乙武洋匡ブログにコメント
炎上騒ぎになっている乙武洋匡ブログ9月7日から引用します。乙武洋匡氏は女系派というわけではありませんが、本題に入る前にとりあげたいと思います。
「世間は昨日から「めでたい、めでたい」と騒いでるけど…… ひとつの命が誕生したことがめでたいの?それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの? 」
「‥‥少なからず「男の子でよかった」という風潮が感じられました。そのことに、僕は抵抗を感じてしまったのです。男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。‥‥‥」
せっかく著名人からの問いかけですからコメントしておきたいです。一般論としていえば、男でも女でも出産はめでたく、仮に女児であってもないがしろにされることはありえない。しかし、性別に強い関心をもたれるのは当然のことでこの出産は皇位継承という国家最重大事にかかわりますから、男子が誕生された以上よりめでたい慶事である。普通の人は女子だったらがっかりとか残念とか内心では思います。しかし皇室の慶事だから抑制が働いて表向きにはめでたいと言って本心は口に出さない。敬宮愛子さま誕生のときがそうでした。内親王誕生なら冷淡な反応になり親王誕生なら舞い上がった慶事ムードになってあたりまえじゃないですか。乙武氏に訊きますが「男の子でよかった」と言っちゃいけないの。それが常識だとでも思ってるの。
このブログの記事ではそこまで言ってないが、「男の子でよかった」は偏向思想で性差別表現でよくない。時代の進歩でポリティカル・コレクトネスとして「男の子でよかった」を禁句にしたい。さらにすすんで人間は生まれながらにして平等とか、憲法14条のような価値観に反するので、こういう思想を抹殺したいという含意があるとすればかなり問題です。もしそうだとすると強硬に反対します。私はポリティカル・コレクトネスによる差別的表現・集団誹謗的表現規制には明確に反対です。ウィキペディア「呂后」では注意深く「呂后は戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で声をつぶし、その後便所に置き人彘(人豚)と呼ばせたと史書には書かれる」と書かれてますが、歴史的事件の記述で特定個人を嘲っているわけでもないのに「唖にして盲にして聾にして」と書くと障害者差別と勝手にラベリングして刺しちゃうぞなんていう社会になったらむしろ怖いですね。同じく「女でも男でも喜ばしい」と言わないとジェンダーハラスメントで刺しちゃうぞという社会がよっぽど怖いです。そこまで女性に卑屈になる必要もないし、女が男性と等価値などというのが許せない思想です。男性優位でいいんですよ。
昔から皇女誕生では冷淡、がっかりするのが普通
川西正彦
そこで、皇女誕生時の宮廷の反応がどうだったを検証します。ここからが本題ですが、結論を先を言います。皇女誕生では、心苦しくもあり周囲もがっかりするか冷淡なのが普通です。昔からそうだった。それでいいんですよ。くだらない女性尊重フェミニズムのために、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などという、高橋紘その他の女系論者の主張に与する必要など全くないです。
摂政藤原道長女で天皇もしくは東宮の后妃となった四方所生の皇子女は次のようになってます。
彰子(一条后)
後一条天皇、後朱雀天皇
妍子(三条后)
禎子内親王(後朱雀后、後三条生母)
盛子(三条妃)委細不詳
威子(後一条后)
章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(斎院・後三条后)
嬉子(敦良親王のち後朱雀天皇の東宮御息所、贈皇太后)
後冷泉天皇
1 禎子内親王の誕生
三条天皇の中宮藤原妍子の出産について『小右記』長和二年七月七日条によると「小選資平帰云フ、相府(道長)已ニ卿相・宮殿ノ人等ニ見エ給ハズ、不悦ノ気色甚ダ露ナリト。女ヲ産マシメ給フニ依リテカ」とあり、左大臣道長はひどく機嫌が悪かったようだ。もしここで皇子誕生となれば、一帝二妻后といっても正后といえるのは中宮藤原妍子だから皇后藤原娍子(大納言済時女)所生の敦明親王以下四人の親王を押さえて次の皇太子候補の筆頭となることができたはずだ。それゆえに機嫌が悪いのである。
一方『栄華物語』は「‥‥世になくめでたき事なるに、ただ「みこ何か」という事といふ事聞え給はぬは、女におはしますにやと見えたり。殿(道長)の御前いと口惜しくおぼしめせど、「さはれ、これをはじめたる御事ならばこそあらめ、又もおのづから」とおぼしめすに、これも悪からずおぼしめされて‥‥」と記されている。
世にたぐいなくめでたいことなのに「御子はどちらか」ということが人の口にのぼらないのは、皇女であると思われた。道長は大層残念にお思いであるが、「ままよ。これが一家にとってはじめての御産というならともかく、またそのうち皇子の生まれることもあるだろう」と思われるとこれも悪いことではない‥‥。
『栄華物語』は摂関家寄りの記述で、道長を礼賛しても悪口はいわないので、すでに長女の皇太后藤原彰子が皇太子敦成親王と敦良親王の母であることもあり、またそのうちという穏やかな表現になっている。
なお中宮藤原妍子は寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍17歳、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳。所生の皇子女は禎子内親王のみ。立后の背景については(註1)のとおり
2 親仁親王(後冷泉天皇)の誕生
万寿二年八月敦良親王の東宮御息所藤原嬉子の出産について『栄華物語』は「‥‥まづ「なにぞ」と、内にも外にもゆかしうおぼす程に、男みこにぞおはしましける。その程、殿(道長)御けしきよりはじめ、そこらの内の人思ひたる有様、ただ我身一つの喜びに思ひたる。御かげにもかくれ奉るべきその殿のうちの人、ともかくもおぼし思はん、ことわりいみじ。これは何のものの数にもあらぬあやしの賤の男さへ、笑みまけ嬉しげに思ひたるさま、いへばおろかに。‥‥」
皇子誕生当日、大殿道長以下喜びを爆発させているが、藤原嬉子は産後の肥立ちが悪く出産の二日後に容態が急変し薨逝された。19歳であった。道長は涙が枯れて前後不覚の体になったという。一昨日は世間をあげて大騒ぎをしてめでたいことだと帝までお聞きになって羨しそうにお思いだったのに、今日は予想もしないような夢のような出来事と『栄華物語』は記している。
3 章子内親王の誕生
万寿三年十月後一条天皇の中宮藤原威子の出産について『栄華物語』は「‥‥殿(道長)の御前、「平かにおはしますよりほかの事なし。物のみ恐ろしかりつるに、命延びぬる心地こそすれ」とて、いと嬉しげにおぼしめしたり。内にも聞しめして、「同じうは」とはいかでかおぼしめさざらん。されど平におはしますを、返す返すも聞えさせ給て御剣もて参りたり。さきざきは女宮には、御剣は持て参らざりけれど、三条院の御時、一品宮の生まれさらせ給へりしよぞかかめる。内の女房などの「あな口惜し」など申すを聞しめして「こは何事ぞ。平かに給へるこそ限なき事あれ。女といふも烏滸の事なりや。昔かしこき帝帝、皆女帝立て給はずはこそあらめ」と宣はするに、かしこまりて候ふべし‥‥」
道長は皇女にもかかわらず安産でこれ以上の喜びはないとしている。帝にもお聞きになられて「同じことなら皇子であってほしかった」とはどうして思し召されぬことがあろうか。しかし御無事でいらっしゃることを、繰り返し仰せなさって、御剣ををお届けになられた。(中略)内の女房たちが「ああ残念」などと申すのをお聞きになられて、帝は「何という事を言うか。無事にお産をなさったことでもこの上ないことだ。女で残念というのも笑うに堪えたことだ。昔の聖帝方が、皆女帝をお立てなさらなかったならばともかくだが」とおっしゃるにつけて、恐れつつしんでひかえているだろう。
すでに弟の東宮敦良親王に王子が誕生していることもあって、内裏女房たちは「あな口惜し」女でああ残念などと申していた。後一条天皇は九歳も年長の后や外祖父に気を遣っておられたのか、安産というだけでこのうえない。女で残念だなどというものではないと女房たちをたしなめている。
4 馨子内親王の誕生
『小右記』長元二年二月一日に「只今中宮御産成リ畢ンヌ。其ノ後資房来タリ云フ、御産遂に畢ヌ、女子テヘリ、宮人ノ気色太(はなは)ダ以テ冷淡ト」とある。
中宮藤原威子の第二子も皇女だった。宮廷でははなはだ冷淡な反応だったと記されている。『栄華物語』には馨子内親王誕生時の記事はなく、姉の章子内親王の着袴の記事に「中宮(威子)には、女宮が二人おはしまして、男宮のおはましまさぬことを口惜しう、内(後一条)も宮(威子)にも殿ばらもおぼしめす」とあり、天皇も中宮も女宮二人で残念、心苦しく思われていたことが記されている。藤原威子は皇子出生をみることなく長元九年九月崩御38歳。天然痘の流行による。
5 祐子内親王の誕生
長暦二年四月廿一日、後朱雀天皇の中宮藤原嫄子(関白頼通養女、実は敦康親王女嫄子女王)の第一子出産について『栄華物語』は「‥‥女宮ぞ生れさせ給へる。口惜しとおぼせしめせど、御乳母さるべき人人数多参る。程なく入らせ給ひぬ。姫宮も入らせ給ひぬれば、内(後朱雀)には、さきざきの宮達のよそおはしますに、珍しくうつくしと見奉らせ給ふ」とあり、やはり残念とお思いなさるが、帝におかれては、すでに親仁親王、尊仁親王の出生をみている余裕からか姫宮を見て可愛いがったとのことである。
中宮嫄子は寵愛され長暦三年八月にも第二子女子を出産されたが、九日後に崩御になられ、養父関白頼通が期待していた皇子出生をみることはできなかった。
以上、数例をみてきたが、昔から皇女誕生では冷淡な反応、がっかりしていたんですよ。昔から后妃にとって皇子出生がないことは心苦いことではあった。それでいいんじゃないですか。むしろ無理に女系容認にして男子が出生しても素直に喜べない。女性尊重フェミニズムの公定イデオロギー化のほうがよっぽど怖い社会になりますよ。そういうと女系派はスウェーデンはオランダはベルギーはとか言うんだろ。なんで大国の日本が格下の外国の制度を模倣しなきゃいけないのさ。
(註1)藤原妍子立后の背景
三条天皇(居貞親王)の東宮時代の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった大納言済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは全く皇太子の発意による結婚で、皇太子が勝手に結婚した政治色が希薄な結婚ともいえる。時に太子16歳、娍子19歳。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいた。
娍子の父大納言済時は関白忠平の孫だが、摂関を狙える立場ではなかった。娍子の祖父が安和の変の首謀者とみなされる師尹である。師尹は源高明を追い落として左大臣に昇進するものの摂関を継承することがなく、摂関継承は小野宮流か九条流になったためである。娍子の結婚の四年後、長徳元年済時は流行の疱瘡により薨去され娍子は後ろ楯を失う一方、同年関白道隆は二女原子(中姫君)を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する。娍子にとっては運が良かったといえる。
しかし寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、道長二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に敦明親王以下6人の皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后に立てることとなった。しかしそれでも道長はいやがらせを行った。立后宣命から「しりへの政」等の皇后の政治的権能にかかわる文句を削除させただけでなく、娍子立后儀当日に、中宮妍子の立后後初の入内の儀式をぶつけ、ほとんどの公卿は天皇の召しにもかかわらず娍子立后儀に参入しなかった。道長の東三条殿に候じていた公卿は、内裏からの立后儀への参入を促す使に対し「手を打ち同音に咲ひ」嘲笑して憚らなかったという。
しかし、中込律子によると娍子立后は従来いわれていた天皇の同情によるものではないという。父済時の不在や生前の官位から当時の通念では娍子は立后できる立場になかった。にもかかわらず立后というのは天皇の権力意思によるものであり、娍子は皇太子時代に御自らの発意で結婚した妃だったしこだわったのだろう。娍子の最大の後ろ楯が天皇であったことを示している。結局天皇の皇后決定を道長は直接制止できなかったので、間接的な妨害で現実の力関係を示威したにすぎないという。また従来のイメージでは道長主導で受領等の人事がなされていたようにみられていたが、決してそうではなく、娍子の兄弟の為任が大国の伊予守になっているほか5人は天皇の意向による人事であり、その他の人事でも天皇と左大臣内覧道長とで鍔迫り合いがなされていた。そうすると三条朝の政治はある意味で律令国家の天皇と太政官の二極構造が浮き彫りになったともいえるだろう。
藤原妍子の第一子が皇女であったことに、道長はひどく機嫌を悪くした。もっとも皇女でもそれなりの意味があったという見方もある。道長の父摂政兼家は三条天皇に多くの所領を献上していて、天皇は経済的には恵まれていた。道長はいやらしくもこれを摂関家に取り返そうとしたらしい。出所を明示できないが読んだ記憶がある。実際これらの所領群は、三条天皇-藤原妍子-禎子内親王と伝領され、実際には道長の管領となった。そういう意味では皇女であってもこの出生は摂関家にとって有益だったといえるのである。
以上縷々述べてはきたが、私がいいたいことは藤原娍子のようにたとえ四人の親王があって、所生の敦明親王が立太子したにもかわらず、摂関家の圧力で皇太子を辞退せざるをえなくなるケースもあった。皇子が誕生せず心苦しい方も多くあった。御産のため早世された后妃もある。藤原娍子のようにいやがらせを受けたり、政治的な後ろ楯の弱さに悩むこともある。まさに小泉首相がいうように人生いろいろなのである。だから、特定の后妃に感情移入して同情するのもどうかと思う。ましてや、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などもってのほかだということ。
主要引用参考文献
松村博司『栄花物語全注釈三』角川書店1972 191頁
松村博司『栄花物語全注釈五』角川書店1975 193頁以下、413頁以下
松村博司『栄花物語全注釈六』角川書店1976 201頁以下、427頁以下
但し口語訳は正確に引用していない。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
中込律子「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』清文堂出版(大阪)2005
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