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2006/09/10

くどいぞ愛子内親王擁立派(1)

高橋紘は親王誕生でも愛子さま

 産経(9月7日-インターネットでは6日)の記事です。
女系賛成を主張してきた高橋紘静岡福祉大教授の話 「男の子がお生まれになったが、皇位継承が安定的でない実態は変わらない。有識者会議があれだけエネルギーをかけて結論を出した以上、皇室典範を改正して、皇位継承は男女を問わず第1子優先とし、女系も皇統と認めるべきだ。つまり愛子さまを皇位継承者にすべきだ。そうでないと、将来、今回のお子さまのお妃も雅子さまのように『男の子を産まなければいけない』というプレッシャーに悩まされることになる」
 そんなことをやっていいとでも思っているのか。新宮さまが誕生したその日から、事実上、皇位継承権剥奪せよというのはひどすぎる。高橋紘はあっちこっちのテレビ番組に出て女系を力説していたらしいが、新宮さまの順位を3位から6位におとすというのは、部長を課長に降格させるのとわけがちがう。
 新宮さまは、今後、東宮家に親王が誕生されないかぎり、確実に皇位継承者となる立場にあります。しかし愛子内親王の即位だと限りなく可能性はなくなる。おまけに秋篠宮の継承者ですらなくなり、姉宮二方の下風に立つことになる。ふんだりけったりです。大きな怨を残す結果になるというか、そういうことがあって絶対にならないです。
 結論を先に述べます。前例からみて新宮さまの皇位継承の正統性が100だとすると、愛子内親王はゼロ。皇位を継承する論理性は全くありません。
 
川西正彦(9月10日)

 前例がないからいくらわめいてももうダメです。容認できないはずです。そもそも朝廷の運営というのは局務家・官務家など実務的官人の前例勘申が政策審議の前提になっていたわけです。前例を重視しましょう。
 親王が誕生する前の段階でいえば、嫡嫡継承ないし直系継承で皇子がなく血統的袋小路になって非婚女帝が即位した前例として、奈良時代に聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出した状況で、孝謙女帝が即位した前例がありました。
 愛子内親王のポジションを孝謙女帝のケースに比擬できたんです。この前例から女帝即位の可能性を模索する考え方はありえたのです。だから私は2005年9月19日前後のブログで孝謙女帝即位の変則性・特異性とか、史上唯一の阿倍内親王の立太子はきわめて異例、「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識とか、草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど縷々述べて、孝謙女帝の前例は適切でないことを強調しました。そしてなによりも生涯非婚内親王でなければ前例に反すると述べてきた。切羽詰まった1月25日になると、愛子内親王の将来に比擬される日本の称徳女帝は皇親の殺戮と追放に関してローマ帝国のネロ帝、大唐帝国の則天武后と並び称される存在で、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であったこと。つまり孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死(拷問で殴り殺し)。塩焼王(臣籍降下して中納言氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立されたため斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断で失脚。仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願した謀反が発覚して死を賜った(伊豆配流途中絞め殺される)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放されたことを述べ、とにかくイメージを悪くしようと躍起になっていましたが、その状況は変わりました。
 皇孫殿下が誕生したので皇統は血統的袋小路ではなくなった。従って、愛子内親王を孝謙女帝に比擬することができなくなりました。
 
毎日記事「血筋重んじ愛子さま」という三段抜きの見出し-そんなばかなことはない

 親王誕生により現在の愛子内親王のポジションに類似した前例といえるのは、

朱雀皇女昌子内親王(冷泉后)、

後一条皇女章子内親王(後冷泉后・院号宣下により二条院)、

後一条皇女馨子内親王(後三条后)、

後光明皇女孝子内親王(礼成門院)

ということになりました。
 下記のように 弟宮に皇統が移ったケース、兄弟で皇位継承があり、弟の皇子に皇位が継承された事例はかなり多数ありますが、そのなかでも、兄に皇子がなく皇女だけだったケースです。いずれのケースも内親王は厚遇されており、昌子内親王、章子内親王、馨子内親王は中宮(后位)に立てられていますが、皇位継承候補者では全くありません。ですから、前例から愛子内親王が皇后に立てられる可能性がありますが、皇位継承候補とする論理性など全くありません。
 
毎日新聞9月6日夕刊に街の声として、名古屋市の29歳の女性の声「血筋重んじ愛子さま」というのが三段抜きの見出しで踊っていて、ばかなこというなよと怒り心頭にきましたが、皇太子も秋篠宮も后腹で血筋は同じ、もしも皇太子が秋篠宮より長命だった場合は、新宮さまが即位した時点で秋篠宮は追尊天皇か追尊太上天皇になるでしょうし、紀子さまが皇后にのぼせられる前に薨じたというケースでも新宮さまが即位した時点で、紀子さまは贈皇太后となるでしょうから、血筋、后腹という点でも同じになりますよ。小和田家と川島家の家格を云々することは憚れるほどのことではないが私はよくわからない、同格とみてよいでしょう。従って正確には血筋ではなく家筋、嫡流という意味ではないかと思いますが大きな間違いです。
 例えば後光明皇女孝子内親王は、唯御一方の皇女で一品に叙せられ、准三宮より女院宣下され厚遇されましたが、後光明天皇(後水尾天皇の第4皇子)に皇子がないため、後水尾天皇の第19皇子の識仁を養子に定め、その皇嗣に定められました。霊元天皇ですが、次の世代で皇統は霊元皇子の東山天皇ですから、弟宮に皇統が移ったケースです。
 このケースでは皇太子を後光明天皇、秋篠宮を霊元天皇、新宮さまを東山天皇に類比することができます。
 
 ですから毎日新聞が名古屋市の女性の「血筋重んじ愛子さま」という声を三段抜きにして共感するというならと、霊元天皇や東山天皇でなく孝子内親王が皇位を継承すべきだった。冷泉天皇でなく昌子内親王が、後冷泉天皇ではなく章子内親王が、後三条天皇でなく馨子内親王が即位すべきだったという理屈を示してください。そんなばかなことはないわけです。絶対にありえません。ですから毎日の見出しにある「血筋重んじ愛子さま」は全く論理性はありません。

弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)

第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)

*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です

  兄弟で皇位が継承され、兄には皇子がなかった、もしくは皇子があっても弟の皇子が皇位を継承したケースは多くの例がありますが、ここでは検討を10世紀以後にしぼりたいと思います。というのは壬申の乱や薬子の変に言及するとかえって誤解を招く。兄に皇子があるにもかかわらず皇統が弟の皇子にいったケースは、皇位継承問題で紛糾しています。しかし兄に皇子がなく、皇女だけだった場合は、紛糾の要因にはなっていません。
Aを皇太子、Bを秋篠宮、Cを新宮さまに類比することができます。もちろん今後、東宮家に親王誕生の可能性は残っています。また皇太子が秋篠宮より長命だった場合は秋篠宮は不即位で追尊天皇もしくは追尊太上天皇になるという可能性もありますが、ここでは順当に皇太子-秋篠宮-新宮さまを想定したいと思います。

  第1例 A朱雀-B村上-C冷泉

  醍醐天皇の皇太子には関白基経女、女御藤原穏子所生の保明親王(文献彦太子)が立ったが、21歳で薨去、この時点で女御藤原穏子は39歳で妊娠していたけれども性別は不明である。そこで保明親王の王子で、左大臣時平女藤原仁善子所生の慶頼王2歳の立皇太孫となった。七人の醍醐皇子をさしおいての立皇太孫である。次妻格の女御源和子(光孝皇女-醍醐の伯母)には三人も皇子があった。このため、皇太孫の祖母であり母方でも叔母でもある藤原穏子を皇后に立てて正当化が図られたが、藤原氏の権勢から順当なものだったといえる。
寛明親王(朱雀天皇)は母皇后藤原穏子、醍醐天皇の第11皇子で、慶頼王立皇太孫の年に誕生されたが、 慶頼王が5歳で薨去されたため、三歳で皇太子になった。相次ぐ皇太子、皇太孫の死は菅原道真の祟りとの風評により、寛明親王は怨霊を恐れて過保護に育てられたこともあり病弱だった。さらに藤原穏子は42歳で成明親王(村上天皇)を出産する。
朱雀天皇には皇子がなく、皇太子には弟の成明親王を立てた、承平天慶の乱が出来し、治安が乱れ、天慶六年に早々と譲位されたが、譲位後天暦四年八月十日に女御凞子女王が昌子内親王を出産した。凞子女王の父が保明親王で、母は藤原仁善子、朱雀天皇の姪だった。そうしたことから昌子内親王は厚遇され、成女式に相当する裳着が応和元年十二月十七日(10歳)、三品に叙せられ、応和三年二月廿八日村上天皇の第2皇子の皇太子憲平親王(のち冷泉天皇)は元服加冠の儀当日に昌子内親王を納れて妃とされた。ときに太子14歳、東宮妃昌子内親王13歳(満11歳)であった。康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第の三条院に籠居されていた。天禄四年皇太后、寛和二年太皇太后、長保元年十二月崩御50歳。
栄華物語によれば、昌子内親王は朱雀上皇のただ一人の皇女であったので、上皇は望みを皇女に嘱されていた。村上天皇は兄朱雀上皇の意を知って、特に東宮の妃とされたという。
愛子内親王のポジションが昌子内親王に類比できることから、新宮さまの妃となることも一つの選択肢である。

第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉

 後一条天皇は一条天皇の第2皇子で、母は摂政藤原道長長女彰子(上東門院)。いわゆる摂関極盛期の天皇である。冷泉系と円融系の両統迭立で、三条天皇の皇太子から即位。天皇は当初三条皇子の敦明親王を皇太子としていた。それは三条天皇に譲位を迫った左大臣道長が交換条件として応諾したものだったが、三条上皇崩後に工作を講じ圧力をかけて自発的に辞退させた。但し、廃太子のような手荒な措置はとられず、寛仁元年院号(小一条院)を授け、上皇に準ずる待遇を与えた。後一条天皇は10歳にすぎず皇子がなかったので、同母弟の敦良親王(のち後朱雀天皇)を皇太弟(歴代天皇年号事典では皇太子)とした。
 道長は摂政を頼通に譲って、太政大臣も辞退したが、実権を維持し、寛仁二年には11歳の後一条天皇に九歳も年長で天皇の母方叔母にあたる三女威子を納れ中宮に立てることを企て、威子は里内裏の一条院に入内した。『栄華物語』が20歳(19歳は誤り)の威子が、11歳の天皇の夜の大殿に入ったいたたまれない恥ずかしさを委しく描いている。大納言藤原実資は、『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と記している。その威子立后の日に、道長の邸宅で酒宴が開かれ、道長は実資に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだエピソードはよく知られていることである。
 しかし中宮藤原威子は二方の内親王(章子内親王と馨子内親王)を出産したが皇子をもうけることができなかった。のみならず、中宮威子は嫉妬心が深く他の后妃を納れることを肯ぜず、このために天皇は一夫一妻を忠実に守られたのである。もっとも角田文衛によると、『中納言』という女房名で上東門院に仕えていた女性が後一条天皇の落胤で、命婦ないし、女蔵人級の内裏女房に手をかけられたものと推定されているが、いずれにせよ後一条天皇は皇子出生をみることなく、長元九年29歳で崩御になられ、後朱雀天皇が28歳で受禅した。
 後朱雀天皇は、資質英明、先帝より厳格で天皇の責を果たすのに努めた天皇として知られている。外叔父の関白頼通とは即位当初から確執があり、とりわけ長久の荘園整理令の発布の議では政策をめぐって頼通と厳しく対立した。もちろん最終政務決裁者は天皇である。しかし政治家としての実力において頼通が勝っていて結果的に妥協せざるをえなくなった。天皇の心労と苦悩は切実なものがあって、政治改革の成果がみられないことに悩んだし絶望したとも伝えられる。しかし50年に及ぶ頼通政権は今日の歴史家の評価では令制の人頭税的収取を改革し、段別米三斗を基本額とする公田官物率法の成立など関白頼通は合理主義的な改革者と評価されており、天皇が絶望するほど悪い政治だったとはとても思えない。
 後朱雀天皇の后妃としてはまず、東宮時代に藤原道長四女嬉子が太子妃となり東宮御息所と称された。ときに敦良親王13歳、御息所19歳、嬉子は親仁親王(のち後冷泉天皇)の御産に際して薨逝された。親仁親王は後朱雀
即位後の長暦元年に元服、皇太子となる。
 次に東宮妃として太皇太后藤原彰子が養育されていた三条皇女禎子内親王(母は道長二女中宮藤原きよ子)が冊立された。敦良親王19歳、東宮妃15歳。禎子内親王は尊仁親王(のち後三条天皇)の誕生をみることになり、内親王は後朱雀天皇即位により中宮に冊立された。
 ところが関白頼通は養女のもと子を入内させ后位(中宮)に立てたため、中宮より皇后に転上した禎子内親王はもと子の入内について頼通や上東門院を怨み、天皇に召されても参内せず枇杷殿に籠居されたのである。中宮藤原もと子は寵愛されたが早世され、頼通が期待する皇子をもうけることができなかった。
 後朱雀天皇の皇太子は親仁親王(後冷泉天皇)で長暦元年立太子ときに13歳であったが、同年の十二月に一品章子内親王(後一条皇女)12歳が裳着の儀を行って、太子の宮に入った。龍粛によると後一条天皇は皇太弟に譲位して内親王を配されんとし、側近に命じて裳着の用意をさせられたのだが、図らずも崩御によって実現されず、ここに至って太子妃となられたということである。
 東宮妃章子内親王は永承元年(1048)後冷泉天皇即位により中宮に冊立されたが皇子女をもうけることができなかった。しかし聡明で温順な性格で祖母の上東門院藤原彰子に愛されとても恵まれていたと思います。長元三年十一月僅か5歳で一品、准三宮です。京極院(上東門院)という邸宅も女院より譲られました。治暦四年皇太后 延久元年落飾、太皇太后、同六年院号宣下(二条院)〈非帝母女院の初例〉。長治二年崩御、享年80歳。
 愛子内親王のポジションに章子内親王が類比できる。従って内親王は新宮さまの妃となるのも前例に従った一つの選択肢といえるのである。

馨子内親王の立后については第3例でとりあげることとします。

つづく

主要引用参考文献

角田文衛『日本の後宮』学燈社1973 限定版
    附録の歴代后妃表からも引用してます。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
河村政久「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店1994
米田雄介編『歴代天皇年号事典』吉川弘文館2003
これ以外の参考文献、槇道雄「藤原頼通政権論」などもありますが、かなり前に読んだ記憶だけなので正確な引用ができませんでした。

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