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2006年1月の7件の記事

2006/01/28

国会議員の先生方へ

女性天皇に全面的に反対です
 

川西正彦(平成18年1月28日その2)

 自分のように下流の者が、畏れ多くも皇位継承云々と論じるのは憚られることではありますが、しかしながら政府の皇室典範改正案が事実上異姓簒奪容認、事実上の易姓禅譲革命合法化であり、皇朝、日本国を滅ぼす最悪の内容となっているゆえ、生意気ではあるが、やむにやまれず意見を述べることをどうかお許しください。我國體の精華を永遠に亙って護持することは、畏くも皇室を本宗と仰ぎ奉る臣民に課せられた責務であります。神聖不可侵の皇位國體の危機に際して、傍観できません。従って僭越ながら国会議員の先生方に法改正に賛同されないよう伏して願うものであります。
 私は、明確に女性立太子・女性天皇・女性当主・女系宮家に強く反対です。これらについては当ブログ「川西正彦の公共政策研究」に女帝即位絶対反対論と題するかなり長文の記事を多数掲載し、有識者会議の批判もあります。素人作文ですがご笑覧いただければ幸甚に存じます。
ブログ総目次http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_8f5a.html
 (私の氏名でヤフー・グーグル等の検索エンジンなら上位で出てきます)

 ここでは、有識者会議報告書でインチキな理屈を二点だけ指摘しておきます。こんなひどい報告書はないです。御皇室と国会議員を騙そうとしている。容易にインチキが見破ることができます。こんなものを認めないでほしい。

1.世襲原則の勝手な解釈は全く論理性がない

 1.(3)女子や女系の皇族への皇位継承資格の拡大の検討のウ伝統で次の記述があります。「皇位の継承における最も基本的な伝統が、世襲、すなわち天皇の血統に属する皇族による継承であることは、憲法において、皇位継承に関しては世襲の原則のみが明記されていることにも表れており、また、多くの国民の合意するところ」と述べ、女系であっても「皇族による継承であること」によって伝統を維持できるという底意で記されている。

このことにより、「女子や女系の皇族に拡大することは、社会の変化に対応しながら、世襲という天皇の制度にとって最も基本的な伝統を、将来にわたって安定的に維持するという意義を有するものである。」とされ皇族で繋いでいれば伝統に反しないと強弁しているわけですが、次に述べるようにこの理屈は破綻している。

 皇位継承が「皇族による継承であること」としているのは何を引用したものかというと、その出所ですが、たぶん女系継承容認で有識者会議に大きな影響を与えている、所功京都産業大学教授が平成17年6月8日の有識者会議ヒアリングで提出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」PDF。4~5頁の「男女皇族とも皇籍を離れたものは復帰できない」とする理由を述べた次の部分だろう。
 5頁にこうあります。「旧憲法の第一条に明文化された「万世一系の天皇」というのも、「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」以下略)。」
 しかし、原著の歴史家の村尾次郎の著書を読みますと、皇族で繋がっていれば女系でもよいなどとは全くいってない。それは「他姓の者に皇位が移されたことは絶対にない」としていることからも明白です。

 むしろこの著作は基本的に京口元吉の万世一系虚構論を論駁しているものだということがわかる。
 つまり、後桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です。京口元吉は今の民法で六親等までが親類なので、これは他人さまが入って跡をついだも同然だから万世一系じゃないとか言っているわけです。
 これに対して村尾次郎は「京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています」と批判し、「民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのというのは、皇位継承論としては全くでたらめ」と論駁しているわけです。前記村尾氏の著作を引用します。
 「万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称している」「皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます」「典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです」「江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと。それがすなわち「万世一系」の史実です」これは正論です。「ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵」と述べているから、この論旨から旧宮家排除という論理、ましてや女系容認を導き出すことはできません。
 むしろ所功が皇位継承を一般庶民の家名相続のような趣旨で女系を容認していることが、原著者の論旨に反しています。所功は原著の脈絡を無視して意図的に歪めた解釈でこの著作の一部を引用したため、ただ皇族で繋がってればいいんだみたいな誤った理屈にすり替えられ、独り歩きしてしまっているのです。だから有識者会議の理屈というのは非常にインチキなんです。詳論1月9日ブログ

2.出生数の確率論はインチキで全く論理性がない

.有識者会議は「少子化」問題を強引に結びつけて、男系継承では皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難と断定しているが、その際出生数の試算に用いられているのが合計特殊出生率 1.29-2004年というデータである。報告書は1.(2)男系継承維持の条件と社会の変化で「一般社会から配偶者を迎えるとするならば、社会の出生動向は皇室とも無関係ではあり得ない」として合計特殊出生率による確率論を展開するがこれは全くインチキだ。そもそも一般社会の出生動向と関連させて論じる前提についても疑問がないわけではないが、仮に有識者会議の発想を肯定して人口統計学上の指標を参考にするとしても、それは完結出生児数(結婚持続期間15~19年の夫婦の平均出生子ども数2.23-2002年)や、合計結婚出生率(夫婦の平均出生児数1.9水準といわれている)ではないのか。皇位継承資格者に限らず、ある社会階層に属するある家系(同族)の出生数試算としては、1.29という数値はあまりにも低すぎて合理的なものではない。
 合計特殊出生率は夫婦の出生力を示す指標ではない。非婚・既婚・離別者いかんにかかわらず女性の年齢別出生率を15~49歳にわたって合計した数値で、女性がその年齢別出生率にしたがって子どもを生んだ場合、生涯に生む平均の子ども数に相当するとされているが、結婚の動向により左右される。合計特殊出生率が低下している重要な要因は20代~30代の有配偶率の低下、独身者の割合が高くなっていることである。もっとも合計結婚出生率が低下していることは夫婦の出産ペースが落ちていることが指摘されているが、そもそも有配偶率、初婚年齢などは、社会的、経済的、文化的諸状況によって変位する変数であって、社会階層によっても異なるもの。これを単純に出生数試算の根拠にしているのは全く論理性がない。

 現世代を5人(男性)と仮定した場合に誕生する男系男子の子孫の数

有識者会議の試算-インチキ!
(合計特殊出生率1.29-2004年)

有識者会議報告書参考資料〔参考15〕PDF

1世(子) 3.23 (5×1.29×1/2)
2世(孫)  2.08 (3.23×1.29×1/2)
3世(曾孫)1.34 (2.08×1.29×1/2)

私の試算
(完結出生児数2.23-2002年)

1世(子)  5.72(5×2.23×0.513)
2世(孫)   6.54 (5.72×2.23×0.513)
3世(曾孫) 7.48 (6.54×2.23×0.513)

(なぜ完結出生児数-国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年の数値2.23かということですが、30年間2.2水準で安定した数値である完結出生児数による試算が合理的に思える。生涯非婚男子皇族や事故で結婚期間の短いケースも想定しなければならないとしても、一般社会のように経済的理由による出生数調整、避妊や中絶による出生数のコントロールはあまり必要ないと考えられるから、平均値を採用することにより、そうした不確定要因を相殺できると判断した。もし皇室の出生力をホワイトカラーより非農自営に準拠できるとするならば2.27という数値でもよいわけである。前掲第11回(1997)調査PDF9頁の以下の数値参照)。また人口統計では正確にいうと男子の産まれる割合は女子の105~106%であるから、私の試算では0.513を掛けた。

1997夫の現在職業別完結出生児数
農林漁業   2.64
非農自営  2.27
ブルーカラー  2.26
ホワイトカラー 2.17
 
 百歩譲って私の試算が甘いとしても、有識者会議の試算は次のデータから、全く不合理であることがわかる。国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年のⅢ夫婦の出生力「表Ⅲ-2-1結婚持続期間別にみた平均出生子ども数」結婚持続期間 
0~4年     0.75
5~9年     1.71
10~14年   2.04
15~19年   2.23
20~24年   2.30

 結婚期間0~4年の0.75と、5~9年の 1.71の中間が、有識者会議の試算で用いられている合計特殊出産数の1.29です。ということは、結婚5~6年での離別、離婚を前提として試算してしまっていることになります。これは御皇室を侮辱するものです。国会議員をこんないいかげんな理屈で騙そうとする、有識者会議はきわめて悪質なのです。詳論12月26日ブログ

女性天皇に全面的に反対の理由(2)

2.皇親内婚の男帝優先も皇室の伝統であり規範である

川西正彦(平成18年1月28日)

(1)皇親皇后(令制では皇后は内親王)の原則

 天平元年(729)八月二十四日の光明子(右大臣藤原不比等女安宿媛)立后ですが、当日は五位、諸司を内裏を喚し入れ、特別な立后の宣命がありましたが、この立后宣命には「我が王祖母天皇(元明か元正かで議論のある問題だがたぶん元明をさす)の、此の皇后を朕に賜へる日に勅りたまひつらく、其の父と侍る大臣の皇が朝をあななひ奉り輔け奉りて、其の父は夜半暁時休息ふこと無く,浄き明き心を持ちて……我が児、我が主、過ち无く罪なくあらば、捨てますなと負せ賜ひ宣り賜ひし大命によりて‥‥」とあるが、元明上皇が「捨てますな」と皇太子に命じたことは、元明と光明子の母県犬養橘三千代が親しかったことから事実だろう。

  このように立后の理由をくどくど述べ、弁解がましくも、はるか昔の仁徳皇后葛城襲津彦の女磐之媛命の立后の先例を挙げて、臣下の女子の立后はこれが新例ではないとして立后の正当化が図られてます。これは皇后の資格が皇親に限るという、原則・慣例があって、藤原氏皇后はこの慣例に反するものだからです。立后の意義に関する研究の基本的な文献として岸俊男の「光明立后の史的意義」(『日本古代史研究』所収塙書房1966)という論文がありますが、まずこの皇親皇后原則に関してまず引用したいと思います(註1)。
 

  岸氏は日本書紀では皇后の称が画一的に使用されているが、これは編纂時における統一だろうから、皇后の称については天智末年から天武初年を推定されてます。つまり莵野皇女(持統)からということです。それ以前は大后と称されていた身位が皇后とみなしてよいと思います。これはほぼ通説ですが、ここでは日本書紀どおり令制前大后も皇后とします。
 後宮職員令に「妃二員右四品以上、夫人三員右三位以上、嬪四員以上右五位以上」と規定されており、岸俊男は「妃以上は品位を有する内親王に限られる」(217頁)と解釈されています。皇后の資格規定はないことからこの見解には批判もあるが。岸説が通説です。又実態面からみても、日本書記天武二年二月条、皇后に天智皇女莵野皇女、妃に同じく天智皇女の大田皇女、新田部皇女、夫人に藤原鎌足女の二名と、蘇我赤兄女という事例が、後宮職員令に即したものであることを指摘されている。又「帝紀のうち信憑性のが高いとされる応神以後では、仁徳皇后の葛城襲津彦の女磐之媛命と仁賢皇后〔筆者註正しくは武烈皇后-原著者の誤り〕の出自未詳の春日娘子以外、皇后はすべて天皇の皇女または皇族たる王の女に限られている」とされ天皇の正妃が皇族から納れられた、允恭・雄略ころ、五世紀後半に大后の制が始められたとするのが岸俊男説である。
 日本書紀は皇親女子を姫、臣下の女子を媛と区別しており、この趣旨から磐之媛命を例外とみなすことになるが、磐之媛命も皇族とみなす説もあります。崇神天皇以後はそっくり皇親皇后と解釈することもできるわけで、皇親皇后原則というのは明確であると私は思います。令制においては皇后は内親王たるべしというのが原則であるとみなしてよいと思います。
 なお、岸俊男の通説に真っ向から批判するものとして成清弘和説(註2)がありますが、皇族皇后は日本律令の建前にすぎず、大后の成立を蘇我堅塩媛なのだというきわめて特徴的な説です。しかし蘇我堅塩媛は書紀では皇太夫人とされるのであって、后位ではない。この説には強い批判もあり到底賛同できない。
 一方、山本一也のように皇后は内親王たるべしというのは平安中期以後においても基本原則だったとしてその意義を評価する見解も出てきている(註3)。仁明天皇から宇多天皇まで皇后が立てられなかった問題について先行説を批判され、それは皇女をキサキとしなかったためであるとされる。又、冷泉天皇-皇后昌子内親王、円融天皇-女御尊子内親王、後朱雀天皇-皇后禎子内親王、後冷泉天皇-中宮章子内親王、後三条天皇-中宮馨子内親王という具合に平安後期においても内親王の入内は少なくないのであるが、山本は反面内親王を娶らなかった花山天皇、一条天皇、三条天皇について逐一検討され、系譜的に入内候補となりうる内親王が存在しなかったという。従って平安後期においても、「内親王を娶れる天皇は早期(東宮時代)に内親王を娶り、しかも最初に皇后としていると言える。これは当時でも、天皇の女は皇后たるべし、さらに言えば皇后は本来天皇の女であるという意識が存在したということではないだろうか」とされる、あくまでも皇后は内親王が基本原則だったという説である。
 しかし、ここで山本説に着目した趣旨は、日本では皇后という身位が古くは皇親、令制では原則内親王のための身位であったとみてよいと思ったからです。聖武生母藤原宮子は文武天皇の夫人であって、聖武朝では皇太夫人である。光明立后で慣例が破られたが、本来の制度では、諸王臣下の女子は夫人-皇太夫人で、内親王だけ本来后妃だったのではないか。院政期から鎌倉時代にかけて生涯非婚内親王の立后11例(9月27日ブログ参照)がみられますが、天子の嫡妻でない皇后という意味で令意に反しますが、日本では皇后がもともと内親王のための身位であるするならば原則に反するものではないと考えられるからであります。
 山本一也は令制前の皇親皇后の意義に次のようにいう。「かつては皇位継承争いを伴う非直系継承が支配的で、王権は絶えず動揺していた。そのような中では天皇の女との婚姻は皇位継承の前提として大きな意味を持ち、ゆえに王権周辺で指向されたのであった」とされる。この観点から5~6世紀から見ていきたいと思います。

(2)皇親内婚における男帝絶対優先の規則性

 継嗣令王娶親王条は「凡王娶〔内〕親王、臣娶五世〔女〕王者聴。唯五世王。不得娶親王」(〔〕はわかりやくするための挿入)と規定しますが、諸王は内親王以下、五世王は諸王以下、諸臣は五世王以下を娶ることができるとする規定である。言い換えれば皇親女子の内婚規定であり、諸臣との結婚を禁止するものである。つまり、男皇親(親王以下四世王まで)は臣下の子女を娶り得れども、女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとし、且つ五世王は二世女王以下を娶り得れども内親王と婚することを禁じ、臣下の男はただ五世女王のみを娶り得ると定めている(註4)。
 つまり内親王は天皇、親王、二世~四世王のみ結婚相手として適法である。この皇親女子の内婚規定は延暦十二年詔(9月22日ブログ参照)でかなり緩められ、平安中期以後では内親王降嫁という違法婚が目立つようになりますが、今日においても皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているように、内親王位を保持するためには皇族との結婚が前提になっており、歴史的に一貫した規範的意義を有する。基本理念は一貫している。
 
  9月10日ブログにもある程度書きましたが、男系論者は125代皇位継承が男系だということを強調しますが、私はそれだけでは足りないと思う。皇親内婚の天皇-后妃・女御には多くの事例がありますが、全て男帝優先であって、たとえ直系卑属の皇女であっても傍系皇親男子をさしおいて即位するということは絶対ないのです。皇親内婚における男帝優先規則というものも堅持されなければならないのです。というよりも、有力な皇親女子で皇親の配偶者が現存していればそれは后妃(平安時代には女御ということもありますが)なのであって、配偶者が現存する限り天皇となりえない。天皇は天下を知ろしめす最高君主なのだから、世界を統御支配する最高君主が性的な意味での女になってしまうことは論理矛盾である。天下を知ろしめす最高君主が性的な主体であっても対象にされるなどということは論理的にありえない。皇婿、皇配という日本語はないわけで、皇親内婚なら、直系、傍系いかんにかかわらず、男性が天皇、女性は后妃になります。そういう基本的な原理原則をフェミニズムへの迎合ゆえ否定するというのが耐え難く不愉快です。

   歴史的事例をみていきましょう。まず重視したいのが、仁賢天皇-皇后春日大娘皇女(雄略皇女)です。この結婚の意義は傍系の履中系の仁賢が允恭-雄略系の皇女を妻にしていたため、有力な皇位継承候補となったとみられること。清寧天皇の皇妹である春日大娘皇女が即位するのではなく、傍系の仁賢が皇位を継承して、允恭-雄略系の直系卑属である春日大娘皇女はあくまでも皇后ということです。私のいう皇親内婚の男帝優先原則とはこういうことをいってます。あくまでも皇親内婚では傍系男子皇族が即位して直系卑属の皇女はあくまでも皇后、このケースは入婿型とみる見解もありますが、あくまでも皇位を継承するのは男子です。女帝というのは、配偶者となる男帝の崩後、緊急避難的あるいは権力抗争の緩衝剤として即位するものであって、直系卑属の皇女の即位が優先するというような論理性は歴史上全くないということ。
 
   次に仁賢皇女の手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女がそれぞれ応神五世孫継体天皇、継体皇子の安閑天皇、宣化天皇の皇后であります。継体天皇は手白香皇女との結婚、立后を前提とした即位なので入り婿的ともいえますが、あくまでも直系卑属の皇女は皇后で、傍系でも皇親男子が即位するのです。手白香皇女を母とする欽明天皇が嫡系となり宣化皇女の石姫を皇后に立ててます。
 
  敏達天皇と御食炊屋姫尊(推古女帝)は異母兄弟婚ですが、井山温子(註5)が女帝誕生の経緯について、皇后の政治的権能から説明しているので引用する。「皇后(大后)が国政に関与するのは、天皇(大王)権が不在か不安定な場合である。まず御食炊屋姫尊が穴穂部皇子、宅部皇子を謀殺する詔を出すこと(崇峻即位前紀六月)や御炊食屋姫尊と群臣の推挙によって崇峻が即位していることから、新大王が即位するまでの間の前大后の中継ぎ的な統治権と皇位継承者の決定権が認められる」さらに崇峻天皇が殺害されるという王権の危機に際して、蘇我馬子によって御食炊屋姫尊が擁立された。推古女帝であります。このケースも御配偶の敏達天皇が崩御、同父母兄の用明天皇が崩御、さらに異母弟の崇峻殺害の後の女帝即位ですから、男帝優先であることはいうまでもありません。
 
   阿閇皇女(のち元明女帝)は天武五年~八年頃16~19歳で結婚した。御配偶の草壁皇子(父天武・母持統)は持統三年(689年)薨去されたので結婚生活は実質10~12年である。草壁皇子は即位できなかったが、父草壁、母阿閇皇女の軽が持統天皇の譲位により即位した文武天皇であります。しかし慶雲四年(707年)文武天皇の早世により緊急避難的に文武生母皇太妃阿閇皇女が即位した。元明女帝であります。このケースも草壁皇子や文武天皇がもっと長命であったならば、阿閇皇女が即位することもなかったわけであります。
 
  孝謙女帝のケースですが、あくまでも非婚内親王なんです。船王とか池田王といったような年齢的に釣り合う結婚相手となりうる皇親は存在したのですが、結婚はしていない。もし船王と結婚したなら、船王が即位して、阿倍内親王は皇后です。その選択肢もありえたわけですが、紫微中台政権を正当化するためには非婚女帝の即位のほうが望ましかったのだと思います。

 次に称徳女帝とは異母姉妹となる井上内親王ですが、 養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十八年退下(離任)、天平十九年二品直叙、宝亀元年立后、宝亀三年廃后、宝亀六年没(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する、伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十八年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは、斎宮の任務をとげたことによる。この前後に天智の孫の白壁王とみられている。今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。あくまでも傍系皇親男子白壁王が即位して光仁天皇、直系卑属の皇女井上内親王は皇后です。
 
   また桓武天皇-前斉王妃酒人内親王(母は井上内親王)、平城天皇-前斉王妃朝原内親王(母は酒人内親王)という異母兄妹婚の連続はきわめて特徴的な結婚ですが、これも女系で聖武と繋がる妃を持ったことに意義を認めてもよいです。『水鏡』によると他戸親王廃太子後の皇太子に、藤原百川が山部親王、藤原浜成が稗田親王、光仁天皇は酒人内親王を推したと伝えられています。『水鏡』は信憑性に乏しいともいわれますが、孝謙女帝の例もあるから、内親王が女帝候補に浮上した可能性は否定できない。

 酒人内親王は宝亀元年三品直叙、宝亀三年斎宮に卜定、宝亀五年群行、宝亀六年退下、後に二品、天長六年薨76歳、伊勢斎宮から帰京してまもなく宝亀七~八年頃、桓武の東宮時代22~24歳に結婚。容貌艶麗であった。非婚女帝だから問題の先送りとなりますが、内親王が独身のままだと女帝候補に再浮上する可能性があったのため妃とするのが得策とする皇太子の政治的判断があったのかもしれない。酒人内親王はもともと后腹で三品、父方で天智、母方で天武と繋がっている。一方、母が和史新笠で帰化系氏族の山部親王は四品で、酒人内親王の方が皇親の序列で上位だったわけです。しかしあくまでも山部親王が即位して、酒人内親王は妃である。その逆はありえないんです。
 結果論としていえば平城天皇についてはいまさら聖武に繋がる朝原内親王を妃に持ったところでメリットはなかった。朝原内親王は母も内親王なので外戚の支援がなく、内親王は寵愛されることもなかったため薬子の変で平城上皇が出家されたため妃を辞職している。
 
   次に冷泉天皇(村上皇子)-皇后昌子内親王(朱雀皇女)ですが、昌子内親王は朱雀天皇の唯御一方の皇子女であり、冷泉天皇は従兄弟になります。昌子内親王は村上天皇の方針で東宮憲平親王の元服加冠の儀当日に結婚し、冷泉践祚後、即位前に立后されていますから、内親王=皇后原則の回帰とみることができる。臣下の女子だと、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後ですから、本質的に政治行為なのである。これは冷泉天皇の皇統を正統とする意義があるという見方があります。しかし冷泉天皇は御悩あり、指導力を発揮しうる統治者とはいえない。また昌子内親王は冷泉天皇と同殿されることもほとんどなかったのです。それだったら昌子内親王が女帝でもよかったんじゃないかというかもしれませんが、御配偶の男帝をさしおいて女帝となることは絶対ありません。
 
   次に二条天皇の中宮ヨシ子内親王(高松院)ですが、近衛生母美福門院藤原得子が母です。美福門院は守仁親王(二条)を猶子にしていた。その妃に実娘のヨシ子内親王を結婚させたのです。この場合もあくまでも守仁が即位して、近衛天皇同母妹のヨシ子内親王は中宮(后位)であるわけです。鳥羽法皇崩後は美福門院が宮廷で求心力を有していた。後白河に譲位させて、二条を即位させたのも美福門院の指図です。それだったら猶子で血縁関係のない二条でなく実子の内親王を即位させてもよさそうだと思うのは間違いで、この場合もあくまでも男帝優先ということです。
 
 時代は近世に飛びますが、桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です後桃園天皇の唯一の皇女欣子内親王は中宮(后位)です。皇女が皇后で七親等離れた傍系皇親が即位する。皇親内婚とはそういうもの。
 
  天下を知ろしめす最高君主たる天皇が、性的対象になることはありえません。あってはいけないんです。論理矛盾です。私は中原誠永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座を尊敬します。それはやっぱり「突撃」発言です。やはり王者たるもの男というものは突撃しなければいけないんですね。世界の最高君主が突撃される側になるというのは論理矛盾でありまして、皇位とからむ皇親内婚では必ず、男子が天皇、女子は后妃、女御です。125代男系継承ということだけでなく、数多くの皇親内婚で例外はない。皇親内婚の男帝優先も決定的規範であることを強調したいと思います。
  日本的家制度(ここでは法的枠組みではなく我が国の家族慣行についての言及)では傍系親より直系継承を指向し、女系継承も、非血縁継承もありうるということで皇室と違いますが、あくまでも入婿は家長継承予定者として迎えられます。実子であろうと入婿、養子であろうと夫が家督相続し、家長を継承する。入婿が肩身が狭いというは心理学的側面を言っているだけで、あくまでも婿は家長予定者として迎えられるのであって、このアナロジーでもやはり男性が天皇でなければならない。それを否定するなら、婚姻家族の規範が崩壊します。日本においてはたんに労働力や子づくりのための当主となりえない入夫というのは伝統的な慣例に反しておりとても容認できない。一方、嫁であれ実娘であれ、女性が主婦です。主婦というのは慣例として、例えば家人、使用人の給与の配分とか、かなり大きな役割をもっているのではないかとも思ってますが、あくまでも婚姻家族の規範は夫が家長(家督継承者)、妻が主婦です。このアナロジーでいっても皇親内婚では直系卑属の皇族女子は、あくまでも后妃という身位でなければならればならないのは当然であります。
  この論点の反論として、華道「池坊」池坊由紀氏が次期家元で、元大蔵官僚の池坊雅史氏を婿に迎えている。これを女性当主の入夫の事例とみてよいかもしれない。こういうケースが伝統に沿ったものなのか、私は芸能家元の世界を全く知りませんので論評できませんが、皇室もこの例に倣ってもらっていいんじゃないかみたいな意見があるかも知れない。しかし、国家最重大事たる皇位継承と華道家元を同列の次元として論じるのが間違いであって、皇位継承とはそのように直系にこだわるものではないんです。「皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、〔傍系親も含む〕帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です」この点については、1月9日ブログの後段にある村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」の要所の引用をみてください。わかりやすい説明です。
  11月18日のなかのZEROホールの皇室典範改悪阻止集会で、外交評論家の加瀬英明氏が皇婿、皇配という日本語にない新奇な制度をつくりだそうとしていること非難され、とくに皇婿のように女扁のつく肩書きは馴染みませんと述べておられます(註6)。同感ですが、皇婿という身位は論理矛盾、要するに、男性配偶者を有する最高君主は論理矛盾なんです。ありえないことをやろうとしている。

(註1)なお皇后あるいは中宮に関する基本的文献としては橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962
(註2)成清弘和 『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令1)皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999「大后についての史料的再検討」
(註3)山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列--皇位継承に関連して」『日本史研究』470号 2001年10月
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」259頁
(註5)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
(註6)加瀬英明「どうしても伝えたい寛仁親王の真意」WiLL2006年1月号も同趣旨

2006/01/25

女性天皇に全面的に反対の理由(1)

 わたくしは、現東宮家の内親王の立太子・即位それ自体に反対でありますから、たんに女系継承反対論ではない。桜井よしこのような女系天皇に反対するが女性天皇容認という論者にも強く反対します。女帝、女性立太子、女性当主そのものに反対。第一子か男子優先かという議論は女帝を容認する前提であるから問題外になります。このブログ、だらだら長すぎ読むのに疲れるので、あらためて簡潔に述べることにしたいと思います。

1 生涯非婚内親王であることが前提となっていない以上前例に反するのみならず、たとえ生涯独身でも血統的に袋小路の状況での即位に正当性はない

川西正彦(平成18年1月25日)
  
歴代女帝十代八方を類別すると
第一 先帝皇后(前代以往の天皇の妻后を含む)が即位のケース‥‥推古(欽明皇女、御配偶の敏達とは異母兄妹)、皇極=斉明(敏達曾孫、孝徳皇姉)、持統(天智皇女)

第二 皇太妃(先帝生母)が即位のケース‥‥元明(天智皇女)

第三 生涯非婚独身の内親王が即位のケース‥‥元正(天武孫、文武皇姉)、孝謙=称徳(聖武皇女)、明正(後水尾皇女、後光明・後西・霊元皇姉)、後桜町(桜町皇女、桃園皇姉)
 
 第一のタイプ皇親皇后の即位は、御配偶の天皇崩後であり(推古女帝のケースは、敏達崩後、用明、崇峻の兄弟継承を経たうえでの即位であるが)、女帝即位は不婚独身であることが大前提である。中国の漢代など太后臨朝といって先帝皇后が権力を掌握することがあり、特に後漢はこのケースが多いのですが、中国の伝統では正統的な統治体制です(宋代であれば太后垂簾聴政)。
 我が国の場合は中国と違って、皇后が皇親であるというのが令制前の時代からの伝統で皇親内婚であるため(奈良時代の藤原安宿媛立后は慣例を破ったもの)、称制からさらにすすんで先帝皇后が即位することができるということです。

 第二のタイプ、元明女帝(諱阿閇皇女、天智皇女、母蘇我倉山田石川麻呂女姪娘)のケースは、文武天皇の早世により子から母への緊急避難的な継承でありきわめて異例であるため文武天皇の「遺詔」と、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。文武朝における阿閇皇女の身位は皇太妃であって厳密には后位ではないが、皇太后に准じた身位とみなしてもよい。御配偶の皇太子草壁皇子薨後18年後の即位であるが、草壁皇子は皇位継承予定者であったが、岡宮御宇天皇と追号されたのは薨後約70年後の天平宝字二年であり、阿閇皇女が后位にのぼされてない以上、第一の先帝皇后の範疇とは厳密な意味で区別した。いずれにせよ、即位後は不婚独身である。
 
 つまり第一、第二のケースは中国漢代の太后臨朝に類したケースから即位もしくは緊急避難的な即位です。権力抗争の緩衝剤という見方もあるが、いずれにせよ現今の女帝論議では、先帝皇后等の即位は想定されていません。そもそも皇后陛下も皇太子妃殿下も民間出身なので人臣の女子が即位することはありえませんから。そうした想定はなされていないわけです。
 そうすると、女帝の先例としては第三のタイプ、生涯非婚内親王だけです。聖武天皇の伯母にあたる元正女帝は聖武実母の藤原宮子が夫人位で后位ではなく重い鬱病で政治力がなかったため、聖武の准母のような立場での即位とみることもでき、第二のケースの変態とみなしてもよいが、とにかく非婚女帝の先例があるということで、生涯非婚を貫くことと中継ぎを絶対条件として女帝容認という考え方はありうるかもしれないが、結論としてこれから述べる理由から、現今の状況、血統的に袋小路の場合は正当性はないと私は判断するので、女性天皇絶対反対との結論です。
 非婚内親王即位の事例の性格についていえば中継ぎです。まず元正女帝は甥の皇太子首皇子15歳が幼稚であるため太子が成長するまで中継ぎとして即位した。
 後桜町女帝も甥の儲君英仁親王5歳が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である。あえて女帝即位はそれなりの事情があった。中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましくなかったことなどがある。
 明正女帝のケースは践祚の時点で後水尾上皇に皇子がなく異例だが、小槻孝亮の日記に後水尾天皇譲位の覚書が記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」(註1)とあり、実際弟の後光明天皇に譲位されているので、このケースも中継ぎである。(9月10日ブログに詳論)

 現今の状況に比較的類似している例が、聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し薬師寺宮に遷られたため皇子誕生の見込みがなくなり、直系継承が不可能になってしまって傍系皇親の皇位継承が必然化した状況にもかかわらず孝謙女帝が即位したケースである。
 但し現今のように女帝の次の男系男子皇族が不在であるのとは状況が異なる。傍系皇親が多数実在していた。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人親王王子では船王・池田王・守部王・大炊王、舎人親王孫の和気王、新田部親王王子では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王王子、安宿王・黄文王・山背王、長親王王子で智努王、大市王、奈良王がいた。孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註2)、皇位継承資格を有する諸王は多数実在していた。
 聖武上皇の遺詔で道祖王立太子-廃位、大炊王が前聖武天皇の皇太子から即位したが廃位、淡路配流、孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚により女帝健在のうちは皇太子が立てられず、結局天智系の大納言白壁王(光仁天皇)への皇位継承となったわけだが、非婚女帝であるから結果論として中継ぎなのである。
 歴史家(古代史)の角田文衛は「皇親の殺戮、追放に関しては、ローマ帝国のネロ帝、唐帝国では則天武后、日本では孝謙=称徳女帝が最も著名である‥‥称徳女帝に至っては、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であった」と述べておられる(註3)。ネロ帝・則天武后と称徳女帝が並べられれております。
 なるほど、孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死。つまり拷問で殴り殺し。塩焼王(臣籍に降下して中納言文部(式部)卿氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立され斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断がなされている。淳仁天皇の甥でありながら孝謙上皇に積極的に協力し、仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議兵部卿和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願したことが発覚して死を賜っている(伊豆配流途中絞殺)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放された。この事件は氷上真人志計志麻呂(天武曾孫)を皇位に就けようとして女帝の髪を盗んで佐保川で拾ってきた髑髏に髪を入れて宮中で呪詛するというおどろおどろしい事件であった(ところがこの事件は光仁朝の宝亀年間に誣告だったということになり厨真人厨女は属籍を復し、忍坂女王なども復権している)。塩焼王の子氷上真人志計志麻呂は土佐配流(註4)。
 むろん、天皇には即決処分権がある。裁判を経る必要などないのであって、有力な皇親を殺戮したり追放するの古典帝国の皇帝の宿命であったわけだから、殺戮を非難するものでは全くないし、殴り殺そうが、絞め殺そうがどうということはない。問題は女帝の次の皇位継承の混迷である。
 歴史上唯一の女性立太子例は天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王(孝謙)だけだが(9月11日ブログ阿倍内親王の立太子-天平十年史上唯一の女性立太子の特異性参照)天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註5)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である。女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたし、孝謙女帝の即位それ自体が変則的なのである(9月19日ブログ以下参照)。
 それゆえ女帝が真に権力者となり権力基盤を固めるためには新田部親王系、舎人親王系といった天武系有力皇親を壊滅させる必要があった。結局、称徳女帝が不予に陥った状況の皇嗣策定会議で皇位継承候補たりえたのは、天武系では臣籍に降下した前御史大夫(大納言)文室真人浄三(もと智努王)と弟の文室真人大市(ともに出家していた)だけだった。右大臣吉備真備によって推薦されたと伝えられているが、女帝が権力に執着したためにほとんど天武系は壊滅状態になってしまったのである。
 ということで、血統的に袋小路の状況ではたとえ非婚内親王でも皇位継承で混迷した前例がありやはり問題なのだ。天皇と上皇の共治体制は近親でないとうまくいかない。孝謙と淳仁は六親等離れており、光明皇太后の決裁で淳仁は前聖武天皇の皇太子として即位しているから、孝謙上皇は淳仁に親権を行使できる立場でなかったにもかかわらず、権勢に執着する上皇は、国政の大事、賞罰は上皇が掌握すると宣言して奪権闘争に突入していった。
 この教訓を生かすならば、たとえ非婚内親王を絶対条件としても現今の状況で女帝の中継ぎという選択肢は適切でない。
 もっとも私はこれまで書いたブログで光明皇太后の紫微中台政権、皇太后が天皇大権を掌握したことも、称徳朝の意義についても女帝についても実はかなり肯定的に評価もしている。それは律令国家成立期からこの時期まで天皇・上皇・皇后さらに皇太子も含めた共治体制が基本で、当初は聖武上皇も健在だったし、当時の政治力学では光明皇太后が主軸にならないと現実政治で政権の安定は難しかった。皇太后朝は聖武朝との政策の継続性もあり無難な政権だったのである。しかも光明皇太后は大炊王を前聖武天皇の皇太子として直系継承の擬制も行ったし、孝謙上皇の反対にもかかわらず、淳仁天皇の先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成させて確実な男系継承のため尽力されたのである。その後の政治的経緯、孝謙上皇の重祚は皇太后にとっては想定外のことであってこのことを別として、政権の安定的継承により傍系につなぐという意味で、皇太后との共治体制として孝謙女帝の意義を認めてよい。しかし現今の状況はそれとは全く違う。皇太后朝という安定政権によって律令国家を成熟させるという国家的課題があるわけでないので、たとえ非婚であっても女帝即位の正当性は孝謙のケースよりさらに弱いのである。
 政府-有識者会議の結論は旧皇族の属籍復帰を全面的に否定しているので、つなぎの女帝や歴史的に前例である生涯非婚を前提としていないのである。政府(有識者会議)案の女帝-女性宮家当主は当主となりえない入夫という非常に醜い婚姻を前提としているため前例のないものである。こんなものは到底容認できるものではない。結論として女性天皇は絶対反対ということになる。
 なお、同様の理由で宮家の女性当主にしても反対である。宮家の女性当主としては桂宮淑子内親王の例がある。仁孝第三皇女で、天保十一年閑院宮愛仁親王と婚約したが、天保十三年に親王が薨ぜられた。文久二年異母弟・節仁親王の薨後空主となっていた桂宮家を継承いで慶応二年准三后、一品に叙されている。これは婚約者を失った内親王を遇するためのものなのだろうが、淑子内親王は独身を貫いており、明治14年内親王薨去により継嗣がないため桂宮家は断絶した。この先例からみて女性当主を認めるには不婚でなければならないというのが絶対のルールである。
 女帝がなぜ非婚かという論点については、諸説ありますが、ここでは成清弘和説を二点だけ引用しておきます。成清氏は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されている。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註6)。
 それも重要な点だが、成清氏の『日本霊異記』下巻第三八話の皇后の用法の引用を読んで、妊娠出産という次世代の再生産は皇后の役割であって、妊娠出産する天皇というのは論理矛盾でありえないという認識を示していることを知った。
「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年始、弓削氏僧道鏡法師、與皇后同枕交通 天下政相摂、治天下 彼咏歌者 是道鏡法師之與皇后同枕交通 天下政摂表答也」
 称徳女帝を天皇と記さずに皇后と記していることに着目したい。成清氏によると「弓削氏の道鏡と「交通」り、共に天下を治めているのは「皇后」である‥‥つまり「皇后」とは「交通」り、次代の継承者を再生産するものであり、ともに天下を治めるものである、という認識の存在の指摘が可能」(註7)とされるのであるが、裏返していうと天皇に次代の再生産を求めることはできない。その役割は皇后だということです。昔からそういうことに決まっているわけです。だから、配偶者が現存する状況での女帝即位は論理的にありえない。それはもはや女帝ではなく皇后というほかない。称徳女帝は独身だから天皇であって皇后ではありえないわけですが、道鏡と「交通」の局面においては理屈のうえで皇后になってしまうわけです。
 要するに次代の継承者の再生産は后妃の役割、天下を知ろしめす天皇にはそういう役割はない。伝統的にそういう理屈になっているわけです。象徴天皇だから妊娠出産する天皇でもいいじゃないか。男女役割分担の定型概念打破のため、天皇や皇太子にも妊娠出産していただこうというのは皇位を侮辱するもの。

 
(註1)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註2)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註3)角田文衛『律令国家の展開』塙書房1965「天皇権力と皇親権力」26~27頁
(註4)倉本一宏『奈良朝の政変劇 皇親たちの悲劇』吉川弘文館歴史文化ライブラリー
(註5)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註6)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 141頁 
(註7)成清弘和 前掲書「大后についての史料的再検討」101頁

2006/01/14

女帝絶対反対論-当ブログ総目次(平成17年8月~18年1月9日)

   このブログは5ヶ月近くたちますが、ほとんどのテーマが女帝反対論で、反フェミニズム的論題が3~4回程度。反労働組合のテーマがないのは不備ですが、公務員の労働基本権付与絶対反対論など(16日の政労協議はきわめて不愉快)労働政策批判もやらなければならないのでそのうち出します。
 1月20日の通常国会召集で緊迫した情勢になりました。通常国会前には所功女系容認論駁・有識者会議報告書論駁をまとめるべきでしたが、仕事が遅くてまだ途中なので女帝反対論は延延と続くことになります。
 とはいえ所功、高森明勅、高橋紘、園部逸夫といった女系容認論者批判も不十分ながら一応取り上げており、素人作文ながら有識者会議のカウンターレポートとしてそれなりの内容・分量を既に備えています。又、自己ブログを引用するにも手間取ってしまっており、せっかく貴重な時間をさいて読んでくださる方にも不便だと悪いので、これまでの内容を総目次にしました。

8月21日
女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第1回
第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
1.はじめに *冒頭『国体の本義』を引用 
2.政府案は事実上の易姓禅譲革命是認案で日本国はおしまいだ
(1)政府案ではプリンスコンソートが非皇親・非王姓者なら易姓禅譲革命になり日本国は終焉する
(2)「吾朝は皇胤一統なり」
(3)日本的家制度との類比問題
(4)易姓革命なら国号を改める必然性
(我が国は中国の国家概念を継受している)
(中国王権と同じパターンの王朝名の由来)
(日本は王朝名)
(5)内親王に禅譲革命を演出する最悪の役回りを強要してよいのか
(6)非皇親(非王姓)帝嗣に剣璽等承継の資格はない
(7)非皇親(非王姓)帝嗣に高御座での即位、大嘗祭挙行の資格はない
                 
8月26日
3. 世論重視=孟子の革命説の採用は危険思想だ

8月27日
4.万世一系の皇位とは反易姓革命イデオロギーでもある

8月27日-その②
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
(1)継嗣令王娶親王条の意義
(2)天武と持統の婚姻政策の違い
(3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
(4)宗法制度との根本的な違い

8月27日-その③
(5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
 〔1〕令義解及び明法家の注釈
 〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
 〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ

9月1日
 今日の朝刊(9月1日)を読んで
*内容は有識者会議座長の発言を批判

9月3日
 〔4〕諸説の検討
 〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
*8月27日-その③と9月3日が高森明勅批判さらに女系が皇統でありえない理由を9月10日以下で詳述する構成。

9月7日
合衆国最高裁レーンキスト主席判事葬儀に思う
*内容は同判事がセクハラ判決で司法積極主義だったことが男性としてえらい迷惑だったから哀悼を表するほどのことはないとの論旨

9月10日

〔6〕皇親内婚の男帝優先
〔7〕女帝は皇統を形成できない
イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
     明正女帝
   後桜町女帝

9月11日
二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
*9月11日~19日-その2が孝謙女帝論 

9月19日

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
①譲位より出家が先行の変則性
②政務を託されたのは光明皇后
③光明皇后の指示による孝謙即位
*孝謙女帝論だが、現今の状況で女帝に反対する理由も述べている。

9月19日-その2
ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
*孝謙女帝論の続き

9月22日
(6)皇親女子の皇親内婚規則の変質-延暦十二年詔
(7)平安中期以後の違法婚
*継嗣令王娶親王条の意義の続編-8月27日-その②からここまで飛んで読める構成

9月25日
補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義
はじめに-近代の皇族概念との違い
(1) 皇親の員数
(2) 皇親の待遇
(3)皇親賜姓と皇位継承問題
文室真人浄三・文室真人大市
氷上真人志計志麻呂と川継
属籍を復すこともありうる
源融の自薦
(4)親王宣下制度
(5)未定名号の皇子の即位
未定名号から践祚当日元服命名の例1 後嵯峨天皇
未定名号から践祚当日元服命名の例2 後光厳天皇
*世襲宮家の意義は表題だけ。ここで取り上げないで、10月3日~16日、11月19~23日の高橋紘批判シリーズの表題で伏見宮を中心に論じることとした。中世常磐井宮と木寺宮については10月16日ブログ参照。

9月27日
(6)中世~近世の非婚皇女
*非婚内親王の准母立后制や比丘尼御所に言及

10月3日
皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見-高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか
(伏見宮家成立の歴史的意義と後花園天皇即位の歴史的意義)
*伏見宮が持明院統嫡流であり皇位継承の正統性を有するのであって、分派とみなす見解や、父系で遠縁という理由による切り捨て論を批判するシリーズ。

10月10日
同(第2回)補遺 伏見宮の成立過程
1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性
2 栄仁親王と緒仁親王の皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収

10月12日
同(第3回)石清水八幡宮の託宣の意義を否定してよいのか
*後嵯峨天皇が未定名号の皇子だった時代の八幡宮の託宣が後崇光院伏見宮貞成親王の『椿葉記』の由来になったことにちなんだエピソード

10月16日
同(第4回)
1 補遺 後花園天皇即位の意義
2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義
3 世襲親王家(定親王家)の意義
*亀山系の世襲親王家常磐井宮と後二条流の木寺宮についても言及

10月17日
旧皇族の属籍を復す方向で男系継承を堅持すべきである

10月23日
高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回)
*高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」の批判

10月30日
最悪だ!皇室典範に関する有識者会議は直ちに解散すべきだ
重大な問題について思考停止してしまう有識者会議に答申の資格はない
そもそも園部逸夫座長代理の持論は伝統否定容認論なので偏った人選だった

10月31日
本日発売の週刊誌について

11月1日
首相官邸へのメール

11月5日
三笠宮寛仁さま「エッセー」報道についての所感

11月6日
女系天皇容認の皇室典範改正は憲法第二条に反し違憲である
-有識者会議メンバー憲法二条の見解に対する反対意見-第1回
要旨
有識者会議のメンバーの見解についての疑問
園部逸夫の非論理性
小嶋和司説(世襲=男系継承説)
フランス王権の王朝形成原理との類比
*このあと女王が存在する英国の王権形成原理との違いや、ベルギーなど女子差別撤廃条約との絡みで王位継承に関する憲法改正を行った国の政策を批判する予定でいたが続編がない状態

11月17日
女帝反対論批判の反論(その1)
*女帝反対論に批判的なブログの反論というかたちをとった、女帝反対論

11月19日
女帝反対論批判の反論(その2)
後桃園天皇の継嗣問題と伏見宮
*前回の続編だが高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのかシリーズ
10月16日の続編にもなる構成になっている

11月20日
女帝反対論批判の反論(その3)
伏見宮の実系相続維持の意義と他の世襲親王家との違い
(八条宮相続の例)
(高松宮-有栖川宮相続の例)

補説 近い遠いは関係ないひとつの理由、近代皇室典範の長系・嫡系・近親優先主義と歴史的経過は異なることを理解すべきだ
(補説は少し粗っぽい立論になっているが、要するに中世~近世は僧籍に入って一生を終える皇子が多く、伏見宮家のように宮家の実系相続が続くと、皇位継承候補たる宮家が僧籍に入っている皇親よりも遠縁になるシステムなのだということ。鎌倉時代以前のように在俗皇親を支える経済的基盤に欠いているのだから、宮家も限定せざるをえないし、それも合理的なシステムだったと考えるものである)

11月23日
女帝反対論批判の反論(その3)
宮門跡還俗による伏見宮系宮家の創設の意義
持明院統文庫の伏見宮家相続の意義
結 論

12月4日
神の宣告(創世記3章16節)は決定的だ-反男女平等-文化戦争突入宣言
男性優位主義が文明社会の鉄則だ
女子差別撤廃条約の締約国の義務はCEDAWへの報告制度だけ
特定社会階層の利益のための女性政策
「人間の尊厳」を否定するが、男性の尊厳の回復を求める
 合意主義婚姻理論は形式的には対等にみえるが
 夫は領主(lord)、バロン(balon)と尊称されて当然
 妻は奴隷のように夫に服従すべきだ
*反フェミニズムの趣旨の概略、有識者会議がフェミニズムに迎合した見解を述べているので、まず自己の思想的立場を述べることとした。

12月18日
敵は本能寺!法案を叩き潰すために文化戦争に突入する
厚生省官僚-こちらこそ本物の悪のトライアングル
*古川-羽毛田-柴田のことです。先輩-後輩関係で繋がっている
最悪のシナリオ
性差別撤廃で婦人道徳完全崩壊の懸念
節婦表旌
女御藤原貞子出家の女性史上の意義
女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳
七出・三不去の制

12月26日
出生数試算のインチキ-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-
1.要旨
(有識者会議の試算は結婚後5~6年ぐらいでの離別・離婚を前提としたもの)
2.完結出生児数による試算のほうが合理的

12月29日
補説「少子化」問題の分析と対策についての疑問
(歴史人口学の理論)
(社会経済的要因とその問題点)
(文化的状況と問題点)
*26日のブログの補説

1月3日
基本的用語の説明からインチキ(1)-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-
1.皇統の概念規定からインチキ
2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか
(1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず
(2)律令の父系帰属原則
(3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-
(4)中国王権と同じパターンの国号の由来
(5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

1月4日 訂正記事

1月9日
所功の女系継承容認論駁・皇室典範に関する有識者会議報告書論駁(その1)
1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。
(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている
(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる
(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる歴史上の事例
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ

2006/01/09

所功の女系継承容認論駁・皇室典範に関する有識者会議報告書論駁(その1)

 目次
1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている
(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる
(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる歴史上の事例
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ

 川西正彦(平成18年1月9日)

 所功京都産業大学教授の女系継承容認論が有識者会議の方向性に大きな影響を与え、所功の説が報告書で多く採用されている。ここでは所功が平成17年6月8日の有識者会議ヒアリングで提出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」PDFを中心(以下「管見」と略す。とくに断らない限りこの論文から引用)についてそのインチキと非論理性を明らかにするとともに、併せて同趣旨を採用している有識者会議報告書を批判するものである。
 所功の説はインチキと非論理的な説明があまりにも多い。順序にこだわらず、一つづつ潰していくこととする。
 所功の論文からの引用は青色、有識者会議報告書は赤色とします。
 
 1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。
 

 有識者会議報告書は旧皇族の皇籍復帰を明確に否定する理由のひとつに
「いったん皇族の身分を離れた者が再度皇族となったり、もともと皇族でなかった者が皇族になったりすることは、これまでの歴史の中で極めて異例なことであり、さらにそのような者が皇位に即いたのは平安時代の二例しかない(この二例は、短期間の皇籍離脱であり、また、天皇の近親者(皇子)であった点などで、いわゆる旧皇族の事例とは異なる。)。これは、皇族と国民の身分を厳格に峻別することにより、皇族の身分等をめぐる各種の混乱が生じることを避けるという実質的な意味を持つ伝統であり、この点には現在でも十分な配慮が必要である」

 上記の部分についてはまず所功の論文の4頁以下の「男女皇族とも皇籍を離れたものは復帰できない」とする理由を述べた次の部分を根拠にしているものと思われる。所説を採用しているのでまずこの論旨について批判しておきたい。

(三)皇族による“"万世一系”の継承 
 ‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として「‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする」べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。
 最近も八木氏は‥‥、天皇の「血統原理」は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない」とか「大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる」という(註-略)。 しかし、これはいかがだろうか。もし神武天皇の男系男子孫に「Y染色体の刻印」が伝わっている。ということを皇位継承の資格要件とすればそのような男性は全国にたくさんいる。既に平安初期(八一五年)撰進の『新撰姓氏録』現存抄本(京畿内のみ)によれば、神武天皇より嵯峨天皇までの歴代から分かれた男系男子孫の「皇別」氏族が三三五もあり(註-略)、それに続く賜姓源氏や平氏などもきわめて多い。
 むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として「皇族」身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された「万世一系の天皇」というのも、「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」。なお、『太平記』にも「三種の神器は、古より継体の君、位を天に受けさせ給ふ」とあるごとく、皇位の継承者には、正当性を示す「三種の神器」が不可欠の要件とされてきた。ちなみに里見岸雄氏『萬世一系の天皇』(錦正社、昭和三十六年十一月刊)も大旨同趣。同氏『憲法・典範改正案』(同上、三十三年七月刊)では、皇位継承者として「皇族男子のない時は、皇統に属する皇族女子」を加え、その結婚(皇統出自の名族の入婿)も認める案が示されている)。
 (中略)ところが、八木氏とほぼ同意見の小堀桂一郎博士は、「人臣から皇族へ、復帰の実例」として三年余り臣籍にあった59宇多天皇のケースを見習うように説いておられる(註-略)。しかし‥‥この点には賛成しえない。
 何となれば、当時の立て役者である藤原基経は、要するに権勢家として恣意的に皇位を左右したのであって、このような策動を「政治家の器量」とか「遵依すべき道理」などと評価することは到底できないと思われる(註-略)。
 既に明治四十年、「皇室典範増補」の第六条で、「皇族ノ臣籍二入りタル者ハ皇族ニ復帰スルコトヲ得ズ」と規定した際も、その義解で「臣籍二降リシ皇族二シテ‥‥皇位ヲ践ミタマヒシ宇多天皇ノ例ナキニ非ラズト雖‥‥恒範ト為スベカラズ」と断っている。
 このような「上下ノ名分」(皇族と一般国民の区別)を厳守することは、国家秩序の維持安定に最も重要だからこそ、その法意を新典範(第五・第六・第十五条)も受け継いだのである‥‥」
 

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている

 上記の論旨は全面的に承服できない。いったん臣籍降下した者が属籍を復した例は歴史上かなり多数ある。有識者会議が強調するような極めて例外というほどのことではない。既にこのブログで述べていることとかなり重複しますが、あらためて述べます。
 『師守記』貞和三年六月十四日条裏書に「賜姓後立親王人」の先例として中納言源是忠(光孝男)、大蔵卿源盛明(醍醐男)、左大臣源兼明(醍醐男)、右兵衛督源昭平(村上男)、中納言兼征夷大将軍源惟康(宗尊親王男)、権中納言源忠房の計六例(註1)が挙げられてます、。大外記中原師守の日記ですが、これだけではないはず。賜姓後諸王に復帰した例も奈良時代に多数あります。
 平成17年5月31日の有識者会議のヒアリングにおける八木秀次の意見陳述資料(PDF)にもそうした例が記載されてます。そこで歴史上の事例について若干個別にみていきたいと思います。
 まず和気王は状況いかんでは皇位継承候補にもなりえた皇親である。舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)父は御原王である。天平勝宝七年(755)、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年(758)、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁天皇の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年(765)功田五〇町を賜った。しかし称徳女帝と道鏡を批判する謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)(註2)。
 天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみてみます。天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す(註3)。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える
 また、後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍源惟康については青山幹哉が賜姓と親王宣下の政治史的意義について論じている(註4)、将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現(つまり将軍は源氏であるべきだ)を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである
 弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり伏見天皇践祚、亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、幕府の政権変動に伴い源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。これも臣籍から皇親に属籍を復した先例である。なお、将軍惟康王-源惟康は大河ドラマ「北条時宗」でも登場したように記憶しておりこの間の事情は一般にもよく知られていると思う。
 
 ところで諸王の員数であるが、竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。また一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという(註5)。このように平安時代は諸王の数は多かった。しかし、季禄・節禄は10世紀半ばに崩壊し、11世紀末に太政官の受領功過定による監察体制が機能しなくなって、12世紀以降限定的に支給されていた位禄も支給されなくなり、12世紀以降は、皇親諸王を支える禄制は崩壊していったとみられる。中世以降は出家して法親王となるケースが多くなったほか、管領所領を相続しない限り、皇親諸王の王統を継承していくことは難しくなった。王胤の環境は厳しく一家を立てえず僧籍で一生を終わるのを常とした。
 そうしたなかで、順徳院流王統(岩倉宮・四辻宮)が、順徳上皇が承久の乱に深く関与し佐渡配流とされ鎌倉幕府に警戒されていたにもかかわらず、七条院領という経済的基盤を有していたため、四辻宮は室町時代まで存続した。ここで四辻宮善統親王と甥の岩倉宮彦仁王との所領相続をめぐる争いは複雑な経過なので深入りしないが、順徳曾孫の岩倉宮系の源忠房が後宇多上皇に頗る愛され猶子となり権中納言に昇進したのみならず、親王宣下され属籍を復した(註6)。このケースについては八木秀次が有識者会議のヒアリングでとくに言及されている。
 また系譜上順徳曾孫の四辻宮源善成(源氏物語研究など古典学の権威で歌人としても活躍した)であるが親王宣下を望んだことが知られている。小川剛生が忠房親王の実子である可能性を言及されているが(註6)、そうすると実系で順徳玄孫になり、令制の四世王に相当することになる。延文三年(1356年)善成王は源姓を賜り従三位に叙された。源善成は二条良基の猶子という格で昇進し、応永元年(1394)年には内大臣に、当時は足利義満が朝廷の人事を掌握していたが、翌二年には、管領斯波義将の口添えで左大臣にまで昇進した。善成は左大臣を辞退して親王宣下を望んだが、斯波義将に反対され到仕出家した。善成は古典学者として歌壇において名望があり、斯波義将ら上流武家を多く門弟としていて尊敬されていたので左大臣にまで昇進した。
 小川剛生は源善成が親王宣下を望んだその背景として、忠房親王の例を意識しており非現実的なものでなかったとする。大臣に昇った後に親王となったのは前中書王兼明親王の先例のみで、吉例でない。義将の反対もそんなところだろうと述べておられる。また南北朝時代に末流の王胤にも親王宣下が行われるようになったことを挙げている(註7)。
 これについては、10月16日ブログでも既に述べているとおり、常磐井宮恒明親王の孫(亀山曾孫)の満仁王二十八歳が永徳元年(1381)に足利義満の推挙により親王宣下された例や、時代は下るが、後二条五世孫の木寺宮邦康王が後崇光院貞成親王の猶子となって親王宣下された例をあげることができるが、これらは属籍を復したのではなく宮家としての家格を確立するための親王宣下である。
 以上述べたように属籍を復した例は多いのだが、有識者会議報告書参考資料の45頁「皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例は宇多天皇の子の事例がみられるのみ」として例外性を強調し、旧宮家の皇籍復帰を否定する理由としている。
 しかし 皇親の数が少なくなった中世以降は王胤の環境が厳しく、僧籍に入って王統は途絶するケースがほとんどなのである。令制の禄制・国家的給与は11世紀末までに崩壊しており、また親王宣下でなければ皇親に復帰する意味はなく、親王宣下は常磐井宮・木寺宮・伏見宮のように皇位継承の正統性を主張できる由緒があるか、管領所領を相続できなければ実質的に親王宣下は難しいのであって、皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例が中世以降ないのは当然のことだろう。有識者会議がことさら例外性を強調し過ぎである。

(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる

 また所功は明治四十年の皇室典範増補が皇族に復すことを否定した。このことの意義をことさら強調するが、この点については明治皇室典範制定までの経緯から考えてみたい(註8)。
 幕末期より以前は世襲親王家として伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の四宮家しかなかったのである。しかし、幕末動乱期文久三年(1862)二月伏見宮邦家親王の第一王子青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王(後に賀陽宮、久邇宮に改称)となったことを皮切りに(11月23日ブログ参照)、明治初年以降も宮門跡還俗により伏見宮系の宮家が次々と創設された。
 しかし、明治三年十二月に四親王家の存続を認めるが、新たに取り建てられた親王家は二代めより姓を賜って華族に列する布告が達せられ、皇親の範囲を限定することになったが(なお明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている)、この政策は有名無実になった。
 明治五年に北白川宮智成親王薨後を兄の能久王に継がせ、明治九年には華頂宮博経親王の王子博厚王を明治天皇の特旨をもって皇族に列するなどして明治十年代後半の段階で伏見宮・有栖川宮・閑院宮・山階宮・華頂宮・東伏見宮・梨本宮・北白川宮・久邇宮の九宮家が存在し、明治二十二年の皇室典範制定まで賜姓降下で華族に列したケースは一件もなかった。そうしたことで内規取調局(明治十五年設置)の調査立案段階では宮家の数を限定し、皇族数を限定しようとした。皇族の品位を保持するためにも多すぎるのは好ましくないという考えがあったようだ。
 島善高によれば(註9)井上毅が内規取調案に反対したためか成案にならなかったのだという。つまり井上は「継嗣ヲ広メ皇基ヲ固クスル」ためには五世以下を華族に列するのは不可であり、親王宣下も光仁帝以来の古礼であるから一概に抹殺できないだろう。親王宣下の存続、四親王家存続等を主張、皇室の繁栄のためにも永遠に皇族の身分に留まるべきであるとの立場をとった。
 高久嶺之介(註10)によれば、「皇室典範艸案」段階では、宮家の数を限定しようとし「皇位継承権者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距タルコト五世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍二列シ爵ヲ授ク」と規定したが「皇室典範枢密院諮詢案」では賜姓降下規定が削除され永世皇族制となった。周囲の批判的雰囲気をおしてこの制度の採用は伊藤博文、井上毅によるものだったという。井上は枢密院会議で「五世以下皇族ニアラサルトスレハ忽チ御先代二差支ヲ生スヘシ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フヘキ事」と述べたという。
 ただ、明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという口実で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなった。これは永世皇族制を採用した妥協なのかもしれない。
 しかし江戸時代の世襲親王家(八条宮や高松宮・有栖川宮の例)はしばしば後嗣なく、天皇や上皇の皇子を継嗣として宮家が継承されたケースが少なくない。〔11月20日ブログ(八条宮相続の例)(高松宮-有栖川宮相続の例)参照〕。また閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承されている。世襲宮家の数が限定されていれば養子もしくは皇子や他の宮家の皇親が遺跡を継承していくことでなければ宮家は存続しないし、皇位継承の備えとなる候補の絶対数が不足してしまうことは江戸時代の例でも明らかである。
  にもかかわらず、幕末維新~明治にかけて宮家が急増したことと、諸門跡比丘尼御所の廃止により僧籍に入ることがなくなったこととも関連するが、皇族の員数を限定しようという動きがあった。しかし伊藤博文や井上毅により、永世皇族制を採用したためか養子も否定し、さらに明治四十年の増補で属籍復帰も否定したという脈絡であろうが(明治三十三年に賀陽宮、三十六年に東伏見宮、三十九年には竹田宮、朝香宮、東久邇宮が立てられており、宮家がさらに増加していたという事情)、今日、皇位継承資格者の絶対数が不足している危機的状況にあり、明治~昭和22年以前の皇族が多数現存していた時期の環境と異なる。所功のように明治四十年の皇室典範増補の規定にこだわるのは本末転倒。歴史的に古くから属籍復帰の事例があるのだから、中古の例に倣うべきである。

(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる

 所功がいうように、定省王が源定省だった期間が3年間で宇多天皇は例外的との見解を仮に受け容れるとしても、私は既に9月22日ブログで、安田政彦の「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」(註11)とする説を引用しているとおり、皇親男子の候補者が少ない状況や特殊な事情においては臣籍に降下した者でも皇位継承候補者たりうると考える。
 
 文室真人浄三・文室真人大市については臣籍に降下しても有力な候補者であった。称徳女帝は皇太子を立てることなく不予に陥り厳戒態勢がしかれた。『日本紀略』宝亀元年(770)八月癸巳条は「百川伝」を引いてそのときの皇嗣策定会議は激論紛糾したことを伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、前大納言文室真人浄三(もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王(光仁天皇)を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとったとされている。これを史実として確定できるかについては批判的な見解があり(註12)、私も偽作という点については疑問に思うし左大臣藤原永手が称徳朝を支えた実力者とみれば白壁王立太子で順当だと思うが、仮に史実とは違う可能性を認めるとしても称徳女帝のブレーンとして活躍し右大臣にまで昇進した吉備真備が浄三・大市を推薦し候補者として急浮上したという話が伝えられているということは、当時の貴族が臣籍に降下しても属籍を復して、立太子という手続きをとることもありうるという認識を示している。
 また天武曾孫、新田部親王の孫である氷上真人志計志麻呂と氷上真人川継の兄弟が、天武系王氏、しかも母が聖武皇女不破内親王で聖武とも近親であるため皇位継承者に担がれようとしたこと。とくに桓武天皇の治世の初期、延暦元年閏正月の川継の謀反については藤原浜成・大伴家持・大伴伯麻呂といった参議クラス、武官長老の坂上刈田麻呂をはじめ大量の連坐者を出したこと、さらに理由不明だが、左大臣藤原魚名の左降追放も川継の謀反との関連を想定する説もあり、相当な企画性を有した深刻な事件であった可能性がある(註13)。当時の貴族は第一に血統を重視しており臣籍に降下したことが、皇位継承資格を喪失するものではないとみることができる。
 陽成天皇遜位の後、『大鏡』が伝える左大臣源融(嵯峨源氏仁明猶子)が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承に意欲をみせたところ、関白太政大臣藤原基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴したエピソードについては、必ずしも賜姓源氏は皇位継承者たりえないという解釈をとる必要はない。当時は親王の数が多く、賜姓源氏まで候補者を拡大する必要はなかったし、政治家の実力としては基経が断然上であり、基経の意中は当初から一品式部卿時康親王(光孝天皇)であったと考えられるから、源融の軽口を一喝したということだろう。
  
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

 所功の「管見」は次のようにいう。「‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として『‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする』べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。最近も八木氏は‥‥、天皇の『血統原理』は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない』とか『大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる』という(註-略)。しかし、これはいかがだろうか‥‥(中略)‥‥ むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として『皇族』身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された『万世一系の天皇』というのも、『天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味』に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)以下略)。」
 つまり村尾次郎の「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」という「万世一系」の定義を所功は旧皇族皇籍復帰を排除する理由として挙げているが、これから述べる理由で全く論理性がないと私は断言する。
 この引用の解釈というのはきわめて悪質でインチキなのだ。つまり「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され」という見解が原著者の論旨と離れて全く違った意味に独り歩きしてしまっている。それは所功が「管見」要点で「日本の天皇として本質的に重要なことは、男性か女性かではなく、国家・国民統合の象徴として公的な任務を存分に果たされること」などとして、女性天皇・女系天皇を容認していることから、この見解が男系・女系いかんにかかわらず皇族で繋がってればいいんだみたいに女系継承容認論に都合のよいように歪められて解釈される傾向になっていることだ。
 例えば有識者会議報告書Ⅲ-1-(3)-イ「今日、重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたことや皇室の中で成長されたことであると考えられる」という結論に所功説が採用されていることを看取できる。さらに1月3日ブログ で引用した『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事におけるある有識者会議委員の発言
「皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」(154頁)。
 これにみられるように、男系女系いかんにかかわらず皇族で繋がっていればいいんだみたいに極めて安易な発想の論拠とされてしまっているように思えるのである。
 それゆえ、所功の村尾次郎の引用による歪められた勝手な解釈は断乎容認するわけにはいかないのであります。
 
 そこでまず原著 村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」129頁以下要所を引用します。

 「一系」の正しい意味
「皇統は万世一系ではない」という説は一部の歴史学者によって唱えられ‥‥それは一系の意味についてまったくの誤解、あるいは曲解から出てきたことであり、国民を迷わすも甚だしい説であると言わなくてはなりません。
 皇統一系とは、天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承されてきたこと、つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味であって、「父から子への相続関係」で貫かれてきたという意味ではありません。万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称しているのです。‥‥‥‥皇室におかれては実に百二十四代を重ねておられるのです。国の中心に立たれ‥‥百代にあまって皇位と血統との一致の上に皇統を維持して来られたのですから、それがいかに困難なことであったか、よくよく考えるべきことだと思うのです。この困難を克服し、皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます。‥‥典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです‥‥大化改新以来の律令制度では、天皇の御子(親王)から数えて四世、または五世の諸王までを「皇親」とし、当代の天皇に皇子や皇兄弟がなければこの皇親諸家の中から皇太子が選定されることになっていました。皇親であっても、姓を賜って臣籍に降る人がかなりあり、特に平安時代にはその現象が顕著になりましたから、皇親の人員は時代の下降、家族制度の変化とともにむしろ減少し、範囲も狭められてきました。鎌倉時代には、大覚寺統と持明院統の両皇統が交互に皇位を継承され、江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です。‥‥
 
 皇位の継承は家を継ぐのではなく位を継ぐこと
 参考までに、学者の誤った見方を紹介します。
 
 万世一系といいますが、僕の計算では万世七系ですよ。今の皇室は、六代前からの皇統でしょう。閑院宮から入って嗣いだのですが、今の民法で、六等親までが親類だというなら、他人さまが入ってその跡を継いでるんですよ。
 
 これは、講和が成立し、日本が独立を回復した昭和二十七年の七月に発行された総合雑誌『改造』の増刊号「生きるための日本史」の中の共同討議「日本史はいかに捏造されたか」の記事で、早稲田大学の京口元吉教授が述べているところです。京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています。家名相続は他人の養子でもできますが、皇位の継承は家を継ぐ事ではなくて位を継ぐことであり、しかも皇族たる宮家の所生(しょしょう)という基礎条件の上にのみそのことは行われるのですから、今の民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのと言うのは、皇位継承論としては全くでたらめです。とうていまじめな歴史家の学問的根拠にたった見解であるとみなしえません。

 
 以上が引用です。原著を読めば明らかなように村尾次郎博士は、いったん臣籍に降った皇親が属籍を復すことを否定するという脈絡で「天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承」と言っていません。ましてや男系でも女系でもよいから皇族で繋げればいいんだなどとは全く言ってない。原著の趣旨を歪めてます。「つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味」であるから女系容認論でないことは明らかです。そもそも、この本が出版された昭和43年というのは秋篠宮殿下は既に誕生されていた。その後、まさか女子が9人も続くなんてことは誰も想像していなかったことで、今日のような女帝容認論や皇室典範改正は政治日程には全く無かった。旧皇族排除の論理としてこの論文を引用することは、唐突というか不可解です。所功の論法は原著の文脈を無視して特定の文句を都合のよいように引用したこじつけとしか思えません。
 この論文は基本的に京口元吉の万世一系虚構論を論駁しているものだということがわかる。私は1950年代のことは生まれる前でよく知らないが、京口元吉のような勘違いの万世一系虚構論がわりあい広まっていたのかもしれない。そういう誤解を正しているのが村尾次郎博士です。
 つまり、後桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です。京口元吉は今の民法で六親等までが親類なので、これは他人さまが入って跡をついだも同然だから万世一系じゃないとか言っているわけです。
 これに対して村尾次郎は「京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています」と批判し、「民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのというのは、皇位継承論としては全くでたらめ」と論駁しているわけです。
 「万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称している」「皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます」「典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです」「江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと。それがすなわち「万世一系」の史実です」これは正論です。「ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵」と述べているから、この論文から旧宮家排除という論理を導き出すことはできません。
 「万世一系」とは直系継承のことではない。それは誤解であって、傍系親族を含めた帯状の幅のなかで皇位を継承してきたという趣旨は、むしろ男系継承論の八木秀次(例えば「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」2004年9月号 Voice 「近代の天皇制度の基礎を築かれたといっていい光格天皇が傍系のご出身で、途中から図らずも皇位を継承されたという事実は、皇統とは何か、そして今日の皇統断絶の危機をどのようにして乗り越えるかについて考える際に大きな示唆を与えてくれる」という見解、あるいは小堀桂一郎「女性天皇の即位推進は皇室と日本国の弥栄に通ずるか」『正論』平成17年5月号の「直系の皇嗣(?)が女子しか居られない場合、皇位を継ぐべきは直系の皇女ではなくて傍系の男性皇族とした‥‥且つその傍系の皇胤を‥‥皇統譜(民間なら族譜)の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇や大行天皇の猶子とする、といふ手続きを履んだ」〔この見解を補足すると後花園天皇は後小松上皇の猶子として皇位を継承し、光格天皇は後桃園天皇女御藤原維子の猶子、藤原維子は皇太后となる〕という趣旨に類似しています。むしろ男系論者に有益な論文なのです。
 むしろ所功が家名の相続との類比により女系継承を容認しているので、京口元吉説にある意味で接近しており、村尾次郎の論文の趣旨に反しているのではないですか。

つづく

(註1)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005「附章 四辻善成の生涯」578頁の註(9)〔初出「四辻善成の生涯」『国語国文』69巻7号 2000〕
(註2)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 174頁参照
(註3)http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/moribe.html
(註4)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註5)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁
(註6)小川剛生前掲書 558頁
(註7)小川剛生前掲書 562~563頁
(註8)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994、高久嶺之介「近代日本の皇室制度」鈴木正幸編『近代日本の軌跡7近代の天皇』吉川弘文館1993所収
(註9)島善高前掲書14頁
(註10)高久嶺之介前掲論文139~140頁    
(註11)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号
(註12)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註13)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9

2006/01/04

正月ぼけでつまらないミスを

紅白歌合戦でゴマキとかアヤヤをみて興奮したためか、つまらないミスをしてすみません。前回のブログで光孝天皇の姪が人康親王女(二世女王)でその子どもが藤原時平です。それなのに「光孝の甥」とか書いてしまって迂闊でした。訂正します。つまり宇多天皇と時平の母がイトコ、醍醐天皇と時平はマタイトコ。

  ところで今日の毎日新聞を駅で買って読みましたが、寛仁親王殿下が単独インタビューで再度、皇室典範問題に言及されています。再度発言されたのは通常国会を意識され強い危機感によるものでしょうが、ここまで切羽詰まった状況にしてしまったこと。自分も国民の一人として大変申し訳なく思ってます。自民党内閣部会の段階で国会に提出することなく潰してもらわないと情勢は厳しくなる。従って今月は死力を尽くすしかないように思う。

2006/01/03

基本的用語の説明からインチキ(1)-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-

 通常国会が開かれてから、自民党の内閣部会が天王山となるようだ。正月から決戦モードで気合いを入れていきたい。今回は従来述べてきたことの繰り返しが多く新味がありませんが、次回は所功の女系容認論反駁をやる予定です。

川西正彦(平成18年1月3日)

 目次 1.皇統の概念規定からインチキ
     2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか
      (1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず
      (2)律令の父系帰属原則
      (3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-
      (4)中国王権と同じパターンの国号の由来
      (5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

1.皇統の概念規定からインチキ

 皇室典範に関する有識者会議報告書がいかに汚い内容か。議論の前提となる最初の「基本的用語の説明」からインチキなのである。人を騙そうとする悪意に満ちている。

冒頭の「皇統」の説明から間違ってる。有識者会議報告書の引用は赤字とします。 
 
基本的な用語の説明
〔皇 統〕
・ 「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。


 この概念規定はあまりにもルーズでいい加減、たんに、歴代の天皇と繋がる血統という文言だと、女系も含むものと解釈されうるわけで報告書は一行目からインチキです。
 
 女系で歴代天皇に繋がっていれば皇統ということなら、平安時代の摂関継承家や閑院流藤原氏も皇統 ということになってします。そんなばかなことがあってたまるか。
 例えばこういうことです。関白藤原基経の正妻が人康親王女(二世女王)、基経と人康親王は母方で従兄弟でもありますが、左大臣藤原時平、左大臣藤原仲平、醍醐后朱雀・村上生母藤原穏子(天暦大后)の生母は人康親王女です。なお関白藤原忠平の生母については歴史家によって見解が異なるのでここでは不確定としておきます。
 つまり延喜新制期の左大臣藤原時平(本院大臣と称される-註1)ですが、母方で承和聖帝=仁明天皇に繋がっております。母方を遡っていくと人康親王女-人康親王-仁明天皇です。光孝天皇と人康親王の母が女御藤原沢子(贈皇太后)である。時平の母方大叔父が光孝天皇であり、醍醐天皇とはマタイトコになります。
 仁和二年正月二日、内裏仁寿殿において時平は元服の盛儀を挙げた。光孝天皇が手ずから冠を加え即日親筆の位記をたまわって正五位下に叙された(註2)。功臣の嫡子としての殊遇であったが、天皇手ずからの加冠は時平と仲平の例しかなく、空前絶後の殊遇は基経の権力の大きさを物語るが、それは時平が光孝天皇と近親という意味も含むと思う。時平と仲平が女系で天皇と繋がっていることは、それなりの意味があるとみてもよい。
 しかし、時平・仲平は北家藤原氏嫡流、藤原氏長者であるが皇統の男子ではもちろんない。仁明天皇と母方で繋がるが皇統ではないです。たんにこの例をもってしても「「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。」という非常にルーズな有識者会議の定義は誤りであることは明白。時平が皇統男子だったら君臣の区別がつかなくなってしまう。
 くどいようだが、9月22日ブログと同じことを述べます。右大臣藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)と結婚した。違法であるが勅許による。さすがに康子内親王は后 腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 為光や公季は醍醐天皇の外孫、朱雀天皇・村上天皇の甥にあたり、母方で天皇に繋がってるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇胤でないから太政大臣に任ぜられても皇位継承者には絶対になりえない。母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子(嵯峨源氏-近江更衣・中将更衣と称される。左大臣源高明の母)、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえるが、皇位継承者には絶対になりえない。
 それでも女系継承策動の厚生省出身官僚・悪のトライアングル 古川-羽毛田-柴田 (私が命名しました)は女系も皇統といいはるんだろう、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇胤でないから皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。もし為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。有識者会議報告書のルーズな皇統の定義では藤原為光や藤原公季は皇統男子になってしまう、そんな非常識なことがまかりとおってたまるか。
  また、関白忠平の生母が人康親王女でないとしても、忠平は宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。要するに摂関家は小野宮流(実頼流)にせよ、九条流(師輔流)にせよ母方で天皇に繋がっている。
 要するに報告書の非常にルーズな皇統の概念規定では平安時代の摂関家、清華家の閑院流藤原氏・村上源氏という上流貴族が皇統という概念でくくれてしまう。そんなばかな理屈があるか。
 有識者会議の笹山晴生は日本古代史の専門家でありながら、こんないいかげんでルーズな概念規定に賛同してお墨付きを与えてしまったので重大な責任がある。学者として良心のひとかけらもない。根性が腐ってますね。もしあなたの弟子がこのようにいいかげんな概念規定をしてその論文を推薦できますか。あなたが学界実力者なら、藤原時平も藤原公季も藤原道長も藤原実資も女系で天皇に繋がってるからみんな皇統男子だと教科書を書き換えてくださいよ。そういう歴史を歪める無茶苦茶なことでいいんですかと言ってやりたい。
 花園上皇の『誡太子書』(註3)によると「吾朝は皇胤一統なり」として易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を甥の皇太子量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えたものだが、これはPDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」にも記載されていることです。
 男系でも女系でも天皇に繋がれば皇統だみたいな有識者会議のルーズな概念規定と『誡太子書』の「皇胤一統」という明白な男系継承概念は論理矛盾です。明天子と誉れ高い花園上皇の見解が誤っているのですか。そんなばかな。笹山晴生があくまでルーズな概念が正しいというなら、花園上皇を反駁してくださいよ。
 
 皇室典範の「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」は、明治皇室典範を継承するものであるが、その皇室典範義解(註4)によれば「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法ナリ‥‥祖宗ノ皇統トハ一系ノ正統ヲ承クル皇胤ヲ謂フ‥‥祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ者蓋シ左ノ三大則トス
第一 皇祚ヲ践ムハ皇胤ニ限ル
第二 皇祚ヲ践ムハ男系ニ限ル。
第三 皇祚ハ一系ニシテ分裂スベカラズ」

 「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法」なのである。この決定的な法規範、皇統概念について明確な根拠もなく非常にルーズな概念規定に変えてしまっている。有識者会議報告書は基本的用語の説明-議論の前提からインチキをやっている、これほど人を騙し汚い報告書はない。この一点だけでもこの報告書は棄却されるべきである。
 
 ところで有識者会議でもヒアリングで呼ばれた高森明勅は、『養老令』は双系主義を採用していた。女系も皇統などという虚構の奇説(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号78頁)を説いているが、高森説について私は8月27日その③で反駁してます。しかし、それ以前に同じ女系論者の所功が6月8日の有識者会議ヒアリングで名指ししないものの高森説を明確に否定している。にもかかわらず高森明勅は11月22日のテレビ朝日スーパーモーニングに皇室典範問題の解説者として出演し、当日の録画を採ってますが、8時52分に「皇統のなかには女系も含まれうる云々」と相変わらず大嘘を言い、司会の渡辺宣嗣が肯いていたが、高森の持説は完全に破綻しているのです。
 
2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか

 にもかかわらず、女系も皇統みたいな奇説に類似した見解がみられるのは不可解です。『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事は有識者会議のメンバ-を取材した記事ですが、ある委員は同誌の取材に対して
皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」と答えたという(154頁)。
 男の子がいっぱいいたから男が継いだだと、歴史を歪めた非常に偏った見解です。"なんとなく男系"だとそんなばかなことがあるか。こんな無茶苦茶な理屈で皇室典範が歪められてたまるか。
 またある委員は旧皇族の復帰について
男系維持派は勝手に言ってろという感じです。男系男子にこだわれば皇太子で終わりです。どこから男系男子を呼んでくるといっても、六百年前に分家した旧宮家しかないんですよ。そんな無理を通そうとするのは、よっぽど頭の悪い奴か男性優位主義者。とにかく人間蔑視の思想ですよ」(154頁)と言ってる。
 何回も言ってるが伏見殿は分家じゃないです。持明院統正嫡ですよ。
 この人は男系主義への敵意を持ってますね。この人は男性でしょうが男性優位主義はけしからんとか言ってますからフェミニストです。私からみてこの有識者はイデオロギー上の敵ですね。この人の主張では女帝反対の私はよっぽど頭の悪い奴で、人間蔑視ということになります。ある意味で当たってます。私は「人間の尊厳」なんて神学的フィクション、君主・王権を別として人間の尊厳なんて安易に認めないと公言してます。人間蔑視が正しいという考え方ですから。男性優位主義が文明社会の鉄則だ。フェミニズムが諸悪の元凶と言ってますから。この人が誰かだいたい見当はついてますが、イデオロギー的に衝突せざるをえません。
 私の主張は原理原則・規範が第一義である。大義を重んじる。「祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ」皇位国体護持こそ第一義である。国民大衆の敬宮や雅子妃への勝手な思い入れなんていうのはバッサリ切り捨てろという立場ですから、それが人間蔑視というならそれでもかまわないです。

(1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず

 文武天皇は皇后を立てず、知られている配偶者は夫人藤原宮子以下三人だけ、聖武天皇も光明皇后のほか4人の夫人が知られているだけ、キサキの数は少ないといえる。当時夫人位の藤原安宿媛(光明子)所生の皇太子基王は夭折し、夫人県犬養広刀自所生皇子安積親王も早世、草壁皇統は血統的袋小路になりましたが、后腹の阿倍内親王が立太子のうえ非婚で即位(孝謙女帝)しました。舎人親王の王子で池田王、船王といった年齢的にみて結婚相手となりうる皇親はいたのですが、結婚はしてません。女系は否定されているからこそ孝謙女帝は非婚を強いられてたのであって(もし池田王か船王と結婚していたら皇親内婚の男帝優先規則で皇位継承者は池田王か船王となるが、光明皇太后が国政を掌握する体制としては非婚の孝謙女帝が望ましかったと考える)、聖武上皇の遺詔で傍系の新田部親王の王子道祖王が皇太子に立てられましたが廃位、さらに舎人親王の王子大炊王が前聖武天皇の皇太子として即位(淳仁天皇)したが廃位、結局、天智孫の白壁王(光仁天皇)が皇位を継承しましたが、前斉王聖武皇女(夫人県犬養広刀自所生)井上内親王を妻としていました。
 今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。井上内親王は既婚者だから、配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできない。井上皇后が即位する可能性としては光仁崩後ですが、井上内親王はそれ以前に后位を廃されたうえ死亡したのでそれもなかった。皇親内婚の男帝優先規則があり、女帝即位は非婚であることが大前提なので男系継承のルールは明白です。だから"なんとなく男系"なんてそんなばかなことがあるわけない。

(2)律令の父系帰属原則
 
 また「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません」などと言ってますが、大化の男女の法で良民の父系帰属原則、律令の父系帰属原則といった法規範を無視してます。令制における皇親(天皇の親族)の規定、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」は、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)(註5)とするものですが、令制の二世王とか三世王というは、子を一世、孫を二世、曾孫を三世と数えます。これはいうまでもなく父系帰属主義なんです。
 ひとつの例を示します。霊亀元年(和銅八年)二月二十五日条「勅して三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れたまふ」という記事がありますが、天武曾孫にあたる式部卿長屋王王子で吉備内親王所生の諸王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられた。これは三世王を蔭位等の面で二世王の扱いにして厚遇することを意味するが、女系では吉備内親王所生の諸王は元明女帝の孫ですから二世王になるが、そういう数え方は絶対しない。あくまでも男系主義で三世王だが二世王の特別待遇とするものです。なお父の長屋王はもともと慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている(註6)こともあり特別待遇ということです。
 ただし父系帰属主義の例外も若干あります。敏達六世孫の葛城王は臣籍降下で橘宿禰諸兄(のち朝臣賜姓)となりますが、橘氏は母の県犬養橘宿禰三千代からとってます。同様の例もほかにもありますが、皇親諸王の二世王、三世王、四世王、五世王としての待遇の違いは男系主義です。 
 
 また継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕も例外的規定ですが既に高森明勅の反駁でも述べたとおり
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
 
 「女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。これは諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定です。皇極・斉明女帝(宝皇女)は舒明天皇(田村王)との結婚以前に既婚歴があり、高向王とのあいだに漢皇子をもうけてます。漢皇子は令制の規定では三世王ですが、こういうケースで親王格上げを想定しているという説もありますが、女帝即位は不婚でなければならないから、未亡人の即位つまり太后臨朝から即位するケース、元明女帝のようにもと皇太子妃が緊急避難的に即位するようなケースでの「女帝の子」であり、義解によれば王娶親王条の皇親女子内婚規定により「女帝の子」の父は天皇・親王・二世~四世王に限られることになってますから、男系主義から逸脱することはない。男系主義は貫徹しているんです。
 なお、大宝令以後、継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕が適用された実例はありません。高森明勅は6月8日の有識者会議のヒアリングで元正女帝(氷高内親王)は天武孫だが元明女帝の所生「女帝の子」であるから内親王になったというインチキを言ってますが、氷高内親王は文武皇姉という資格で内親王です。〔女帝子亦同〕の適用ではない。同じく元明を母とする吉備内親王も同じ。この点は8月27日その③で明確に反駁してますので御覧ください。
 
 もっと基本的なことをいえば我が律令国家は大唐の律令を継受し、中国の法文化を忠実にとはとてもいえないが基本的には継受しているんです。王権の父系出自原則の継受は当然のことです。東洋法制史研究者の滋賀秀三(註7)によると、中国では共通祖先から分かれ出た男系血統の枝々のすべて総括して一つの宗という。つまり女系を排除した親族概念を宗という。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念としているが、伝統中国の法文化=宗法制度は父系主義であることはいうまでもないことです。したがって皇祖皇宗ということばも男系を意識しているのは当然だと思います。
 もっとも同姓不娶とか昭穆制とか実質的に宗族制度は受容されていないという面も多分にありますので、我が国の同族が中国の宗族とは構造がかなり異なる決定的なものとして異姓養子を受容したことがいわれる。
 異姓養子を非とする観念が、父系出自原則を徹底することとなりますが、その最大の理由について江森五夫(註8)によれば春秋左氏伝「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、神霊は自己の血族以外の者の祀を享けないとする祭祀観念にあるとする。祖先の祭祀は父系的血族によってのみ執行わるべきであり、その祭祀の絶えざるが為に養子が取り立てられるがゆえに、養子は祖先と血縁者(同姓)であらねばならないとするものである。
 近世朝鮮が朱子学を国策とし東方礼儀国を称した歴史的経過から、韓国は儒教ノルム、父系出自原則が徹底している社会といえるが、門中が単位となって一年に一度おこなう儀礼として時享祭(四大祖以上の祖先に対する共同祭祀)があるが、これは儒教的性格が強く表れ男性成員のみの参加である(註9)。儒教における祭り祀られる関係において父系で生理学的に繋がる子孫によって祀られるという規範が徹底しているのだ。であるから儒教的ノルムが徹底した場合異姓養子はない。しかし我が国は儒教による祖先祭祀ではなく、仏教による祖先供養が普及したこともあり、春秋左氏伝の思想は貫徹しないのである。朱子学を官学とした徳川時代においても異姓養子厳禁という政策も観念は徹底しなかった(但し筋目尊重という趣旨で武家社会にはそれなりに浸透した-註4江守五夫の著書参照)。皇室においても中国の天子七廟制のような制度は継受しているわけではない。
 
(3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-

 しかしながら中国の国家概念が東アジア世界のスタンダードであり、我が国も中国の国家概念を継受しているということは、8月21日の第1回ブログ(4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)で言及していることですが、要点のみ繰り替えし述べます。日本国号の由来や歴史的経過からみて、我が国も中国における国家をもって一姓の業とする概念を継受しているのは確実である。これは決定的です。従って易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-)となれば国号を改めなければならない。女系継承のありえない中国の王権と同じく、王権が父系規則で徹底しているのは当然のことなのである。父系出自規則が破られれば、いかなるケースでも易姓革命になり王朝交替といえます。したがって日本の一般社会、皇室以外の家系において女系継承や非血縁継承が容認され、日本の同族が父系出自集団と概念規定できない在り方であるが、皇室はそれと同列に論じることができない。皇室は国家そのものだから。
 
 滋賀秀三(註10)によると「通志氏族序に「天子諸侯建国、故以国為氏、虞・夏・商・周・魯・衛・斉・宋之類是也」というように、上代の王朝や国の名は、実は王や諸侯の氏の名にほかならない。氏とは別に国号が生じたのは、劉邦が天下をとって国号を漢と称したことに始まる。」と述べている。

 しかし、漢代以後も国号は氏(姓)概念そのものであるという見解がある。尾形勇(註11)は斉から梁への易姓禅譲革命において王朝交替後の武帝の告天文(梁書巻二武帝記天監元年四月丙寅条)「斉氏、暦運既に既き、否終すれば亨なるを以て、天応を欽若して以て(蕭)衍に命ず。‥‥天命は常にはあらず。帝王は一族のみには非ず。唐は謝し虞は受け、漢は替り魏は升り、ここに晋・宋に及び、憲章は昔に在り」を引いて、この条文においては「易姓」は「斉氏」から「梁氏」の形式にて述べられているとされ、又、漢魏易姓禅譲革命について論じ、「魏」という王朝名ないしは国号もひとつの「姓」であったのであり、漢から魏への交替は「劉氏」から「曹氏」への「易姓」であるのと同時に、「漢氏」から「魏氏」への「易姓」でもあったのされるのである。
 また「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦数の序を以て漢の禅を承く。まさに天心たるべし」と見えることを論拠として、漢魏易姓禅譲革命の構造は、まず「皇帝位」が「劉氏」の献帝から「曹氏」の曹丕へと「冊」を媒介して禅位され、次に「天子位」が「天命」の移行を前提として「漢氏(漢家)」から「魏氏(魏家)」へと譲位するものだとされる。
漢魏革命を前例として、中国では宋代まで少なくとも14回の、禅譲革命の繰り返しになるが、国家概念は基本的にそういうものであったし、この国家概念は我が国にも継受されているのは当然のことだろう。

 また井上順理(註12)によると「中国では古来国家をもって一姓の業とし、王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義であったから、王姓の変更はそのまま王朝の交代を意味した。」これがもっとも簡潔でわかりやすい説明である。

 厳密にいうと姓と氏では概念は異なること、先秦時代に存在した晋・魏・宋・唐などと後代の王朝はどう違うかという細かい問題に深入りしないが、要するに、漢は劉氏(姓)、魏は曹氏、晋は司馬氏、隋は楊氏、唐は李氏、宋は趙氏、明は朱氏、清は愛新覚羅氏の王朝である。日本も女系継承-異姓簒奪なら日本国は終焉して、事実上の易姓禅譲革命で国号を改めざるをえなくなります。従って論理的に女系継承はありえないのである。要するに男系継承にこだわらないと国を滅ぼすということです。このことに有識者会議は気づいていないはずはないのですが、意図的に無視している。要するに有識者会議や厚生省出身官僚悪のトライアングル(古川-羽毛田-柴田)は国を滅ぼそうがどうでもよいという、愛国心のひとかけらもない最低の輩なのである。
  
 もっとも天皇は姓をもたない。日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。しかし官文娜によると(註13)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系出自系譜の集団成員、令制の皇親という概念も「姓」とほぼ同義ともみなしてよいと思う。実際、「王姓」という語が日本書紀天武八年正月詔「非王姓」母の拝礼禁止に見えますし(註14)、九世紀から始まったと考えられる「王氏爵」もあります(註15)。十世紀だと、親王のなかでも序列筆頭とみなされる式部卿に任用されている親王が推薦者となってます。天皇に姓はなくても、天皇の親族である皇親に「王姓」概念をあてはめて理解してよいのである。
 なお、『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註16)。
 
(4)中国王権と同じパターンの国号の由来

 さらに、日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。 吉田孝(註17)が「倭」を「日本」を改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝からと述べている(註18)。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期(7世紀から8世紀初期まで)と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。なぜ「やまと」「日本」そのものの意味については、一段落したら掲載する予定の補説「日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する」をみていただくこととして、次の説は基本的に正しいと思う。

 岩崎小弥太は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である(註19)。

 問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。
 問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 
 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
 
 平安時代に朝廷の主催する日本書紀の購読が行われていたが、上記は『釈日本紀』に引く「延喜開第記」つまり延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である(註20)。『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期の見解、博士は藤原春海。
 
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受し、ているのは確実で、要するに中国王権の国号の由来とするパターンと同じということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。わが国では古くから讖緯説による革命理論(辛酉革命、甲子革令、戊午革運)が知られていた(註21)。神武東征の開始が甲寅年から始まるのは、甲寅始起説に基づく(註22)。中国思想の影響はいうまでもないことですね。
 
 周王朝との類比はわかりやすいと思います。古墳時代は大和(やまと)に大国があり、各地に小国があって、大和政権は小国に威令を及ぼしていた。これは春秋時代において、新石器時代以来の文化地域ごとに大国が存在し、地域内の小国に威令を及ぼしていたのに似ている(註23)。
 令制前の国家は、朝廷が畿内(ウチツクニ)を直轄統治し、地方の統治は国造を服属させる間接統治で、この構造は周王朝とも似ている。周は中原地区の西部・東部を掌握し威令を及ぼしていた。西周時代の場合、鎬京とラク邑の周囲が畿内に相当する。

 ちなみに漢王朝は、秦滅亡後、項羽が天下を処置して、討秦軍の諸将、六国の旧王族及び秦の降将など十八人を全国各地に封じて王としたが、このとき、劉邦が漢王として漢水上流域の漢中の地に封ぜられ、漢の社稷を立て、人民に爵位を与え漢王朝が成立した。漢王劉邦は項羽を滅ぼして天下を統一し皇帝位に即いたが、国号は天下統一後も王朝成立の地である漢王朝なのである。
 王莽が漢室劉氏から簒奪して新を建国したが、国号の新の由来は、もともと王莽が南陽新野の都郷千五百戸の新都侯であったからである。
 
 魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後も国号は魏である。
 
 唐の場合は、初代皇帝高祖李淵の祖父李虎が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。

 我が国も周や漢などの中国王権も王業成立の地(魏晋南北朝時代以降は前王朝から与えられた爵位が通例ともいわれるが、王号は漢代以降は皇帝によって与えられる爵位であるから理屈のうえでは同じこと)を国号とする全く同じパターンである。
 つまり天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられたから、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本という文字を当てたのが、日本国号の由来というのが岩崎小弥太説であるが、こうした国号の由来からみても中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承-易姓革命なら国号を改めなければならない。

(5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

  吉田孝によれば「日本」の名称は中国の「隋」「唐」、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」同じように本来は王朝名(ある王統の支配体制の名称)として成立した」(註24)「王朝(dynasty)の名、すなわちヤマトの天皇の王朝の名」(註25)とされている。
 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)であるが、神野志隆光は吉田孝と日本国号の由来について対立した見解を述べているが、日本は国土の呼称ではなく、吉田孝の言うように王朝名だとしている点には賛同している。その論拠は、大宝公式令詔書式の意義である(註26)。

 御宇日本天皇詔旨
 御宇天皇詔旨
 御大八州天皇詔旨

 「御宇」と「御大八州」が等価なのであって「日本」と「大八洲」と同じ次元で並ぶ国の呼び方ではなく、「日本」は「日本天皇」というかたちで意味をもつので、これは王朝名であるとされている。また『日本書紀』は中国の正史である『漢書』『後漢書』『晋書』にならったもので、王朝の名を冠しているとされている。なるほど、『日本三代実録』とは『日本(王朝)三代実録』で意味が通ります。この説は決定的なので全面的に従いたい。
 実際に日本朝という語が起請文で用いられるし、決定的な意味では「我日本朝はいわゆる神明の国なり」という清和天皇の貞観十二年の願文があります。明らかに日本は王朝名ですね。
  まさにいま政府-有識者会議の易姓革命合法化というたくらみにより我日本朝が滅ぼされるか最大の危機ということになります。
  素人ながら私が言い換えればこういうことです。古記によれば対蕃国、隣国使用とされる御宇日本天皇詔旨(あめのしたしろしめすやまとのすめらみことのみことらま)は天下を統御し支配する日本天皇という意味です。(但し、対隣国使用は疑問であるが、この点に深入りしない)
 蕃国使(新羅)に「天下を統御し支配する日本天皇」と称し、咸くに聞きたまえと命令を下すのであって、天皇は天下を知ろしめす(統治の総括的表現)のであって、日本を統治するのではない。天皇が王朝名である日本を統治するというのは論理矛盾になる。仮に日本の原意が東夷の極なら、西方の藩国に対して天皇が東夷を知ろしめすということでは全く意味が通じない。
 国内向けのは大事を宣する辞としている御大八州天皇詔旨(おおやしまぐにしろしめすすめらみことのみことらま)は国土(もしくは地上世界)を統治する天皇という意味になります。
 国土呼称は大八洲なのであって日本ではない。大八洲の意味については、岩橋小弥太(註27)によると神道家には葦原の中つ国と同じく、大地を悉く指す、八島は多数の意とされる見解があるという。この解釈では広く地上世界である。しかし本居宣長は古事記に依拠して八つの島であるという。『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会1889)においても「我カ帝国ノ版図古二大八島ト謂ヘルハ、淡路島 即今ノ淡路 秋津島 即本島 伊予ノ二名島 即四国 筑紫島 即九州 壱岐島津島 津島即対馬 隠岐島佐渡島ヲイヘルコト、古典ニ載セタリ」とある(註28)。しかしながら、どことどこで八つの島なのか異説がある。しかし八つの島とはおおよそ国郡制の施行地域の枠内であるから、国土呼称とみなしてもよい(なお七世紀末より八世紀にはいわゆる日本内地を「華夏」「華土」「中国」と称していた。西嶋定雄〔註29〕は日本にとって華夷とは国郡制施行地域とその周辺外の蝦夷、隼人、西南諸島の範囲にとどまり、唐王朝はもちろん新羅は華夷の枠外であるとされている)。
 公式令詔書式によればあくまでも国土呼称は大八州であって、日本ではない。日本は王朝名(王統の支配体制)であり、天皇という君主号とむすびついて、日本天皇として意味をもつ。われわれが日本内地と慣用している国土指称は、日本王朝(朝廷)の直轄統治地域つまり五畿七道諸国、国郡制施行地域、律令施行域であった歴史的由来に依拠しているのであって、王朝交替、易姓革命により、日本王朝でなくなれば、もはや日本内地ではなくなるという性質のものである
 であるから、女系継承の容認は王朝交替、易姓革命を合法化するもので絶対あってはならないこと。孟子の思想は古くから受容されているから、革命思想は古くから意識されていたし反易姓革命イデオロギーとして万世一系思想が古代からある(8月27日ブログ参照)。  ゆえに「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。」そんなばかなことはありません。
 要するに有識者会議は、現皇室典範、旧皇室典範の規範的意義を根拠もなく否定するのみならず、古くからの我が国の国制の歴史的脈絡を全く無視し、全く自分勝手にです。これほど悪質なものはないです。

  なお、先に引用した有識者は「側室が山ほどいた」とか言ってますがこれについても若干コメントします。、歴代天皇に常に配偶者としての側室が山ほどいたとはいえない。いわゆる天皇制の特徴をひとつあげれば、天皇に正配がなくても存続することにある。要するに令制立后制度というのはどちらかといえば政治行為であり、令制立后制度は中国の制度とは違って婚姻家族モデルではないということです。内侍所の尚侍(ないしのかみ)の職掌は常侍、奏請、宣伝に供奉せむことと、下級女官の統率である。しかし尚侍は鎌倉時代初期には既に置かれなくなった。室町時代には典侍(ないしのすけ)、掌侍(ないしのじょう)と、これらの下に置かれる命婦と女蔵人のみが置かれた(註30)。南北朝から立后は近世初期まで、女御の制は秀吉時代まで中絶したため、天皇に正配がなかった。なお後宮女官でとくに実務的なのは掌侍筆頭の匂当内侍で奥向き経済を掌握し、女房奉書を書き出し、大名からの進物などの取り次ぎを行った。後宮女官は社寺代参や、天皇の日常生活の奉仕、ありとあらゆる仕事をこなしたが、正式の配偶者がいないので内侍所の典侍・掌侍がなんとなく側妾の役割をも果たすことになったということである。
 桑山浩然(註30)によれば後花園天皇の治世の『永享九年十月二十一日行幸記』では典侍3名、掌侍4名、その他2名を挙げるから、室町時代にはこの程度の人数であったとする。当時の後宮の規模がこぢんまりしていたことがわかる。
 中世以後、とくに室町時代以後后腹でない実務的中級貴族の女性を母とする天皇が多くなるが、そもそも皇后が立てられてない。正式の配偶者が無い時代もけっこう長かったということもあります。 

(註1)藤原時平-今昔物語により時平が伯父の大納言藤原国経の美人妻を寝取ったことが知られているが、国経は「お人良し」にすぎないのであって、政治家としての実力は時平が断然上で全く問題になりません。時平が美人妻を寝取って当然ですね。菅原道真は忠臣とされていますが、道真は少なくとも醍醐退位・斉世親王擁立の企てに誘われていたともいわれている。その前年に三善清行に辞職勧告されてますがこの時点で道真は右大臣をやめるべきだった。醍醐天皇にとっては前代の重臣は鬱陶しい存在であり、天皇が指導力を発揮しやすいように道真を排除した時平の政治判断は常識的なものである。時平は昌泰の変により悪玉にされてますが、それは偏った見方。
(註2)橋本義彦「学者と公達-菅原道真と藤原時平-」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996 129頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』風間書房、1972 310頁
(註4)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994の附録より引用
参考「皇統断絶問題TBセンター」http://japan.arrow.jp/blog/2005/12/post_19.htmll 
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970  なおまた、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している
(註6)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998 51頁
(註7)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 19頁
(註8)江守五夫『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990 「異姓養子にたいする禁忌と許容」108頁
(註9)岡田浩樹『両班-変容する韓国社会の文化人類学的研究』風響社2001 172頁
(註10)滋賀秀三 『中国家族法原理』創文社1967 44頁 註(29) 
(註11)尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店 1979 302頁
(註12)井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
(註13)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁 、大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註14)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998、35頁
(註15)宇根俊範「氏爵と氏長者」坂本賞三編『王朝国家国政史の研究』吉川弘文館
(註16)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下 
(註17)吉田孝『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁 
(註18)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁
(註19)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下
(註20)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、121頁以下。
(註21)川崎晃「倭王権と五世紀の東アジア-倭王武・百済王上表文と金石文」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001所収
(註22)岡田正之『近江奈良朝の漢文学』川崎晃前掲論文から孫引き。
(註23)平勢隆郎 中国の歴史02『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』講談社2005 353頁
(註24)吉田孝 日本の歴史2『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書332 1999、187頁
(註25)吉田孝 同じく90頁
(註26)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、25頁以下
(註27)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)54頁
(註28)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、195頁
(註29)西嶋定生「遣唐使と国書」『倭国の出現』東京大学出版会1999、234頁以下、初出『遣唐使研究と資料』東海大学出版会1987 
(註30)桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称」『女性史学』6号1996

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