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2006/09/03

事実上の異姓簒奪・易姓革命なら日本国号を捨て去るのは当然という私の主張を「電波」とみなす見解への反論(1)

 名指しこそしないが、私のブログを批判していると思われるものに皇位継承問題にまつわるエトセトラ(5)というサイトがある。キャラクターの問答形式の長文のサイトだが、終盤のほうで次の文章がある。

「最後に聞きたいのですが、『女系天皇が誕生して王朝交代が発生したら、“日本”という国号を捨てなければならない』という主張がありますけど……これはどうなんですか?」
「どうなんですか~?」
「電波。……以上で説明終わりでいいか?」
「先生、いきなり終わらせないで下さいよ~」
「作者がこの主張を電波呼ばわりする根拠は2つある。第1に、その由来が何であろうと、『日本』──厳密には『日本国』という国号は『現行の』憲法で規定されていることを指摘する必要がある。中国の易姓革命が日本に入ってきているかどうかは、はっきり言ってしまうと全く意味が無い。現在の日本における最高法規である日本国憲法で『日本国』という呼称が国号として使われている以上、男系男子天皇の断絶が発生しようが、その事実のみを以って自動的に『日本国』という国号が変わるわけではない。作者としては、『国号を変えたいのであれば憲法を変えろ』としか言えないのだ」

 女系容認の皇室典範改定で易姓革命合法化、異姓簒奪によって日本国は終焉する。異姓簒奪でも日本国を継続するなら、それは偽日本朝、偽日本国というほかない。女系容認は究極の反日政策と言って憚らないのが、当ブログであるから、これはたぶん私の主張に対する批判だろう。先方のサイトは感心するほど歴史に詳しい。私は電波呼ばわりされるくらいでは全然怒らないが、批判がある以上、丁寧に反論していくのが礼儀だと思うので、反論を載せておきたい。

川西正彦

 日本帝国は中国王朝の国家概念と基本的には同質
 
 私は、第一回ブログ 2005年8月21日において
次のように書きました。
 日本国号の由来からみても、中国の国家概念を継受していることは確実である。‥‥
 吉田孝(『日本の誕生』岩波新書510 1997、16頁)が「倭」を「日本」と改めても、やまと言葉では「倭」「日本」はいずれも「やまと」と訓まれ、日本の内実は「やまと」だったと述べているが、これは通説である。網野善彦(『日本論の視座-列島の社会と国家』小学館2004、11頁)も「日本」を「ひのもと」と訓む可能性を否定ないが、「にほん」「にっぽん」という音読は平安朝になってからだとしている。諸説がかなり異なっているのが、日本国号の成立時期と由来と意味である。なぜ、「やまと」が「日本」という国号になるのかということです。たんなる当て字かそれともなんらかの意味が備わっているのかといったことです。
 

 そこで、ここでは日本国号の成立時期と由来についても考察しておきたい。

  王朝名・国号の意味

 夏・殷・周などの中国歴代の王朝名、国号の意味について、後漢初期の『白虎通徳論』では、普通名詞である天下を、固有名詞化するための美称で、各王朝の徳、基本理念を体現するという説であるが、これに真っ向から反対する同時代人の王充『論衡』正説篇第八一は、各王朝が興起、発祥した土地の名前とする説であり、両説は対立していますが、渡辺信一郎は後世の説は王充説に立つものが多い(例えば『春秋公羊伝』何休序に附す唐の徐彦の疏、西晋の司馬孚『晋書』巻三七宗室列伝安平献孚王伝など)としながらも、両説とも受容され次のように云っている。
「中国歴代の王朝名は、単なる国号ではなく、天下を領有することを前代の王朝と区別するためにつけられた称号であり、天下の普遍性に対して、それを固有名詞化し、特殊化するものである。その固有名詞化にあたっては、王朝の徳を表す美称、もしくは歴代王朝発祥の地のいずれかが採用された。実際から言えば、秦漢以降、宋遼に至るまで主として王朝発祥の地が採用され、金元以降は美称が採用された」(渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序』校倉書房2003年17頁)。
 しかし金・元・明・清は論外である。日本はこれらの王朝よりはるかに古い王朝であるから問題にしない。従って王充説を採用してさしつかえないと考える。
 1世紀、後漢の思想家王充(AD27~97)によれば唐・虞・夏・殷・周は土地の名前だという。

「堯は唐侯の身分から天子の位に就き、舜は虞の地から栄達することができ、禹は夏の地から起こり、湯は殷の地に起こり、武王は周の地から上進して手柄を立てた‥‥みな本来興起し、栄えるようになった土地であり、根本を重んじ始めを忘れないということから、その土地を称号としたのであって、人に姓があるのと同様である。‥‥‥秦は秦地より起こり、漢は漢中から興ったので、秦・漢と称したまでである。王莽が新都侯から起ったので、新と称したのも同様である」(渡辺信一郎前掲書15頁)という
 付け加えると 魏王朝は、曹操が、漢王朝最後の皇帝献帝を奉戴するが、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する過程で、魏公から魏王に封ぜられ魏の太子の曹丕の代で禅譲形式の易姓革命となった。曹操は、213年魏公に封ずる詔が下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土としたのであり、魏国に社稷・宗廟が建てられる。さらに四県の封邑、増封三万戸、魏王となる。魏国が王業成立の地であるから、220年曹丕が献帝から帝位を譲られた後、国号を魏とした。
 唐の場合は、高祖李淵の祖父李虎(太祖)が北周の時に唐国公に封じられたことが国号の由来になっている。
 (なお朱元璋は乞食坊主から成り上がったので、発祥地の名称を国号とすることが困難であり、国号は明という美称になったが、それは伝統的な在り方とはいえないだろう。)

 日本〔やまと〕国号も神武天皇が大和国で王業を成就したから。王朝の興起した土地が国号となるという王充の示す事例と全く同じパターンなのである。
 倭も日本もやまと言葉で〔やまと〕と訓み、内実は〔やまと〕であることは既に述べた。本居宣長は『国号考』で「倭」「和」「日本」は〔やまと〕であり、〔やまと〕の意味について賀茂真淵の「山門」説のほか「山処」説、「山つほ」説「山内」説を並列的にあげており、大和盆地の地形、ロケーションに由来するとみなしているようだ。なぜ、〔やまと〕に日本という文字が当てられるにようになったかは重要な問題なので後日論究するが、岩橋小弥太(『日本の国号』吉川弘文館1970(新装版1997)59頁以下註37)は、大和一国の別名が全国の総(惣)名となったことは間違いないとする。この説は基本的に正しいと思う。その論拠として『釈日本紀』の開題にある次の問答である〔『釈日本紀』は鎌倉時代の卜部兼方の日本書紀研究書であるが、引用されているのは10世紀初期藤原春海の見解。「延喜開第記」延喜四年(904年)八月に開講された日本紀講書の説である。〕

問ふ、本国の号何ぞ大和国に取りて国号と為すや、説に云はく、磐余彦天皇天下を定めて、大和国に至りて王業始めて成る、仍りて王業を為す地をもって国号と為す。譬へば猶ほ周の成王成周に於いて王業を定む、仍りて国を周と号す。

問ふ、和国の始祖筑紫に天降る、何に因りて偏に倭国に取りて国号と為すや、説に云はく、周の后稷はタイに封じられ、公劉ヒンに居り、王業萌すと雖ども、武王に至りて周に居り、始めて王業を定む、仍りて周を取り号と為す、本朝の事も亦た其れ此くの如し
 

 他ならぬ大和国を取って国の名ととしたのは、何故かというと、神武天皇が大和国で王業を成就したからである。天皇の始祖は筑紫に降ったのに、その地の名をとらず、「倭国」を取って国号としたのは、周の王朝に関して、その祖先たちの拠った地でなく、武王が王業が定めた地である周をもって国号としたのと同じである。
  
 この説は、忌部正通、一条兼良、日本書記の注疏家に多く継承され、近世の学者も追随しており、有力な説とみてよい。「本朝の事も亦た其れ此くの如し」とあるから、周王朝との類比で国号が成立したわが国も国家を以て一姓の業とする中国の国家観念を継受しているのは確実で、要するに日本も中国王権の国号が、王朝が発祥した、あるいは興起した土地を、王朝名、国号とするのと同じパターンということになる。
 従って、易姓革命なら日本国はおしまい。当然のことですね。それが筋目というものです。
 

日本国号の成立時期とその背景

日本国号の成立時期については7世紀から8世紀初期、推古朝から元明朝の幅で諸説あるが、 官撰の書物で「日本」の初見は大宝令(大宝元年701年)の公式令詔書式(大宝令は残ってないが、『令集解』の公式令注釈で大宝令の注釈書である古記が引かれ「御宇日本天皇詔旨」がみえる)とされるのが、ほぼ通説になっている。吉田孝は飛鳥浄御原令(持統三年689年施行)、神野志隆光が大宝令成立説だが、大宝の遣唐使粟田朝臣真人が「日本国」を名乗り、則天武后がそれを承認したことは両者とも是認される。中国の史料「史記正義」から裏付けることができるのである。則天武后は李氏の唐王朝を簒奪し周を建国し聖神皇帝と称していたので、正確に云えば大唐帝国ではなく大周帝国に承認された。ということで八世紀初期までには日本国号は国際的にも承認された。従来、和銅五年(712年)に撰上された『古事記』に「日本」がみえないことから日本国号成立を元明・元正朝とする論者もあったが、この説は棄却できる。
 しかし日本国号の成立時期については歴史家の多くは石母田正(『日本古代国家論』全二冊第一部 岩波書店 1973 352頁)のいう諸蕃と夷狄に君臨する小帝国=「日本国」とする説を基本として律令国家揺籃期より成立期、斉明朝~天武・持統朝には日本国号は成立したとする説が多い。また天皇という君主号も日本国号成立とほぼ同時期とみる歴史家が多い。結局確定的なことはいえないのだが、諸説を検討しておこう。
 本居宣長は孝徳朝説で、その論拠は大化元年七月の蕃国使への宣詔である。大化元年(645年)七月紀によれば、高句麗・百済・新羅が遣使進調し、朝廷では病で難波津に留まった新羅使をおいて高句麗・百済に詔を下している。
 高句麗使には「明神御宇日本天皇詔旨、天皇遣之使、与高麗神子奉遣之使、既往短而将来長、是故、可依穏和之心、相継往来而巳」と宣詔し、百済使には「明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百済国為内官家云々」と宣詔し、さらに、大化二年二月十五日条でも臣・連・国造・伴造および諸々の百姓に詔して、明神御宇日本倭根子天皇と仰せられたとある。 しかし「明神御宇日本天皇詔旨」は養老公式令(養老二年撰上、718年)の詔書式で撰定されている文句と全く同じで、多くの歴史家は日本書記(養老四年撰上、720年)編纂者が原資料を粉飾したものとみなし孝徳朝説を否定している。

 養老公式令の五つの詔書式は以下のとおりである。
 1 明神御宇日本天皇詔旨。云々。咸聞。
 2 明神御宇天皇詔旨。云々。咸聞。
 3 明神御大八洲天皇詔旨。云々。咸聞。
 4 天皇詔旨。云々。咸聞。
 5 詔旨。云々。咸聞。
 
 義解では最初の二つが対蕃国使用とされ、外蕃に対し日本天皇と称するのである。3~5は国内向けである。

 孝徳朝棄却説の論拠のもうひとつは古代天皇の呼称方法として、某宮御宇(治天下・馭宇)天皇があるが、「御宇」「治天下」「馭宇」の三様の表記について時代的変遷があり、孝徳朝に「御宇」という表現はありえないとするものである。
 また天皇の即神表現であるが、宣命では続日本紀巻一の巻頭(697年)文武天皇即位後の詔詞の始めに「現御神大八嶋国所知天皇」とあり、本文に「現御神大八嶋国所知倭根子天皇」とある。慶雲四年七月(707年)の元明女帝即位詔では「現神八洲御宇倭根子天皇」とあり、天皇のことを言い出すのに現御神、現神と冠することが定型化している。
 しかし大宝令(大宝元年、701年)を注釈する古記が公式令の詔書式について「御宇日本天皇詔旨」は隣国(大唐)、蕃国(新羅)に対しての詔、「御宇」「御大八嶋」は大事を宣する辞としており、明神の表現がみられないことから、大宝令は残っていないが大宝公式令の詔書式に明神はなかったとみなされている。大宝令成立説の神野志隆光などによると明神御宇という表現は養老令以後なのである。(神野志隆光『「日本」とは何か 国号の意味と歴史』講談社現代新書1776 2005年 20頁) この見解に従うと、養老公式令詔書式が孝徳朝に遡ることはない。
    
 しかしながら、対外関係からすれば、孝徳朝に日本国号、天皇号が成立していたとしても不可解ではないと考える。従来から臣従国として扱ってきた百済・新羅とは別に、かつて敵対し強国であった高句麗の貢献をうけた意義が大きいように思う。
 高句麗は6世紀末から隋と武力抗争になり、612年に煬帝親征二百万の大軍で攻撃したが失敗、618年隋は疲弊し亡びてしまう。624年に唐は高句麗、百済、新羅を冊封するが、642年に高句麗でクーデターが起き、百済と高句麗が結んで新羅の四十城を攻略、唐は新羅の提訴により高句麗を告諭したが、拒絶したため644年に高句麗征伐が決定され、645年に太宗による高句麗遠征が開始されている。そうしたことが高句麗が我が国へしきりに遣使・朝貢するようになった背景である。白雉二年是歳条(651年)に巨勢大臣の奏請「今、新羅を征伐しなければ、後で必ず後悔することがある」との反新羅政策の動きがあり、我が国は斉明朝から天智朝は反唐・反新羅政策をとったため、天智初年には高句麗救援の軍派遣に応じている。
  しかも天平勝宝五年(753年)に来日した渤海使に托した渤海国王に賜う天皇璽書によれば、日本と高句麗の関係は兄弟にして君臣の間柄であったとされている。
 森田悌(「日本・渤海の兄弟・舅甥関係」『律令国家の政務と儀礼』吉川弘文館1995、『日本古代の政治と宗教』雄山閣出版1997所収)が、推古朝から天智朝にかけて外蕃を付庸するに至っていたと考えられるとし、高句麗を弟国として君臣関係に置くようになったと推測され、かつて敵対した強国を付庸した時期が、天子・天皇号の採用時に相応しいとされたうえ、鳥羽天皇の元永元年(1118年)に宋からの書状が旧例に適っているか、式部大輔菅原在良に調査させているが、その前例勘申にある「天智天皇十年唐客郭務ソウ等来聘書曰、大唐皇帝敬問日本国天皇云々」を重視されている。
 しかし大唐帝国が公的に、皇帝号と対等な世界的支配者の含意のある天皇号を承認することはありえない。天平六年(734年)に帰着した遣唐大使多治比広成に托された玄宗皇帝の勅書は「勅日本国王主明楽美御徳」である。
にもかかわらず、森田悌は菅原在良の前例勘申を重く見て、天智十年(671年)の書例を肯定する。その理由は当時、唐は高句麗を滅ぼしたものの、かつての同盟国新羅と対決する事態となっていた。新羅を牽制するために日本の助勢を期待したとする。百済駐屯軍が日本にしきりに使節を遣わしたのはそのためで、朝廷の歓心を誘うために私的使節を遣わし、公的には用いることのない天皇称号を使用したと推測され、天皇号は推古朝から慣用されていた可能性を否定せず天智朝には成立していたという説である。森田悌説は天皇号の成立時期に関する見解だが筋は通っていると思う。この説に従えば、日本国号も少なくとも天智朝には成立していたことになる。
  次に筧敏夫説(「百済王姓の成立と日本古代帝国」『日本史研究』317号1989-1『古代王権と律令国家』校倉書房2002年所収)は中大兄皇子による百済王豊璋の冊立を重視する説である。七世紀前半百済は我が国に人質を出し、調を貢納していたが、百済王位に正統性を付与するのは中国王朝だった。斉明天皇六年(660年)百済は「滅亡」するが、反新羅の抗戦勢力が残っていた。百済遺臣の要請により、我が国は請をうけて、三十年間人質だった百済王子豊璋を送還し、斉明女帝は百済復興のために朝鮮半島への大規模派兵を決断、筑紫に遷られたが崩御になられた後、中大兄皇子は、豊璋に最高位の織冠位を与え、勅を宣して王位に即けた。しかし我が国は百済救援の役(白村江)で大唐・新羅連合軍に惨敗し、百済王豊璋は高句麗に亡命。復興軍の拠点も陥落して百済は滅亡する。我が国に残留を余儀なくされた百済王族の処遇が、「百済王」を姓とする内臣に配することであったことは、対外関係の再構築を「帝国」とする方向で行わせたとされ「豊璋を百済王として冊封したことが、倭王の日本天皇への転化の画期となったことはまちがいあるまい」とする。冊封にこだわった見解のように思えるが、国制を帝国とする方向により、倭王より日本天皇への転化となったという見方は基本的に正しいと思う。  
以上概括していえばこういうことである。5世紀の倭の五王が南朝に通交し、官爵を懇願して授与された目的は、朝鮮半島の軍事権を中国王朝に承認させることであり、高句麗と同等の地位を獲得することであったが、6世紀に冊封体制から離脱する。7世紀になると推古天皇十五年(607年)遣隋使小野妹子を派遣して、隋の煬帝に送った国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」という対等外交を要求している。臣下であれば「表」という形式の文書でなければならない。国書は対等である。煬帝は国書の無礼を詰問しながらも、使者を派遣して慰労詔書を与えたが、明白に臣下の礼をとることはなかったとみられている。
 隋の煬帝と論理的に対等でなければならない理由は、倭の五王の時代から、朝鮮半島から調の貢納があり、我が国は隋の藩臣となっていた高句麗・百済・新羅を藩国視し上位国であるという姿勢をとっていたためである。598年、高句麗が国境紛争を起こしたため隋の文帝が官爵を奪い、水陸軍三十万で高句麗を攻撃したが、我が国もこの機会に新羅に出兵して五城を奪い、その後奪回されたともいわれているが、この対抗関係は煬帝に国書を送付する時期まで続いている。もし我が国が隋に臣従してしまうと、朝鮮三国に対する姿勢の根拠を失い 、国内的にも治天下大王の権威を毀損してしまうため、論理的に隋皇帝とは対等でなければならなかった。
また 推古朝から天智朝にかけて、かつて敵対し強国だった高句麗を外蕃として付庸し、弟国にして君臣関係と置くとなると、高句麗「太王」と同格の倭「大王」号は適切ではない。諸蕃(朝鮮半島諸国)に君臨するに相応しいスケールの大きな君主号を称するべきだろう。「王」称号は原則的に中国皇帝が付与する爵位である以上、中国王朝と対等の君主号となれば、自称「大王」も適切なものでない。君主号のレベルアップ(天下を統御する最高君主として)「倭」国号も〔対外的には〕改めたほうがわかりやすい。それが日本天皇だったという見方をとっても大筋では間違いないだろう。
 つづく
参考文献
西嶋定生『邪馬台国と倭国』吉川弘文館1994
西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会1999 
その他引用文献は本文中 

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