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2007/12/09

ロックナー判決マンセー論(14)

今回は技術的な議論に深入りせず、原理原則論にとどめます
 
法は自由を支持するという指導原則

 私が英米法の伝統を好む理由、法は個人的自由を支持してきたことが一つの理由である。直接的には経済的自由に関係するものではないが、新刊書(註1)でJ.H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」を読みました。それによるとイギリスでは隷農階級は遅くとも15世紀末までに消滅した。イギリス人は1600年には全て「自由人」になっていた。それはコモン・ローが自由を支持してきた帰結だったというのである。制定法によるものを除いてローマ法では奴隷身分を徹底的に固定するのに対し、コモン・ローは自由を確保するための訴訟手続きの多くを備えていたために、個人に対して平等な保護と近代的自由の形成を促し、17世紀の国制論争に教養的武器を与えたということが書かれている。臣民の自由(とりわけ営業の自由が重要だが)を擁護する基盤もそこにあったわけだ。
 既に13世紀の『ブラクトン法令集』に隷農制を脅かす理論的前提があった。その指導原則は法は自由を支持するゆえに、隷農は領主に対してのみ隷属的なのであって、この世の他の人々に対しては自由だと主張した。領主によって隷農身分から解放されれば血統の定めから完全に自由になる。そのうえ、隷農は国王裁判所において領主以外のどの人間も訴える権利があったいう。15世紀の国王裁判所主席裁判官であるフォーテスキューは次のように述べた。「……それが隷属が増加せしめ、人間本性が絶えず欲するところの自由を減少させるようであけば、必ず残酷だと見なされるであろう。隷属は人間にとって邪悪な目的によって導入されるが、しかし自由は神によって人間本性に刻み付けられているからである。……自由を支持しない者は神をも恐れぬ残酷者と見なされるであろう。こうしたことを考えると、イングランドのもろもろの法はいかなる事例においても自由を支持するのである」(註1)。
 いかなる事例においても法は自由を支持すると断言した。私は教会法の結婚の自由の理念も重視したいが、近代個人主義的自由は中世の法思想から発展したものだった。

中世の隷農より惨めな現代人

 私は現代における不法な隷属的状況を打開したいのである。やかましいほどの仕事の制限、業務遂行方法の統制、ジョブ・コントロール・ユニオニズムのために望んでもいないのに非能率的な働き方を強要される不自由。望んでもいないのに協約適用労働者にされてしまう不自由、働き方や人事管理が個別化しているのに集団的労働関係に束縛される不自由。望んでもいないのに労働時間を規制される不自由。
 男女役割分担の定型概念打破という(男も育児に参加せよとの-我が国ではワークライフバランスが著しくフェミニズム的に潤色されて理解されている)フェミニスト官僚の自己満足のために「ノー超勤ウィーク」で仕事の中断を強要される不自由。これは誠実な勤勉さという倫理的価値を否定し、ビジネスより家庭を重んじるばかげたライフスタイルを強要するもので個人の自由の完全な否定である。もはやソフトファシズムといってもよいだろう。
 そしてなによりも、労働組合の威圧、脅迫、強要、実力行使により就労、業務遂行を妨害される不自由。労働組合の本質は他者の労働力取引を威圧によって規制することにあるから、本質的に個人主義的自由の最大の敵なのであります。労働基準法などの労働者保護立法も同じことです。
 自らが自己自身を所有し自らの労働を自らの望む条件で、他者(労働組合の威圧、強要、暴力や政府の立法規制・命令)に干渉されることなく自由に自己自身を利用する権原がなければ自由とは言えないのです。この不自由な社会のありかたを正したいとという存念であります。なぜならば中世において隷農身分ですら、法的に領主以外のいかなる他者からも自由であったことを考えると、現代社会は他者からの強要、妨害が正当化されることが多過ぎる。隷農以下のみじめな状態になりさがっているとしかいいようがないからであります。法によって自由が擁護されない悪い社会である。
 しかし現代人の大多数は自由を欲しない。自由より隷属を欲するのである。私がロックナー判決を支持する一つの理由は、近代個人主義的自由のエートスを一定程度憲法化した意義である。それは個人の自由ないし選択の自由を増進すると予測された。自立した自己は、政府からの干渉から自由に、経済的、社会的欲求を追求できるいう価値観の体現でもあった(註2)。今日では大多数の人はロックナー判決を過ちとみなす。自由を欲しないのである。自由を否定して規制されなければ気が済まない。自恃の精神が何もない依頼心の強い腐った人たちというほかない。それは人間が悪辣になったのも一つの理由だろう。自由な精神-それは神律に従い、清く正しく善と社会的責務をなすことを第一義とする自由であります。自由とは放縦を意味するものではない。道義的に正しいことをなすことを妨げられない自由なくして、利害と打算でなく倫理的に正しい行動を妨げられない自由なくして「美しい国」はありえないのであります。その自由な精神を欲しないということは、もはや滅びの群れにふさわしい人間に値しない人々としか言いようがいない。
 銀河に輝く星のように数多くの聖人を出した中世のほうが偉大な時代だった。テクノロジーは現代が中世よりも進歩していることは間違いない。自由を欲しない現代人の文明の質は落ちている。堕落している。
 ロックナー判決はレッセフェール論を体現したものだともいわれる。それは倫理重視の思想であり。基本的に正しいものである。歴史家M.L.ベネディクトはレッセフェール論の倫理的主張を次のように説明する。「レッセフェール信奉者は……需要と供給の関係に基づき、自由な取引によって当事者が合意した価格は、その内容がどうであれ、公正な価格である。……自由な取引の結果を変更しようとする政府の行為は、政府の介入がなければよりよい結果が得られたはずの取引当事者の権利を侵害するものである。……とくに労働者にとっては、賃金のみならず労働条件や労働時間、賃金の支払方法も取引の対象となるのである。これらのどれであれ変更しようとする立法は、当事者の自由な取引に対する不当な介入となるのである。……この経済システムは、人々の自由に取引する権利を政府が保障してはじめてうまく機能する。したがって、ある会社が他の会社の市場参入を妨害したり、二つの会社が共謀して商品の供給を操作しようとすることは違法とされなければならない。同様に、労働者の団体が共謀して、他の労働者がより低い賃金で働こうとするのを妨害するのも違法とされなければならないのであった。レッセフェールを主張する人々は、このシステムの下では、才能があり、勤勉で、志操堅固な人は成功し、これらの美徳を欠く者は没落すると考えられていた。……レッセフェール論者によれば、民主主義には、無知で怠惰で非道徳な貪欲な連中が、政府の力を使って、自由な市場では得られない有利な取引をもくろむという重大な危険があった。『怠惰な』労働者は、一日の労働時間を八時間に制限する法律を制定させることによって、もっと長時間働こうとする人々から職を奪おうとしている。これは、同じ賃金でもっと多くの労働を得られたはずの使用者の権利と、自らの勤労意欲を十分発揮できなかった勤勉な労働者の権利を侵すものであった。したがって『八時間労働』法は、あるクラスの犠牲の下に他のクラスの利益を図る『特殊利益立法』ないし『クラス立法』なのである。このような立法は、政府は国民全員の利益を平等に保護しなくてはならない原則をないがしろにしていた」(註3)。
 労働組合や左翼はILO創設時の1号条約(工業における1日8時間・週48時間制)1930年ILO30号条約(商業・事務所の1日8時間・週48時間制)があり、1日8時間労働は労働運動の成果として、労働者の権利などと主張するだろうが、私は全く逆の見解である。労働時間規制は、特定の人々だけの利益にほかならず、それが間接的なものであれ、個人の労働力取引の自由を侵害するもので、勤勉で使用者に忠実、協力的な労働者の権利を侵す。法は営業・就労の自由と、誠実な勤勉さという公序良俗を支持すべきなのである。
 正直・勤勉・節制はアメリカ人の美徳であった。志操堅固で勤勉に努力した人が報われる社会の方が、他者の労働の自由を犠牲にして特定のクラスの利益を図る労働政策をとる社会より正しいのである。なによりも法の平等な保護を否定することは許し難いのである。
 
  

自由の復権のための方策

 私は自由の復権(現代は悪人への隷属と束縛が強化された悪い時代だと思っている)のために労働力取引の個人主義的自由を復権させる大義を目的として、その基礎となる理論について本ブログにおいて、中途半端ではあったが言及してきた。例えばコモンローの営業制限の法理及び共謀法理、合衆国憲法の実体的デュープロセス(契約の自由)、20世紀初頭から20年代の全米製造業者協会などのオープンショップ運動。現代法では労働組合にも不当労働行為を定めるタフト・ハートレー法や、労働組合員とならず組合費の支払いも強要されず雇用される勤労者の権利を定めた米国南部を中心とした23州とグァム島のの労働権法(Right to Work law)、組合自治への干渉を強め、労働組合の力をそいだ80~90年代の英国保守党による労働改革、さらに理想的にはニュージーランド国民党による1991年雇用契約法(Employment Contracts Act)のように個人は企業と直接雇用条件を定め、労働協約や集団的労働関係に束縛されない個人の雇用契約(代理人を自由に選べる)が可能なようなありかたについて言及(つまり理想は現実に実現されていることだ-我が国では90年代のニュージーランドにおける行政改革や郵政民営化は紹介されているものの本質的に重要な雇用契約法を見落としている)してきた。
 
 しかしあと二つ足りないものがあった。アメリカ法で発展した、反トラスト法による労働組合活動の規制とレイバー・インジャンクション(裁判所による争議行為の禁止命令)の研究である。これらをひっくるめて、体系化していきたい。現代の汚れた社会と対決し正義回復のために微力といえども尽くしたいとうのが私の人生目的であります。
 レイバー・インジャンクションに関しては、まず1895年のデブス判決の意義を明らかにすべきだろう。

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(註1)J.H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」R.Wデイビス編鷲見誠一/田上雅儀監訳『西洋における近代的自由の起源』慶応義塾大学法学研究会2007年所収。
(註2)スティーブン・フェルドマン著猪股弘貴訳『アメリカ法思想史』信山社出版2005年144頁参照
(註3)M.L.ベネディクト著常本照樹訳『アメリカ憲法史』北海道大学図書刊行会1994年 120~121頁

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