感想 廣瀬憲雄 「日本の対新羅・渤海名分関係の検討-『書儀』の礼式を参照して-」
『史学雑誌』116編3号2007年。
隋・唐王朝は君臣関係とみなす周辺諸勢力に対して「皇帝[敬]問某」で始まる慰労詔書や「勅某」で始まる論事勅書を用いていた。
令制以後、我が国も新羅・渤海両国への外交文書に慰労詔書を用い、渤海に対しては天平十二年、新羅には天平勝宝四年に「表」の提出を要求し、新羅・渤海両国を蕃国として服属させる強硬な外交方針をとっていたことが知られている。
「表」は「臣某言」で始まり君臣関係を明確にさせるものだが、新羅・渤海両国が「表」を提出したことはない。石母田正は「東夷の小帝国」と言うが、我が国が外藩国として朝鮮半島諸国を明確な君臣関係、冊封体制に組み込めなかったことは帝国としては、有名無実、未完成ともいえる。
著者によれば、我が国が新羅・渤海に対して、上表・称臣を要求したのは宝亀年間(奈良時代)までであり、延暦期に放棄されたことを明らかにしている。以後我が国は渤海に「啓」という上長に奉ずる様式を要求し、我が国が上位である礼式を遵守させる方針に譲歩することとなり、渤海とはこの礼式で合意することができたので外交関係が926年渤海滅亡時まで継続した。つまり渤海は新羅を牽制するために我が国と良好な外交関係を維持する必要があった。
著者によるとこの礼式は唐-突厥・回鶻・吐蕃の擬制親族関係が結ばれた関係に概ね対応する。すなわち「君臣関係とみなすが相手を通常より高く評価する」「上表・称臣はしないが相手を上位に置く」名分関係なのだというのが著者の説である。
新羅に対しても延暦以後「表」の要求から「啓」の要求に転換していたとみなしているのが著者の説である。従来殆どみのがされていた『三代実録』仁和元年六月廿日条を取り上げ、来日した新羅使が「啓」を所持せず、牒を函に入れず紙で包んでいるだけという異例を報告している記述から明らかだと著者は述べている。
上表・称臣要求を放棄したと言っても、渤海に対して日本上位の礼式を遵守することは強硬に要求されており、「状」のような様式は認めない。新羅はこちらが礼式で譲歩しているにもかかわらず、我が国に対して無礼きわまる態度のまま(対等外交の要求)だったので、承和年間の大宰大弐藤原衛の4条起請にみられるように敵対視せざるをえないということだろう。
著者は延暦十四年に来日した渤海使の外交文書を検討しているが、「伏惟天皇陛下、動止万福、寝膳勝常」を次のよう解説する。臣を称さないが、「陛下」と尊称している。第一首の起居を問う語の「動止万福」は伯叔等の傍系尊属、兄姉などの長属に対する用例である(完全な君臣関係では「聖躬万福」を用いる)。「寝膳勝常」も外祖父に対する礼式としている。従ってこの文書は日本上位の礼式である。我が国が要求した「啓」というのは、天平勝宝以前の渤海使の旧例のことであり、一応「啓」の提出で日本上位の礼式を表明させることで満足するものとしたのである。
大唐帝国といえども、交戦し実力が接近している吐蕃に称臣の外交文書を提出させることはできなかった。それは今日のチベット問題にもリンクしてくる問題だが、従って、我が国が渤海に対して「啓」の提出に譲歩しても帝国としてのメンツは保たれたと理解してよいと思う。
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渤海・新羅と日本の関係は難しいですよねー。新羅が唐との対抗上、日本に辞を低くして朝貢を容認していた、という言説自体を否定する堀敏一さんとかもいますし。渤海との関係も、啓という文章形式に関してもそうです。
投稿: あ | 2010/02/23 12:13