正平一統の記述に関する訂正
五月病のような無気力状態になってますが、2005年10月10日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_f888.htmlにおける次の直仁親王の廃位に言及した記述につき廃位されていなかったことが小川剛生氏の著作でわかったので、廃太子の記述をカットして訂正したいと思います。(すでに訂正しているがその理由を述べる)
正平の一統(正平一統に訂正)とよばれる南朝による政権の接収により状況は大きく変化した。崇光天皇(当時18歳)は大嘗祭未遂のまま廃位、神器も南朝に回収され、東宮直仁親王(当時16歳)も廃位とされた。正平の一統(正平一統に訂正)は直義が毒殺された時点で破綻し、正平七年(1352)閏二月北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大路(七条大宮に訂正)の市街戦で大敗し、三上皇廃太子(三上皇皇太子に訂正)を置き去りにしたまま、近江に敗走する大失態で、結果、三上皇廃太子(三上皇皇太子に訂正)は大和賀名生まで連れて来られた。
観応二年(正平六年)尊氏の南朝降伏(講和の条件は公家については南朝の全面支配、武家については尊氏が支配することを認めるというものだった)により、十一月七日崇徳天皇は廃位とされ、光厳上皇の院政が停止され、天下は形式上後村上天皇の親政になった。これを「正平一統」と呼ぶ。吉野朝は北朝の前太政大臣洞院公賢を左大臣一上に任じて京都の責任者とし、崇光天皇から三種の神器を接収した。ただ南朝の使者は後村上天皇は当分の間京都に出てこないと言明した。これは幕府を油断させるもので、北畠親房は講和とみせかけて明年閏二月を期して、京都と鎌倉を同時に軍事占領する作戦であった。(今谷明『中世奇人列伝』草思社139頁)。光厳に長講堂領を安堵、光厳・光明・崇光に太上天皇の尊号宣下の宥和策も油断させるための戦略でもあったわけですが、小川剛生『二条良基研究』笠間書院2006は、皇太子直仁親王は廃位とはなっていないと明快に説明されております。詳しくは同書を参照してください。小川氏によると洞院公賢の日記『園太暦』十二月十五日の記事「春宮御方(直仁親王)始終御運事云々」でこのことは明らかです。直仁親王は皇太子のままであった。つまり光厳上皇は、あくまでも大覚寺統と持明院統の両統迭立という認識で、後村上天皇の次は直仁親王ということだった。洞院公賢は南朝政権の左大臣ですから。今回は政治的事情により譲ったが、持明院統の皇位継承が否定されたものとは全然認識していないし、持明院統こそ正統と自認しているから当然のことであるが、直仁親王は南軍の実力行使で大和賀名生に連れてこられ幽閉されたこと。さらに北朝は後光厳天皇が光厳上皇の裁可ないとはいえ、即位したことにより事実上皇位継承が不可能になったというだけ。正平一統により廃位とされたわけではない。
要するに、従来の歴史家(例えば今谷明)は三上皇廃太子(光厳・光明・崇光・直仁親王)が賀名生に拉致されたなどと記述していた。正しくは大和賀名生に遷られたと書くべきだが、実態は実力行使によるものだから拉致でもかまわないが、正確には三上皇皇太子なのである。崇光天皇は正平一統で廃位とされたが、皇太子直仁親王(花園皇子とされるが実は光厳皇子)廃位とされていない。
この間の事情についてあらためて述べます。20年くらい前だと思いますが、大河ドラマ「太平記」はほぼ全回見ましたがドラマの終盤でほぼ史実に沿ったかたちで「観応の擾乱」が描かれていたのでストーリーの大筋は覚えてます。
貞和四年、執事高師直は四條畷の戦いで楠正行らを討ち、勢いに乗じて吉野へ攻め入り、行宮などを焼き払い南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ逃げ込ませる軍事的大功により台頭し幕府の権勢家となります。
しかし副将軍格の足利直義と政策的にソリが合わず対立、貞和五年直義の要請によりいったんは執事を罷免されます。ところが高師直が足利尊氏と示し合わせたクーデターにより復権し、直義は出家して政務から退く。
翌年十月、尊氏は中国地方に蟠踞して従わない直義の養子直冬を討つため出陣するが、直義は京都を出奔、直義が南朝に降って河内石川城で挙兵したことから、直義党が勢いづき、直義軍は義詮を京都から追い北朝を確保、観応二年二月、中国遠征から引き返してきた尊氏は摂津打出浜の戦いで直義に敗れ、高師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦、高師直・師泰は護送中に殺害される。直義は幕府の政務に復帰するが、尊氏と義詮が京都を挟撃して直義を討とうとする。それに気づいた直義が北陸に逃れ、その後和睦工作がなされたが、直義党の強硬派が拒否したため決裂、直義は信濃経由で鎌倉へ下る。
尊氏は直義を討つため南朝に降伏して尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、尊氏は関東に進発し、駿河や相模早川尻の戦いで直義軍を撃破、直義は鎌倉で毒殺されます。このへんまではドラマの終盤でよく描かれていたと思いますが、このあとの三上皇皇太子拉致事件や後光厳擁立の経緯などは映像的に表現されず、わかりにくかったように思う。大雑把にいってしまえば尊氏-師直派と直義-直冬派の武家政権の権力抗争・派閥抗争のが二転三転したうえ直義や尊氏が便宜的に南朝に帰順したため複雑な経緯を辿っている。。
尊氏の南朝降伏は、光厳上皇に事前に知らされておらず、道義的には無節操、重大な裏切り行為ともいえるが、尊氏からすれば直義を討つ以外に選択肢はない。再び直義党が南朝と結びつくような事態は戦乱の規模を拡大させるのでそれは現実的な政治判断だったともいえるだろう。
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