(第5回とは脈絡で繋がっていません)
岡田与好(経済史)、谷原修身(経済法)の著作を読んでわかったことだが、「経済的自由主義」には2つのタイプがある。18世紀型(第一類型)と19世紀型(第二類型)、マンスフィールド卿型とアダム・スミス型という言い方もされるが、この二類型の違いを理解しておくことが、19世紀における、労働の自由、団結禁止から団結放任、団結法認、コレクティブ・レッセフェールという政策の変化を理解するうえで重要と考えた。
二つのタイプを分けるものは一言でいえば「営業の自由」と「契約の自由」のどちらに原則をおくかである。2つの類型があるということで経済的自由主義=アダム・スミス信者という単純な図式にはならないのである。私はそれ以前のコモン・ローの反独占・営業の自由と商業革命の意義を重視したいわけです。
谷原修身は契約法の著名な研究者P.S.Atiyahの所説をを引いて説明している。アダム・スミスの出現以前に「経済的自由主義」と呼ばれる確立した思想体系はなかった。しかし、コーク卿の時代に既に「経済的自由主義」に相当する考え方が存在し、コモン・ローに関係する法律家が強く支持していた。それは、以下のような自由を唱えるものである。財産所有、取引および営業、利子をとること、独占および結合から免れること、自己の意思決定、政府および法令の規制を受けないこと。(註1)
プロレーバーではあるが大沼邦博(註2)を引用する。
絶対主義的な産業規制をはねのけることに重要な役割を果たしたのはコモン・ロー裁判所であった。E.コークはあらゆる「独占」に強い敵意を示し、熱心に経済的自由を擁護した。この傾向は、市民革命によって「コモン・ロー優位」が確立し顕著となる。実際、国王の勅許による営業独占はあらかた廃止され、ギルドの職業規制は崩壊した。18世紀になるとコモン・ロー裁判所はいくつかの判例を通じて「コモン・ローの政策は企業の自由、営業の自由、労働の自由を奨励することにある」という立場を宣明した。
1563年エリザベス1世の職人規制法の体系も法律として存在しても、実効性を伴わなくなり空文化していく。ブラックストーンは1765年に次のように述べた。「裁判所の判決は、規制を拡大したのではなく、それを一般に制限してきた」。強制的徒弟制度や治安判事の賃金裁定条項は衰退していくのである。17世紀末には既に同条項の適用を年雇労働者や農業奉公人にされていたのである。
アダム・スミスも同職組合の特権や、徒弟制度の入職規制に強く反対していたので、彼の思想の影響もあって治安判事による賃金裁定は1813年に、徒弟制は1814年に廃止されているが(直接的には労働者が治安判事の裁定を求め、徒弟制を支持していたため、団結の口実を与えないための廃止である)、アダム・スミスが仮に実在せずともこの流れに変わりなかったとも考えられる。
反独占がなぜ営業の自由になるのかもう少し詳しく述べる。
反独占の古い起源-穀物取引等の経済統制
中世においては、市場の価格機構における需給調整機能は未だ十分認識されておらず、商品の「買い占め」とそれによる価格吊り上げは倫理的非難の対象とされた。イギリスにおける買占規制の最初の法令1226年法で違反者は晒し台に晒されるのである。これは一般的慣習の法典化である。コモン・ローの下では自由な価格ではなく、低価格が重要視され、買占めは極端に嫌われた。(註3)
中世末期から絶対王政期になると無制限な営利追求、仲介人の独占価格操作への激しい非難が社会的規模で行われた。1349年穀物取引に関して、合理的価格で適度な利潤に満足する限りで穀物商の合法性を認め、1489年には毛織物生産者の先買期間を設置し、羊毛商の介入を禁止、1552年には食料品取引を主要対象とし、先買、再販、買占に対して一般的法的規定を設け、穀物が限界価格以下の場合、許可をうけた場合のみ仲介商の介入を認める方法が採用された。現在各国の独占禁止法の母体をなす合衆国のシャーマン法は1552年法の規定を継承するといわれているが、先買(販売のため市場に来つつある商品をその途中で購入する行為、人為的価格操作のもっとも単純な形態)の禁止はアングロサクソン時代から法的禁止の対象となっていたものである(註4)。反独占というのは「経済民主化」とか現代の価値観にもとづくものではない。慣習を明文化したような中世の古い法、倫理的価値観に由来するといえるだろう。
小林栄吾は「反独占法は労働を価格追加の唯一の合理的根拠たらしめるという理念」に導かれ「市場価格が『合理的価格』に収斂するような方向にのみ制限し組織化すること」により「技倆にもとづく労働に基礎をおく、新たな生産諸力発展の展望を打ち出した」と評価する。
ウェーバーテーゼ(ピューリタンの宗教的価値観-隣人愛実践として神与の使命としての職業労働義務という行動様式と近代資本主義の成立とを相関させる)を否認しませんが、その前提としての反独占の法理も重視したいのです。
しかし、18世紀には穀物取引の公的規制に反対したアダム・スミスの思想に影響されて、1772年に買占め規制の諸法令は廃止されたのである。裁判所は1800年までコモン・ローの下で買占めを有罪としたが、自由放任主義の浸透により訴追されなくなり、1844年に議会は買占めをコモン・ローの下で訴追することを禁止するに至った。(註3)
国王大権(特許状)による独占の廃棄
16世紀末からの展開については2007/12/23記事http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_468b.htmlで言及しているので若干重複になる。
エリザベス1世の治世の後期、財政悪化により女王の独占特許状が濫発されていた。特許状発行に伴う上納金を財政上の手段としたのである。これは国王大権事項のため議会の承認は不要だった。また廷臣に与えるべき利権が少なくなり、廷臣への報酬としても特許状が発行されていた。1597年及び1601年議会は、王室の特許状による40種にあまる産業独占、商業独占を果敢に攻撃し、その合法的根拠を追求した。「反独占論争」は王室当局に甚大なショックを与え、1601年11月エリザベス女王自身その非を認め、「独占に反対する布告」により、塩、酢、酒、澱粉、鯨油などの独占特権を無効とし、その他についてはコモン・ロー裁判所により詮議されるものとした(註5)。但し、臣民の自由に対する国王大権の優越を明言して反独占論争に終止符を打った。
1602年のダーシ-対アレン事件Darcy v.Alleinは、女王の開封勅許状によるトランプの輸入・販売・製造の独占を無効としたものだが、王座裁判所の全員一致の意見は「トランプの独占権を原告に付与したことはコモン・ロー、及び臣民の利益と自由に反する」とした。
どうして娯楽用品にすぎないトランプ(プレイングカード)の輸入・販売・製造独占がコモン・ロー史上の著名な事件になったのかというと、エリザベス女王は独占批判をかわすために議会に譲歩し、1601年の詔勅で多くの独占特権を無効とすると宣言したほか、特許独占によって不利益・損害を被った臣民が損害賠償請求訴訟を提起する自由を認める旨付言したため、特許権について民事訴訟が認められるようになった経緯がある。原告ダーシーは1588年に英国内におけるトランプの輸入・販売・製造の特許権を得た。毎年100マルク支払うことが義務だった。特許権を侵害した、ロンドンの小間物商アレンを訴えたのがこの事件である。
ダーシーはトランプ遊びは「空虚な事」、時間と財産を失い、臣民の勤労意欲を失わせる機会を与えるため、その濫用を防止し適当で手頃な使用を命ずる事は女王の役目であるとして、特許独占の正当性を主張したが、裁判所は、トランプを製造することは「空虚な事」にあらずと述べた。コモン・ローの下で無効とする理由として、臣民に対して雇用の機会を準備し、怠惰を回避させるすべての営業はコモンウェルスにとって有益である。そのような営業に対する排他的な特許権の付与は臣民の自由と利益に反する。独占は価格を吊り上げ、品質を低下させ、閉め出された取引者を貧しくする弊害がある。女王は詔勅の前文で公共の利益のために付与したにもかかわらず、特許権者の私益に利用され、公共の利益に反するということを述べた。
参考 石井正「産業社会と知的財産」講義メモhttp://www.oit.ac.jp/ip/ishii/MEMO/index3f.htm
コーク卿は後にマグナ・カルタ29条「自由人は,その同輩の合法的裁判によるか,国法によるのでなければ,逮捕,監禁され,その自由保有地,自由,もしくはその自由な習慣を奪われ,法外放置もしくは追放をうけ,またはその他いかなる方法によっても侵害されることはない」を注釈し、「自由」および「諸自由」を示すlibertates libertiesをに言及し、これらが「王国の法」「イングランド臣民の自由」「国王から臣民に与えられた諸特権(privileges)を意味するとことを明らかにし、その上でダーシー事件にふれ、トランプの単独の製造権あるいは他の営業の独占権を特定の人に付与することは、それ以前に営業をしていたか、それを合法的に利用しであろう臣民の自由に反し、それゆえに大憲章に反することを明記した(註6)。
これは非解釈主義的解釈であって、原意に沿ったものではないだろう。谷原氏がボーディンの所説を引いているように、コモンローの成立期に営業(trade)は殆どなく、「営業の自由」の概念もなかった。外国との貿易は国王の大権に属し、その権利を特別に臣下 に与えない限り、営業権を有するのは国王だった。コーク卿が「営業の自由」と表現しているものも、営業の特権を意味するから、原意に従えば、女王から特権を付与された、独占権者が保護されるべきところ、コーク卿の巧妙な注釈よりマグナ・カルタがイングランド臣民の自由の原理とされた。
しかし私は、コーク卿の非解釈主義的解釈を批判しない。それは道理だったと考える。
12世紀前半に淵源をもつコモン・ロー裁判所は自由人の自由保有地保全を目的としていた。慣習法をベースにしているので、王権から発せられる統治技術としての法体系とは全く違う。自由人の安全と所有を確固とするために優れていた。隷農制が15世紀までに崩壊した。純粋核家族社会であり、土地に縛られず、流動性があり、元々資本主義的な社会特性を有していた。また17世紀初期に制定法により服装が自由になった、身分に応じた衣装に拘束されなくなった。自由人の特権の保護という概念が臣民の自由という原理にされても、とりわけ営業の自由が高唱されても違和感はないのである。
新刊書(註7)H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」を読みました。それによるとイギリスでは隷農階級は遅くとも15世紀末までに消滅した。イギリス人は1600年には全て「自由人」になっていた。それはコモン・ローが自由を支持してきた帰結だったというのである。既に13世紀の『ブラクトン法令集』に隷農制を脅かす理論的前提があった。その指導原則は法は自由を支持するゆえに、隷農は領主に対してのみ隷属的なのであって、この世の他の人々に対しては自由だと主張した。領主によって隷農身分から解放されれば血統の定めから完全に自由になる。そのうえ、隷農は国王裁判所において領主以外のどの人間も訴える権利があったいう。
フランスの歴史家マルク・ブロックがフランスとイングランド領主・小農関係の相違を指摘し、イングランドでは親族関係の古い枠組みが早期に解体し、イングランドの小農が個人主義的なのに対し、フランスは共同体のままにとどまった。フランスの農奴制とイギリスの隷農とは完全に異なるという指摘は、法制度的な背景の違いにもよる。
15世紀の国王裁判所主席裁判官であるフォーテスキューは次のように述べた。「……隷属は人間にとって邪悪な目的によって導入されるが、しかし自由は神によって人間本性に刻み付けられているからである。……自由を支持しない者は神をも恐れぬ残酷者と見なされるであろう。こうしたことを考えると、イングランドのもろもろの法はいかなる事例においても自由を支持するのである」(註7)。フォーテスキューはいかなる事例においても法は自由を支持すると断言した。私は教会法の結婚の自由の理念も重視したいが、近代個人主義的自由は中世の法思想から発展したものだったと理解できる。
マクファーレンはイギリスは既に16世紀に既に豊かな社会だったとを説明している。フォーテスキューがフランスに亡命したさい1461年の著作で、フランスとイングランドの違いをわかりやすく説明している。フランスはすべての法が国王から発し、人々は臣民だった。イングランドは国民の自発的黙従による制限君主制だった。イングランドには拷問はなかった。フランスのように国王の軍隊による農村の略奪もなかった。塩税のような厳しい取り立てがフランスにあった。フランスでは人々は災難に悩まされ、きわめて悲惨のうちに暮らし、水を飲む毎日である。質の低い酒さえ飲むことはない。かれらのシャミュウズは麻製でまるでズダ袋のようだ。かれらは、上着の下に着るコートとしてきわめて粗末な毛織物を身につける以外に毛織物を知らない。かれらは、長ズボンをはかず、膝下は裸である。女は祝祭日以外裸足である。男も女も新鮮な肉は食べず、ラードないしベーコンのみである。それを少量加え、ポタージュやブロースといったスープにこくを加えるだけであると、フランスの貧しさが強調され、他方イングランドは重税、兵隊の宿営、内国税が欠如しており、住民は土地、家畜が生み出すすべての果実を、かれの努力と他の者の労働によって、陸運・水運双方から得るすべての利潤と商品を、思うがままに使用し享受する。金・銀および人間の生命の維持に必要な者を豊富にもっている。あらゆる種類の魚と肉をたくさん食べる。すべての衣服にすばらしい毛織物を用い……あらゆる器具、道具、農具を……落ち着いたゆたかな生活の成就に必要とされる他のあらゆるものを、大量に所有しておリ、通常判事の前以外で法に訴えられることはなく、その土地の慣習的な法によって正しくあつかわれるのである。
イングランドが豊かであったからこそ、営業の自由が高唱されたともいえるだろう。
ジェームス1世の治世には反独占運動は激烈なものとなり、1604年国王は個人に与えられていた全ての特許状を廃止、議会で次のように演説した。
「すべての自由な臣民は、かれらの土地に対するのと同様に、かれらみずからそれに従事し、かつそれによって生活しなければならない営業(trades)に自由に精励するという〔権利を〕承継して生まれている。商業は‥‥重要であるので、現状のようにそれを少数者の手中にとどめておくことは、イギリス臣民の自然権と自由に反する」(註9)
しかし王室財政の窮迫と廷臣の金融支配の擁護のため独占特許が濫造されたため、再び反独占運動が昂揚し、1624年には独占大条例が成立した。それは「すべての独占、委託、認可、許可状、特許」の廃止、コモン・ローによるそれらの審査を条文に明記した。しかし、法の適用の免除があり徹底したものではなかった。ロンドンその他自治都市、印刷、硝石、火薬、鉄砲、明礬、ガラス、鉄の鋳造、ニューカッスルの石炭などである。
チャールズ1世は無謀にも独占特許を増加させたため1640年の「長期議会」では国王への攻撃のるつぼとなった。独占企業家が議会から追放され、いわゆる内乱に突入することとなる。結果的には1688年の王室鉱山条例で金属の鉱業権が王室から剥奪され鉱業独占が一掃されることにより、名誉革命により「初期独占」は解体され、イギリスでは経済的自由主義が確立したとされる。私企業は急激に簇生し、金属工業の繁栄は生産手段生産部門で、オランダ(前期資本の独占支配を維持していた)を追い抜くこととなり、18世紀後半には産業革命に到達することとなる。(註10)。
経済史家の川北稔は、いわゆるウェーバー・テーゼ(清教徒の職業労働を隣人愛実践として神与の使命として誠実に励む行動様式を資本主義の精神と結びつける)を否定して、産業革命の本当の理由は、イギリス社会の特性と広大な海外市場を確保した商業革命と、ノーフォーク農法による農業革命だという(註11)。しかし、商業革命の前提として、16世紀末から議会の反独占抗争、独占特許状をめぐる国制論争があって、1641年の長期議会では独占企業家が追