1984~85年イギリス炭坑ストライキ敗北の歴史的意義(1)
イギリスにおいて労働組合衰退の画期と考えられるのが、ストライキ派と反ストライキ派で暴力抗争となり死者も出した1984~85年全国炭坑労働組合(NUM)ストライキの決定的敗北である。社会史的にいうとベルリンの壁の崩壊やソ連の崩壊よりも大きな事件だと私は思うのでその意義を検討し、長期シリーズで取り上げることとしたい。
このストライキは、1984年3月6日イアン・マクレガー石炭庁総裁が1984年中に174抗のうち採算のとれない20抗を閉鎖し約2万人の合理化計画案を公表したことが発端であり、戦闘的なアーサー・スカーギル委員長のお膝元であるヨークシャ-も不採算で閉鎖の対象となっていた。ストは全国的な組合員によるストライキ批准投票(ストに突入すべきか否かの郵便による無記名秘密投票)もなく、アーサー・スカーギル全国炭坑労働組合(NUM)委員長のストライキ指令で始まったもので違法だった(1984年法で役員承知の違法ストライキは罰金が課せられ、拒否すると法廷侮辱罪により組合財産が没収されることとなっていた)。
一方ノッティンガムシャーやレスターシャーの炭坑労働者は炭層の厚い優良炭坑だったため、ストライキに反対だった。スカーギルは民主的なストライキ批准投票を行おうとする炭坑、反対派の拠点となっている炭坑には、ハエのように移動する遊撃ピケ隊を送り込んで脅す得意の戦術をとった(フライングピケットと言う)。反ストライキ派の炭坑を厳重なピケッティングで就業妨害しようとしたが、その職場当事者でない遊撃ピケ隊がピケを張るのは1980年法で違法とされていた。スト破りの家族が脅迫された。凄惨なリンチもあった。警官隊が投入されピケ隊と激突した。特に1984年5月29日のコークス輸送トラック部隊の妨害事件では5000人を超すピケ隊と警官隊が交戦、あらゆる物が警官に投げつけられ、戦争のような様相となった。
全国炭鉱労働組合敗北の理由
スト反対派が少なくなかったことと、反対派労働者の労働の自由を政府が支援したことが組合側が敗北した最大の理由だと思うが、敗北理由としては次の点が挙げられる。
1 ピケ隊の暴力は国民の支持を得られなかった。サッチャー政府が、ストライキに反対し働く意思の労働者の就業をピケ隊の妨害から断固として守る。ピケ隊の脅迫は許さない。暴徒を容認しない。警官隊を投入して、ビケ隊を蹴散らし、労働者の就業する自由を守るメッセージを発した。保守党はビケ隊の脅迫に屈せず、就業する炭坑労働者に拍手を送って励ましたのである。政府は労働の自由を守るべく行動したのである。
2 同情ストが違法とされたため、鉄鋼労組や発電所組合が同情ストを拒否したため、国民生活への影響が大きく広がらなかったのである。
3 ストライキに対抗する政府側の準備もぬかりなかったこともある。リッドレイ下院議員を中心とするグループが報告書を作成していた。いわゆるリッドレイ報告書は、ピケットに対処する警官の再訓練を行う。貯炭、とりわけ発電所の貯炭。輸入炭の備蓄プラン。石炭輸送のための非組合員のドライバーの確保などのストライキ対策を提案していた。
4 警官は勇気があり有能だった。ストライキ派と労働党キノック党首は警察側の暴力を糾弾し誹謗したが、国民から同情されなかったのである。
5 組合潰しの実績によりアメリカ人でありながら、スカーギルに対抗できる人物として石炭庁総裁に就任していたイアン・マクレガーの手腕によるところも大きかった。1984年10月31日にマクレガーはスカーギルと交渉を持ったが、炭坑の閉鎖の判断は独立した調査機関とするという組合側の主張をはねつけ、非経済的な炭坑を閉鎖する判断はあくまでも全国石炭庁にあり、経営権で一歩も妥協しなかった。このままではスカーギルとは交渉しないとしたうえで、クリスマスまでに職場に復帰すれば1400ポンドのボーナスを支給するという、切り崩し工作を開始した。11月に29%がストから脱落、1985年1月に41%、2月には半数がストから脱落。3月5日にNUMは職場復帰を決定せざるを得ず、組合側が完全敗北を喫したのである。
6 組合側からすると3月というスト突入の時期が悪かった。1974年29%の賃上げを勝ち取った炭坑ストは前年の11月から時間外拒否、2月から無期限ストに突入し、厳寒期で国民生活ヘの影響が大きかった。
保守党政権の労働組合規制
このことで、イギリスにおける労働組合の退潮は保守党政権の政策と相俟って決定的なものになったといえる。
ブログで1980~90年代のイギリス保守党政権の労働組合活動規制・弱体化政策と、労働者のストライキに参加することを不当に強制されない権利の確立の意義を高く評価することはこれまでも述べてきました。例えば英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(4)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_94d1.html 感想 田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』(1)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_5e18.htmlなど。
つまりサッチャー首相およびメージャー首相の保守党政権下では、漸進的かつ徹底した組合弱体化政策を繰り広げられたのである。①クローズド・ショップおよびユニオン・ショップの規制②チェック・オフの規制、③争議行為の批准投票の義務付け〔ストライキに賛成するか否かの批准投票は郵便秘密投票とされ第三者が監査することを義務づけ〕による公認ストライキ制度④ピケの規制〔六人以下で平和的なものに限定、就労者の通行阻害の否定〕と同情ストの禁止、⑤非公認争議行為参加者の不公正解雇救済の否定、⑥法定組合承認手続の廃止〔組合を承認するか否かは経営者の判断〕、⑦組合費、組合財政、幹部選挙を含む各種の組合内部問題の規制により組合活動を規制した。これらとともに採られた自由企業、公開競争、効率性を奨励する経済政策は、国家の歳出の削減、国営企業の民営化、公的サービスの規制緩和を促し、また、経済のソフト化とグローバル化によって、組合の弱体化は急速に進んだ。PDFhttp://www.jil.go.jp/institute/reports/2004/documents/L-9_06.pdf
政策はストの態様の規制だけでなく、スト権投票や役員選挙の選出、組合財政といった組合の内部問題に政府が強く干渉しルールを設定しているが特徴的である。
法定組合承認手続を廃止したことは、かつてのコレクティブ・レッセフェールに戻っているが、放任主義とは反対に、我が国でいえば、組合自治に反すると反対されかねないような事柄について、労働組合の民主化と組合員個人の権利のために政府が干渉する政策なのである。
保守党政権の労働政策の仕上げである1988年雇用法は、ストライキに参加することを不当に強制されない権利、すなわちピケットラインを超えても組合に制裁されない労働者個人の権利と、労働組合に訴訟を起こす権利、組合会計記録の閲覧権、チェックオフ停止権を労働者個人の権利として確立した。さらに1990年法でクローズドジョップは完全に禁止された。二次的争議行為の禁止、非公式ストライキの免責を拡大した。ブレア政権で若干の揺り戻し(労働組合に有利な政策、EU社会憲章の承認、、組合承認の法的手続き)を許した。ただ根幹部分の政策(非公認ストライキの免責の制限、労働組合の内部規制、労働者の個別的権利の尊重など)で保守党の政策は継承されたのである。
英国が15年の景気拡大と好調な理由の一つが労働組合の弱体化であることはいうまでもない。
労働組合に対する国民の反感の要因「不満の冬」の経験
このような労働組合規制政策を推進した背景の一つとして、1974年ヒース保守党政権を崩壊させた炭坑ストライキの大勝利と、優遇された労組の度重なるストライキとくに直接紛争に加わってない人達の工場輸送を妨げる二次ピケッティングがしばしば暴力沙汰を起こし、社会が麻痺状態に陥った「不満の冬」(1978年~1979年)が、イギリス国民の労働組合不信感を決定的なものにしたということがある。
ヒース政権を崩壊させた全国炭坑労働組合(NUM)争議は1973年の11月に始まった。NUMは30%の賃上げ要求に対し、ヒース政権は16.5%の増額を提示したが組合が拒否。11月12日からNUMは時間外労働拒否闘争に入り、この動きは電力、鉄道など他の組合にも波及した。1974年1月24日のストライキ投票では81%の高率批准で、2月10日より全国270の炭坑で無期限ストライキに突入したが、政府を驚愕させたのが、空前の混乱をもたらした当時副委員長だったスカーギルが指導したフライングピケットという遊撃ピケ隊だった。
ハエのように移動して集まって石炭輸送を妨害した。鉄道労働者やトラック労働者も支援し、貯炭準備が乏しい状況で、石炭の発電所への輸送をピケ隊が妨害したのである。アナルコサンディカリズムに振り回される国家の惨めな姿だった。ために、電力不足は深刻化し、国民は暗くて寒い冬を経験し、ロンドンでは馬車が復活、オフィスではローソクをともす事態となった。
ヒース首相は総選挙で事態を打開しようとした。国民に「イギリスを統治するのは政府か労働組合か」を問うた。国民が組合の横暴に怒り、極左分子に乗っ取られている労働党が勝つことはあるまいとふんだわけだが、しかし結果は労働党301、保守党297、自由党14で自由党が連立を拒否したため、ウィルソンが首相に復帰し、労働党少数内閣となった。フット雇用相はNUMの要求に近い29%の賃上げを認めてストは解決、ヒース政権を打倒するオマケもついて労働組合の大勝利となった。
私が疑問に思うのは石炭輸送を妨害するフライングピケットを排除できなかったのかということである。アメリカではレーバーインジャンクションという争議行為を衡平法に基いて差止命令を発する制度があるが、結局、ヒースは労組の横暴に有効な対策が打てず、非常事態宣言で国民に耐乏を強いただけなので選挙に勝てなかったのである。
1979年に労働組合員はピークに達し、約1300万人総労働人口の約半数が組合員となるとともに、公務員の労働組合NURUが戦闘的になった。1978~79年の「不満の冬」とは主として公共部門労働組合の横暴を指すものである。基軸産業の組合が大きな賃上げ合意をしたため、公務員もそれに続こうとし、78年12月,地方自治体現業労働者は40%の賃上げを要求した。フォード自動車労働者はむしろ穏当な17%アップで決着した。1979年1月貨物自動車とタンクローリーの運転手が25-30%の賃上げを求めてストライキにはいった。1月22日,150万人の公共サービス労働者が24時間ストライキにはいった。
水道労働者,救急車の運転手,下水労働者,ゴミ収集人たちは皆仕事をやめた。リバプールでは,墓掘り人が死体埋葬を拒否したので死体が積み重ねられたままにおかれ,大きな非難を巻き起こした。公共サービス労働組合の3つが穏当な9%プラス週当たり1ポンドで妥結したが,賃上げ要求が統制を失った。5%という政府の基準は完全に無視されていた。給食婦のストで50万人が学校にいけなくなった。ゴミは山のようになって積まれたままで収集されずに散乱、それは市民が忘れることのできないひどさだった。しかも労組は要求が通るまでストを続けると宣言。厳しい冬で生活を痛撃された市民に深刻な社会不安を惹起させ、ピケによる暴力沙汰は市民を憤激させたのである。当時労働党キャラハン政権であるが、保守党より5ポイントリードしていた支持が逆に20%リードを許した。
このように国民が労働党政権を見限った状態でサッチャーが登場した。
引用参考文献
山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国』2008年ミネルヴァ書房
山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/laic/kiyou/2007_sr42_2-4/2007_sr42_2-4.html(電子データでダウンロードできます)
小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年
ピーター・クラーク著西沢保他訳『イギリス現代史1900-2000』名古屋大学出版会2004年
銀の森のゴブリン サッチャーの時代とイギリス映画①
今井 貴子.
イギリスの労働組合と政治. ―その理念とリアリズム」『生活経済政策』2008年3月№134
PDF http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/hikaku/pdf/200803.pdf
「不満の冬」について
美馬孝人,大西節江「1970年代のイギリス国民保健サービス」『北海学園大学経済論集』第55巻第1号(2007年6月
PDF http://www.econ-hgu.jp/books/pdf/551/mima_57159.pdf
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