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2007/06/03

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(1)

今回は本論に入らず前置きだけです。

職業労働義務の倫理

 所謂ウェーバーテーゼ、近代資本主義の精神態度(エートス)は禁欲的プロテスタンティズムに由来するという説ですが、ウェーバー学者の折原浩(元東大・名大教授)のホームページに平易簡潔に説明しているものをみつけました「即興の文化比較シリーズ2006年秋 北米東海岸の旅から――アメリカ建国の歴史と現状」http://www.geocities.jp/hirorihara/hokubeihigashi.htm
 米国史に関する記述は素人っぽく、その結論については疑問にも思いますが、中段以降に、ウェーバー説の説明があります

折原論文からの引用
 
カルヴァン派の宗教信仰から、どのようにして「禁欲」が生まれるのでしょうか。この観点から重要なのは、やはり「二重予定説」(註1)です。‥‥「神は、信徒のなかでも、一握りの少数者だけを、神自身の栄光を顕す道具として選び、来世で永遠の生命に予定し、人類の残余の者は、『滅びの群れ』として打ち捨て、あるいは罪を犯させて、『永遠死滅』に予定している」と説く、峻厳な教理です。(中略)この教理を真摯に受け止めた平信徒個々人は、「この自分は選ばれているのか、それとも捨てられているのか」という疑惑と不安から逃れ、現世で「選びの予兆」として「確証」をえるため、厳格な自己審査と熟慮によって、「神与の使命」を達成していく「生き方」、すなわち「禁欲」を、みずからに強いるよりほかはありませんでした。西洋中世には、十五分ごとに時間を区切って労働する、といった規律ある生活は、修道士が修道院のなかで実践しただけでした
禁欲的プロテスタンティズム」では、いまや平信徒が、「神与の使命」としての現世の職業において、そういう「禁欲」を生涯堅持しなければならなくなったのです。かれが、事業家になるとしますと、救いを求める「禁欲」が、規律ある計画的、組織的な事業経営に結びつけられ、そういう動機のない同業者との競争に打ち勝つにちがいありません。その「成功」は、翻って「神の祝福のしるし」と感得され、「神から託された経営」をいよいよ拡張していく動因として作用するでしょう。

 

  宗教に由来する職業労働へのコミットメントを「神与の使命」とする思想が近代資本主義の行動様式の原型とする見解です。経済史家などでウェーバーテーゼに批判的な見解がありますが、私の関心は経済史でなく法制史なのでウェーバーテーゼの検証はやりませんが、梅津純一聖学院大教授(『近代経済人の宗教的起源』みすず書房1989)がリチャード・バクスターを引用して説明しているように、ピューリタンが怠惰に打ち勝ち職業労働義務を欲したのみならず、合法的な営利追求を勧告し、「神のために富裕になること」も義務としたことは明らかな事柄であり、「市民的経営資本主義」-権力に頼ることのない自己の創意に基づく合理的合法的な営利への個人的機動力がピューリタニズムに由来することは疑う余地がない。

 ウェーバーの見解、神の栄光を増すためだけの人生論はこうです。「選ばれたキリスト者が生存しているのは、それぞれの持ち場にあって神の誡めを実行し、それによって現世において神の栄光を増すためであり--しかも、ただそれためだけなのだ。ところで神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会的仕事である。(中略)カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的労働は、ひたすら『神の栄光を増すため』のものだ。だから、現世で人々全体の生活のため役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる。‥‥『隣人愛』は--被造物ではなく神の栄光への奉仕でなければならないから--何よりもまず自然法によってあたえられた職業という任務のうちに現れる‥‥」
 私もこの思想を受け容れます。ひたすら神の栄光に奉仕するだけの人生が正しいと思います。人生の目的はそれだけでいいんですよ。職業労働義務もそれ自体が目的であって、自己や家族の利得や打算のためでは決してありません。だから家族を犠牲にして働くのは当然のことであって、ワークライフバランスなんて最も憎むべきものです。
 

  そこで著名な説教者がどう言っているのかみていきます。改革派正統主義で二重予定論者のウィリアム・パーキンズ(1558-1602)はこう言います。「時計のようなこの偉大な世界は、すべての者に自己の運動と天職を付与している。その天職に彼の職責と役割がある」「われわれの職業生活の職業の実践において人間に奉仕し、神に奉仕することです。人間をお造りになった神は‥‥人間が神の道具となって相互の益のために奉仕することを喜ばれます。この理由のために神は行政官、牧師およびほとんど無数の多様な職業を定めております」(梅津前掲書159頁)
 

  内乱期には、議会派従軍牧師として、共和制期にはキダーミンスターの教区牧師として、王政復古期には「非国教徒」として生きたリチャード・バクスター(1615-91)の『キリスト教指針』の一部を引きます。
「質問五 労働はどのような理由で、可能なすべての者にとって必要なのですか
答、一、神は厳格にそれをすべての者に命令しております‥‥テサロニケⅡ3:10~12
二、自然法にしたがえば、活動〔労働〕はわれわれすべての能力の目的です。能力は行使しなければ空しいものです‥‥。
三、神がわれわれと、われわれの能力を維持したもう理由は、活動のためです。労働は自然の目的であるとともに道徳的目的なのです‥‥。
四、神は活動によってこそ奉仕され、尊敬されるのであり、単に善き業を行うことができるということではありません‥‥。
五、公共の福祉すなわち多数者の利益は、自己自身の利益以上に評価しなければなりません。それゆえすべての者は自分のやることを他人にむかってとりわけ教会とコモンウェルスのために行う義務があります‥‥社会的被造物である人間は、自分が属する社会のために労働しなければなりません‥‥。
六、七、八、九(略)
十、最後に労働は、われわれが日々の糧を得るために神が定めた手段なのです。
(梅津前掲書144頁以下)
 労働は神の命令に応え、神に与えられた心身の能力を発揮し、社会的被造物に相応しく互いに助け合う宗教的意義と道徳的意義を有します。日々の糧としての収入を得ることは最後の目的にすぎません。従って労働は経済的収入と打算のためのものでは決してないということです。労働はそれ自体価値があります。神の命令に従い非難の余地のなく労働義務を果たすことに大きな精神的利益がある。だから低賃金でも長時間でも喜んで働くことは個人の幸福追求の権利として尊重されるべきこと事柄であります。
 精神的利益より収入を優先することを否定されます。しかしバクスターは「合法的な営利追求」は神の与えた機会として積極的に追求することを勧めます。 
「箴言第二十三章四節に『富裕になるために働いてはならない』といわれますが、その意味は富をあなたの主要な目的にしてはならないということです。われわれの肉的な目的が究極的なものとして意図されたり追求されてはなりません。しかし高次の事柄に従属させればそれは可能です‥‥肉欲や罪のためではなく神のために富裕になるように労働することは可能なのです」さらに生産者が競争して有利な取引を実現することは「隣人のより大きな必要に対して供給を推し進める」こととして積極的に是認され、合理的経営による合法的な大きな利得は、誠実な職業労働の適正な果実として積極的に評価された。(梅津前掲書171頁)
 

このように、宗教的に熱心であることが経済的収益追求の動機づけになっている。宗教的熱意が希薄になっても、行動様式としては続いていく。近代資本主義の行動様式との親和性については明白だと思う。

ウォルマートの企業文化とポストモダニズムマネージメント

 いうまでもないが人間は経済的利得と打算が全てであるわけでは決してないのである。正しい人は、法と正義、宗教的価値、道徳的価値、私益・特殊利益より公益、自己や身内の利得より優先するのであって、そのような精神的態度が基本である。ニンジンをぶら下げないと人は働かないなどと思っている人は大きな間違いである。好ましいエートスは現代企業にも当然見いだすことができる、適切な例としてウォルマートの企業文化を取り上げたい。
  ウォルマートの企業文化が卓越したものであることはこれまでにも陳べましたが、サム・ウォルトンの10箇条というのがあります。その第一がコミットメント。仕事に励む、献身的に働く、、熱病のように仕事に専心する、粉骨砕身働く、仕事を愛して最善を尽くす、やり遂げなければならない責任感というように訳されますが、従業員のコミットメントが強いほど高業績を達成できるというのは基本でしょう。
 別にこれはカルロス・ゴーンが流行らせた言葉ではありません。コミットメント型の従業員関係、これは基本的には組合不在企業の文化です。組合セクターは、労働組合によってジョブコントロールにより仕事を制限するので、最低限の仕事しかしない。コミットメントが引き出せないです。しかし献身的に働く価値が正しいんですよ。一般法(コモンロー)は営業と勤勉さ誠実さを奨励するのです。それが法であるのに労働組合や不合理な労働者保護規制をする政府は法に反することをやっている極悪ですよ。この点ウォルマートのポリシー、企業文化は正しいし、最強である理由のひとつです。
 ウォルマートのバイヤーの交渉はハードでタフ、サプライヤーへの要求が厳しいと言われていわれますが、それは「お客に成り代わって仕入れる」顧客第一主義による。仕入れ値そのままに決まった荒利を乗せて売るだけという(仕入れ値の下げ分はポケットに入れず、全て売価に還元する-註2)ポリシーだから、自分たちが儲けるために厳しい要求を突きつけるのではない。バイヤーが頑張れば頑張るほど売価に反映し顧客の利益になることになっているのである。それはウォルマートの顧客だけの利益だけではない。よその店で買う人も、ウォルマートとの競争で売価を下げざるをえないので、消費者全体の利益になる。これほど公益に著しく貢献している企業があるのだろうか。全てはお客のためなのだ。これは「隣人愛実践」そのもののように思える。
 しかも、ウォルマートの取引は公明正大で合理的である。サプライヤーに対し、殆ど丸裸に近い生のデータをインターネットベースで提供している。情報をさらけだしているからカードを出し合うネゴシエーションはない。サプライヤーもスコアカードでリテーラーの販売努力を監視しているので、腹芸やドンブリ勘定の取引は行われない。ウォルマートのバイヤーはサプライヤーから一切供応接待を受けないし、棚もいじらせない(商品陳列は全て自前の従業員で対応する)。これは私情を交えないハードでタフな交渉を行うためであるが(註3)、接待する金があるならお客のために安くしろという意味でもあり、顧客第一主義にも繋がっている。「隣人愛実践」のために合理的な取引に徹していると解釈できる。
 ウォルマートには多くの従業員表彰があるが、一切金銭はでない。ただ心のこもった感謝の言葉を贈るだけである。ニンジンをぶらさげるような下品なことはしないのである。ウォルマートはモチベーションを高めることがうまいといわれているが、それは金品で釣るものでは決してないのである。
 流通専門家の鈴木敏仁氏はウォルマートは中央集権型チェーンストアオペレーションは持っていないとはっきり言っている。本部と店舗の力関係は拮抗しており徹底した個別店舗主義なのである。時給ワーカーのデパートメントマネージャーの裁量・創意工夫の余地が大きい。バイヤーは週に一度は現場に出るように義務づけられているが店長ではなくデパートメントマネージャーから情報を収集するよう言われている。実際に品揃えをして顧客と接しているからだ。カテゴリーマネージャーはデパートメントマネージャーのフィードバックをリストアップして利用するなどボトムアップ方式が主体となるという(註4)。
 デパートメントマネージャーは推定平均年収2万2千~3千ドル程度に過ぎないが、ウォルマートでは時給ワーカーにも数値を公開して商人として売場管理を行わせているのだ。幹部が頻繁に現場を訪問するだけでなく、オープンドアーポリシーにより幹部に直接意見を交換したり提案できる風通しの良い環境である。それだけにやりがいのある職場環境なのだ。
 国際食品商業労組(UFCW)や左翼はウォルマートの賃金は不当に安いと攻撃しているがそれは、レーバーコストの高い組織化されたスーパーマーケットとの比較であって、、ウォルマートは市場平均であると反論している。零細小売業従業員はもっと安く、ウォルマートの賃金が不当に安いということはない。
 しかし、仮に安いとしても、ウォルマートの時給ワーカーはチームワーク主義で良く働いている。だから初めに言ったように人間はゼニと打算だけで動くものではないのである。あり得ないことだが、もしウォルマートの従業員が組織化されストを打てば、時給3ドル賃上げすることができるかもしれない。しかし、従業員はそれを求めない。そうなれば卓越した企業文化は破壊され、築いてきたものを失うことになる。労働組合のジョブコントロールと組合不在企業のコミットメント型文化は正反対の文化であるから。レーバーコストの上昇で競合他社に出し抜かれ三流企業に転落することは容易に想像できることである。もし読者で賃上げよりも良い企業文化を望むことを理解できない人は余程欲の深い、根性の腐った人だと言わなければならない。

川西正彦
続く

(註1)この際言っておきますが、私は「二重予定説」を恐ろしい教説とする見方をとりません。人間は倫理的に致命的に腐敗しています。利害打算と処世術が全てみたいな根性の腐りきった人々しかいないように思えます。脅迫・共謀・悪意・敵意に満ちており、人の悪事や共謀や我が儘を尊重することが処世術だと思っている。具体的なことはいずれ書きます。見ゆる聖徒なんていませんよ。少なくとも面識の範囲で倫理的に尊敬できる人に遭遇することはないし、今後もないでしょう。大多数の人間は救いようがなく腐敗しており『滅びの群れ』として打ち捨られて『永遠死滅』に予定されていて当然でしょう。
 それはお前のルサンチマンの表明である。それならお前は何なんだと問われるでしょう。やはり腐ってますよ。神与の使命・善行の努力に欠いてます情けないです。毎日隣人愛実践・善行・職責を十分果たしてないことで悩んでます。甘い考えかも知れません。自分は滅びに定められているかもしれないと思いつつも、心的傾向性としては全く救いようがないわけではないとも思ってます。心的傾向性で救われるんですかと問われるかもしれませんが、大覚醒(信仰復興運動)の旗手で通俗的理解では厳格なカルヴィニストとされるジョナサン・エドワーズがそのようなことを述べてますよ。神学者の森本あんり『ジョナサン・エドワーズ研究』創文社1995を参照して下さい。バーチャルリアリテイー(構造的存在)について簡単な説明があります。PDFhttp://subsite.icu.ac.jp/people/morimoto/Texts/Sobun95.pdf。要するに神与の使命をなす心的傾向性はあっても客観的条件によって傾向性が発現しない状況の人にも思いやりのある神学です。もちろん機会があれば心的傾向性は発現しなければならないわけですから本物か偽物か見分けることはできます。
(註2)鈴木敏仁『誰も書かなかったウォルマートの流通革命』商業界2003年 96頁
(註3)鈴木前掲書110頁
(註4)鈴木前掲書131頁

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