正常への復帰を渇望する-マンスフィールド卿マンセー論
自分の人生は崖っぷちに追い詰められています。ワールドカップ日-豪戦のロスタイムで大黒投入というほど致命的な状況の一歩手前のような雰囲気だ。心理的にかなりまいってます。しかしまだ松岡前農水大臣みたいに首を吊る程ではないです。365日無休宣言はどうしたといわれるかも知れませんが、その時はその気だったんですが、4月に診察日を間違えてしまい、2週間ほど薬をきらしたのが良くなかったのか大型連休の頃から急に末梢神経障害と手の痺れによる握力低下、無痛痙攣の症状が出たんで、これは神罰で立ち直れないかと弱気になりましたが、回復しましたよ。医者もヘモグロビンは正常で特に問題なしとのことでその点では安心しました。
お前は狂暴な人間だとか人間性が悪いとか職場でいろいろ罵られてきましたが申し訳ないがまだ死にません。というか死ねません。自分は松岡前大臣よりタフなつもり。ただこれから相当頑張らなければならないが、キーボードが打てる限り頑張りたい。
川西正彦
私の人生目標は営業と勤勉さと誠実労働義務を奨励する公序良俗の完全復権。そのためにコモン・ロー営業制限の法理における「営業=取引の自由」のコロラリーである「労働の自由」の擁護、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)理論の継受(労働三法廃止、憲法28条廃止、労働組合の共謀罪、争議差止命令による駆逐・撲滅、反団結権Right to Work〔団体行動をしない権利、労働組合にかかわらず雇用される権利〕の確立、プロレーバー法学の断罪・撲滅、自由な労働を制限・規制・統制しようとする他者からの害意、実力行使、脅迫、威嚇にさらされることのない自由を確立し、個人の幸福追求〔打算や経済的利害のことではない-宗教的倫理的に非難の余地のない正しい生活、倫理的に実直な生き方を全うすることが幸福追求の正しい在り方〕を揺るぎないものする自由社会の構築-団結自体が違法となる在り方が最善)を真正自由主義社会の構築を目指します。そのために私は素人ですがアンチユニオン、経済的自由主義の立場で当ブログで理論的な研究と現場での実践をやります。
つまり労働基準法など個人の雇用契約、職業に従事する自由にパターナリズム的に政府が介入してくる制定法の、反倫理的、反道徳的、不正義、不当性、とりわけ、時間規制、割増賃金に対する明白な憎しみと敵意の表明を行います。フェミニズムのワークライフバランス論への明白な憎しみと敵意の表明。そしてこの世で最も悪質なものの一つプロレーバー法学〔労働組合に他者の自由を侵害する実力行使や害意・脅迫権を容認とする〕の労働基本権とりわけ組織強制や団結強制、悪事を威嚇、威圧、暴力、強要を肯定する制度、倫理的道義的判断による自己決定を否定する不正義、不当性、労働組合及びそれと結託する監督者による職務統制(非能率的業務遂行、事実上の怠業指令、黙示的誠実労働義務を否定するような、非献身的反倫理的な働き方の強要)の、不正義、反倫理的、反道徳的、反社会的、不当性を訴える、労働組合によるジョブコントロール、反コミットメント型の企業文化の明白な敵意の表明をやります。
現代において、我が国をはじめとして、政府の経済社会規制立法を是認する多くの国家においては、プリュラリズム的民主主義による議会制定法尊重という名のもとに本来ならもっと尊重されてしかるべき個人の「営業=取引の自由」「労働の自由」の侵害を多数者の意思として、あるいは階級的、党派的、労働団体の利益と利害調整により当然のものとしているが、これは最悪の社会だ。それを許容している多くの国家群は悪を許容する堕落したものだ。私は人定法主義、法実証主義に反対です。民主政体・普通選挙にも懐疑的ですから。ベンサム主義、最大多数の最大幸福にも懐疑的です。根性の腐った滅びの群となった多数者の利益を実現することほど醜い社会はない。私にとって幸福とは宗教的倫理的に正しい行為をなすことです。ピューリタンにとってのカンフォータブルな人生と同じですよ。職業人としてはレイバーコストをかけないで誠実労働義務をはたすことが幸福ということになりますから、時間規制は幸福を否定する憎むべき敵です。
政府や労働組合が個人の職業に従事する自由を侵害し、あつかましくも他人の働き方や自由を否定して深く個人の自己決定の領域に干渉して当然という、その人が有用な人物かどうかという評価、社会的地位と職業上の地位・威信はほぼイコールといえる。まさに人間にとって幸福追求のために核心的に重要な価値を否定した社会は自由な社会ではない。8時間労働じゃないと気が済まないとほざいている奴らは、北朝鮮に拉致されてしまえばいいんですよ。北朝鮮の憲法で8時間労働が規定されてますから、そっちの方が天国じゃないですか。現代社会は決して自由社会になったのではありません。
労働環境において政府や労働組合、フェミニストのあつかましい脅迫や統制や干渉で敵対的な職場環境になっております。これらのあつかましい統制や干渉をなくし、現状を突破したいと思います。
労働基準監督署を潰そうといった経営者の意見が正論ですよ。ホワイトカラーエグゼンプションに私は全面的に賛成ですが、それは漸進的な改革で、それだけでは不徹底です。労働基準法という厚かましい枠組みがあって、その適用除外ですから、労働の自由を回復するためには、労働基準法をスクラップしないとダメです。
平たくいえばいえばこういうことです。古典的法律百科事典のホールズべリが『イギリスの法』で「営業の自由」をこう説明してます。
「ある者が欲するときに欲するところでなんらかの適法的な営業または職業を営む権限を有するというのがコモン・ローの一般原則であって、国家の利益にとって有害である、個人の行動の自由のすべての制限に反対することは公益となるので、コモン・ローは、契約の自由に対する干渉の危険を冒してでさえも、営業に対するなんらかの干渉を猜疑的につねに注視してきたのである。その原則は『営業』ということばの通常の意味における営業の制限に限られない」(註1)
コモン・ロ-においては「営業=取引の自由」のコロラリーとして「労働の自由」があり労働力取引の規制は法に反するものであった。労働三法その他労働者保護立法等の悪質な人定法はこの原則に反するものであるから正常な社会に復帰するためには、この人定法とそれを擁護するすべての勢力を叩き潰さなければならないということです。
もちろん、アメリカ合衆国でも当然ニューディール立法批判がある。
例えばリチャード・A・エプステインが1983年「労働関係のコモン・ロー:ニューディール立法批判」という論文で、1932年ノリス・ラガーディア法、1935年ワグナー法を柱とする労働法の構造を徹底的に批判し、「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」という個人の自由から「ニューディール立法は多くの点で誤りであり、可能ならばこれをスクラップして不法行為法と契約法に依拠した賢明なコモン・ロー制度にとって代わられるべきである。不法行為法の諸原則は暴力・脅迫・そして契約違反の誘致から個人を保護する。契約法の諸原則は、諸個人がその権原の社会的枠組みのなかで、自ら望む人と自ら望むものを取引することを可能とする」(註2)としている。
大筋で同意するが、私はリバータリアンでも功利主義者でもなく、ずっと秩序指向の考えので、エプステインの議論に満足できません。
それは我が国のプロレーバー労働法学の悪質さを知っているからである。プロレーバーは労働基本権に組織労働者の実力行使や敵対労働者への事実上の脅迫・人身拘束権も付与して当然だという、つまり労働組合に政府の警察機能と同様、権力を与え、ピケラインを突破しようとする者は、捕まえて人身を拘束していいんだ。スト破りは襲撃してファックされるべきものなんだ。ストライキはギャンブルではなく実力行使を認めて防衛されなければならないとするわけですよ。労働者は階級の下の集合的人格でなければならず、個人の自己決定は認めないということを言うわけです。
そうすると脅迫の論理がすべてに勝ることになり、労働組合が脅迫によって仕事を制限し、労働者の行動とジョブをコントロールをしたうえ、組合費も収奪する。倫理観と誠実な勤勉さを喪失した非常に悪い企業文化になってしまうんです。
たとえ合衆国で容認されるのは平和的ピケッティングだけだとしても、とにかく労働組合というのは敵対者を襲撃したいんですよ。ファックしたいんですよ。脅迫と威嚇で労働過程と労働者を支配するという文化が基本にありますから、たんにニューディール立法を潰せばすべてうまくいくというほど甘いもんじゃないと思います。
だからコモン・ローへの回帰というなら団結自体が違法となる、例えばマンスフィールド卿の1783年エックレス判決の線まで戻したい。そうでないと私は満足できません。
私が嫌悪し敵視するプロレーバー労働法学者ではあるが孫引きで片岡曻から引用する。
「18世紀における団結禁止諸法とコモン・ローの関係は明確でないが、いくらかの判例によってみるなら、コモン・ローは、一般的な団結禁止法に先んじて、かつ制定法とは独立に‥‥取引自由(freedom of to trade)の原則を労働力取引に対して適用することによって、‥‥『労働の自由』を法的原理に高めつつあったといえることができよう。‥‥そこには旧きものの混在が認め得られはするが、上記の諸判決が団結禁止法のなかに摂取せられていること」に注目すべきである(註3)」
イギリスでコモンロー共謀法理が本格的に展開するのは1824-25年に制定法で団結禁止法が廃止された後のことであるが、上記の見解は大筋で異論はない。いくらかの判例とは、4月22日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_89a0_1.htmlで取り上げた、ジャ-ニィメン・テイラーズ事件、エックレス事件、ハモンド事件であるが、特に、法曹の大御所であったマンスフィールド卿(王座裁判所King,s Bench主席裁判官、近代において最も偉大な法曹の一人)の1783年のエックレス事件の意見はよく引用される。
「起訴状に共謀を実現する手段を記述する必要はない。何故ならば犯罪は害悪を何らかの手段をもって実現する目的のもとに、共謀することにあるからである。違法な結合が犯罪の眼目である。商品を所有する者は個人として自己の欲する価格でそれを販売し得る。しかし彼等が一定価格以下では販売しないことを共謀し、合意するならば、それはコンスピラシーである。同様にあらゆる人間は自己の好む場所で労働できる。しかし、一定価格以下では労働しないとして団結することは、起訴さるべき犯罪である」(註4)
このように、裁判所は、営業の制限を内容とする複数人の結合はそれ自体コモンローのpublic policy(公共政策、公序)に反し、共謀に該リ、犯罪として起訴されるという法理を形成していった。労働運動を弾圧したマンスフィールド卿の判決は満足できる内容である。私はその線まで戻すことが、正常への復帰であると考える。
19世紀において労働組合活動を違法とした判例は、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)の概念構成を利用し、労働者の団結というものが、コンスピラシーの要件に該当するものとして把握された。「営業=取引の自由」のコロラリーである「労働の自由」を媒介として労働力取引の規制に適用され、コンスピラシーの法理は制定法にかかわりなく、純粋にコモン・ローに基礎をおく法理として展開していった(註5)。
もっとも18世紀のコモン・ローでは「営業の自由」がレッセフェール体制を意味するものでは全くなかった。治安判事による賃金裁定制度などが許容されていた(治安判事による賃金統制が廃止されたのは19世紀になってから)。
松林和夫(註6)によると営業制限について全般的考察を試みた指導的判例ミッチェル対レイノルズ事件判決(1721年)でパーカー裁判官は次のように述べた。
「非任意的制限(当事者の合意に基づかないもの)に関して、国王の権利附与および特許状ならびに定款による制限が一般的に無効であるという第一の理由は、法が営業および誠実な勤勉さに与えている奨励に由来し、臣民の自由に反するからである。もう一つはマグナ・カルタに由来し‥‥[その第29条は]これまで常に営業の自由にまで拡大されるべきものと解釈されていた」「任意的制限の問題に関しての理由として、何時により述べられている場合には、それらは営業と勤勉に関する法の好意と恩恵の一般的例としてのみ解釈されるべきである。」とされ、裁判所は「営業の自由」一般を保障するのではなく、「営業および勤勉の奨励」というコモン・ロー裁判所の具体的判断に依存していたとする。
例えば18世紀の制定法として、産業別の団結禁止法、主従法が、団結禁止、労務放棄処罰条項とともに、就業時間などの労働条件法定、裁定条項、賃金支払保護条項などをともなっているが、制定法の労働者保護条項のような「営業の自由」の非任意的制限は、王国による権利付与、特許状とは反対に、マニファクチュア資本の保護育成を目的としているので、前期的産業規制法の適用除外と平行して展開されたとする。
要するに、18世紀の主従法おける洋服師(仕立て職人)の1日13時間とか12時間の法定労働時間というものは、1938年米国の公正労働基準法の週40時間以上割増賃金という悪法とは違って、コモン・ローの営業及び誠意のある勤労を奨励する公共政策には反しないと思えるので許容することにやぶさかでない。
そういうと合衆国の1938年公正労働基準法を敵視し、労働者保護立法に敵意丸出しであるにもかかわらず、英国18世紀の主従法による労働者保護規定を許容しうるというのは理論的に徹底しておらずわかりにくいとの批判があろうかと思う。
そこで私は、2本立てで論議を進めたいと思う。一つはコモン・ロー回帰論で、これは「英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義」シリーズでやりますが、一方19世紀後半以降の法思想である「契約の自由」に関連して「ロックナー判決マンセー論」シリーズをやりたいと思います。
コモン・ローの営業制限の法理は古い由来があり17世紀から18世紀に確立したものですが、契約の自由の方は合衆国憲法理論なので、別個のものとして扱います。一本調子にならないようにするためです。要するに、ロックナー判決の復権で公正労働基準法などを潰すというそういう論法もあるわけです。
(註1)堀部政男「イギリス革命と人権」東大社会科学研究所編『基本的人権2』東京大学出版会1968所収
(註2)水町勇一郎『集団の再生―アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 120頁以下
(註3)中西洋「日本における「社会政策」=「労働問題」研究の現地点(4)」『経済学論集』40(4) [1975]
(註4)片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952
(註5)石井宣和「営業の自由」とコンスピラシー高柳信一,藤田勇編『資本主義法の形成と展開. 2 』東京大学出版会1972
(註6)松林和夫「イギリスにおける「団結禁止法」および「主従法」の展開」高柳信一,藤田勇編『資本主義法の形成と展開. 2 』東京大学出版会1972
参考文献
大沼邦博「労働者の団結と「営業の自由」--初期団結禁止法の歴史的性格に関連し近代資本主義の系譜 」関西大学法学論集 38(1) [1988.04]
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