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2008/07/13

中世の温暖期といえば1167年皇帝バルバロッサのローマ総攻撃後のマラリア大流行による破局的事態も論拠になるだろう

  経済評論家の植草一秀氏がブログで地球温暖化仮説への疑念を表明されてます。http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_1986.htmlそこで中世の温暖期について言及されてますが、はたと思いついたことがあります。

 11~12世紀は温暖期ということは昨日のブログで書きましたが、そういえば1167年皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)がローマ総攻撃を仕掛け、ローマを占領し、正当な教皇アレクサンデル3世がベネヴェントに逃れた後、皇帝の傀儡たる対立教皇パスカリス3世により戴冠式が行われこの勢いでアレクサンデル3世の軍事的後ろ盾になっていたノルマン朝シチリア王国の征伐に向かう矢先、マラリアが大流行してローマ近郊に駐屯していた皇帝軍兵士の殆どが死に、反アレクサンデル派の急先鋒ケルン大司教ライナルト・フォン・ダッセルをはじめとして多くの皇帝派の司教や諸侯が死に、皇帝にとって大きな痛手となリ、パスカリスと占領軍を残して撤退せざるをえなくなったことを想い出した。
 私は亜熱帯でもないローマで何でマラリアが流行したのか奇跡だったのか不思議に思っていたが、12世紀は温暖化・温暖化と騒いでる現代より温暖な時代だったということでようやくその意味がわかりました。
 実はこのマラリア大流行が教権が皇帝の支配を免れ、独立を保持し、中世高期の教皇主位権黄金時代を確立する最も重要な事件ではなかったかと思ってる。
 皇帝軍の総攻撃に対し、教皇アレクサンデル3世は聖ペトロ寺院に要塞を築いて籠城し、非常に良く頑張ったのである。教皇はこの世のいかなる権力によっても裁かれることはない。皇帝が教皇を召集して裁くなど越権行為と繰り返し主張し、教皇首位権の主張から一歩も妥協して譲ることはなかった。結果的にローマを逃れることになったが、このことが重要である。
中世の人々は、マラリア発生によるカスタロフィを聖なる教会を焼き打ちにして、正当な教皇を承認しない皇帝ヘ天罰が下ったものとみなしたらしい。対立教皇の立場を悪くし、アレクサンデル3世を支持するロンヴァルディア都市同盟は16都市に拡大して、教皇に有利な形勢に傾き、皇帝も教皇との和睦を模索することになっていった。
  そうすると温暖化は悪くなかったといえる、マラリアが流行してカトリック教会の独立が保持できたから。アレクサンデル3世はマラリアで救われたのだった。
パソコンの中に教会婚姻法研究の原稿が眠っているのだが、その理由は引用文献のない論文だからである。
出所をある程度明示したかったが、ニコチン中毒がひどい時に書いたので、引用文献リストが散逸してしまったのである。しかし未完成原稿をこの際公開する。

教皇アレクサンデル三世の事績

 同教皇は法律と行政の天才であり、不屈の精神で中世屈指の傑物皇帝フリードリヒ・バルバロッサと、枢機卿時代から通算して21年にわたって闘争し、結果的に少なくとも形式的には勝利し、教権は皇帝の支配を免れ、独立を維持し、教会改革の絶対命題たる教皇首位権を確固なものとするため、身を捧げて働いた。
  現代西洋人の結婚観の基礎を据えたのは同教皇だけの業績ではないが、決定的な意味で立法者であること。なおかつその婚姻理論は同教皇の持論でもあった。筆者の関心はその一点にある。しかしながら、婚姻法制史を検討していくならば、例えば王政復古後の英国において主教の裁治権が及ばない特権教会や特別教区が「秘密結婚」センターになっていたという問題を溯っていけば、修道院の免属や聖職推挙権といった、まさにアレクサンデル三世が関わった法律問題が絡んでくるのである。

 教皇アレクサンデル三世(生年1105頃、在位1159~81)は、前名ロランドゥス・バンティネルス(仏語オルランド・バンティネッリ)シエナの出身、1139―1142ボローニャで法学教授。著書に『修士ロランドゥスの大全』これはグラティアヌスの初期の註釈書として知られている。いわゆる法律家教皇のはしりである。
 教会法はグレゴリウス改革期に教会法源の整理統合が試みられ、9世紀の偽イシドールス教会法令集が再評価されとともに、グラティアヌスが聖書から第二ラテラノ公会議まで法源論から、秘跡・典礼にいたるまでテーマ別に整理・収録されて法実務の基礎を持つようになった。ローマ教皇の普遍的権威が強調された結果、教皇の一般的教会法制定権が確立し、エウゲニウス三世期に教皇授任裁判というシステムがとられて、教皇は上訴された事件を裁定して、教皇令=立法による古典カノン法が成立していく。同教皇と13世紀の偉大な教皇にかけて、黄金時代となった。、
 神学では『ロランドゥスの命題論集』があり1150年頃完成した。この著作は柏木英彦によると、アベラルドゥスに従って神学を三区分したうえ、問題を組織的に論述し、対立する権威と理拠を調停するという方法をとり、しばしばフーゴとアベラルドゥスを対置させ、アベラルドゥスの非難された見解に一線を画しているものの、採るべき点は生かすという態度を示すもので、アベラルドゥス派ないしその影響の強い書物と評価されており伝存するのは一写本しかない。
 1150年エウゲニウス三世により枢機卿に任ぜられ、1153年以降教皇庁尚書院長としてアスタナジウス三世とハドリアヌス四世(在位1154-59)に仕えた。これは12世紀において教皇に次ぐ要職である(枢機卿会では教皇に次ぐ第二の席次をしめる。訴状や請願書は教皇に手渡される前に尚書院長があらかじめ目を通しその処置を決定する)。

 皇帝との闘争
 

 尚書院長ロランドゥスはハドリアヌス四世という活発で決断力のある教皇のもとで、反皇帝的な対外政策の推進役であった。ハドリアヌスは1156年ノルマン朝シチリア王グリエルモ一世とのベネヴェント和約を締結するが、 ロランドゥスが交渉に当たった。これは1150年のコンスタンツ協定(教権と帝権の相互協力を定めた)を反故にするものだった。シチリア王国との和睦によって軍事的後ろ盾として帝国との対決姿勢を取ったとみることもできる。1157年プザンソン帝国議会の教皇使節の一人もロランドゥスであり、教皇書簡の解釈をめぐって皇帝フリードリヒ一世(赤髭帝バルバロッサ)及び宰相ライナルト・フォン・ダッセルらと激しく衝突した(なおソーヌ川の東側は1156年フリードリヒ一世とブルグント王国女子相続人ベアトリクスの婚姻により帝国の実効支配にあった)。1158年皇帝は第二次イタリア進攻で北イタリアを制圧し、ロンカリア立法(あらゆる公権は王権のみから単一に発生するという)公布してイタリア諸都市の帝権支配の基礎を固めたが、これに対抗するため、教皇は1159年4月ロンバルディア諸都市との同盟を締結(この時点ではミラノなど4都市)し、皇帝支配に反発するミラノなどをビサンツ皇帝やシチリア王の協力により支援した。この交渉にもロランドゥスが当たっている。これに反対した枢機卿がオクタヴィアヌス(対立教皇ヴィクトル四世)とグィド(第二の対立教皇パスカリス三世)であり、彼らは皇帝と血縁関係にあった。ハドリアヌス四世はグレゴリウス7世の原則を繰り返し述べ、譲らない姿勢を示したのであり、一方フリードリヒ一世はレガリア政策を進め集権的国家建設の野望をもつ以上、両者の争いは不可避であった。
 1159年9月ハドリアヌスが死去。教皇選挙は親シチリア王国のアレクサンデルら多数派と親皇帝主義のヴィクトルら少数派が対立し武装集団が選挙会場になだれこむ騒動の末、二重選挙となり(1159年シスマ)、1160年皇帝は教皇選挙調停者と称しパヴィアに教会会議を召集しヴィクトル四世が正当な教皇とされた。しかしこの会議にはドイツの高位聖職者50名ほどしか集まらず、アレクサンデルは教皇は召集するが召集されないなどとしてこれを認めず、諸国に全権特使を派遣して同教会会議が公正なものではないこと。皇帝が教皇を裁くことはこの世のいかなる法にも明記されていないとして、支持を求めた。イングランドの教会は大司教シアボールドをはじめ、ほぼアレクサンデル支持で固まっていたと推測されており、フランスは危機的な状況にあったので教皇と政治的に連合するしか政策上の選択肢がなかった。1160年7月フランスとイングランドはボーヴェにおける合同の教会会議でアレクサンデルを正式に合法的な教皇と承認した。
 1162年ロンヴァルディア都市同盟で最後まで皇帝に抵抗したミラノが皇帝軍により征服破壊されて、ジェノバにいたアレクサンデル三世はフランスに逃れる。教皇はフランスで暖かく迎えられたが、この時点でローマからリューベックまで帝国の版図となり、バヴィアでヴィクトル四世により皇帝の戴冠式を挙行し、皇帝はイタリア王も兼ねることとなった。さらに皇帝フリードリヒ一世はルイ七世に脅しをかけ、シスマを解決するためにソーヌ河畔サン=ジャン=ド=ロンにおける仲裁裁定の会議を約束させたが、結局ルイ七世と宰相ライナルトが双方約束違反の非難の投げ合いで終わった。この時、ハンガリーはアレクサンデルを支持し皇帝がフランスを攻めたら帝国に宣戦布告すると声明していた。またヘンリー二世はアレクサンデルの切実な要請により大軍を率いて接近してきたため、皇帝も食糧不足から衝突を回避した。アレクサンデルはフランスで活発に働いて、占領地のエルサレムを含め、帝国を除く全ヨーロッパで正当な教皇として承認されていく。1163年トゥール教会会議を召集し皇帝、対立教皇、マインツ大司教コンラート、ケルン大司教ライナルト・フォン・ダッセルを破門し名声を高めた。
 一方ヴィクトル四世は死去して、反アレクサンデルの急先鋒ケルン大司教が非教会法的に第二の対立教皇パスカリス三世を擁立し、ロランドゥスとその一味への忠誠を拒否するという忠誠宣誓を提案し、皇帝は高位聖職者、諸侯に福音書にかけて誓わせたが、マインツ大司教、ザルツブルク大司教は従わず、マインツ大司教は封土を剥奪された。またケルン大司教は国王と大司教の対立を利用してイングランドとの反アレクサンデル同盟を画策し、1165年5月ヴュルツブルグ帝国会議にオックスフォードのジョンとイルチェスターのリチャードが国王・諸侯の名代として出席しアレクサンデルに対する忠誠を撤回し、パスカリスに忠誠の誓いをたてたが、1166年6月教皇特使の地位を与えられたトマス・ア・ベケットは、両名を「皇帝に対し冒涜の誓いをなし、教会を分離したケルン大司教と交わりを持つ」など「呪いの異端に堕ちたが故に」として破門。さらに国王ヘンリーに対し悔い改めなければ破門すると述べ、ヘンリー二世は命令により誓いを撤回した。1165年アレクサンデルは北イタリアの皇帝への反乱を利用し、ピサの艦隊をかいくぐってローマに帰還。ビサンツ皇帝マヌエルと交渉してロンバルディア諸都市に軍資金を調達した。
  1167年皇帝は第四次イタリア進攻で全軍を集結してローマを攻撃し、二千人の市民が死に三千人が捕虜となった。しかし教皇が要塞を築いていたため、聖ペテロ寺院はなかなか陥落せず、そこで隣接する聖マリア教会に火が点けられ、聖ペトロ大聖堂の柱廊まで火の粉が飛んだ。ローマ市民は枢機卿にアレクサンデルの身柄引き渡しを迫り、マインツ大司教コンラートは教皇選挙やり直しという仲裁案を示したが、ここでも教皇は地上の裁判に服さないと言って踏ん張り、 こっそり脱出してベネヴェントに逃れた。パスカリス三世が堂々と連れてこられ正式に教皇座に着き皇帝皇妃の戴冠式を挙行、皇帝軍はこの勢いでノルマン人討伐に向かうはずだった。ところがローマでマラリアが流行し、近郊に駐屯していた皇帝軍兵士の大多数が死に、ケルン大司教ライナルト・フォン・ダッセルをはじめとして多くの司教や諸侯が死に、皇帝にとって大きな痛手となりパスカリスと占領軍を残して撤退せざるをえなくなった。これを機にロンバルディア都市同盟は16都市に拡大しアレクサンデルに有利な情勢に推移していく。
174年皇帝は第五次イタリア進攻を企てたが、1176年レニャーノでロンバルディア都市同盟軍に大敗し、アナーニで交渉がもたれ、ロンバルディア諸都市と6年間、シチリア王国と9年間の停戦、皇帝は諸都市に忠誠宣誓を強制しないことなどが協定され、遂に1177年6月ヴェネチアのサン=マルコ寺院で、皇帝は教皇の足に平和の接吻をして、ローマ教会と和解し、対立教皇カリクリトゥス三世は修道院長の地位が与えられ、ヴェネチア和議が成り立った。この時、教皇は皇帝の首根っこを押さえつけたとも伝えられるが後世の創作である。皇帝との和解については政治史的な評価は定まってない。実質的に皇帝に有利なもので、イタリア支配を固め、むしろ政治的に不安定になったのは教皇の方だったという見方もある。実際、その後も皇帝は教皇領を侵攻し、教皇がローマを追われる事態も起きている。しかしながら、総じてアレクサンデル三世は長期の在位にもかかわらず大惨事を起こさなかったし、政治家としての力量、頭脳の明晰さは明白である。

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