2 女帝中継ぎ論批判を明確に否認
274頁以下。著者は近年の荒木敏夫・義江明子・仁藤敦史の女帝論を批判している。特に歴史学が検証可能な学問を標榜する以上、史実よりも実際には起こらなかった「可能性」を優先させるかのような姿勢はとるべきでないとして仁藤敦史を痛烈に批判している点を評価するものである。
著者によれば女帝中継ぎ論とは井上光貞によって体系化されたもので、古代の女帝を「皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に即位したもの」で「権宜の処置」としてとらえ、女帝出現の背景・事情を「中継ぎ」という観点から説明したものであるが(井上光貞著作集一『日本古代国家の研究』所収1985岩波書店-初出は1964)、井上光貞説が45年前のもので今日の研究水準からみて容認できない部分があるにせよ、王位継承上の文脈において「中継ぎ」論を支持している。
著者は結論として、「女帝であることによって不婚が強要されたのは未婚の内親王のみでなく、既婚者であっても即位後は不婚を維持したのであり‥‥すなわち『不婚』とは子孫を残さないことであり、この点が男帝と女帝の決定的な違いであって、結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない一方、八世紀以降の女帝は「『中継ぎ』的役割を徹底するため不婚が強要された」と述べ、中継ぎ的役割であるがゆえに「不婚の女帝」であり、男帝との決定的な違いを論理的に説明している。女帝を「中継ぎ」と断定した点で評価できる。
男帝は中継ぎとみなせないという説はどうか
ただ「結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない」いう断定はどうだろうか。私が思うに光孝・後白河・花園・後醍醐・後西が、中継ぎ的役割として即位した、あるいはそのようにふるまった事例とみることはできる。しかしこの点についても著者は反論を用意していて、「たとえ即位以前『中継ぎ』役割が期待されたとしても、所生子が存在する男帝に他律的意思によって決まった皇嗣への継承を強制することはできなかった。」とする。
しかしこの点については文徳天皇が惟仁親王(清和)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を望んでいたにもかかわらず、外祖父太政大臣良房との隠微な権力抗争に敗北した文徳は、自らの意思で皇位継承者を定めることができなかった。他律的意思によって皇位継承者が決まってしまった例であり、王権の権力構造いかんでは中継ぎに甘んじるケースを否定できない。
一般庶民の家における中継ぎと皇室を安易に類比すべきではないが、例えば本家当主が亡くなったが、長男が幼いため家業を指揮できないので、一時的に当主の弟夫婦が中継ぎとして家業を継承するが(複合家族による軋轢を回避するために中継ぎを設けず後家が長男の成人まで家長を代行して家業を指揮することも少なくない)、長男が成人となった時点で弟夫婦は分家分出して退き、本家の系譜には加えないような在り方に類似した中継ぎを否定できないのでないかと私は考える。
中継ぎとみなされる歴代男帝
光孝天皇
例えば仁明皇子一品式部卿時康親王(光孝)は陽成遜位という異例の事態により、皇親のなかでも長老格であるために藤原基経ら有力貴族に推戴され即位した。結果的には皇子源定省(宇多)が橘広相や尚侍藤原淑子の奔走によって即位したとはいえ、齋王・齋宮を除くすべての皇子女を臣籍に降下させたことから、それは権力を掌握していた基経を憚ってのものであろうが、中継ぎ的役割に甘んじる態度を示した。
摂関家と姻戚関係のない源定省が基経の意中の候補だったとは思えない。しかしいかに基経と雖も、実際に陽成と生母藤原高子を口説いて退位させた後宮実力者で異母妹でもある尚侍藤原淑子の推す源定省の即位に異論することができなかったというのが角田文衛説だったと思いますが、つまり源定省を後押ししたのは父帝光孝ではなく、宇多生母班子女王と親しかった尚侍藤原淑子だった。陽成復辟がありえないとしても、基経にぬかりなければ清和系の親王に皇位継承される可能性もあったわけで光孝は中継ぎという見方もできるのである。
後醍醐天皇
徳治三年(1308)の大覚寺統後二条天皇の早世により、両統迭立で持明院統花園即位に伴い、大覚寺統から後二条の異母弟の尊治親王(後醍醐)を立坊。これは後二条皇子の嫡子邦良親王が病弱であったこと。さらに、亀山法皇末子で法皇の遺詔で皇位継承者に指定された恒明親王の即位の可能性を潰す意図があったとみられている。
後宇多法皇は大覚寺統正嫡を後二条皇子邦良親王と定めていた。延慶元年(1308)閏八月の法皇の宸翰によれば、その御領をすべて尊治親王(後醍醐)に譲与せられ、親王一期の後は、悉く邦良親王の子孫に伝へ、尊治親王の子孫は賢明の器済世の才あるとも臣下として之に仕へよと特に誡められている(註1)。つまり尊治親王は一期相続の中継ぎ的即位で大覚寺統ではあくまでも傍流の扱い、「一代の主」と引導を渡されていた。
文保二年(1318)花園譲位により後醍醐即位、邦良親王立坊。二代続けて大覚寺統とされた。幕府の斡旋案にもとづく「文保譲国」いわゆる「文保御和談」の結果である。持明院統にとって甚だ不利益な結果となったが、これは正和四年(1315)の京極為兼第二次配流事件の影響がある。西園寺実兼が伏見上皇と為兼が幕府に異図を抱いていると讒し、為兼土佐配流後も伏見上皇が幕府を敵視しているとの噂が囁かれ、上皇は必死の弁明を試みたという経緯があるが、幕府の実力者金沢貞顕が大覚寺統廷臣と親しかったこともある。幕府首脳部は邦良親王が後宇多法皇により正嫡と定められていたので法皇の意向を尊重したのである。つまり後醍醐は即位の時点でも一期相続の中継ぎの位置づけだった。
元享四年(1324)後宇多法皇が崩御になられると、東宮邦良親王は不安を感じ、皇位継承の速やかならんことを熱望し、しきりに使者を遣わして鎌倉幕府に説かしめ、催促した(つまり後醍醐の譲位を促すよう幕府が圧力をかけるよう熱望)。それがために後醍醐天皇との間がはなはだしく疎隔し、険悪となった。後醍醐は邦良親王の運動を阻止するため吉田定房を鎌倉に下向させ、対幕府工作を行った。後醍醐の政権維持には定房が貢献している。邦良親王は嘉暦元年(1326)三月二十日東宮のまま病により薨じた。薨後、東宮候補には大覚寺統から三人、邦良親王の同母弟邦省親王、亀山皇子恒明親王、後醍醐皇子尊良親王が推薦され、東宮ポストを争った。つまり大覚寺統が三派に分裂したことを意味するが、「文保御和談」の線で持明院統嫡流量仁親王立坊となった。
量仁親王(光厳天皇)の次が問題になるが、幕府が後二条-邦良親王流が大覚寺統正嫡という認識をとる以上、後醍醐系は疎外されることになる。ということで、後醍醐がみずからの子孫の皇統を形成するには倒幕という選択肢しかなかった。
大覚寺統の正嫡はあくまでも邦良親王系と言うと皇国史観から反論があるだろう。つまり神皇正統記は、後宇多が「若し邦良親王早世の御事あらば、この御末(後醍醐の子孫)継体あるべし」と御遺勅された旨載せているが、それは微妙な問題であると思う。穏健な見解を述べておけば、恒明親王の常磐宮系も亀山法皇の遺詔により正統性を主張できるし、後醍醐天皇も倒幕、建武政権を樹立し、光厳天皇廃位、邦良親王の子である康仁親王を廃太子としたことにより、後二条系の正統性を否認し、建武元年(1334)後醍醐皇子の恒良親王立太子で、嫡流たる立場を固めたと解釈することはできる。それは後宇多法皇が父帝亀山法皇の恒明親王を正嫡とする旨の遺詔を反故にし、邦良親王を正嫡に定めたことと同じことである。
花園天皇
一方、花園は中継的性格が明確な例だと思う。持明院統正嫡は後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光であり、持明院統の主要所領である長講堂領、法金剛院領、琵琶の秘曲は代々正嫡に伝えられたのであって、後伏見の弟である花園は傍系であるので相続したのは旧室町院領の半分だけあった。
天皇在位は正嫡の後伏見が在位が永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日)で3年に満たない短期である。一方、中継ぎの花園が延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日)で9年以上に長期に及ぶ。しかしながらこれは後伏見が幕府の圧力で、大覚寺統の後二条に譲位せざるをえなくなったためである。在位の長さは正嫡・中継の性格とは無関係だといわなければならない。
正嫡である後伏見や光厳が治天の君として院政をしいたが、傍系である花園は院政をしいてないし、その資格もなかったとみてよいと思う。
もっとも貞和四年(正平三年1348)に崇光天皇の皇太弟に花園皇子直仁親王が光厳上皇の猶子となったうえで皇太弟に立てられており、困難な時期に持明院統を支えてくれた花園院の恩義に報いようとしたとされていたがそれは表向きの理由であった。
実は、康永三年(1344)の時点では光厳上皇(当時は、光明天皇・東宮興仁親王)は、花園皇子直仁親王を正嫡に定めていたのである。それは、康永三年四月の置文と譲状により、直仁親王を将来継体とし、荘園群のなかでももっとも重要な長講堂領は光明天皇から直仁に伝領されるように定められ、興仁(のち崇光天皇)には因幡国と法金剛院領を譲るが、一期ののちは直仁に伝領するよう定めたことで明確なのである(註2)。
持明院統の正統長嫡路線からみて、第一皇子の興仁親王の皇子は必ず仏門に入れよとされ、興仁親王(崇光)が中継ぎの扱いで、光厳の従兄弟にあたる直仁が正嫡とされたのは不可解というほかない。ところが直仁親王の母宣光門院(正親町実明女藤原実子)は花園院最愛の寵人であるから、花園皇子とされているが、実は直仁親王は光厳胤子であり、宣光門院が懐妊する前に春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生した。このことは光厳上皇と宣光門院以外他人は全く知らないことと置文に記されていた。つまり不義の交際があったことを上皇御自ら告白されているのである(註3)。春日大明神のお告げにより実は第二皇子の直仁親王を正嫡に定めたということらしい。(この文書は事の性質上戦後になって明らかになった)
直仁親王は南北朝動乱で事実上廃太子となり即位することはなく、持明院統正嫡も崇光天皇系とされたたのであるが、仮に直仁親王が即位したとしても光厳の猶子とされ真実は実子でもあることから、やはり花園は中継ぎであったとみなしてよいのである。
後西天皇
承応三年(1655)後光明天皇(後水尾第4皇子)は体調をくずし、皇子がなかったため、廷臣達と相談し異母弟で後水尾第16皇子で当歳の高貴宮(のち親王宣下により識仁親王-後の霊元天皇)を養嗣子に迎え儲君とされた。当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったためである。後光明天皇はその年に天然痘により急崩。しかし当歳の高貴宮の即位は困難であり、後水尾第八皇子の花町宮良仁親王が高貴宮が成長するまでの中継ぎとして即位した。後西天皇である。良仁親王は後陽成天皇の第七皇子高松宮好仁親王の養嗣子となり、花町宮をなのり宮家(後の有栖川宮家)の第二代当主であった。寛文三年(1663)10歳に成長した識仁親王に譲位。
ウィキペディアによると後西天皇は仙台藩主と従兄弟にあたる血筋であることから幕府から警戒されていたこと。院政をしいていた後水尾院が識仁親王の早期即位を望んでいたため、早期の譲位となったと言うが、中継ぎの役割に徹したといえるだろう。
後西天皇は多くの皇子女をもうけているが、第1皇子の長仁親王が八条宮(後の桂宮)を継承し、第2皇子の幸仁親王が高松宮を継承有栖川宮をなのった。第3~第16皇子は法親王、入道親王となり寺院に入っており、後西院の系統は皇位を継承することはなかった。
従って後西天皇は中継ぎの性格が明確である。
このように男帝に中継ぎはないとは言い難い面がある。しかしながら佐藤長門は、古代王権の構造を検討しているのであって、摂関期以降あるいは中世以降の展開は別問題とするならば、摂関や武家政権の皇位継承問題への干渉を議論の対象から除外すれば大筋において佐藤説も誤りではないかもしれない。
(註1)今井林太郎「中世の朝幕関係」歴史科学協議会編「歴史科学大系17巻天皇制の歴史(上)」校倉書房1987所収 173頁
(註2)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 185頁以下
(註3)飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 139頁
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