるし、いわゆる分家じゃないんです。むしろこっちが正嫡系という主張すらできる可能性がある。というのは、飯倉氏も若干説明されているように、彦仁王(後花園天皇)は後小松上皇の猶子として、あくまでも後光厳院流を継承したことになっている(註1)。後花園は血筋としては崇光院流ですが、あくまでも後光厳院流の猶子、したがって持明院統正嫡たる崇光院流が皇位を回復したと、実態としてはそういえるかもしれないが、形式にこだわれば系譜上はそうではないといえる。
 人類学では、社会学的父と生物学的父を分けて理論化するわけですが、この趣旨からすると後花園の生物学的父は後崇光院伏見宮貞成親王だが、社会学的父はあくまでも後小松上皇。現在の皇室の皇統は、あくまでも、持明院統傍系(庶流)の後光厳院流である見方もできるのだ。後小松上皇の遺詔により、ねじれは今日でも解消していないという解釈もできる。後光厳天皇即位の事情については9月25日ブログ女帝即位絶対反対論第12回の終わりのほうで説明してますのでみてください。また、光厳上皇はあくまでも正嫡は崇光系として、後光厳は傍系としか認めていないことについては10月10日ブログで飯倉晴武を引用(飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 202頁)している部分でふれているのでみてください。
 後花園の実父、後崇光院伏見宮貞成親王は太上天皇尊号をうけてますが、辞退していて、足利義教が後小松上皇の仙洞御所を解体して建設した京都の伏見殿が仙洞御所になったわけではない。そういう事情から貞常親王が貞成親王から相続した伏見殿は持明院統正嫡たる崇光院流の分派とはいえず、崇光院流の少なくとも正統的系統とはいえる。極論かもしれないが、もう一度伏見宮系に皇位が継承されて、今度は実父が太上天皇尊号を辞退しないということで、真に持明院統正嫡が皇位を回復するという解釈も可能なのである。このへんの歴史的脈絡は伏見宮に有利にいかようにでも解釈できるわけで、少なくとも皇室の系統と双璧をなす王統であるといってよい。
 要するに、私は伏見宮系に皇位継承の正統性があることを述べたいわけです。皇室が内親王だけで後嗣に恵まれないとすれば、規範性、歴史的脈絡からみて、伏見宮系が大統を継がせしめられて全く当然であると考えます。こういう事情は皇太子殿下が中世史の専門家ですから、私のような素人がとやかくいうまでもなく、よく御存知のはずです。

 結 論

 まだまだ反論は続きますが、あす11月24日皇室典範に関する有識者会議の答申が出されるということで結論的なことを述べておきたいと思います。
 私は、女性天皇は認めるが女系天皇(易姓革命)に反対という見解にも反対します。現今の女帝論議は、生涯非婚独身ということが前提になってないし、仮に生涯独身を前提としても女性天皇に反対であることは9月19日ブログ(女帝絶対反対第9回の孝謙女帝論で有る程度言及しているのでみてください。それから中川八洋氏『皇統断絶』(ビジネス社2005)のいうように「愛子皇后陛下」のみ皇統を救うという立論にも全面的には賛同しないことにします。私も以前は、継体天皇、光仁天皇、光格天皇の先例からそういう考えももっていましたが、根性の腐ったエスタブリッシュメント(ここでは政府官僚や有識者をさす)があまりにも敬宮びいきのため不愉快なので考えを改めざるをえなくなった。
 元東大学長や東大名誉教授、元最高裁判事、元国連高官、元官僚など、あなたのような下世話な人間とは比べものにならない高名な超一流の方々が議論を尽くしたのだから、これはエスタブリッシュメントの結論ですから、おとなしく従うのが義務とかいって、国会議員も国民も敬宮びいきになれと言ってくるかもしれませんが、易姓革命容認-日本国号を改めなければならないという無茶苦茶な結論なのに議論は紛糾もしないし、抗議のため辞任するような硬骨漢もいないんです。そういうことならますます反発します。
 ということで、敬宮は紀宮と同じように天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。皇族にとどまるなら伝統に従って非婚内親王を貫くべき。皇位継承は皇太子-秋篠宮-伏見宮系の順が望ましいと思います(むろん皇孫男子誕生なら話は別ですが)。伏見宮系に21-22世紀の日本の未来を托しましょう。秋篠宮立皇太弟なら宮様の面目を潰すこともないし、時間的にも余裕がある。それまでに旧皇族は属籍を復され、皇族としての活動を通じ、広く国民に認知されていただくようにすればよいと思います。
 ところで、『神社新報』の平成17年8月29日号「皇室典範改正問題と神道人の課題第六回」十一宮家皇籍離脱の経緯について解説を読みましたが、適宜引用・要約すると、昭和二十年十一月十一日東久邇宮稔彦王は、敗戦の責任から皇族の殊遇を拝辞する旨を表明したが、皇族全体としては閑院宮春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と反対が大勢を占めた。しかし、十二月九日梨本宮守正王が戦犯に指名され、戦争責任追及の手は、皇族でも免れ得ないこととなり、加藤進宮内次官(のち宮内府次長)が先手を打ち三直宮以外の皇族方が、自ら皇籍を離れることを陛下にお許し戴くべく奔走したというのである。(それは、天皇とお直宮を守るために必要と認識されたということらしい)
 この問題に関して重臣会議の席上では鈴木貫太郎元首相等から、皇后の御実家の久邇宮や、明治天皇の皇女が嫁がれている宮家は残してはどうかといふ意見や皇位継承者確保の不安が示されたが加藤は「非常にその点は心配です。しかし皇太子殿下もいずれご結婚あそばせるでしょうし、三笠宮殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います」と説いて了承を得たのだという。加藤は「離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇位典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから‥‥「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』とも申し上げました」とも述懐してゐる(「戦後日本の出発-元宮内次官の証言『祖国と青年』第71号昭和59年)とのことです。
 要するに皇室への戦争責任の防止策としてやむを得ざる状況下の皇籍離脱だったということですが、当事者の間では万が一の皇位継承の可能性は否定されていなかった。皇位継承権を持っていると宮内次官が述べているのです。

川西正彦(平成17年11月23日)

つづく

(註1))『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」
横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 319頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

2005/11/20

女帝反対論批判の反論(その3)

伏見宮の実系相続維持の意義と他の世襲親王家との違い

川西正彦(平成17年11月20日)
  
 宝暦九年(1759)五月伏見殿第十六代邦忠親王(桜町天皇猶子)は継嗣となる王子なく薨去された。武部敏夫(「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960)に大幅に依存するが重要な事柄なので引用すると、「伏見宮では同年五月発喪に先立ち一書を朝廷に上って、同宮相続のことを願い出られた‥‥大納言広橋兼胤の日記に
 「邦忠親王無息男、相続之事去月廿五日附書於勾当内侍請天裁、其趣崇光院巳来実子連続之間、不断絶系統相続之事被冀申云々、家系無比類之由含後崇光院道欽之述椿葉記之趣意於心底被望申云々」(八塊記 宝暦九・六・二条)
とあり、その趣旨は伏見宮は崇光天皇の嫡流で、皇統にとって格別由緒ある家柄であるから、実系の断絶することのないよう血脈に当る者を以て相続せしめられたいと云うにあった(椿葉記の趣旨に言及されていることが印象的だ-武部論文43頁)。
 この情願に対して桃園天皇は即日関白近衛内前始め、摂家の大臣以上を召してその措置を勅問したが、廟議は一決せず、伏見宮相続のことは幕府の奉答に委ねられることとなった。
 問題は、邦忠親王の弟宮である勧修寺門跡寛宝親王・青蓮院門跡尊真親王が現存されていたが、既に得度して僧籍にあり、親王家には還俗相続の先例がなかったこと。
 伏見宮家は後花園天皇皇位継承の由緒と十六代も実系を維持し、家系と家格にたいする矜持が極めて高いことから(なぜそれほどまでに矜持が高いのかについては今回と次回で述べる)情願を無視できない。しかし八条宮(のち桂宮)と高松宮(のち有栖川宮)は後嗣に恵まれない場合、しばしば天皇や上皇の皇子が宮家を継承していたことである。廟議が一決しないのは、伏見宮家の由緒から情願を無視できないが、下記のとおり八条宮-常磐井宮-京極宮や高松宮-有栖川宮のように後嗣のない場合は、皇子が遺跡をついでいる先例があり、宮家を実系でも近親とする政策を支持する意見が朝廷内にあったことを示すものとみられている。

(八条宮相続の例)
 八条宮(のち常磐井宮-京極宮-桂宮)は正親町天皇の皇孫で誠仁親王(陽光院贈太上天皇-さねひと)の皇子智仁(としひと)親王を初代とする。親王ははじめ関白豊臣秀吉の猶子となり、秀吉の後継者に擬せられたが、天正十七年(1589)秀吉が宮家創立を奏請し、所領を献じ、八条殿を造進した。後陽成天皇は智仁親王に譲位せられんとしたが、徳川家康が干渉し断念せられ、親王の践祚をみることはなかった。第二代の智忠親王に後嗣がなかったため後水尾皇子の穏仁親王が相続したが、穏仁親王にも後嗣なく、その後は、後西天皇の皇子、長仁親王、尚仁親王、霊元皇子の作宮(常磐井宮と号す)、文仁親王(改号京極宮)に宮家が継承され、光格皇子盛仁親王が第十代を継承して桂宮と称している。

(高松宮-有栖川宮相続の例)
 高松宮は、寛永二年(1625年)後陽成皇子の好仁親王が高松宮の号を賜い、一戸創設を聴されたのに始まる。しかし親王に嗣子がなかったため、後水尾上皇皇子の良仁親王が遺跡を継承されたが、後光明天皇が崩御されると、上皇は良仁親王を践祚させた。後西天皇である。このため宮家は中断したが、後西皇子の幸仁親王を家督に迎え宮家を再興し有栖川宮と号した。その嗣子正仁親王は後嗣に恵まれなかったため、霊元皇子の職仁親王を第五代として宮家を継承した。

 幕府は桃園天皇第二皇子による伏見宮相続を適当とする旨奉答したので、宝暦十年貞行親王の御誕生により、伏見宮家を相続したが、十三年後の明和九年(1772)に貞行親王が薨去されるに及び、朝廷は後桃園天皇の第三皇子に伏見宮を相続せしめると定めた。第一皇子が皇儲、第二皇子が京極宮を相続し、第三皇子が伏見宮相続ということであったが、しかし、当時後桃園天皇は十四歳で第一皇子も誕生していないのである。そこで伏見宮一門は一旦中絶した実系相続の復活を切望し、幕府への工作を行ったことにより、幕府がこの問題に介入し、青蓮院門跡尊真親王か勧修寺門跡寛宝親王の還俗による伏見宮相続を申し入れた。朝廷では尊真親王は天台三門跡の枢要にあるので還俗を認められないとして、勧修寺門跡寛宝親王の還俗により実系相続が復活したのである。
 嘆願・内願工作については、武部敏夫が兼胤公記により明らかにしている(武部論文の55頁註(6))。第十六代邦忠親王・勧修寺門跡寛宝親王の妹の貞子女王(権中納言源重好卿室)は田安宗武の後室法蓮院(近衛内前の姉)を介して、摂政近衛内前に内願し、貞子女王と親密だった幕府大奥年寄松島も法蓮院を介して内願を行っている。しかし決定打は幕府の方針であり、当時は将軍家治、田沼意次の権勢期であるが、伏見宮実系相続に尽力したことで大奥年寄松島の政治力を高く評価しなければならないと思う。伏見宮切り捨て論に与して、女性天皇を企てる、首相以下の政治家や政府官僚、有識者なんかよりはるかにましだ。大奥年寄は正しい政治判断をとっていたのである。
 この政治判断は妥当である。桃園皇弟貞行親王の場合は、もしもの場合、間違いなく第一候補となりうるので伏見宮としてもメリットはある。しかし、誕生の可能性すらはっきりしない三宮の相続に反発するのは当然のことで、豊臣秀吉との関係で創設された八条宮の系統である京極宮が既に第二皇子が相続することになっていて、これでは伏見宮一門ののプライドを傷つけるものであり、先々代の弟宮の還俗相続は当然と考える。伏見宮家は、家系と家格にたいする矜持が極めて高い。康正二年(1456)十月に後花園天皇の叡慮により皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとした(『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これはその後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたのである。それゆえの実系相続のこだわりであり、その権利も有すると解釈できる。というのも、こうした由緒が、豊臣秀吉との関係で創設された八条宮、あるいは有栖川宮や幕府の協力により創設された閑院宮とは違う。

  武部敏夫が野宮定基卿記を引用して(武部論文53頁)、そもそも世襲親王家(定親王)なる家格も伏見宮にのみに与えられた格別の待遇であったとの見解があったことを述べているので引用する。
「有栖川正仁親王の親王宣下〔後西天皇孫、宝永五年1708〕に関連して『夫親王者天子之子也(中略)往昔正中(マゝ)皇統将絶 、仍大通院(マゝ)親王御子有登極之事、称之後花園院、依此賞伏見殿一流為親王、仍代々主上有養子之儀、然近世智忠親王三世而為親王、不知其故、其無謂事也、今又有栖川一流如此、然則伏見宮別儀無其詮歟』(宝永五・九・廿五条)とあり、後花園天皇の皇統継承の由緒によって伏見宮の家格を別格と考えているのである」

この見解は、令制では諸王の班位である八条宮第二代の智忠親王、有栖川正仁親王の親王宣下、それ自体、必然性はないということをいっているようで、しかし伏見宮は格別の待遇とされ、伏見殿一流は代々主上の養子として親王宣下される家格であるということである。

 しかし他の親王家にそれほどの由緒はなく、実系の連続性がなくてもさほど問題にならないから、八条宮は、常磐井宮、京極宮、桂宮と改号してます。高松宮も有栖川宮と改号しています。
 
 室町時代より、皇室も日本的家制度にある程度類似した在り方、公家社会も同様ですが、原則的に限嗣相続になってます。皇室領が縮小していますから、分割相続も不可能、皇儲の一皇子だけが原則として在俗で親王宣下、宮家が創設されるのは特別の場合だけで、それ以外の皇子は原則として仏門に入っている。宮家に後嗣がなければ皇子が、仏門に入らないで、宮家を継承しているわけです。これは令制の皇親制度や近代の皇室典範の在り方とは違いますから、世襲宮家というのは必ずしも天皇の近親ということにはならないシステムです。宮家が固定化すると、仏門に入った皇子のほうが天皇の近親ということになる。それでも、もしもの場合、還俗して皇位継承というのはあまり考えられない。血縁関係では入道親王より遠くても、やはり宮家の在俗親王が皇位を継承するものと理解してよいのだから、近い、遠いは関係ない。
 そもそも、鎌倉時代に後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)に分裂した一つの要因として、前者が長講堂領・法金剛院領を基幹所領とし、後者が旧八条院領を基幹所領として、皇室領をおよそ折半するかたちで分割相続している点についても着目しておきたい。鳥羽院政期以後、院や女院の御願寺に荘園が集積したなかで、巨大所領群としては鳥羽上皇-美福門院(鳥羽妻后・近衛生母)-八条院(鳥羽皇女・近衛実母姉・二条准母)-仙華門院(後鳥羽皇女)-後鳥羽上皇-安嘉門院(後高倉皇女・後堀河皇姉准母)と伝領された旧八条院領と、待賢門院(鳥羽妻后・崇徳・後白河生母)-上西門院(鳥羽皇女・後白河実母姉)-後白河上皇に伝わった待賢門院領なかんずく中核所領である法金剛院領と後白河の長講堂院領を相続した宣陽門院(後白河皇女)領という、異なる系列の巨大所領群が形成されていた。だから、皇統が分裂する素地は、既に鳥羽院の嫡妻同時に三方並び立つ近衛朝からあったと私は考える。
 しかし南北朝動乱と応仁の乱で巨大な皇室所領群は解体過程を辿ったのであり、室町時代以後は経済的基盤が乏しく分割相続は不可能、少なくとも後花園天皇以後、皇統が分裂することも争うこともほとんどなくなったのであり、その代わり、世襲親王家というかたちで、皇親を形成した。それが令制の皇親概念と近代の皇室典範の皇族概念と違うから理解できないというのは、中世・近世史を軽くみすぎている。古代史研究者で令制の皇親概念にこだわる人がいますが、それは近視眼的だと思う。ある意味で世襲親王家は限嗣相続を前提としたすぐれたシステムである。経済的基盤が乏しくても王権を維持できるすぐれたシステムであると思う。両統迭立だと皇位継承問題で紛糾するが、そういうこともない。後鳥羽上皇が土御門天皇を疎んじて、皇弟の順徳天皇を即位させたり、亀山法皇が末子の恒明親王鍾愛のあまり正嫡に定め、後宇多-後二条の子孫に皇位継承をあきらめさせるみたいな、紛争要因になりかねないようなことはなくなったわけです。だからわかりやすいシステムです。伏見宮は皇室の系統と双璧をなすのに、両統迭立みたいなことをいっさい要求することもなく皇室の藩屏として皇族の崇班を継承してきた。後花園以後皇位を継承しておらず、実系相続を維持したがために、軽くみられるという性質のものではないと思います。
 伏見宮は格別の待遇であるから、世襲親王家として改号することもなく、少なくとも明治二十二年(一八八九)の皇室典範制定まで一貫している(皇室典範の制定により親王宣下はなくなったが、幕末維新期に宮門跡の還俗政策が推進され、皇室の神仏分離が促されたこともあり、幕末維新期以後、宮門跡の還俗などで多くの伏見宮系宮家が創設されているから、実質的には、皇統の備えとしての意義は拡張されているわけである)。
  のみならず「明治天皇は光格天皇の時のような危機から皇室存続を守るため 皇女4人を遠縁の宮家に嫁がせ昭和天皇もそうなされた。 不幸にも伏見宮系はGHQの命令で皇籍離脱させられたが 現皇統と双璧をなす皇統だった 」(2ちゃんねるニュース速報+【皇室】「女性天皇容認」で、全会一致…皇室典範有識者会議★8 の573の匿名の投稿)という意見があるように、明治天皇や昭和天皇の婚姻政策もあり、この点については有識者会議の5月31日のヒアリングで大原康男(國學院大教授)が「これらの宮家は500 年ほども前の伏見宮家から分かれた遠い血統の方々であるという説明です。しかし、そのうち、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の4宮家は明治天皇の4人の内親王様が嫁がれておられます。つまり、明治天皇のお血筋を引いておられるわけで」と述べておられるとおりです。もっとも私は、女系で現皇室と近親であることは決定的な意味はなく、端的にその由緒と歴史から伏見宮系が現皇室の皇統と双璧をなす正統的王統であり、令制の諸王の班位とは明確に違うということを重視したいと思います。

  つづく

  引用参考文献
橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館「皇統の歴史」18頁以下
宮内庁書陵部編纂 『皇室制度史料. 皇族 4』吉川弘文館1986 44頁以下「四親王家の成立と展開」
 
 
補説
 近い遠いは関係ないひとつの理由、近代皇室典範の長系・嫡系・近親優先主義と歴史的経過は異なることを理解すべきだ。

 

 基本的に令制の公的家というのは個人的処遇であり、すなわち三位以上(のちに五位以上に拡大)の官人は公的家政機関である「家」の設置が認められ、家令以下の職員が官から任命されるとともに位禄などの給与物が家政機関によって運営され、家政機関それ自体は世襲ではない。

 親王の家政機関は令制本来の在り方では、所属の職員には親王には特に、文学・家令・扶・従などがあり文学は経書を教授する教育係が附く(内親王には附かない)。このほか帳内という近侍して雑用に当たる者が、一品親王なら百六十人、品位によって差等がある。平安中期以後になると、家令・扶の号は廃れて、摂関家のように別当・家司が附属し、政所で事務を執った。親王の家政機関は本来、個人的処遇であって世襲ではない。
 しかし令制の収取体系、禄制、国家的給与は崩壊し、所領を相続できる皇親、王氏以外、諸王の班位では王統を維持することは不可能になった。管領所領を相続できなければ、在俗の立親王というのは原則的にはありえなくなったともいえます。とりわけ室町時代以降は、親王宣下(在俗)がきわめて限定されるわけです。 室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となっており、経済的基盤の制約もあり親王家の新立は容易に認められない。10月16日ブログでも述べたとおり、武部敏夫(本文冒頭記載の論文)によれば、世襲親王家は元来、皇子その他皇親に対する個人的な待遇として行われた親王宣下とは性格が異なり、家系に対する優遇に転用せられ、一種の家格として慣習的に形成されたとされる見解で、江戸時代に於いては明らかに皇位の継承という観点に立って理解されていた、いかに出家する皇子が多かったか。
 近世初頭の正親町天皇より桜町天皇の御歴代皇子の中、皇儲以外の方の処遇を見ると、親王家を創始された方は後陽成天皇皇子・東山天皇皇子各一方、親王家を継承された方は後水尾天皇皇子一方、後西天皇皇子三方、霊元天皇皇子三方であり、これに対して出家された皇子は後陽成天皇皇子・後水尾天皇皇子各九方、後西天皇皇子七方、霊元天皇皇子十方、東山天皇皇子一方、中御門天皇皇子四方の多数を数えるのである(武部本文冒頭記載論文48頁)。
   近い・遠いは関係ない。明治以後皇族の出家が禁止される前と後では皇親の在り方が基本的に違うんです。明治皇室典範以後皇位継承の長系・嫡系・近親の優先原則は中世・近世には必ずしもあてはまらない。自明ではないです。中世-近世の皇位継承候補の在り方は近代のそれとはがかなり違うということ。室町時代以降、皇室も限嗣相続が原則となり、それは皇室領が南北朝動乱と応仁の乱で解体過程を辿り僅かな禁裏御領と伏見宮家の所領だけに限定してしまったこととがあるのでしょうが、豊臣秀吉が所領を献じて八条宮が創設されるまで、あらたに親王宣下の前提となる経済的基盤はなかったので、戦国時代は皇子御一方だけが在俗親王なのです。江戸時代になっても皇儲以外の皇子は宮家の後嗣がなくて継承する以外出家されるのがほとんどですから、長系・嫡系の皇位継承が無理な場合は世襲親王家となる。出家された皇子が還俗することは考えにくいので、皇位継承候補の控えは世襲親王家であった。令制の親王家は、親王個人に家政機関が附属するし、王朝時代の親王宣下も同じことですが、室町時代以降は、皇儲以外は所領や財産を継承する宮家の継承者に親王宣下されるシステムに変わったということです。だから宮家が固定化すれば、皇室とは遠系になりますが、それでも皇位継承資格者です。そのために歴代天皇・上皇の猶子とされているわけです。この意義を認めないで、遠いから駄目だとか、いうのは大きな勘違いです。
 中世-近世は出家される皇子が多かったことについて、私も独自に調べました。データは次のとおりです。『系図纂要』名著出版1996、新版第1冊下から、後花園天皇から仁孝天皇まで(後陽成の父で贈太上天皇の誠仁親王を含む)の御子を男女別にみていきたいと思います。ここでは簡略化して示し、天皇、親王、内親王、入道親王、比丘尼御所などの諱、名号等はほとんど省略する。法親王でも入道親王でもないが僧籍のケースはその他とする。皇女は内親王宣下がないケースはたんに皇女とする。基本的に皇位継承候補者となるのは在俗の親王で次のデータ、後花園皇子から仁孝皇子までで30%です。入道親王とは、入寺得度に先立ち親王宣下をうける例、法親王は僧籍に入った後親王宣下の例で僧侶たることは同じである。
 
後花園天皇  男1-親王1(後土御門天皇)、 女3-皇女3

後土御門天皇 男4-親王1(後柏原天皇)、入道親王1、法親王1、皇子1、 女6-皇女6

後柏原天皇  男6-親王1(後奈良天皇)、入道親王2、法親王1、皇子1、その他1
        
後奈良天皇  男2-親王1(正親町天皇)、その他1、女5-皇女5

正親町天皇  男1-親王1(陽光院贈太上天皇一品式部卿誠仁親王)、 女3-皇女3

誠仁親王   男6-親王2(後陽成天皇、智仁親王(八条殿-後の桂宮家の初代))、入道親王2、法親王、皇子、女7-皇女7

後陽成天皇  男13-親王2(後水尾天皇、好仁親王(高松殿-後の有栖川宮家の初代))入道親王7(覚深入道親王は在俗時の良仁親王、秀吉意中で五奉行派が推した有力な親王であったが、徳川家康は親王を仁和寺に入室させて皇位の望みを絶ち切った)、法親王2、近衛信尋、一条昭良、女12-内親王2、皇女10

後水尾天皇  男15-親王5(高仁親王(夭折)、後光明天皇、後西院天皇(良仁親王、高松殿を相続するが後光明天皇崩御により、大統を継ぐ)、穏仁親王(八条宮相続-後の桂宮家)、霊元天皇)入道親王9、皇子1、女17-内親王6(明正天皇ほか)、皇女11

明正天皇   非婚独身

後光明天皇  女(内親王)1

後西院天皇  男11-親王3(長仁親王(八条宮相続-後の桂宮)、幸仁親王(高松宮相続、号有栖川宮)、尚仁親王(八条宮相続-後の桂宮)、入道親王7、皇子1、女17-内親王2、皇女15

霊元天皇   男17-親王3(東山天皇、文仁親王(常磐井宮相続改号京極宮-後の桂宮)、職仁親王(有栖川宮相続)、入道親王7、皇子7(第八皇子の作宮は八条宮を相続し、号常磐井宮)、女15-内親王5、皇女10

東山天皇 男6-親王2(中御門天皇、直仁親王(閑院宮初代))入道親王1、皇子3、女4-内親王1、皇女3

中御門天皇  男6-親王1、入道親王4、女8-内親王1、皇女7

桜町天皇   男1-親王1(桃園天皇)、女2-内親王2(盛子内親王、後桜町天皇)

桃園天皇   男(親王)2-後桃園天皇、貞行(さだもち)親王(伏見殿相続、但し早世、伏見殿は入道寛宝親王が還俗邦頼親王に相続され実系に戻る)

後桜町天皇  非婚独身

後桃園天皇  女(内親王)1-欣子内親王(光格妻后)

光格天皇(閑院宮典仁親王王子、親王宣下なし) 男7-5(礼仁親王、温仁親王、仁孝天皇、盛仁親王(桂宮相続)、悦仁親王)、皇子2、 女10-内親王1、皇女1

仁孝天皇   男7-親王3(安仁親王、孝明天皇、節仁親王)、皇子4、女8-内親王1、皇女7  

 
 

2005/11/19

女帝反対論批判の反論(その2)

  Sapporo Lifeの「女帝容認問題」によると「そもそも旧宮家の復活を前提にしている女性天皇反対論は支持の拡がりは難しい。皇室の知識のない人だと、戦後に皇籍離脱した宮家は昭和天皇の再従兄弟ぐらいの関係ぐらいな感覚の人もいるが、旧宮家の存在が注目され、旧宮家が南北朝時代の崇光天皇を祖とした分家という縁戚だと知られるようになり、かえって旧宮家復活の期待はトーンダウンしたように思える」という。旧宮家と現在の皇室が系図のうえで、南北朝時代(正確にいえば後崇光院貞成親王が共通の父祖であるから室町時代である)にまで遡ることから、支持を得にくいとの見解を示し、伏見宮系を軽くみていますが、このブログへ反論するとともに、10月3日10月23日ブログ「高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回) 」の続編として以下述べたいと思います。
 もっともSapporo Lifeは東久邇宮家の復帰案なども示し、私の見解には批判的だが、理解できる部分もあると女帝反対論批判の反論への意見で言っておられるので、女性・女系天皇容認-第一子優先を推奨した高橋紘のような悪質な論者とは明確に違いますから、一緒くたにしては無礼かと思いますが、21日(月)に有識者会議が女性・女系天皇容認・初生子優先皇位継承順という結論でなんらかの発表があるらしい。緊迫した情勢のおり、もう体裁にかまってられませんので、こまぎれになりますが、反論を次々と出していくようにします。

川西正彦(平成17年11月19日)
  
 伏見宮初代の栄仁親王は持明院統正嫡で分家ではないということは10月3日10日16日のブログで既に論じているとおりである。後崇光院より伏見殿を相続した後花園皇弟貞常親王については、後花園天皇が後光厳系の後小松上皇の猶子として、大統を継がせられる一方、貞常親王が後崇光院伏見宮貞成親王から持明院統文庫なども相続したことから、御分かれというよりも正統の王統ととみなしてよいのである。
したがって冒頭の見解は 、旧宮家の由緒を軽くみていて誤った認識である。
 貞常親王は後花園天皇の叡慮で永世伏見殿御所号を許されており、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家が本来の在り方である。明治の皇室典範が、長系・嫡系・近親の優先原則としてため親王号を称さなくなったが、もともと伏見殿は特別の待遇であり、その由緒からみて、現皇室の皇統と双璧ともいえる王統なのであるから、近い遠いは全く関係ないことなので、こういう見解には誤解であることを逐次述べていきたいと思います。

  既に中世の世襲宮家(常磐井宮、木寺宮、伏見宮等)については10月23日ブログで、言及したが、近世四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮-なお、明治維新以前の宮家としては幕末期に国事多難のおり国政に参画して天皇を輔佐するため伏見宮邦家親王の第一王子晃親王が勅旨により山階宮号を、第四皇子朝彦親王が中川宮号を賜っている)について言及していなかったので、今回と次回で概略を述べることとするが、伏見宮は桂宮・有栖川宮等とは性格が基本的に異なるのであって、永世伏見殿御所というように、世襲親王(定親王)家という家格も本来は伏見宮家だけに与えられた格別の待遇であることを述べ、これは令制の皇親概念諸王の班位とは明確に異なるのであるから、高橋紘や有識者会議のように伏見宮系を貶めるような見解に断乎反対することを重ねて述べることとする。 
 
 
  後桃園天皇の継嗣問題と伏見宮
 
 
  安永八年(1779)十月二十九日後桃園天皇(22歳)が崩御になられたとき、皇子はなく、一皇女(一歳の女一宮-のちの中宮欣子内親王)のみだった。また皇弟の貞行親王は伏見宮邦忠親王薨去により後嗣のなかった伏見宮を継承されたが明和九年(1772)に13歳で薨去されている(伏見宮は邦忠親王の弟の勧修寺門跡寛宝親王が還俗して邦頼親王となり実系相続が復活)。
 このため、閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳を急遽、後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定め、十一月二十五日践祚、光格天皇である(閑院宮初代は中御門皇弟直仁親王、宝永七年(1710)幕府が新井白石の献策に基づき、中御門皇弟秀宮に所領として千石を献じたので、中御門天皇が秀宮に新宮家創設を勅許した)。
  不勉強で申し訳ないが、祐宮に決定されるまでの経緯について、私はほとんど調べていないので不明な点が多いのですが、阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの伏見宮總説によると、「邦頼親王の一男 嘉禰宮(のちの貞敬親王)は、安永八年(一七七九)十月、後桃園院の崩御後、後櫻町院と藤原朝臣内前[近衛]によって皇位繼承者として立てられようとしたが、關白藤原朝臣尚實[九條]の議により、典仁親王の六男にして聖護院門跡附弟の祐宮が皇位を嗣ぐこととなった(光格天皇)といわれる」とされ、嘉禰宮(のちの伏見宮貞敬親王)当時四歳が皇位継承候補に浮上したことを述べている。しかも後桜町上皇(女帝)と前太政大臣近衛内前が伏見宮の第一王子を皇嗣に立てようとしていたということだから有力な候補者だったわけである。当時においても、後桃園天皇から十四世代遡って共通の父祖後崇光院伏見宮貞成親王であるからかなりの遠系となるが、伏見宮の別格ともいえる由緒から当然のことながら、候補に浮上したというものとみてよい。

   ここで、よく知られている男系継承論者の八木秀次の立論については若干不満があることを述べる。 八木は 「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」『Voice』2004年9月号で、傍系継承の先例として光格天皇(在位安永八年1779~文化十四年1817)の事例を強調するのである。「 傍系から皇位を継承された方に第百十九代・光格天皇がいらっしゃる。この天皇は傍系の宮家(閑院宮家)の、しかも第六皇子のご出身であった」要するに現在の皇室はもともと傍系だった東山天皇曾孫の祐宮が入って大統を継がせられたのであるから、閑院宮系皇統といってもよい。これは直系に皇女しかなく、後嗣に恵まれなかった場合は傍系皇親が皇位を継承するものだということを言っており、それ自体全く正論である。
また光格天皇の朝儀の復古・復興、御所の復古的造営や天皇号の再興など朝廷の権威回復強化策が高く評価されている。それはそのとおりだ。
 しかし、光格天皇と閑院宮家、宮家創立を献策した新井白石の功績を強調するあまり、後花園天皇の皇統継承の由緒という江戸時代の四親王家のなかでも別格ともいえる世襲親王家伏見宮家というものを相対化してしまう誤った心証を与えていないかということである。そのあたりのフォローが必要だと思うので、以下述べることとする。。

 祐宮の決定については当時の四親王家のなかで創設の新しい閑院宮の王子で、後桃園天皇からみて他の宮家より近親であるということが指摘されている。この点については武部敏夫(註1)が寛延三年(1750)に桜町上皇が桃園天皇以後の皇統に憂慮され、万一の場合の皇嗣として閑院宮直仁親王を定めていたこととも符合するものであるが、しかしながら一方で、伏見宮の第一王子も有力だったのである。
 当時の宮家の状況は、次のとおりである。
○伏見宮 当主 邦頼親王 47歳
       嘉禰宮 4歳(のち貞敬親王)
       佳宮 3歳(のち公澄入道親王)
○京極宮  当主不在(後桃園第二皇子が相続する予定だった)
○有栖川宮 当主 織仁親王 26歳
○閑院宮 当主 典仁親王 47歳
       美仁(はるひと)親王 23歳
       深仁入道親王 21歳  
       公延入道親王 18歳
       寛宮 ?
       真仁入道親王 12歳
       祐宮 9歳 

 久保貴子(註2)によると、上記のうち候補になりえたのは、嘉禰宮(貞敬親王)、美仁親王、 祐宮の3人で、残る5人は仏門に入っていたため候補から外れたという。摂家衆は皇嗣に女一宮をめあわせる考えをもっていたため、既に近衛内前女を妃としていた美仁親王が候補から外され、伏見宮を相続する予定だった嘉禰宮と、閑院宮の王子祐宮に候補者が絞られたが結果的に祐宮と内定したらしい。内定が天皇崩御の前々日の十月二十七日、翌日後桃園天皇の聖慮の趣を聞いて皇嗣が決定したとされるが、実質的には前太政大臣近衛内前と関白九条尚実を中心に議され、後桜町上皇と後桃園生母恭礼門院(皇太后藤原富子-一条兼香女)の了承により内定したものなのだろう。
 嘉禰宮ではなぜよくなかったのか、次回述べる貞行親王薨後、伏見宮を、将来の後桃園第三皇子が相続する方針をとった朝廷と、邦忠親王の弟宮である勧修寺門跡寛宝親王か青蓮院門跡尊真親王の還俗による実系相続復活を強く望む伏見宮一門と確執があったとされる。この問題は伏見宮一門が大奥年寄松島のルートなどによる対幕府工作により、幕府の介入によって実系復活となったのであるが、久保貴子は確執が尾を引いていたのではないだろうかとしている。また、伏見宮邦頼親王が呪詛したという奇っ怪な浮説が流れた。後桃園天皇の発病は「如物怪悩給」と尋常な苦しみ方でなかったことが浮説が流れた要因のようだが、意図的に流されたものかよくわからないが、光格践祚の前日にこの浮説について後桜町上皇が糾明を命じ、近衛内前が邦頼親王を御所に招いて尋問し、親王は返答書を提出されたので、後桜町上皇は収拾を図ろうとされたが、後桃園生母恭礼門院が納得せず、邦頼親王も疑惑を晴らすため、幕府による真偽の糾明を求めた。所司代、京都町奉行の調査では呪詛調伏の事実はないとされ嫌疑は解かれたのである。憶測にすぎないが後桃園生母恭礼門院と伏見宮邦頼親王は感情的に対立していたのかもしれない。
 逆説的にいえば、そういう確執や呪詛調伏の嫌疑のような奇っ怪なことがなければ、理屈からいって伏見宮の第一王子の可能性も高かったという見方をとってよいわけである。

(註1)武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960
(註2)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「後桃園天皇の皇位継承とその死」223頁

つづく

2005/11/17

女帝反対論批判の反論(その1)

   女帝反対論に批判的なブログのトラックバックがありますので、反論します。ただ今回は反論までいきません。意見を述べるにとどめます。
 
  川西正彦(平成17年11月17日)
 
  まずSapporo Lifeの「女帝容認問題」

「そもそも旧宮家の復活を前提にしている女性天皇反対論は支持の拡がりは難しい。皇室の知識のない人だと、戦後に皇籍離脱した宮家は昭和天皇の再従兄弟ぐらいの関係ぐらいな感覚の人もいるが、旧宮家の存在が注目され、旧宮家が南北朝時代の崇光天皇を祖とした分家という縁戚だと知られるようになり、かえって旧宮家復活の期待はトーンダウンしたように思える」、さらに後段で「できるだけ対立を煽らずに落としどころを見つけるべきであろう。 私は基本的には女性天皇容認であるが、あえて男系維持派にアドバイスするならば、以下の3点の条件闘争に変更する以外は支持を得られないであろう。(1)女性天皇を認め、その上で女性天皇の配偶者は皇族(旧宮家を皇籍復帰させる)から選ぶことを不文律とする。(2) 旧皇族のうち内親王、女王と婚姻したもののみ養子として皇籍復帰を認め、皇位継承権を与える。(3)旧皇族のうち昭和天皇の血を引く東久邇宮家のみ復帰を認める。」と述べています。

前段の部分については次回反論することとして、今回は後段の部分について私の意見を述べます。
  (2)と(3)はともかく(1)は事実上、伝統的な皇親内婚の男帝優先規則(9月10日女帝絶対反対論第7回をみてください)に反し、旧皇族を皇配族に貶めようとするプランであり、旧皇族の家系・家格に対する矜持、プライドをかなぐり捨てよと言っているのと同じ。大変失礼なことだと思う。女性当主の入夫という前例のない醜く男性の尊厳を否定する結婚の在り方なので、私が最も嫌悪する考え方で絶対容認できません。
男性の尊厳を毀損する女性当主に絶対反対である。
 
  (1)とほぼ同じことを、女性・女系天皇論者の所功(京都産業大教授)が11月7日の「たかじんのそこまで言って委員会」という関西ローカルの討論番組で発言しています。

「……愛子さまのお相手は、旧皇族や旧華族の方が優先的に対象にされる可能性が多いと思います。皇室に入るにふさわしい、条件に合った人が……」

ブログぼやきくっくりの「たかじん委員会」是か非か“女性・女系”の天皇」でこれを知りました。
   有識者会議座長の吉川弘之の見解は「男性皇族が配偶者を迎えるの本質的には変わらない」夫君選びの困難やその重圧についても、「その問題は(検討)の外」(日経2005年11月8日朝刊38面)とされ、異姓簒奪・易姓革命なんでも有りというスタンスであり、異姓簒奪・易姓革命を合法化、日本国終焉を容認する方針です。所功の考え方は女系天皇容認であるが、男系男子に配偶者を限定して、血筋としての男系を維持し異姓簒奪の懼れという非難をかわそうというものですが、むしろ私は悪質だと思います。

 
 もし、そういう企てがあるなら、旧皇族には安易に所功プランに乗るような間違ったことにはならないようにしていただきたいというのが私の切なる願いです。男系男子は女性天皇につまらない協力などいっさい拒絶すべきだ。所功プランなら、易姓革命でいったん日本国が終焉したほうがまし。
 要するに私は女帝絶対反対論であって、旧皇族男系男子が皇胤一統、万世一系という歴史的皇位継承ルールに則ったものであり、伏見宮系が由緒正しい崇光院流の正統的王統であるという論理から皇位継承資格がある。それが自明という考え方である。皇位継承資格のある者が、我が国の伝統に全く反する皇配殿下に貶められる必要はないし、プライドをかなぐり捨てる必要など全くない。
 皇位継承の正統性で旧皇族が100とすると敬宮愛子内親王はゼロとしか思ってない。現在の状況は皇室に後嗣がない状況と客観的に認識すべきなのであって、なんで政府や国民大衆はそんなに敬宮に肩入れしなければならないの。敬宮に肩入れして国体変更なんていうのはそれこそ、恣意的、政治的といわなければならない。外戚の小和田氏が国家のために輝かしい軍歴なり功績でもあれば話は別だが、私は元国連大使ということしか知りませんが、いったいどういう外交官としての業績があるのか。明正女帝や後桜町女帝のように外戚が徳川将軍家や摂家なら話は別ですが小和田氏の家格では問題にならないと思います。
 首相は通常国会提出の準備をすすめるとしているのだから、独裁者の勘違いの功名心から通常国会提出、強硬突破で国を滅ぼす道を進むことが想定できる。最悪そういう事態になったら、つまらない弥縫策で男系維持みたいなくだらない妥協策には強く反対、最悪、易姓禅譲革命で日本国が終焉しても、正統男性天皇奉戴で真正日本朝再建を目指すべきだと思います。
 いずれにせよ、有識者会議の結論は、女性皇族配偶者の家系、血筋を限定すると言う考え方はとっていない。易姓革命を合法化するというだけで最悪なものです。いかに配偶者選びで男系維持といったって、世間には野望をもっている人はうようよいますよ。息子を皇配殿下にして異姓簒奪、易姓禅譲革命をたくらむ権力者があらわれないとはいえない。
 『週刊女性』2005年11月22日号(49巻45号)に三笠宮寛仁親王殿下の女性天皇容認反対論を批判する「雅子とさま゛困惑"!どーする愛子さまのお婿さん選び」44~45頁という記事がある。寛仁親王殿下のエッセーの要旨を読む限り、女性天皇は初めから選択肢にない。内親王に旧皇族の配偶ということも言っていない。それは女系天皇容認でできるだけ男系維持をという所功の間違いではないか思うのですが、女系反対論の趣旨から旧皇族と結婚という圧力が強くなるという官邸担当記者の見方を載せたうえで、「幼い愛子さまの結婚相手の範囲を今から限定してしまうことがはたして許されるのか?『‥‥結婚相手を選ぶ可能性すらまったくないというのでは、愛子さまがあまりにも可哀想。この種の論議が加熱すれば、雅子妃の回復の妨げにならないかと心配です』」という東宮関係者の話を伝えている。要するに『週刊女性』記事は、女系反対論も、女系容認だが配偶者で男系維持論も雅子妃を悩ませる敵というスタンスである。男系男子にこだわるより自由な配偶者選びが現代的という論旨であるから、易姓革命容認-日本国終焉容認論なんです。だから所功がいかに「旧皇族や旧華族の方が優先的に対象にされる」と言い張っても保証されているとも思えない。いやそうなるといっても、私は保証してもらいたくない。たんに生理学的男系維持論じゃないんだ。女性天皇自体強く反対なのだ。私は旧皇族をたんなる入夫、前例のないプリンスコンソートに貶める事自体大変失礼なことで、けしからんことだから、それだったら易姓革命のほうがまし。絶対反対である。

つづく

2005/11/06

女系天皇容認の皇室典範改正は憲法第二条に反し違憲である

-有識者会議メンバー憲法二条の見解に対する反対意見-第1回-

目次 要旨
   有識者会議のメンバーの見解についての疑問
   園部逸夫の非論理性
   小嶋和司説(世襲=男系継承説)
   フランス王権の王朝形成原理との類比

川西正彦(平成17年11月6日)

要旨   
 
私はこれまで立法政策として女性・女系天皇容認の政府-有識者会議を批判してきたが、憲法問題としても実はかなり疑問である。憲法違反の疑いが濃いということをこの際、言っておこうと思います。
有識者会議の議事要旨をみると、憲法第二条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」は女系を容認しているという勝手な解釈から、憲法に戻って考えるなら女性・女系天皇を容認できるとする見解のメンバーがいますが、世襲の在り方はどのようにでも国会の議決によって改変できるという性格のものでなく、憲法制定時の趣旨からみて、皇室典範を改変とするとしてもそれは王朝に相応しいルールによる継承、前例によるなんらかの根拠のある方法論に限定されるべきものであり、易姓革命、異姓簒奪を合法化するようなかたちの女系継承はもちろん、歴史上前例のある生涯非婚内親王のような例を別として女性継嗣は、憲法二条に違反すると考える。むしろ、憲法制定時の趣旨からみて、世襲規定に合致するのは旧皇族の属籍を復す方法での皇位継承であるということを述べます。
 つまり私は「世襲=男系継承」とする小嶋和司説(註1)に基本的に従うものであります。こういうとそれは多数説ではないとの批判があるかもしれないが、そもそも有識者会議の結論は皇室の歴史・伝統を否定し、事実上易姓禅譲革命を是認するもので、国を滅ぼす第一歩となり、立法政策として最悪の政策なのである。だから反対。それに付け加えて、少なくとも制定史上の事実として、「世襲」の公定英語がdynasticなのである。皇位の継承はdynastic、王朝形成原理を維持するものでなければならないはずである。憲法制定時の趣旨(それはマッカーサーや民政局の意向であった)を尊重するという観点から、それは万世一系の皇位でなければならないので、したがって世襲規定の意味するところは、昭和二十一年七月二五日宮内省が臨時法制調査会小委員会が提出した文書「皇統を男系に限ることは憲法違反となるか」にみられる世襲規定の定義(註2)
「抑も世襲という観念は、伝統的歴史的観念であって、世襲が行なはれる各具体的場合によって内容を異にするものであらうと思はれる。場合によっては血統上の継続すら要件としない世襲の例も存しうるのである。皇位の世襲と云ふ場合の世襲はどんな内容をもつか。典範義解はこれを(一)皇祚を践むは皇胤に限る(二)皇祚を践むは男系に限る(三)皇統は一系にして分裂すべからずことの三点に要約してゐる。さうしてこれは歴史上の一の例外もなくつづいて来た客観的事実にもとづく原則である。世襲といふ観念の内容について他によるべき基準がない以上これによらなければならぬ。さうすれば少なくとも女系といふことは、皇位の世襲の観念に含まれてゐないと云へるであらう」
  が基本的に正しいのであって、ここから女性・女系への皇位継承の拡大という結論は導き出すことはできない。
   
有識者会議のメンバーの見解についての疑問

10月25日の皇室典範の有識者会議の議事要旨に次のような見解がある。

○ 憲法は象徴制と世襲制しか規定していない。「世襲だから当然に男系男子」との議論は、理論的には難しい。現実に125代男系で継承されてきたという事実はあるが、今回、こういう事態に立ち至って、憲法の角度から改めて考えてみると、国民が世襲制の天皇についてどう考えるかというと、男系に固執するよりも、親から子へと、直系で受け継がれることではないか。

  ○ いろいろな思想や確信を持った国民があり、中には、女性や女系に皇位継承資格を拡大することに違和感を持つ方もおられるだろう。しかし、現行の憲法制定時に、象徴と世襲に絞ったことは大きな歴史の変化で、それはそれで国民は受け入れている。憲法との関係では、皇室典範に男系男子と規定する必要はなかったが、それまでの伝統に配慮して男系男子としたもの。それが、今は維持できなくなっているので、憲法に戻って考えるもの。

○ 女系の皇族に皇位継承資格を拡大した場合には、女系天皇の正統性に疑問が生じるとの議論をする方があるが、世襲で皇位が継承され、国民の積極的な支持が得られる限り、正統性に疑義が生じる余地はない。

8月31日の議事要旨にも次のような見解がある
  
○現在の皇室典範では皇位の安定的な継承は難しいということになると、憲法に戻ることになるが、憲法では世襲と規定しているのみであり、男系ということは規定していない。憲法の世襲は血統という意味であり、男系も女系も入る。

筆者は不勉強でメンバーの著書や思想傾向について逐一みているわけでないので、上記の発言がどなたのものか推定できないのですが、全面的に反対です。考え方が根本的に間違ってます。憲法に戻って考えれば、女系容認になるとさかんに言っているメンバーが、そういうことなら、ここで憲法二条の解釈について言及しておきたい。
ところで、チャンネル桜の「闘論!倒論!討論!2005日本よ、今...どうなる皇室典範どうなる女系天皇」いう番組をみましたが、八木秀次が有識者会議は3人(実名をあげないので不明)が議論をリードしていると発言していた。3人が事実上仕切っているというニュアンスだった。なるほど有識者会議の10月25日にもこういう意見があった

○ 皇族女子や女系皇族に皇位継承資格を拡大した場合、例えば、我が国で続いている旧習や伝承、また、日本の伝統的な家族の在り方は家父長制と考えて自らの家庭を維持しているような人々に、影響を与えるのかどうか。この点は、国民の支持という点とどのような関係があるのか。公的な決断が個人に何らかの影響を与えるとしても、決して強制的なものであってはならない。

この見解は良心的なものであり、慎重な意見を述べるメンバーもおられるのである。にもかかわらず、女性天皇・女系天皇で暴走する結論になっている。
3人が誰なのか知りませんが、座長が理工系であること、8人の識者からのヒアリングでの質問者が座長代理園部逸夫の独壇場になっていて、他のメンバーの質問がないこと。園部が皇室法に関する著書があり制度に詳しいことから、会議をリードしている3人のうち1人が園部と推定できる。
 
園部逸夫の非論理性
 
 10月30日でふれていることだが、園部の『皇室法概論』(第一法規2002年)を引いてもう一度批判しておきたい。
「第二条は、歴史的に皇位が世襲によって継承されたことを背景に、天皇の地位は世襲により継承するものを確認的に定めた‥‥憲法第二条「世襲」をこのように確認規定と解すると、「世襲制」から導きかれる規範としては、世襲、世襲制の具体化にあたっては、皇位の世襲の歴史・伝統を尊重すべきということになる。〔ここまではさほど問題はない-ところが〕ただ、この歴史・伝統の尊重が規範内容の一つとなることは否定できないとしても、歴史・伝統によって世襲制の在り方を決定すべきと考えるべきでなく、最終的には国民が世襲制の内容はどのようにあるべきと考えるかにより決定されるべきものであることはいうまでもない。なお、このように皇位の世襲につき歴史・伝統を尊重する立場に立った場合、憲法第二条の世襲が、女系による継承を含むか否かについてどう考えるべきかが問題になる‥‥結論を先に言えば女系を含むと解する」(39~41頁)。
 歴史・伝統を尊重する立場で女系を含むというのである。これは論理矛盾というほかない。肇国以来の万世一系という歴史を重んじる立場をとりながら女系を含むなどということはありえないからである。
 また「第二条は『皇位は世襲のもの』と定めるのみであり、皇位継承資格を男子に限るか否かについては憲法で定めず、法律である皇室典範に委ねたというのが多数説」(317頁)と述べているが、引用されているのは佐藤功説と清宮四郎説だけである。要するに
これは憲法問題でなく立法政策の問題だという解釈である。
 続いて「本書も多数説と同様に解するが‥‥皇位の世襲制を定めた同第二条は皇位継承の伝統を背景としたものであり、そこで定める『世襲』概念は女系を含まず、憲法が皇位継承資格者を男系男子に限っているという説もみられる(例えば小嶋和司「女帝」論議『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』四五頁)。この世襲=男系継承説のように、憲法が皇位を世襲と定めている背景に我が国の歴史及び伝統があることは本書も認めるし‥‥歴史上、皇位が男系で継承されてきたことを否定するものではない。ただそのことをもって同第二条の「世襲」の意味内容をも、男女両方の血統を含むと考えられる一般的な世襲概念を離れ、男系による継承と解さなければならないということではない」(317~318頁)とする。
 ということで憲法第二条の世襲規定には一般的な世襲概念があてはまるとされ、園部が引用しているのが、『広辞苑第五版』の「その家の地位・財産・職業などの嫡系の子孫が代々うけつぐこと」(324頁)なのです。この広辞苑の定義に皇位継承も無理矢理あてはめていいんだというのは不遜な考え方だなと私は思います。皇室の歴史的伝統的脈絡より広辞苑の一般的定義を重んじるなど本末転倒も甚だしい。
 仮に百歩譲って、広辞苑の一般的定義を世襲概念とみなすとしても、日本的家制度(社会慣行としての家族)には女性当主というのはありえないのです。実子であり婿養子であれ、夫が家長継承者・家督相続者で、妻は嫁であれ実娘であれ主婦継承者である。婿養子というのは家長継承者として迎えられるのであって、女性当主というのは家族制度の慣例に反するものです。
 中国では実は、事実上の女系継承として、祖父-孫で父系継承の擬制とする慣行がみられることは戦中の調査などで人類学者にはよく知られていることです。純粋に父系で貫徹している社会ではない。この点では韓国が父系で徹底している社会といえます。だから厳密にいうと中国の社会構造は準父系とみなす学者もいる。これは宗法制度に反するので、事実上の入夫となる男性の社会的立場はありません。
 日本ではそういう慣行はないのです。娘が家産を相続しても当主になるわけではない。婿はあくまでも家長継承者として迎えられる。家督相続者とならない男性の入夫というのは、男性の尊厳を貶めるばかりか、日本の婚姻家族の慣行に反するものです。家長継承者として迎えられるからこそ、婿養子の制度が存続するのであって、たんに労働力、子づくりのための入夫というのはありえないのです。女性当主(入夫)-女系継承が実現すれば男を貶めてフェミニストは喜ぶかもしれないが、家族制度としてはこれほど、男子の尊厳を貶め、いびつで醜い制度はないと私は思う。
 もっとも、私は芸能家元の世界は何も知らないのですが、池坊由紀氏が華道家元池坊の次期家元ということで、女性当主による世襲もありうるのかもしれませんが、それについては部外者である私は意見はありません。いずれにせよ華道家元の世界と皇位継承とは全く次元の異なる事柄で、類比するのは適切ではないでしょう。
 だから一般的な世襲概念からただちに女性当主(入夫)-女系継承といういびつな醜い制度が引き出せるというわけではないです。
 それなら、憲法問題としてとらえている小嶋和司説のほうが、よほど説得力があると考える。
 
小嶋和司説(世襲=男系継承説)

『小嶋和司憲法論集二憲法と統治機構』木鐸社の64頁以下を引用します。
「総司令官マカーサーが、日本国政府に提示すべき憲法草案(いわゆるマカーサー草案)の起草を民政局に命じたとき、草案に盛るべき内容を指示した、いわゆる「マカーサーノート」は次の内容をもっている。
「The Empererは、国の元首の地位にある。His Successionはdynasticである。」
皇位就任者を男性名詞・男性代名詞で指示するほか、その継承をdynasticであるべきものとしていることが注目される。それは、立憲君主制を王朝支配的にとらえ、現王朝(dynasty)を前提として、王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことを要求するものだからである。それは王朝形成原理の維持を要求するとは解せても、その変更を要求するとは解しえない。(中略)草案が次の規定をもったのはこれらの当然の結果である。
「The Empererは、国と国民統合の象徴であって、his position は国民の主権的意思に由来し、他の如何なる源泉に由来するものでもない。」「皇位の継承はdynasticであり‥‥」この草案の起草者は、その「説明書」を用意している。それは過去の天皇制に対する批判を多面的に指示しているが、そこでは男帝制を前提として、それへの批判はなかった。しかし、王朝(dynasty)交替の歴史をもたず、現王朝所属の継承を当然とするに日本の政府当局者は、右のdynasticを、たんに「世襲」と訳して、現行憲法第二条にいたらしめた。皇室典範も現王朝を無言の前提として、その第一章を「皇位継承」とし「王朝」観念がその後の憲法論に登場することもなかった。
 もちろん、制定史上の事実は、憲法解釈において、参考的素材以上の意味をもちえない。第二条の「世襲」の公定英語がdynasticとされていることも、決定的な法源的価値をもちうるものではない。
 けれども比較法的および歴史的にも充分な知識を思考座標として「世襲」制の要求をみるとき、それはたんに世々襲位することではなく、継承資格者の範囲には外縁があるとしなければならない。(中略)ここに思いいたるとき、憲法第二条は「王朝」形成原理を無言の前提として内包しているとみなすか、それとも「国会の議決した皇室典範」はそれをも否認しうるとみなすかは憲法論上の問題とすべきである。」

 私は基本的に小嶋説に従いたいと思う。憲法制定時の憲法二条の趣旨はマッカーサーの指示His Successionはdynasticである。継承は王朝にふさわしいルールというものであった。憲法制定時の価値選択というものを尊重しなければならない思う。皇朝にはそれにふさわしいルールがある。万世一系の皇位、皇胤一統である。だから政府は遠慮せずに大日本帝国憲法のように皇男子孫之ヲ継承スとしてもよかったのである。世襲規定というのは王朝に相応しいルールという原意であることから女系継承は明白に反する。女系継承は憲法二条の世襲規定に反し違憲と私は考える。
 王朝に相応しいルールによる継承とは比較法的にいえばこういうことである。サリカ法(註3)の伝統の王位継承ルールが男系継承で、フランス帝政憲法が女帝制を否認している。1831年ベルギー憲法は王位継承は男系・男子限定の原則で、女子及びその子孫による継承は常に排除されると規定していた。(但しベルギーは1991年に憲法を改正しサリカ法の伝統を放棄し、男女いかんにかかわらず長子相続となった-この問題女子差別撤廃条約との関連による憲法改正のばかばかはしさについては次の機会にでも述べます。)(註4)、現在サリカ法の原則が存続しているのはリヒテンシュタイン侯爵家だけであるが、ここでは比較法として理解しやすいフランス王権(系図-註5)をとりあげたいと思います。
 
フランス王権の王朝形成原理との類比

 フランス王権では男系継承が王朝の形成原理であり、帝政憲法で女帝を否定していたわけです。それと類比すれば万世一系男系継承の皇朝がたんに言葉では世襲としているだけだが、女系継承を排除するという含意があるという憲法解釈でよいと思います。
 フランス王権はサリカ法典の伝統により女王はありえない。フランスよりずっと古い国家である日本は女系天皇はありえない。むろん、神聖不可侵の我日本朝の万世一系と、フランス王権やサリカ法の男系主義は法源も性格もかなり異なるもので、類比するのは適切でないと思うが、男系という点で類似しているので、私はフランス史は全く素人で、具体的な系譜をよく知らないのですが、ここで一応みておきたいと思います。
 10世紀のユーグ・カペーにはじまるカペー朝は、規則正しく男子が産まれていて、シャルル4世(位1322-28)まで17代(兄弟継承含み)も続いている。カぺー朝がはじめて直系男子不在という事態が発生したのはルイ10世が歿した1316年のことである。この経緯については次の2つのサイトハピネス~AMUのトイ・ボックス~系図の迷宮~西洋王族家系図の世界が説明しているでみてください。つまり簡略していうとルイ10世の遺児ジャンヌ王女とルイ10世の弟のフィリップ5世(位1316-22)と王位継承争いとなった。カぺー王家が規則正しく男子で継承され、慣習としては男子であったが、フィリップ5世は王位継承の正当化のために、学者に根拠を求めた結果、ゲルマン民族のサリ族の領地相続法において女子が排除されていることが「法発見」され女子への王位継承否定という王位継承法が成立したということらしい。
 傍系継承の例としてここではヴァロア系のアンリ3世(位1574-1589)からブルボン家のアンリ4世(位1589-1610)の王位継承をみてみたいと思います。アンリ3世の末弟アランソン公が亡くなると,王には子どもがなく、ヴァロア系の男子が枯渇したため、傍系で遠縁だが、サリカ法により筆頭親王家ともいえるブルボン家のアンリが王位継承人となった。私が系図をなぞって数えたところ、アンリ3世とアンリ4世は男系では22親等の遠縁である。
 ブルボン家というのはカぺー朝の聖王ルイ9世(位1226-70)の王子でフィリップ3世(位1270-85)の弟、クレルモン伯ロベールからはじまって、ルイ9世の10世孫がアンリ4世である。父子の直系だけを系図的に示すとルイ9世-クレルモン伯-ブルボン公-ラマルシュ伯-〇-〇-〇-〇-〇-〇-アンリ4世(位1589-1610)-ルイ13世(位1610-43)-ルイ14世(位1643-1715)-〇-〇-ルイ15世(位1715-74)-〇-ルイ16世(位1771-92)。
 次にルイ9世からアンリ3世まで父子関係を示すと、ルイ9世-フィリップ3世-ヴァロア伯-フィリップ6世-ジャン2世-シャルル5世-オルレアン公-アングレーム伯-アングレーム伯-フランソワ1世-アンリ2世-アンリ3世であるから、ルイ9世の12世孫がアンリ3世である。12世代を皇室に類比すると、近世初期の後陽成天皇と今上陛下が12世代ということになります。アンリ3世と4世は22親等の遠縁になります。いかに遠縁でもフランス王権の王位継承はそのようになっているわけです。それが王朝形成原理であり、王位継承のルールということです。
 もっともアンリ4世の母がフランソワ1世の姪にあたるので女系でヴァロア系と近縁なのですが、フランス王権の王朝形成原理はあくまで王位継承人は男系主義で機械的なルールである。
 そういう在り方というのが王朝に相応しいルールによる継承、マッカーサーの指示His Successionはdynasticである。憲法二条の世襲規定がそういう趣旨だということで、我が国でいえば万世一系の皇位、皇胤一統であるわけですから、むしろこの趣旨の世襲原理から旧皇族が王朝に相応しいルールによる継承として、憲法第二条の趣旨にかなっている。伏見宮系の旧皇族と、ブルボン王家を類比するのは適切でなく、大変失敬なことになるかもしれないが、あえて比較法的な類比もできるのではないかと私は考えました。
 憲法学者の解釈を逐一調べていませんが、田上穣治は憲法第二条について「世襲とは、皇統に属する者のみが継承権を有し、かつ前の天皇の在位期間が、後の天皇のそれと時間的に連続して空位の期間がないことをいう」(註6)とする。女帝は皇統を形成できない。女系は皇統ではないということはこれまで、女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回~10回などで述べてきたとおりであり、田上説からも女系容認は憲法第二条の趣旨に反する疑いがあるといえるだろう。
 だから、有識者会議のメンバーの発言のように、憲法二条に戻って女系継承容認なんていう理屈はなりたたない。また園部逸夫座長代理の持論である憲法二条女系容認説は誤りである。首相の独裁的強力な権力からすれば憲法二条なんてどうってことないのかもしれない、そんなことにかまってられるかとのお考えかもしれませんが、私は憲法違反であると考えます。

つづく

(註1)小嶋和司『小嶋和司憲法論集二憲法と政治機構』木鐸社1988「「『女帝』論議」45頁以下
(註2)芦辺信喜・高見勝利編『日本立法資料全集1 皇室典範〔昭和22年〕』信山社出版1990 79頁
(註3)ハピネス~AMUのトイ・ボックス~「サリカ法」
http://www1.ncv.ne.jp/~amu/page030.html
系図の迷宮~西洋王族家系図の世界「サリカ法~英仏百年戦争の原因となった法典~」
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/keisyo1.htm
(註4)山田邦夫「諸外国の王位継承制度-各国の憲法規定を中心に-」『レファランス』656号2005年9月
(註5)
鷹の城~西洋王朝系図 フランス
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/catsle/france/franj.htm
系図の迷宮~西洋王族家系図の世界~フランス
http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/France/F_index.htm
(註6)田上穣治『日本国憲法言論』青林書院新社1980 58頁

2005/11/05

三笠宮寛仁さま「エッセー」報道についての所感

  はじめに、自分は女性天皇に明確に反対で、皇位継承者の男子限定を堅持すべきであるとの意見です。

 そもそも内親王を継嗣というのは大衆の自分勝手な思いこみであり感情移入にすぎないのであって、そのようなムードを醸成するメディアの報道についても、フェミニストや大衆世論に迎合する政治家、首相官邸-有識者会議の女性天皇容認論にしても、それは皇室にとってえらい迷惑な話ではなかったかというように思います。

 というのも三笠宮寛仁さまの福祉団体機関誌における「プライベートなひとり言」が11月3日読売新聞三笠宮寛仁さま、女性天皇容認に疑問…会報にエッセー」のスクープがあり、4日は各紙で報道されていますが、軽率に論評できないほど、非常に深刻にうけとめなれけばならない重い内容ですが(最大の切り札が切られてしまったのですから、これからは宮様の面目を潰すことがないよう良識的な国民によって、反転攻勢、国体変更の誤った政策を論破していくということでなければならない) しかしここで若干コメントしておきたいと思います。
11月3日読売新聞、4日朝日新聞朝刊に要旨が掲載されていて、それを読みますと、男系維持の四つの方法論が提案されていますが、ここには女性継嗣という発想ははじめからありません。皇嗣は男子に限定されています。だから読売新聞の見出しのとおりでよいのであって、4日朝日新聞の見出し「女系天皇に異論」とありますが、女性の継嗣は排除されているわけですから、「女性天皇に異論」でよいはずです。
 内親王が継嗣というのは、あくまでも大衆の勝手な思いこみにすぎないのであって、皇族方は皇室の伝統からそのように安直には考えておられないということが、スクープによりはっきりしたと私は思います。
 短い文ですが、四つの方法論はまず「歴史的現実にあった方法論」とされ、前例を重視する堅実な論理で貫かれて、よく練られていて考え抜かれている。含意とするところも深い。従来男系継承論者でも提言していなかった内容も含まれており、なるほどと思いました。
 それぞれの方法論の解釈については慎重を要し軽々しく論評できない。私の解釈が間違っていたら知力の弱さからごめんなさいというほかないのですが、一部で誤った解釈をされている向きもありますので、読売新聞11月3日の34面「エッセー要旨」と朝日新聞4日朝刊30面の「随筆要旨」で内容は把握しているので読売から引用し、若干コメントします。なお双方を比較しますと読売は「日本国という「国体」の変更に向かうことになります」の重要な文言が落とされている。また朝日は側室制度の提案を落としているのを疑問に思います。

「‥‥現在のままでは、確かに"男子"が居なくなりますが、皇室典範改正をして、歴史上現実にあった幾つかの方法論をまず取り上げてみるべき事だと思います。順不同ですが
①臣籍降下された元皇族の皇籍復帰
②現在の女性皇族(内親王)に養子を元皇族(男系)から取る事が出来る様に定め、その方に皇位継承権を与える。(差し当たり内廷皇族と直宮のみに留める)
③元皇族に、廃絶となった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)
以上の様々な方法論を駆使してみる事が先決だと思います。
④として、嘗ての様に「側室」を置くという手もあります。国内外共に今の世相では少々難しいか思います。
余談ですが、明治・大正両天皇共に、「御側室」との間のお子様です。‥‥」

 ②の解釈が問題になりますが、女性皇族(内親王)の養子に皇位継承権を与えるということですが、皇位継承権が与えられるのは内親王の養子ですから、女性天皇は排除されています。元皇族が内親王の配偶者となるプランでもないです。その場合、内親王は非婚であることが前提と思います。前例のない女性当主に入夫のようないびつな制度か想定されているわけでは全くないわけです。現宮家の当主ではなく、内親王の養子とされているため、時間的余裕をもたせる含意もかなりあると解釈できます。ただこの提案では実際に大統を継がれるの宮様のポジションはどこなのか、継承順の問題など具体的なことまでは判然としていません。
 なお、これは本筋の問題ではありませんが、有識者会議の結論では、皇太子-敬宮愛子内親王の継承順で、秋篠宮の立太子(立皇太弟というべきか)の可能性は実質的になくなります。実質的に継承権を剥ぎ取られるといっても過言ではないですが、私は30代と若く立派な男性皇族なのに失敬だと思うんですね。だから旧皇族が属籍を復した場合でも秋篠宮の面目を潰さないような配慮があってしかるべきとも思いますが、宮様の提案では時間的余裕をもたせているようにも思え配慮がゆきとどいているようにも思えます。
   宮様の提案については有識者会議から反発も予想されます。権力を有しているのは首相官邸の側であって、たぶん元東大学長、元最高裁判事クラスは皇族方を畏れることもないでしょう。議事要旨を読む限り永世皇族制か世数限定制か結論は出ていないようですが、有識者会議は皇族方からの反発をかわすために永世皇族制の線が高いと思います。それで女系宮家容認の線でいくと、三笠宮家は女王が身位を失うことなく結婚して宮家が継承されていきます。常陸宮家のように継承者がないわけではないから、将来祭祀を継承するため旧皇族が入る必要などないわけです。「有識者」の感覚からすればなんでそんなややこしいことするんだ。女系継承で存続を保証しましょうということだから三笠宮家に損はさせないし、場合によっては直宮で継嗣が枯渇すれば将来女系三笠宮家から皇位継承という可能性だってあるのに、男系にこだわって支配階級に盾突くのはけしからんという感覚なのかもしれない。しかし、宮様の論理はそういう下世話な損得勘定の問題ではない。ずっと高尚な立場からの提案であるから、結局「有識者」とは真っ向から対立する見解といえます。「③元皇族に、廃絶となった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)」という文言に、女系宮家なんてありえないという強い意思を感じるものであります。
 
  川西正彦(平成17年11月5日)
 
  次回掲載予告
  女系天皇容認の皇室典範改正は憲法二条に反し違憲無効になる
(有識者会議メンバーの見解に対する反対意見)

2005/11/01

首相官邸へのメール11月1日

最悪だ!皇室典範に関する有識者会議は直ちに解散すべきだ
(本日、首相官邸のホームページ意見募集に下記の内容を送信しました。内容はほぼ10月30日の記事を短くしただけのものです。)                          

 川西正彦
 
 去る10月25日に「皇室典範に関する有識者会議」が開催されて、意見集約がなされ、皇位継承資格の女子や女系の拡大で全員が一致した。11月末にも最終報告をまとめ、来年通常国会で皇室典範の改正という政治日程が報道されている。
 わたくしは、そもそも女性当主それ自体に反対なのですが、この方向では、非王姓継嗣による帝位の継承により事実上の易姓禅譲革命を是認する法制度となるため、日本国の終焉をもたらしかねない最悪の結論になった。本朝の安否にかかわる重大問題についてこうもあっさりと易姓革命容認、異姓簒奪容認という結論が示されたことに、大きなショックを受けている。これでは日本人としてのアイデンティティを失うことになる。
 天皇・皇室は二千数百年の伝統、ナショナルアイデンティティの中核であり、その伝統を崩壊させることがいかにリスクのあることか。
 女帝の次、非王姓継嗣の帝位継承になれば日本は王朝名であるから当然、国号を改めなければならないこと。異姓簒奪者を君主として戴く国家はもはや日本ではないから、それでも日本国号を継続する場合は、偽日本朝、偽皇朝である。異姓簒奪者に祖宗の神器を承継する資格はないこと。高御座での即位、大嘗祭の資格もないこと。結局は「魏武輔漢の故事」つまり魏晋南北朝時代等の易姓革命の禅譲形式を研究して、従来と違ったタイプの儀式体系を創出する必要が出てくることになります。要するに日本は中国のような民をもって国を簒うような国になります。
吉川座長は10月25日の記者会見で「女性の配偶者だと得られるのに、男性の配偶者だとどうして難しいのかわたしには分からない。女性天皇を日本として認めようと考えた際に当然、男性の配偶者が得られる日本になったという前提がある」(東京新聞26日2面)と述べていますが、この発言から読み取れることは、皇位継承の正統性にかかわる本質的な問題に踏み込んだ議論がなされていないということである。
10月5日の会議の議事要旨によれば。ある人から女帝の配偶者に問題提議がされているものの、配偶者を迎えることについて、男性と女性を比較すること自体が議論すべき事柄でないみたいなラディカルフェミニストのような意見が突然出てきて、議論を深めようとしないのである。あるいは意図的に議論の深化を妨げているのかもしれない。もっとも深刻な問題について思考停止状態に陥っているといえます。易姓革命、異姓簒奪の危機という問題意識すらなく、国体の大変革という大それたことに断行してよいはずがない。このようにつまらない有識者では答申の資格はない。直ちに解散すべきである。

 花園上皇の『誡太子書』の「吾朝は皇胤一統なり」を引き、易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子の量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えていたことは、PDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」で説明されていることで、皇位継承の正統性における血統原理、万世一系の皇位とは皇胤一統、男系継承であるということは、共通認識を持っているはずですが、女系継承が、皇位の正統性を揺るがす深刻な問題であるということに何の精査も行っていないどころか、有識者のなかには、東大名誉教授で二人、歴史の専門家が含まれており、当然こういうことはよく知っているはずなのに、議論を深めていない。こんなつまらない有識者では答申の資格はないと断定します。だから解散すべきです。

 本物の有識者なら、たとえ小泉首相が女性天皇実現の方針であるとしても、それが易姓革命-異姓簒奪を容認することに繋がるので、こういう大それたことは諫止する。敗戦によって現人神であることが否定されてしまったが皇位国体を護持できた。戦争に負けたわけでもないのにみすみす神聖不可侵の皇朝を滅ぼすようなことは無謀なやめてくださいと、つまりこれは敗戦責任に等しい結果をもたらす無謀なことである。フェミニズム迎合や安直な大衆世論迎合政治を誡めるということがあって良いと思いますが、ただ、既定方針どおり手続きをこなしているとしかみることができない有識者は最低です。
 詳論は「川西正彦の公共政策研究」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_27da.html、グーグルなどの検索エンジンで私の名を入れれば上位で出てきます。素人作文ですがご笑覧いただければ幸甚と存じます

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