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2006/01/03

基本的用語の説明からインチキ(1)-皇室典範に関する有識者会議報告書反駁-

 通常国会が開かれてから、自民党の内閣部会が天王山となるようだ。正月から決戦モードで気合いを入れていきたい。今回は従来述べてきたことの繰り返しが多く新味がありませんが、次回は所功の女系容認論反駁をやる予定です。

川西正彦(平成18年1月3日)

 目次 1.皇統の概念規定からインチキ
     2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか
      (1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず
      (2)律令の父系帰属原則
      (3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-
      (4)中国王権と同じパターンの国号の由来
      (5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

1.皇統の概念規定からインチキ

 皇室典範に関する有識者会議報告書がいかに汚い内容か。議論の前提となる最初の「基本的用語の説明」からインチキなのである。人を騙そうとする悪意に満ちている。

冒頭の「皇統」の説明から間違ってる。有識者会議報告書の引用は赤字とします。 
 
基本的な用語の説明
〔皇 統〕
・ 「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。


 この概念規定はあまりにもルーズでいい加減、たんに、歴代の天皇と繋がる血統という文言だと、女系も含むものと解釈されうるわけで報告書は一行目からインチキです。
 
 女系で歴代天皇に繋がっていれば皇統ということなら、平安時代の摂関継承家や閑院流藤原氏も皇統 ということになってします。そんなばかなことがあってたまるか。
 例えばこういうことです。関白藤原基経の正妻が人康親王女(二世女王)、基経と人康親王は母方で従兄弟でもありますが、左大臣藤原時平、左大臣藤原仲平、醍醐后朱雀・村上生母藤原穏子(天暦大后)の生母は人康親王女です。なお関白藤原忠平の生母については歴史家によって見解が異なるのでここでは不確定としておきます。
 つまり延喜新制期の左大臣藤原時平(本院大臣と称される-註1)ですが、母方で承和聖帝=仁明天皇に繋がっております。母方を遡っていくと人康親王女-人康親王-仁明天皇です。光孝天皇と人康親王の母が女御藤原沢子(贈皇太后)である。時平の母方大叔父が光孝天皇であり、醍醐天皇とはマタイトコになります。
 仁和二年正月二日、内裏仁寿殿において時平は元服の盛儀を挙げた。光孝天皇が手ずから冠を加え即日親筆の位記をたまわって正五位下に叙された(註2)。功臣の嫡子としての殊遇であったが、天皇手ずからの加冠は時平と仲平の例しかなく、空前絶後の殊遇は基経の権力の大きさを物語るが、それは時平が光孝天皇と近親という意味も含むと思う。時平と仲平が女系で天皇と繋がっていることは、それなりの意味があるとみてもよい。
 しかし、時平・仲平は北家藤原氏嫡流、藤原氏長者であるが皇統の男子ではもちろんない。仁明天皇と母方で繋がるが皇統ではないです。たんにこの例をもってしても「「皇統」とは歴代の天皇からつながる血統のこと。」という非常にルーズな有識者会議の定義は誤りであることは明白。時平が皇統男子だったら君臣の区別がつかなくなってしまう。
 くどいようだが、9月22日ブログと同じことを述べます。右大臣藤原師輔が醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)と結婚した。違法であるが勅許による。さすがに康子内親王は后 腹の一品親王なので村上天皇や世間は許さなかったとも伝えられているが、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。
 為光や公季は醍醐天皇の外孫、朱雀天皇・村上天皇の甥にあたり、母方で天皇に繋がってるが、あくまでも藤原氏の一員であり、当然のことながら皇胤でないから太政大臣に任ぜられても皇位継承者には絶対になりえない。母方祖母が朱雀・村上生母太皇太后藤原穏子である藤原公季の尊貴性は当然のこととして、藤原為光も母方祖母が更衣源周子(嵯峨源氏-近江更衣・中将更衣と称される。左大臣源高明の母)、父方祖母も文徳皇子源能有女だから、皇室や王氏との血縁関係はかなり濃いといえるが、皇位継承者には絶対になりえない。
 それでも女系継承策動の厚生省出身官僚・悪のトライアングル 古川-羽毛田-柴田 (私が命名しました)は女系も皇統といいはるんだろう、日本史専攻の学生にでも聞いてみてください、10人中10人が、内親王の御子の藤原為光や公季は醍醐の外孫、村上の甥であっても皇胤でないから皇位継承資格は絶対的にないと断言するはずだ。もし為光や公季のような外孫が登極すればそれは王権簒奪であり、王朝交替により国号もあらためなければならないんです。有識者会議報告書のルーズな皇統の定義では藤原為光や藤原公季は皇統男子になってしまう、そんな非常識なことがまかりとおってたまるか。
  また、関白忠平の生母が人康親王女でないとしても、忠平は宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。要するに摂関家は小野宮流(実頼流)にせよ、九条流(師輔流)にせよ母方で天皇に繋がっている。
 要するに報告書の非常にルーズな皇統の概念規定では平安時代の摂関家、清華家の閑院流藤原氏・村上源氏という上流貴族が皇統という概念でくくれてしまう。そんなばかな理屈があるか。
 有識者会議の笹山晴生は日本古代史の専門家でありながら、こんないいかげんでルーズな概念規定に賛同してお墨付きを与えてしまったので重大な責任がある。学者として良心のひとかけらもない。根性が腐ってますね。もしあなたの弟子がこのようにいいかげんな概念規定をしてその論文を推薦できますか。あなたが学界実力者なら、藤原時平も藤原公季も藤原道長も藤原実資も女系で天皇に繋がってるからみんな皇統男子だと教科書を書き換えてくださいよ。そういう歴史を歪める無茶苦茶なことでいいんですかと言ってやりたい。
 花園上皇の『誡太子書』(註3)によると「吾朝は皇胤一統なり」として易姓革命の懼れはないという観念に安住することなく君徳涵養の必要を甥の皇太子量仁親王(のち光厳天皇)に書き与えたものだが、これはPDF資料有識者会議第三回の資料2「皇位継承の考え方が記録されている例」にも記載されていることです。
 男系でも女系でも天皇に繋がれば皇統だみたいな有識者会議のルーズな概念規定と『誡太子書』の「皇胤一統」という明白な男系継承概念は論理矛盾です。明天子と誉れ高い花園上皇の見解が誤っているのですか。そんなばかな。笹山晴生があくまでルーズな概念が正しいというなら、花園上皇を反駁してくださいよ。
 
 皇室典範の「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」は、明治皇室典範を継承するものであるが、その皇室典範義解(註4)によれば「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法ナリ‥‥祖宗ノ皇統トハ一系ノ正統ヲ承クル皇胤ヲ謂フ‥‥祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ者蓋シ左ノ三大則トス
第一 皇祚ヲ践ムハ皇胤ニ限ル
第二 皇祚ヲ践ムハ男系ニ限ル。
第三 皇祚ハ一系ニシテ分裂スベカラズ」

 「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法」なのである。この決定的な法規範、皇統概念について明確な根拠もなく非常にルーズな概念規定に変えてしまっている。有識者会議報告書は基本的用語の説明-議論の前提からインチキをやっている、これほど人を騙し汚い報告書はない。この一点だけでもこの報告書は棄却されるべきである。
 
 ところで有識者会議でもヒアリングで呼ばれた高森明勅は、『養老令』は双系主義を採用していた。女系も皇統などという虚構の奇説(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号78頁)を説いているが、高森説について私は8月27日その③で反駁してます。しかし、それ以前に同じ女系論者の所功が6月8日の有識者会議ヒアリングで名指ししないものの高森説を明確に否定している。にもかかわらず高森明勅は11月22日のテレビ朝日スーパーモーニングに皇室典範問題の解説者として出演し、当日の録画を採ってますが、8時52分に「皇統のなかには女系も含まれうる云々」と相変わらず大嘘を言い、司会の渡辺宣嗣が肯いていたが、高森の持説は完全に破綻しているのです。
 
2."なんとなく男系"が続いただけなんてそんなばかなことあるか

 にもかかわらず、女系も皇統みたいな奇説に類似した見解がみられるのは不可解です。『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事は有識者会議のメンバ-を取材した記事ですが、ある委員は同誌の取材に対して
皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」と答えたという(154頁)。
 男の子がいっぱいいたから男が継いだだと、歴史を歪めた非常に偏った見解です。"なんとなく男系"だとそんなばかなことがあるか。こんな無茶苦茶な理屈で皇室典範が歪められてたまるか。
 またある委員は旧皇族の復帰について
男系維持派は勝手に言ってろという感じです。男系男子にこだわれば皇太子で終わりです。どこから男系男子を呼んでくるといっても、六百年前に分家した旧宮家しかないんですよ。そんな無理を通そうとするのは、よっぽど頭の悪い奴か男性優位主義者。とにかく人間蔑視の思想ですよ」(154頁)と言ってる。
 何回も言ってるが伏見殿は分家じゃないです。持明院統正嫡ですよ。
 この人は男系主義への敵意を持ってますね。この人は男性でしょうが男性優位主義はけしからんとか言ってますからフェミニストです。私からみてこの有識者はイデオロギー上の敵ですね。この人の主張では女帝反対の私はよっぽど頭の悪い奴で、人間蔑視ということになります。ある意味で当たってます。私は「人間の尊厳」なんて神学的フィクション、君主・王権を別として人間の尊厳なんて安易に認めないと公言してます。人間蔑視が正しいという考え方ですから。男性優位主義が文明社会の鉄則だ。フェミニズムが諸悪の元凶と言ってますから。この人が誰かだいたい見当はついてますが、イデオロギー的に衝突せざるをえません。
 私の主張は原理原則・規範が第一義である。大義を重んじる。「祖宗以来皇祚継承ノ大義炳焉トシテ日星ノ如く萬世二亙リテ易フルベカラニズ」皇位国体護持こそ第一義である。国民大衆の敬宮や雅子妃への勝手な思い入れなんていうのはバッサリ切り捨てろという立場ですから、それが人間蔑視というならそれでもかまわないです。

(1)直系卑属優先なら、光仁天皇でなく井上内親王が即位したはず

 文武天皇は皇后を立てず、知られている配偶者は夫人藤原宮子以下三人だけ、聖武天皇も光明皇后のほか4人の夫人が知られているだけ、キサキの数は少ないといえる。当時夫人位の藤原安宿媛(光明子)所生の皇太子基王は夭折し、夫人県犬養広刀自所生皇子安積親王も早世、草壁皇統は血統的袋小路になりましたが、后腹の阿倍内親王が立太子のうえ非婚で即位(孝謙女帝)しました。舎人親王の王子で池田王、船王といった年齢的にみて結婚相手となりうる皇親はいたのですが、結婚はしてません。女系は否定されているからこそ孝謙女帝は非婚を強いられてたのであって(もし池田王か船王と結婚していたら皇親内婚の男帝優先規則で皇位継承者は池田王か船王となるが、光明皇太后が国政を掌握する体制としては非婚の孝謙女帝が望ましかったと考える)、聖武上皇の遺詔で傍系の新田部親王の王子道祖王が皇太子に立てられましたが廃位、さらに舎人親王の王子大炊王が前聖武天皇の皇太子として即位(淳仁天皇)したが廃位、結局、天智孫の白壁王(光仁天皇)が皇位を継承しましたが、前斉王聖武皇女(夫人県犬養広刀自所生)井上内親王を妻としていました。
 今回の有識者会議の男女いかんにかかわらず直系卑属年長順とするルールを称徳女帝の後継者にあてはめると、称徳女帝の異母姉妹である井上内親王が皇位を継承しなければなりません。しかし井上内親王が女帝になって白壁王が皇婿殿下ということにはならないんです。井上内親王は既婚者だから、配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできない。井上皇后が即位する可能性としては光仁崩後ですが、井上内親王はそれ以前に后位を廃されたうえ死亡したのでそれもなかった。皇親内婚の男帝優先規則があり、女帝即位は非婚であることが大前提なので男系継承のルールは明白です。だから"なんとなく男系"なんてそんなばかなことがあるわけない。

(2)律令の父系帰属原則
 
 また「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません」などと言ってますが、大化の男女の法で良民の父系帰属原則、律令の父系帰属原則といった法規範を無視してます。令制における皇親(天皇の親族)の規定、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」は、天皇(女帝をふくむ)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とした。そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)(註5)とするものですが、令制の二世王とか三世王というは、子を一世、孫を二世、曾孫を三世と数えます。これはいうまでもなく父系帰属主義なんです。
 ひとつの例を示します。霊亀元年(和銅八年)二月二十五日条「勅して三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れたまふ」という記事がありますが、天武曾孫にあたる式部卿長屋王王子で吉備内親王所生の諸王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられた。これは三世王を蔭位等の面で二世王の扱いにして厚遇することを意味するが、女系では吉備内親王所生の諸王は元明女帝の孫ですから二世王になるが、そういう数え方は絶対しない。あくまでも男系主義で三世王だが二世王の特別待遇とするものです。なお父の長屋王はもともと慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている(註6)こともあり特別待遇ということです。
 ただし父系帰属主義の例外も若干あります。敏達六世孫の葛城王は臣籍降下で橘宿禰諸兄(のち朝臣賜姓)となりますが、橘氏は母の県犬養橘宿禰三千代からとってます。同様の例もほかにもありますが、皇親諸王の二世王、三世王、四世王、五世王としての待遇の違いは男系主義です。 
 
 また継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕も例外的規定ですが既に高森明勅の反駁でも述べたとおり
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
 
 「女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。これは諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定です。皇極・斉明女帝(宝皇女)は舒明天皇(田村王)との結婚以前に既婚歴があり、高向王とのあいだに漢皇子をもうけてます。漢皇子は令制の規定では三世王ですが、こういうケースで親王格上げを想定しているという説もありますが、女帝即位は不婚でなければならないから、未亡人の即位つまり太后臨朝から即位するケース、元明女帝のようにもと皇太子妃が緊急避難的に即位するようなケースでの「女帝の子」であり、義解によれば王娶親王条の皇親女子内婚規定により「女帝の子」の父は天皇・親王・二世~四世王に限られることになってますから、男系主義から逸脱することはない。男系主義は貫徹しているんです。
 なお、大宝令以後、継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕が適用された実例はありません。高森明勅は6月8日の有識者会議のヒアリングで元正女帝(氷高内親王)は天武孫だが元明女帝の所生「女帝の子」であるから内親王になったというインチキを言ってますが、氷高内親王は文武皇姉という資格で内親王です。〔女帝子亦同〕の適用ではない。同じく元明を母とする吉備内親王も同じ。この点は8月27日その③で明確に反駁してますので御覧ください。
 
 もっと基本的なことをいえば我が律令国家は大唐の律令を継受し、中国の法文化を忠実にとはとてもいえないが基本的には継受しているんです。王権の父系出自原則の継受は当然のことです。東洋法制史研究者の滋賀秀三(註7)によると、中国では共通祖先から分かれ出た男系血統の枝々のすべて総括して一つの宗という。つまり女系を排除した親族概念を宗という。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念としているが、伝統中国の法文化=宗法制度は父系主義であることはいうまでもないことです。したがって皇祖皇宗ということばも男系を意識しているのは当然だと思います。
 もっとも同姓不娶とか昭穆制とか実質的に宗族制度は受容されていないという面も多分にありますので、我が国の同族が中国の宗族とは構造がかなり異なる決定的なものとして異姓養子を受容したことがいわれる。
 異姓養子を非とする観念が、父系出自原則を徹底することとなりますが、その最大の理由について江森五夫(註8)によれば春秋左氏伝「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、神霊は自己の血族以外の者の祀を享けないとする祭祀観念にあるとする。祖先の祭祀は父系的血族によってのみ執行わるべきであり、その祭祀の絶えざるが為に養子が取り立てられるがゆえに、養子は祖先と血縁者(同姓)であらねばならないとするものである。
 近世朝鮮が朱子学を国策とし東方礼儀国を称した歴史的経過から、韓国は儒教ノルム、父系出自原則が徹底している社会といえるが、門中が単位となって一年に一度おこなう儀礼として時享祭(四大祖以上の祖先に対する共同祭祀)があるが、これは儒教的性格が強く表れ男性成員のみの参加である(註9)。儒教における祭り祀られる関係において父系で生理学的に繋がる子孫によって祀られるという規範が徹底しているのだ。であるから儒教的ノルムが徹底した場合異姓養子はない。しかし我が国は儒教による祖先祭祀ではなく、仏教による祖先供養が普及したこともあり、春秋左氏伝の思想は貫徹しないのである。朱子学を官学とした徳川時代においても異姓養子厳禁という政策も観念は徹底しなかった(但し筋目尊重という趣旨で武家社会にはそれなりに浸透した-註4江守五夫の著書参照)。皇室においても中国の天子七廟制のような制度は継受しているわけではない。
 
(3)中国の国家概念の継受-王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義-

 しかしながら中国の国家概念が東アジア世界のスタンダードであり、我が国も中国の国家概念を継受しているということは、8月21日の第1回ブログ(4)易姓革命なら国号を改める必然性(我が国は中国の国家概念を継受している)で言及していることですが、要点のみ繰り替えし述べます。日本国号の由来や歴史的経過からみて、我が国も中国における国家をもって一姓の業とする概念を継受しているのは確実である。これは決定的です。従って易姓革命(王者は姓を易へて命を受く-史記巻二六歴書-)となれば国号を改めなければならない。女系継承のありえない中国の王権と同じく、王権が父系規則で徹底しているのは当然のことなのである。父系出自規則が破られれば、いかなるケースでも易姓革命になり王朝交替といえます。したがって日本の一般社会、皇室以外の家系において女系継承や非血縁継承が容認され、日本の同族が父系出自集団と概念規定できない在り方であるが、皇室はそれと同列に論じることができない。皇室は国家そのものだから。
 
 滋賀秀三(註10)によると「通志氏族序に「天子諸侯建国、故以国為氏、虞・夏・商・周・魯・衛・斉・宋之類是也」というように、上代の王朝や国の名は、実は王や諸侯の氏の名にほかならない。氏とは別に国号が生じたのは、劉邦が天下をとって国号を漢と称したことに始まる。」と述べている。

 しかし、漢代以後も国号は氏(姓)概念そのものであるという見解がある。尾形勇(註11)は斉から梁への易姓禅譲革命において王朝交替後の武帝の告天文(梁書巻二武帝記天監元年四月丙寅条)「斉氏、暦運既に既き、否終すれば亨なるを以て、天応を欽若して以て(蕭)衍に命ず。‥‥天命は常にはあらず。帝王は一族のみには非ず。唐は謝し虞は受け、漢は替り魏は升り、ここに晋・宋に及び、憲章は昔に在り」を引いて、この条文においては「易姓」は「斉氏」から「梁氏」の形式にて述べられているとされ、又、漢魏易姓禅譲革命について論じ、「魏」という王朝名ないしは国号もひとつの「姓」であったのであり、漢から魏への交替は「劉氏」から「曹氏」への「易姓」であるのと同時に、「漢氏」から「魏氏」への「易姓」でもあったのされるのである。
 また「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦数の序を以て漢の禅を承く。まさに天心たるべし」と見えることを論拠として、漢魏易姓禅譲革命の構造は、まず「皇帝位」が「劉氏」の献帝から「曹氏」の曹丕へと「冊」を媒介して禅位され、次に「天子位」が「天命」の移行を前提として「漢氏(漢家)」から「魏氏(魏家)」へと譲位するものだとされる。
漢魏革命を前例として、中国では宋代まで少なくとも14回の、禅譲革命の繰り返しになるが、国家概念は基本的にそういうものであったし、この国家概念は我が国にも継受されているのは当然のことだろう。

 また井上順理(註12)によると「中国では古来国家をもって一姓の業とし、王姓の世襲と国すなわち王朝の存続は同義であったから、王姓の変更はそのまま王朝の交代を意味した。」これがもっとも簡潔でわかりやすい説明である。

 厳密にいうと姓と氏では概念は異なること、先秦時代に存在した晋・魏・宋・唐などと後代の王朝はどう違うかという細かい問題に深入りしないが、要するに、漢は劉氏(姓)、魏は曹氏、晋は司馬氏、隋は楊氏、唐は李氏、宋は趙氏、明は朱氏、清は愛新覚羅氏の王朝である。日本も女系継承-異姓簒奪なら日本国は終焉して、事実上の易姓禅譲革命で国号を改めざるをえなくなります。従って論理的に女系継承はありえないのである。要するに男系継承にこだわらないと国を滅ぼすということです。このことに有識者会議は気づいていないはずはないのですが、意図的に無視している。要するに有識者会議や厚生省出身官僚悪のトライアングル(古川-羽毛田-柴田)は国を滅ぼそうがどうでもよいという、愛国心のひとかけらもない最低の輩なのである。
  
 もっとも天皇は姓をもたない。日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。しかし官文娜によると(註13)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系出自系譜の集団成員、令制の皇親という概念も「姓」とほぼ同義ともみなしてよいと思う。実際、「王姓」という語が日本書紀天武八年正月詔「非王姓」母の拝礼禁止に見えますし(註14)、九世紀から始まったと考えられる「王氏爵」もあります(註15)。十世紀だと、親王のなかでも序列筆頭とみなされる式部卿に任用されている親王が推薦者となってます。天皇に姓はなくても、天皇の親族である皇親に「王姓」概念をあてはめて理解してよいのである。
 なお、『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註16)。
 
(4)中国王権と同じパターンの国号の由来

 さらに、日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。 吉田孝(註17)が「倭」を「日本」を改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝からと述べている(註18)。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期(7世紀から8世紀初期まで)と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。なぜ「やまと」「日本」そのものの意味については、一段落したら掲載する予定の補説「日本国号の由来からみても易姓革命なら日本国は終焉する」をみていただくこととして、次の説は基本的に正しいと思う。

 岩崎小弥太は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である(註19)。

 問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。
 問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 
 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
 
 平安時代に朝廷の主催する日本書紀の購読が行われていたが、上記は『釈日本紀』に引く「延喜開第記」つまり延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である(註20)。『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期の見解、博士は藤原春海。
 
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受し、ているのは確実で、要するに中国王権の国号の由来とするパターンと同じということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。わが国では古くから讖緯説による革命理論(辛酉革命、甲子革令、戊午革運)が知られていた(註21)。神武東征の開始が甲寅年から始まるのは、甲寅始起説に基づく(註22)。中国思想の影響はいうまでもないことですね。
 
 周王朝との類比はわかりやすいと思います。古墳時代は大和(やまと)に大国があり、各地に小国があって、大和政権は小国に威令を及ぼしていた。これは春秋時代において、新石器時代以来の文化地域ごとに大国が存在し、地域内の小国に威令を及ぼしていたのに似ている(註23)。
 令制前の国家は、朝廷が畿内(ウチツクニ)を直轄統治し、地方の統治は国造を服属させる間接統治で、この構造は周王朝とも似ている。周は中原地区の西部・東部を掌握し威令を及ぼしていた。西周時代の場合、鎬京とラク邑の周囲が畿内に相当する。

 ちなみに漢王朝は、秦滅亡後、項羽が天下を処置して、討秦軍の諸将、六国の旧王族及び秦の降将など十八人を全国各地に封じて王としたが、このとき、劉邦が漢王として漢水上流域の漢中の地に封ぜられ、漢の社稷を立て、人民に爵位を与え漢王朝が成立した。漢王劉邦は項羽を滅ぼして天下を統一し皇帝位に即いたが、国号は天下統一後も王朝成立の地である漢王朝なのである。
 王莽が漢室劉氏から簒奪して新を建国したが、国号の新の由来は、もともと王莽が南陽新野の都郷千五百戸の新都侯であったからである。
 
 魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後も国号は魏である。
 
 唐の場合は、初代皇帝高祖李淵の祖父李虎が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。

 我が国も周や漢などの中国王権も王業成立の地(魏晋南北朝時代以降は前王朝から与えられた爵位が通例ともいわれるが、王号は漢代以降は皇帝によって与えられる爵位であるから理屈のうえでは同じこと)を国号とする全く同じパターンである。
 つまり天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられたから、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本という文字を当てたのが、日本国号の由来というのが岩崎小弥太説であるが、こうした国号の由来からみても中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承-易姓革命なら国号を改めなければならない。

(5)日本国号は王朝名だから易姓革命なら日本はおしまい

  吉田孝によれば「日本」の名称は中国の「隋」「唐」、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」同じように本来は王朝名(ある王統の支配体制の名称)として成立した」(註24)「王朝(dynasty)の名、すなわちヤマトの天皇の王朝の名」(註25)とされている。
 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)であるが、神野志隆光は吉田孝と日本国号の由来について対立した見解を述べているが、日本は国土の呼称ではなく、吉田孝の言うように王朝名だとしている点には賛同している。その論拠は、大宝公式令詔書式の意義である(註26)。

 御宇日本天皇詔旨
 御宇天皇詔旨
 御大八州天皇詔旨

 「御宇」と「御大八州」が等価なのであって「日本」と「大八洲」と同じ次元で並ぶ国の呼び方ではなく、「日本」は「日本天皇」というかたちで意味をもつので、これは王朝名であるとされている。また『日本書紀』は中国の正史である『漢書』『後漢書』『晋書』にならったもので、王朝の名を冠しているとされている。なるほど、『日本三代実録』とは『日本(王朝)三代実録』で意味が通ります。この説は決定的なので全面的に従いたい。
 実際に日本朝という語が起請文で用いられるし、決定的な意味では「我日本朝はいわゆる神明の国なり」という清和天皇の貞観十二年の願文があります。明らかに日本は王朝名ですね。
  まさにいま政府-有識者会議の易姓革命合法化というたくらみにより我日本朝が滅ぼされるか最大の危機ということになります。
  素人ながら私が言い換えればこういうことです。古記によれば対蕃国、隣国使用とされる御宇日本天皇詔旨(あめのしたしろしめすやまとのすめらみことのみことらま)は天下を統御し支配する日本天皇という意味です。(但し、対隣国使用は疑問であるが、この点に深入りしない)
 蕃国使(新羅)に「天下を統御し支配する日本天皇」と称し、咸くに聞きたまえと命令を下すのであって、天皇は天下を知ろしめす(統治の総括的表現)のであって、日本を統治するのではない。天皇が王朝名である日本を統治するというのは論理矛盾になる。仮に日本の原意が東夷の極なら、西方の藩国に対して天皇が東夷を知ろしめすということでは全く意味が通じない。
 国内向けのは大事を宣する辞としている御大八州天皇詔旨(おおやしまぐにしろしめすすめらみことのみことらま)は国土(もしくは地上世界)を統治する天皇という意味になります。
 国土呼称は大八洲なのであって日本ではない。大八洲の意味については、岩橋小弥太(註27)によると神道家には葦原の中つ国と同じく、大地を悉く指す、八島は多数の意とされる見解があるという。この解釈では広く地上世界である。しかし本居宣長は古事記に依拠して八つの島であるという。『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会1889)においても「我カ帝国ノ版図古二大八島ト謂ヘルハ、淡路島 即今ノ淡路 秋津島 即本島 伊予ノ二名島 即四国 筑紫島 即九州 壱岐島津島 津島即対馬 隠岐島佐渡島ヲイヘルコト、古典ニ載セタリ」とある(註28)。しかしながら、どことどこで八つの島なのか異説がある。しかし八つの島とはおおよそ国郡制の施行地域の枠内であるから、国土呼称とみなしてもよい(なお七世紀末より八世紀にはいわゆる日本内地を「華夏」「華土」「中国」と称していた。西嶋定雄〔註29〕は日本にとって華夷とは国郡制施行地域とその周辺外の蝦夷、隼人、西南諸島の範囲にとどまり、唐王朝はもちろん新羅は華夷の枠外であるとされている)。
 公式令詔書式によればあくまでも国土呼称は大八州であって、日本ではない。日本は王朝名(王統の支配体制)であり、天皇という君主号とむすびついて、日本天皇として意味をもつ。われわれが日本内地と慣用している国土指称は、日本王朝(朝廷)の直轄統治地域つまり五畿七道諸国、国郡制施行地域、律令施行域であった歴史的由来に依拠しているのであって、王朝交替、易姓革命により、日本王朝でなくなれば、もはや日本内地ではなくなるという性質のものである
 であるから、女系継承の容認は王朝交替、易姓革命を合法化するもので絶対あってはならないこと。孟子の思想は古くから受容されているから、革命思想は古くから意識されていたし反易姓革命イデオロギーとして万世一系思想が古代からある(8月27日ブログ参照)。  ゆえに「男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。」そんなばかなことはありません。
 要するに有識者会議は、現皇室典範、旧皇室典範の規範的意義を根拠もなく否定するのみならず、古くからの我が国の国制の歴史的脈絡を全く無視し、全く自分勝手にです。これほど悪質なものはないです。

  なお、先に引用した有識者は「側室が山ほどいた」とか言ってますがこれについても若干コメントします。、歴代天皇に常に配偶者としての側室が山ほどいたとはいえない。いわゆる天皇制の特徴をひとつあげれば、天皇に正配がなくても存続することにある。要するに令制立后制度というのはどちらかといえば政治行為であり、令制立后制度は中国の制度とは違って婚姻家族モデルではないということです。内侍所の尚侍(ないしのかみ)の職掌は常侍、奏請、宣伝に供奉せむことと、下級女官の統率である。しかし尚侍は鎌倉時代初期には既に置かれなくなった。室町時代には典侍(ないしのすけ)、掌侍(ないしのじょう)と、これらの下に置かれる命婦と女蔵人のみが置かれた(註30)。南北朝から立后は近世初期まで、女御の制は秀吉時代まで中絶したため、天皇に正配がなかった。なお後宮女官でとくに実務的なのは掌侍筆頭の匂当内侍で奥向き経済を掌握し、女房奉書を書き出し、大名からの進物などの取り次ぎを行った。後宮女官は社寺代参や、天皇の日常生活の奉仕、ありとあらゆる仕事をこなしたが、正式の配偶者がいないので内侍所の典侍・掌侍がなんとなく側妾の役割をも果たすことになったということである。
 桑山浩然(註30)によれば後花園天皇の治世の『永享九年十月二十一日行幸記』では典侍3名、掌侍4名、その他2名を挙げるから、室町時代にはこの程度の人数であったとする。当時の後宮の規模がこぢんまりしていたことがわかる。
 中世以後、とくに室町時代以後后腹でない実務的中級貴族の女性を母とする天皇が多くなるが、そもそも皇后が立てられてない。正式の配偶者が無い時代もけっこう長かったということもあります。 

(註1)藤原時平-今昔物語により時平が伯父の大納言藤原国経の美人妻を寝取ったことが知られているが、国経は「お人良し」にすぎないのであって、政治家としての実力は時平が断然上で全く問題になりません。時平が美人妻を寝取って当然ですね。菅原道真は忠臣とされていますが、道真は少なくとも醍醐退位・斉世親王擁立の企てに誘われていたともいわれている。その前年に三善清行に辞職勧告されてますがこの時点で道真は右大臣をやめるべきだった。醍醐天皇にとっては前代の重臣は鬱陶しい存在であり、天皇が指導力を発揮しやすいように道真を排除した時平の政治判断は常識的なものである。時平は昌泰の変により悪玉にされてますが、それは偏った見方。
(註2)橋本義彦「学者と公達-菅原道真と藤原時平-」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996 129頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
井上順理『本邦中世までにおける孟子受容史の研究』風間書房、1972 310頁
(註4)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994の附録より引用
参考「皇統断絶問題TBセンター」http://japan.arrow.jp/blog/2005/12/post_19.htmll 
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970  なおまた、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとされた。しかし慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰している
(註6)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998 51頁
(註7)滋賀秀三『中国家族法原理』創文社1967 19頁
(註8)江守五夫『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990 「異姓養子にたいする禁忌と許容」108頁
(註9)岡田浩樹『両班-変容する韓国社会の文化人類学的研究』風響社2001 172頁
(註10)滋賀秀三 『中国家族法原理』創文社1967 44頁 註(29) 
(註11)尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店 1979 302頁
(註12)井上順理「易姓革命」日野原利国『中国思想辞典』研文出版1984
(註13)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁 、大山喬平教授退官記念会編『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版1997所収
(註14)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998、35頁
(註15)宇根俊範「氏爵と氏長者」坂本賞三編『王朝国家国政史の研究』吉川弘文館
(註16)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下 
(註17)吉田孝『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁 
(註18)網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁
(註19)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下
(註20)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、121頁以下。
(註21)川崎晃「倭王権と五世紀の東アジア-倭王武・百済王上表文と金石文」黛弘道編『古代国家の政治と外交』吉川弘文館2001所収
(註22)岡田正之『近江奈良朝の漢文学』川崎晃前掲論文から孫引き。
(註23)平勢隆郎 中国の歴史02『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』講談社2005 353頁
(註24)吉田孝 日本の歴史2『飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書332 1999、187頁
(註25)吉田孝 同じく90頁
(註26)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、25頁以下
(註27)岩橋小弥太『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)54頁
(註28)神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書1776 2005、195頁
(註29)西嶋定生「遣唐使と国書」『倭国の出現』東京大学出版会1999、234頁以下、初出『遣唐使研究と資料』東海大学出版会1987 
(註30)桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称」『女性史学』6号1996

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