感想 松岡心平編『看聞日記と中世文化』(2)
承前
小川剛生 「伏見宮家の成立」-貞成親王と貞常親王
(親王宣下が切望された意味)
つまり常磐井宮満仁親王の愛妾を差し出すという足利義満に阿諛した行動は評判が悪いとしても一面的な見方をとるべきではない。[当時の「公武統一政権」では義満が実力者であった]。それほどまでして親王号に固執した心情こそ着目すべきと言う。
経済的基盤さえあれば、所領を媒介として家臣団が形成され、宮家は存続する。常磐井宮は安楽寿院領がある[亀山法皇の遺詔では大覚寺統の主要所領は恒明親王に相続されるべきものだったが、後宇多法皇によって反古にそれたために、鎌倉幕府が介入して安楽寿院領を取り戻した]。しかしそれだけではなく、大覚寺統嫡流という意識を捨ててない。実際に格式も高かった。満仁元服の歳の加冠の役は内大臣正親町三条実継、加冠が万里小路嗣房でいずれも後光厳朝の実力者である。木寺宮には洞院家、伏見宮には今出川家というように、宮家の後見は大臣家クラスの上級廷臣であって、このような廷臣を祗候させるには当主の身分も考慮されなければならなかった。
親王宣下が切望される理由をわかりやすく説明していると思う。『江家次第』によると親王に対しては家政機関として親王庁の設置が認められる。親王宣下と同時に公卿のうちから勅別当が指名され、親族拝以下の本所の儀が執行され、親王庁の構成員、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補任されるならわしだった。伏見宮の初代とされる栄仁の親王宣下では、ならわしどおり本所の儀が執行されたと著者は述べている。持明院統正嫡であるから当然のことだろうが。
宮家の勅別当はほぼ閑院流の清華家・大臣家の公卿に限られた。常磐井宮満仁の親王宣下では正親町三条実音が指名されたが本所の儀は省略され、伏見宮貞成の親王宣下も満仁親王の例に倣って、勅別当に三条西公保を指名したが、本所の儀は略されたという。略式であっても親王と無位無官のたんに某王の皇親では全然違うのである。
(文安二年「不思議の荒説」事件)
ところで、貞常親王について、文安二年(1445年)三月十六日、関白二条持基を加冠役として21歳で元服し、翌日親王宣下の予定だったが、六月二十七日まで延期された理由である「不思議の荒説」事件に言及されている。
この事件は酒井紀美『中世のうわさ-情報伝達のしくみ』吉川弘文館平成9年に詳しい。『師郷記』によると、この年の三月に禁裏・竹園之間[天皇と皇族]についての不思議荒説がどこからともなく言いふらされてさまざまな影響を及ぼし、翌日の親王宣下が実現されなかった。『師郷記』及び『高倉永豊卿記』によると伏見宮貞成親王の「御訴訟」により五月、万里小路時房と松木宗継の二人が伏見殿に派遣され、訴えを聴取した。結果六月のはじめに、雑説の張本として日野中納言(広橋兼郷)が流罪、噂を広めた神祇伯二位(白川雅兼王)が京外追放処分とされた。
この時期の『看聞日記』は欠落しているので記事はない。伏見殿に派遣された時房の『建内記』もこの時期のものがない。さらに伏見宮家の侍読で貞常親王の学問の師である中原康富の『康富記』にも記事はなく、真相は不明である。酒井紀美は史料の欠落に作為を看取しているが、それだけ深刻な噂がいいふらされたとみるべきだろろう。
小川剛生によると、流罪は「云口」では前例のない厳しい処分だという。広橋兼郷は日野重子の口入で流罪を免れたが、辺土に蟄居し名誉回復もなく、毒殺説もあることから悪質な噂とみなしている。噂の中味はたぶん、貞成が不自然なかたちで、後花園を退位させ、貞常の登極を企てたというようなものだったろうと推定している。厳しい処分は後花園院による伏見宮貞成・貞常父子に対する配慮と考えられている。
貞成親王は後花園院の実父であるが、後花園は後小松の猶子として即位したので名分としては父ではない。後小松崩御においては名分が重んじられ実父でないが諒闇とされた。さらに後小松上皇の遺詔で伏見宮貞成親王への太上天皇尊号を禁じていたわけであるから、禁裏と伏見殿を離間させる悪質なたくらみがあったのかもしれない。
これに類した事件は近世以降にもあるだろうが、伏見殿をおとしいれる悪口だけで流罪という厳しい処分の前例があることは記憶しておきたい。
つづく
[ ]内は筆者のコメントで引用ないし言い換えではない。
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