森田登代子論文を読んだ簡単な感想
森田登代子大阪樟蔭女子大学非常勤講師(近世民衆史)の「近世民衆、天皇の即位の礼拝見」という論文が「幕府の政策で民衆から遠ざけられていたとされる従来の近世天皇像を覆すもの」として2006年11月19日読売オンラインで紹介されていたので、宣伝につられて、2006年11月刊行の笠谷和比古編『公家と武家Ⅲ-王権と儀礼の比較文明史的考察』思文閣出版という本を買って読みました。要旨は読売の記事から引用します。
森田講師が、当時の京都で奉行所が高札などの形で出した膨大な数の「町触れ」を調べた結果、1735年の桜町天皇即位式前の町触れに御即位拝見之儀、此度者(このたびは)切手札(きってふだ)を以(もって)男ハ御台所門、女者(は)日之御門より入レ候之条」とあり、これは、観覧券に当たる「切手札」を発行し、男女別で御所のどの門から入るかを決めていたと判明。続く桃園天皇の即位式でも切手札を発行、事故防止のためか「男百人、女弐(二)百人」と制限し、老人や足が弱い人などの観覧を禁じた事実も分かった。‥‥森田講師は「民衆にとってごく身近で楽しみな行事だった。江戸時代になって急に公開したのでなく、中世以来の伝統ではないか」と語る。(引用終わり)
このほか、『京都町触集成』によると朝廷行事に庶民参加が伝達された例として、元禄年間の元日の内侍所参詣、延享年間の節分参賀、弘化年間には禁裏で能狂言が開催された折、札を所持すれば観劇できる旨も伝達された例があり、庶民が御所へ伺候することはやぶさかではなかったということである。
一方、大嘗会は公開されなかった。桃園天皇の大嘗会では寺院の鐘撞は自粛・禁止され、ただ火事の場合のみ鐘を撞くことが許されていた。又、後桃園天皇の大嘗会では、いつもどおりの火の始末の注意のほか11月18日から23日まで四条芝居と御所近辺の社寺境内の芝居の休演が要請されている。又、桜町天皇譲位桃園天皇受禅の当日においては煮焚きを禁止し前日までに食事の準備をするように指示され、当日火を使う商売は休むように命じられていた。森田は皮肉に言い方になるが、庶民は日常生活を規制する皇室行事を等閑視できようはずがないと述べている。
そうすると女系論者高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」(『週刊ポスト』37巻43号、2005年10月21日号 47~48頁』)などというのはやはり全く誤った歴史認識だということである。
平興胤の『御即位式見聞私記』は庶民にも読まれていた。木版墨刷りの即位式図などは庶民も入手できたらしい。即位式には大坂から出かけてきた者がいたし畿内一円から参集していたらしい。大坂の商家では結婚前の娘を公家宅で行儀見習のため奉公させる習慣があったことを森田が記している。即位式などの京都の情報は各種のルートであっという間に各地に広まったとみてよいだろう。
「御所千度参り」という天明年間の事件については藤田覚の著書で知ったが、これは京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをしたというもの。「天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。‥‥‥この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。‥‥‥これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定」とウィキペディアにある。
だから庶民が天皇の存在を知らなかったなどという、そんなばかなことはない。
川西正彦
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