女性天皇に全面的に反対の理由(1)
わたくしは、現東宮家の内親王の立太子・即位それ自体に反対でありますから、たんに女系継承反対論ではない。桜井よしこのような女系天皇に反対するが女性天皇容認という論者にも強く反対します。女帝、女性立太子、女性当主そのものに反対。第一子か男子優先かという議論は女帝を容認する前提であるから問題外になります。このブログ、だらだら長すぎ読むのに疲れるので、あらためて簡潔に述べることにしたいと思います。
1 生涯非婚内親王であることが前提となっていない以上前例に反するのみならず、たとえ生涯独身でも血統的に袋小路の状況での即位に正当性はない
川西正彦(平成18年1月25日)
歴代女帝十代八方を類別すると
第一 先帝皇后(前代以往の天皇の妻后を含む)が即位のケース‥‥推古(欽明皇女、御配偶の敏達とは異母兄妹)、皇極=斉明(敏達曾孫、孝徳皇姉)、持統(天智皇女)
第二 皇太妃(先帝生母)が即位のケース‥‥元明(天智皇女)
第三 生涯非婚独身の内親王が即位のケース‥‥元正(天武孫、文武皇姉)、孝謙=称徳(聖武皇女)、明正(後水尾皇女、後光明・後西・霊元皇姉)、後桜町(桜町皇女、桃園皇姉)
第一のタイプ皇親皇后の即位は、御配偶の天皇崩後であり(推古女帝のケースは、敏達崩後、用明、崇峻の兄弟継承を経たうえでの即位であるが)、女帝即位は不婚独身であることが大前提である。中国の漢代など太后臨朝といって先帝皇后が権力を掌握することがあり、特に後漢はこのケースが多いのですが、中国の伝統では正統的な統治体制です(宋代であれば太后垂簾聴政)。
我が国の場合は中国と違って、皇后が皇親であるというのが令制前の時代からの伝統で皇親内婚であるため(奈良時代の藤原安宿媛立后は慣例を破ったもの)、称制からさらにすすんで先帝皇后が即位することができるということです。
第二のタイプ、元明女帝(諱阿閇皇女、天智皇女、母蘇我倉山田石川麻呂女姪娘)のケースは、文武天皇の早世により子から母への緊急避難的な継承でありきわめて異例であるため文武天皇の「遺詔」と、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。文武朝における阿閇皇女の身位は皇太妃であって厳密には后位ではないが、皇太后に准じた身位とみなしてもよい。御配偶の皇太子草壁皇子薨後18年後の即位であるが、草壁皇子は皇位継承予定者であったが、岡宮御宇天皇と追号されたのは薨後約70年後の天平宝字二年であり、阿閇皇女が后位にのぼされてない以上、第一の先帝皇后の範疇とは厳密な意味で区別した。いずれにせよ、即位後は不婚独身である。
つまり第一、第二のケースは中国漢代の太后臨朝に類したケースから即位もしくは緊急避難的な即位です。権力抗争の緩衝剤という見方もあるが、いずれにせよ現今の女帝論議では、先帝皇后等の即位は想定されていません。そもそも皇后陛下も皇太子妃殿下も民間出身なので人臣の女子が即位することはありえませんから。そうした想定はなされていないわけです。
そうすると、女帝の先例としては第三のタイプ、生涯非婚内親王だけです。聖武天皇の伯母にあたる元正女帝は聖武実母の藤原宮子が夫人位で后位ではなく重い鬱病で政治力がなかったため、聖武の准母のような立場での即位とみることもでき、第二のケースの変態とみなしてもよいが、とにかく非婚女帝の先例があるということで、生涯非婚を貫くことと中継ぎを絶対条件として女帝容認という考え方はありうるかもしれないが、結論としてこれから述べる理由から、現今の状況、血統的に袋小路の場合は正当性はないと私は判断するので、女性天皇絶対反対との結論です。
非婚内親王即位の事例の性格についていえば中継ぎです。まず元正女帝は甥の皇太子首皇子15歳が幼稚であるため太子が成長するまで中継ぎとして即位した。
後桜町女帝も甥の儲君英仁親王5歳が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である。あえて女帝即位はそれなりの事情があった。中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましくなかったことなどがある。
明正女帝のケースは践祚の時点で後水尾上皇に皇子がなく異例だが、小槻孝亮の日記に後水尾天皇譲位の覚書が記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」(註1)とあり、実際弟の後光明天皇に譲位されているので、このケースも中継ぎである。(9月10日ブログに詳論)
現今の状況に比較的類似している例が、聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し薬師寺宮に遷られたため皇子誕生の見込みがなくなり、直系継承が不可能になってしまって傍系皇親の皇位継承が必然化した状況にもかかわらず孝謙女帝が即位したケースである。
但し現今のように女帝の次の男系男子皇族が不在であるのとは状況が異なる。傍系皇親が多数実在していた。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人親王王子では船王・池田王・守部王・大炊王、舎人親王孫の和気王、新田部親王王子では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王王子、安宿王・黄文王・山背王、長親王王子で智努王、大市王、奈良王がいた。孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註2)、皇位継承資格を有する諸王は多数実在していた。
聖武上皇の遺詔で道祖王立太子-廃位、大炊王が前聖武天皇の皇太子から即位したが廃位、淡路配流、孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚により女帝健在のうちは皇太子が立てられず、結局天智系の大納言白壁王(光仁天皇)への皇位継承となったわけだが、非婚女帝であるから結果論として中継ぎなのである。
歴史家(古代史)の角田文衛は「皇親の殺戮、追放に関しては、ローマ帝国のネロ帝、唐帝国では則天武后、日本では孝謙=称徳女帝が最も著名である‥‥称徳女帝に至っては、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であった」と述べておられる(註3)。ネロ帝・則天武后と称徳女帝が並べられれております。
なるほど、孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死。つまり拷問で殴り殺し。塩焼王(臣籍に降下して中納言文部(式部)卿氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立され斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断がなされている。淳仁天皇の甥でありながら孝謙上皇に積極的に協力し、仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議兵部卿和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願したことが発覚して死を賜っている(伊豆配流途中絞殺)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放された。この事件は氷上真人志計志麻呂(天武曾孫)を皇位に就けようとして女帝の髪を盗んで佐保川で拾ってきた髑髏に髪を入れて宮中で呪詛するというおどろおどろしい事件であった(ところがこの事件は光仁朝の宝亀年間に誣告だったということになり厨真人厨女は属籍を復し、忍坂女王なども復権している)。塩焼王の子氷上真人志計志麻呂は土佐配流(註4)。
むろん、天皇には即決処分権がある。裁判を経る必要などないのであって、有力な皇親を殺戮したり追放するの古典帝国の皇帝の宿命であったわけだから、殺戮を非難するものでは全くないし、殴り殺そうが、絞め殺そうがどうということはない。問題は女帝の次の皇位継承の混迷である。
歴史上唯一の女性立太子例は天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王(孝謙)だけだが(9月11日ブログ阿倍内親王の立太子-天平十年史上唯一の女性立太子の特異性参照)天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註5)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である。女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたし、孝謙女帝の即位それ自体が変則的なのである(9月19日ブログ以下参照)。
それゆえ女帝が真に権力者となり権力基盤を固めるためには新田部親王系、舎人親王系といった天武系有力皇親を壊滅させる必要があった。結局、称徳女帝が不予に陥った状況の皇嗣策定会議で皇位継承候補たりえたのは、天武系では臣籍に降下した前御史大夫(大納言)文室真人浄三(もと智努王)と弟の文室真人大市(ともに出家していた)だけだった。右大臣吉備真備によって推薦されたと伝えられているが、女帝が権力に執着したためにほとんど天武系は壊滅状態になってしまったのである。
ということで、血統的に袋小路の状況ではたとえ非婚内親王でも皇位継承で混迷した前例がありやはり問題なのだ。天皇と上皇の共治体制は近親でないとうまくいかない。孝謙と淳仁は六親等離れており、光明皇太后の決裁で淳仁は前聖武天皇の皇太子として即位しているから、孝謙上皇は淳仁に親権を行使できる立場でなかったにもかかわらず、権勢に執着する上皇は、国政の大事、賞罰は上皇が掌握すると宣言して奪権闘争に突入していった。
この教訓を生かすならば、たとえ非婚内親王を絶対条件としても現今の状況で女帝の中継ぎという選択肢は適切でない。
もっとも私はこれまで書いたブログで光明皇太后の紫微中台政権、皇太后が天皇大権を掌握したことも、称徳朝の意義についても女帝についても実はかなり肯定的に評価もしている。それは律令国家成立期からこの時期まで天皇・上皇・皇后さらに皇太子も含めた共治体制が基本で、当初は聖武上皇も健在だったし、当時の政治力学では光明皇太后が主軸にならないと現実政治で政権の安定は難しかった。皇太后朝は聖武朝との政策の継続性もあり無難な政権だったのである。しかも光明皇太后は大炊王を前聖武天皇の皇太子として直系継承の擬制も行ったし、孝謙上皇の反対にもかかわらず、淳仁天皇の先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成させて確実な男系継承のため尽力されたのである。その後の政治的経緯、孝謙上皇の重祚は皇太后にとっては想定外のことであってこのことを別として、政権の安定的継承により傍系につなぐという意味で、皇太后との共治体制として孝謙女帝の意義を認めてよい。しかし現今の状況はそれとは全く違う。皇太后朝という安定政権によって律令国家を成熟させるという国家的課題があるわけでないので、たとえ非婚であっても女帝即位の正当性は孝謙のケースよりさらに弱いのである。
政府-有識者会議の結論は旧皇族の属籍復帰を全面的に否定しているので、つなぎの女帝や歴史的に前例である生涯非婚を前提としていないのである。政府(有識者会議)案の女帝-女性宮家当主は当主となりえない入夫という非常に醜い婚姻を前提としているため前例のないものである。こんなものは到底容認できるものではない。結論として女性天皇は絶対反対ということになる。
なお、同様の理由で宮家の女性当主にしても反対である。宮家の女性当主としては桂宮淑子内親王の例がある。仁孝第三皇女で、天保十一年閑院宮愛仁親王と婚約したが、天保十三年に親王が薨ぜられた。文久二年異母弟・節仁親王の薨後空主となっていた桂宮家を継承いで慶応二年准三后、一品に叙されている。これは婚約者を失った内親王を遇するためのものなのだろうが、淑子内親王は独身を貫いており、明治14年内親王薨去により継嗣がないため桂宮家は断絶した。この先例からみて女性当主を認めるには不婚でなければならないというのが絶対のルールである。
女帝がなぜ非婚かという論点については、諸説ありますが、ここでは成清弘和説を二点だけ引用しておきます。成清氏は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されている。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註6)。
それも重要な点だが、成清氏の『日本霊異記』下巻第三八話の皇后の用法の引用を読んで、妊娠出産という次世代の再生産は皇后の役割であって、妊娠出産する天皇というのは論理矛盾でありえないという認識を示していることを知った。
「帝姫阿倍天皇御世之天平神護元年歳次乙巳年始、弓削氏僧道鏡法師、與皇后同枕交通 天下政相摂、治天下 彼咏歌者 是道鏡法師之與皇后同枕交通 天下政摂表答也」
称徳女帝を天皇と記さずに皇后と記していることに着目したい。成清氏によると「弓削氏の道鏡と「交通」り、共に天下を治めているのは「皇后」である‥‥つまり「皇后」とは「交通」り、次代の継承者を再生産するものであり、ともに天下を治めるものである、という認識の存在の指摘が可能」(註7)とされるのであるが、裏返していうと天皇に次代の再生産を求めることはできない。その役割は皇后だということです。昔からそういうことに決まっているわけです。だから、配偶者が現存する状況での女帝即位は論理的にありえない。それはもはや女帝ではなく皇后というほかない。称徳女帝は独身だから天皇であって皇后ではありえないわけですが、道鏡と「交通」の局面においては理屈のうえで皇后になってしまうわけです。
要するに次代の継承者の再生産は后妃の役割、天下を知ろしめす天皇にはそういう役割はない。伝統的にそういう理屈になっているわけです。象徴天皇だから妊娠出産する天皇でもいいじゃないか。男女役割分担の定型概念打破のため、天皇や皇太子にも妊娠出産していただこうというのは皇位を侮辱するもの。
(註1)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註2)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註3)角田文衛『律令国家の展開』塙書房1965「天皇権力と皇親権力」26~27頁
(註4)倉本一宏『奈良朝の政変劇 皇親たちの悲劇』吉川弘文館歴史文化ライブラリー
(註5)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註6)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 141頁
(註7)成清弘和 前掲書「大后についての史料的再検討」101頁
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