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2006/02/19

田中卓女系容認論反駁(2)

  やたらと前置きが長くて恐縮しますが、今回は前回を補足する程度の小幅な内容にとどめ、田中卓反駁の核心については次回以降とします。

川西正彦(平成18年2月19日)

 前回2月5日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_13a3.html

 前回の補足

 田中卓『諸君』3月号論文の「゛天照大神を母系とする子孫″であれば、男でも女でも、皇位につかれて何の不都合もないのである。つまり母系にせよ、明瞭に皇統につながるお方が「即位」して、三種神器をうけ継がれ、さらに大嘗祭を経て、「皇位」につかれれば「天皇」なのである」(64頁)という見解が、厳然たる男系による万世一系の皇統譜の規範性、万世一系という日本固有の美質を明確に否定する奇妙な説であり、到底容認できないことについて前回述べました。

 前回、天皇に姓がないが、姓概念を否定して議論することはできない。この点で田中卓論文は全くインチキだと書きました。田中卓は「皇統に関して男系とか女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のことで、管見では、それ以前に議論になったことはない」(64頁)とも言っているが、だからといって女系容認という方向に結論づけるのは屁理屈というほかない。
 男系継承は自明な事柄であるから、近世以前は男系継承を疑う余地など全くないから議論にならないだけである。令制皇親概念、世襲宮家もそうですが父系単系出自の自然血統主義の親族概念で、皇胤ないし王胤でなければ皇位継承者たりえないという観念は自明である。例えば前回引用した花園上皇の『誡太子書』「 吾朝は皇胤一統なり」がそうですし、慈円(天台座主-関白藤原忠通六男)の『愚管抄』巻七に
「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」(註1)
「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥」(註2)
 神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄ですが、男でも女でも不都合はないという田中卓博士は『愚管抄』のこの見解を否定しますか。
 
 北畠親房の『神皇正統記』(序論)
「彼国(天竺)の初の民主も、衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓もおほくほろぼされて、勢力あれば下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからもありき。
 震旦又ことみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、力をもちて国をあらそふ。かゝれば、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起て国を奪へるも有。或は累世の臣として其君をしのぎ、つゐに譲をえたるもあり。伏犧氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさいふにたらざる者哉。
 唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。是併神明の御誓あらたにして、余国にことなるべきいはれなり」(註3)
 天竺とはインドの古称、震旦とは中国です。村井章介の解釈は「「神国」たる日本と「みだりがはしき」天竺・震旦とのちがいは、天子の「氏姓」が易わるか否かに求められる。」としてます。「一種姓」も女系を含まない概念であることは当然です。ところが田中卓は「古来、皇室は他の氏族と区別する必要はなく、天皇(古くは大王)の家と断然隔絶されていたからである。」(65頁)と非常に混乱した見解を述べてますが、田中卓博士は北畠親房の神国日本は「一種姓」で天子の氏姓が易わらないのが外国と異なるという考え方を否定しますか。
 
 令制皇親、親王や諸王の範疇が父系単系出自集団であることはいうまでもないから、男でも女でも不都合はないとする田中卓説が無茶苦茶だということは前回述べましたが、東アジア世界における「王」号については西嶋定生(註4)の説明がわかりやすいので要約して引用する。「王」というのは春秋時代には最高の君主を意味するが、戦国時代に有力な諸侯が「王」を自称したので地位が相対化した。漢王朝においては帝室一族のみに「王」号を称しうるが、「王」は帝室一族のみならず、外夷の君長にも王号が与えられた。そうしたことで、「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となる。「王」は臣礼をもって皇帝に服従し、印綬賜与によって初めて許されるものであるから、独立した君主権を意味しない。なお卑弥呼が「親魏倭王」に冊封されたが印綬賜与はない。勝手に「王」名号を自称するのは、皇帝の支配秩序を乱す非法になる。そういう性格のもので、爵位であるから、姓概念とも違う。
 1月20日新刊の吉田孝(古代史専攻-青山学院大学名誉教授)の『歴史のなかの天皇』岩波新書を読みましたが、「王」と「姓」という項目があって、唐制との違いに言及されている(60頁)。唐制では「王・公・侯・伯・子・男」の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の「王」(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの「王」名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて「王」名号を称するのである。但し、「「王」族の急増をもたらした。その結果、「賜姓」による臣籍降下が日常化し、「王」も「姓」の一種とみなされるようになる。」と吉田孝は説明している。
 「王」名号を称しうる皇親は父系で天皇に繋がってなければならない。女系で天皇に繋がっても「王」名号を称されることはないという規則性がある。だから、男でも女でも不都合はないとする田中卓説は令制の基本的な制度を全く無視する無茶苦茶な見解なのである。

 吉田定房奏状こそ真に価値のある諫言だ
 
 寛仁親王への御諫言という田中卓論文は後醍醐天皇の御精神を仰ぐとして「後醍醐天皇は、何とおっしゃったか。『今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし。』と」(69頁)それゆえ、女系天皇の新例をひらいていいんだみたいな含意を示唆する言葉で論文をしめくくっている。女性天皇・女系天皇容認を未来の先例とする急進的な改革をやろうと煽っているわけですが、このレトリックは異常なものである。
 これは『梅松論』が伝える言葉だが、「朕が新儀」とは具体的に何かという点については村井章介から引用する。「延喜・天暦の治にかえれ」のスローガンのもとに関白鷹司冬教を解任、その究極的な意図は将軍・執権はおろか摂政・関白・院など天皇の独裁を掣肘するすべての機関を否定することにあった。また太政官の議定官会議を許さず、八省卿を天皇直属の執政官に位置づけ、特定の家系に特定の官職や知行国が長期にわたって相伝する体制も否定した。天皇独裁体制のために、先例、家格の序列、官位相当などの貴族層の伝統的な秩序観念を乱暴に踏みにじるもので、北畠親房・顕家親子のような腹心とも路線のずれを生じさせるものだった(註5)。
 ここでは建武中興の評価に踏み込まないが、仮にこうした空前絶後の急進的政治改革を「朕が新儀」として評価する立場をとるとしても、思想的内実は万世一系、皇孫思想を前提とするものある。つまり後述する正中の変の釈明書にみられる、後醍醐天皇が北条氏の天下管領を否定する根拠を「戎夷」という出自に求めたこと(註6)。いずれにせよ政府改革、朝廷政治の刷新と皇位継承は全く別の次元の事柄であるから、後醍醐天皇の御精神を仰ぐことから女系を導き出す論理性など全くない。

 また田中卓は花園天皇の宸記が後醍醐天皇を「聖主」「政道の中興」と称賛されていることを引用するが(69頁)、これも一面的な取り上げ方のようにも思う。花園上皇は正中の変の収拾過程で後醍醐天皇の有徳を疑う言説を記している。『花園院宸記』元亨四年十一月十四日の条である。正中の変において、密謀が露見した際に後醍醐天皇は万里小路宣房に釈明書を持たせて関東に下向させた。曰く、「関東は戎夷なり。天下管領然るべからず。率土之民、皆、皇恩を荷ふ。聖主の謀反と称すべからず。ただし、陰謀の輩あらば、法に任せて尋沙汰すべし」(註7)。関東者戎夷也とし、率土之民という王土王民思想がみられる。この天皇統治思想は正義であるとしても、釈明書が釈明になっていないという点で過激な内容といえる。花園上皇はこの釈明書について、「多被引本文(漢籍を引用することが多く)、其文体如宋朝之文章」と仰せになる。一方で、「但此書猶難信用」としながらも「若為実事者(もし本当ならば)」、「君臣皆是狂人歟」とまで非難なさっている(註8)。
 関連していうと本郷和人(東大史料編纂所助教授)「文保の和談」(註9)がこんなことを言っている。
 「K子氏は先日某学会で報告者を務めたが、この時つい「後醍醐天皇の建武政権はパロディだ」と口をすべらせ、まわりから「おれのメシのタネを奪う気か」とばかりに批判の集中砲火を浴びたという。けれども私には、彼女の発言を一笑に付すことはできそうにない。文保の和談時の朝廷と幕府の関係をふまえてみると、後醍醐天皇の倒幕行動はあまりに唐突な感じがするからである。過去との脈絡において今日を捉えることをせず、さしたる準備もなしに(何より自前の軍事力がない)倒幕に突進するさまは、改革とか異形とか何やら耳に心地よい言葉ではなく、みもふたもない「別の語」で形容した方が適切であるように思う。この点で私は、『日記』元亨四年十一月十四日条の花園上皇の意見に全く賛成である。」結果論として幕府は崩壊したが、後醍醐の討幕は破天荒な行動であった。
 
 そこで後醍醐天皇の近臣で討幕計画を諫言した吉田定房奏状(村井章介によれば書かれたのは元亨元年1321という)を前回に続いて取り上げておきたい。
「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利(国王)天祚一種(いっしょう)なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期(ご)なし」(註10)
 中国では異姓の天子が出現することで、政治改革(中興)が行われてきた。日本で中興の実があがらないのは、天子の種がただひとつだけだからだとする。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であることをはっきり述べている。これは女系を含む概念でありうるはずがない。村田章介は「あえて天皇制の正統性の根源に直截に疑いをなげかける驚くべき言説である」(註11)と評するが、これは無謀な討幕計画を諫止するための逆説論で吉田定房の真意が万世一系の否定ではないことはいうまでもない。
 定房は討幕を不可とする理由として「今時関東之武士無逆天理之志歟」「革命之今時関東無妖、其儀聞上」と天は今のところ関東をみはなしていないことを、しつこく繰り返す(註11)。そのうえで、
 「今の時、草創の叡慮若し時機に叶わざれば、忽ち敗北の憂あらんか、天嗣殆ど此に尽きなんか。本朝の安否此の時に在り。豈に聖慮を廻らさざらんや」(註12)。

 村井章介によると定房の危機意識は、後醍醐天皇の運命を超えて、王家断絶の可能性、「本朝の安否」にむけられていた。なにがなんでもみずからの子孫に皇統を伝えようとする後醍醐の暴走は危険因子であったとする(註13)。
  吉田定房(名家-実務的中級貴族)の諫言は全く正しい。第一に重要なのは、本朝の安否である。後醍醐天皇の運命、傍系の一代限りの天皇になってしまうかどうかという、二の次の問題である。「忽ち敗北の憂あらんか、天嗣殆ど此に尽きなんか」も大げさな表現にも思えるが、リスクの大きい政策判断を諫言するのは当然のことである。
  個人の運命より大義という観点からすれば、雅子妃や愛子内親王の運命が第一義とされるのは間違いである。それと同じことである。

なお、本筋の議論と外れるが、後醍醐が討幕を企てた要因については複雑な皇位継承問題が絡んでいるので、一応説明することとして、田中卓反駁は次回以降核心的な議論を行うこととする。
  皇位継承問題の幕府の斡旋案にもとづく「文保譲国」いわゆる「文保御和談」(1317)は、結果的に花園天皇譲位後、尊治親王(後醍醐)-邦良親王(後二条皇子)-量仁親王(光厳)という皇位継承順となり、大覚寺統が二代続くことになって持明院統にとって不利益なものとなった。その背景として本郷和人(註14)は正和四年の京極為兼第二次配流事件をあげている。西園寺実兼が伏見上皇と為兼が幕府に異図を抱いていると讒したことによるが、為兼土佐配流後も伏見上皇が幕府を敵視しているとの噂が囁かれ、上皇は必死の弁明を試み、無実を訴えたため幕府は罪を問わなかったが、このことは持明院統にとって不利に働いたとみられる。
  なお「文保御和談」当時執権北条高時、実権者は秋田城介(安達)時顕と長崎円喜だが、連署金沢貞顕は六波羅探題として十年以上宮廷社会との接触があったことから、特に大覚寺統の人々と深くつながっていた。後醍醐践祚後の邦良親王立坊には貞顕の影響力の行使があったといわれている(註15)。
  しかし、本質的には後宇多法皇が正嫡と定めた後二条の第一皇子邦良親王への相続を明確にするためのものであり、幕府が後宇多法皇の御意を尊重したためであろう。後宇多法皇の延慶元年(1308)閏八月の宸翰によればその御領をすべて尊治親王(後醍醐)に譲与せられ、親王一期の後は、悉く邦良親王の子孫に伝へ、尊治親王の子孫は賢明の器済世の才あるとも臣下として之に仕へよと特に誡められている(註16)。つまり尊治親王は一期相続の中継ぎ的即位で大覚寺統ではあくまでも傍流の扱い、「一代の主」と引導を渡されていた。
  そもそも尊治親王立坊は後二条天皇の早世と邦良親王が病弱であったこと。さらに、亀山法皇末子で法皇の遺詔で皇位継承者とされた恒明親王の即位の可能性を潰す意図もあったといわれている。つまり花園践祚の前年(徳治二年1307)に「恒明親王立坊事案徳治二年」とする事書が関東に送られ、これは持明院統サイドの文書であるが亀山法皇の「素意」に反する後宇多を幸道に反する不幸の仁と批判し、恒明親王を次期東宮とすべきことが述べられていた(註17)。つまり伏見上皇(持明院統)と恒明生母昭訓門院が提携していた。要するに皇位継承争いは持明院統と大覚寺統反主流派が提携して大覚寺統主流派に対抗するという複雑な様相になった。しかし東宮に立ったのは後二条の弟で一代限りの中継ぎである尊治親王(後醍醐)だった。後宇多法皇は、鎌倉幕府に使者(六条有房、吉田定房)を派遣し政治工作を行っていた。後宇多の構想は尊治立坊で恒明の望みを塞いで、持明院統の策動を潰すとともに嫡孫邦良親王の成長を待つというものであったとみられている。もっとも神皇正統記は、後宇多が「若し邦良親王早世の御事あらば、この御末(後醍醐の子孫)継体あるべし」と御遺勅された旨載せている。これは微妙な問題になるが、大覚寺統の正嫡・後嗣と定められたのはあくまでも後二条系、一品邦良親王なのであり、この理屈では後醍醐系より、邦良親王系に皇位継承の正統性が有することとなる。
  正中元年(1324)後宇多法皇が崩御になられると、東宮邦良親王は不安を感じ、皇位継承の速やかならんことを熱望し、しきりに使者を遣わして鎌倉幕府に説かしめ、催促した(つまり後醍醐の譲位を促すよう幕府が圧力をかけるよう熱望)。それがために後醍醐天皇との間がはなはだしく疎隔し、険悪となった。後醍醐は邦良親王の運動を阻止するため吉田定房を鎌倉に下向させ、対幕府工作を行った。後醍醐の政権維持には定房が貢献している。邦良親王は嘉暦元年(1326)三月二十日東宮のまま病により薨じた。薨後、東宮候補には大覚寺統から三人、邦良親王の同母弟邦省親王、亀山皇子恒明親王、後醍醐皇子尊良親王が推薦され、東宮ポストを争った。つまり大覚寺統が三派に分裂したことを意味するが、「文保御和談」の線で持明院統嫡流量仁親王立坊となった。
  量仁親王(光厳天皇)の次が問題になるが、幕府が後二条-邦良親王流が大覚寺統正嫡という認識をとる以上、後醍醐系は疎外されることになる。ということで、後醍醐がみずからの子孫の皇統を形成するには討幕という選択肢しかなかった。
 
    
(註1)村井章介『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「易姓革命の思想と天皇制」217頁、初出、永原慶二他編『講座・前近代の天皇』5世界史のなかの天皇 青木書店、1995
(註2)村井章介 前掲書238頁
(註3)村井章介 前掲書241頁
(註4)西嶋定生『倭国の出現  東アジア世界のなかの日本』東京大学出版会  1999
(註5)村井章介「南北朝の動乱」村井章介編『日本の時代史10南北朝の動乱』吉川弘文館2003 39~40頁
(註6)村井章介 註1の230頁
(註7)筧敏博 日本の歴史第10巻『蒙古襲来と徳政令』講談社2001 358頁

(註8)ウェブサイト中世日本紀略「鎌倉幕府の衰亡(3)~正中の変~」http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/histo4.htm
(註9)本郷和人「文保の和談」『UP』281号 96.3

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/

業績一覧、新稿の一覧にこの記事がある。

(註10)村井章介 註1の219頁
(註11)村井章介 『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「吉田定房奏状はいつ書かれたか」248頁、初出『日本歴史』587号 1997年4月
(註12)村井章介 註1の222頁
(註13)村井章介 『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「吉田定房奏状はいつ書かれたか」
(註14)本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会1995 174頁
(註15)筧雅博 日本の歴史第10巻『蒙古襲来と徳政令』講談社2001 345頁
(註16)今井林太郎「中世の朝幕関係」歴史科学協議会編「歴史科学大系17巻天皇制の歴史(上)」校倉書房1987所収 173頁
 延慶元年閏八月譲状 村井章介 南北朝の動乱」村井章介編『日本の時代史10南北朝の動乱』吉川弘文館2003 の11頁参照。
(註17)森茂暁 『鎌倉時代の朝幕関係』思文閣1991「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案徳治二年』をめぐって-」、森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 38頁以下。

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コメント

麻里子さん嬉しい報告ありがとうございます💓18日をワクワクしながら楽しみに待ってます✨
元気なサチやニャンズワンズが見られるなんて夢のようです🙌

嬉しいです!!!😂
やはり大きな画面で花はなの皆の動く姿が見たい!!!
ちなみにウチはパソコンが無く動画はいつもスマホで見ています📱
お兄ちゃんとっても可愛い!!私好みの猫さんだわ🎵
今回は出番が無いのね…でも次回は是非是非!

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