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2009/04/11

夫婦別姓旧慣習説に根拠はない-- 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その1

 吉川弘文館歴史ライブラリー2009年4月刊行。この本の帯に「なぜ、妻は夫の名字を名乗るのか 戦国の妻たちの生き様から夫婦同姓・夫婦同母の謎にせまる」とあります。後藤みち子は『中世公家の家と女性』と言う学術書も買っているので三条西家の研究業績などを知ってましたが。この本は夫婦別姓旧慣習説否定の補強する材料になると思い買いました。
 民主党政権になれば小宮山洋子が文部科学大臣になり、選択制夫婦別姓導入の民法改正される悪夢が現実になるでしょう。私はもちろん絶対反対であり夫婦同氏(苗)を断乎として守りたいと考えますが、仕事が忙しくてこの問題に取り組む余裕がありましたが、待ったなしの土壇場の状況になりましたので書いていきたいと思います。
 
「夫婦別姓旧慣習説」批判
 
 フェミニスト・夫婦別姓推進者の主張するところの「夫婦別姓旧慣習説」は豊田武などの説である。つまり明治九年三月十七日の太政官指令が、内務省の見解「婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚嫁シタル後ハ婿養子同一ニ看做シ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考へ候」という夫婦同氏(苗)案を覆して、「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事、但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」とされたため夫婦別姓が士族旧慣習だったはずという考え方ですが、これについては社会生活において実態はないという厳しい批判があります。夫婦別姓旧慣習説を否定する実証的な研究、有力な学説として大藤修『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)1996年と、山中永之佑「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976年を挙げておきたいと思います。
 つまり、近世においても明治維新後も銘文、文書として残っている各種資料を精査しても社会生活において、出嫁女の生家姓(または名字)冠称の自称、指称、呼称の事例はきわめて例外的な事例しか見いだすことができないのである。もちろん徳川時代に氏の公称は一般庶民は許されなかったが、明治以前に一般庶民に名字がなかったというのはかなり古い学説で、今日では大多数の庶民は名字を有していたとみなされている。にもかかわらず、出嫁女が生家姓(または名字)冠称している資料をほとんど見出すことができないのである。
 もっとも井戸田博文(註1)によると墓碑において例えば山口県下関市長府の功山寺という毛利氏の菩提寺に「坂田七斎妻藤村イシ子之墓」などいくつかの夫婦異姓墓碑の事例を挙げているが、なるほど士族においては「腹は借り物武士の種」のような自然血統主義的家族観を指摘することはできるが、しかしながら、墓碑において妻が所生の氏であるとしても、それは妻の由緒、出自を明らかにするものであって、生前において、社会生活で生家姓(名字)冠称が通例であったとみなすことはできないのであって、墓碑のいくつかの事例を拡大解釈することはできない。
  
 そうしたことから太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。
 
 明治22年12月27日宮城県伺
 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺
 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」(註2)
 
 明治民法の起草委員は帝国大学法科大学教授の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章であったが、梅謙次郎は逆縁婚(生存する妻が死亡した夫の兄弟と再婚する)の取り扱いなどで士族家族慣行の採用を却下し、民法を庶民の家族慣習に合致させることを強調した。その政策判断は正しかったと思う。亡兄の嫂を娶るというのは人類学でいうレヴィラート婚ですが、「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と言うように宗法・儒教規範では人倫に反するとされるのである。しかし日本の一般庶民はそのように考えてない。例えば兄が戦死したり不慮の事故があった場合、家を継承するもっとも無難な在り方がレヴィラート婚なのであった。戦争未亡人の再婚の多くがレヴィラート婚であることはよく知られている事実だろう。レヴィラート婚を禁止する儒教規範の建前のほうが悲劇である。そのへんのことがよくわかっていた。
 夫婦同氏についても強く推進したのが梅謙次郎である。穂積陳重・富井政章も異論はなく、世間の実態を追認したものともいえる。梅謙次郎は法典調査会で次のように夫婦同氏を強調した。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。
 夫婦同氏を成文化したのが明治民法であっても、それ以前から夫婦同氏が普通の慣行であったわけである。夫婦同氏はイギリスやドイツにおいても中世より慣行となっていたのであるから、西欧と家族慣行とも同じであった。

 女叙位の位記の宛名は所生の氏(古代的姓氏による-したがって夫婦別姓)だが、明治四年以後、古代的姓氏をなのることが禁止されただけでなく、女性の本姓と実名は社会生活において指称されることはなかったのであって従って旧慣習とみなす理由がない
 

 では、明治九年の太政官指令が所生の氏にこだわった主たる理由は何かというと、明治九年の太政官政府法制局の見解は次のとおりであった。
 「内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ
第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ
第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ
第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 
 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 」

 第一の見解は女性は夫の姓を冒してはならないとい自然血統主義的家族観は精査が必要ですが、さしあたり女性への叙位における位記の宛名が所生の氏の本姓+実名であり、古代的姓氏による夫婦別姓であることと関連する事柄だろう。
 だからといって、それを旧慣習とみなさないのは、女性の叙位は特定の限られた範囲にすぎず、一般庶民とは無関係であるだけでなく、貴人の女性は実名忌避の慣習があって、実名で呼称、指称されることはないということである。
 通常、貴族の女性や、宮廷女官を本姓+実名で呼称されることはない。社会生活では宮廷女官であれば、女房名、候名で呼称される、平安時代は父や夫の官職に由来する女房名が多い、中世になると、京都の大路名や播磨局、伊予局というような国名など時代による変遷はあるが、社会生活において宮廷女官などは符牒としての女房名で称されるのである。例外的には赤染衛門であるが、これは特殊な例である。
 実名が社会生活でほとんど意味をなさないというのは、例えば将軍徳川綱吉生母桂昌院の従一位の位記の宛名は藤原光子である。もとは京都堀河の八百屋の娘ともいわれるが、母が関白二条光平の家司である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。玉と称し、春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側妾となった女性である。
 桂昌院は徳川将軍家に妾として入った女性だが、なぜ藤原光子が実名になるのか。養父の本庄氏の本姓が藤原氏なので、本姓藤原氏とされているのだ。そのように女性の叙位は男官の叙位と同じことだが、源平藤橘等の古代的姓氏で、父または養父の本姓が記される、姓は既婚・未婚を問わず一部の例外を除き父系帰属主義で一貫している。
 したがって位記における夫婦異姓の伝統は事実として認めざるをえない。しかし一般的な社会生活では指称されることはないのであって、そもそも実名は知られてないし、将軍の母を藤原光子と呼び捨てにできる人などまずいない。今日における個人名とはかなり意味が違うものである。 
 とはいえ、もちろん近世においても本姓(古代的姓氏)つまり源平藤橘等の天皇の賜与認定による古代的姓氏は国家的礼的秩序に編成されており、当然現実的意味を有していた。
 しかし重要なことは、明治政府は近世以前の天皇の賜与・認定に由来する本姓と、土地の名称など自然発生的な由緒の苗字(名字)の二元的システムを解消し、名字に一元化したことである。
 すなわち近世は姓氏二元システムになっていて、朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる(註3)。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった。
 明治四年明治四年十月十二日一切公用文書に姓を除き苗字を用いるとの太政官布告により、苗字(公家の場合は近衛・九条等の称号)に一元化された。つまり藤原朝臣実美ではなく三条実美、大江朝臣孝允ではなく木戸準一郎(のち孝允)、越智宿祢博文ではなく伊藤博文と、源朝臣栄一ではなく渋沢栄一と書くべきだと命じたのである。
 この布告によって、令制以来の源平藤橘等古代的姓氏はその機能を実質的に終了したのである。むろん天皇の賜与・認定による姓であるから、重んじられてはいても、王朝風に古代的姓・カバネを用いた明治二年の職員録によると源平藤橘で85%をしめ、ほかに菅原氏、高階氏、大江氏、紀氏、越智氏、清原氏、加茂氏など44の姓があったがそれほど多くない。源氏だけで40%、藤原氏は35%をしめていた。政府職員の75%が源姓か藤原姓だった(註1)。これでは個人識別の標識としてははなはだ不便であり、機能的でないのもこの布告の理由だろう。

 明治四年十月十二日太政官布告は現代にも生きているはずである。したがって、たとえば細川護熙元首相が源氏の棟梁を自認しても、公文書に「源朝臣護熙」と王朝風に署名することはできないと思う。名字(苗字)である細川でなければならないはずだ。
 王朝風の古代的姓氏(本姓)が明治四年で公文書で用いることを禁じた以上、もはや女性の位記の宛名が所生の氏の本姓であった伝統も意味をなさないのであって、女叙位の伝統を考慮する必要がないというのはそういう理由である。--つづく
 
 

(註1)井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 
(註2)廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03
(註3)大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 

○1876〔明治9〕年3月17日太政官指令、1875〔明治8〕年11月9日内務省伺
内務省伺
華士族平民ニ論ナク凡テ婦女他ノ家ニ婚嫁シテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀ニ候哉 又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚嫁シタル後ハ婿養子同一ニ看做シ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考へ候へ共右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付仰上裁候 至急何分ノ御指令被下度 此段相伺候也
指 令
伺ノ趣婦女人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事
但夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事
法制局議案
別紙内務省伺嫁女姓氏ノ儀審案候処女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ
第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムへシト云ハ是レ姓氏ト身分ヲ混合スルナリ
第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ 皇后ヲ皇族部中ニ入ルヽハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ
第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス 例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟
帰スル所今別ニ此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一大困難ヲ醸スナリ 右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟 因テ御指令案左ニ仰高裁候也 〔二月五日内務〕
(『太政類典第二編』第133巻29項)

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