感想 大沼直樹「幼少の頃の夏目漱石」
『教育学雑誌』日本大学教育学会32号1998年。たまたま、ネットで漱石と落語の関連で検索していたら出てきた論文であるPDF http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/032/32-r-002.pdf。http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/backno2.htmlそもそも高校教科書以外で漱石など読んだことなどない。著名人の人生に関心があるだけだ。
これを読むと、漱石は我が儘で悪戯もやっていた。養父は浅草の扱所(現在の区役所)の頭だった。24頁に---養父は,漱石のために「尾の長い金魚」「武者絵,錦絵」「緋絨しの鎧と龍頭の兜」「脇差し」 など,言うがままに買ってくれたのである--- 外へ出る時は,「黄八丈の羽織を着せたり」「縮面の 着物を買うためにわぎわざ越後屋(現在の三越)迄引っ張って」行ったりした。25頁に自分の好きなものが手に入らないと,往来でも道端でも構わずに,すぐ其所へ坐り込んで動かなかった。とある。養父母は吝嗇とも書かれているが物質的には中流以上の恵まれた生活だったと考えられる。やっぱり物質的に恵まれていたからこそ、学歴の頂点に立ち、作家としても成功したのである。
特徴的なのはやはり、子供であるのに寄席に通っていること。24頁----「硝子戸の中」には「私は小供の時分能く日本橋の瀬戸物町にある伊勢本といふ寄席へ講釈を聴きに行った」と述べており,この伊勢本が度数からいうと一番多く通った と漱石は回想している。幼少の頃からずいぶん寄席通いをしていたらしい。漱石はまた芝居小屋に も顔を出している。当時の寄席と芝居小屋は,いわば公共語としての日本語の訓練の場であったと いわれる。漱石の言語感覚がそこで磨かれたであろう---
私はテレビ世代なので、寄席も講釈も全く知らない。ボキャブラリーが乏しいのは仕方ないが、漱石は作家としての素養を寄席で磨いたと考えられる。伊勢本は当時、東京でも一流の寄席だった。
なお、漱石は『三四郎』で三代目小さんが天才だと書いているらしいが、作家になってから牛込に住み、神楽坂の和良店という寄席に通ったらしい。当時神楽坂には5軒も寄席があった。
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