感想 林成之〈勝負脳〉の鍛え方
講談社現代新書2006年。通俗的な本だが、著者は脳神経外科医、日大大学院教授。人間の心の生まれる場所はドーパミン系神経群とされ、意識・心・記憶は海馬回でつながっていて、連動しながら機能しており、三者の調節機能をモジュレータ神経群とよび、このモジュレータ理論が著者の持論とのことである(24頁)。ドーパミン系神経群はこの三者の連動を適切に調節するという。海馬回をはじめとするドーパミン系神経群をモジュレータ神経群とよんでいる。
心とは内意識によってもたらされる刺激や情報によって何を思ったり感じたたりするかという動きのことと著者はわかりやすく説明しているが一口に言えば感性だろう。
感性と知能が結びついて、倫理観・世界観・イデオロギーがあり思想があるのだから、心と記憶の連動は当然のことだろう。
そうすると、記憶の部分で私は個体的唯名論的な自己自身を知っているだけだから、それをカットしても人格は人格であり、心と記憶の一部である知能・知識はトランスパーソナルな構造的存在と仮定できる。しかしトランスパーソナルというのは不安な概念である。自己自身の心が揺らぐようなニュアンスがあるが、実はそうではない。心と知能が連動しているとするモジュレータ理論により、個体的唯名論的自己と結びつかない自己規定認識。自己はこうあるべきであるという認識--まさにそれが知能--知能で規定された心の在り方・人生観・世界観といっても良い---により自己規定されるとすれば、つまり、私は都立園芸出身の川西正彦と言っても、私の思想自体は引用の編集・合成であり、つまり私は18世紀のマンスフィールド卿と同じく労働運動は弾圧したい。20世紀初期のベッカム判事と同じようにロックナー事件は違憲判断である。あるいはそれに共感する。そのような人格があって私自身が満足できる心とキャラクターならそれは別の意味での自己なのだ。私自身がこう自己規定して満足できる心の持ち主が構造的に存在するとすれば、狭義の自己概念とは別の自己が構造的に存在することになる。私は、独身聖職者と同じく生殖活動は行ってない。子どもにより複製しないが、私の肉体は滅びても、構造的な存在として自己規定されているものとしてあると認識できる。
精神現象は物理化学過程にすぎないと思うが、にもかかわらず、エジワーズの神学、構造的存在論のハビット概念を援用して、自己自身をトランスパーソナル、もしくは自己自身の構造的存在としての存在性、もしくは自己自身に満足できないとするなら自己自身を他者として消去というのが私の思想である。
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