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2006/08/20

『椿葉記』の由緒は重んじられるべきである-旧宮家復帰待望論(1)

発売中の『週刊現代』で9月6日に向けて「祝親王誕生カウント・ダウン」という見出しが踊ってます。性別を信じたいところだが、一部夕刊紙の記事を鵜呑みにしてばかじゃないのとのご批判もいただいているので、一応慎重な言動をとります。しかし、既に「9月初旬には親王御誕生」で先走った報道になってますので、このタイミングで旧宮家皇籍復帰待望論を書いておきたいと思います。
   
川西正彦

旧宮家復帰を待望する理由をひとくちに言ってしまえば、決定的な意味で後崇光院伏見宮貞成親王の御著作で後花園天皇の叡覧に備えられた『椿葉記』の由緒を重んじる。これを軽視して伏見宮系御一統切り捨てるべしという女系論者の主張は、皇室の歴史と伝統を侮辱するものであって到底容認できるものではないという一点につきるわけである。

『椿葉記』の概略

伏見宮貞成(さだふさ)親王(1372~1456)は、正平一統とよばれる足利尊氏の南朝降伏にともなう南朝による北朝政権の接収により皇位を廃され神器も回収された崇光天皇の孫、伏見宮初代の栄仁(よしひと・なかひと)親王の第二皇子で、応安五年三月二十五日、権中納言三条実治女(西御方)の御腹に御生まれになった。応永二十四年、皇兄治仁王薨去の後をうけて伏見宮を御継承になり、同三十二年親王宣下、同年出家して道欽と号された。文安四年十一月特に太上天皇の尊号を宣下せられ、康正二年八月二十九日崩御になった。御年八十五歳。後崇光院と謚せられた。 従って今年は後崇光院崩後550年ということになる。『看聞御記』全四十三巻などの著作で知られている(註1)。
 『椿葉記』は永享六年八月当時16歳の後花園天皇に奉覧せられた。その内容から、後小松上皇が在世のうちは天皇の叡覧に供することはできなかった。天皇に進献されたのは後小松崩後の翌年である。天皇には、御実父伏見宮貞成親王より、永享三年に唐鏡、一口物語、保元物語、平治物語、平家物語など同四年に増鏡、世継、宇津保物語、同五年に古今著聞集、九条相国伊通公奏書、水鏡、寶物集、玉藻物語など、同六年に明徳記、堺記、誡太子書などが進献され学芸の御修養をされていた(註2)。増鏡で後醍醐天皇までの皇室の歴史はカバーされていたが、『椿葉記』はこのうえに御実家である崇光院流(伏見宮)の歴史、崇光院廃位から、崇光院流が持明院統の正嫡でありながら皇位を継承できず沈淪した経緯、所領相続の経過、後花園天皇登極までの顛末と、御実父の立場から天子の御修養に関する御心得について、叡覧に供するために書かれたものである。
内容は第一に、崇光院の廃位より後花園院の元服まで、持明院統嫡流たる崇光院流の盛衰興廃の史実を主とした記事でこれが主要部分である。貞成親王は書名をはじめ正統廃興記或いは皇統廃興記と命名せられたのはそのためである。第二は貞成親王が太上天皇尊号宣下の御希望を述べた部分である。第三に君徳涵養に関する事項、その一は学芸の御修養を述べた部分、その二は今回最も強調したい部分だが、崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密にして将来永く疎隔あるまじき事、相伝所領については、将来長講堂領、法金剛院領は後花園院の御管領に帰すぺき事、伏見荘・熱田社領・播磨国衙・同別納・室町院領は伏見宮家に相伝せらるべきことを詳説され、終に孝悌の徳の特に重んじられるべき本義について切言せられている。これは後花園院が御実家たる伏見宮(宮家の継承者は皇弟の貞常親王)に御慈愛を忘れるべからずことを訓へられたものと村田正志博士は解説している。その三は崇光院以来御一流に奉公する廷臣等に対し、御慈愛をかけられんことを説かれている。第四に後花園天皇は正式に後小松上皇の御猶子に迎えられ皇位を継承されているが、まことは崇光院の御子孫であるから、その歴史とこれに処すべき叡慮がなくてはならぬという結論。第五は後小松上皇崩後の事件の追記である(註3)。
『椿葉記』貞成親王の宸筆御草本二巻三本は伏見宮家に伝えられたが、現在は宮内庁書陵部にある。写本は14点現存している。この書の歴史的文学的価値が認識されるようになったのは比較的最近のことで、昭和になってからのことである。南北朝史の泰斗、村田正志博士により昭和29年に「證註椿葉記」という註解書が寶文館から刊行され、これは『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版1984刊行に収録されており、このブログも同書から多く引用しているが、村田正志博士が精魂を傾け苦労の限りを尽くしたといわれる同書は、こういう事態になって意味のあるものとなったのではないだろうか。

『椿葉記』成立の背景-後花園天皇即位の事情

 正長元年(1428)七月の後花園天皇の践祚までの経緯は実にスリリングでこれほど緊迫した新帝擁立劇は例をみないとされている(註4)。称光天皇が重病の状況で、七月六日後南朝小倉宮(後亀山天皇の孫)が突然、居所の嵯峨から姿をくらました。小倉宮出奔の背後には鎌倉公方足利持氏の反幕蜂起に呼応した伊勢国司北畠満雅の勧誘があり小倉宮はその決起行動の旗頭になるため伊勢に向かったこと。在京中の大名に与同者がいたことが後に判明している。事態は一刻の猶予もなかった。当時足利義宣(のち義教)が将軍家継嗣に決まっていたが、将軍宣下されてない。称光天皇が崩御となると、天皇も空位、将軍も空位となりその間隙に鎌倉公方が後南朝小倉宮を担いで反幕蜂起し、天下争乱を惹起する可能性があったのである。七月十一日管領畠山満家より幕府政治顧問の三宝院満済のもとに諮問事項が届いた。満済は称光天皇が死去した場合の対応、つまり新帝擁立のための手続きをかねての予定どおり抜かりなく行うよう指示した。十二日に幕府首脳部が協議し伏見宮彦仁王を内定、十二日夜中に満済の使者として世尊寺宮内卿行豊が伏見御所に馳せ参じ、貞成親王には彦仁王は明日十三日にも入京されたいと申し入れた。十三日夕方に管領畠山満家一隊四・五百人の出動で極秘裏に彦仁は女房出行の体で京都東山若王子社の坊に渡御された。御供に伏見宮家譜代の近習である、綾小路経兼、庭田重有、綾小路長資が従った。警護の任には隠密裡に赤松満祐がついた、これは敵方の彦仁の奪取を警戒したためである。十七日に彦仁は足利義宣が用意した牛車で仙洞御所に参じて後小松上皇と対面。二十日称光天皇崩御、彦仁は後小松上皇の猶子とされる儀を経て、二十八日に践祚という経緯であった。親王宣下も、立太子もないが猶子の儀がなされたのである。これは限定的に解釈すれば院政をしく前提ともいえるが、それだけの意味ではなかった。『建内記』によると後小松上皇の御遺勅では貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからずとされ、『満済准后日記』によると後光厳院流の断絶せざるよう取り計らうこととされた。すなわち後小松上皇の思召は、後花園天皇は実父との血縁関係を絶ち、恰も後小松の実子のように猶子として迎えられたのである。上皇は、後光厳-後円融-後小松-称光と皇位継承された「後光厳院御一流」(柳原流ともいう、研究者によっては新北朝ともいう)の「万歳継帝」を望まれたゆえに、後花園天皇は正式に猶子として帝位を継承された。このため後小松上皇の御意を奉ずる廷臣は、貞成親王が天皇の御実父であっても諫言申し上げることも憚りある事だとされたのである(註5)。そのようないやがらせは崇光院流の再興を望んでおられ崇光院流こそ持明院統正嫡たるを自認している貞成親王にとって内心は耐え難いものであった。
 『椿葉記』が後花園天皇は正式に後小松上皇の御猶子に迎えられ皇位を継承されているが、まことは崇光院の御子孫であるから、その歴史とこれに処すべき叡慮がなくてはならぬ(ひらたくいえば伏見宮等をないがしろにしないように)という趣旨を結論的に記しているのは以上のようないきさつによるものである。従って『椿葉記』はたんに崇光院流再興に関する史書ではない。後花園天皇に奏進された本旨は、実父貞成親王の期待と希望に関するウエイトが大きいのである。

 書名の由来とその決定的意義

 『椿葉記』に「崇光院は光厳院第一の皇子にて後嵯峨院以来正統にてまします」とあるようにこの書は、持明院統嫡流たる崇光院流の正統性を述べている。当初書名は「正統廃興記」と命名されていたのだが、最終段階で『椿葉記』と改名された。その理由は。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」であった。
 後嵯峨天皇の御例、八幡の御託宣とは、古今著聞集、増鏡にみえる石清水八幡宮参詣の際のエピソードのことである。
 土御門院の第三皇子(のち後嵯峨天皇)が二十歳を過ぎても元服もなく、城興寺宮僧正真性の御弟子になって御出家を思いたっていたころ、石清水八幡宮に参詣され、御念誦を心静かになされてまどまれたところ、神殿の中から、「徳是北辰、椿葉影再改、尊猶南面松花之色十廻」という朗誦が聞こえた。これは夢だったのかもしれないが、八幡宮の御託宣ということになっている。
 「椿葉影云々」とは『新撰朗詠集』後江相公(大江朝綱)の「聖化万年春」の句で、大意は「徳は、群星の中心である北斗星のごとくであり、その栄えは椿の葉が二度改まる一万六千載も続き、あなたの尊貴さは南面して天子の地位にあるのがふさわしく、松花が十度咲く一万年までも、限りないだろう」『荘子』逍遙遊に上古の大椿が八千歳を春とし、八千歳を秋としたとあり、また松花は千年に一度咲くという。天子になって久しく栄えるという意味である(註6)。
 八幡の御託宣は現実になった。仁治三年(1242)正月、四条天皇(十二歳)が殿舎で顛倒されことが原因で大事にいたり崩御になられ、後高倉院(守貞親王)-後堀河院-四条院と継承された皇統は途絶した。
  このとき朝廷の第一人者前関白九条道家、道家の娘婿の摂政近衛兼経以下の公卿は順徳上皇皇子(佐渡院宮)を強く推したが、順徳上皇が承久の討幕計画の密議に熱中し中心的存在であったことから、幕府は佐渡に島流しになっていた上皇の還京・復辟となるような事態を警戒していた。また九条道家が将軍頼経の父であることから道家の権勢が反北条勢力と結びつくことも警戒していた執権北条泰時はこれを容認することはできなかった。
そこで、討幕計画に一切関与せず父帝後鳥羽上皇に疎んじられていた、親幕的な天皇であった土御門上皇の第三皇子(阿波院宮)推戴の方針をとった。そうした経過から元服もせず諱すらなかった阿波院宮は、幕府の後押しと、機をみるに敏な西園寺公経が道家から離反したこともあって有力な皇位継承候補に急浮上し、仁治三年正月二十日急遽元服式が挙行され、邦仁と命名、同日に践祚という慌ただしさだった。
 後嵯峨上皇の治世は幕府と良好な関係にあり、嵯峨に亀山殿という離宮を造営し、吉野より桜を移植させ、嵐山の観光資源をもたらした天皇として知られているが、それだけの存在であるわけではない。中世においては訴訟制度を整備し摂関権力に掣肘されることのない真の院政を確立した後嵯峨上皇の治世が「聖代」と認識されこれに準拠することが繰り返し標榜されていた。
 つまり『椿葉記』の書名の趣旨は、後花園天皇の皇位継承が称光天皇の皇統が絶えた後の皇胤再興であることから、四条天皇が事故で急に崩御になられ、嗣子なく、入って大統を継がせられるようになった後嵯峨天皇の御例と類似しており、八幡宮の託宣にあやかったものと考えられる。実際、貞成親王は八幡宮に奉納祈願され八幡の神徳を詠んだ歌は非常に多いわけです。さらに深く解釈するならば「聖代」と認識されていた「後嵯峨院以来正統にてまします」のが崇光院流で、聖統の栄えは椿の葉が二度改まる一万六千載も続く。つまり永久に繁栄するというのが八幡宮の託宣であるということになります。
 それは皇室(後花園天皇の直系子孫)の繁栄だけをいっているのではないだろう。崇光院流御一統、伏見宮も含めて、永久に繁栄するという趣旨になると思います。
 つまり「椿葉記」は皇室と伏見宮が親密にして疎隔あるまじき事を強調してます。
「崇光院・後光厳院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中悪く成て、御子孫まて不和になり侍れは、前車の覆いかてか慎さるへき。いまは御あらそひあるへきふしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉へけれは、相構て水魚のことくにおほしめして、御はこくみあるへきなり。」(註7)
 崇光院と後光厳院は同腹の兄弟でありながら、皇子の栄仁親王と緒仁親王(後円融)とで皇位継承を争って、中が悪くなって、崇光院流と後光厳院流(伏見・柳原両流)の子孫まで不和となった。そういうようなことがないように。前人の過を見て後人の戒とすべきだとされております。そこで貞成親王はひとつの提案を行っています。後花園天皇が皇弟で伏見宮の継承者となる貞常親王をゆくゆくは御猶子になし奉るべきである。それによって崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密に将来永く疎隔なきように相構えて心懸けてほしいということを言っているわけであります。
 実際、貞常親王は二品直叙、後花園天皇の御猶子とされ、江戸時代の貞教親王(仁孝天皇御猶子)まで伏見殿は天皇・上皇の御猶子とされており、近代の皇室典範成立まで歴代親王宣下され皇族の崇班を継承する、定親王家としての地位にあった。康正二年(1456)十月に皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとの後花園天皇の叡慮があったことが知られている(註8)。
 後花園天皇は、貞成親王への太上天皇尊号宣下をはじめとして、御猶子になし奉る提案も含めて『椿葉記』の趣旨は政策として実行されたわけである。
 要するに、『椿葉記』の趣旨から、崇光院流は千年も万年も久しく栄えていかなけれきばならないことになっている。
 宝暦九年(1759)五月伏見殿第十六代邦忠親王(桜町天皇猶子)は継嗣となる王子なく薨去された際、伏見宮では同年五月発喪に先立ち一書を朝廷に上って、同宮相続のことを願い出られた‥‥大納言広橋兼胤の日記に
 「邦忠親王無息男、相続之事去月廿五日附書於勾当内侍請天裁、其趣崇光院巳来実子連続之間、不断絶系統相続之事被冀申云々、家系無比類之由含後崇光院道欽之述椿葉記之趣意於心底被望申云々」(八塊記 宝暦九・六・二条)
とあり、その趣旨は伏見宮は崇光天皇の嫡流で、皇統にとって格別由緒ある家柄であるから、実系の断絶することのないよう血脈に当る者を以て相続せしめられたいと云うにあった(註9)。つまり伏見宮の実系相続の途絶する危機の際も『椿葉記』の趣意が持ち出されている。伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が宮家を継承した時期があったが、貞行親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(邦頼親王-貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下まで一貫して実系を維持している。それは崇光院流御一統が久しく栄えなければならないという『椿葉記』の趣意であったのである。であるから、菊栄親睦会を持ち出すまでもなく、皇室と伏見宮(御一統)は水と魚のように親密にして疎隔あるまじき事という『椿葉記』の趣意は、ペイペイの平の小身の立場で甚だ僭越な物言いになるが、いつまでも守っていくべき価値のある事柄なのではないかと思います。女系論者のように伏見宮系を切り捨てようとするのは『椿葉記』の趣意を否定するもので、皇室の歴史と伝統を侮辱するものであると考えます。

つづく
 
(註1)伝記的書物として横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002。
(註2)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 75頁以下(註3)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』69~79頁の要約
(註4)森茂暁『満済-天下の義者、公方ことに御周章』ミネルヴァ書房(京都)2004 120頁以下
(註5)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』262頁
(註6)井上宗雄『増鏡(上)全訳注』講談社学術文庫1979 214頁
(註7)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』261頁
(註8)『皇室制度史料 皇族四』64頁
(註9)武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960 43頁

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