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2006/01/28

女性天皇に全面的に反対の理由(2)

2.皇親内婚の男帝優先も皇室の伝統であり規範である

川西正彦(平成18年1月28日)

(1)皇親皇后(令制では皇后は内親王)の原則

 天平元年(729)八月二十四日の光明子(右大臣藤原不比等女安宿媛)立后ですが、当日は五位、諸司を内裏を喚し入れ、特別な立后の宣命がありましたが、この立后宣命には「我が王祖母天皇(元明か元正かで議論のある問題だがたぶん元明をさす)の、此の皇后を朕に賜へる日に勅りたまひつらく、其の父と侍る大臣の皇が朝をあななひ奉り輔け奉りて、其の父は夜半暁時休息ふこと無く,浄き明き心を持ちて……我が児、我が主、過ち无く罪なくあらば、捨てますなと負せ賜ひ宣り賜ひし大命によりて‥‥」とあるが、元明上皇が「捨てますな」と皇太子に命じたことは、元明と光明子の母県犬養橘三千代が親しかったことから事実だろう。

  このように立后の理由をくどくど述べ、弁解がましくも、はるか昔の仁徳皇后葛城襲津彦の女磐之媛命の立后の先例を挙げて、臣下の女子の立后はこれが新例ではないとして立后の正当化が図られてます。これは皇后の資格が皇親に限るという、原則・慣例があって、藤原氏皇后はこの慣例に反するものだからです。立后の意義に関する研究の基本的な文献として岸俊男の「光明立后の史的意義」(『日本古代史研究』所収塙書房1966)という論文がありますが、まずこの皇親皇后原則に関してまず引用したいと思います(註1)。
 

  岸氏は日本書紀では皇后の称が画一的に使用されているが、これは編纂時における統一だろうから、皇后の称については天智末年から天武初年を推定されてます。つまり莵野皇女(持統)からということです。それ以前は大后と称されていた身位が皇后とみなしてよいと思います。これはほぼ通説ですが、ここでは日本書紀どおり令制前大后も皇后とします。
 後宮職員令に「妃二員右四品以上、夫人三員右三位以上、嬪四員以上右五位以上」と規定されており、岸俊男は「妃以上は品位を有する内親王に限られる」(217頁)と解釈されています。皇后の資格規定はないことからこの見解には批判もあるが。岸説が通説です。又実態面からみても、日本書記天武二年二月条、皇后に天智皇女莵野皇女、妃に同じく天智皇女の大田皇女、新田部皇女、夫人に藤原鎌足女の二名と、蘇我赤兄女という事例が、後宮職員令に即したものであることを指摘されている。又「帝紀のうち信憑性のが高いとされる応神以後では、仁徳皇后の葛城襲津彦の女磐之媛命と仁賢皇后〔筆者註正しくは武烈皇后-原著者の誤り〕の出自未詳の春日娘子以外、皇后はすべて天皇の皇女または皇族たる王の女に限られている」とされ天皇の正妃が皇族から納れられた、允恭・雄略ころ、五世紀後半に大后の制が始められたとするのが岸俊男説である。
 日本書紀は皇親女子を姫、臣下の女子を媛と区別しており、この趣旨から磐之媛命を例外とみなすことになるが、磐之媛命も皇族とみなす説もあります。崇神天皇以後はそっくり皇親皇后と解釈することもできるわけで、皇親皇后原則というのは明確であると私は思います。令制においては皇后は内親王たるべしというのが原則であるとみなしてよいと思います。
 なお、岸俊男の通説に真っ向から批判するものとして成清弘和説(註2)がありますが、皇族皇后は日本律令の建前にすぎず、大后の成立を蘇我堅塩媛なのだというきわめて特徴的な説です。しかし蘇我堅塩媛は書紀では皇太夫人とされるのであって、后位ではない。この説には強い批判もあり到底賛同できない。
 一方、山本一也のように皇后は内親王たるべしというのは平安中期以後においても基本原則だったとしてその意義を評価する見解も出てきている(註3)。仁明天皇から宇多天皇まで皇后が立てられなかった問題について先行説を批判され、それは皇女をキサキとしなかったためであるとされる。又、冷泉天皇-皇后昌子内親王、円融天皇-女御尊子内親王、後朱雀天皇-皇后禎子内親王、後冷泉天皇-中宮章子内親王、後三条天皇-中宮馨子内親王という具合に平安後期においても内親王の入内は少なくないのであるが、山本は反面内親王を娶らなかった花山天皇、一条天皇、三条天皇について逐一検討され、系譜的に入内候補となりうる内親王が存在しなかったという。従って平安後期においても、「内親王を娶れる天皇は早期(東宮時代)に内親王を娶り、しかも最初に皇后としていると言える。これは当時でも、天皇の女は皇后たるべし、さらに言えば皇后は本来天皇の女であるという意識が存在したということではないだろうか」とされる、あくまでも皇后は内親王が基本原則だったという説である。
 しかし、ここで山本説に着目した趣旨は、日本では皇后という身位が古くは皇親、令制では原則内親王のための身位であったとみてよいと思ったからです。聖武生母藤原宮子は文武天皇の夫人であって、聖武朝では皇太夫人である。光明立后で慣例が破られたが、本来の制度では、諸王臣下の女子は夫人-皇太夫人で、内親王だけ本来后妃だったのではないか。院政期から鎌倉時代にかけて生涯非婚内親王の立后11例(9月27日ブログ参照)がみられますが、天子の嫡妻でない皇后という意味で令意に反しますが、日本では皇后がもともと内親王のための身位であるするならば原則に反するものではないと考えられるからであります。
 山本一也は令制前の皇親皇后の意義に次のようにいう。「かつては皇位継承争いを伴う非直系継承が支配的で、王権は絶えず動揺していた。そのような中では天皇の女との婚姻は皇位継承の前提として大きな意味を持ち、ゆえに王権周辺で指向されたのであった」とされる。この観点から5~6世紀から見ていきたいと思います。

(2)皇親内婚における男帝絶対優先の規則性

 継嗣令王娶親王条は「凡王娶〔内〕親王、臣娶五世〔女〕王者聴。唯五世王。不得娶親王」(〔〕はわかりやくするための挿入)と規定しますが、諸王は内親王以下、五世王は諸王以下、諸臣は五世王以下を娶ることができるとする規定である。言い換えれば皇親女子の内婚規定であり、諸臣との結婚を禁止するものである。つまり、男皇親(親王以下四世王まで)は臣下の子女を娶り得れども、女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとし、且つ五世王は二世女王以下を娶り得れども内親王と婚することを禁じ、臣下の男はただ五世女王のみを娶り得ると定めている(註4)。
 つまり内親王は天皇、親王、二世~四世王のみ結婚相手として適法である。この皇親女子の内婚規定は延暦十二年詔(9月22日ブログ参照)でかなり緩められ、平安中期以後では内親王降嫁という違法婚が目立つようになりますが、今日においても皇室典範第12条が皇族女子(内親王・女王)は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したとき、皇族の身分を離れると定めているように、内親王位を保持するためには皇族との結婚が前提になっており、歴史的に一貫した規範的意義を有する。基本理念は一貫している。
 
  9月10日ブログにもある程度書きましたが、男系論者は125代皇位継承が男系だということを強調しますが、私はそれだけでは足りないと思う。皇親内婚の天皇-后妃・女御には多くの事例がありますが、全て男帝優先であって、たとえ直系卑属の皇女であっても傍系皇親男子をさしおいて即位するということは絶対ないのです。皇親内婚における男帝優先規則というものも堅持されなければならないのです。というよりも、有力な皇親女子で皇親の配偶者が現存していればそれは后妃(平安時代には女御ということもありますが)なのであって、配偶者が現存する限り天皇となりえない。天皇は天下を知ろしめす最高君主なのだから、世界を統御支配する最高君主が性的な意味での女になってしまうことは論理矛盾である。天下を知ろしめす最高君主が性的な主体であっても対象にされるなどということは論理的にありえない。皇婿、皇配という日本語はないわけで、皇親内婚なら、直系、傍系いかんにかかわらず、男性が天皇、女性は后妃になります。そういう基本的な原理原則をフェミニズムへの迎合ゆえ否定するというのが耐え難く不愉快です。

   歴史的事例をみていきましょう。まず重視したいのが、仁賢天皇-皇后春日大娘皇女(雄略皇女)です。この結婚の意義は傍系の履中系の仁賢が允恭-雄略系の皇女を妻にしていたため、有力な皇位継承候補となったとみられること。清寧天皇の皇妹である春日大娘皇女が即位するのではなく、傍系の仁賢が皇位を継承して、允恭-雄略系の直系卑属である春日大娘皇女はあくまでも皇后ということです。私のいう皇親内婚の男帝優先原則とはこういうことをいってます。あくまでも皇親内婚では傍系男子皇族が即位して直系卑属の皇女はあくまでも皇后、このケースは入婿型とみる見解もありますが、あくまでも皇位を継承するのは男子です。女帝というのは、配偶者となる男帝の崩後、緊急避難的あるいは権力抗争の緩衝剤として即位するものであって、直系卑属の皇女の即位が優先するというような論理性は歴史上全くないということ。
 
   次に仁賢皇女の手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女がそれぞれ応神五世孫継体天皇、継体皇子の安閑天皇、宣化天皇の皇后であります。継体天皇は手白香皇女との結婚、立后を前提とした即位なので入り婿的ともいえますが、あくまでも直系卑属の皇女は皇后で、傍系でも皇親男子が即位するのです。手白香皇女を母とする欽明天皇が嫡系となり宣化皇女の石姫を皇后に立ててます。
 
  敏達天皇と御食炊屋姫尊(推古女帝)は異母兄弟婚ですが、井山温子(註5)が女帝誕生の経緯について、皇后の政治的権能から説明しているので引用する。「皇后(大后)が国政に関与するのは、天皇(大王)権が不在か不安定な場合である。まず御食炊屋姫尊が穴穂部皇子、宅部皇子を謀殺する詔を出すこと(崇峻即位前紀六月)や御炊食屋姫尊と群臣の推挙によって崇峻が即位していることから、新大王が即位するまでの間の前大后の中継ぎ的な統治権と皇位継承者の決定権が認められる」さらに崇峻天皇が殺害されるという王権の危機に際して、蘇我馬子によって御食炊屋姫尊が擁立された。推古女帝であります。このケースも御配偶の敏達天皇が崩御、同父母兄の用明天皇が崩御、さらに異母弟の崇峻殺害の後の女帝即位ですから、男帝優先であることはいうまでもありません。
 
   阿閇皇女(のち元明女帝)は天武五年~八年頃16~19歳で結婚した。御配偶の草壁皇子(父天武・母持統)は持統三年(689年)薨去されたので結婚生活は実質10~12年である。草壁皇子は即位できなかったが、父草壁、母阿閇皇女の軽が持統天皇の譲位により即位した文武天皇であります。しかし慶雲四年(707年)文武天皇の早世により緊急避難的に文武生母皇太妃阿閇皇女が即位した。元明女帝であります。このケースも草壁皇子や文武天皇がもっと長命であったならば、阿閇皇女が即位することもなかったわけであります。
 
  孝謙女帝のケースですが、あくまでも非婚内親王なんです。船王とか池田王といったような年齢的に釣り合う結婚相手となりうる皇親は存在したのですが、結婚はしていない。もし船王と結婚したなら、船王が即位して、阿倍内親王は皇后です。その選択肢もありえたわけですが、紫微中台政権を正当化するためには非婚女帝の即位のほうが望ましかったのだと思います。

 次に称徳女帝とは異母姉妹となる井上内親王ですが、 養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十八年退下(離任)、天平十九年二品直叙、宝亀元年立后、宝亀三年廃后、宝亀六年没(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する、伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十八年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは、斎宮の任務をとげたことによる。この前後に天智の孫の白壁王とみられている。今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。あくまでも傍系皇親男子白壁王が即位して光仁天皇、直系卑属の皇女井上内親王は皇后です。
 
   また桓武天皇-前斉王妃酒人内親王(母は井上内親王)、平城天皇-前斉王妃朝原内親王(母は酒人内親王)という異母兄妹婚の連続はきわめて特徴的な結婚ですが、これも女系で聖武と繋がる妃を持ったことに意義を認めてもよいです。『水鏡』によると他戸親王廃太子後の皇太子に、藤原百川が山部親王、藤原浜成が稗田親王、光仁天皇は酒人内親王を推したと伝えられています。『水鏡』は信憑性に乏しいともいわれますが、孝謙女帝の例もあるから、内親王が女帝候補に浮上した可能性は否定できない。

 酒人内親王は宝亀元年三品直叙、宝亀三年斎宮に卜定、宝亀五年群行、宝亀六年退下、後に二品、天長六年薨76歳、伊勢斎宮から帰京してまもなく宝亀七~八年頃、桓武の東宮時代22~24歳に結婚。容貌艶麗であった。非婚女帝だから問題の先送りとなりますが、内親王が独身のままだと女帝候補に再浮上する可能性があったのため妃とするのが得策とする皇太子の政治的判断があったのかもしれない。酒人内親王はもともと后腹で三品、父方で天智、母方で天武と繋がっている。一方、母が和史新笠で帰化系氏族の山部親王は四品で、酒人内親王の方が皇親の序列で上位だったわけです。しかしあくまでも山部親王が即位して、酒人内親王は妃である。その逆はありえないんです。
 結果論としていえば平城天皇についてはいまさら聖武に繋がる朝原内親王を妃に持ったところでメリットはなかった。朝原内親王は母も内親王なので外戚の支援がなく、内親王は寵愛されることもなかったため薬子の変で平城上皇が出家されたため妃を辞職している。
 
   次に冷泉天皇(村上皇子)-皇后昌子内親王(朱雀皇女)ですが、昌子内親王は朱雀天皇の唯御一方の皇子女であり、冷泉天皇は従兄弟になります。昌子内親王は村上天皇の方針で東宮憲平親王の元服加冠の儀当日に結婚し、冷泉践祚後、即位前に立后されていますから、内親王=皇后原則の回帰とみることができる。臣下の女子だと、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後ですから、本質的に政治行為なのである。これは冷泉天皇の皇統を正統とする意義があるという見方があります。しかし冷泉天皇は御悩あり、指導力を発揮しうる統治者とはいえない。また昌子内親王は冷泉天皇と同殿されることもほとんどなかったのです。それだったら昌子内親王が女帝でもよかったんじゃないかというかもしれませんが、御配偶の男帝をさしおいて女帝となることは絶対ありません。
 
   次に二条天皇の中宮ヨシ子内親王(高松院)ですが、近衛生母美福門院藤原得子が母です。美福門院は守仁親王(二条)を猶子にしていた。その妃に実娘のヨシ子内親王を結婚させたのです。この場合もあくまでも守仁が即位して、近衛天皇同母妹のヨシ子内親王は中宮(后位)であるわけです。鳥羽法皇崩後は美福門院が宮廷で求心力を有していた。後白河に譲位させて、二条を即位させたのも美福門院の指図です。それだったら猶子で血縁関係のない二条でなく実子の内親王を即位させてもよさそうだと思うのは間違いで、この場合もあくまでも男帝優先ということです。
 
 時代は近世に飛びますが、桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です後桃園天皇の唯一の皇女欣子内親王は中宮(后位)です。皇女が皇后で七親等離れた傍系皇親が即位する。皇親内婚とはそういうもの。
 
  天下を知ろしめす最高君主たる天皇が、性的対象になることはありえません。あってはいけないんです。論理矛盾です。私は中原誠永世十段・永世棋聖・永世王位・名誉王座を尊敬します。それはやっぱり「突撃」発言です。やはり王者たるもの男というものは突撃しなければいけないんですね。世界の最高君主が突撃される側になるというのは論理矛盾でありまして、皇位とからむ皇親内婚では必ず、男子が天皇、女子は后妃、女御です。125代男系継承ということだけでなく、数多くの皇親内婚で例外はない。皇親内婚の男帝優先も決定的規範であることを強調したいと思います。
  日本的家制度(ここでは法的枠組みではなく我が国の家族慣行についての言及)では傍系親より直系継承を指向し、女系継承も、非血縁継承もありうるということで皇室と違いますが、あくまでも入婿は家長継承予定者として迎えられます。実子であろうと入婿、養子であろうと夫が家督相続し、家長を継承する。入婿が肩身が狭いというは心理学的側面を言っているだけで、あくまでも婿は家長予定者として迎えられるのであって、このアナロジーでもやはり男性が天皇でなければならない。それを否定するなら、婚姻家族の規範が崩壊します。日本においてはたんに労働力や子づくりのための当主となりえない入夫というのは伝統的な慣例に反しておりとても容認できない。一方、嫁であれ実娘であれ、女性が主婦です。主婦というのは慣例として、例えば家人、使用人の給与の配分とか、かなり大きな役割をもっているのではないかとも思ってますが、あくまでも婚姻家族の規範は夫が家長(家督継承者)、妻が主婦です。このアナロジーでいっても皇親内婚では直系卑属の皇族女子は、あくまでも后妃という身位でなければならればならないのは当然であります。
  この論点の反論として、華道「池坊」池坊由紀氏が次期家元で、元大蔵官僚の池坊雅史氏を婿に迎えている。これを女性当主の入夫の事例とみてよいかもしれない。こういうケースが伝統に沿ったものなのか、私は芸能家元の世界を全く知りませんので論評できませんが、皇室もこの例に倣ってもらっていいんじゃないかみたいな意見があるかも知れない。しかし、国家最重大事たる皇位継承と華道家元を同列の次元として論じるのが間違いであって、皇位継承とはそのように直系にこだわるものではないんです。「皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、〔傍系親も含む〕帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です」この点については、1月9日ブログの後段にある村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」の要所の引用をみてください。わかりやすい説明です。
  11月18日のなかのZEROホールの皇室典範改悪阻止集会で、外交評論家の加瀬英明氏が皇婿、皇配という日本語にない新奇な制度をつくりだそうとしていること非難され、とくに皇婿のように女扁のつく肩書きは馴染みませんと述べておられます(註6)。同感ですが、皇婿という身位は論理矛盾、要するに、男性配偶者を有する最高君主は論理矛盾なんです。ありえないことをやろうとしている。

(註1)なお皇后あるいは中宮に関する基本的文献としては橋本義彦「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976 141頁 (初出『書陵部紀要』22号1970)、関連して橋本義彦「女院の意義と沿革」『平安貴族』1986平凡社、龍粛『平安時代』「中宮」1962
(註2)成清弘和 『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令1)皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999「大后についての史料的再検討」
(註3)山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列--皇位継承に関連して」『日本史研究』470号 2001年10月
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」259頁
(註5)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
(註6)加瀬英明「どうしても伝えたい寛仁親王の真意」WiLL2006年1月号も同趣旨

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