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2005/11/19

女帝反対論批判の反論(その2)

  Sapporo Lifeの「女帝容認問題」によると「そもそも旧宮家の復活を前提にしている女性天皇反対論は支持の拡がりは難しい。皇室の知識のない人だと、戦後に皇籍離脱した宮家は昭和天皇の再従兄弟ぐらいの関係ぐらいな感覚の人もいるが、旧宮家の存在が注目され、旧宮家が南北朝時代の崇光天皇を祖とした分家という縁戚だと知られるようになり、かえって旧宮家復活の期待はトーンダウンしたように思える」という。旧宮家と現在の皇室が系図のうえで、南北朝時代(正確にいえば後崇光院貞成親王が共通の父祖であるから室町時代である)にまで遡ることから、支持を得にくいとの見解を示し、伏見宮系を軽くみていますが、このブログへ反論するとともに、10月3日10月23日ブログ「高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回) 」の続編として以下述べたいと思います。
 もっともSapporo Lifeは東久邇宮家の復帰案なども示し、私の見解には批判的だが、理解できる部分もあると女帝反対論批判の反論への意見で言っておられるので、女性・女系天皇容認-第一子優先を推奨した高橋紘のような悪質な論者とは明確に違いますから、一緒くたにしては無礼かと思いますが、21日(月)に有識者会議が女性・女系天皇容認・初生子優先皇位継承順という結論でなんらかの発表があるらしい。緊迫した情勢のおり、もう体裁にかまってられませんので、こまぎれになりますが、反論を次々と出していくようにします。

川西正彦(平成17年11月19日)
  
 伏見宮初代の栄仁親王は持明院統正嫡で分家ではないということは10月3日10日16日のブログで既に論じているとおりである。後崇光院より伏見殿を相続した後花園皇弟貞常親王については、後花園天皇が後光厳系の後小松上皇の猶子として、大統を継がせられる一方、貞常親王が後崇光院伏見宮貞成親王から持明院統文庫なども相続したことから、御分かれというよりも正統の王統ととみなしてよいのである。
したがって冒頭の見解は 、旧宮家の由緒を軽くみていて誤った認識である。
 貞常親王は後花園天皇の叡慮で永世伏見殿御所号を許されており、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家が本来の在り方である。明治の皇室典範が、長系・嫡系・近親の優先原則としてため親王号を称さなくなったが、もともと伏見殿は特別の待遇であり、その由緒からみて、現皇室の皇統と双璧ともいえる王統なのであるから、近い遠いは全く関係ないことなので、こういう見解には誤解であることを逐次述べていきたいと思います。

  既に中世の世襲宮家(常磐井宮、木寺宮、伏見宮等)については10月23日ブログで、言及したが、近世四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮-なお、明治維新以前の宮家としては幕末期に国事多難のおり国政に参画して天皇を輔佐するため伏見宮邦家親王の第一王子晃親王が勅旨により山階宮号を、第四皇子朝彦親王が中川宮号を賜っている)について言及していなかったので、今回と次回で概略を述べることとするが、伏見宮は桂宮・有栖川宮等とは性格が基本的に異なるのであって、永世伏見殿御所というように、世襲親王(定親王)家という家格も本来は伏見宮家だけに与えられた格別の待遇であることを述べ、これは令制の皇親概念諸王の班位とは明確に異なるのであるから、高橋紘や有識者会議のように伏見宮系を貶めるような見解に断乎反対することを重ねて述べることとする。 
 
 
  後桃園天皇の継嗣問題と伏見宮
 
 
  安永八年(1779)十月二十九日後桃園天皇(22歳)が崩御になられたとき、皇子はなく、一皇女(一歳の女一宮-のちの中宮欣子内親王)のみだった。また皇弟の貞行親王は伏見宮邦忠親王薨去により後嗣のなかった伏見宮を継承されたが明和九年(1772)に13歳で薨去されている(伏見宮は邦忠親王の弟の勧修寺門跡寛宝親王が還俗して邦頼親王となり実系相続が復活)。
 このため、閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳を急遽、後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定め、十一月二十五日践祚、光格天皇である(閑院宮初代は中御門皇弟直仁親王、宝永七年(1710)幕府が新井白石の献策に基づき、中御門皇弟秀宮に所領として千石を献じたので、中御門天皇が秀宮に新宮家創設を勅許した)。
  不勉強で申し訳ないが、祐宮に決定されるまでの経緯について、私はほとんど調べていないので不明な点が多いのですが、阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの伏見宮總説によると、「邦頼親王の一男 嘉禰宮(のちの貞敬親王)は、安永八年(一七七九)十月、後桃園院の崩御後、後櫻町院と藤原朝臣内前[近衛]によって皇位繼承者として立てられようとしたが、關白藤原朝臣尚實[九條]の議により、典仁親王の六男にして聖護院門跡附弟の祐宮が皇位を嗣ぐこととなった(光格天皇)といわれる」とされ、嘉禰宮(のちの伏見宮貞敬親王)当時四歳が皇位継承候補に浮上したことを述べている。しかも後桜町上皇(女帝)と前太政大臣近衛内前が伏見宮の第一王子を皇嗣に立てようとしていたということだから有力な候補者だったわけである。当時においても、後桃園天皇から十四世代遡って共通の父祖後崇光院伏見宮貞成親王であるからかなりの遠系となるが、伏見宮の別格ともいえる由緒から当然のことながら、候補に浮上したというものとみてよい。

   ここで、よく知られている男系継承論者の八木秀次の立論については若干不満があることを述べる。 八木は 「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」『Voice』2004年9月号で、傍系継承の先例として光格天皇(在位安永八年1779~文化十四年1817)の事例を強調するのである。「 傍系から皇位を継承された方に第百十九代・光格天皇がいらっしゃる。この天皇は傍系の宮家(閑院宮家)の、しかも第六皇子のご出身であった」要するに現在の皇室はもともと傍系だった東山天皇曾孫の祐宮が入って大統を継がせられたのであるから、閑院宮系皇統といってもよい。これは直系に皇女しかなく、後嗣に恵まれなかった場合は傍系皇親が皇位を継承するものだということを言っており、それ自体全く正論である。
また光格天皇の朝儀の復古・復興、御所の復古的造営や天皇号の再興など朝廷の権威回復強化策が高く評価されている。それはそのとおりだ。
 しかし、光格天皇と閑院宮家、宮家創立を献策した新井白石の功績を強調するあまり、後花園天皇の皇統継承の由緒という江戸時代の四親王家のなかでも別格ともいえる世襲親王家伏見宮家というものを相対化してしまう誤った心証を与えていないかということである。そのあたりのフォローが必要だと思うので、以下述べることとする。。

 祐宮の決定については当時の四親王家のなかで創設の新しい閑院宮の王子で、後桃園天皇からみて他の宮家より近親であるということが指摘されている。この点については武部敏夫(註1)が寛延三年(1750)に桜町上皇が桃園天皇以後の皇統に憂慮され、万一の場合の皇嗣として閑院宮直仁親王を定めていたこととも符合するものであるが、しかしながら一方で、伏見宮の第一王子も有力だったのである。
 当時の宮家の状況は、次のとおりである。
○伏見宮 当主 邦頼親王 47歳
       嘉禰宮 4歳(のち貞敬親王)
       佳宮 3歳(のち公澄入道親王)
○京極宮  当主不在(後桃園第二皇子が相続する予定だった)
○有栖川宮 当主 織仁親王 26歳
○閑院宮 当主 典仁親王 47歳
       美仁(はるひと)親王 23歳
       深仁入道親王 21歳  
       公延入道親王 18歳
       寛宮 ?
       真仁入道親王 12歳
       祐宮 9歳 

 久保貴子(註2)によると、上記のうち候補になりえたのは、嘉禰宮(貞敬親王)、美仁親王、 祐宮の3人で、残る5人は仏門に入っていたため候補から外れたという。摂家衆は皇嗣に女一宮をめあわせる考えをもっていたため、既に近衛内前女を妃としていた美仁親王が候補から外され、伏見宮を相続する予定だった嘉禰宮と、閑院宮の王子祐宮に候補者が絞られたが結果的に祐宮と内定したらしい。内定が天皇崩御の前々日の十月二十七日、翌日後桃園天皇の聖慮の趣を聞いて皇嗣が決定したとされるが、実質的には前太政大臣近衛内前と関白九条尚実を中心に議され、後桜町上皇と後桃園生母恭礼門院(皇太后藤原富子-一条兼香女)の了承により内定したものなのだろう。
 嘉禰宮ではなぜよくなかったのか、次回述べる貞行親王薨後、伏見宮を、将来の後桃園第三皇子が相続する方針をとった朝廷と、邦忠親王の弟宮である勧修寺門跡寛宝親王か青蓮院門跡尊真親王の還俗による実系相続復活を強く望む伏見宮一門と確執があったとされる。この問題は伏見宮一門が大奥年寄松島のルートなどによる対幕府工作により、幕府の介入によって実系復活となったのであるが、久保貴子は確執が尾を引いていたのではないだろうかとしている。また、伏見宮邦頼親王が呪詛したという奇っ怪な浮説が流れた。後桃園天皇の発病は「如物怪悩給」と尋常な苦しみ方でなかったことが浮説が流れた要因のようだが、意図的に流されたものかよくわからないが、光格践祚の前日にこの浮説について後桜町上皇が糾明を命じ、近衛内前が邦頼親王を御所に招いて尋問し、親王は返答書を提出されたので、後桜町上皇は収拾を図ろうとされたが、後桃園生母恭礼門院が納得せず、邦頼親王も疑惑を晴らすため、幕府による真偽の糾明を求めた。所司代、京都町奉行の調査では呪詛調伏の事実はないとされ嫌疑は解かれたのである。憶測にすぎないが後桃園生母恭礼門院と伏見宮邦頼親王は感情的に対立していたのかもしれない。
 逆説的にいえば、そういう確執や呪詛調伏の嫌疑のような奇っ怪なことがなければ、理屈からいって伏見宮の第一王子の可能性も高かったという見方をとってよいわけである。

(註1)武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960
(註2)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「後桃園天皇の皇位継承とその死」223頁

つづく

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