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2006/01/09

所功の女系継承容認論駁・皇室典範に関する有識者会議報告書論駁(その1)

 目次
1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている
(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる
(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる歴史上の事例
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ

 川西正彦(平成18年1月9日)

 所功京都産業大学教授の女系継承容認論が有識者会議の方向性に大きな影響を与え、所功の説が報告書で多く採用されている。ここでは所功が平成17年6月8日の有識者会議ヒアリングで提出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」PDFを中心(以下「管見」と略す。とくに断らない限りこの論文から引用)についてそのインチキと非論理性を明らかにするとともに、併せて同趣旨を採用している有識者会議報告書を批判するものである。
 所功の説はインチキと非論理的な説明があまりにも多い。順序にこだわらず、一つづつ潰していくこととする。
 所功の論文からの引用は青色、有識者会議報告書は赤色とします。
 
 1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。
 

 有識者会議報告書は旧皇族の皇籍復帰を明確に否定する理由のひとつに
「いったん皇族の身分を離れた者が再度皇族となったり、もともと皇族でなかった者が皇族になったりすることは、これまでの歴史の中で極めて異例なことであり、さらにそのような者が皇位に即いたのは平安時代の二例しかない(この二例は、短期間の皇籍離脱であり、また、天皇の近親者(皇子)であった点などで、いわゆる旧皇族の事例とは異なる。)。これは、皇族と国民の身分を厳格に峻別することにより、皇族の身分等をめぐる各種の混乱が生じることを避けるという実質的な意味を持つ伝統であり、この点には現在でも十分な配慮が必要である」

 上記の部分についてはまず所功の論文の4頁以下の「男女皇族とも皇籍を離れたものは復帰できない」とする理由を述べた次の部分を根拠にしているものと思われる。所説を採用しているのでまずこの論旨について批判しておきたい。

(三)皇族による“"万世一系”の継承 
 ‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として「‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする」べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。
 最近も八木氏は‥‥、天皇の「血統原理」は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない」とか「大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる」という(註-略)。 しかし、これはいかがだろうか。もし神武天皇の男系男子孫に「Y染色体の刻印」が伝わっている。ということを皇位継承の資格要件とすればそのような男性は全国にたくさんいる。既に平安初期(八一五年)撰進の『新撰姓氏録』現存抄本(京畿内のみ)によれば、神武天皇より嵯峨天皇までの歴代から分かれた男系男子孫の「皇別」氏族が三三五もあり(註-略)、それに続く賜姓源氏や平氏などもきわめて多い。
 むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として「皇族」身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された「万世一系の天皇」というのも、「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」。なお、『太平記』にも「三種の神器は、古より継体の君、位を天に受けさせ給ふ」とあるごとく、皇位の継承者には、正当性を示す「三種の神器」が不可欠の要件とされてきた。ちなみに里見岸雄氏『萬世一系の天皇』(錦正社、昭和三十六年十一月刊)も大旨同趣。同氏『憲法・典範改正案』(同上、三十三年七月刊)では、皇位継承者として「皇族男子のない時は、皇統に属する皇族女子」を加え、その結婚(皇統出自の名族の入婿)も認める案が示されている)。
 (中略)ところが、八木氏とほぼ同意見の小堀桂一郎博士は、「人臣から皇族へ、復帰の実例」として三年余り臣籍にあった59宇多天皇のケースを見習うように説いておられる(註-略)。しかし‥‥この点には賛成しえない。
 何となれば、当時の立て役者である藤原基経は、要するに権勢家として恣意的に皇位を左右したのであって、このような策動を「政治家の器量」とか「遵依すべき道理」などと評価することは到底できないと思われる(註-略)。
 既に明治四十年、「皇室典範増補」の第六条で、「皇族ノ臣籍二入りタル者ハ皇族ニ復帰スルコトヲ得ズ」と規定した際も、その義解で「臣籍二降リシ皇族二シテ‥‥皇位ヲ践ミタマヒシ宇多天皇ノ例ナキニ非ラズト雖‥‥恒範ト為スベカラズ」と断っている。
 このような「上下ノ名分」(皇族と一般国民の区別)を厳守することは、国家秩序の維持安定に最も重要だからこそ、その法意を新典範(第五・第六・第十五条)も受け継いだのである‥‥」
 

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている

 上記の論旨は全面的に承服できない。いったん臣籍降下した者が属籍を復した例は歴史上かなり多数ある。有識者会議が強調するような極めて例外というほどのことではない。既にこのブログで述べていることとかなり重複しますが、あらためて述べます。
 『師守記』貞和三年六月十四日条裏書に「賜姓後立親王人」の先例として中納言源是忠(光孝男)、大蔵卿源盛明(醍醐男)、左大臣源兼明(醍醐男)、右兵衛督源昭平(村上男)、中納言兼征夷大将軍源惟康(宗尊親王男)、権中納言源忠房の計六例(註1)が挙げられてます、。大外記中原師守の日記ですが、これだけではないはず。賜姓後諸王に復帰した例も奈良時代に多数あります。
 平成17年5月31日の有識者会議のヒアリングにおける八木秀次の意見陳述資料(PDF)にもそうした例が記載されてます。そこで歴史上の事例について若干個別にみていきたいと思います。
 まず和気王は状況いかんでは皇位継承候補にもなりえた皇親である。舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)父は御原王である。天平勝宝七年(755)、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年(758)、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁天皇の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年(765)功田五〇町を賜った。しかし称徳女帝と道鏡を批判する謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)(註2)。
 天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみてみます。天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す(註3)。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える
 また、後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍源惟康については青山幹哉が賜姓と親王宣下の政治史的意義について論じている(註4)、将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現(つまり将軍は源氏であるべきだ)を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである
 弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり伏見天皇践祚、亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、幕府の政権変動に伴い源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。これも臣籍から皇親に属籍を復した先例である。なお、将軍惟康王-源惟康は大河ドラマ「北条時宗」でも登場したように記憶しておりこの間の事情は一般にもよく知られていると思う。
 
 ところで諸王の員数であるが、竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。また一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという(註5)。このように平安時代は諸王の数は多かった。しかし、季禄・節禄は10世紀半ばに崩壊し、11世紀末に太政官の受領功過定による監察体制が機能しなくなって、12世紀以降限定的に支給されていた位禄も支給されなくなり、12世紀以降は、皇親諸王を支える禄制は崩壊していったとみられる。中世以降は出家して法親王となるケースが多くなったほか、管領所領を相続しない限り、皇親諸王の王統を継承していくことは難しくなった。王胤の環境は厳しく一家を立てえず僧籍で一生を終わるのを常とした。
 そうしたなかで、順徳院流王統(岩倉宮・四辻宮)が、順徳上皇が承久の乱に深く関与し佐渡配流とされ鎌倉幕府に警戒されていたにもかかわらず、七条院領という経済的基盤を有していたため、四辻宮は室町時代まで存続した。ここで四辻宮善統親王と甥の岩倉宮彦仁王との所領相続をめぐる争いは複雑な経過なので深入りしないが、順徳曾孫の岩倉宮系の源忠房が後宇多上皇に頗る愛され猶子となり権中納言に昇進したのみならず、親王宣下され属籍を復した(註6)。このケースについては八木秀次が有識者会議のヒアリングでとくに言及されている。
 また系譜上順徳曾孫の四辻宮源善成(源氏物語研究など古典学の権威で歌人としても活躍した)であるが親王宣下を望んだことが知られている。小川剛生が忠房親王の実子である可能性を言及されているが(註6)、そうすると実系で順徳玄孫になり、令制の四世王に相当することになる。延文三年(1356年)善成王は源姓を賜り従三位に叙された。源善成は二条良基の猶子という格で昇進し、応永元年(1394)年には内大臣に、当時は足利義満が朝廷の人事を掌握していたが、翌二年には、管領斯波義将の口添えで左大臣にまで昇進した。善成は左大臣を辞退して親王宣下を望んだが、斯波義将に反対され到仕出家した。善成は古典学者として歌壇において名望があり、斯波義将ら上流武家を多く門弟としていて尊敬されていたので左大臣にまで昇進した。
 小川剛生は源善成が親王宣下を望んだその背景として、忠房親王の例を意識しており非現実的なものでなかったとする。大臣に昇った後に親王となったのは前中書王兼明親王の先例のみで、吉例でない。義将の反対もそんなところだろうと述べておられる。また南北朝時代に末流の王胤にも親王宣下が行われるようになったことを挙げている(註7)。
 これについては、10月16日ブログでも既に述べているとおり、常磐井宮恒明親王の孫(亀山曾孫)の満仁王二十八歳が永徳元年(1381)に足利義満の推挙により親王宣下された例や、時代は下るが、後二条五世孫の木寺宮邦康王が後崇光院貞成親王の猶子となって親王宣下された例をあげることができるが、これらは属籍を復したのではなく宮家としての家格を確立するための親王宣下である。
 以上述べたように属籍を復した例は多いのだが、有識者会議報告書参考資料の45頁「皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例は宇多天皇の子の事例がみられるのみ」として例外性を強調し、旧宮家の皇籍復帰を否定する理由としている。
 しかし 皇親の数が少なくなった中世以降は王胤の環境が厳しく、僧籍に入って王統は途絶するケースがほとんどなのである。令制の禄制・国家的給与は11世紀末までに崩壊しており、また親王宣下でなければ皇親に復帰する意味はなく、親王宣下は常磐井宮・木寺宮・伏見宮のように皇位継承の正統性を主張できる由緒があるか、管領所領を相続できなければ実質的に親王宣下は難しいのであって、皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例が中世以降ないのは当然のことだろう。有識者会議がことさら例外性を強調し過ぎである。

(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる

 また所功は明治四十年の皇室典範増補が皇族に復すことを否定した。このことの意義をことさら強調するが、この点については明治皇室典範制定までの経緯から考えてみたい(註8)。
 幕末期より以前は世襲親王家として伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の四宮家しかなかったのである。しかし、幕末動乱期文久三年(1862)二月伏見宮邦家親王の第一王子青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王(後に賀陽宮、久邇宮に改称)となったことを皮切りに(11月23日ブログ参照)、明治初年以降も宮門跡還俗により伏見宮系の宮家が次々と創設された。
 しかし、明治三年十二月に四親王家の存続を認めるが、新たに取り建てられた親王家は二代めより姓を賜って華族に列する布告が達せられ、皇親の範囲を限定することになったが(なお明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている)、この政策は有名無実になった。
 明治五年に北白川宮智成親王薨後を兄の能久王に継がせ、明治九年には華頂宮博経親王の王子博厚王を明治天皇の特旨をもって皇族に列するなどして明治十年代後半の段階で伏見宮・有栖川宮・閑院宮・山階宮・華頂宮・東伏見宮・梨本宮・北白川宮・久邇宮の九宮家が存在し、明治二十二年の皇室典範制定まで賜姓降下で華族に列したケースは一件もなかった。そうしたことで内規取調局(明治十五年設置)の調査立案段階では宮家の数を限定し、皇族数を限定しようとした。皇族の品位を保持するためにも多すぎるのは好ましくないという考えがあったようだ。
 島善高によれば(註9)井上毅が内規取調案に反対したためか成案にならなかったのだという。つまり井上は「継嗣ヲ広メ皇基ヲ固クスル」ためには五世以下を華族に列するのは不可であり、親王宣下も光仁帝以来の古礼であるから一概に抹殺できないだろう。親王宣下の存続、四親王家存続等を主張、皇室の繁栄のためにも永遠に皇族の身分に留まるべきであるとの立場をとった。
 高久嶺之介(註10)によれば、「皇室典範艸案」段階では、宮家の数を限定しようとし「皇位継承権者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距タルコト五世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍二列シ爵ヲ授ク」と規定したが「皇室典範枢密院諮詢案」では賜姓降下規定が削除され永世皇族制となった。周囲の批判的雰囲気をおしてこの制度の採用は伊藤博文、井上毅によるものだったという。井上は枢密院会議で「五世以下皇族ニアラサルトスレハ忽チ御先代二差支ヲ生スヘシ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フヘキ事」と述べたという。
 ただ、明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという口実で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなった。これは永世皇族制を採用した妥協なのかもしれない。
 しかし江戸時代の世襲親王家(八条宮や高松宮・有栖川宮の例)はしばしば後嗣なく、天皇や上皇の皇子を継嗣として宮家が継承されたケースが少なくない。〔11月20日ブログ(八条宮相続の例)(高松宮-有栖川宮相続の例)参照〕。また閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承されている。世襲宮家の数が限定されていれば養子もしくは皇子や他の宮家の皇親が遺跡を継承していくことでなければ宮家は存続しないし、皇位継承の備えとなる候補の絶対数が不足してしまうことは江戸時代の例でも明らかである。
  にもかかわらず、幕末維新~明治にかけて宮家が急増したことと、諸門跡比丘尼御所の廃止により僧籍に入ることがなくなったこととも関連するが、皇族の員数を限定しようという動きがあった。しかし伊藤博文や井上毅により、永世皇族制を採用したためか養子も否定し、さらに明治四十年の増補で属籍復帰も否定したという脈絡であろうが(明治三十三年に賀陽宮、三十六年に東伏見宮、三十九年には竹田宮、朝香宮、東久邇宮が立てられており、宮家がさらに増加していたという事情)、今日、皇位継承資格者の絶対数が不足している危機的状況にあり、明治~昭和22年以前の皇族が多数現存していた時期の環境と異なる。所功のように明治四十年の皇室典範増補の規定にこだわるのは本末転倒。歴史的に古くから属籍復帰の事例があるのだから、中古の例に倣うべきである。

(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる

 所功がいうように、定省王が源定省だった期間が3年間で宇多天皇は例外的との見解を仮に受け容れるとしても、私は既に9月22日ブログで、安田政彦の「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」(註11)とする説を引用しているとおり、皇親男子の候補者が少ない状況や特殊な事情においては臣籍に降下した者でも皇位継承候補者たりうると考える。
 
 文室真人浄三・文室真人大市については臣籍に降下しても有力な候補者であった。称徳女帝は皇太子を立てることなく不予に陥り厳戒態勢がしかれた。『日本紀略』宝亀元年(770)八月癸巳条は「百川伝」を引いてそのときの皇嗣策定会議は激論紛糾したことを伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、前大納言文室真人浄三(もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王(光仁天皇)を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとったとされている。これを史実として確定できるかについては批判的な見解があり(註12)、私も偽作という点については疑問に思うし左大臣藤原永手が称徳朝を支えた実力者とみれば白壁王立太子で順当だと思うが、仮に史実とは違う可能性を認めるとしても称徳女帝のブレーンとして活躍し右大臣にまで昇進した吉備真備が浄三・大市を推薦し候補者として急浮上したという話が伝えられているということは、当時の貴族が臣籍に降下しても属籍を復して、立太子という手続きをとることもありうるという認識を示している。
 また天武曾孫、新田部親王の孫である氷上真人志計志麻呂と氷上真人川継の兄弟が、天武系王氏、しかも母が聖武皇女不破内親王で聖武とも近親であるため皇位継承者に担がれようとしたこと。とくに桓武天皇の治世の初期、延暦元年閏正月の川継の謀反については藤原浜成・大伴家持・大伴伯麻呂といった参議クラス、武官長老の坂上刈田麻呂をはじめ大量の連坐者を出したこと、さらに理由不明だが、左大臣藤原魚名の左降追放も川継の謀反との関連を想定する説もあり、相当な企画性を有した深刻な事件であった可能性がある(註13)。当時の貴族は第一に血統を重視しており臣籍に降下したことが、皇位継承資格を喪失するものではないとみることができる。
 陽成天皇遜位の後、『大鏡』が伝える左大臣源融(嵯峨源氏仁明猶子)が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承に意欲をみせたところ、関白太政大臣藤原基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴したエピソードについては、必ずしも賜姓源氏は皇位継承者たりえないという解釈をとる必要はない。当時は親王の数が多く、賜姓源氏まで候補者を拡大する必要はなかったし、政治家の実力としては基経が断然上であり、基経の意中は当初から一品式部卿時康親王(光孝天皇)であったと考えられるから、源融の軽口を一喝したということだろう。
  
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

 所功の「管見」は次のようにいう。「‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として『‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする』べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。最近も八木氏は‥‥、天皇の『血統原理』は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない』とか『大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる』という(註-略)。しかし、これはいかがだろうか‥‥(中略)‥‥ むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として『皇族』身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された『万世一系の天皇』というのも、『天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味』に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)以下略)。」
 つまり村尾次郎の「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」という「万世一系」の定義を所功は旧皇族皇籍復帰を排除する理由として挙げているが、これから述べる理由で全く論理性がないと私は断言する。
 この引用の解釈というのはきわめて悪質でインチキなのだ。つまり「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され」という見解が原著者の論旨と離れて全く違った意味に独り歩きしてしまっている。それは所功が「管見」要点で「日本の天皇として本質的に重要なことは、男性か女性かではなく、国家・国民統合の象徴として公的な任務を存分に果たされること」などとして、女性天皇・女系天皇を容認していることから、この見解が男系・女系いかんにかかわらず皇族で繋がってればいいんだみたいに女系継承容認論に都合のよいように歪められて解釈される傾向になっていることだ。
 例えば有識者会議報告書Ⅲ-1-(3)-イ「今日、重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたことや皇室の中で成長されたことであると考えられる」という結論に所功説が採用されていることを看取できる。さらに1月3日ブログ で引用した『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事におけるある有識者会議委員の発言
「皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」(154頁)。
 これにみられるように、男系女系いかんにかかわらず皇族で繋がっていればいいんだみたいに極めて安易な発想の論拠とされてしまっているように思えるのである。
 それゆえ、所功の村尾次郎の引用による歪められた勝手な解釈は断乎容認するわけにはいかないのであります。
 
 そこでまず原著 村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」129頁以下要所を引用します。

 「一系」の正しい意味
「皇統は万世一系ではない」という説は一部の歴史学者によって唱えられ‥‥それは一系の意味についてまったくの誤解、あるいは曲解から出てきたことであり、国民を迷わすも甚だしい説であると言わなくてはなりません。
 皇統一系とは、天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承されてきたこと、つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味であって、「父から子への相続関係」で貫かれてきたという意味ではありません。万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称しているのです。‥‥‥‥皇室におかれては実に百二十四代を重ねておられるのです。国の中心に立たれ‥‥百代にあまって皇位と血統との一致の上に皇統を維持して来られたのですから、それがいかに困難なことであったか、よくよく考えるべきことだと思うのです。この困難を克服し、皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます。‥‥典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです‥‥大化改新以来の律令制度では、天皇の御子(親王)から数えて四世、または五世の諸王までを「皇親」とし、当代の天皇に皇子や皇兄弟がなければこの皇親諸家の中から皇太子が選定されることになっていました。皇親であっても、姓を賜って臣籍に降る人がかなりあり、特に平安時代にはその現象が顕著になりましたから、皇親の人員は時代の下降、家族制度の変化とともにむしろ減少し、範囲も狭められてきました。鎌倉時代には、大覚寺統と持明院統の両皇統が交互に皇位を継承され、江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です。‥‥
 
 皇位の継承は家を継ぐのではなく位を継ぐこと
 参考までに、学者の誤った見方を紹介します。
 
 万世一系といいますが、僕の計算では万世七系ですよ。今の皇室は、六代前からの皇統でしょう。閑院宮から入って嗣いだのですが、今の民法で、六等親までが親類だというなら、他人さまが入ってその跡を継いでるんですよ。
 
 これは、講和が成立し、日本が独立を回復した昭和二十七年の七月に発行された総合雑誌『改造』の増刊号「生きるための日本史」の中の共同討議「日本史はいかに捏造されたか」の記事で、早稲田大学の京口元吉教授が述べているところです。京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています。家名相続は他人の養子でもできますが、皇位の継承は家を継ぐ事ではなくて位を継ぐことであり、しかも皇族たる宮家の所生(しょしょう)という基礎条件の上にのみそのことは行われるのですから、今の民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのと言うのは、皇位継承論としては全くでたらめです。とうていまじめな歴史家の学問的根拠にたった見解であるとみなしえません。

 
 以上が引用です。原著を読めば明らかなように村尾次郎博士は、いったん臣籍に降った皇親が属籍を復すことを否定するという脈絡で「天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承」と言っていません。ましてや男系でも女系でもよいから皇族で繋げればいいんだなどとは全く言ってない。原著の趣旨を歪めてます。「つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味」であるから女系容認論でないことは明らかです。そもそも、この本が出版された昭和43年というのは秋篠宮殿下は既に誕生されていた。その後、まさか女子が9人も続くなんてことは誰も想像していなかったことで、今日のような女帝容認論や皇室典範改正は政治日程には全く無かった。旧皇族排除の論理としてこの論文を引用することは、唐突というか不可解です。所功の論法は原著の文脈を無視して特定の文句を都合のよいように引用したこじつけとしか思えません。
 この論文は基本的に京口元吉の万世一系虚構論を論駁しているものだということがわかる。私は1950年代のことは生まれる前でよく知らないが、京口元吉のような勘違いの万世一系虚構論がわりあい広まっていたのかもしれない。そういう誤解を正しているのが村尾次郎博士です。
 つまり、後桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です。京口元吉は今の民法で六親等までが親類なので、これは他人さまが入って跡をついだも同然だから万世一系じゃないとか言っているわけです。
 これに対して村尾次郎は「京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています」と批判し、「民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのというのは、皇位継承論としては全くでたらめ」と論駁しているわけです。
 「万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称している」「皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます」「典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです」「江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと。それがすなわち「万世一系」の史実です」これは正論です。「ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵」と述べているから、この論文から旧宮家排除という論理を導き出すことはできません。
 「万世一系」とは直系継承のことではない。それは誤解であって、傍系親族を含めた帯状の幅のなかで皇位を継承してきたという趣旨は、むしろ男系継承論の八木秀次(例えば「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」2004年9月号 Voice 「近代の天皇制度の基礎を築かれたといっていい光格天皇が傍系のご出身で、途中から図らずも皇位を継承されたという事実は、皇統とは何か、そして今日の皇統断絶の危機をどのようにして乗り越えるかについて考える際に大きな示唆を与えてくれる」という見解、あるいは小堀桂一郎「女性天皇の即位推進は皇室と日本国の弥栄に通ずるか」『正論』平成17年5月号の「直系の皇嗣(?)が女子しか居られない場合、皇位を継ぐべきは直系の皇女ではなくて傍系の男性皇族とした‥‥且つその傍系の皇胤を‥‥皇統譜(民間なら族譜)の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇や大行天皇の猶子とする、といふ手続きを履んだ」〔この見解を補足すると後花園天皇は後小松上皇の猶子として皇位を継承し、光格天皇は後桃園天皇女御藤原維子の猶子、藤原維子は皇太后となる〕という趣旨に類似しています。むしろ男系論者に有益な論文なのです。
 むしろ所功が家名の相続との類比により女系継承を容認しているので、京口元吉説にある意味で接近しており、村尾次郎の論文の趣旨に反しているのではないですか。

つづく

(註1)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005「附章 四辻善成の生涯」578頁の註(9)〔初出「四辻善成の生涯」『国語国文』69巻7号 2000〕
(註2)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 174頁参照
(註3)http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/moribe.html
(註4)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註5)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁
(註6)小川剛生前掲書 558頁
(註7)小川剛生前掲書 562~563頁
(註8)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994、高久嶺之介「近代日本の皇室制度」鈴木正幸編『近代日本の軌跡7近代の天皇』吉川弘文館1993所収
(註9)島善高前掲書14頁
(註10)高久嶺之介前掲論文139~140頁    
(註11)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号
(註12)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註13)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9

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