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2007年7月の11件の記事

2007/07/31

ロックナー判決マンセ-論(2)

短文でもできるだけ毎日更新する方針にします。

中谷実はメンデルソンに倣って19世紀末期から1930年代にかけて実体的デュープロセス「契約の自由」理論を支持し経済的規制立法による積極国家を否定した裁判官を「レッセフェール・アクティビィスト」と分類している(註1)。フィールド、ブラッドレー、ハーラン、フラー、ブールア、E.ホワイト、ペッカム、ヴァンデヴァンター、マクレイノルズ、サザランド、バトラー、サンフォードの名が挙げられています。なおハーラン〔ヘイズ任命の初代〕はロックナー判決で反対意見に回っていますが、「契約の自由」のもうひとつの重要判例アデア判決ADAIR v. U S, 208 U.S. 161 (1908) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=208&invol=161 の判決文起草者であります。これは雇用条件として労働組合に加入しないことを要求するいわゆる黄犬契約を禁止する法律に反し、労働組合に加入したことを理由として解雇を行った使用者を処罰した下級審の判決を破棄したもので、ハーラン法廷意見は「労働者が適当と考える条件で労働の買手が買う条件を定める権利と異ならない。雇用者と被用者は平等な権利を有しており、この平等性を妨害する立法は、契約の自由に関する専断的な干渉になる」(註2)とした。今日、全国労使関係法により不当労働行為とされている組合に加入する被用者を解雇する雇用条件は「契約の自由」によって憲法上の権利だった。又、ハーランは、価格統制を違憲とする判決を下しており、「レッセフェール・アクティビィスト」に分類されるのである。
フィールド判事は先に述べたように「契約の自由」に関して言及している「極保守派」重量級裁判官です。 時代的にいうと、最高裁で経済的保守主義が強かったのは1890年代のフラーコート、フラー、ブールア、ぺッカムという「極保守派」の裁判官が支配した時代と、1920年代のタフト・コートです。マクレイノルズはウィルソン任命で、反独占政策の実績により最高裁入りしたのですが、大統領の期待に反し保守派のリーダーとなり「最も反動的な裁判官」といわれてたことはすでに述べました。ヴァンデヴァンター、マクレイノルズ、サザランド、バトラーは頑固な4人組といわれ『赤い30年代』においても「契約の自由」などを擁護し米国社会の左傾化の抵抗勢力となりました。
(註1)中谷実『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』法律文化社1987
(註2)石田尚『実体的適法手続』信山社出版 1988
 続く

2007/07/30

参院選の感想

  メモってないが今回は各局の出口調査がおおよそ当たっていたのでは。投票率が前回より高めというニュースでかなりやばそうだと思った。でも投票したのは比例区で熊代昭彦(国民新党)でした。別に何の縁もないですが、小泉に苛められて、岡山市長選でも負けたことに同情しての一票です。東京選挙区は迷わず、東条由布子に入れました。羽柴秀吉よりも得票が低かった黒川紀章には少し同情します。
 安倍首相は「美しい国」というスローガンはやめたほうがいいんじゃないか。汚くてもいいんだ儲かれば。

2007/07/29

ロックナー判決マンセー論(1)

「契約の自由」の指導的判例であるロックナー対ニューヨーク判決マンセー論の長期シリーズをやります。LOCHNER v. PEOPLE OF STATE OF NEW YORK, 198 U.S. 45 (1905) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=198&invol=45
 1897年ニューヨーク州労働法は、パン、ビスケット、ケーキ等の製造作業場の清潔さおよび健康的な作業環境を維持するため、排水設備等を規制すると同時に、被用者の労働時間を週60時間、一日10時間に規制した。上告人ロックナーは違法に1週間60時間を超えて就労させたため、郡裁判所において軽罪で有罪となり、州地裁、州最高裁もこれを維持したが、合衆国最高裁は当該州法の労働時間規制が「自己のビジネスに関し契約する一般的権利は、合衆国憲法第14修正によって個々人に保護されている自由の一部である」という実体的デュープロセスにより「契約の自由」の違憲的な侵害であるとして5対4の僅差で無効とした判決(「極保守派」の ペッカム判事が法廷意見を記し、フラー主席判事、ブールア、ブラウン、マッケナ各判事が同調した。ハーラン判事が反対意見を記し、E.ホワイト、デイ各判事が加わった。ホームズ判事が単独で反対意見を記した。1917年に黙示的判例変更、1937年判例変更)であるが、その評判の悪さ(それは財産権と契約の自由の強固な保障によるレッセフェール体制に対する左翼の攻撃である)にもかかわらず、これこそ称賛すべき判例であると確信します。

川西正彦

 今日ではホームズ判事の反対意見「第14修正はハーバード・スペンサーの『社会静態学』を制定したものではない、憲法は特定の経済理論を具体化するように意図されていない」というアフォリズムを支持する法律家が多いのです。しかしロックナー判決はアルゲイヤー対ルイジアナ判決の先例に基づくのであってスペンサーの思想と直接的には関係ない。アフォリズムによりホームズは名裁判官とされていますが、私はそう思いません。もともと労働者の闘争に好意的で、公序良俗の破壊の元兇となった憎むべき敵であると考えます。世の中を悪くした元兇がホームズだ。こいつさえいなければ世界はもっとまともだったと考えます。ノリス・ラガーディア法を推進したフランクファーターとともにイデオロギー上の敵であり私がもっとも嫌悪する法律家です。
 
 ロックナー判決は指導的判例となリ、1937年の憲法革命(ウエストコーストホテル対パリッシュ判決以後最高裁は「契約の自由」について厳格な司法審査をやらなくなった)とよばれる決定的な判例変更にいたるまで、労働法にとどまらず、多くの社会経済規制立法について、純粋な経済規制立法でも不合理に契約の自由を侵害し、デュープロセスに反するものとして違憲無効とする判断を下されることとなった。

  実体的デュープロセス

ここで実体的デュープロセスとは何か簡単に述べます。

合衆国憲法修正14条の 「いかなる州も、適正な(正当な)法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪われることはない」を適正手続条項、デュープロセス条項といいます。修正5条にもあります。英語が読めない私が英米法をとやかくいうのもなんですが、米国憲法史上、実体的デュープロセスの発展は特筆すべき重要な事柄ですので、まず簡単に説明します。

 合衆国憲法修正第5条
「何人も、大陪審の告発または起訴によるのでなければ、死刑または自由刑を科せられる犯罪の責を負わされることはない。ただし、陸海軍または戦時あるいは公共の危険に際し、現役の民兵の問に起こった事件については、この限りでない。何人も同一の犯罪について、再度生命身体の危険に臨まされることはない。また何人も刑事事件において、自己に不利な供述を強制されない。また正当な法の手続きによらないで、生命、自由または財産を奪われることはない。また正当な賠償なしに、私有財産を公共の用途のために徴収されることはない」
 
合衆国憲法修正14条(1864年確定)第1節
「合衆国において出生し、またはこれに帰化し、その管轄権に服するすべての者は、合衆国およびその居住する州の市民である。いかなる州も合衆国市民の特権または免除を制限する法律を制定あるいは施行してはならない。また正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またその管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない。」(在日米国大使館サイト和訳)

 修正14条デュープロセス条項の判例理論は、それは先ず手続きの保障であった。それも告知・弁護の機会という最小限の手続きだった。ところがその間に実体的デュープロセスが発展します。デュー・プロセス・オブ・ロ-、適正な法の過程とは法執行の手続きだけ関する概念ではなく、法の内容にも適正さを要求する概念と主張された。つまり生命・自由・財産を「適正な手続きによらずして」だけでなく「適正な法によらずして」剥奪してはならないとするのである。
 この理論により、個人から生命・自由・財産を奪うことになる実体法の内容の審査、政府の実体的行為が司法審査の対象とされ、裁判所が成文憲法中の特定の明文に依拠せずとも裁判所が基本的性質を有するとする価値を憲法中に織り込み憲法規範として宣言し、それを侵害する制定法は叩き潰されることになっていった

「契約の自由」という実体的デュープロセスを根拠に州法を無効にした最初の判例は アルゲイヤー対ルイジアナ判決ALLGEYER v. STATE OF LOUISIANA, 165 U.S. 578 (1897)   http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=165&invol=578であった。ルイジアナ州法は、州法に従って州内で事業を許可されていない海上保険会社との保険契約を禁じていた。ぺッカム判事による法廷意見は、州はその管轄内での州政策に反する契約や業務を禁止できても管轄外で締結・実施されるような本件のような契約を禁止できないとした。
  その際「修正第14条にいう自由とはただ‥‥単なる身体の物理的拘束から自由であることを意味するだけでなく、市民が彼のすべての能力の享受において自由である権利をも含むのである。すなわち、彼の才能をすべての合法的方法によって自由に使用すること、彼の欲する所に居住し、勤労すること、合法的である限りどんな職業によってでも彼の生計を立てうること、およびどんな生活でもできまたどんな職業にでも従事することができ、そのために適当、必要かつ不可欠なすべての契約をなすこと、を含むのである」と述べている。

 ロックナー判決はこの先例に拠っているのです。更に遡っていくと、「契約の自由」の法理は1873年の屠殺場事件判決における、フィールド判事とブラッドレイ判事の反対意見と、その10年後に判決が下された、食肉業組合対クレセント市商業組合事件における、フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見にその考え方が示されている。
  
BUTCHERS' UNION CO. v. CRESCENT CITY CO., 111 U.S. 746 (1884) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=111&invol=746次のフィールド判事の補足意見は重要である。フィールド判事は闘争的で教条的とも評されるが傑出した名裁判官であり、明晰な文章と不屈の意志で正しいと考える法原則をたゆまず宣言した。
「かの偉大なる文書[独立宣言]において宣言されたこれらの不可譲の権利のうちには、人間がその幸福を追求する権利がある。そしてそれは‥‥平等な他人の権利と矛盾しない方法でなら、いかなる合法的な業務または職業にも従事しうる権利を意味するのである‥‥同じ年齢、性、条件のすべての人々に適用されるものを除き、いかなる障害もなしに職業に従事する権利は、合衆国の市民の顕著な特権であり、彼等が生得の権利と主張する自由の本質的な一要素である。[アダム・スミスは国富論において]『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』と述べているが、それはまことにもっともなことである」
つまり契約の自由は独立宣言に示される不可譲の権利(自然権)個人の幸福追求の権利の一つだと言っている。自らの労働のうちに有する財産という考え方はジョン・ロックも言ってますが、財産という概念に自身が所有する身体を使って雇用される能力も含む概念になっていることに注意したい。

 ブラッドレイ判事の補足意見も同様であって「人生において通常の職業に就く権利は、不可譲の権利である。それは独立宣言における『幸福追求』の句の下で形成されたものである」とする。

 フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見は少数意見だったが、批判されることはなかったのである。 

続く

 
引用参考文献
別冊ジュリスト№139 32巻4号『英米判例百選』第三版 平成8年LOCHNER v.  NEW YORK
石田尚『実体的適法手続』信山社出版 1988
田中英夫『デュー プロセス 』東京大学出版 1987
町井和朗『権利章典とデュープロセス』学陽書房1995
ウイリアム・H・レーンクィスト著 根本猛訳 『アメリカ合衆国裁判所 過去と現在』心交社1992
スティーブン・フェルドマン著猪股弘貴訳『アメリカ法思想史』信山社出版2005
ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』
八千代出版1994

正常への復帰を渇望する-マンスフィールド卿マンセー論

 自分の人生は崖っぷちに追い詰められています。ワールドカップ日-豪戦のロスタイムで大黒投入というほど致命的な状況の一歩手前のような雰囲気だ。心理的にかなりまいってます。しかしまだ松岡前農水大臣みたいに首を吊る程ではないです。365日無休宣言はどうしたといわれるかも知れませんが、その時はその気だったんですが、4月に診察日を間違えてしまい、2週間ほど薬をきらしたのが良くなかったのか大型連休の頃から急に末梢神経障害と手の痺れによる握力低下、無痛痙攣の症状が出たんで、これは神罰で立ち直れないかと弱気になりましたが、回復しましたよ。医者もヘモグロビンは正常で特に問題なしとのことでその点では安心しました。
 お前は狂暴な人間だとか人間性が悪いとか職場でいろいろ罵られてきましたが申し訳ないがまだ死にません。というか死ねません。自分は松岡前大臣よりタフなつもり。ただこれから相当頑張らなければならないが、キーボードが打てる限り頑張りたい。

川西正彦

 私の人生目標は営業と勤勉さと誠実労働義務を奨励する公序良俗の完全復権。そのためにコモン・ロー営業制限の法理における「営業=取引の自由」のコロラリーである「労働の自由」の擁護、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)理論の継受(労働三法廃止、憲法28条廃止、労働組合の共謀罪、争議差止命令による駆逐・撲滅、反団結権Right to Work〔団体行動をしない権利、労働組合にかかわらず雇用される権利〕の確立、プロレーバー法学の断罪・撲滅、自由な労働を制限・規制・統制しようとする他者からの害意、実力行使、脅迫、威嚇にさらされることのない自由を確立し、個人の幸福追求〔打算や経済的利害のことではない-宗教的倫理的に非難の余地のない正しい生活、倫理的に実直な生き方を全うすることが幸福追求の正しい在り方〕を揺るぎないものする自由社会の構築-団結自体が違法となる在り方が最善)を真正自由主義社会の構築を目指します。そのために私は素人ですがアンチユニオン、経済的自由主義の立場で当ブログで理論的な研究と現場での実践をやります。
 つまり労働基準法など個人の雇用契約、職業に従事する自由にパターナリズム的に政府が介入してくる制定法の、反倫理的、反道徳的、不正義、不当性、とりわけ、時間規制、割増賃金に対する明白な憎しみと敵意の表明を行います。フェミニズムのワークライフバランス論への明白な憎しみと敵意の表明。そしてこの世で最も悪質なものの一つプロレーバー法学〔労働組合に他者の自由を侵害する実力行使や害意・脅迫権を容認とする〕の労働基本権とりわけ組織強制や団結強制、悪事を威嚇、威圧、暴力、強要を肯定する制度、倫理的道義的判断による自己決定を否定する不正義、不当性、労働組合及びそれと結託する監督者による職務統制(非能率的業務遂行、事実上の怠業指令、黙示的誠実労働義務を否定するような、非献身的反倫理的な働き方の強要)の、不正義、反倫理的、反道徳的、反社会的、不当性を訴える、労働組合によるジョブコントロール、反コミットメント型の企業文化の明白な敵意の表明をやります。
 現代において、我が国をはじめとして、政府の経済社会規制立法を是認する多くの国家においては、プリュラリズム的民主主義による議会制定法尊重という名のもとに本来ならもっと尊重されてしかるべき個人の「営業=取引の自由」「労働の自由」の侵害を多数者の意思として、あるいは階級的、党派的、労働団体の利益と利害調整により当然のものとしているが、これは最悪の社会だ。それを許容している多くの国家群は悪を許容する堕落したものだ。私は人定法主義、法実証主義に反対です。民主政体・普通選挙にも懐疑的ですから。ベンサム主義、最大多数の最大幸福にも懐疑的です。根性の腐った滅びの群となった多数者の利益を実現することほど醜い社会はない。私にとって幸福とは宗教的倫理的に正しい行為をなすことです。ピューリタンにとってのカンフォータブルな人生と同じですよ。職業人としてはレイバーコストをかけないで誠実労働義務をはたすことが幸福ということになりますから、時間規制は幸福を否定する憎むべき敵です。
 政府や労働組合が個人の職業に従事する自由を侵害し、あつかましくも他人の働き方や自由を否定して深く個人の自己決定の領域に干渉して当然という、その人が有用な人物かどうかという評価、社会的地位と職業上の地位・威信はほぼイコールといえる。まさに人間にとって幸福追求のために核心的に重要な価値を否定した社会は自由な社会ではない。8時間労働じゃないと気が済まないとほざいている奴らは、北朝鮮に拉致されてしまえばいいんですよ。北朝鮮の憲法で8時間労働が規定されてますから、そっちの方が天国じゃないですか。現代社会は決して自由社会になったのではありません。
 労働環境において政府や労働組合、フェミニストのあつかましい脅迫や統制や干渉で敵対的な職場環境になっております。これらのあつかましい統制や干渉をなくし、現状を突破したいと思います。
 労働基準監督署を潰そうといった経営者の意見が正論ですよ。ホワイトカラーエグゼンプションに私は全面的に賛成ですが、それは漸進的な改革で、それだけでは不徹底です。労働基準法という厚かましい枠組みがあって、その適用除外ですから、労働の自由を回復するためには、労働基準法をスクラップしないとダメです。 
 平たくいえばいえばこういうことです。古典的法律百科事典のホールズべリが『イギリスの法』で「営業の自由」をこう説明してます。
「ある者が欲するときに欲するところでなんらかの適法的な営業または職業を営む権限を有するというのがコモン・ローの一般原則であって、国家の利益にとって有害である、個人の行動の自由のすべての制限に反対することは公益となるので、コモン・ローは、契約の自由に対する干渉の危険を冒してでさえも、営業に対するなんらかの干渉を猜疑的につねに注視してきたのである。その原則は『営業』ということばの通常の意味における営業の制限に限られない」(註1)
 コモン・ロ-においては「営業=取引の自由」のコロラリーとして「労働の自由」があり労働力取引の規制は法に反するものであった。労働三法その他労働者保護立法等の悪質な人定法はこの原則に反するものであるから正常な社会に復帰するためには、この人定法とそれを擁護するすべての勢力を叩き潰さなければならないということです。
 もちろん、アメリカ合衆国でも当然ニューディール立法批判がある。
 例えばリチャード・A・エプステインが1983年「労働関係のコモン・ロー:ニューディール立法批判」という論文で、1932年ノリス・ラガーディア法、1935年ワグナー法を柱とする労働法の構造を徹底的に批判し、「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」という個人の自由から「ニューディール立法は多くの点で誤りであり、可能ならばこれをスクラップして不法行為法と契約法に依拠した賢明なコモン・ロー制度にとって代わられるべきである。不法行為法の諸原則は暴力・脅迫・そして契約違反の誘致から個人を保護する。契約法の諸原則は、諸個人がその権原の社会的枠組みのなかで、自ら望む人と自ら望むものを取引することを可能とする」(註2)としている。
 大筋で同意するが、私はリバータリアンでも功利主義者でもなく、ずっと秩序指向の考えので、エプステインの議論に満足できません。
 それは我が国のプロレーバー労働法学の悪質さを知っているからである。プロレーバーは労働基本権に組織労働者の実力行使や敵対労働者への事実上の脅迫・人身拘束権も付与して当然だという、つまり労働組合に政府の警察機能と同様、権力を与え、ピケラインを突破しようとする者は、捕まえて人身を拘束していいんだ。スト破りは襲撃してファックされるべきものなんだ。ストライキはギャンブルではなく実力行使を認めて防衛されなければならないとするわけですよ。労働者は階級の下の集合的人格でなければならず、個人の自己決定は認めないということを言うわけです。
 そうすると脅迫の論理がすべてに勝ることになり、労働組合が脅迫によって仕事を制限し、労働者の行動とジョブをコントロールをしたうえ、組合費も収奪する。倫理観と誠実な勤勉さを喪失した非常に悪い企業文化になってしまうんです。
 たとえ合衆国で容認されるのは平和的ピケッティングだけだとしても、とにかく労働組合というのは敵対者を襲撃したいんですよ。ファックしたいんですよ。脅迫と威嚇で労働過程と労働者を支配するという文化が基本にありますから、たんにニューディール立法を潰せばすべてうまくいくというほど甘いもんじゃないと思います。
 だからコモン・ローへの回帰というなら団結自体が違法となる、例えばマンスフィールド卿の1783年エックレス判決の線まで戻したい。そうでないと私は満足できません。
 私が嫌悪し敵視するプロレーバー労働法学者ではあるが孫引きで片岡曻から引用する。
「18世紀における団結禁止諸法とコモン・ローの関係は明確でないが、いくらかの判例によってみるなら、コモン・ローは、一般的な団結禁止法に先んじて、かつ制定法とは独立に‥‥取引自由(freedom of to trade)の原則を労働力取引に対して適用することによって、‥‥『労働の自由』を法的原理に高めつつあったといえることができよう。‥‥そこには旧きものの混在が認め得られはするが、上記の諸判決が団結禁止法のなかに摂取せられていること」に注目すべきである(註3)」
 イギリスでコモンロー共謀法理が本格的に展開するのは1824-25年に制定法で団結禁止法が廃止された後のことであるが、上記の見解は大筋で異論はない。いくらかの判例とは、4月22日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_89a0_1.htmlで取り上げた、ジャ-ニィメン・テイラーズ事件、エックレス事件、ハモンド事件であるが、特に、法曹の大御所であったマンスフィールド卿(王座裁判所King,s Bench主席裁判官、近代において最も偉大な法曹の一人)の1783年のエックレス事件の意見はよく引用される。
「起訴状に共謀を実現する手段を記述する必要はない。何故ならば犯罪は害悪を何らかの手段をもって実現する目的のもとに、共謀することにあるからである。違法な結合が犯罪の眼目である。商品を所有する者は個人として自己の欲する価格でそれを販売し得る。しかし彼等が一定価格以下では販売しないことを共謀し、合意するならば、それはコンスピラシーである。同様にあらゆる人間は自己の好む場所で労働できる。しかし、一定価格以下では労働しないとして団結することは、起訴さるべき犯罪である」(註4)
 このように、裁判所は、営業の制限を内容とする複数人の結合はそれ自体コモンローのpublic policy(公共政策、公序)に反し、共謀に該リ、犯罪として起訴されるという法理を形成していった。労働運動を弾圧したマンスフィールド卿の判決は満足できる内容である。私はその線まで戻すことが、正常への復帰であると考える。
 19世紀において労働組合活動を違法とした判例は、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)の概念構成を利用し、労働者の団結というものが、コンスピラシーの要件に該当するものとして把握された。「営業=取引の自由」のコロラリーである「労働の自由」を媒介として労働力取引の規制に適用され、コンスピラシーの法理は制定法にかかわりなく、純粋にコモン・ローに基礎をおく法理として展開していった(註5)。
 もっとも18世紀のコモン・ローでは「営業の自由」がレッセフェール体制を意味するものでは全くなかった。治安判事による賃金裁定制度などが許容されていた(治安判事による賃金統制が廃止されたのは19世紀になってから)。
 松林和夫(註6)によると営業制限について全般的考察を試みた指導的判例ミッチェル対レイノルズ事件判決(1721年)でパーカー裁判官は次のように述べた。
「非任意的制限(当事者の合意に基づかないもの)に関して、国王の権利附与および特許状ならびに定款による制限が一般的に無効であるという第一の理由は、法が営業および誠実な勤勉さに与えている奨励に由来し、臣民の自由に反するからである。もう一つはマグナ・カルタに由来し‥‥[その第29条は]これまで常に営業の自由にまで拡大されるべきものと解釈されていた」「任意的制限の問題に関しての理由として、何時により述べられている場合には、それらは営業と勤勉に関する法の好意と恩恵の一般的例としてのみ解釈されるべきである。」とされ、裁判所は「営業の自由」一般を保障するのではなく、「営業および勤勉の奨励」というコモン・ロー裁判所の具体的判断に依存していたとする。
 例えば18世紀の制定法として、産業別の団結禁止法、主従法が、団結禁止、労務放棄処罰条項とともに、就業時間などの労働条件法定、裁定条項、賃金支払保護条項などをともなっているが、制定法の労働者保護条項のような「営業の自由」の非任意的制限は、王国による権利付与、特許状とは反対に、マニファクチュア資本の保護育成を目的としているので、前期的産業規制法の適用除外と平行して展開されたとする。
 要するに、18世紀の主従法おける洋服師(仕立て職人)の1日13時間とか12時間の法定労働時間というものは、1938年米国の公正労働基準法の週40時間以上割増賃金という悪法とは違って、コモン・ローの営業及び誠意のある勤労を奨励する公共政策には反しないと思えるので許容することにやぶさかでない。
 そういうと合衆国の1938年公正労働基準法を敵視し、労働者保護立法に敵意丸出しであるにもかかわらず、英国18世紀の主従法による労働者保護規定を許容しうるというのは理論的に徹底しておらずわかりにくいとの批判があろうかと思う。
 そこで私は、2本立てで論議を進めたいと思う。一つはコモン・ロー回帰論で、これは「英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義」シリーズでやりますが、一方19世紀後半以降の法思想である「契約の自由」に関連して「ロックナー判決マンセー論」シリーズをやりたいと思います。
 コモン・ローの営業制限の法理は古い由来があり17世紀から18世紀に確立したものですが、契約の自由の方は合衆国憲法理論なので、別個のものとして扱います。一本調子にならないようにするためです。要するに、ロックナー判決の復権で公正労働基準法などを潰すというそういう論法もあるわけです。

(註1)堀部政男「イギリス革命と人権」東大社会科学研究所編『基本的人権2』東京大学出版会1968所収
(註2)水町勇一郎『集団の再生―アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 120頁以下
(註3)中西洋「日本における「社会政策」=「労働問題」研究の現地点(4)」『経済学論集』40(4) [1975]
(註4)片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952
(註5)石井宣和「営業の自由」とコンスピラシー高柳信一,藤田勇編『資本主義法の形成と展開. 2 』東京大学出版会1972
(註6)松林和夫「イギリスにおける「団結禁止法」および「主従法」の展開」高柳信一,藤田勇編『資本主義法の形成と展開. 2 』東京大学出版会1972

参考文献
大沼邦博「労働者の団結と「営業の自由」--初期団結禁止法の歴史的性格に関連し近代資本主義の系譜 」関西大学法学論集 38(1) [1988.04]

2007/07/28

押尾学の方が正論じゃないの

 発売中の週刊現代で「押尾学がマクドナルドでキレたセコ~い理由」という記事を読みました。押尾学ブログhttp://ameblo.jp/oshio-manabu/entry-10039336187.htmlによると自分はマックファンでチキンナゲットをマスタードとバーベキューソースの両方をいつも貰って食べていたのに、ある店で、ソースは注文一つに一つまでしか出さない、という規則を楯に断られたという。彼がソースが欲しいならもう一つナゲットを注文してくださいという店長の対応に怒っているのがセコ~いという趣旨の記事ですが、融通のきかないマニュアル接客の方が問題だ。もてる男に対するヤッカミとしか思えない。
 古本やDVDの全集のばら売りを断られた経験がありますがわけがちがうし、コーヒーはブラックで飲もうが砂糖を入れようが料金は同じですから、押尾学ブログの「この程度の事なら顧客ニーズを満たすためのサービスとしてやってくれてもいいんじゃないかな」という言い分の方が正論に思える。
 ただ私は押尾学と違って店長を呼び出すようなことは絶対にできない性格ですね。半年以上前ですが、某病院で血液・尿検査と診察の間に一時間位あるので暇つぶしに外出してファミレスでスクランブルエッグ・トーストのモーニングセットを注文したんですが、そんなに混んでないの30分以上たっても出てこない。催促してやっと出てきたと思ったら、ジャムをパンにつける小型バターナイフしかない。仕方ないから、スクランブルエッグとサラダをバターナイフでしゃくって汚らしく食べました。フォークを出せと注文して又20分待たされたらたまらないから。診察の予定がありますから内心はいらいらしましたが顔色一つ変えずに食べ終えて、レジに向かったら、何故注文票を出さないんだと、店員が怒るんですよ。テーブルを探してもそんなものはじめからないよ。と言ったら店員が2~3人出てきて、5分ぐらい探して、カウンターの内側に注文票があったんですよ。でも顔色一つ変えず、些末なことですから怒ったりはしません。
 15年ぐらい前のことですが、ある床屋に飛び込みで初めて入ったら、あなたは常連じゃないねとか嫌みを言うので、変な雰囲気を感じましたが、ヘアーリキッドを無茶苦茶かけられて、油でべたべたにされました。目にかかりそうになったら、目薬になっていいだろとに敵対的なことを言うので内心は逃げ出したくたりましたが、結局最後まで顔色一つ変えずにつきあいましたよ。一見さんお断りならはじめに言ってくれればいいのに。ただそんなことでは全然怒りません。そういう店もあるんだなと社会勉強になりました。

2007/07/26

しつこいですね週刊文春は

  選挙情勢の記事を読むために週刊文春を買いましたが。まだしつこく森理世批判やってますね。とっくに名前を忘れてましたよ。世界一なんだから指を差して何が悪い。美人コンテストに受かりやすいスタイルの良い美人ですねと穏やかにすませばよいものを、別に清楚にみえなくたっていいじゃないですか。清楚タイプが実は恐ろしく下品な女でよっぽど怖いんですよ。
選挙といえば、私は都立園芸高校時代に学校農業クラブ会長選挙に出馬したことがあるんですけど、五十数票しか獲得できず惨敗した苦い記憶があります。全体で450人くらいの学校ですから、当選者が8~9割とってしまってこんな惨めな数字になるとは思いませんでした。作為があるんじゃとさえ思いましたから選管担当教師に票を見せろと訴えたが敵意丸出しで追い出されましたよ。麻原彰晃も同じことを言ってましたがこんなに得票が少ないとは思いもよらなかった。いろいろ言いたいことはありますが、古い話 をやってられないんで、その時思ったことは、やっぱり女はダメだということです。当時の都立園芸の7割は女生徒ですが判断力が全くないと思いました。負け方がひどいんで怒り心頭なんです。というより選挙なんてロクなもんじゃないと思いました。その時から民主政体に疑問を持ちましたよ。真正クリスチャンはキリストの再臨を待望し、千年間の義の支配を望むものです。ディスペンセーショナリズム(神的統治)が最善なんですよ。私が民主主義、大衆運動とか信用しないし大嫌いなのはそういう経験からですよ。

 なお、その時立会演説会で、一生懸命応援演説をしてくれた友人(故人)には恩があり、今でも心より感謝をしています。彼に支えられたことが大きいです。有り難う。

2007/07/25

三越と伊勢丹といえば

 三越と伊勢丹が経営統合かというニュースは別に驚くこともないですが、昔、三遊亭円楽か誰かがやっていたくだらないギャグを突然想い出しました。伊勢丹の屋上の鸚鵡(九官鳥か)に「みつこし・みつこし」と物まねを教えている悪い客がいるんですよ。というギャグ。そんなばかなことがあるかと思いましたね。
 選挙についても書きたいですが、自粛してくだらないギャグを書きます。僕が園芸高校の2年生の時だから30年以上前ですが、深夜1時頃に名古屋制作で大喜利形式のお笑い番組があって、番組のタイトルを失念しましたが、「首出せホイ」とかいってモグラ叩きの罰ゲームのある番組です。「大きそうで小さい夢」とかいう題でレギュラーの月亭可朝が真っ先にこう回答したんです。「大金使って選挙に勝って新幹線をタダで乗る」。
 なんでそんな遅くにテレビを見てたかって。僕は学校農業クラブの活動で花卉班だったんですよ。非常に真面目な生徒だったから、夕方5時近くまで毎日、圃場で実習をやってたんですよ。家に帰るとクタクタでバタンと眠ってましたから、疲れている時は12時間寝ちゃうんですが、あまり疲れてない時は深夜NHKの放送が終わるころ丁度目が覚めるんですよ。それで、燃えよカンフーとか、深夜映画を見て、3時頃に又眠るみたいなパターンだったように記憶してます。

2007/07/22

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(5)

承前

非組合型労使関係台頭の意義

1920年代の遺産(3)

 合衆国において第一次世界大戦参戦は「アメリカ史上まれにみる労働組合の勢力拡大期」とされる。その理由は1918年全国戦時労働理事会(NWLB)の設置である。NWLBはリベラル派が推進した産業民主主義路線で、ストを禁止したものの団体交渉と賃金・作業の標準化を厳しく貫き1150件に及ぶ仲裁を行った結果、AFLの組合員数は戦中に100万人も増加したのである。戦時協力が口実になって雇用主が嫌悪する団体交渉が促進されたのである。
 しかし戦後になると雇用主の多くは、組合活動を敵視する戦前の態度に戻った。戦中の賃金上昇は戦後の急激なインフレで意味を失った。政府は平時経済への転換や復員兵の労働市場復帰の対策は行わなかった。
 そうした状況で1919年に400万人以上の労働者がストライキに入ったとされるが、鉄鋼ストが最大である。労働組合は鉄鋼資本側の反組合的攻勢に対し、団体交渉権の承認、8時間労働制度、週休1日制度(当時は一日12時間週7日労働)、24時間交代制の廃止、8時間以上の超過労働、日曜休日労働の2倍賃金、組合費の給与天引などを要求し、9月22日からストに入り、29日には鉄鋼労働者の9割36万5600人がストに参加したが、軍隊の動員、全国産業会議での決裂、合同組合の度重なる離反で勢いが弱まり、1920年1月8日になお10万人の労働者が職場を離脱していたにもかかわらず、組合はなんの譲歩も引き出せずに、ストは終結した(註1)。この鉄鋼ストの完全敗北で労働組合の衰退は決定的になった。20年代を通じて組織率は低下していくのである。
 もし大恐慌がなくて、30年代のノリス・ラガーディア法、ワグナー法、公正労働基準法の三悪法さえ制定されなければ、このまま労働組合は衰退してアメリカは正しく現代のイスラエルといえるような、もっと偉大な国になる可能性はあった。非常に遺憾です
 
 1920年代の労働組合の衰退の要因について、法制史と経営史と両側面からみておきたいと思います。
 第一にアメリカでは20世紀初期から戦闘的な反労働組合の組織的な運動があったことである。オープンショップ運動とよばれるものである。
 オープンショップ運動はクローズドショップを個々の労働者の権利と自由を否定する非アメリカ的なものとして徹底的に排除する雇用主の政策であるが、オープンショップは革新主義政治のセオドア・ルーズベルト政権の商務労働省においても支持されていた。
 ルーズベルトの「スクエアディール」施策としてストライキへの積極介入がある。1902年ペンシルヴァニアの無煙炭坑労働者のストライキの介入がよく知られているが、労使双方をホワイトハウスに呼んで、調停委員会を任命し、ストライキを収拾したが、調停委員会は概ね資本側の意向に即して人選され1903年に裁定を下している。そこで10%賃上げと9時間労働の設定で労働者の要求に応えたが、組合活動については、反組織労働の線を明確にした。すなわち裁定は組合員であるか否かによる差別や非組合員に対する組合の干渉を禁じただけでなく、「非組合員の権利は組合員のそれと同様に神聖である。多数派が組合を結成することにより、それに加入しない者に関しても権限を得るという主張は支持できない。」と明記された。オープンショップ運動はこの時期から本格化していく。 
 オープンショップ運動を全国的な運動に結集する要の役割を果たしたのが全国製造業者協会(NAM-National Association of Manufacturers)http://www.nam.org/s_nam/index.aspである。NAMは1895年に輸出増進を主眼として設立された団体だが、労使関係の危機意識が高まるなかで1903年に反労働組合戦線結成の大会を開き124の経営者団体が参加した。ここでアメリカ市民産業連盟(CIAA)が設立され、NAMの組織を基盤にオープンショップ運動を展開、NAMはレイバーインジャンクション(労働争議における裁判所の差止命令)の要請、組合指導者の告発、損害賠償の訴追を積極的に行った。1907年にNAM主導で全国産業防衛協議会(NCID-後の全国産業協議会NIC)が設立された(註2)。

  第一次大戦後、1919年秋の鉄鋼ストの完全敗北は、経営者に労働者の戦闘性と労働組合主義の伝播を阻止しようとする決意を強めさせた。19年末までに全国鋳造業協会、全国製造業者協会、全国金属産業協会などが戦前のオープンショップ論を再び鼓吹し始め、20年秋までにオープンショップ諸協会の全国ネットがつくられ、ニューヨーク州の50団体、イリノイ州の46団体、ミシガン州の23団体が加わった。1920年の大統領選挙では「正常への復帰」をスローガンとする共和党ハーディングが勝利し、保守的なムードが国中に漂ったが、1920年夏にアカ恐怖ヒステリーがピークに達し、組織労働者が共産主義にかぶれているという抜きがたい公衆の疑惑は、オープンショップ運動に有利に働き、人々には革新主義への敵意が広がったのである(註3)。労働者の戦闘性は急激に減退した。ストライキ件数は1920年の3411件から、22年には1112件に落ち、組合員が100万人以上減少したのである(註4)。
 アメリカの20年代の法制ではレイバーインジャンクション、労働組合への反トラスト法の適用、黄犬契約も可能で、もちろん団体交渉権は保障してません。オープンショップ運動で労働組合の組織化を容易にしておかなければ、組合を抑圧する手段はいろいろあったのである。
 

 なおクローズドシッョプ協定は今日では合衆国では1947年タフトハートレー法、イギリスでは制定法でもコモンローでも否定され、過去のものとなっている。(関連して言うとイギリスではユニオンショップも否定されている。また合衆国では1947年タフト・ハートレー法で被用者に団体行動に関与をしない権利を定めており、ユニオンショップ協定は容認しているが、数々の規制を設け、組合に対する誹謗中傷、組合秘密の漏洩、スト破りを理由に解雇を要求できなくし、不当に高額な組合加入費を要求することもできなくし、ショップ制は事実上組合費徴収の手段となった。労働組合が従業員を支配しやすいユニオンショップ協定は実質的に否定されている。又、タフト・ハートレー法は労働権法(Right to Work law-雇用条件として労働組合員たることを要求されない被用者の権利-結果として全ての組合保障条項が否定される)を制定している南部を中心とする22州とグァムではhttp://www.nrtw.org/rtws.htm、連邦法の適用下にある州際産業の工場、事業場についても、それが州の地理的領域内にある限りユニオンショップ制を禁止する州のの権限を承認している。但し、1951年改正鉄道労働法が州のいかなる法律の条項にかかわらずユニオンショップ協定を認めた。これは組合側の巻き返しでもあるが、鉄道業が州際産業としての性格が強く、地理的条件でショップ制が異なる混乱を避けるためのものと思われる)
 アメリカの風土でクローズドショップによる労働市場、労働過程の組合の支配が嫌悪されるのは当然のことです。イギリスでは労働者の移動性が高く、労働過程の職人的技能に依存した時代に労働組合が成長し、組合は徒弟制とクローズドショップによる労働市場の支配、人員配置その他様々な仕事規則をもってする労働過程の支配によって力を構築した。これがイギリスの産業の弱点になった。産業革命最先進国であったにもかかわらず、大量生産技術、体系的人事管理をともなう第二次産業革命に適応できず、欧米の競争国のような急速な大規模企業、大量生産企業の創出を困難とした(註5)。 
 そういう意味でもオープンショップ運動はアメリカ社会の健全性の証である。
 
続く
 
(註1)黒川博『U.S.スティール経営史』ミネルヴァ書房(京都)1993
(註2)長沼秀典・新川健三郎『アメリカ現代史』岩波書店1991 297~300頁

(註3)S.M.ジャコービィ『雇用官僚制』増補改訂版2005年 217頁

(註4)前掲書220頁

(註5)前掲書9頁

その他引用、参考『世界歴史体系 アメリカ史2』山川出版社1998

辻本慶治『アメリカにおける労使の実態』酒井書店1969 Ⅴ「アメリカにおけるライク・トウ・ワーク立法について」207頁以下

平尾・伊藤・関口・森川編著『アメリカ大企業と労働者-1920年代労務管理史研究』北海道大学出版会
1998年

2007/07/16

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(4)

アウトラインなしに気分で書いているで今回は脱線しました。本題の1920年代は終盤の方でちょこっと言及しているだけです。

承前

非組合型労使関係台頭の意義

1920年代の遺産(2)

 前世紀の世界大戦の「負の遺産」とはなんでしょうか。原爆・アウシュヴィッツ・「南京大虐殺」とか定番的なことは言いません。
 私は全く別の考えです。20世紀の世界大戦の「負の遺産」とは第一に労働組合をやけぶとりさせたことですよ。これがえらい迷惑です。最大の負の遺産です。第二に女性解放の口実を与えたしまったこと(国家総動員総力戦になって、女性が重化学工業に動員され男性の職場に進出したことと、戦間期にスカートの丈が短くなった〔フラッパー娘という〕結果女性が活動的になった)ですよ。これも迷惑でした。現実に影響をひきづっているという点ではこの二点ですよ。
 例えば日本政府はILOに追従する労働政策をやってますが、ILOというのはイギリスやフランスの国内事情で第一世界大戦の戦後処理のためにつくった組織である。
 戦争の遂行には労働組合の協力体制が不可欠だった。戦時協力の見返りとして、また戦後兵員の復員、軍需産業の生産低下に伴う雇用の混乱に対処するために、国際労働・社会主義会議の要求に譲歩する必要があり(註1)、そういう勝手な都合でILOを設立したのである。
 だからILOは第一次大戦の「負の遺産」ですよ。我が国ではILOは自由党のロイド・ジョージがつくった組織だから、ボリシェヴィキよりましじゃないかとか思っている人が多いんですけど、もうそういう考えは古臭いです。
 そもそも我が国がILOに設立当初から係わっているのは、第一次大戦に名目的に参戦して経済利益を得、戦勝5大国の一つとしてパリ講和会議に参加したことによる(註1)。戦勝国とのつきあいで国際労働機構への参加を余儀なくされただけにすぎない。時代は変化しているのに、第一次大戦の戦後処理の都合でつくった組織にいつまでも引き面れる必要は全くないと私は思います。そろそろ手を切りましょう。

 実際、 イギリスでも非組合的労使関係へのパラダイム転換は相当に進んでいるわけです。もっとも2005年の統計でイギリスの組織率は29%もあり、12%にすぎないアメリカよりもかなり高い。しかしサッチャーが登場した1979年には57%の組織率があったことと比較すると衰退傾向は明白なのである。
 1992年保守党メージャー政権の白書『人、仕事および機会』では次のように述べてます。「‥‥団体交渉と労働協約に基づく労使関係の伝統的な形態は益々不適切になり、衰退してきた。多くの使用者は時代遅れの労務慣行を捨てて新たな人的資源管理を採用しつつある。それは個々の労働者の才能や能力の開発に力点を置くものである。使用者の多くは、労働組合や公式の労使協議会を仲介とするよりも、その被用者との直接のコミュニケーションを求めている。個々人の個人的技能、経験、努力及び成果を反映する報酬を個別交渉する傾向が増しているのである」(註2)
 もうはっきり団体交渉と労働協約に基づく労働関係をやめようと言っているわけですよ。(この点はニュージーランドの国民党政権の政策がもっとはっきりしています)
 サッチャー首相およびメージャー首相の保守党政権下では、漸進的かつ徹底した組合弱体化政策が繰り広げられたのである。①クローズド・ショップおよびユニオン・ショップの禁止、②チェック・オフの規制、③争議行為の批准投票の義務付け〔郵便秘密投票とし第三者が監査〕による公認ストライキ制度④ピケの規制と同情ストの禁止、⑤非公認争議行為参加者の不公正解雇救済の否定、⑥法定組合承認手続の廃止、⑦組合費、組合財政、幹部選挙を含む各種の組合内部問題の規制により組合活動を規制した。これらとともに採られた自由企業、公開競争、効率性を奨励する経済政策は、国家の歳出の削減、国営企業の民営化、公的サービスの規制緩和を促し、また、経済のソフト化とグローバル化によって、組合の弱体化は急速に進んだ。(http://www.jil.go.jp/institute/reports/2004/documents/L-9_06.pdfより引用-但し一部削除文字追加)
 クローズド・ショップ、ユニオンショッブの禁止、ピケの規制、二次的争議行為の規制は当然のこととして、ポイントになるのが組合自治の全面的否定です。組合内部で処理されていたスト批准投票や役員選出などについて、郵送による秘密投票、独立監視人による監査を要するものとした。従来の放任ではなく政府が干渉する政策なのです。
 もう一つは 1971年保守党ヒ-ス政権がつくった法定組合承認制度を廃止したことです。これにより経営者が組合を承認して団体交渉するか否かは全く任意ということになった。これはある意味で従来のボランタリズムヘの回帰ともいえますが、従来より厳しい組合活動規制と争議規制のうえに任意的交渉を行い、協約を自力で強制する強力な組合は次第になくなっていったため、労働組合の退潮傾向を決定的なものにしたとされています。
 民営化も組合を排除するための政策だった。民営化した後の企業は組合承認をやらなければよいわけである。
 もし、保守党政権が続いていれば2010年には労働組合は消滅するという予測すらあったのである。そうなればよかったのに。
 しかし皮肉なことに、労働組合の弱体化は労働党の組合離れを促し、大幅に組合の影響を排除したブレア政権を誕生させ、保守党の一連の反労働組合政策の成果に基づく経済成長により、労働党の政権長期化をもたらした。
 もっともブレア政権は大きな揺り戻しをしないで、保守党政権の労働組合規制立法の大筋の枠組みを継承したものの、組合保護政策も行った。1999年雇用関係法 (Employment Relations Act 1999)で導入された法定組合承認手続である。これはアメリカの組合代表選挙に似ているが、不当労働行為の規定はない。単位内に組合員が10%いることおよび単位内労働者の過半数の支持が投票の要件で、単位内の労働者の過半数が組合員であれば自動的に組合が承認され「賃金、労働時間および休暇」に関する交渉の前提とするものである。この制度によって労働組合は組織率の低下をくいとめ生き残るになった。とても遺憾です。イギリスは10年間の労働党政権で労働組合を駆逐して理想国家に飛躍できるチャンスをのがしました。
  
 しかし、いかに労働組合が生き残る政策をとる政権が続こうとも、そこに正義性というものはないと断言します。
 そもそも争議行為は、契約違反の誘致行為、契約の履行不能をもたらす行為、強迫、共謀、営業妨害など理由として、コモン・ロー上の不法行為を構成する。
 コモンローの理論を遡っていくと、営業制限の法理ににもとづく営業の自由のコロラリーとしての個人の労働の自由、労働力取引の自由を阻害するものとして、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)の概念構成により、労働者の団結というものが、コンスピラシー(共謀)の要件に該当するものとして把握されたのです。
 イギリスでは1875年の共謀罪及び財産保護法により、コモンロー上のコンスピラシーの法理で、団結行動を起訴できないものとし、平和的ピケッティッグの違法性を除去したとされる。いわゆる「刑事免責」がなされ、労働組合の「合法化」がなされたとされる。これに対抗するためにコモンローは民事共謀としての不法行為の共謀法理を案出されたが、1906年の労働争議法で、労働組合に関する不法行為の訴訟は受理されないとした。いわゆる「民事免責」がなされ、事実上、労働組合活動の「法認」というかたちにはなった。しかし私は制定法による免責というものが非常に不愉快である。
 1906年労働争議法は「ある人によって労働争議の企図ないし促進のためになされる行為は、それが誰かある他の人に雇用契約を破棄するよう誘導するとか、誰か他の人の営業、企業、または雇用の妨害になるとか、または誰か他の人が彼の資本あるいは労働を欲するままに処分する権利の妨害という理由だけでは起訴できない」)(註3)とすることによりストライキに付随する民事責任を免責する。雇用契約違反の誘導、営業・仕事・雇用の妨害、労働の自由の妨害といったコモンロー上の不法行為であっても制定法上免責するということになっている。個人の自由を犠牲にしているのである。
 このような他者の自由を侵害する悪も許容する人定法的秩序というものに本質的に正義性はないわけです。要するに我々が労働基本権と言っている組織労働者の権利なるものは本質的に正義性とか権利性とかいうものはないんですよ。ましてや憲法上の権利とか人権という性質のものではない。むしろ労働の自由を否定する悪しきものですよ。
 伝統的コモンローは営業と勤勉を奨励するパプリックポリシー(公序-公共政策)により、人々がそれぞれ自分の持っている財産(労働能力や信用という広い意味での無体財産を含む)を自由に取引する私的自治をサポートします。それが本来の在り方です。それを刑事免責、民事免責により否定したのがイギリスの19世紀後半より20世紀初期の労働組合法認政策です。そんなものを人権と認めることはできません。
 コモン・ローヤ-のニコラス・フラー(1626歿)は「神の法は『汝、六日、労働すべし』と定めている」がゆえに、「いかなるキリスト教の君主の認可、布告、法も臣民に労働を禁じるようなものは、神の法に直接反しているがゆえに違法であり、不条理な命令である」。そしてこれに従えば、国王が与える「特許」は人々の自由な労働を禁ずるものであり、違法なものと判断される(註4)、と述べているように、理論的に個人の自由な労働は神の法に基礎づけられていた。それを労働組合のために喪失させられるということほどばかなことはありません。
 
  
 さてアメリカ合衆国に話を戻しますが、第一次世界大戦参戦は労働組合を強力化した。ウィルソン大統領の政府は1918年全国戦時労働理事会(NWLB)を設置した。NWLBはストライキを禁止したが、組合結成権を認め1150件に及ぶ仲裁を行い、AFLの組合員数は戦中に100万人増加したのである(註5)。
 第二次世界大戦でも同じようなことが起きた。アメリカでは赤い30年代、1932年ノリス・ラガーディア法(反インジャクション法、平穏で暴力的でない労働組合活動を保護し、黄犬契約の裁判上強制力をもちえないこととし、特に労働紛争への連邦裁判所の差止命令を制限することにより、全米製造業者協会のオープンショップ主義とレイバーインジャンクションの多用により20年代に著しく衰退した労働組合を生き返らせた超悪法)、1935年ワグナー法(民間企業の団結権と団体交渉権を保障し、組織労働者保護のため雇用主による不当労働行為の禁止を規定した超悪法)のようなきわめて悪質で誤った労働政策がなされ、産業別組合を台頭させましたが、1942年に設置された全国戦時労働委員会は、労働組合にストライキを放棄させる一方、労働協約締結期間中の組合離脱を禁止し、それを保障するためのチェックオフを導入した。組合の組織維持と拡大は容易になり、労働組合員は1941年の1020万人から、1945年の1432万人に増加した(註5)。アメリカの産業別組合は、ニューディール立法で存立基盤を与えられ、戦時中の労働組合保護政策によりその地位を確立させたのである。
 世界大戦でやけぶとりしたのは労働組合だったわけですよ。
 ただ私がアメリカ社会がヨーロッパより健全だと思うのは、一貫して革新主義体制や労働組合に反発する反組織労働運動が存在し、戦後、戦時中に強力になった労働組合を放置せず、労組の強力化とコーポラテイズムへの移行を阻止し矯正していることである。
 20年代のオープンショップ攻勢がそれであり、1947年のタフト・ハートレー法がそうである。

つづく

(註1)大前 真 「 ILOの成立-パリ講和会議国際労働立法委員会 」『人文学報』京都大学 (通号 47) [1979.03]
(註2)小宮文人『現代イギリス雇用法』信山社2006年 28頁
(註3)中西洋『《賃金》《職業=労働組合》《国家》の理論》』ミネルヴァ書房(京都)1998年 143頁
(註4)土井美徳『イギリス立憲政治の源流-前期スチュアート時代の統治と「古来の国政」論』2006年 214頁
(註5)『世界歴史体系 アメリカ史2』山川出版社1998年 志邨晃佑「第二章革新主義改革と対外進出」
(註6)同上 紀平英作「第三章戦間期と第二次世界大戦」

2007/07/08

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(3)

今回も前置きです

 宮沢元総理の葬儀がありましたが、アメリカ人は働かなくなったという発言が顰蹙をかったことを思い出します。そんなばかなことはないですよ。製造業労働者の年間実労働時間だけを見てもアメリカは1993年から2000年にかけて日本を上回って働いてます。OECDの統計でも一人当たりの年間労働時間は1998年から2001年までアメリカが日本を上回ってます。PDF http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/documents/7-2.pdf

 http://www.jil.go.jp/foreign/labor_system/2004_5/america_01.htm 

私が思うには統計以上にアメリカ人はもっとよく働いているのではないかという気がします。専門職なら週70~80時間は当たり前、エグゼクティブは想像を絶するほどよく働くともいわれますから。元総理は勘違いをされていました。

  それはともかく6月ブログで書いた、「『パプリックスの奇跡』について」と「高業績業務システムと90年代以降の仕事遂行方法」でなにが言いたかったかというとコミットメント型の従業員関係が優れている。従業員の仕事に対する熱意を企業成長のエンジンにすることのできる社風、組織に共有のメンタルモデルのある企業は強いということです。ウォルマートやパブリックスがこれにあたります。
  このことをより明確にするために、後に反コミットメント型の企業の例も取り上げて比較しますが、ビジネス書を読むと「コミットメント」はかなり多義的に用いられています。ここで言っているのはカルロス・ゴーンの言うような達成目標とか具体的なことでなく、もっとも単純な意味です。骨身を惜しまず誠実に仕事に励むことができる。献身的に働くことができる。仕事に熱中することができ、それを妨げないのが良い企業だということです。もっともウォルマートはレーバーコストを抑えるためアソシエートと呼ばれる時給ワーカーの従業員の労働時間の上限を定めてますが、それは1938年公正労働基準法という悪法のために制限せざるをえないのである。
 組合不在企業のコミットメント型の企業文化については、ウォルマート、ホームデポ、パブリックス、サンマイクロシステムズ、スターバックスに言及しましたが、もっと多くの企業を取り上げるべきでした。非組合型労使関係の実例については余裕がないので先に進めます。

  そこで、コミットメント型の従業員関係の企業が台頭してきた前提というものを考えてみましょう。

非組合型労使関係の台頭の意義

   第一に70年代以降ニュ-ディール型労使関係(産業別組合との団体交渉・労働協約)が衰退し非組合型の労使関係へのパラダイム転換があります。70年代以降この流れがなぜ起きたか。大まかに述べておきたいと思います。
 

1920年代の遺産(1)
 
  第一にアメリカでは1920年代に非組合型労務管理が発達しその遺産があるということです。
 
  19世紀末までのアメリカの大勢は団体交渉は支持されず、個人主義的自由放任主義が基調であった。1900年の時点で組織率は非農業労働者の6%にすぎず、大量生産産業はほとんど組織化されていなかった。しかしセオドア・ルーズベルトやウッドロウ・ウィルソンの革新主義政治により組合も成長し、1920年には組織率は19%を超えた。
  しかし、アメリカ人の労働組合や団体交渉に対する嫌悪は強く1920年代になるとの全米製造業者協会のオープンショップ主義や、団体交渉のオールタナティブとなるアメリカン・プラン、ウェルフェアキャピタリズムの労務管理手法がとられ、非組合型労務管理が発達した。その成果は、大恐慌と1932年ノリス・ラガーディア法以降30年代のプロレイバー政策による産業別組合の台頭で台無しにされたとはいえ、経営史として20年代の経験の持つ意義は大きかったと考える。20年代労働組合員は1920年の505万人から、29年の344万人まで減少し、非農業労働者組織率は20年の19.4%から30年の10.1%にまで衰退しました。そのような意味でも20年代は黄金時代だったのです。
  非組合型の労使関係の台頭というテーマは、イーストマン・コダックやシアーズ・ローバックなど組合不在企業の文化を研究したジャコービィの著作が読まれるようになってから、よくいわれるようになりました。ただジャコービィの著作は雇用慣行の歴史で、人事労務管理論が軸のように思われます。たんにジャコービィのようなウェルフェア・キャピタリズムの好意的な評価だけでは満足でません。もっと法制史的背景を明らかにすべきです。
 
  続く
 
  引用・参考文献
 
  水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』2005年 有斐閣

2007/07/04

前回の補足

  くだらないことを書きすぎたのか
 「東スポの記事を本気にしているような奴が何を言ってんだかwww」
 との批判的なコメントがつきました。

ごもっともですが、くどいようだが、背景について若干補足しておきます。

崔宏の「魏」国号の建議については翻訳があります。

北史二十一巻 列伝第九 崔宏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/8364/translate/north021c-1.html

「代」を国号とすべきという群臣の意見はついても翻訳があります。

北史巻一 魏本紀第一 太祖道武帝 - 2
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/8364/translate/N01-10/north001b-2.html

「拓跋、魏を興す」というサイトに 398年に平城(山西省大同)に遷都し始めて宮室を造り、宗廟を建て、社稷を立てたこと。皇帝位に即き、天興と改元したこと。朝野の全員に髪を束ねて冠をつけるよう命じたことが書かれている。
  http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/takubatu.htm

 ところで、398年鄴(現在の河北省最南部)周辺は北魏の支配下に入った。鄴は曹操の魏公国の都で市来弘志氏(「魏晋南北朝時代の鄴城周辺の牧畜と民族分布」鶴間和幸編著『黄河下流域の歴史と環境』東方書店2007年に収録)によると、魏・西晋を通じて首都に準じた要地だった。後趙、冉魏、前燕,東魏、北斉の首都でもあり政治経済上の重要拠点で、とくに後趙時代に繁栄したが、350年の内乱などでこの周辺で数百万人が難民化した。
 北魏の首都は平城だから「代」でもよさそうだが、かつての魏公国の領土を支配したことで、魏王から魏皇帝となっても不自然ではない。
 北魏は華北平原地域から36万を平城に徙民(しみん)し、その代わり鮮卑拓跋部の軍団を鄴周辺に駐屯させたので民族が入れ替わったのである。

 なお市来氏は漢魏晋時代の中国の主要都市はどこかを列挙してます。

前漢期の長安を除く中国五大都市とは、洛陽、臨瑙(山東省)、邯鄲(河北省)、宛(河南省南陽)、成都(四川省)
                                                          
魏(三国時代)成立後の五都は、洛陽、長安、許昌(河南省)、鄴(河北省)、譙〈現在の安徽省北部亳州〉

西晋時代の四都は洛陽、長安、許昌(河南省)、鄴(河北省)

*松下憲一氏の国号に関する論文の初出は「北魏の国号「大代」と「大魏」」『史学雑誌』113-6 2004年

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