仁藤敦史『女帝の世紀』批判(2)
仁藤敦史の女帝中継ぎ説批判を要約しているのは次の文章だろう。(『女帝の世紀-皇位継承と政争』角川選書2006年、第三章「ミオヤ」と「ワガコ」139~140頁)
「‥‥当時の皇統意識が後世のような男系中心の直系継承ではなく、父母両系の関係を意識し、擬制を含んだ双方的な直系継承であり、かつ継嗣令皇兄弟条本注が男帝以外の男性と女帝との即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性を視野に入れての立法、つまり女帝は婚姻により新たな女系を創出できるという法意であったとするならば、孝謙(称徳)への譲位は、不婚を強制された女帝の存在が必然的にもたらす「皇位の袋小路」などではなく、彼女が直系として配偶者との関係によって連続していく可能性が残されていたと考えるべきだろう。聖武が遺詔として新田部親王系の道祖王を立てたのも、孝謙の配偶者としての立場を考慮していたと考えられる。事実、称徳没後の後継においても、天智系の白壁王が聖武の娘井上内親王との婚姻を前提に光仁天皇として即位できた正統性も、天武系から天智系への「王朝交替」ではなく白壁王が娘の井上内親王を介して、聖武の「我が子」として処遇されたことによると考えられる。通説のような女帝に対する不婚強制は結果論的解釈であり、明証する史料は存在しないのである。」
この文章のなかに仁藤独自の新奇な説が凝縮されているわけです。まず道祖王(天武孫、父新田部親王、天平勝宝八年聖武上皇の遺詔により立太子、翌年三月廃太子、同年七月橘奈良麻呂の変に座してマドヒと改名させられ、杖に打たれて死ぬ。)の件ですが、仁藤は3月12日ブログで紹介した擬制的婚姻関係説からさらにすすんで、道祖王は孝謙女帝の配偶者となることが想定されていたという趣旨を上記の文章で言ってますね。
仁藤の論拠は『日本霊異記』下巻第三十八話の「朕が子阿倍内親王と道祖親王と二人を以ちて天下を治めしめむと欲ふ」ですが、佐藤長門が「天皇と皇太子(あるいは太上天皇と天皇)として共同統治させるという意味」であって擬制的婚姻関係を抽出するのは強引な解釈と批判されているとおりです(佐藤長門「『日本霊異記』における天皇像」『歴史評論』668号2005-12)。
もし配偶者として想定されていたとすると、道祖王が即位すると孝謙女帝は皇帝を退位して皇后に冊立されるとでもいうのでしょうか。天皇のキサキが太上天皇であるというような歪な制度が想定されていたなどとはとても信じられません。
次に光仁后井上内親王(聖武皇女、母夫人県犬養広刀自)の結婚時期ですが、内親王が伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十八年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは斎宮の任務を遂げたことによる。この前後に天智孫の白壁王と結婚したとみられている。所生の酒人女王(光仁即位により内親王)が天長六年薨76歳であるから、逆算して天平勝宝六年生まれである。少なくとも聖武上皇が健在のうちに結婚したとはいえる。しかしこの時点で皇位継承候補者として有力だったのは、天平勝宝九年道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で塩焼王、池田王、船王が推薦されていることからみて新田部親王や舎人親王の子で天武系皇親です。白壁王が有力な候補者として浮上するのは天武系皇親が次々に粛清されていった称徳朝においてである。結果論として聖武皇女を妻に持ったことは白壁王にとって有利に働いているが、これは皇位継承を前提としての結婚なのではない。上記仁藤の文章は一般の読者に誤解を与える表現である。
又、仁藤は光仁が聖武の「我が子」として処遇されていたとか言ってますが、史料的根拠は示されてない。光仁天皇の即位で先考施基皇子(光仁の父)を御春日宮天皇と追尊されました。山陵の地により田原天皇とも称されます。さらに光仁生母紀橡姫に贈皇太后。施基皇子が天皇号の追尊をうけることにより、天智-施基皇子系皇統を創成したのであるから、聖武の「我が子」に擬制されなければならない必然性はないと思う。
川西正彦
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