公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

Reference Sites

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月の4件の記事

2006/09/23

コメントについて

「乙武さんのページに書き込だら」

 いま敵地に乗り込む度胸も元気もない。カッとなって口が滑って怪我しそう。

「貴族制度(后供給集団)や側室制度なき王制はいずれ消滅」
 
 貴族制度の復活 
  
 中川八洋教授の『皇統断絶』ビジネス社2005年161頁以下で、旧皇族だけでなく、皇后を輩出しうる五摂家、清華家九家などを早急に復活させるべきだ。さらに大臣家、羽林家、名家も復活させて公家の公的制度により皇室の藩屏を形成すべき。日本文化の再生のためにも必要と述べておられるが、私も賛成です。中川教授によると憲法14条を改正しなくても可能なことだということです。
 
 
 側室制度の復活

 椿葉記の趣意から伏見宮系旧皇族の復活のほうが最優先と考えますが、側室制度も賛成ですよ。キリスト教を公定イデオロギーにしていない以上、重婚を否定する西洋文明への迎合という以外に単婚制にこだわる理由はない。いろいろなバリエーションが考えられますが、後宮女官が側妾となるケースは古くからあリ、特に室町・戦国時代は天皇に正配なく皇后や女御が立てられなくなったから、それで皇位継承者を確保した。それも伝統だし悪くない。皇后不冊立でもかまわないと思ってます。もっとも公的公家制度が復活すれば、令制の夫人、嬪、平安時代の女御、更衣の制、御息所などの称号による配偶者としてのキサキを復活させやすくよろしいのではないかと。
 帝王が多くのキサキを持つ理由はたんに内寵を好むというだけでなく、複数の有力貴族と姻戚関係をもって政権基盤を安定させる。突出した外戚勢力が形成されないよう政治的バランスをとる時代もあったわけです。今日的な意味では元高級官僚のような政治力を有する外戚の策動を封じ、皇室の伝統継承への悪影響を回避するために複数の妃でバランスをとってもよいのではないかとも思います。后妃の父が隠退しているか政治的なポジションにないケースは問題ないですが、現実に報道を読む限り外戚の影響が排除されてないから。
 ただ、側室制度がないと「いずれ消滅」とは思ってない。フランス王権が単婚男系主義でけっこう永く続いた。宮家を5~6家復活させればそう簡単に皇位継承者は枯渇しないと思う。

川西正彦

2006/09/17

くどいぞ愛子内親王擁立派(2)

 乙武洋匡ブログにコメント

 炎上騒ぎになっている乙武洋匡ブログ9月7日から引用します。乙武洋匡氏は女系派というわけではありませんが、本題に入る前にとりあげたいと思います。

「世間は昨日から「めでたい、めでたい」と騒いでるけど…… ひとつの命が誕生したことがめでたいの?それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの? 」

「‥‥少なからず「男の子でよかった」という風潮が感じられました。そのことに、僕は抵抗を感じてしまったのです。男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。‥‥‥」

 せっかく著名人からの問いかけですからコメントしておきたいです。一般論としていえば、男でも女でも出産はめでたく、仮に女児であってもないがしろにされることはありえない。しかし、性別に強い関心をもたれるのは当然のことでこの出産は皇位継承という国家最重大事にかかわりますから、男子が誕生された以上よりめでたい慶事である。普通の人は女子だったらがっかりとか残念とか内心では思います。しかし皇室の慶事だから抑制が働いて表向きにはめでたいと言って本心は口に出さない。敬宮愛子さま誕生のときがそうでした。内親王誕生なら冷淡な反応になり親王誕生なら舞い上がった慶事ムードになってあたりまえじゃないですか。乙武氏に訊きますが「男の子でよかった」と言っちゃいけないの。それが常識だとでも思ってるの。
 このブログの記事ではそこまで言ってないが、「男の子でよかった」は偏向思想で性差別表現でよくない。時代の進歩でポリティカル・コレクトネスとして「男の子でよかった」を禁句にしたい。さらにすすんで人間は生まれながらにして平等とか、憲法14条のような価値観に反するので、こういう思想を抹殺したいという含意があるとすればかなり問題です。もしそうだとすると強硬に反対します。私はポリティカル・コレクトネスによる差別的表現・集団誹謗的表現規制には明確に反対です。ウィキペディア「呂后」では注意深く「呂后は戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で声をつぶし、その後便所に置き人彘(人豚)と呼ばせたと史書には書かれる」と書かれてますが、歴史的事件の記述で特定個人を嘲っているわけでもないのに「唖にして盲にして聾にして」と書くと障害者差別と勝手にラベリングして刺しちゃうぞなんていう社会になったらむしろ怖いですね。同じく「女でも男でも喜ばしい」と言わないとジェンダーハラスメントで刺しちゃうぞという社会がよっぽど怖いです。そこまで女性に卑屈になる必要もないし、女が男性と等価値などというのが許せない思想です。男性優位でいいんですよ。

 昔から皇女誕生では冷淡、がっかりするのが普通

川西正彦

 そこで、皇女誕生時の宮廷の反応がどうだったを検証します。ここからが本題ですが、結論を先を言います。皇女誕生では、心苦しくもあり周囲もがっかりするか冷淡なのが普通です。昔からそうだった。それでいいんですよ。くだらない女性尊重フェミニズムのために、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などという、高橋紘その他の女系論者の主張に与する必要など全くないです。
 
 摂政藤原道長女で天皇もしくは東宮の后妃となった四方所生の皇子女は次のようになってます。 

 彰子(一条后)
 後一条天皇、後朱雀天皇

 妍子(三条后)
 禎子内親王(後朱雀后、後三条生母)
 

 盛子(三条妃)委細不詳

 威子(後一条后)
 章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(斎院・後三条后)
 
 嬉子(敦良親王のち後朱雀天皇の東宮御息所、贈皇太后)
 後冷泉天皇

1 禎子内親王の誕生

 三条天皇の中宮藤原妍子の出産について『小右記』長和二年七月七日条によると「小選資平帰云フ、相府(道長)已ニ卿相・宮殿ノ人等ニ見エ給ハズ、不悦ノ気色甚ダ露ナリト。女ヲ産マシメ給フニ依リテカ」とあり、左大臣道長はひどく機嫌が悪かったようだ。もしここで皇子誕生となれば、一帝二妻后といっても正后といえるのは中宮藤原妍子だから皇后藤原娍子(大納言済時女)所生の敦明親王以下四人の親王を押さえて次の皇太子候補の筆頭となることができたはずだ。それゆえに機嫌が悪いのである。
 一方『栄華物語』は「‥‥世になくめでたき事なるに、ただ「みこ何か」という事といふ事聞え給はぬは、女におはしますにやと見えたり。殿(道長)の御前いと口惜しくおぼしめせど、「さはれ、これをはじめたる御事ならばこそあらめ、又もおのづから」とおぼしめすに、これも悪からずおぼしめされて‥‥」と記されている。
 世にたぐいなくめでたいことなのに「御子はどちらか」ということが人の口にのぼらないのは、皇女であると思われた。道長は大層残念にお思いであるが、「ままよ。これが一家にとってはじめての御産というならともかく、またそのうち皇子の生まれることもあるだろう」と思われるとこれも悪いことではない‥‥。
『栄華物語』は摂関家寄りの記述で、道長を礼賛しても悪口はいわないので、すでに長女の皇太后藤原彰子が皇太子敦成親王と敦良親王の母であることもあり、またそのうちという穏やかな表現になっている。
 なお中宮藤原妍子は寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍17歳、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳。所生の皇子女は禎子内親王のみ。立后の背景については(註1)のとおり

2 親仁親王(後冷泉天皇)の誕生
 
 万寿二年八月敦良親王の東宮御息所藤原嬉子の出産について『栄華物語』は「‥‥まづ「なにぞ」と、内にも外にもゆかしうおぼす程に、男みこにぞおはしましける。その程、殿(道長)御けしきよりはじめ、そこらの内の人思ひたる有様、ただ我身一つの喜びに思ひたる。御かげにもかくれ奉るべきその殿のうちの人、ともかくもおぼし思はん、ことわりいみじ。これは何のものの数にもあらぬあやしの賤の男さへ、笑みまけ嬉しげに思ひたるさま、いへばおろかに。‥‥」
 皇子誕生当日、大殿道長以下喜びを爆発させているが、藤原嬉子は産後の肥立ちが悪く出産の二日後に容態が急変し薨逝された。19歳であった。道長は涙が枯れて前後不覚の体になったという。一昨日は世間をあげて大騒ぎをしてめでたいことだと帝までお聞きになって羨しそうにお思いだったのに、今日は予想もしないような夢のような出来事と『栄華物語』は記している。

3 章子内親王の誕生

 万寿三年十月後一条天皇の中宮藤原威子の出産について『栄華物語』は「‥‥殿(道長)の御前、「平かにおはしますよりほかの事なし。物のみ恐ろしかりつるに、命延びぬる心地こそすれ」とて、いと嬉しげにおぼしめしたり。内にも聞しめして、「同じうは」とはいかでかおぼしめさざらん。されど平におはしますを、返す返すも聞えさせ給て御剣もて参りたり。さきざきは女宮には、御剣は持て参らざりけれど、三条院の御時、一品宮の生まれさらせ給へりしよぞかかめる。内の女房などの「あな口惜し」など申すを聞しめして「こは何事ぞ。平かに給へるこそ限なき事あれ。女といふも烏滸の事なりや。昔かしこき帝帝、皆女帝立て給はずはこそあらめ」と宣はするに、かしこまりて候ふべし‥‥」
 道長は皇女にもかかわらず安産でこれ以上の喜びはないとしている。帝にもお聞きになられて「同じことなら皇子であってほしかった」とはどうして思し召されぬことがあろうか。しかし御無事でいらっしゃることを、繰り返し仰せなさって、御剣ををお届けになられた。(中略)内の女房たちが「ああ残念」などと申すのをお聞きになられて、帝は「何という事を言うか。無事にお産をなさったことでもこの上ないことだ。女で残念というのも笑うに堪えたことだ。昔の聖帝方が、皆女帝をお立てなさらなかったならばともかくだが」とおっしゃるにつけて、恐れつつしんでひかえているだろう。

 すでに弟の東宮敦良親王に王子が誕生していることもあって、内裏女房たちは「あな口惜し」女でああ残念などと申していた。後一条天皇は九歳も年長の后や外祖父に気を遣っておられたのか、安産というだけでこのうえない。女で残念だなどというものではないと女房たちをたしなめている。

4 馨子内親王の誕生

 『小右記』長元二年二月一日に「只今中宮御産成リ畢ンヌ。其ノ後資房来タリ云フ、御産遂に畢ヌ、女子テヘリ、宮人ノ気色太(はなは)ダ以テ冷淡ト」とある。
 中宮藤原威子の第二子も皇女だった。宮廷でははなはだ冷淡な反応だったと記されている。『栄華物語』には馨子内親王誕生時の記事はなく、姉の章子内親王の着袴の記事に「中宮(威子)には、女宮が二人おはしまして、男宮のおはましまさぬことを口惜しう、内(後一条)も宮(威子)にも殿ばらもおぼしめす」とあり、天皇も中宮も女宮二人で残念、心苦しく思われていたことが記されている。藤原威子は皇子出生をみることなく長元九年九月崩御38歳。天然痘の流行による。

5  祐子内親王の誕生
 

 長暦二年四月廿一日、後朱雀天皇の中宮藤原嫄子(関白頼通養女、実は敦康親王女嫄子女王)の第一子出産について『栄華物語』は「‥‥女宮ぞ生れさせ給へる。口惜しとおぼせしめせど、御乳母さるべき人人数多参る。程なく入らせ給ひぬ。姫宮も入らせ給ひぬれば、内(後朱雀)には、さきざきの宮達のよそおはしますに、珍しくうつくしと見奉らせ給ふ」とあり、やはり残念とお思いなさるが、帝におかれては、すでに親仁親王、尊仁親王の出生をみている余裕からか姫宮を見て可愛いがったとのことである。
 中宮嫄子は寵愛され長暦三年八月にも第二子女子を出産されたが、九日後に崩御になられ、養父関白頼通が期待していた皇子出生をみることはできなかった。

 以上、数例をみてきたが、昔から皇女誕生では冷淡な反応、がっかりしていたんですよ。昔から后妃にとって皇子出生がないことは心苦いことではあった。それでいいんじゃないですか。むしろ無理に女系容認にして男子が出生しても素直に喜べない。女性尊重フェミニズムの公定イデオロギー化のほうがよっぽど怖い社会になりますよ。そういうと女系派はスウェーデンはオランダはベルギーはとか言うんだろ。なんで大国の日本が格下の外国の制度を模倣しなきゃいけないのさ。

(註1)藤原妍子立后の背景

 三条天皇(居貞親王)の東宮時代の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
 第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった大納言済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは全く皇太子の発意による結婚で、皇太子が勝手に結婚した政治色が希薄な結婚ともいえる。時に太子16歳、娍子19歳。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいた。
 娍子の父大納言済時は関白忠平の孫だが、摂関を狙える立場ではなかった。娍子の祖父が安和の変の首謀者とみなされる師尹である。師尹は源高明を追い落として左大臣に昇進するものの摂関を継承することがなく、摂関継承は小野宮流か九条流になったためである。娍子の結婚の四年後、長徳元年済時は流行の疱瘡により薨去され娍子は後ろ楯を失う一方、同年関白道隆は二女原子(中姫君)を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する。娍子にとっては運が良かったといえる。
 しかし寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、道長二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に敦明親王以下6人の皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后に立てることとなった。しかしそれでも道長はいやがらせを行った。立后宣命から「しりへの政」等の皇后の政治的権能にかかわる文句を削除させただけでなく、娍子立后儀当日に、中宮妍子の立后後初の入内の儀式をぶつけ、ほとんどの公卿は天皇の召しにもかかわらず娍子立后儀に参入しなかった。道長の東三条殿に候じていた公卿は、内裏からの立后儀への参入を促す使に対し「手を打ち同音に咲ひ」嘲笑して憚らなかったという。
 しかし、中込律子によると娍子立后は従来いわれていた天皇の同情によるものではないという。父済時の不在や生前の官位から当時の通念では娍子は立后できる立場になかった。にもかかわらず立后というのは天皇の権力意思によるものであり、娍子は皇太子時代に御自らの発意で結婚した妃だったしこだわったのだろう。娍子の最大の後ろ楯が天皇であったことを示している。結局天皇の皇后決定を道長は直接制止できなかったので、間接的な妨害で現実の力関係を示威したにすぎないという。また従来のイメージでは道長主導で受領等の人事がなされていたようにみられていたが、決してそうではなく、娍子の兄弟の為任が大国の伊予守になっているほか5人は天皇の意向による人事であり、その他の人事でも天皇と左大臣内覧道長とで鍔迫り合いがなされていた。そうすると三条朝の政治はある意味で律令国家の天皇と太政官の二極構造が浮き彫りになったともいえるだろう。
 藤原妍子の第一子が皇女であったことに、道長はひどく機嫌を悪くした。もっとも皇女でもそれなりの意味があったという見方もある。道長の父摂政兼家は三条天皇に多くの所領を献上していて、天皇は経済的には恵まれていた。道長はいやらしくもこれを摂関家に取り返そうとしたらしい。出所を明示できないが読んだ記憶がある。実際これらの所領群は、三条天皇-藤原妍子-禎子内親王と伝領され、実際には道長の管領となった。そういう意味では皇女であってもこの出生は摂関家にとって有益だったといえるのである。
 以上縷々述べてはきたが、私がいいたいことは藤原娍子のようにたとえ四人の親王があって、所生の敦明親王が立太子したにもかわらず、摂関家の圧力で皇太子を辞退せざるをえなくなるケースもあった。皇子が誕生せず心苦しい方も多くあった。御産のため早世された后妃もある。藤原娍子のようにいやがらせを受けたり、政治的な後ろ楯の弱さに悩むこともある。まさに小泉首相がいうように人生いろいろなのである。だから、特定の后妃に感情移入して同情するのもどうかと思う。ましてや、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などもってのほかだということ。

主要引用参考文献
松村博司『栄花物語全注釈三』角川書店1972 191頁
松村博司『栄花物語全注釈五』角川書店1975 193頁以下、413頁以下
松村博司『栄花物語全注釈六』角川書店1976 201頁以下、427頁以下
但し口語訳は正確に引用していない。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
中込律子「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』清文堂出版(大阪)2005

2006/09/10

くどいぞ愛子内親王擁立派(1)

高橋紘は親王誕生でも愛子さま

 産経(9月7日-インターネットでは6日)の記事です。
女系賛成を主張してきた高橋紘静岡福祉大教授の話 「男の子がお生まれになったが、皇位継承が安定的でない実態は変わらない。有識者会議があれだけエネルギーをかけて結論を出した以上、皇室典範を改正して、皇位継承は男女を問わず第1子優先とし、女系も皇統と認めるべきだ。つまり愛子さまを皇位継承者にすべきだ。そうでないと、将来、今回のお子さまのお妃も雅子さまのように『男の子を産まなければいけない』というプレッシャーに悩まされることになる」
 そんなことをやっていいとでも思っているのか。新宮さまが誕生したその日から、事実上、皇位継承権剥奪せよというのはひどすぎる。高橋紘はあっちこっちのテレビ番組に出て女系を力説していたらしいが、新宮さまの順位を3位から6位におとすというのは、部長を課長に降格させるのとわけがちがう。
 新宮さまは、今後、東宮家に親王が誕生されないかぎり、確実に皇位継承者となる立場にあります。しかし愛子内親王の即位だと限りなく可能性はなくなる。おまけに秋篠宮の継承者ですらなくなり、姉宮二方の下風に立つことになる。ふんだりけったりです。大きな怨を残す結果になるというか、そういうことがあって絶対にならないです。
 結論を先に述べます。前例からみて新宮さまの皇位継承の正統性が100だとすると、愛子内親王はゼロ。皇位を継承する論理性は全くありません。
 
川西正彦(9月10日)

 前例がないからいくらわめいてももうダメです。容認できないはずです。そもそも朝廷の運営というのは局務家・官務家など実務的官人の前例勘申が政策審議の前提になっていたわけです。前例を重視しましょう。
 親王が誕生する前の段階でいえば、嫡嫡継承ないし直系継承で皇子がなく血統的袋小路になって非婚女帝が即位した前例として、奈良時代に聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出した状況で、孝謙女帝が即位した前例がありました。
 愛子内親王のポジションを孝謙女帝のケースに比擬できたんです。この前例から女帝即位の可能性を模索する考え方はありえたのです。だから私は2005年9月19日前後のブログで孝謙女帝即位の変則性・特異性とか、史上唯一の阿倍内親王の立太子はきわめて異例、「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識とか、草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど縷々述べて、孝謙女帝の前例は適切でないことを強調しました。そしてなによりも生涯非婚内親王でなければ前例に反すると述べてきた。切羽詰まった1月25日になると、愛子内親王の将来に比擬される日本の称徳女帝は皇親の殺戮と追放に関してローマ帝国のネロ帝、大唐帝国の則天武后と並び称される存在で、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であったこと。つまり孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死(拷問で殴り殺し)。塩焼王(臣籍降下して中納言氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立されたため斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断で失脚。仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願した謀反が発覚して死を賜った(伊豆配流途中絞め殺される)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放されたことを述べ、とにかくイメージを悪くしようと躍起になっていましたが、その状況は変わりました。
 皇孫殿下が誕生したので皇統は血統的袋小路ではなくなった。従って、愛子内親王を孝謙女帝に比擬することができなくなりました。
 
毎日記事「血筋重んじ愛子さま」という三段抜きの見出し-そんなばかなことはない

 親王誕生により現在の愛子内親王のポジションに類似した前例といえるのは、

朱雀皇女昌子内親王(冷泉后)、

後一条皇女章子内親王(後冷泉后・院号宣下により二条院)、

後一条皇女馨子内親王(後三条后)、

後光明皇女孝子内親王(礼成門院)

ということになりました。
 下記のように 弟宮に皇統が移ったケース、兄弟で皇位継承があり、弟の皇子に皇位が継承された事例はかなり多数ありますが、そのなかでも、兄に皇子がなく皇女だけだったケースです。いずれのケースも内親王は厚遇されており、昌子内親王、章子内親王、馨子内親王は中宮(后位)に立てられていますが、皇位継承候補者では全くありません。ですから、前例から愛子内親王が皇后に立てられる可能性がありますが、皇位継承候補とする論理性など全くありません。
 
毎日新聞9月6日夕刊に街の声として、名古屋市の29歳の女性の声「血筋重んじ愛子さま」というのが三段抜きの見出しで踊っていて、ばかなこというなよと怒り心頭にきましたが、皇太子も秋篠宮も后腹で血筋は同じ、もしも皇太子が秋篠宮より長命だった場合は、新宮さまが即位した時点で秋篠宮は追尊天皇か追尊太上天皇になるでしょうし、紀子さまが皇后にのぼせられる前に薨じたというケースでも新宮さまが即位した時点で、紀子さまは贈皇太后となるでしょうから、血筋、后腹という点でも同じになりますよ。小和田家と川島家の家格を云々することは憚れるほどのことではないが私はよくわからない、同格とみてよいでしょう。従って正確には血筋ではなく家筋、嫡流という意味ではないかと思いますが大きな間違いです。
 例えば後光明皇女孝子内親王は、唯御一方の皇女で一品に叙せられ、准三宮より女院宣下され厚遇されましたが、後光明天皇(後水尾天皇の第4皇子)に皇子がないため、後水尾天皇の第19皇子の識仁を養子に定め、その皇嗣に定められました。霊元天皇ですが、次の世代で皇統は霊元皇子の東山天皇ですから、弟宮に皇統が移ったケースです。
 このケースでは皇太子を後光明天皇、秋篠宮を霊元天皇、新宮さまを東山天皇に類比することができます。
 
 ですから毎日新聞が名古屋市の女性の「血筋重んじ愛子さま」という声を三段抜きにして共感するというならと、霊元天皇や東山天皇でなく孝子内親王が皇位を継承すべきだった。冷泉天皇でなく昌子内親王が、後冷泉天皇ではなく章子内親王が、後三条天皇でなく馨子内親王が即位すべきだったという理屈を示してください。そんなばかなことはないわけです。絶対にありえません。ですから毎日の見出しにある「血筋重んじ愛子さま」は全く論理性はありません。

弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)

第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)

*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です

  兄弟で皇位が継承され、兄には皇子がなかった、もしくは皇子があっても弟の皇子が皇位を継承したケースは多くの例がありますが、ここでは検討を10世紀以後にしぼりたいと思います。というのは壬申の乱や薬子の変に言及するとかえって誤解を招く。兄に皇子があるにもかかわらず皇統が弟の皇子にいったケースは、皇位継承問題で紛糾しています。しかし兄に皇子がなく、皇女だけだった場合は、紛糾の要因にはなっていません。
Aを皇太子、Bを秋篠宮、Cを新宮さまに類比することができます。もちろん今後、東宮家に親王誕生の可能性は残っています。また皇太子が秋篠宮より長命だった場合は秋篠宮は不即位で追尊天皇もしくは追尊太上天皇になるという可能性もありますが、ここでは順当に皇太子-秋篠宮-新宮さまを想定したいと思います。

  第1例 A朱雀-B村上-C冷泉

  醍醐天皇の皇太子には関白基経女、女御藤原穏子所生の保明親王(文献彦太子)が立ったが、21歳で薨去、この時点で女御藤原穏子は39歳で妊娠していたけれども性別は不明である。そこで保明親王の王子で、左大臣時平女藤原仁善子所生の慶頼王2歳の立皇太孫となった。七人の醍醐皇子をさしおいての立皇太孫である。次妻格の女御源和子(光孝皇女-醍醐の伯母)には三人も皇子があった。このため、皇太孫の祖母であり母方でも叔母でもある藤原穏子を皇后に立てて正当化が図られたが、藤原氏の権勢から順当なものだったといえる。
寛明親王(朱雀天皇)は母皇后藤原穏子、醍醐天皇の第11皇子で、慶頼王立皇太孫の年に誕生されたが、 慶頼王が5歳で薨去されたため、三歳で皇太子になった。相次ぐ皇太子、皇太孫の死は菅原道真の祟りとの風評により、寛明親王は怨霊を恐れて過保護に育てられたこともあり病弱だった。さらに藤原穏子は42歳で成明親王(村上天皇)を出産する。
朱雀天皇には皇子がなく、皇太子には弟の成明親王を立てた、承平天慶の乱が出来し、治安が乱れ、天慶六年に早々と譲位されたが、譲位後天暦四年八月十日に女御凞子女王が昌子内親王を出産した。凞子女王の父が保明親王で、母は藤原仁善子、朱雀天皇の姪だった。そうしたことから昌子内親王は厚遇され、成女式に相当する裳着が応和元年十二月十七日(10歳)、三品に叙せられ、応和三年二月廿八日村上天皇の第2皇子の皇太子憲平親王(のち冷泉天皇)は元服加冠の儀当日に昌子内親王を納れて妃とされた。ときに太子14歳、東宮妃昌子内親王13歳(満11歳)であった。康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第の三条院に籠居されていた。天禄四年皇太后、寛和二年太皇太后、長保元年十二月崩御50歳。
栄華物語によれば、昌子内親王は朱雀上皇のただ一人の皇女であったので、上皇は望みを皇女に嘱されていた。村上天皇は兄朱雀上皇の意を知って、特に東宮の妃とされたという。
愛子内親王のポジションが昌子内親王に類比できることから、新宮さまの妃となることも一つの選択肢である。

第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉

 後一条天皇は一条天皇の第2皇子で、母は摂政藤原道長長女彰子(上東門院)。いわゆる摂関極盛期の天皇である。冷泉系と円融系の両統迭立で、三条天皇の皇太子から即位。天皇は当初三条皇子の敦明親王を皇太子としていた。それは三条天皇に譲位を迫った左大臣道長が交換条件として応諾したものだったが、三条上皇崩後に工作を講じ圧力をかけて自発的に辞退させた。但し、廃太子のような手荒な措置はとられず、寛仁元年院号(小一条院)を授け、上皇に準ずる待遇を与えた。後一条天皇は10歳にすぎず皇子がなかったので、同母弟の敦良親王(のち後朱雀天皇)を皇太弟(歴代天皇年号事典では皇太子)とした。
 道長は摂政を頼通に譲って、太政大臣も辞退したが、実権を維持し、寛仁二年には11歳の後一条天皇に九歳も年長で天皇の母方叔母にあたる三女威子を納れ中宮に立てることを企て、威子は里内裏の一条院に入内した。『栄華物語』が20歳(19歳は誤り)の威子が、11歳の天皇の夜の大殿に入ったいたたまれない恥ずかしさを委しく描いている。大納言藤原実資は、『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と記している。その威子立后の日に、道長の邸宅で酒宴が開かれ、道長は実資に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだエピソードはよく知られていることである。
 しかし中宮藤原威子は二方の内親王(章子内親王と馨子内親王)を出産したが皇子をもうけることができなかった。のみならず、中宮威子は嫉妬心が深く他の后妃を納れることを肯ぜず、このために天皇は一夫一妻を忠実に守られたのである。もっとも角田文衛によると、『中納言』という女房名で上東門院に仕えていた女性が後一条天皇の落胤で、命婦ないし、女蔵人級の内裏女房に手をかけられたものと推定されているが、いずれにせよ後一条天皇は皇子出生をみることなく、長元九年29歳で崩御になられ、後朱雀天皇が28歳で受禅した。
 後朱雀天皇は、資質英明、先帝より厳格で天皇の責を果たすのに努めた天皇として知られている。外叔父の関白頼通とは即位当初から確執があり、とりわけ長久の荘園整理令の発布の議では政策をめぐって頼通と厳しく対立した。もちろん最終政務決裁者は天皇である。しかし政治家としての実力において頼通が勝っていて結果的に妥協せざるをえなくなった。天皇の心労と苦悩は切実なものがあって、政治改革の成果がみられないことに悩んだし絶望したとも伝えられる。しかし50年に及ぶ頼通政権は今日の歴史家の評価では令制の人頭税的収取を改革し、段別米三斗を基本額とする公田官物率法の成立など関白頼通は合理主義的な改革者と評価されており、天皇が絶望するほど悪い政治だったとはとても思えない。
 後朱雀天皇の后妃としてはまず、東宮時代に藤原道長四女嬉子が太子妃となり東宮御息所と称された。ときに敦良親王13歳、御息所19歳、嬉子は親仁親王(のち後冷泉天皇)の御産に際して薨逝された。親仁親王は後朱雀
即位後の長暦元年に元服、皇太子となる。
 次に東宮妃として太皇太后藤原彰子が養育されていた三条皇女禎子内親王(母は道長二女中宮藤原きよ子)が冊立された。敦良親王19歳、東宮妃15歳。禎子内親王は尊仁親王(のち後三条天皇)の誕生をみることになり、内親王は後朱雀天皇即位により中宮に冊立された。
 ところが関白頼通は養女のもと子を入内させ后位(中宮)に立てたため、中宮より皇后に転上した禎子内親王はもと子の入内について頼通や上東門院を怨み、天皇に召されても参内せず枇杷殿に籠居されたのである。中宮藤原もと子は寵愛されたが早世され、頼通が期待する皇子をもうけることができなかった。
 後朱雀天皇の皇太子は親仁親王(後冷泉天皇)で長暦元年立太子ときに13歳であったが、同年の十二月に一品章子内親王(後一条皇女)12歳が裳着の儀を行って、太子の宮に入った。龍粛によると後一条天皇は皇太弟に譲位して内親王を配されんとし、側近に命じて裳着の用意をさせられたのだが、図らずも崩御によって実現されず、ここに至って太子妃となられたということである。
 東宮妃章子内親王は永承元年(1048)後冷泉天皇即位により中宮に冊立されたが皇子女をもうけることができなかった。しかし聡明で温順な性格で祖母の上東門院藤原彰子に愛されとても恵まれていたと思います。長元三年十一月僅か5歳で一品、准三宮です。京極院(上東門院)という邸宅も女院より譲られました。治暦四年皇太后 延久元年落飾、太皇太后、同六年院号宣下(二条院)〈非帝母女院の初例〉。長治二年崩御、享年80歳。
 愛子内親王のポジションに章子内親王が類比できる。従って内親王は新宮さまの妃となるのも前例に従った一つの選択肢といえるのである。

馨子内親王の立后については第3例でとりあげることとします。

つづく

主要引用参考文献

角田文衛『日本の後宮』学燈社1973 限定版
    附録の歴代后妃表からも引用してます。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
河村政久「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店1994
米田雄介編『歴代天皇年号事典』吉川弘文館2003
これ以外の参考文献、槇道雄「藤原頼通政権論」などもありますが、かなり前に読んだ記憶だけなので正確な引用ができませんでした。

2006/09/03

事実上の異姓簒奪・易姓革命なら日本国号を捨て去るのは当然という私の主張を「電波」とみなす見解への反論(1)

 名指しこそしないが、私のブログを批判していると思われるものに皇位継承問題にまつわるエトセトラ(5)というサイトがある。キャラクターの問答形式の長文のサイトだが、終盤のほうで次の文章がある。

「最後に聞きたいのですが、『女系天皇が誕生して王朝交代が発生したら、“日本”という国号を捨てなければならない』という主張がありますけど……これはどうなんですか?」
「どうなんですか~?」
「電波。……以上で説明終わりでいいか?」
「先生、いきなり終わらせないで下さいよ~」
「作者がこの主張を電波呼ばわりする根拠は2つある。第1に、その由来が何であろうと、『日本』──厳密には『日本国』という国号は『現行の』憲法で規定されていることを指摘する必要がある。中国の易姓革命が日本に入ってきているかどうかは、はっきり言ってしまうと全く意味が無い。現在の日本における最高法規である日本国憲法で『日本国』という呼称が国号として使われている以上、男系男子天皇の断絶が発生しようが、その事実のみを以って自動的に『日本国』という国号が変わるわけではない。作者としては、『国号を変えたいのであれば憲法を変えろ』としか言えないのだ」

 女系容認の皇室典範改定で易姓革命合法化、異姓簒奪によって日本国は終焉する。異姓簒奪でも日本国を継続するなら、それは偽日本朝、偽日本国というほかない。女系容認は究極の反日政策と言って憚らないのが、当ブログであるから、これはたぶん私の主張に対する批判だろう。先方のサイトは感心するほど歴史に詳しい。私は電波呼ばわりされるくらいでは全然怒らないが、批判がある以上、丁寧に反論していくのが礼儀だと思うので、反論を載せておきたい。

川西正彦

 日本帝国は中国王朝の国家概念と基本的には同質
 
 私は、第一回ブログ 2005年8月21日において
次のように書きました。
 日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。‥‥
 吉田孝(『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁)が「倭」を「日本」と改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦(『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁)も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝になってからだとしている。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。
 

 そこで、ここでは日本国号の成立時期と由来についても考察しておきたい。

  王朝名・国号の意味

 夏・殷・周などの中国歴代の王朝名、国号の意味について、後漢初期の『白虎通徳論』では、普通名詞である天下を、固有名詞化するための美称で、各王朝の徳、基本理念を体現するという説であるが、これに真っ向から反対する同時代人の王充『論衡』正説篇第八一は、各王朝が興起、発祥した土地の名前とする説であり、両説は対立していますが、渡辺信一郎は後世の説は王充説に立つものが多い(例えば『春秋公羊伝』何休序に附す唐の徐彦の疏、西晋の司馬孚『晋書』巻三七宗室列伝安平献孚王伝など)としながらも、両説とも受容され次のように云っている。
「中国歴代の王朝名は、単なる国号ではなく、天下を領有することを前代の王朝と区別するためにつけられた称号であり、天下の普遍性に対して、それを固有名詞化し、特殊化するものである。その固有名詞化にあたっては、王朝の徳を表す美称、もしくは歴代王朝発祥の地のいずれかが採用された。実際から言えば、秦漢以降、宋遼に至るまで主として王朝発祥の地が採用され、金元以降は美称が採用された」(渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序』校倉書房2003年17頁)。
 しかし金・元・明・清は論外である。日本はこれらの王朝よりはるかに古い王朝であるから問題にしない。従って王充説を採用してさしつかえないと考える。
 1世紀、後漢の思想家王充(AD27~97)によれば唐・虞・夏・殷・周は土地の名前だという。

「堯は唐侯の身分から天子の位に就き、舜は虞の地から栄達することができ、禹は夏の地から起こり、湯は殷の地に起こり、武王は周の地から上進して手柄を立てた‥‥みな本来興起し、栄えるようになった土地であり、根本を重んじ始めを忘れないということから、その土地を称号としたのであって、人に姓があるのと同様である。‥‥‥秦は秦地より起こり、漢は漢中から興ったので、秦・漢と称したまでである。王莽が新都侯から起ったので、新と称したのも同様である」(渡辺信一郎前掲書15頁)という
 付け加えると 魏王朝は、曹操が、漢王朝最後の皇帝献帝を奉戴するが、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土としたのであり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後、国号を魏とした。
 唐の場合は、高祖李淵の祖父李虎(太祖)が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。
 (なお朱元璋は乞食坊主から成り上がったので、発祥地の名称を国号とすることが困難であり、国号は明という美称になったが、それは伝統的な在り方とはいえないだろう。)

 日本〔やまと〕国号も神武天皇が大和国で王業を成就したから。王朝の興起した土地が国号となるという王充の示す事例と全く同じパターンなのである。
 倭も日本もやまと言葉で〔やまと〕と訓み、内実は〔やまと〕であることは既に述べた。本居宣長は『国号考』で「倭」「和」「日本」は〔やまと〕であり、〔やまと〕の意味について賀茂真淵の「山門」説のほか「山処」説、「山つほ」説「山内」説を並列的にあげており、大和盆地の地形、ロケーションに由来するとみなしているようだ。なぜ、〔やまと〕に日本という文字が当てられるにようになったかは重要な問題なので後日論究するが、岩橋小弥太(『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下註37)は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である〔『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期藤原春海の見解。「延喜開第記」延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である。〕

問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。

問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 

 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
  
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受しているのは確実で、要するに日本も中国王権の国号が、王朝が発祥した、あるいは興起した土地を、王朝名、国号とするのと同じパターンということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。
 

日本国号の成立時期とその背景

日本国号の成立時期については7世紀から8世紀初期、推古朝から元明朝の幅で諸説あるが、 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)とされるのが、ほぼ通説になっている。吉田孝は飛鳥浄御原令(持統三年689年施行)、神野志隆光が大宝令成立説だが、大宝の遣唐使粟田朝臣真人が「日本国」を名乗り、則天武后がそれを承認したことは両者とも是認される。中国の史料「史記正義」から裏付けることができるのである。則天武后は李氏の唐王朝を簒奪し周を建国し聖神皇帝と称していたので、正確に云えば大唐帝国ではなく大周帝国に承認された。ということで八世紀初期までには日本国号は国際的にも承認された。従来、和銅五年(712年)に撰上された『古事記』に「日本」がみえないことから日本国号成立を元明・元正朝とする論者もあったが、この説は棄却できる。
 しかし日本国号の成立時期については歴史家の多くは石母田正(『日本古代国家論』全二冊第一部 岩波書店 1973 352頁)のいう諸蕃と夷狄に君臨する小帝国=「日本国」とする説を基本として律令国家揺籃期より成立期、斉明朝~天武・持統朝には日本国号は成立したとする説が多い。また天皇という君主号も日本国号成立とほぼ同時期とみる歴史家が多い。結局確定的なことはいえないのだが、諸説を検討しておこう。
 本居宣長は孝徳朝説で、その論拠は大化元年七月の蕃国使への宣詔である。大化元年(645年)七月紀によれば、高句麗・百済・新羅が遣使進調し、朝廷では病で難波津に留まった新羅使をおいて高句麗・百済に詔を下している。
 高句麗使には「明神御宇日本天皇詔旨、天皇遣之使、与高麗神子奉遣之使、既往短而将来長、是故、可依穏和之心、相継往来而巳」と宣詔し、百済使には「明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百済国為内官家云々」と宣詔し、さらに、大化二年二月十五日条でも臣・連・国造・伴造および諸々の百姓に詔して、明神御宇日本倭根子天皇と仰せられたとある。 しかし「明神御宇日本天皇詔旨」は養老公式令(養老二年撰上、718年)の詔書式で撰定されている文句と全く同じで、多くの歴史家は日本書記(養老四年撰上、720年)編纂者が原資料を粉飾したものとみなし孝徳朝説を否定している。

 養老公式令の五つの詔書式は以下のとおりである。
 1 明神御宇日本天皇詔旨。云々。咸聞。
 2 明神御宇天皇詔旨。云々。咸聞。
 3 明神御大八洲天皇詔旨。云々。咸聞。
 4 天皇詔旨。云々。咸聞。
 5 詔旨。云々。咸聞。
 
 義解では最初の二つが対蕃国使用とされ、外蕃に対し日本天皇と称するのである。3~5は国内向けである。

 孝徳朝棄却説の論拠のもうひとつは古代天皇の呼称方法として、某宮御宇(治天下・馭宇)天皇があるが、「御宇」「治天下」「馭宇」の三様の表記について時代的変遷があり、孝徳朝に「御宇」という表現はありえないとするものである。
 また天皇の即神表現であるが、宣命では続日本紀巻一の巻頭(697年)文武天皇即位後の詔詞の始めに「現御神大八嶋国所知天皇」とあり、本文に「現御神大八嶋国所知倭根子天皇」とある。慶雲四年七月(707年)の元明女帝即位詔では「現神八洲御宇倭根子天皇」とあり、天皇のことを言い出すのに現御神、現神と冠することが定型化している。
 しかし大宝令(大宝元年、701年)を注釈する古記が公式令の詔書式について「御宇日本天皇詔旨」は隣国(大唐)、蕃国(新羅)に対しての詔、「御宇」「御大八嶋」は大事を宣する辞としており、明神の表現がみられないことから、大宝令は残っていないが大宝公式令の詔書式に明神はなかったとみなされている。大宝令成立説の神野志隆光などによると明神御宇という表現は養老令以後なのである。(神野志隆光『「日本」とは何か 国号の意味と歴史』講談社現代新書1776 2005年 20頁) この見解に従うと、養老公式令詔書式が孝徳朝に遡ることはない。
    
 しかしながら、対外関係からすれば、孝徳朝に日本国号、天皇号が成立していたとしても不可解ではないと考える。従来から臣従国として扱ってきた百済・新羅とは別に、かつて敵対し強国であった高句麗の貢献をうけた意義が大きいように思う。
 高句麗は6世紀末から隋と武力抗争になり、612年に煬帝親征二百万の大軍で攻撃したが失敗、618年隋は疲弊し亡びてしまう。624年に唐は高句麗、百済、新羅を冊封するが、642年に高句麗でクーデターが起き、百済と高句麗が結んで新羅の四十城を攻略、唐は新羅の提訴により高句麗を告諭したが、拒絶したため644年に高句麗征伐が決定され、645年に太宗による高句麗遠征が開始されている。そうしたことが高句麗が我が国へしきりに遣使・朝貢するようになった背景である。白雉二年是歳条(651年)に巨勢大臣の奏請「今、新羅を征伐しなければ、後で必ず後悔することがある」との反新羅政策の動きがあり、我が国は斉明朝から天智朝は反唐・反新羅政策をとったため、天智初年には高句麗救援の軍派遣に応じている。
  しかも天平勝宝五年(753年)に来日した渤海使に托した渤海国王に賜う天皇璽書によれば、日本と高句麗の関係は兄弟にして君臣の間柄であったとされている。
 森田悌(「日本・渤海の兄弟・舅甥関係」『律令国家の政務と儀礼』吉川弘文館1995、『日本古代の政治と宗教』雄山閣出版1997所収)が、推古朝から天智朝にかけて外蕃を付庸するに至っていたと考えられるとし、高句麗を弟国として君臣関係に置くようになったと推測され、かつて敵対した強国を付庸した時期が、天子・天皇号の採用時に相応しいとされたうえ、鳥羽天皇の元永元年(1118年)に宋からの書状が旧例に適っているか、式部大輔菅原在良に調査させているが、その前例勘申にある「天智天皇十年唐客郭務ソウ等来聘書曰、大唐皇帝敬問日本国天皇云々」を重視されている。
 しかし大唐帝国が公的に、皇帝号と対等な世界的支配者の含意のある天皇号を承認することはありえない。天平六年(734年)に帰着した遣唐大使多治比広成に托された玄宗皇帝の勅書は「勅日本国王主明楽美御徳」である。
にもかかわらず、森田悌は菅原在良の前例勘申を重く見て、天智十年(671年)の書例を肯定する。その理由は当時、唐は高句麗を滅ぼしたものの、かつての同盟国新羅と対決する事態となっていた。新羅を牽制するために日本の助勢を期待したとする。百済駐屯軍が日本にしきりに使節を遣わしたのはそのためで、朝廷の歓心を誘うために私的使節を遣わし、公的には用いることのない天皇称号を使用したと推測され、天皇号は推古朝から慣用されていた可能性を否定せず天智朝には成立していたという説である。森田悌説は天皇号の成立時期に関する見解だが筋は通っていると思う。この説に従えば、日本国号も少なくとも天智朝には成立していたことになる。
  次に筧敏夫説(「百済王姓の成立と日本古代帝国」『日本史研究』317号1989-1『古代王権と律令国家』校倉書房2002年所収)は中大兄皇子による百済王豊璋の冊立を重視する説である。七世紀前半百済は我が国に人質を出し、調を貢納していたが、百済王位に正統性を付与するのは中国王朝だった。斉明天皇六年(660年)百済は「滅亡」するが、反新羅の抗戦勢力が残っていた。百済遺臣の要請により、我が国は請をうけて、三十年間人質だった百済王子豊璋を送還し、斉明女帝は百済復興のために朝鮮半島への大規模派兵を決断、筑紫に遷られたが崩御になられた後、中大兄皇子は、豊璋に最高位の織冠位を与え、勅を宣して王位に即けた。しかし我が国は百済救援の役(白村江)で大唐・新羅連合軍に惨敗し、百済王豊璋は高句麗に亡命。復興軍の拠点も陥落して百済は滅亡する。我が国に残留を余儀なくされた百済王族の処遇が、「百済王」を姓とする内臣に配することであったことは、対外関係の再構築を「帝国」とする方向で行わせたとされ「豊璋を百済王として冊封したことが、倭王の日本天皇への転化の画期となったことはまちがいあるまい」とする。冊封にこだわった見解のように思えるが、国制を帝国とする方向により、倭王より日本天皇への転化となったという見方は基本的に正しいと思う。  
以上概括していえばこういうことである。5世紀の倭の五王が南朝に通交し、官爵を懇願して授与された目的は、朝鮮半島の軍事権を中国王朝に承認させることであり、高句麗と同等の地位を獲得することであったが、6世紀に冊封体制から離脱する。7世紀になると推古天皇十五年(607年)遣隋使小野妹子を派遣して、隋の煬帝に送った国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」という対等外交を要求している。臣下であれば「表」という形式の文書でなければならない。国書は対等である。煬帝は国書の無礼を詰問しながらも、使者を派遣して慰労詔書を与えたが、明白に臣下の礼をとることはなかったとみられている。
 隋の煬帝と論理的に対等でなければならない理由は、倭の五王の時代から、朝鮮半島から調の貢納があり、我が国は隋の藩臣となっていた高句麗・百済・新羅を藩国視し上位国であるという姿勢をとっていたためである。598年、高句麗が国境紛争を起こしたため隋の文帝が官爵を奪い、水陸軍三十万で高句麗を攻撃したが、我が国もこの機会に新羅に出兵して五城を奪い、その後奪回されたともいわれているが、この対抗関係は煬帝に国書を送付する時期まで続いている。もし我が国が隋に臣従してしまうと、朝鮮三国に対する姿勢の根拠を失い 、国内的にも治天下大王の権威を毀損してしまうため、論理的に隋皇帝とは対等でなければならなかった。
また 推古朝から天智朝にかけて、かつて敵対し強国だった高句麗を外蕃として付庸し、弟国にして君臣関係と置くとなると、高句麗「太王」と同格の倭「大王」号は適切ではない。諸蕃(朝鮮半島諸国)に君臨するに相応しいスケールの大きな君主号を称するべきだろう。「王」称号は原則的に中国皇帝が付与する爵位である以上、中国王朝と対等の君主号となれば、自称「大王」も適切なものでない。君主号のレベルアップ(天下を統御する最高君主として)「倭」国号も〔対外的には〕改めたほうがわかりやすい。それが日本天皇だったという見方をとっても大筋では間違いないだろう。
 つづく
参考文献
西嶋定生『邪馬台国と倭国』吉川弘文館1994
西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会1999 
その他引用文献は本文中 

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

最近のトラックバック

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30