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2005/12/04

神の宣告(創世記3章16節)は決定的だ-反男女平等-文化戦争突入宣言-

     (目次)
    男性優位主義が文明社会の鉄則だ
   女子差別撤廃条約の締約国の義務はCEDAWへの報告制度だけ
     特定社会階層の利益のための女性政策
  「人間の尊厳」を否定するが、男性の尊厳の回復を求める
  合意主義婚姻理論は形式的には対等にみえるが
  夫は領主(lord)、バロン(balon)と尊称されて当然
  妻は奴隷のように夫に服従すべきだ

川西正彦(平成17年12月4日)

男性優位主義が文明社会の鉄則だ

  このブログはいきなり、女帝反対論から入ったため、わたくしの反フェミニズムという趣旨について述べていなかったので、ここでおおまかに説明しておきたいと思います。そのうえで、有識者会議報告書の反駁を開始するとともに、文化戦争に突入するものである。
  文明世界の規範とは明確な性差別、男性による女性の支配である。ここでは西洋文明的脈絡から述べます。すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。神の宣告だから忽せにできない決定的な価値です。これが、文明世界の秩序、鉄則、社会的正義であります。この規範からの逸脱は文明から転落、反文明とみなさなければならない。
 またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)
 私はコリント前書に忠実なんです。であるから真正パウロの勧告に従って独身だし、女どもの叛逆を許さない。女が男を貶めることは許さない。文明の規範提示者からの逸脱を絶対容認しない。男女平等とか同権とか、女子差別撤廃なんていうのは文明規範に対する叛逆です。秩序紊乱です。絶対容認しません。いわゆる男女同権論なるものはワイマール憲法あたりから、20世紀の新奇な思想なのであって、そんなのは鼻糞のように全く価値を認めないし、むしろ有害、環境ホルモンより恐ろしい害毒だ。現代社会はその反文明への堕落のただなかにあり、正気を失っている。大切な守らなければならない価値とはなんですか。それは西洋文明2500年の規範的価値であり、古代教父、古典カノン法、中世の聖人、神学者、教会法学者が提示する規範的価値、要するに私は文明の中核にある正統的な文化的伝統をあくまでも重んじる。そんなわけで、文明規範・社会秩序の回復と、『神のかたちと栄光を映す男性の尊厳の回復』という大義名分により、悪しき勢力、フェミニズム、男女同権論・平等論と戦う決意であります。
もっとも私は原初フェミニズム運動、19世紀だと思いますが、売春の国家的規制から売春婦を擁護する運動それ自体は否定しない。そもそも売春それ自体コモンロー上犯罪ではない。フェミニズムが社会的に汚名化された弱者としての女性を擁護する運動なら好意的にみることもできる。洗練したイギリス人は単婚主義の婚姻制度を維持するためのコストとして売春も必要と考える。だから非犯罪化論になる。
 しかし我が国のフェミニズムは社会的弱者としての女性の擁護というよりも、攻撃が男性に向けられ男性を貶めて喜ぼうとする極めて悪質なんです。中等教育(中学校の技術・家庭の家庭領域と高校家庭科)に男子生徒に家庭科履修を強要させたり、厚かましすぎる。男子生徒がフェミニストの我が儘な理屈のために人格形成に重要な青年期に無益でばかげた教育を時間をさいてしまっているのはあまりにも気の毒だし大きな損失だ。有害な教育政策を黙認してきた罪について、われわれ大人は子どもたちに懺悔しなければならないと思ってます。こんな男子への虐待に等しい教育課程は直ちに中止すべきだというのが私の意見ですが、女子差別条約との関連で学習指導要領が改訂されたわけです。しかし、女子差別撤廃条約というのは、これこれの教育政策を強要するものではない。条約の第三部一0条で教育における平等の達成を述べてますが、条文の解釈は締約国の自由ですから、条約の提案国であるソ連の技術教育は男子向きと女子向きで教育課程が異なるわけですが、ソ連が条約の批准で改めたわけでもない。別に条約のために高校女子のみ必修の教育課程を改定する必然性などなかったのです。職業教育や専門教育で女性の教育機会を閉ざしていなければ基本的に平等は達成されているということでもいいわけですよ。家庭科を選択科目にしても平等になりますが、選択科目という選択肢は家庭科教員の養成課程のある私大の経営を圧迫することもあり既得権益防衛のため採用されにくかったと考えられる。しかし家庭科教員の雇用を守るために男子生徒に無意味でばかげた授業をつきあわせているのは本末転倒である。学校教育の受益者が生徒でなく、既得権益のための学校教育に化してしまってます。男女平等もやかましくいえば、米国のように体育・スポーツも問題にしなければならない。皇室典範問題があったので公民権法タイトル9判例の研究をやってないので、最新の情報をみていませんが、米国ではカレッジの花形であるフットボールやバスケットボールなど男子スポーツに予算その他の権益が集中して女子スポーツをなおざりにしていることに非難があるようです。しかし、日本のフェミニストは男子に家庭科をおしつけて男子を貶めることに狂奔しましたが、体育では機能的にも視覚的にも優れていたブルマーをやめさせ、野暮ったい半ズボンにした程度であまりうるさくないのは矛盾しています。

女子差別撤廃条約の締約国の義務はCEDAWへの報告制度だけ

 女子差別撤廃条約(アメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードな考え方であるわけではない)は人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。これは条約の趣旨ができるだけ多くの国に批准しやすいようにして、各国の義務については厳格に求める性格のものではないからです。あまり厳格にして、例えばイスラムのシャーリア法をやめろとか、あるいは女子割礼の慣習をやめさせろとか言ったら、多くの国が批准できませんからもともとぬるいんです。
 締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけ。要するに四年おきになんらかの報告のための実績づくりを政府にさせることによって、女性団体が監視して女性政策を促そうとするものです。
 浅山郁の1985年の論文(註1)によると、CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告をを行うことができるが、実際には「委員会の委員が度々、締約国による条約義務の不遵守(あるいは不十分な遵守)を認めたにもかかわらず、いかなる特定の締約国についてもその旨の意見発表は一度も行ってない」とのことです。もともと条文の解釈は締約国に委ねられているから、これこれの女性政策を締約国に強要というものではないです。例えばソ連の第一回報告では教育の分野について「憲法に基づいて教育の平等は完全に保障されている。なぜなら、教育は国家の手で行われているので、すべての男女に同一の授業内容をうけさせることが可能となる。教育上の男女差はすでに克服されてしまった‥‥」と説明してますが、中等教育の技術教育の男女別の授業内容を問うとか意地悪な質問もなく賞賛されるだけだったようです。そんなもんです。日本は1987年に第一回の報告を行ってますが、売春防止法を説明したところ、委員は「単純売春」に関心を示し、意味がわからないという質問が出たそうです。そんな程度のことです。たいした権威もない委員会です。
 いずれにせよ、女子差別撤廃条約は有害でした。米国のように批准しないほうがましでした。実際には条約の解釈はいかようにもなるんですが、フェミニストが勝手に条約違反とわめきたてることにより有害な政策が促されました。私は雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法はむろんのこと、セクハラ規制、児童買春・ポルノ禁止法、ドメスティックバイオレンス規制など厚かましいフェミニストが推進してきた政策の全てに反対であります。強姦処罰の強化・集団強姦罪の新設もきわめて不愉快です。ここではセクハラ規制についてだけ簡単にふれておきますと、これは異常なロマンティック・パターナリズムです。女に言い寄った、王様ゲームに参加したというようなことで大学教員が不利益処分をうけたりする。コンパに参加するというのは親しみやすくて良い先生だと思うんですよ。エリートや教授のような有能な男性がこんなことで挫折させられてよいのか。社会的損失です。女どもに目上の男性に対するリンチ特権を与えているのは異常なことであり、男性に対する虐待です。断じて容認できません。
 民法改正問題、夫婦別姓・女子法定婚姻適齢の16歳から18歳への引き上げについてももちろん反対です。女性は16~17歳が最も美しいと昔から決まっている。女子の婚姻適齢法制をみてみると合衆国では大多数の州で16歳は婚姻適齢です。コーネル大学LII のMarriage Laws of the Fifty States を参照してください。英国は男女とも16歳ですが、スコットランドは親の同意も不要、フランスは女子15歳が婚姻適齢、ドイツは配偶者の一方が18歳以上なら16歳で結婚できるシステムなので法制審議会が18歳引き上げが世界的趨勢とかいっているのは事実に反しています(もっとも私はイタリア・オランダ・スペインなど婚姻適齢を引き上げた国があることも知ってます。しかし日本より格下の国じゃないですか。米英仏独が一国も該当しないのに世界的趨勢と強弁できるはずがない)。民法改正問題、とりわけ夫婦別姓ですが、国会議員の良識と健全な社会階層の抵抗があり、これだけは法制化に至ってません。推進派の野田聖子議員に刺客が送り込まれたのでこの問題は一息ついていますが、しかし女帝容認でフェミニストを増長させるとこれも危ないです。
 一連の政策をみていきますと、ここまでフェミニストを増長させた罪は重いです。こういうばかげた政策の推進を黙認して未来を背負う子どもたちに申し訳ないことをしてしまったと悔やんでます。男子を虐待することが公認され、息苦しい社会になりました。このままでよいわけがない。フェミニズムに対する敵意は募る一方です。いよいよ反撃を開始したいと思います。
 
  特定社会階層の利益のための女性政策
 
  だいたい雇用機会均等法の最大の被害者は女子短大生だともいわれています。80年代に大手都市銀行が高卒女子から短大卒の採用にに切り替えたといわれてます。当時はサービス経済化といわれ好況期で求人は多かったのですが、右に習え式に事務職が短大にシフトしていったと言われてます。
  私は1978年に都立園芸高校を卒業してますが、高卒女子の就職はまだ安定してました。成績上位の生徒は一流企業の事務職に就職できた。当時は三年間で三日以上休んだら、大手都市銀行に推薦しないとか、化粧やパーマをしたりする女生徒は事務職でなく、生産工程労働者にしか推薦しないということで教師の締め付けがききました。
  しかし90年代高卒就職が厳しくなって教師の締め付けがきかなくなると女子高校生は超ミニスカ・ルーズソックスのコギャル現象化していくわけです。しかるべき安定した企業・職種に就職を斡旋していたから教師の締め付けがきいたわけで、そうでなくなると教師の言いつけををきかなくなったと憶測します。生徒管理が難しくなった原因がそのへんにある。もちろん不況期においても就職実績の良い躾のゆきとどいた職業高校もありますし、そういう公立高校があることを私は知ってますから。地域差もありますし過当に一般化はしません。
  問題は70年代までは結婚適齢期信仰というものがあって女子は高卒でしかるべき企業に就職して持参金を蓄えたえうえで24~25歳ぐらいまでに結婚退職するという安定的なパターンがあった。これが80年代以降崩れてしまい、20代・30代の未婚率が、男女とも急速に上昇していったことである。
   その一つの要因がフェミニストが結婚退職けしからんとか当時四年制大学の女子の割合が低いことなどを問題にして、この安定的パターンを敵視し破壊したために、それが少子化の原因にもなっているし、コギャル現象にみられるように大きな悪影響を与えたと思います。それは安易に高卒採用を短大にシフトした大手都市銀行をはじめ企業側の責任もあるし、それをみのがしてきた文部行政にも責任があると思います。職業高校であれば産業教育振興法で施設・設備や教師の産振手当、たぶん今でもあるんだと思いますが、社会的投資がなされているのに、しかるべき就職先が確保できないというのは教育投資上損失でもあるわけです。
  ひとくちにいえば1980年代以降女子の事務職採用が高卒から短大、短大から四年制大学にシフトしていったということですが、この状況をフェミニストに迎合して追認したことが間違っていたというのが私の意見です。短大生にとって不運だったのは、男女雇用機会均等法でフェミニストから圧力がかかって、ニューメディア戦略と称して有名企業も四年制大学卒女子も積極的に採用することとなった。それで割を食ったのが短大女子です。女子は男子と比べて大卒と高卒の賃金格差が大きく、大卒にメリットがあるため、進学率が上昇しましたが、マスコミで喧伝された就職氷河期でより深刻だったのは四大卒女子より短大卒女子だったといわれてます。短大は就職実績で学生を集めていて、多くの女子短大生が事務職志望なんです。しかし事務職採用が四大卒にシフトしていったので短大の経営が厳しくなったといわれております。ところがフェミニストはそうは考えない。氷河期でも大卒女子さえ救えばいいんだとか、特定の社会階層の利益ばかり考えているわけですよ。四年制大学の女子大生は中規模企業の評価が高い。大企業はもっと大卒女子を採用せよとかマスコミがさかんに喧伝してましたが、それをやって割を食ったのは女子短大生。女性政策というものが必ずしも公正なものではなく、ある特定の社会階層の利益にすぎないこともあるということを述べました。
  (男女共同参画は政策・方針決定過程への女性の参画の拡大が重要政策とされているため、女性エリートが最大の受益者でしょう。女性エリートは厚遇して活躍の場を与えましょうという政策ですから政府から特権階級というお墨付があると同然なわけです。大分前ですがタッキーと細木数子の番組でゲストがタレントの菊川怜でした。細木数子がズバリ「あなたはえばっている」と言いました。でも威張って何が悪いんだと思います。菊川怜は桜蔭-東大卒で最強です威張って当然です。東大さつき会人脈、桜蔭人脈というのは実態は知りませんが、庶民の多くは新特権階級だと思っている。田中真紀子がさつき会人脈なら外務大臣を追われることもなかったでしょう。片山さつきの「コイツ」発言も悪いはずがない。天下の東大さつき会人脈を非難するほうがけしからんのじゃないですか)

 「人間の尊厳」を否定するが、男性の尊厳の回復を求める

  私は「人間の尊厳」という概念を安易に認めたくない。そんなのは神学的フィクションにすぎない。創世記1章26節や27節から「神の像」として人間はつくられたという解釈を根拠とする思想であるが傲慢な考え方になりかねない。もっともロマ書13章の趣旨から王権・君主・統治者の尊厳は当然でしょう。しかしアダムの罪により人間は致命的に腐敗しているのだから、人間一般に尊厳なんて認めるわけにはいかない。それは傲慢な思想ですよ。人間性というものを基本的に信用しない。人間の倫理的資質は致命的に腐敗しているとみなす価値観は、アウグスティヌス以来の西洋文明千六百年の伝統ですから。「人間の尊厳」なんて安易に認めてはいけないんです。
 教父学の伝統についてここで深入りしませんが、神学的に精査するならば「人間(男性)の尊厳」と言いだすのは慎重でなければならない。「人間の尊厳」ですら否定的なんだから、「女性の人権」なんて認めるわけないでしょ。
 人間は善意があっても善を実行できない。望む善を行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:18~19)。このことでパウロも悩んだ。アウグスティヌスも悩んだ。ルターも悩んだ。良心的内省的な人はキリスト教徒に限らずロマ書7:18~と同様のことを悩んでいるはずです。なぜならば人間の自由意思という実体はなく、脳内の物理化学的過程にすぎないから。結局、神の恩寵の超越性にすがりつく以外救いようがないということです。人権なんていうのは神の似姿としてつくられた人間の尊厳という神学的フィクションにすぎない、そんなものを軽々しく認めるわけには断じていかない。
 にもかかわらず、以上の留保のうえであえて「尊厳の回復」を求めたいと思います。つまり、男性が、女性によって貶められることがあってはならないです。それは文明世界の規範に照らし容認しがたい叛逆だから。女性による不当な攻撃とそれに迎合する腐りきった世俗政府に対抗し「神の姿と栄光を映す男性」(第一コリント11:7)の尊厳を回復しなければならないと。

 合意主義婚姻理論は形式的には対等にみえるが

 誤解がないように言っておきますが、キリスト教には性差を否定していると解釈されうる思想もある、例えばガラテヤ書3章28節、この意義については別途検討したいが、フェミニズム的解釈は誤りである。
 また中世教会婚姻法、教皇アレクサンデル三世(位1159-81)が決定的に採用した緩和的合意主義婚姻理論にもとづく、我は汝を我が妻とする。我は汝を我が夫とするというような現在形の言葉による誓約は、それ自体男女は対等の形式のように思える。
 中世神学最大の教師ペトルス・ロンバルドゥス(歿1159)の婚姻成立の方式に付いては、民法学者の塙陽子(註2)が次のように説明しているので引用する。教皇アレクサンドル三世が採用した緩和的合意主義的婚姻理論とロンバルドゥスの理論にほとんど隔たりはないと思う。
「先ず、合意が『私は汝を娶ろう』の意味において、≪ego te accipiam in uxorem≫≪ego te accipiam in maritum≫なる言葉でなされたとき、sponsalia per verba de futuro(未来文言の約婚)として婚約が成立する。これに対し『私は汝を娶る』の意味において≪ego te accipio in uxorem≫≪ego te accipio in maritum≫なる言葉で交換された場合には、 suponsalia per verba de praesente(現在文言の約婚)であって、婚姻はただちに成立する。しかしこの婚姻は所謂matrimonium ratum(et non consummatum)(未完成婚)であって、信者間にのみ成立する婚姻であり、原則として非解消で在るが若干の例外を認めうる。 すなわち、夫婦の一方が婚姻に優る状態であるところの修道生活に入る場合、又は教皇の免除(despensatio)を得た場合には解消しうる。この未完成婚の状態にある夫婦にcopula carnalis(身体的交渉)を生じた場合、始めて『二人の者合して一体となり』(erunt duo carne una)、キリストと教会の結合を顕わし、秘蹟としてmatrmonium ratum et cosummatum(完成婚)が成立する。これは絶対に不解消である。また、婚約の場合において、当事者がverba de praesentiを交換した場合、これは婚姻に転換するが、単に未完成婚にすぎず、完成婚になるためには更にcopula carnalis(consummatio)を要する。唯、verba de futuroを表示した当事者間においてverba de praesentiを交換する前にcopula carnalisを生じたときは、直ちに完成婚を生じた。したがってconsummatioは婚姻の成立に不可欠のものではなく、単に婚姻を不解消とするものにすぎない」
 図式化すれば以下のようになる。ロンバルドゥスは合意主義婚姻理論とされ、合意主義にこだわった神学者といわれるが、合衾の意義もそれなりに重視されており、巧妙に折衷させた理論といえるだろう。
①現在文言での約言(婚姻成立)→合衾(完成婚)
②現在文言での約言(婚姻成立)→合衾の前に修道生活入り又は教皇の免除(例外的に婚姻解消)
③未来文言での約言(婚約)→現在文言での約言(婚姻に転換)→合衾(完成婚)
④未来文言での約言(婚約)→合衾(完成婚)
古典カノン法の「推定婚の法理」の神学的論拠が④にある。
 
 また初期スコラ学者は、結婚の目的として、生殖とならんで、淫欲(情欲)の治療薬としての意義を強調した。「もし自制することができなければ結婚するがよい。結婚するほうが情欲に燃えるよりも良いからである」(第一コリント7:9講談社訳)。真正パウロは結局それくらいのことしか、結婚の意義づけを語っていないのである。コリント前書は西暦53年秋に執筆された疑う余地のないパウロ自身による真正の手紙であるから決定的な意味で重視したい。もし‥‥ならば結婚したほうがよいという仮言命法的な結婚の是認である。
 ペトルス・ロンバルドゥスによれば結婚の秘跡は罪に対する治療薬であり、恩寵を仲介しないものとされましたが、秘跡神学では婚姻の秘跡は結婚相手(男は女から、女は男から)から与えられるのであって(註3)、これは教会挙式主義を採用したトレント公会議以後のカトリック教会も神学的理念としては同じで、それ自体一見して男女対等の理念のようにも思える。要するに同毒療法としての結婚の意義、単婚非解消主義の夫婦の性規範においては男女は対等のようにも思える。また教会婚姻法はローマ法のように婚姻を権力関係ともみなさなかったし、ゲルマン法のように経済行為ともみなさなかった。それは秘跡であるから世俗的な支配-被支配の概念を超越しているともいえる。

 秘跡神学の結婚理念(註4)についてはまだ研究中途なので、とくに合衾の意義について十分精査していないので、結論的なことを述べませんが、伝統的な秘跡神学は(花婿)キリストと(花嫁)教会の統一を象徴するしるしとされ、花嫁は母なる教会に擬され女性の立場は十分に尊重されている。もともとキリストの花嫁とは童貞女の奉献を讃えるものだったが、11世紀より12世紀の秘蹟神学の進展により、結婚の意義付けにもなされ、人妻もキリストの花嫁とされたのです。
 簡単に言ってしまえば、夫と妻が(花婿)キリストと(花嫁)教会の統一に類比されているのですが、教会はキリストの望むことを望むのであり、キリストが指導者であり審判者であります。だから夫と妻の関係もおのずと明らかなことでしょう。ペトルス・ロンバルドゥスはコリント前書の11章の意義も論じていることも付け加えておきます。

 
  夫は領主(lord)、バロン(balon)と尊称されて当然
    
  近世イギリス、アメリカ植民地時代において、夫は妻より領主(lord)もしくは
バロン(balon)と尊称されていた。私はこのならわしを支持する。復活させるべきです。。
 ブラックストーンは婚姻の一般的効果としての夫婦一体の原則について次のように説明する「婚姻によって、夫と妻は法律上一人格となる。すなわち、婦人(woman)の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護(cover)の下に、彼女はあらゆることを行う。したがって、われわれの法律用フランス語では、feme-coventと呼ばれ、covent-baronすなわち彼女のbaronないし領主(lord)である彼女の夫の保護と権力のもとあるといわれる」。『英法釈義』1巻15章「夫と妻について」(註5)
 コモンロー上の夫婦一体原則について、私は家長である夫の主権と夫婦の羈絆性を明確にしている点で優れた法原則だと思っているが、前世紀に制定法により実効性を失った。それは社会的経済的状況の変化による。しかし、ロードもしくはバロンと尊称されてよいと思います。これはゲルマン法のムント(後見権もしくは人的保護権と訳される)に由来する。婚姻を経済行為とみなすゲルマン法を普遍的価値とみなすことはできないし、教会婚姻法や秘跡神学は婚姻の本質をローマ法のように権力関係ともゲルマン法のように経済行為ともみなしてはいない。秘跡神学では婚姻を教会とキリストの一致に擬され、女性は母なる教会に擬され尊重されており、結婚を封建的擬制としてとらえるものではないから理念的に合致するものでは決してない。しかし、結論を先に述べると、夫婦倫理としては文明世界の規範に合致する。創世記3章16節「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」という神の宣告は決定的なのであり、夫婦一体原則、夫はロード、バロンと尊称されるべき根拠となっているのであるから、秘跡神学の理念とずれがあっても全く正しい婚姻理念なのである。
 私がなぜ、ロードやバロンという尊称にこだわるのか。それは「神の姿と栄光を映す男性」(コリント第一11:7)の尊厳を回復しなければならないと考えるからである。

 家長たる夫は領主さまでなければならないのです。フェミニストは濡れ落ち葉だ粗大ゴミ呼ばわりして夫を貶めていますが、最悪です。こんなことが罷り通っているのは異常な社会ですよ。技術革新により家事労働は著しく省力化しているのに、夫にやらせようなんていうのは容認できない。そのような底意をもって男子高校生にくだらない家庭科教育を強制履修させている。人格形成にとって決定的な青年期に無駄な時間とエネルギーをかけさせている。あまりにも厚かましいじゃないか。ゴミ出しを夫にさせる妻は最低だ。家長としての夫はゴミ出しなんてやる必要は全くありません。そんなのはズバリ言います。ゴミだしは女の仕事です。領主さまが手を汚す必要はない。今日ほど男性の尊厳が毀損されているひどい時代はないと思います。  
 
 妻は奴隷のように夫に服従すべきだ

 次に新約聖書の家庭訓ジャンルです。これはペテロの第一の手紙と第二パウロ書簡(エペソ、コロサイ、第一第二テモテ、テトス)にある家庭訓です。これも西洋文明世界の家族倫理となっている。
 ここではペテロの第一の手紙についてのみ、聖書学者の荒井献(註6)より引用して言及します。これはペテロが著者でないことは文献学的な常識であり、2章24節以下がパウロの思想に近いこと、3章18節の信仰義認論、さらにパウロの同行者シルワノや同労者マルコに言及していることから、パウロ系の教会で成立した文書とみなされている。家庭訓は3章1節以下です。「同じように、妻たる者よ、夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく、清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるだろう。あなたがたは髪を編み、金の飾りをつけ、服装を整えるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和でしとやかな霊というという朽ちることのない飾りを身につけるべきである。これこそ神のみまえに、きわめて尊いものである。むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである」。
 聖書学者の荒井献氏は次のように説明する。「『仕える』と訳されているもともとのギリシャ語の言語はヒュポタッソーというギリシャ語でありまして、ヒュポというのは『何々の下に』を意味する前綴です。タッソーというのは『身を整える』。ですから『夫に仕えなさい』というのは夫の下に立ちなさい。夫に服従しなさいという意味です。(中略)もしもこの『同じように』が前の文脈の主人に対する奴隷の服従を受けるものとすれば、妻は主人に対する奴隷と同じように夫に服従せよということになります」。
 荒井氏がせっかく見事な訳出をされているのに、「もしも」と留保する意味がわからない。妻は主人に対する奴隷と同じように夫に服従せよという訳出でいいんじゃないですか。たんに夫に仕えるというよりは明確でわかりやすいです。それが西洋文明二千年の規範なのであります。東洋の三従の教えとはニュアンスが違いますが大きな隔たりはないともいえる。
 
 ここでは西洋文明2500年の伝統(旧約聖書)、2000年の伝統(新約聖書)、1600年の伝統(アウグスティヌス)、850年の伝統(古典カノン法-教会婚姻法)規範を逸脱しないことが原理原則であることを述べました。この文明規範の回復のためにわたくし川西正彦はフェミニズムとの文化戦争に突入することをここに宣言するものであります。
 そこでまず、時間的猶予のない皇室典範有識者会議の反駁に次回より着手したいと思います。

(註1)浅山郁「女子差別撤廃条約の報告制度と締約国からの報告 (女性そして男性) -- (外国における女性と法) 」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ 』日本評論社  (通号 30) [1985.07] 
(註2)塙陽子「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題(上)』1993 信山社
(註3)ウタ・ランケ・ハイネマン著 高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下
(註4)枝村茂「婚姻の秘跡性をめぐる神学史的背景」  『アカデミア』 人文自然科学編,保健体育編   (通号 25) [1975.03] (南山大学創立25周年記念号)
(註5)上野雅和「イギリス婚姻思想史-市民的夫婦一体観の成立をめぐって」46頁 なぜか出所が不明になった。申し訳ない。
(註6)荒井献「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容。さらに『荒井献著 第8巻』岩波書店2001にも収録されているはず。

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