女帝反対論批判の反論(その4)
宮門跡還俗による伏見宮系宮家の創設の意義
幕末維新期から伏見宮系宮家の創設が相次ぐが、その経過について『神社新報』の「皇室典範改正問題と神道人の課題(第七回)」(平成17年9月5日)に詳しいので適宜引用・要約して記す。
幕末動乱期、徳川慶喜・島津久光などの「公武合体派」の要請で文久三年(1862)二月青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王となる(後に賀陽宮、久邇宮に改称)。同年十二月には、徳川慶喜・松平慶永・松平容保・伊達宗城・島津久光が連署して書を朝廷に上り勧修寺宮済範親王の還俗を請ふた。文久四年(1863)正月に山階宮晃親王となり両親王は国事に参与された。晃親王は宮門跡制度の廃止を主張し、慶応になると岩倉具視などの公家からも続々と宮門跡還俗論が出て明治初年以降、続々と宮門跡還俗による宮家が創設されたが、それらは伏見宮系である。これは維新政府の「神仏分離政策」に先行するもので、「皇室の神仏分離」を促す結果になった。明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている。
また継嗣のいなくなった閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承された。明治以後桂宮・有栖川宮両家は断絶したため、終戦の時点で十一宮家はすべて伏見宮系である。戦前は宮家が多すぎたという人もいるが、現実に「皇位継承資格者」が枯渇状況になってしまっている以上、宮家は多すぎたなどといえない。
以上の歴史的経過をみると、宮門跡還俗による宮家創設政策の原点が文久三年の徳川慶喜の正月十日の奏請にあることがわかる。「是迄皇胤之御方々夫々御法体被為成来候御事何共恐入候事二付此後之処ハ御法体無之親王二被為立候様有之度事」「青蓮院宮御儀方今皇国之御為厚御憂慮被為在候趣殊二乍憚御英敏之御事共兼々承リ候事二御座候間何卒御還俗有之万機御相談ヲモ被下ハ、至極之御事ニテ於関東モ怡悦可被到存候」と奏請。
幕末維新期に宮門跡の還俗や、制度それ自体の廃止がぶちあげられたのは革新的なことである。これは政治的理由によるものであって、新井白石の献策のように皇位継承候補の確保という意味ではないようだが、結果論として伏見宮系の宮家がこれだけ多く創設されたということで、ある意味では徳川慶喜を評価してよいのかもしれない。
持明院統文庫の伏見宮家相続の意義
私は、10月3日ブログで、持明院統文庫の相続について松薗斉の『日記の家』吉川弘文館1997に依って、「文安三年の貞成親王による宮家を継承した子息貞常親王への譲状によると、御記(代々天皇の日記)だけが、禁裏(後花園)に進められたが、その他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示している」(一部字句訂正)と書きました。10月16日ブログでも、「松薗斉は家記の継承を軸にした家継承を論じ、同氏の見解では持明院統の家記を失った(後花園天皇が継承されたため)貞常親王が継承した家、つまり伏見宮家とは貞成の「看聞御記」を「支證」とする「日記の家」だから、太上天皇後崇光院を「曩祖」とするという見解である」と書きました。松薗斉の見解では、持明院統文庫は、御記が禁裏に、その他の文書は伏見宮家で分割相続されたということになってますが、少し松薗斉の見解に引きづられたことを後悔してます。不勉強で恐縮しますが、それとニュアンスがかなり異なる見解があるの最近知りました。
飯倉晴武(奥羽大学教授・元宮内庁書陵部主席研究官)の『日本中世の政治と史料』吉川弘文館2003、「中・近世公家文庫の内容と伝来」の243頁以下です。
「崇光天皇の曾孫後花園天皇が皇位を継承しました‥‥ところが持明院統に伝わる皇室文庫は伏見宮の方に残されたままでした。これは後花園が称光の父後小松天皇の猶子として即位したのが原因かもしれません。後小松はあくまでも後光厳院流が皇位を継承するのだといって、崇光院流と対立姿勢をしめしたので、後花園の父貞成親王が第二皇子に文庫を譲って伏見宮を存続させ」と述べておられます。持明院統文庫、つまり文和三・四年の「仙洞御文書目録」(仙洞とは光厳上皇をさす)と、応永年間の「即成院預置伏見宮所蔵目録」「大光明寺預置目録」(後崇光院貞成親王が伏見の寺に預け置いていたものを点検した時の目録)はあくまでも貞成親王の第二皇子に譲られ、伏見宮家の所蔵として代々伝えられた。明治五年(1872)に伏見宮家より『看聞御記』が太政官文庫に献納され(のちに御物となる)、同時にそれより同七年にかけて、宮家の命によって家従の浦野直輝が宮家蔵の古記録・古文書を書写し、目録を含めて八十八冊とし、『伏見宮記録文書』と題した。現在、宮内庁書陵部の所蔵となっている(『国史大辞典』-伏見宮記録文書)。さらに昭和二十五年頃、宮家の臣籍降下により、経済的理由で蔵書を全て手離さざるを得ず、伏見宮家にあった原本・写本の一切を国費で宮内庁書陵部が買い上げ国のものになっている。788部1666点ともいわれる。
飯倉氏は伏見宮旧蔵本の価値の高いことを述べてます。質・量とも最高のものです。「書陵部に伏見宮家旧蔵本というのがたくさんございます。伏見宮旧蔵の記録類はですね。たとえば『水左記』の平安時代の原本が含まれていたり、あるいは鎌倉時代の写しになります『小右記』『中右記』『平戸記』という著名な現在伝えられている古記録のもっとも古いといわれている写本がほとんど伏見宮旧蔵の本でございます。‥‥」。「で、この伏見宮家の文書のなかには伏見天皇の日記や『花園天皇日記』『花園天皇宸記』として有名ですが、そういう持明院統の天皇の日記も入っております〔この点は松薗斉と見解が異なるように思う〕。この時の目録にはみえないけれども、持明院統の正統はこちらだということを暗に主張していたと思うわけです。その後、天皇家が記録を取り戻すのはいつかというと‥‥(江戸時代には四親王家となり)伏見宮家という宮家の存在が薄くなったかにみえます。でも実際には皇位の正統を伝えるべくこういう皇室の記録文書は伏見宮家にある。天皇家としてはそういう記録文書を備えていなければ、他の公家がそれぞれの記録文書を持っているのと同じように、天皇家として成り立たなかった状況があったと思うんですね。‥‥そこで江戸時代朝儀が復活されるころにあわせて‥‥後西天皇が記録類の筆写をはじめます。もちろん自分でやるのではなく、公家たちを動員してやるのですけれども、それが東山御文庫といわれるものですね。‥‥記録類をもつというのはその家の、とくに近世にはいってから非常に大事なことされ、後西天皇、霊元天皇、東山天皇、その後も引き続き文庫の維持、作成に力を尽くすのですけれども、たくさん写本を作り出してます。どういう写本かといいますと、やはりですね近世の公家が写したように『小右記』『中右記』『権記』『平戸記』等伏見宮家で持っているものと同じものの写本を作り出していきます。‥‥内容について、秘密にするものだとか、大変なものが書かれているとか、そういうものはないんですね。ありきたりの各公家が持っている古記録のの写本と同じです。」(飯倉前掲書「古記録について」223~228頁)
飯倉氏の説明で、伏見宮旧蔵本と東山御文庫で、『小右記』など同じものを備えているとしてもはどちらの価値が高いかは明白です。伏見宮旧蔵本は、原本が伝えられてない史料は最も古い鎌倉時代の写本が伝えられているし、『水左記』のように原本もある。東山御文庫は江戸時代中頃の収書・写本にすぎないんです。
要するに公家であれば嫡流の家に伝えられるべき重要な記録類が、皇室でなく伏見宮家に伝えられていた。伏見宮家が終戦後までそれを手離してないというのは、持明院統文庫、その蔵書がステータスシンボルであり、正統の王統であることの証明でもあるからですが、皇室のほうは朝幕関係が安定した時期に独自に東山御文庫を作り出すしかなかったわけです。
このことからも伏見宮家が家系と家格にたいする矜持が極めて高いことが理解できるし、いわゆる分家じゃないんです。むしろこっちが正嫡系という主張すらできる可能性がある。というのは、飯倉氏も若干説明されているように、彦仁王(後花園天皇)は後小松上皇の猶子として、あくまでも後光厳院流を継承したことになっている(註1)。後花園は血筋としては崇光院流ですが、あくまでも後光厳院流の猶子、したがって持明院統正嫡たる崇光院流が皇位を回復したと、実態としてはそういえるかもしれないが、形式にこだわれば系譜上はそうではないといえる。
人類学では、社会学的父と生物学的父を分けて理論化するわけですが、この趣旨からすると後花園の生物学的父は後崇光院伏見宮貞成親王だが、社会学的父はあくまでも後小松上皇。現在の皇室の皇統は、あくまでも、持明院統傍系(庶流)の後光厳院流である見方もできるのだ。後小松上皇の遺詔により、ねじれは今日でも解消していないという解釈もできる。後光厳天皇即位の事情については9月25日ブログ女帝即位絶対反対論第12回の終わりのほうで説明してますのでみてください。また、光厳上皇はあくまでも正嫡は崇光系として、後光厳は傍系としか認めていないことについては10月10日ブログで飯倉晴武を引用(飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 202頁)している部分でふれているのでみてください。
後花園の実父、後崇光院伏見宮貞成親王は太上天皇尊号をうけてますが、辞退していて、足利義教が後小松上皇の仙洞御所を解体して建設した京都の伏見殿が仙洞御所になったわけではない。そういう事情から貞常親王が貞成親王から相続した伏見殿は持明院統正嫡たる崇光院流の分派とはいえず、崇光院流の少なくとも正統的系統とはいえる。極論かもしれないが、もう一度伏見宮系に皇位が継承されて、今度は実父が太上天皇尊号を辞退しないということで、真に持明院統正嫡が皇位を回復するという解釈も可能なのである。このへんの歴史的脈絡は伏見宮に有利にいかようにでも解釈できるわけで、少なくとも皇室の系統と双璧をなす王統であるといってよい。
要するに、私は伏見宮系に皇位継承の正統性があることを述べたいわけです。皇室が内親王だけで後嗣に恵まれないとすれば、規範性、歴史的脈絡からみて、伏見宮系が大統を継がせしめられて全く当然であると考えます。こういう事情は皇太子殿下が中世史の専門家ですから、私のような素人がとやかくいうまでもなく、よく御存知のはずです。
結 論
まだまだ反論は続きますが、あす11月24日皇室典範に関する有識者会議の答申が出されるということで結論的なことを述べておきたいと思います。
私は、女性天皇は認めるが女系天皇(易姓革命)に反対という見解にも反対します。現今の女帝論議は、生涯非婚独身ということが前提になってないし、仮に生涯独身を前提としても女性天皇に反対であることは9月19日ブログ(女帝絶対反対第9回)の孝謙女帝論で有る程度言及しているのでみてください。それから中川八洋氏『皇統断絶』(ビジネス社2005)のいうように「愛子皇后陛下」のみ皇統を救うという立論にも全面的には賛同しないことにします。私も以前は、継体天皇、光仁天皇、光格天皇の先例からそういう考えももっていましたが、根性の腐ったエスタブリッシュメント(ここでは政府官僚や有識者をさす)があまりにも敬宮びいきのため不愉快なので考えを改めざるをえなくなった。
元東大学長や東大名誉教授、元最高裁判事、元国連高官、元官僚など、あなたのような下世話な人間とは比べものにならない高名な超一流の方々が議論を尽くしたのだから、これはエスタブリッシュメントの結論ですから、おとなしく従うのが義務とかいって、国会議員も国民も敬宮びいきになれと言ってくるかもしれませんが、易姓革命容認-日本国号を改めなければならないという無茶苦茶な結論なのに議論は紛糾もしないし、抗議のため辞任するような硬骨漢もいないんです。そういうことならますます反発します。
ということで、敬宮は紀宮と同じように天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。皇族にとどまるなら伝統に従って非婚内親王を貫くべき。皇位継承は皇太子-秋篠宮-伏見宮系の順が望ましいと思います(むろん皇孫男子誕生なら話は別ですが)。伏見宮系に21-22世紀の日本の未来を托しましょう。秋篠宮立皇太弟なら宮様の面目を潰すこともないし、時間的にも余裕がある。それまでに旧皇族は属籍を復され、皇族としての活動を通じ、広く国民に認知されていただくようにすればよいと思います。
ところで、『神社新報』の平成17年8月29日号「皇室典範改正問題と神道人の課題第六回」十一宮家皇籍離脱の経緯について解説を読みましたが、適宜引用・要約すると、昭和二十年十一月十一日東久邇宮稔彦王は、敗戦の責任から皇族の殊遇を拝辞する旨を表明したが、皇族全体としては閑院宮春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と反対が大勢を占めた。しかし、十二月九日梨本宮守正王が戦犯に指名され、戦争責任追及の手は、皇族でも免れ得ないこととなり、加藤進宮内次官(のち宮内府次長)が先手を打ち三直宮以外の皇族方が、自ら皇籍を離れることを陛下にお許し戴くべく奔走したというのである。(それは、天皇とお直宮を守るために必要と認識されたということらしい)
この問題に関して重臣会議の席上では鈴木貫太郎元首相等から、皇后の御実家の久邇宮や、明治天皇の皇女が嫁がれている宮家は残してはどうかといふ意見や皇位継承者確保の不安が示されたが加藤は「非常にその点は心配です。しかし皇太子殿下もいずれご結婚あそばせるでしょうし、三笠宮殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います」と説いて了承を得たのだという。加藤は「離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇位典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから‥‥「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』とも申し上げました」とも述懐してゐる(「戦後日本の出発-元宮内次官の証言『祖国と青年』第71号昭和59年)とのことです。
要するに皇室への戦争責任の防止策としてやむを得ざる状況下の皇籍離脱だったということですが、当事者の間では万が一の皇位継承の可能性は否定されていなかった。皇位継承権を持っていると宮内次官が述べているのです。
川西正彦(平成17年11月23日)
つづく
(註1))『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984
「後小松天皇の御遺詔」
横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 319頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979
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