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2006/08/27

『椿葉記』の由緒は重んじられるべきである-旧宮家復帰待望論(2)

 松岡心平の「椿葉のフェティシズム-朗詠「徳是」から-」『文学』季刊10巻2号1999に椿葉の意味についてのさらに詳しい解説があったので引用する。

「徳は是れ北辰、椿葉の影再び改まり、尊は猶ほ南面、松花の色十かゑり」

 上記の朗詠「徳是」は、十世紀前半の漢詩人・文章家の大江朝綱が「聖化万年春」と題して作詩したもので『新撰朗詠集』に採られる十二世紀初頭あたりから、朗詠の代表曲、常用曲となった。
 ふつうめでたい席で謡われる朗詠の代表曲が「令月(嘉辰令月)」で「徳是(徳是北辰)」はこれとペアーで謡われることの多い、二番目の人気曲だったという。『看聞日記』でも貞成王の長男(後の後花園天皇)の魚味の儀(応永28年2月20日)、後花園天皇の大嘗会が終了した直後の伏見宮家の近臣の推参の郢曲尽くし(永享20年11月22日)で「令月」と「徳是」がペアーで謡われている。
 ところがこの曲には十三世紀の中頃、大きな付加価値がつく。「徳是」という朗詠の功徳で、後嵯峨院が後鳥羽院流の皇統の回復をなしとげたという物語が生まれた。『古今著聞集』によると土御門院の第三皇子であった後嵯峨院は、父院が寛喜三年(1231)阿波国で崩御した後は、大納言通方のもとに寄寓していたが、皇位回復の望みもなく、頼みとする大納言も亡くなったので、仁治二年(1241)の冬頃、石清水八幡宮に参籠して出家の意志を告げたところ、明け方「御宝殿のうちに、徳是北辰、椿影再改と、鈴の声のやうにて」神の声が聞こえてきた。出家を思いとどまり、都に戻った後嵯峨院は、翌年一月九日の四条天皇の急な崩御により、一月二十日、ついに天皇位に登った。
 「椿葉之影再改」という詩句が皇統の転換ないし回復を暗示するものだと松岡心平氏は述べている。この物語は皇統の回復をなしとげたというところに価値があるということである。もともと『椿葉記』は永享三年の起草段階では『正統廃興記』であった。そうすると『椿葉記』は直截的表現ではないが『正統廃興記』とはほとんど同じ意味ということになる。
 要するに後花園天皇が後小松上皇の猶子とされる儀を経て皇位を継承した。それは上皇の思召の重恩によるものであり、後光厳院流(柳原流)の継承者と位置づけられている、しかし貞成親王は『椿葉記』により、天皇はまことは崇光院流(伏見流)の子孫であり、現実的な血統上の事実として、これは持明院統正嫡たる崇光院流の再興であると主張しているのである。
 実際、『看聞日記』によると貞成王は「徳是」を自ら主唱者として謡っている三例など、相当なこだわりをみせているという。最初の例は応永23年7月24日で栄仁親王から治仁王に琵琶の秘曲を授かれる灌頂の際、これに先立つ管弦のなかで、琵琶の血脈相承を寿いでのもの。第二例は、応永24年正月11日、栄仁親王の喪中であったが、治仁王が年頭の佳例として祝言の謡いがあるべきだとして所望したケース。第三例が同年4月2日、治仁王が脳卒中で急に薨じたが、四十九日の翌日に、貞成王の代始めとして自ら謡ったケース。これは宮家の継承者として皇統再興への意欲をみせたものとも解釈できる。

後小松上皇の御遺詔とその問題点
 
 後小松上皇は後光厳院流(柳原流ともいう-これはたぶん後光厳上皇の仙洞御所が柳原亭であったことによる)の継承性にこだわった。岸田寛によると(註1)、後小松御落胤の大徳寺一休和尚に院宣を下したが一休は次のように辞退した。

「常磐木や木の梢つみ捨てよよをつぐ竹の末は伏見に」

「竹」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族をさす。称光天皇の御世を継承すべき御方は持明院統正嫡の伏見殿宮(彦仁)であるとしている。自らを梢にたとえて竹に接ごうとなさるのかと遠慮しているのは一休の母が南朝にゆかりのある藤氏の出身であることからとされている。とにかく一休は伏見流の皇位継承が妥当との見解であったので、一休還俗は実現しなかったのである。
 後小松上皇は永享5年10月20日に崩御、血統的には後光厳院御一流は断絶したが後花園天皇の皇統上の地位の解釈で継承性のあるものとした。
 御遺詔の勅書は『満済准后日記』』(10月23日)によると「‥‥勅書趣、後光厳院御一流不断絶之様能々可有申御沙汰云々(中略)又一通勅書、御追號事可為後小松院云々」とある。但し、後光厳院流の断絶せざる様取り計ふべきのほかにも、万里小路時房の『建内記』によると文安4年3月6日条に「‥‥不可有尊號之沙汰、舊院仙洞不可為伏見宮御所事」とあり、天皇の実父貞成親王に太上天皇の尊号あるべからず、旧院仙洞御所を伏見宮の御所たるべからずも含めて三箇条があったことが知られている(註2)。
 
 村田正志(註2)によると上皇の御考は「院如御所生、被契約御父子の儀」であり、貞成親王との御父子の関係の断絶を意味するものだったという。即ち後小松上皇は、崩御の後、伏見宮方が御遺志に反して後花園天皇を以て崇光院流を再興し給へる天皇として、貞成親王との親子関係を主唱するような事態を憂慮され、厳重な御遺詔を記したのである。
 しかし遺詔というものはしばしば反故にされている。聖武上皇の遺詔による皇太子道祖王の廃太子、桓武天皇が遺詔で皇位継承者に指名したともいわれる恒世王の例、後三条天皇は、白河天皇に実仁親王が皇太弟となり、実仁親王が即位した後には、輔仁親王を皇太弟とするよう遺言したが守られなかった。亀山法皇が恒明親王を皇位継承者に定めたにもかかわらず後宇多上皇が反故にした例などである。
 ここから私の意見も述べますが、上皇の御考は前例からみて異質のように思う。現実に血統が途絶していながら猶子の儀にもとづく擬制に前例がなく、天皇の実父が存命されているにもかかわらず太上天皇尊号がないというのは少なくとも律令成立期以後はない。
 前例として承久の乱で仲恭天皇廃位、三上皇島流しにより後堀河天皇践祚、後堀河の御父守貞親王(高倉皇子、後鳥羽皇兄)は出家されていたが、後堀河天皇の御父として太上天皇尊号を奉られ、院政をしいた例がある。後高倉院である。増鏡に「ちゝの宮をは、太上天皇になしたてまつりて、法皇ときこゆ」神皇正統記にも「入道親王、尊號ありて太上皇と申て世をしらせ給」(註3)とあるとおりである。 
 奈良時代においては、文武・元正天皇の御父草壁皇子は慶雲四年に薨日を国忌に入れ、天平宝字二年に岡宮御宇天皇の尊号が奉られた。淳仁天皇の先考舎人親王が、天皇の実父ゆえに崇道尽敬皇帝と追号され、光仁天皇の先考施基皇子が春日宮天皇と追尊されている。山稜の地により田原天皇とも称される。従って少なくとも奈良時代以後、天皇が実父が即位していないケースでは太上天皇尊号か天皇号、皇帝号が追号されているのである。
 『椿葉記』では、後高倉院、草壁皇子や施基皇子その他の例を引き、猶子の前例についても検討を加えたうえで次のように、太上天皇尊号宣下の御希望を記されている。
「されは上古より、帝王の父として無品親王にてはてたるためしなければ、御猶子の儀にはよるまし。舊例にまかせて院號の御さたもあるへき事に侍れとも、不肖の身、中々微望をいたすに及はす。つゐには又追號の沙汰はありもやせむすらむ。おなしくは存命のうちに尊號の儀もあらは、いかに本意ならむ。さてこそ君の聖運開ましますしるしも、いよいよ氣味はあらめと覺侍る。何事も人の偏執によりて、當座はとかく申なし侍るとも、昔の例は世のしる所なれは、今更申に及さる事也。」(註4)
 村田正志の註解を参考にすると上記の大意は次のとおり。
「上古以来天皇の実父で自分のように無品親王のままで果てた例はない。今上が後小松院の猶子となっているからといって、別段これに拘束されるわけはない。天子の御父に太上天皇の尊号宣下があったという旧例に従って、我身にも院号を賜る事があろうけれども、不肖の自分としては尊号宣下を申し出ることはできない(謙遜し婉曲な表現をとる)。終には薨去の後尊号追贈があるかもしれないが、同じ事なら存命のうちに尊号宣下があれば如何に満足だろう。もしそうなれば後花園院の御運が開けゆくような気分がする。どんなことでも片意地で当分はいろいろ難癖をつける人がいるが、前述のような古例があることは世人の知るところだから、今更いうに及ばず大丈夫だ。」
 これは親王の名誉欲とかそういう趣旨のものでは全くない。持明院統正嫡たる崇光院流の悲願が皇位回復であるから、太上天皇尊号宣下がなければ崇光院流の再興とはいえない。それゆえに、婉曲な表現ながら熱望されたということである。

 御猶子の前例も検討してみると、白河法皇が曾孫の崇徳天皇を猶子(実は実子)としている例は鳥羽上皇との父子関係(実は甥-伯父)を断絶する趣旨ではない。
 伏見上皇の第二子富仁親王(のち花園天皇)が皇兄後伏見上皇の猶子として大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられた。これは伏見上皇が、将来後伏見上皇に皇子が生まれた時は、その皇子を富仁親王の猶子として皇統を継承させ持明院統を分裂させないで結束するための措置であるが、花園天皇践祚で伏見上皇の院政となった(上皇出家の後、後伏見上皇の院政)。実の父子関係を祖父-子の関係に擬しての院政ともいえるが、実の父子関係を断絶させるような性格のものではないように思える。
 これは、後伏見天皇が僅か在位三年で幕府の圧力で大覚寺統に皇位を譲ることになったため。持明院統としては甚だ不本意であったが、この時点で後伏見に嫡子なく、量仁親王(のち光厳天皇)は誕生していなかった。従って両統迭立で後二条の春宮には後伏見皇弟の富仁親王の立坊以外になかった。従ってあくまでも後伏見が正嫡であることを明確にしたものといえる。実際、持明院統の主要所領や琵琶の秘曲の伝授なども後伏見-光厳と相続され、花園上皇は傍系であるので室町院領しか相続できなかった。
 『椿葉記』ではこの事情を「又花園院は後伏見院の御弟なれとも、御子になし申されて御位に即しかとも、つゐには嫡孫光厳院こそ皇統にてましませ。されは御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ。事あたらしく申へきにはあらす」(註5)と記されており、これは持明院統の公式見解のようなものだから、付け加える必要もないわけである。
 光明院が皇兄の光厳院の猶子とされたのは光厳院の院政をしく前提であると考えられる。そうしたことで、後小松-後花園の猶子関係というものは前例と趣旨を異にするの面が多分にあるといえる。
 
つづく

川西正彦
 
(註1)岸田 寛 「乱世の天皇像-後花園天皇の場合」 『日本文學論究』通号37 1977
(註2)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1983 
「後小松天皇の御遺詔」
(註3)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 239頁
(註4)前掲書 244頁  
(註5)前掲書 239頁

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