公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月の19件の記事

2009/04/30

農林水産省における組合の既得権問題に思う

 2009年4月30日読売夕刊1面「農水出先機関 勤務評定骨抜文書 組合要求で「人事に反映せず」という記事(電子版は「勤務評定、人事に反映せず」…農水出先機関で確認書http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090430-OYT1T00632.htm)を読みましたが、12面には全農林と交わされていた組合ルールとして「職員全員が7年に一度、必ず特別昇給する『7年1巡ルール』」「キャリア職員以外の職員はCはつけず、全体の約3割を目安に付けるA評価を職員全員に順番につける」事例、三重農政事務所では「労働条件、労働慣行にかかる既得権は尊重する」という確認事項を設けている例などが挙げられている。
 暗黙の組合ルールとか、なれあいがあるのは想定の範囲であって、特に驚くことではないが、にもかかわらず政府は公務員に団体交渉権を付与して労働組合を強化しようとしているわけです。
 労働組合は、労働者の競争や個別評価による業績給や成果主義に反対するものですが、しかし民間では1995年以降成果主義が広範囲に導入されたといっても、それは競合他社との競争があるからであって、1969年のウェリントン・ウィンター論文にあるように公的雇用の団体交渉では利潤追求という企業目的による基本的枠(抑制)が存在せず、また過度の賃上げが需要の減少(ひいては雇用の減少)を招くという市場の抑制力も欠如するという「歯止めの欠如」しているために、労働基本権付与がコストを無視した解決を強要する強力な武器になる懸念が強い。
 アメリカでは連邦公務員に団体交渉権があるといっても範囲が限定されていて、給与は法定主義が維持されている。又反労働組合的気風の南部の各州のように勤務条件法定主義を墨守し団体交渉を制度化してない州も少なくない。ノースカロライナ、サウスカロライナ、ウェストバージニア、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー、コロラド州は全ての公務員がそうであり、消防士のみ団交立法を設けているのがジョージア、アラバマ、ユタ、ワイオミング州、消防士と警官のみ団交を認めるテキサス、ケンタッキー州、教員のみ団交を認めるノースダコタ、メリーランド州、教員と消防士のみ認めるアイダホ州、ネバダ州は州被用者のみ団交を認めてない(菅野和夫「公務員団体交渉の法律政策」アメリカ(一)」『法学協会雑誌』98巻1号 1981参照)。
 しかし、我が国は給与も団体交渉でやろうとしている。米国よりも明らかに親労働組合的政策だといわなければならない。

関連記事 農水出先機関の組合交渉、大半が勤務中…時間外方針通知後もhttp://www.nouzai.com/news/2009/webdir/251.html

2009/04/27

ではなぜ労働権州が良いのか(2)

   労働権州が非労働権州よりも経済成長していることは統計でも明らかです。
 National Right to Work Legal Defense FoundationのSince 2001, Right to Work StatesLead in Job Growth, Five-to-Oneを見てください。
PDF http://www.nilrr.org/files/Job-Growth%20Advantage%20--%201996-2006.pdf
2001年から2006年までの5年間、非労働権州の民間部門仕事はほとんど全く増加しませんでした。その間、労働権州での民間部門仕事は2001年と2006年の間に260万、全体の6.3%増加しました。とあります。

  America's Business Channel, and CNBC.com のbest state for businessの2007年ランキングは、1位バージニアで6位までが労働権州が占め、トップ14では11州を労働権州が占めます。労働権州がプロビジネスという認識は一般的なものです。http://www.cnbc.com/id/19558099/
 非労働権州で14位までランクインしているのはわずかにコロラド、マサチューセッツ、ミネソタだけです。

 失業率のもっとも高いのも非労働権州で組織率の高いミシガンです。ノースウェスタン大学のジェームス・リンドグレーン教授の解説を見てください。http://volokh.com/archives/archive_2009_04_19-2009_04_25.shtml#1240377524。失業率の低いトップ6のアイオワ、ユタ、サウスダコタ、ネブラスカ、ワイオミング、ノースダコタはいずれも労働権州です。ただ労働権州ではサウスカロライナが失業率3位、ノースカロライナが5位と高いんですが、これは前にも言ったように、元々製造業州で景気後退の影響を受けやすい繊維・家具・室内装飾といった古いタイプの産業を抱えていることがあると思います。

合衆国労働省〈州別失業率のデータ〉 http://www.bls.gov/news.release/laus.nr0.htm

2009/04/26

ではなぜ労働権州が良いのか(1)

 言うまでもなく労働権州は労働組合の組織率と影響力が低いことが経済に好影響を与えている。
 本当は全国労使関係法を廃止するのが一番良いわけですが、現行の体制では労働権州が望ましいということです。
 私は、労働力取引の自由、雇用契約の自由を侵害するものとして、取引を制限するコンスピラシー、他人の取引を侵害するコンスピラシーとして、そもそも争議行為は、契約違反の誘致行為、契約の履行不能をもたらす行為、強迫、共謀、営業妨害など理由として、コモン・ロー上の不法行為を構成するものだから、労働組合に反対です。
 脱線しますが、共謀法理の継受、労働組合に共謀法理を適用すれば面白いと思います。
 偶々書類を整理していましたら、『週刊アサヒ芸能』2007年10・25号(62巻40号衝撃スクープ山口組「民主党支援」の真相」という記事が出てきたのですが、これは2007年10月12日付『夕刊フジ』の「山口組が民主応援」という記事を解説したものですが、なぜ民主党支援なのかというと共謀罪に反対しているからだそうです。
 私はやくざ映画とか見たことがなくて不勉強ですが、麻生首相がシノギと発言するまでシノギの意味がわからなかったんですが、だから関心もないし反対しません。しかし労働組合には脅迫・威嚇され、自由を侵害されてます。重大な実害がありますから、やくざを駆逐するためでなく、労働組合を駆逐するためなら共謀罪に賛成します。
 それはともかく、経済学的にはミルトン・フリードマン、村井章子著『資本主義と自由』日経BP社の233頁以下に労働組合とは「価格コントロールサービス」を売る組織とありますが、「ある職種なり産業なりで労働組合が賃上げに成功すると、そこでの雇用は必ず減ることになる。これは値上げすると売れ行きが減るのと同じ理屈だ。その結果、職探しをする人が増え、他の職種や産業では賃金水準が押し下げられる」「おおまかな分析では、労働組合の力で労働人口の10~15%の賃金が10~15%引き上げられると、残り85~90%の賃金水準は4%引き下げられる」「結局は低賃金労働者を犠牲にして高賃金労働者の賃金の上がる結果を招く」「労働組合は雇用を歪めてあらゆる労働者を巻き添えにし、ひいては大勢の人々の利益を損なっただけでなく、弱い立場の労働者の雇用機会を減らし、労働階級の所得を一段と不平等にしてきた」
 とすると政府・経営者団体が労働組合と談合するコーポラティズムは、大勢の人々の犠牲の上に成立するものだということだ。

労働権州Right to Work States が景気見通しが良い

  マークJ.ペリー博士のブログCARPEディームの4 月23日Rich States, Poor States http://mjperry.blogspot.com/2009/04/rich-states-poor-states.htmlは、労働権州Right to Work States (タフトハートレー法セクション14(b)によって、雇用条件として労働者に組合加入と組合費の支払いを義務づける組合保障協定を定めた労働協約の交渉を禁止する南部を中心とする23州-つまり反労働組合の州)は、景気見通しが良く、人口が増加していると言う趣旨を述べてます。根拠となるデータのソースはRich States, Poor States ALEC-Laffer State Economic Competitiveness Index。 http://www.alec.org/AM/Template.cfm?Section=Rich_States_Poor_States
  若干説明を加えますと、景気見通しのよいユタ州以下のトップ10のうち、第2位のコロラド州を除く9州が全て労働権州です。もっともコロラド州は正確には労働権州ではありませんが、「修正された労働権州」とも言われます。州在日駐在事務所のサイトによると「コロラド州では改訂した労働権法を採用しています。全国労働関係法に基づく労働組合がある場合、ユニオンショップ制度を採用するには従業員の75%以上の賛成が必要です。賛成が75%に達しない場合、労働権法が定めるユニオンショップ制度を労働協約で採用することはできません。」と説明されてます。http://coloradojapan.org/profile/、このデータでは、アリゾナ、バージニア、テネシー、テキサス、フロリダといった労働権州の景気見通しは良いということになってます。
  ただし労働権州でも南北カロライナのように繊維や家具といった古いタイプの製造業が集積していた地域は、構造的要因で失業率が高くなっているので地域差はあります。
  一方、景気見通しの悪いワースト15のの全てがみごとに非労働権州です。従ってこのデータは労働権州に経済的活力があることを示します。

 労働権州http://www.nrtw.org/rtws.htm

2009/04/23

草なぎ剛メンバー逮捕NHKニュースで9分の報道の感想

 駅売りの夕刊紙の見出しで知ったニュースだがhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090423-00000600-yom-soci、ユーチューブで見たNHKニュースで9分もの大報道に驚きだ。それもその日の行動を追跡、酒を飲んだ日本料理店と檜町公園が地図入りで説明されたことのほうが驚いた。もちろん有名人で、話題性・意外性ではビックニュースだが、被害者のない事件なのに大げさに報道にしすぎの感もある。鳩山総務大臣が怒り狂っていたから重いニュースにしたほうが得策と判断したのかな。自分がそういう立場なら怒らない。オフなのに女を持ち帰ることもなく寂しく公園で一人でいる彼に同情します。

2009/04/22

林=プレスコット説に思う(1)

 筆者の不勉強で、林=プレスコット説を知ったのはごく最近、池尾和人の本『開発主義の暴走と保身』NTT出版 (2006)192頁以下を読んでからである。私がホワイトカラーエグゼンプションは過半数組合の同意の必要なく導入すべきであるし、労働基準法のオーバーホール、廃止を言っているのは、雇用契約の自由、営業の自由、集団的労働関係に拘束されない個別契約の自由の確立による労働組合の駆逐、自由企業体制の確立という脈絡においてである。モバイル化だの何だのと言う技術的議論以前の問題として産業構造が変化しているのに、20世紀前半の工場労働のような働き方の不合理を言っているわけで、University of San Diego School of Law のBernard H. Siegan教授(故人)が1980年にロックナー判決(1905年労働時間規制違憲判決-1937年に明示的判例変更)は憲法の正当な解釈で復活すべきだと主張した経済的自由主義者として知られており、同教授の業績が大きいと思いますが、その影響によりロックナー判決擁護者・好意的な学者は増えています。ロックナー判決は正しいと言うのが本物のリバタリアンですよ。近年ジョージメイソン大学の デビッドEバーンスタイン教授が論文書いてますが、ロックナー判決は再評価の方向にある。
 要するに経済的自由主義の観点ですが、それとは全く別の観点で、日本経済の停滞から脱却するためにも、労働時間規制立法の廃止が望ましいと言う根拠になるのが林=プレスコット説です。
 

 林文夫教授とプレスコット教授は2002年の論文で、1990年代以降の日本経済の停滞(いわゆる失われた10年)を説明する有力な仮説を提示した。
 
---“Japan in the 1990s: A Lost Decade” (Review of Economic Dynamics, January 2002 掲載)
あまり注目されていないことだが,90年代の日本では,二つの重要な展開があった。一つは,いわゆる「時短」により,週当たりの雇用者平均労働時間が,バブル期前後で44時間から40時間に低下したこと,もう一つは,生産の効率性を図るTFP(total factor productivity)の成長率が,90年代の中ごろから低下したことである。この論文の主旨は,日本の90年代の長期停滞が,90年代に起こったこの二つの事象(TFP成長率の低下と週当たり労働時間の一割減)を所与としたとき,経済学で標準的な景気循環・成長モデル(”Real Business CycleModel”と呼ばれる)で説明できることである。これは,「失われた90年代」を一般均衡モデルで説明した始めての研究である。---
http://www2.e.u-tokyo.ac.jp/~seido/hayashi/hayashi2005.htm

その重要な出来事とは次の2点
 1 一人当たりの労働時間の低下(時短ショック)
 2 全要素生産性(TFP)上昇率が1990年以降大きく低下したこと。

 
  年間総労働時間も80年代の2000時間超から1800時間程度に低下している。留意すべきことは労働時間の短縮が意図的な政策の結果引き起こしたものであるということである。すなわち労働基準法の改正により週休2日制の定着が図られた。1992年には「労働時間の短縮の促進による臨時措置法」が設定され、「労働時間短縮推進計画」において2005年までに年間総労働時間1800時間の定着・達成が政府目標とされた。(池尾 前掲書)
   私はそもそも労働時間規制が雇用契約の自由、営業の自由を侵害するから反対だが、日本経済の長期低迷の重大な原因なのであるから、ただちに政策を転換すべきであると考える。
   
 問題は時短は時流ではなかったのに、時流は時短だと宣伝したことの罪悪です。

   そもそも、有給休暇は、非組合企業のコダックから始まったようでが、アメリカは法定有給休暇はなく、従業員に優しい企業でも日本ほど多くない。
実際の休暇取得は年間10.2日であるhttp://career-counselor.seesaa.net/article/45027324.html
 ワークライフバランスで有給休暇完全消化を目標なんてとんでせもない。反対に法定有給休暇をなくすのが正しい政策だということです。
 
 そもそも時短というのがドイツで1980年代に大労組IGメタル(金属産業労組)が激しいストライキで週35時間労働を獲得したことあたりからいわれましたが、ドイツに倣ったのが大きなまちがい。

  時短政策は時流に反していたわけです。アメリカでは80年代以降一日で労働に費やす時間は長くなり休暇は少なくなっているといわれます。ジュリエット・ショアーというハーバードの女性教授の『働きすぎのアメリカ人』森岡他訳 窓社1993年を読みましたが、未婚男性は時間外や副業で年間334時間働く。1973年の生活水準を維持するために245時間多く働いていると書かれている。80年代初期のインフレから80年代アメリカは長期不況となり、株主主権論の流があり、リエンジニアリング、ダウンサイジング、かなりのリストラはを行ったのである。大企業では80年代から職務等級制度はそのままで、目標管理制度を組み合わせる成果主義を取り入れた。90年代になると職務等級制度の序列構造自体が問題視され、新しい成果主義の潮流となる。大企業は組織のフラット化、顧客満足度の重視から官僚的体質の組織が解体され、職務評価を廃止してコンピタンシーの重視、市場給与相場の重視、ハイテク企業や金融業界は職務等級なしで市場給与相場比較のみとなり、近年ではチームワークも重視されている。一生懸命働いて成果を上げるようになっていますから、アメリカ人はよく働くようになったといわれてます。
 
 インターネットで調べてみると80年代から90年代にかけてアメリカ人だけでなくイギリスやオーストラリアについても労働時間の増加傾向を指摘することができる。

 OECD (2007) によれば, 雇用者の年間平均総労働時間は, わが国では1784 時間であり, 米国1804 時間より少ないPDF http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/06/pdf/049-061.pdf

1980年頃でも製造業・生産労働者の年間総実労働時間は、日本は約2162時間、アメリカは1893時間、ドイツ1719時間、フランス1759時間という統計がある。アメリカはその後、労働時間が伸び始め1997年には2000時間を上回り、統計上は日本よりも長時間労働の国となった。http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/6f3e334ccc4922ec045208e45efb54abんど
http://labor.tank.jp/jikan/jikan_suii01.html#外国比較

 ILOが1999年9月6日に発表したレポートによると、アメリカの労働者の労働時間は工業先進諸国でも最長で、労働者一人当たり
の年間労働時間は1980年より83時間長くなり、4%近く増えたhttp://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/326.html

2006年のサイトhttp://www.jogmec.go.jp/mric_web/current/06_20.htmlによると
オーストラリアは、年間平均労働時間が1,870時間と、アメリカ1,830時間、日本1,700時間等に比べ長いとされている。」 
 オーストラリア自由党の政策でオーストラリア職場協定(AWAs)というのがあって組合を排除した個別契約のシステムがあるんすが、自由党政権で好景気が伝えられましたが、日本より170時間多く働いているからいいんですよ。
 つづく

2009/04/19

感想 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』その2

2 女帝中継ぎ論批判を明確に否認

 274頁以下。著者は近年の荒木敏夫・義江明子・仁藤敦史の女帝論を批判している。特に歴史学が検証可能な学問を標榜する以上、史実よりも実際には起こらなかった「可能性」を優先させるかのような姿勢はとるべきでないとして仁藤敦史を痛烈に批判している点を評価するものである。
 著者によれば女帝中継ぎ論とは井上光貞によって体系化されたもので、古代の女帝を「皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に即位したもの」で「権宜の処置」としてとらえ、女帝出現の背景・事情を「中継ぎ」という観点から説明したものであるが(井上光貞著作集一『日本古代国家の研究』所収1985岩波書店-初出は1964)、井上光貞説が45年前のもので今日の研究水準からみて容認できない部分があるにせよ、王位継承上の文脈において「中継ぎ」論を支持している。

 著者は結論として、「女帝であることによって不婚が強要されたのは未婚の内親王のみでなく、既婚者であっても即位後は不婚を維持したのであり‥‥すなわち『不婚』とは子孫を残さないことであり、この点が男帝と女帝の決定的な違いであって、結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない一方、八世紀以降の女帝は「『中継ぎ』的役割を徹底するため不婚が強要された」と述べ、中継ぎ的役割であるがゆえに「不婚の女帝」であり、男帝との決定的な違いを論理的に説明している。女帝を「中継ぎ」と断定した点で評価できる。

男帝は中継ぎとみなせないという説はどうか

 ただ「結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない」いう断定はどうだろうか。私が思うに光孝・後白河・花園・後醍醐・後西が、中継ぎ的役割として即位した、あるいはそのようにふるまった事例とみることはできる。しかしこの点についても著者は反論を用意していて、「たとえ即位以前『中継ぎ』役割が期待されたとしても、所生子が存在する男帝に他律的意思によって決まった皇嗣への継承を強制することはできなかった。」とする。
 しかしこの点については文徳天皇が惟仁親王(清和)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を望んでいたにもかかわらず、外祖父太政大臣良房との隠微な権力抗争に敗北した文徳は、自らの意思で皇位継承者を定めることができなかった。他律的意思によって皇位継承者が決まってしまった例であり、王権の権力構造いかんでは中継ぎに甘んじるケースを否定できない。
 一般庶民の家における中継ぎと皇室を安易に類比すべきではないが、例えば本家当主が亡くなったが、長男が幼いため家業を指揮できないので、一時的に当主の弟夫婦が中継ぎとして家業を継承するが(複合家族による軋轢を回避するために中継ぎを設けず後家が長男の成人まで家長を代行して家業を指揮することも少なくない)、長男が成人となった時点で弟夫婦は分家分出して退き、本家の系譜には加えないような在り方に類似した中継ぎを否定できないのでないかと私は考える。

中継ぎとみなされる歴代男帝

 光孝天皇
 例えば仁明皇子一品式部卿時康親王(光孝)は陽成遜位という異例の事態により、皇親のなかでも長老格であるために藤原基経ら有力貴族に推戴され即位した。結果的には皇子源定省(宇多)が橘広相や尚侍藤原淑子の奔走によって即位したとはいえ、齋王・齋宮を除くすべての皇子女を臣籍に降下させたことから、それは権力を掌握していた基経を憚ってのものであろうが、中継ぎ的役割に甘んじる態度を示した。
 摂関家と姻戚関係のない源定省が基経の意中の候補だったとは思えない。しかしいかに基経と雖も、実際に陽成と生母藤原高子を口説いて退位させた後宮実力者で異母妹でもある尚侍藤原淑子の推す源定省の即位に異論することができなかったというのが角田文衛説だったと思いますが、つまり源定省を後押ししたのは父帝光孝ではなく、宇多生母班子女王と親しかった尚侍藤原淑子だった。陽成復辟がありえないとしても、基経にぬかりなければ清和系の親王に皇位継承される可能性もあったわけで光孝は中継ぎという見方もできるのである。

 

後醍醐天皇
 徳治三年(1308)の大覚寺統後二条天皇の早世により、両統迭立で持明院統花園即位に伴い、大覚寺統から後二条の異母弟の尊治親王(後醍醐)を立坊。これは後二条皇子の嫡子邦良親王が病弱であったこと。さらに、亀山法皇末子で法皇の遺詔で皇位継承者に指定された恒明親王の即位の可能性を潰す意図があったとみられている。
 後宇多法皇は大覚寺統正嫡を後二条皇子邦良親王と定めていた。延慶元年(1308)閏八月の法皇の宸翰によれば、その御領をすべて尊治親王(後醍醐)に譲与せられ、親王一期の後は、悉く邦良親王の子孫に伝へ、尊治親王の子孫は賢明の器済世の才あるとも臣下として之に仕へよと特に誡められている(註1)。つまり尊治親王は一期相続の中継ぎ的即位で大覚寺統ではあくまでも傍流の扱い、「一代の主」と引導を渡されていた。
 文保二年(1318)花園譲位により後醍醐即位、邦良親王立坊。二代続けて大覚寺統とされた。幕府の斡旋案にもとづく「文保譲国」いわゆる「文保御和談」の結果である。持明院統にとって甚だ不利益な結果となったが、これは正和四年(1315)の京極為兼第二次配流事件の影響がある。西園寺実兼が伏見上皇と為兼が幕府に異図を抱いていると讒し、為兼土佐配流後も伏見上皇が幕府を敵視しているとの噂が囁かれ、上皇は必死の弁明を試みたという経緯があるが、幕府の実力者金沢貞顕が大覚寺統廷臣と親しかったこともある。幕府首脳部は邦良親王が後宇多法皇により正嫡と定められていたので法皇の意向を尊重したのである。つまり後醍醐は即位の時点でも一期相続の中継ぎの位置づけだった。
 元享四年(1324)後宇多法皇が崩御になられると、東宮邦良親王は不安を感じ、皇位継承の速やかならんことを熱望し、しきりに使者を遣わして鎌倉幕府に説かしめ、催促した(つまり後醍醐の譲位を促すよう幕府が圧力をかけるよう熱望)。それがために後醍醐天皇との間がはなはだしく疎隔し、険悪となった。後醍醐は邦良親王の運動を阻止するため吉田定房を鎌倉に下向させ、対幕府工作を行った。後醍醐の政権維持には定房が貢献している。邦良親王は嘉暦元年(1326)三月二十日東宮のまま病により薨じた。薨後、東宮候補には大覚寺統から三人、邦良親王の同母弟邦省親王、亀山皇子恒明親王、後醍醐皇子尊良親王が推薦され、東宮ポストを争った。つまり大覚寺統が三派に分裂したことを意味するが、「文保御和談」の線で持明院統嫡流量仁親王立坊となった。
  量仁親王(光厳天皇)の次が問題になるが、幕府が後二条-邦良親王流が大覚寺統正嫡という認識をとる以上、後醍醐系は疎外されることになる。ということで、後醍醐がみずからの子孫の皇統を形成するには倒幕という選択肢しかなかった。
 大覚寺統の正嫡はあくまでも邦良親王系と言うと皇国史観から反論があるだろう。つまり神皇正統記は、後宇多が「若し邦良親王早世の御事あらば、この御末(後醍醐の子孫)継体あるべし」と御遺勅された旨載せているが、それは微妙な問題であると思う。穏健な見解を述べておけば、恒明親王の常磐宮系も亀山法皇の遺詔により正統性を主張できるし、後醍醐天皇も倒幕、建武政権を樹立し、光厳天皇廃位、邦良親王の子である康仁親王を廃太子としたことにより、後二条系の正統性を否認し、建武元年(1334)後醍醐皇子の恒良親王立太子で、嫡流たる立場を固めたと解釈することはできる。それは後宇多法皇が父帝亀山法皇の恒明親王を正嫡とする旨の遺詔を反故にし、邦良親王を正嫡に定めたことと同じことである。

 

 花園天皇
 一方、花園は中継的性格が明確な例だと思う。持明院統正嫡は後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光であり、持明院統の主要所領である長講堂領、法金剛院領、琵琶の秘曲は代々正嫡に伝えられたのであって、後伏見の弟である花園は傍系であるので相続したのは旧室町院領の半分だけあった。
 天皇在位は正嫡の後伏見が在位が永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日)で3年に満たない短期である。一方、中継ぎの花園が延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日)で9年以上に長期に及ぶ。しかしながらこれは後伏見が幕府の圧力で、大覚寺統の後二条に譲位せざるをえなくなったためである。在位の長さは正嫡・中継の性格とは無関係だといわなければならない。
 正嫡である後伏見や光厳が治天の君として院政をしいたが、傍系である花園は院政をしいてないし、その資格もなかったとみてよいと思う。
 もっとも貞和四年(正平三年1348)に崇光天皇の皇太弟に花園皇子直仁親王が光厳上皇の猶子となったうえで皇太弟に立てられており、困難な時期に持明院統を支えてくれた花園院の恩義に報いようとしたとされていたがそれは表向きの理由であった。
 実は、康永三年(1344)の時点では光厳上皇(当時は、光明天皇・東宮興仁親王)は、花園皇子直仁親王を正嫡に定めていたのである。それは、康永三年四月の置文と譲状により、直仁親王を将来継体とし、荘園群のなかでももっとも重要な長講堂領は光明天皇から直仁に伝領されるように定められ、興仁(のち崇光天皇)には因幡国と法金剛院領を譲るが、一期ののちは直仁に伝領するよう定めたことで明確なのである(註2)。
 持明院統の正統長嫡路線からみて、第一皇子の興仁親王の皇子は必ず仏門に入れよとされ、興仁親王(崇光)が中継ぎの扱いで、光厳の従兄弟にあたる直仁が正嫡とされたのは不可解というほかない。ところが直仁親王の母宣光門院(正親町実明女藤原実子)は花園院最愛の寵人であるから、花園皇子とされているが、実は直仁親王は光厳胤子であり、宣光門院が懐妊する前に春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生した。このことは光厳上皇と宣光門院以外他人は全く知らないことと置文に記されていた。つまり不義の交際があったことを上皇御自ら告白されているのである(註3)。春日大明神のお告げにより実は第二皇子の直仁親王を正嫡に定めたということらしい。(この文書は事の性質上戦後になって明らかになった)
 直仁親王は南北朝動乱で事実上廃太子となり即位することはなく、持明院統正嫡も崇光天皇系とされたたのであるが、仮に直仁親王が即位したとしても光厳の猶子とされ真実は実子でもあることから、やはり花園は中継ぎであったとみなしてよいのである。

 

後西天皇
 承応三年(1655)後光明天皇(後水尾第4皇子)は体調をくずし、皇子がなかったため、廷臣達と相談し異母弟で後水尾第16皇子で当歳の高貴宮(のち親王宣下により識仁親王-後の霊元天皇)を養嗣子に迎え儲君とされた。当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったためである。後光明天皇はその年に天然痘により急崩。しかし当歳の高貴宮の即位は困難であり、後水尾第八皇子の花町宮良仁親王が高貴宮が成長するまでの中継ぎとして即位した。後西天皇である。良仁親王は後陽成天皇の第七皇子高松宮好仁親王の養嗣子となり、花町宮をなのり宮家(後の有栖川宮家)の第二代当主であった。寛文三年(1663)10歳に成長した識仁親王に譲位。
 ウィキペディアによると後西天皇は仙台藩主と従兄弟にあたる血筋であることから幕府から警戒されていたこと。院政をしいていた後水尾院が識仁親王の早期即位を望んでいたため、早期の譲位となったと言うが、中継ぎの役割に徹したといえるだろう。
 後西天皇は多くの皇子女をもうけているが、第1皇子の長仁親王が八条宮(後の桂宮)を継承し、第2皇子の幸仁親王が高松宮を継承有栖川宮をなのった。第3~第16皇子は法親王、入道親王となり寺院に入っており、後西院の系統は皇位を継承することはなかった。
 従って後西天皇は中継ぎの性格が明確である。

 このように男帝に中継ぎはないとは言い難い面がある。しかしながら佐藤長門は、古代王権の構造を検討しているのであって、摂関期以降あるいは中世以降の展開は別問題とするならば、摂関や武家政権の皇位継承問題への干渉を議論の対象から除外すれば大筋において佐藤説も誤りではないかもしれない。

(註1)今井林太郎「中世の朝幕関係」歴史科学協議会編「歴史科学大系17巻天皇制の歴史(上)」校倉書房1987所収 173頁
(註2)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 185頁以下
(註3)飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 139頁

2009/04/18

感想 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』その1

412rdtftgl__sl500_aa240__2  吉川弘文館2009年2月刊。この人は特徴的な見解の先行学説を批判し、比較的破綻のない無難な結論を述べている点、面白みにかけるが、堅実であるとの心証をもった。

1 9世紀初期の王統迭立状況出現の意味 233頁以下

  河内祥輔は平城が朝原内親王(母方祖母聖武皇女井上皇后)との婚姻により直系皇統(聖武)の権威を継受したとしたが、では平城即位、神野親王(嵯峨)立皇太弟はなぜなのか。もちろん、平城皇子の高岳親王は幼少で母方が有力貴族ではないことがある。早良親王立皇太弟の前例はあるし、嵯峨生母は平城と同じく皇后藤原乙牟漏であり、立后が皇太子を引き出す政治行為とみなすと母が皇后であるというその1点だけで有力な皇位継承資格を有するといえるし、保立道久説でも一応説明はできる。桓武皇子で式家所生の三子(平城・嵯峨・淳和)にそれぞれ異母姉妹が配されて優越的王位継承資格に認定されたとするものであるが、福井俊彦だったか神野親王が無視できない政治力を有していたという説明のほうがわかりやすいと思う。
 私が思うに嵯峨妃高津内親王の外戚が軍事官僚の坂上大宿禰氏で、坂上氏を妻としていた藤原内麿とも繋がりがあったのは嵯峨にとってメリットがあったと思う。一方、平城妃朝原内親王を支えていたのが生母桓武妃酒人内親王だが、異母兄妹婚の連続という特殊な事例で、外戚の支援がないのである。従って、平城にとって妃朝原内親王の存在は、今さら聖武との繋がりといっても政治的なメリットはなかったと考えられる。
 著者は、河内祥輔や保立道久の皇統形成原理の説明を批判し、もっと単純にいって皇位継承者に八世紀後半以来の人格的資質を問題とする傾向が継続したためだと言う。「文章経国」を重視する文化的・政治思想的風潮が影響して、理想的天子像の追求がなされたことにより、若年皇太子より、王弟立坊による成年皇太子が選択され、それに王位を先帝の系統に戻そうとする謙譲的な観念が重なって王統迭立状況が現出したとする。なるほどこの見解なら淳和即位、恒世親王立太子指名-辞退、正良親王立坊も破綻なく説明できる。
 しかしこの見解は単純化しすぎた感もある。弘仁元年薬子の変による皇太子高岳親王廃位、大伴親王(淳和)立皇太弟について検討すると、嵯峨皇子の正良親王(仁明)や業良親王が弘仁元年~二年の誕生であり、正良親王生母橘嘉智子は勝気な女性だが、当時高津内親王より地位の低かった夫人位にあり皇后ではない。橘氏が弱かったことからみて当歳での立太子はまずありえない。従って恒世王の父でもある大伴親王立坊は順当な結果であり、特に成年皇太子が望ましいとされていたという説明は不要。また、成年皇太子が望ましいというなら、承和の変で皇太子恒貞親王廃位なら、道康親王(文徳)がすでに元服をすませていたとはいえ、仁明天皇の同母弟である秀良親王が皇位継承候補に浮上してもおかしくないだろう。

再び私は「すき家」を支持します

 すき家労使“骨肉の争い” 告訴合戦痛み分け 不起訴という記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090417-00000107-san-sociですが、私は「すき家」というか自由企業体制を支持します。米をおにぎりにして持ち帰ったアルバイトがけしからんと思います。12月8日のブログでも書いてます。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-915a.html悪いのは労働基準法と労働行政ですよ。「すき家」批判に大反対http://abcdevwxyz.blog34.fc2.com/blog-entry-2.html残業代を支払わない理由について、すき家を運営するゼンショーは、「すき家では会社とアルバイト間の関係は『労働契約』関係ではなく、『業務委託』関係であると主張し、個人請負である為残業代を支払う必要がないとしている」契約の自由、営業の自由という観点で、そういう働き方が望ましいと私は思います。
 前にも書きましたが規制を撤廃し、自由放任主義的プロビジネスな政策に全面的に転換すべきです。労働基準法はオーバーホールして監督署は潰す。残業代を払わなくてすむ制度設計が必要。レーバーコストが抑えられて、ビジネスしやすくなれば、生産性も向上し、投資機会も増えて経済にも好影響となる。それが日本経済再生の道です。

2009/04/14

感想 池尾和人・池田信夫『なぜ世界は不況に陥ったのか』

51wew2ovp3l__bo2204203200_pisitbsti  日経BP社2009年3月刊 ざっと読んだ感想を言うと、日本は規制を徹底的に撤廃して、プロビジネスな政策に全面的に転換しないともうダメと思いました。

 池田信夫氏は懐疑的な見解を示してますが、2002年ノーベル経済学賞受賞者のエドワード・プレスコット教授は、90年代の日本経済の停滞「失われた10年」の要因が「時短」と「生産性の低下」にあるとしました。このことがこの本でも話題になってますが、つまり30年前と比べて日本人は1割労働時間が短くなったことが、経済低迷のひとつの要因です。この要因は労働基準法の改正という政府の政策によるものであることははっきりしてます。労働組合の強い西ドイツのように別に働きたくないと言ったわけではないのに、生産性が向上してないのに政策的に時短が推進された。池田氏は競争力の強い輸出産業と競争力の弱い国内の非製造業の格差が問題としながら「時短」を生産性低下の要因とするのは無理があるとしていますが、意味がわかりません。競争力の弱い企業が生き延びて。労働時間も減ったのだからろくなことはないとみるのは素朴に正しいのではないですか。アメリカでは80年代以降有給休暇も減って、60~70年代より良く働くようになりました。だからこれは悪政とはっきり断言すべきではないか。。営業と誠実な勤勉さを奨励するのが正しい。だから私は「名ばかり管理職」なんか全然同情しないし、残業代をやる必要はない制度にすべきだと思っている。
 いまだに超過勤務手当の割増率引き上げによる労働時間の抑制や、名目を変えた時短政策、ワークライフバランスや、男も育児参加という名目の残業禁止ウィークや、少子化対策としての有休完全消化とか性懲りもなくやってますが、「時短」が経済低迷の重要な原因ですから、ワークライフバランスでますますダメになります。再三言ってますが、ホワイトカラーエグゼンプションは当然のこととして、労働基準法のオーバーホールが必要です。もちろん池田信夫氏の言う、正社員を解雇しやすくして、生産性の高い企業への労働移動を容易にする制度設計も必要でしょう。

 生産性の低下は何かというと、市場メカニズムが働かず、効率の悪い産業のウエイトが増していると書かれてます。淘汰されるべき産業が生き延び、生産性の高い産業構造に転換していないということです。
 アメリカは70代末から80年代初期が大インフレーション時代で1987年まで長期不況に陥りましたが、1987年から97年に経済が再活性化しました。株主資本主義を悪くいう人がいますがとんでもない。
 企業買収の嵐があって、ダメな経営者がクビになるだけでなく、ダウンサイジング、リエンジニアリング、ホワイトカラーのレイオフつまり大きなリストラが行われた結果、アメリカは産業構造を転換し経済を再活性化することができた。この本では「1980年代の運命の大逆転」と書かれてますが、80年代日本は好況でアメリカはダメになってジャパンアズナンバーワンと慢心してましたが、結局わが国は構造改革が進んでおらずこの30年間に産業構造も変わってないという問題点をこの本は指摘してます。
 池尾和人氏は229頁でこう言ってます「日本では計上収支黒字を重商主義的発想でいいことだと思っている人もいますけれども、それが意味しているのは、貯蓄を自分の国で使いきれない。投資機会の乏しいビジネスをやるのに適していないのがいまの日本ということなのです。それをビジネスをやるのに適した国にかえていくか、それとももう貯蓄ができないくらい貧しくなるか」
 だから、ビジネスのために悪い規制はすべてなくす。自由放任主義への転換しかないと私は思います。

2009/04/12

ウェルズファーゴ第1四半期30億ドルの記録的収益との報道

 明るいニュースです。サンフランシスコを本拠とする ウェルズファーゴは30億ドルの記録的な第1四半期収益を予想すると言いました。http://www.startribune.com/business/42733002.html?elr=KArksLckD8EQDUoaEyqyP4O:DW3ckUiD3aPc:_Yyc:aUUsZウェルズファーゴは昨年、業績不振となったシャーロットを本拠とするワコビアを買収しましたが、第1四半期の収益の40%はワコビアによるものです。ワコビアのビジネスは着実に向上していると報道されています。
  ペリー教授のブログのグラフはとてもわかりやすいです。 http://mjperry.blogspot.com/2009/04/wells-fargo-expects-record-first.html元々 ワコビアは顧客満足度№1で悪くない銀行だったんです。ウェルズファーゴはワコビアを買収して成功ではないですか。http://www.nikkei.co.jp/kaigai/us/20090409D2M0903G09.html

夫婦別姓旧慣習説に根拠はない-- 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その2

 (承前)

 第二の見解「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ」ですが、「王氏」というのは令制の「皇親」概念の範疇でしょう。
 この見解では明治聖后藤原美子(昭憲皇太后-従一位左大臣一条忠香女)、皇太后藤原夙子(英照皇太后-孝明女御明治養母-関白九条尚忠女)はあくまでも藤原氏ということです。皇后はその身位ゆえに皇族部なのであって、族姓ゆえに皇族なのではないと言ってます。臣下の女子は、皇后に立てられることによって皇親ないし王氏に族姓が変更されるのではないという趣旨になります。
 それは当然のことです。例えば光明皇后(聖武后孝謙生母藤原安宿媛)ですが、父右大臣藤原不比等の封戸を相続し、例えば天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。こうした財政支出が可能なのも藤原氏の成員であるからですし、『楽毅論』天平十六年十月三日の署名をみると「藤三娘」である。皇后は皇室の成員ですが、あたりまえのことですが皇后であっても自らを藤原氏と認識していたことがわかる。もし光明皇后が藤原氏でなく、ありえないことだが皇親になると仮定すると、天皇大権の掌握どころか、即位してもよかったということになります。そんなばかなことはありません。現実にはありえないことでしたが、仮に光明皇后は則天武后のように即位(武周革命)したら、藤原氏の王朝になります。唐が周に国号をあらためたように、日本から別の国号に改めることとなったでしょう。
 であるから、第三の見解も同様の趣旨でしょうが、これは正論です。したがってその限りにおいて、天皇・皇族の后妃、配偶者は「所生の氏」から族姓 を変更するものでないという論旨を認めますが、しかし、皇室のルールと、皇族以外の家継承のルールがまったく異なることをこの議論では無視してます。
 いうまでもなく日本的家制度が中国の宗族、韓国の門中と違う、最大の特徴が、非血縁継承があり、血筋が中切れになっても継承されていくことです。皇位継承は単系出自系譜という規則性を有しているので日本的家制度とは全然違う。異姓養子厳禁父系規則の貫徹する宗法・儒教文化と日本的家制度とも全然違う。日本的家制度は家職の継承に対応しているが、中国の宗族にはないわけです。さらにいえば令制以来の三后皇太夫人や後宮職員令にあるキサキの性格は、現代的な婚姻家族とは違う。立后それ自体が政治行為で、政治的班位としての性格が強い(三后は令旨を発給し、しりへの政という政治的権能を有する)。例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後の立后ですから、立后は婚姻家族概念でなく皇太子(孫)を引き出す政治行為とみなしてよい。政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもあるわけで、嫡妻権が明確で婚姻家族理念に近い中国の王権とも性格が違います。
 であるから、皇室のルールがこうであると言っても、家族慣行の全く異なる民間にもそれを強要することは無理なのであり、この論理ははじめから破綻していたといえる。要するに家族制度は王権と民間とを区別して議論する必要があります。もちろん幕府が朱子学を官学としていたことから士族家族慣行と一般庶民の家族慣行には違いがある。武家には筋目論というのがあって、異姓養子が好ましくないなど宗法・儒教倫理は濃厚に認められますが、しかしながら例えば出羽米沢藩主(第四代)上杉綱憲の実父は忠臣蔵で有名な吉良義央で、実母が第二代米沢藩主上杉定勝女富子(第三代綱勝の妹)ですから、先々代からみて外孫、先代からみて外甥を養嗣子としたことになりますが、これは異姓養子ですが、非血縁継承ではなく、血縁としては女を介して繋がっているので女系継承ですが、このように幕府は異姓養子や女系継承を認めてしまっている事例があって、単系出自系譜、宗法・儒教倫理で貫徹されてわけではないという意味で、士族家族慣行も日本的家制度に接近したものと認識できます。

 
 日本的家制度の起源(非血縁継承と女系継承)
 
 日本は律令制度を導入しても、親族構造を宗法によって再編することはなかった。宇根俊範(註1)の指摘するように九世紀以後の「氏族」の性格は甚だ曖昧であり、奈良貴族と平安貴族はストレートに直結しないというのである。「氏族」の特性のひとつとされる「同一の祖先から出た」ということが九世紀以後の新氏族にはあてはまらないからである。
 我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の良民の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリニージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(註2)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。
 舎人親王系皇別氏族清原氏と、局務家清原氏は同一姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 11世紀になると諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(註3)とする。
 
 従ってすでに平安時代に実系系譜で繋がらなくても同一姓氏が許されていること。11世紀になると違法であるにも関わらず、諸道博士の家で非血縁の門弟が博士家の姓を名乗る実務官人が増加した歴史的事実から、日本的家制度の特徴である非血縁継承は少なくとも11世紀に起源があると断定してよいと考える。
 
 次に鎌倉時代の武家の継承であるが、明石一紀(註4)の論説が参考になるので引用する。
 鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。
 明石が列挙されている事例は中原広季(大江広元の養父)は外孫藤原親能を、大友経家(頼朝より豊前と豊後の守護を命じられ九州大友氏の祖となった)は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有(清和源氏の新田氏から分立したは得川氏の祖)外孫岩松政経を、大屋秀忠(藤原氏秀郷流)は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、武家においても非血縁継承や女系継承のある原型は少なくとも12~13世紀に遡ることができると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏を挙げることができる。
 畠山氏はもとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石(註5)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。

 そういう解釈は無難かもしれないが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。家の非血縁継承の重要な先例だと思う。--つづく
 
(註1)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
(註2)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99
(註3)曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
(註4)明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団から単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
(註5)明石一紀 前掲論文

2009/04/11

夫婦別姓旧慣習説に根拠はない-- 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その1

 吉川弘文館歴史ライブラリー2009年4月刊行。この本の帯に「なぜ、妻は夫の名字を名乗るのか 戦国の妻たちの生き様から夫婦同姓・夫婦同母の謎にせまる」とあります。後藤みち子は『中世公家の家と女性』と言う学術書も買っているので三条西家の研究業績などを知ってましたが。この本は夫婦別姓旧慣習説否定の補強する材料になると思い買いました。
 民主党政権になれば小宮山洋子が文部科学大臣になり、選択制夫婦別姓導入の民法改正される悪夢が現実になるでしょう。私はもちろん絶対反対であり夫婦同氏(苗)を断乎として守りたいと考えますが、仕事が忙しくてこの問題に取り組む余裕がありましたが、待ったなしの土壇場の状況になりましたので書いていきたいと思います。
 
「夫婦別姓旧慣習説」批判
 
 フェミニスト・夫婦別姓推進者の主張するところの「夫婦別姓旧慣習説」は豊田武などの説である。つまり明治九年三月十七日の太政官指令が、内務省の見解「婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚嫁シタル後ハ婿養子同一ニ看做シ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考へ候」という夫婦同氏(苗)案を覆して、「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事、但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」とされたため夫婦別姓が士族旧慣習だったはずという考え方ですが、これについては社会生活において実態はないという厳しい批判があります。夫婦別姓旧慣習説を否定する実証的な研究、有力な学説として大藤修『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)1996年と、山中永之佑「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976年を挙げておきたいと思います。
 つまり、近世においても明治維新後も銘文、文書として残っている各種資料を精査しても社会生活において、出嫁女の生家姓(または名字)冠称の自称、指称、呼称の事例はきわめて例外的な事例しか見いだすことができないのである。もちろん徳川時代に氏の公称は一般庶民は許されなかったが、明治以前に一般庶民に名字がなかったというのはかなり古い学説で、今日では大多数の庶民は名字を有していたとみなされている。にもかかわらず、出嫁女が生家姓(または名字)冠称している資料をほとんど見出すことができないのである。
 もっとも井戸田博文(註1)によると墓碑において例えば山口県下関市長府の功山寺という毛利氏の菩提寺に「坂田七斎妻藤村イシ子之墓」などいくつかの夫婦異姓墓碑の事例を挙げているが、なるほど士族においては「腹は借り物武士の種」のような自然血統主義的家族観を指摘することはできるが、しかしながら、墓碑において妻が所生の氏であるとしても、それは妻の由緒、出自を明らかにするものであって、生前において、社会生活で生家姓(名字)冠称が通例であったとみなすことはできないのであって、墓碑のいくつかの事例を拡大解釈することはできない。
  
 そうしたことから太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。
 
 明治22年12月27日宮城県伺
 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺
 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」(註2)
 
 明治民法の起草委員は帝国大学法科大学教授の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章であったが、梅謙次郎は逆縁婚(生存する妻が死亡した夫の兄弟と再婚する)の取り扱いなどで士族家族慣行の採用を却下し、民法を庶民の家族慣習に合致させることを強調した。その政策判断は正しかったと思う。亡兄の嫂を娶るというのは人類学でいうレヴィラート婚ですが、「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕えず」と言うように宗法・儒教規範では人倫に反するとされるのである。しかし日本の一般庶民はそのように考えてない。例えば兄が戦死したり不慮の事故があった場合、家を継承するもっとも無難な在り方がレヴィラート婚なのであった。戦争未亡人の再婚の多くがレヴィラート婚であることはよく知られている事実だろう。レヴィラート婚を禁止する儒教規範の建前のほうが悲劇である。そのへんのことがよくわかっていた。
 夫婦同氏についても強く推進したのが梅謙次郎である。穂積陳重・富井政章も異論はなく、世間の実態を追認したものともいえる。梅謙次郎は法典調査会で次のように夫婦同氏を強調した。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。
 夫婦同氏を成文化したのが明治民法であっても、それ以前から夫婦同氏が普通の慣行であったわけである。夫婦同氏はイギリスやドイツにおいても中世より慣行となっていたのであるから、西欧と家族慣行とも同じであった。

 女叙位の位記の宛名は所生の氏(古代的姓氏による-したがって夫婦別姓)だが、明治四年以後、古代的姓氏をなのることが禁止されただけでなく、女性の本姓と実名は社会生活において指称されることはなかったのであって従って旧慣習とみなす理由がない
 

 では、明治九年の太政官指令が所生の氏にこだわった主たる理由は何かというと、明治九年の太政官政府法制局の見解は次のとおりであった。
 「内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ
第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ
第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ
第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 
 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 」

 第一の見解は女性は夫の姓を冒してはならないとい自然血統主義的家族観は精査が必要ですが、さしあたり女性への叙位における位記の宛名が所生の氏の本姓+実名であり、古代的姓氏による夫婦別姓であることと関連する事柄だろう。
 だからといって、それを旧慣習とみなさないのは、女性の叙位は特定の限られた範囲にすぎず、一般庶民とは無関係であるだけでなく、貴人の女性は実名忌避の慣習があって、実名で呼称、指称されることはないということである。
 通常、貴族の女性や、宮廷女官を本姓+実名で呼称されることはない。社会生活では宮廷女官であれば、女房名、候名で呼称される、平安時代は父や夫の官職に由来する女房名が多い、中世になると、京都の大路名や播磨局、伊予局というような国名など時代による変遷はあるが、社会生活において宮廷女官などは符牒としての女房名で称されるのである。例外的には赤染衛門であるが、これは特殊な例である。
 実名が社会生活でほとんど意味をなさないというのは、例えば将軍徳川綱吉生母桂昌院の従一位の位記の宛名は藤原光子である。もとは京都堀河の八百屋の娘ともいわれるが、母が関白二条光平の家司である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。玉と称し、春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側妾となった女性である。
 桂昌院は徳川将軍家に妾として入った女性だが、なぜ藤原光子が実名になるのか。養父の本庄氏の本姓が藤原氏なので、本姓藤原氏とされているのだ。そのように女性の叙位は男官の叙位と同じことだが、源平藤橘等の古代的姓氏で、父または養父の本姓が記される、姓は既婚・未婚を問わず一部の例外を除き父系帰属主義で一貫している。
 したがって位記における夫婦異姓の伝統は事実として認めざるをえない。しかし一般的な社会生活では指称されることはないのであって、そもそも実名は知られてないし、将軍の母を藤原光子と呼び捨てにできる人などまずいない。今日における個人名とはかなり意味が違うものである。 
 とはいえ、もちろん近世においても本姓(古代的姓氏)つまり源平藤橘等の天皇の賜与認定による古代的姓氏は国家的礼的秩序に編成されており、当然現実的意味を有していた。
 しかし重要なことは、明治政府は近世以前の天皇の賜与・認定に由来する本姓と、土地の名称など自然発生的な由緒の苗字(名字)の二元的システムを解消し、名字に一元化したことである。
 すなわち近世は姓氏二元システムになっていて、朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる(註3)。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった。
 明治四年明治四年十月十二日一切公用文書に姓を除き苗字を用いるとの太政官布告により、苗字(公家の場合は近衛・九条等の称号)に一元化された。つまり藤原朝臣実美ではなく三条実美、大江朝臣孝允ではなく木戸準一郎(のち孝允)、越智宿祢博文ではなく伊藤博文と、源朝臣栄一ではなく渋沢栄一と書くべきだと命じたのである。
 この布告によって、令制以来の源平藤橘等古代的姓氏はその機能を実質的に終了したのである。むろん天皇の賜与・認定による姓であるから、重んじられてはいても、王朝風に古代的姓・カバネを用いた明治二年の職員録によると源平藤橘で85%をしめ、ほかに菅原氏、高階氏、大江氏、紀氏、越智氏、清原氏、加茂氏など44の姓があったがそれほど多くない。源氏だけで40%、藤原氏は35%をしめていた。政府職員の75%が源姓か藤原姓だった(註1)。これでは個人識別の標識としてははなはだ不便であり、機能的でないのもこの布告の理由だろう。

 明治四年十月十二日太政官布告は現代にも生きているはずである。したがって、たとえば細川護熙元首相が源氏の棟梁を自認しても、公文書に「源朝臣護熙」と王朝風に署名することはできないと思う。名字(苗字)である細川でなければならないはずだ。
 王朝風の古代的姓氏(本姓)が明治四年で公文書で用いることを禁じた以上、もはや女性の位記の宛名が所生の氏の本姓であった伝統も意味をなさないのであって、女叙位の伝統を考慮する必要がないというのはそういう理由である。--つづく
 
 

(註1)井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 
(註2)廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03
(註3)大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 

○1876〔明治9〕年3月17日太政官指令、1875〔明治8〕年11月9日内務省伺
内務省伺
華士族平民ニ論ナク凡テ婦女他ノ家ニ婚嫁シテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀ニ候哉 又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚嫁シタル後ハ婿養子同一ニ看做シ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考へ候へ共右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付仰上裁候 至急何分ノ御指令被下度 此段相伺候也
指 令
伺ノ趣婦女人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事
但夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事
法制局議案
別紙内務省伺嫁女姓氏ノ儀審案候処女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ
第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムへシト云ハ是レ姓氏ト身分ヲ混合スルナリ
第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ 皇后ヲ皇族部中ニ入ルヽハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ
第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス 例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟
帰スル所今別ニ此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一大困難ヲ醸スナリ 右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟 因テ御指令案左ニ仰高裁候也 〔二月五日内務〕
(『太政類典第二編』第133巻29項)

2009/04/10

カードチェック法案の動向

 
 「激しくウォルマートなアメリカ小売業プログ」に動向が書かれてます。http://blog.livedoor.jp/usretail/archives/51192460.html

2009/04/09

太陽活動100年ぶりの低水準とか

 太陽に黒点が見えないhttp://www.yomiuri.co.jp/space/news/20090410-OYT1T00882.htmこれじゃ寒冷化でないの。

「 ニューディールが大恐慌を長期化した」は参考になる

 池田信夫の2月2日のブログ。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/84b43aeb17d4b74b195adde2cbf4fdf5ウォールストリートジャーナルからの引用ですが、価格カルテルとストライキ、賃金カルテルが悪だと言っているのは正論でしょう。

2009/04/06

省エネどころか消費電力15%増のLED転換政策のあほらしさ

 発売中の日経ビジネス4月6日号9頁「LED照明、普及の隘路」という記事は、環境負荷削減や、省エネのため積極的に導入されてるLEDの問題を指摘している。セブンイレブンジャパンの担当者によると「店内照明をLEDにすると、消費電力が15%増える」んだそうだ。なぜかというとLEDは直線的に光りを発するので当たり方にムラが有り、まんべんなく照らす蛍光灯より、電気使用量が増えるんだと。省エネどころが環境負荷が増加するんだから、やっぱり蛍光灯ほど便利なものはないということか。 化石燃料は使い尽くして良いんでないの。地球環境はキリスト再臨で超自然的に更新されるから、けちけちしないがよいというのが私の考えだ。

2009/04/05

感想 池田信夫ブログ「ニューディール修正主義」

  池田信夫のルーズベルトのニューディール政策がアメリカを救ったという神話は歴史家や経済学者によって覆されているという記事は
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a5cb5aaca1c4be415740924f34430c5f参考になるし、この人は相当なインテリだと思う。「ルーズベルトがワグナー法などによって市場への介入を強めたため、成長率はふたたびマイナスになった」としてます。1935年全国労使関係法は廃止すべきという自分の主張にとって好ましい見解です。民間企業労働者に団結権・団体交渉権を付与し競争力をそぐほど賃金を上げた労組の力を強化したことが、1937年恐慌の要因ということでしょうか。
 むしろ自由放任主義で何もしなかった20年代初期のハーディング大統領を評価する見解も引用されてます。リバタリアン知識人は20年代の大統領クーリッジやハーディングが好ましい大統領と考えます。

2009/04/04

池田信夫の北欧モデル推奨の疑問

 リバタリアンを標榜する池田信夫は意外なことに北欧モデルを推奨しているhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/44e9cf764ee5dffdf7d7e0c8b2e92dfc。もちろんその趣旨は理解できるし、解雇自由で労働移動が速やかであることが望ましいという観点に賛成だが、私が北欧が嫌悪する最大の理由は産業別組合の組織率が極めて高いことである。従って池田信夫もセーフティネットを産業別労働組合とするシステムは、我が国のような大国では現実的ではなく、ビジネスベースでの構築を主張しているが、しかし誤解を招きやすいと思います。ネオコーポラティズムや産業別組合を強化するような政策は絶対反対です。
 
 リバタリアンはネオコーポラティズムを嫌悪すべきだ。もっともよくない体制です。
 私は最良のモデルたり得るのは前回の国民党政権のニュージーランド、メジャー政権のイギリス、1920年代ロックナ-エイジのアメリカと思ってますから、いずれにしても英米法圏の国しか信じません。
 そもそも北欧はもちろんヨーロッパ自体が嫌いです。私はEUは反キリストみたいなものだから潰したほうが良いと思っている。はっきり言いましょう。ドイツ〔のような産業別組合が強くて労働コストの高い国〕は有害で悪い国。そういう国の政策を模倣しようとしている政策に全面的に反対なわけです。もちろん解雇規制・労働コストで北欧とドイツは違うといっても、体質において大差はない。
 リバタリアンなら英国をのぞいて、全国的な産業レベルの団体交渉のシステムのヨーロッパは自由企業体制を窒息させるものとし嫌悪するしダメだとはっきり言うべきだ。
 S・M・ジャコービィの名著に『会社荘園制』内田他訳北海道大学図書刊行会1999年がありますが、3頁以下にこう書かれてます。長文になりますが、20世紀日本と合衆国が大量生産技術においてヨーロッパより優れていた理由についてわかりやすく説明してます。

「今世紀〔20世紀を指す〕の最初の三十年間、ヨーロッパ社会は社会主義と労働組合運動の高揚に対応して企業横断的な雇主協会を結成し、この協会が、財産権と経営権を組合が支持するという約束と引き換えに、組合を容認し産業レベルの団体交渉に応ずるようになりました。〔一方、アメリカでは全米製造業協会が明確に反労働組合だったのでヨーロッパと異なります〕‥‥すなわちこれまでこれまで職場単位の交渉事項だった賃金のような問題を、産業レベルで解決することに移し替えたのです。こうして雇主は抗争を産業レベルに移すことに成功しましたが、しかし彼らは、このことで組合が、社会保障プログラムを充実せよと圧力をかけやすくなるとは、予見できませんでした。その結果が、福祉国家の急速な成長でした。政府による失業保険や老齢年金の設定、あるいは解雇規則や有給休暇のような現実的な雇用条件を規制する立法に結集しました。〔要するに、解雇が難しくなり高コスト体質で自由企業体制を窒息させました。他方〕日本と合衆国の状況はこれとまったく違ってました。1910年代と1920年代に、両国の産業は次々と聳立する巨大企業が「マス」生産に邁進する様相を呈しました。‥‥‥大戦という危機は、雇主や政府に団体交渉の受容に向かわせる十分な圧力にはならなかったのです。それが実現したのはもっと後、アメリカでは1930年代、日本が1940年代に体験した第二次大戦の危機においてでありました。‥‥日本と合衆国の労働規制と社会保険は、西ヨーロッパにくらべて洗練度において劣ってました。しかし雇主の温情主義-ウェルフェアキャピタリズム〔いわゆる日本的経営の概念に近い〕-においては西ヨーロッパを凌駕したのです。両国と西ヨーロッパとのこうした共通の違いをどう説明すればよいでしょうか。まず考えられるのは制度が生まれるタイミングと筋道の問題です。日本と合衆国では組合活動が根をはる機会がおとずれる〔それは大恐慌と大戦、日本では占領軍による労働改革〕前に、大規模な資本集約的産業が台頭しました。さまざまな理由で企業が相対的に大きかったです。‥‥両国ともに(労働者の技能をそれほど要求しない)規模と範囲の経済に依拠した大量生産技術を用い、そのことで利益をあげてきました。なぜ、日本とアメリカの企業は大量生産技術を用いたのでしょうか。合衆国と日本の雇主が相対的に大きいため、資本が調達でき、生産の大量性確保に必要な規模の経済を達成した‥‥これは、アルフレッド・チャンドラーJr.が最初に指摘した点です。第二に両国とも熟練労働者が相対的に高くついたという事情があります。第三は職業別組合が弱体であったため、それが定着していたヨーロッパとくらべて大量生産技術を導入することにたいする職場の抵抗が少なかった‥‥」

 むろん21世紀は大量生産の時代ではないかもしれません。ただ、日本と合衆国の経済力の基盤には、産業別労働組合が台頭する前に、大企業の官僚的システムと内部労働市場と企業文化が確立していたことがあるわけです。 北欧にも優良企業はあるでしょうが、大企業の数において日本や合衆国とくらべればたいしたことはない。何で日本のような大国がスウェーデンやデンマークのような小国のまねをしなきゃいかんの。
 

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

最近の記事

最近のトラックバック

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

世界旅行・建築