①御配偶②御父③母④親族関係⑤所生の皇子皇女⑥生年⑦身位の変遷等)⑧婚姻成立時期と当該年齢(数え年)若干のコメント
(これは女子法定婚姻適齢引上げ絶対反対シリーズの一つの資料としてかなり前に書いたもので法制審議会が改正を迫る危険な情勢で抵抗していかなければならないので未完成だが出していくことにします。)
令義解巻二、戸令に「凡男年十五、女年十三以上、聴婚嫁」とあり養老令に定める婚姻適齢が 男15歳、女13歳であった事は疑いなく、大宝令も同一、飛鳥浄御原令も一応同一だったというのが通説である。
養老の戸婚律は散逸して伝わらないが、唐の戸婚律には早婚者を罰する条文なく、わが養老戸婚律も同様であったことは間違いない。仁井田陞博士は「唐令拾遺」において、司馬氏書儀及び文公家家令の文を引いて、「諸男年十五。女年十三以上、並聴婚嫁、」なる条文が、唐開元二十五年令にあったものと推定し、同条文はわが律令の藍本となった唐永徽令にもあったと推定されている。。
要するに律令国家の婚姻適齢は唐令の模倣である。しかしそれだけの意味ではない。ローマ法の法定婚姻適齢が男子14歳女子12歳で、これは教会法に継受された、英国のコモンローマリッジも教会法を継承しているので同じである。現在教会法は男子16歳女子14歳で、英国は男女とも16歳であるがこれは20世紀になってからであって、従って西洋の婚姻適齢法制スタンダードはローマ法-教会法-コモンローの男子14歳、女12歳なのである。しかしそれは西洋だけのものではなかった。日本・中国・朝鮮半島・ベトナムでは伝統的に年齢は数え年のため、唐永徽令、日本養老令の男子15歳、女子13歳もだいたい同じことである。ローマ法-教会法-コモンローと唐永徽令-日本養老令の婚姻適齢が洋の東西を問わずグローバルスタンダードでほぼ同一だったということである。
奇しくも持統女帝(ウノノ皇女)の婚姻年齢が13歳だった。光明皇后(藤原安宿媛)が16歳であるが、共同統治型の最強皇后というと、呂后に比擬される持統と、則天武后に比擬される光明皇后だ。16歳以下のケースは多い。それが基本であると認識すれば、法定婚姻適齢を18歳に引き上げてしまおうというのは歴史的脈絡を無視したものである。なお歴代皇后で最年少のの婚姻年齢は崇徳后藤原聖子(皇嘉門院-関白忠通女)の八歳で、最高齢は三十九歳の藤原泰子(高陽院-関白忠実女)だと思う。
律令成立期(天武朝)より、摂関期(後冷泉朝)までの正号皇后、皇太后、太皇太后、皇太妃、皇太夫人は全てリストアップ。后位に上ってない妃、女御の一部もリストアップしている。但し、光仁生母紀橡姫、醍醐生母藤原胤子、花山生母藤原懐子、三条生母藤原超子など追尊皇太后等の一部をリストに加えなかった。下記の多くは孫引きで推定も含む。筆者が直接史料に当たったのは一部分にすぎない。
身位の変遷等についての主な引用は橋本 義彦「中宮の意義と沿革」『書陵部紀要』22号1970、角田文衛『日本の後宮余録』学灯社1973、一応記述は誤記のないように気をつけているが、身位の変遷等はウィキペディアも詳しいので参照してください。
持統天皇(鸕野讚良皇女 、兎野皇女) ①天武后②天智③蘇我越智娘④天武の姪⑤草壁皇子(皇太子)⑥大化元年⑦天武天皇二年立后、朱鳥元年臨朝称制、持統天皇四年即位46歳、持統天皇十一年譲位、大宝二年崩御58歳 ⑧斉明天皇三年 13歳
元明天皇(阿閇皇女) ①草壁皇子妃②天智③蘇我姪娘④草壁からみて父方従姉妹、母方おば⑤文武天皇、元正天皇、吉備内親王⑥斉明天皇七年⑦文武即位後皇太妃(皇太妃宮職附置)、慶雲四年即位、和銅八年譲位、養老五年崩御61歳⑧初生子の元正天皇(氷高皇女)は天武天皇九年生である。よって草壁と阿閇皇女の結婚は天武八年以前である。天武八年に阿閇皇女は19歳であるが、阿閇皇女の同母姉である御名部皇女と高市皇子の結婚は、御名部皇女所生の長屋王が天武五年生であるから天武四年以前である。これを参考にして神田千紗は天武五年~八年頃。つまり16~19歳とみなしている。*1
藤原宮子①文武夫人②右大臣藤原朝臣不比等③加茂朝臣比売⑤聖武天皇⑥生年不詳⑦文武天皇元年八月夫人、養老七年従二位、神亀元年二月勅、生母正一位藤原夫人を尊んで大夫人と称する。同三月詔、先勅を改め、皇太夫人、口語は大御祖(おほみおや)と称する。この後中宮職附置、孝謙即位後大皇太后(中宮省附置)⑧文武天皇元年八月
光明皇后(藤原安宿媛)①聖武后②右大臣藤原朝臣不比等③県犬養橘三千代④聖武と同年齢だが母方おば⑤孝謙天皇、基王(皇太子-夭折)⑥大宝元年⑦霊亀二年六月入内16歳、聖武即位後夫人24歳、天平元年立后29歳(皇后宮職附置)、孝謙即位後に皇太后49歳(紫微中台-附属職司、天平宝字二年坤宮官に改称)、天平宝字四年崩御60歳⑧霊亀二年六月16歳。これは首皇子立太子の二年後である。霊亀元年、長親王・穂積親王が薨じ、この時点で天武皇子で健在なのは舎人親王と鎌足女を母とする新田部親王だけとなり、元明が精力の減退を理由に元正に譲位した。霊亀二年には吉野盟約の最後の生存者志紀親王が八月に薨じ、左大臣石上麻呂は老齢で翌年三月薨じている。ほぼ右大臣不比等が太政官の決裁権を握ったとみられるから*2、霊亀二年六月の入内は政治的タイミングだろう。天平元年の立后宣命に「我が王祖母天皇(元明か元正かで議論のある問題だがたぶん元明をさす)の、此の皇后を朕に賜へる日に勅りたまひつらく、其の父と侍る大臣の皇が朝をあななひ奉り輔け奉りて、其の父は夜半暁時休息ふこと無く,浄き明き心を持ちて……我が児、我が主、過ち无く罪なくあらば、捨てますなと負せ賜ひ宣り賜ひし大命によりて」とあるが、元明上皇が「捨てますな」と皇太子に命じたことは、元明と県犬養橘三千代が親しかったことから事実だろう。共同統治型の強力な皇后。東大寺・国分寺創建の発意者であり、膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。聖武天皇が陸奥産金の知らせに喜び衝動的に出家され国政を投げ出したため、皇太后朝=紫微中台政権では天皇大権を掌握したとされる。
当麻山背①舎人親王②当麻老⑤淳仁(淡路廃帝)⑥生年不詳⑦天平宝字三年大夫人(中宮職附置)、天平宝字八年淡路配流
井上内親王①光仁后②聖武③夫人県犬養宿禰広刀自⑤他戸親王(皇太子-廃位)、酒人内親王⑥養老元年説あり⑦養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十六年退下(離任)、天平十九年二品直叙、宝亀元年立后、宝亀三年廃后、宝亀六年歿(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する。⑧伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十六年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは、斎宮の任務をとげたことによる。この前後に天智の孫の白壁王との婚姻が成立したとみられている*3。内親王の生年が不確定だが30歳前後か。
高野新笠(和史新笠-宝亀年中高野朝臣賜姓)①光仁夫人②和朝臣乙継③土師宿禰真妹-延暦九年追尊して大枝朝臣賜姓⑤桓武、早良親王(皇太弟-廃位)⑥生年不詳⑦天応元年皇太夫人(中宮職附置)、延暦八年崩御、同九年追贈皇太后、大同元年追贈太皇太后
酒人内親王①桓武妃②光仁③皇后井上内親王④桓武の異母妹⑤朝原内親王⑥天平勝宝六年⑦宝亀元年三品直叙、宝亀三年斎宮に卜定、宝亀五年群行、宝亀六年退下、後に二品、天長六年薨76歳⑧伊勢斎宮から帰京してまもなく宝亀七~八年頃、桓武の東宮時代。22~24歳。容貌艶麗。
藤原乙牟漏①桓武后(天皇より20年以上年少の皇后)②内大臣藤原朝臣良継[式]③阿倍朝臣古美奈⑤平城、嵯峨、高志内親王⑥天平宝字四年⑦延暦二年正三位に叙せられ夫人、同年四月立后(皇后宮職附置)。延暦九年閏三月崩御31歳、大同元年追贈皇太后、弘仁十四年追贈太皇太后⑧林陸朗によると安殿親王(平城)が宝亀五年生であるから、宝亀四年正月の山部親王(桓武)立太子前後に婚姻が成立と推定。結婚年齢は13-14歳。滝浪貞子は、他戸廃太子-山部立太子-乙牟漏入内が良継のバックアップにより百川の策動により進められたとみる。*4
藤原旅子①桓武夫人②参議式部卿中衛大将藤原朝臣百川[式]③藤原朝臣諸姉⑤淳和(延暦五年生)⑥天平宝字三年⑦延暦五年夫人、延暦七年薨30歳、贈妃、正一位。後贈皇太后⑧後宮に入ったのは延暦の初期、20歳代。帝より22歳年下。
*1神田千紗「白鳳の皇女たち」『女性史学』6 1996
*2井上亘「元正政権論」『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1997
*3林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって」『國學院雑誌』62-9 1961-9
*4 滝浪貞子日本古代宮廷社会の研究』 思文閣1991史学叢書
藤原帯子①平城②参議式部卿中衛大将藤原朝臣百川[式]⑥生年不詳⑦延暦十三年五月薨。大同元年六月追贈皇后。⑧平城の東宮時代。子をもうけていないのに贈皇后とは不可解で、兄の藤原朝臣緒嗣は再三辞退するが天皇は許さず。
朝原内親王①平城妃②桓武③妃酒人内親王④平城の異母妹⑥宝亀十年生⑦延暦元年斎宮に卜定、延暦四年群行、延暦十五年退下、三品直叙18歳、寵愛薄く弘仁三年妃を辞職。弘仁八年薨39歳⑧帰京された延暦十五年以後であることは間違いないが不詳。
大宅内親王①平城妃②桓武③女御橘朝臣常子③平城の異母妹⑦延暦二十年加笄。弘仁三年妃を辞職。四品直叙。嘉祥二年薨
高津内親王①嵯峨妃②桓武③女御坂上大宿禰又子④嵯峨の異母姉とする説あり⑤業良親王、業子内親王⑥生年不詳⑦延暦二十年加笄、大同四年三品を授けられ、妃とされるが、ほどなく妃を廃される。理由不明。藤原冬嗣の陰謀説*1、姦淫説等諸説あり不確定。外戚の坂上氏は武官の枢要を歴任し有力な軍事官僚で、有力公卿の藤原内麿や嵯峨側近の藤原三守とも姻戚関係があるので不可解な事件だが、冬嗣の異母弟三人の母が坂上氏である。冬嗣にとって高津内親王が後宮で権勢を有する事は具合が悪い。もしこれが陰謀なら冬嗣か坂上氏とライバル関係とみられる巨勢野足あたりが怪しい。⑧不詳
橘嘉智子 ①嵯峨后②内舎人橘朝臣清友⑤仁明天皇、正子内親王、秀良親王、秀子内親王、俊子内親王、繁子内親王、芳子内親王⑥延暦五年生⑦大同四年為夫人従四位下、翌年従三位、弘仁六年立后(皇后宮職附置)、弘仁十四年 皇太后、天長十年 太皇太后、嘉祥三年五月崩御65歳⑧結婚時期不詳。そもそも橘嘉智子は敏達裔九世孫とはいえ、謀反を起こした奈良麿の孫娘で、后位にのぼされうる女性だったとは思えない。嵯峨側近の南家巨勢麿流藤原三守が橘嘉智子の姉を妻としており、三守は蕃邸の旧臣であるから、婚姻は嵯峨の在藩時代とみられている。橘嘉智子立后は冬嗣の策動とみられており、その狙いは有力な皇位継承候補者だった恒世王の立太子阻止にあったのだろう。
高志内親王①淳和②桓武③皇后藤原乙牟漏④淳和の異母妹、平城・嵯峨の同母妹⑤恒世親王(皇太子に指名されるが辞退)、氏子内親王、有子内親王、⑥延暦八年または宝亀十年生⑦延暦二十年加笄、同二十三年三品、大同四年五月薨(贈一品)弘仁十四年贈皇后⑧『紀略』では大同四年享年二十一歳とあるので、延暦二十年加笄が13歳、恒世王が誕生した延暦二十四年は17歳であり、結婚年齢を14-16歳と推定できる。但し『紀略』の記事は三十一歳の誤写である可能性もあり、断定できない。
正子内親王①淳和后②嵯峨③橘嘉智子④淳和の姪、⑤恒貞親王(皇太子-廃位)恒統親王、基貞親王⑥弘仁二年生(仁明天皇と二卵性異性双生児とみられる)⑦天長四年立后(皇后宮職附置)17歳、天長十年皇太后(固辞)、仁寿四年太皇太后(固辞)、元慶三年三月崩御70歳、御陵なし。⑧17歳以下 立后が17歳であるため。
淳和太后は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた。また、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。*2太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきである。
藤原貞子①仁明女御②右大臣藤原朝臣三守〈南〉③不詳④三守の妻が仁明生母の橘嘉智子の姉妹の安万子であるが、もし母が橘氏なら仁明とは母方従姉妹⑤成康親王、親子内親王、平子内親王⑥生年不詳⑦天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山稜兆域内に葬られる。⑧薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代。年齢は不明。
文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえとせも、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり*3、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は筆頭女御なので(女御としては東宮生母の藤原順子より上位)女性史的にも重要な意義がある。
藤原順子(五条后)①仁明女御 ②左大臣藤原朝臣冬嗣[北]③藤原朝臣美都子[南]⑤文徳天皇⑥大同四年生⑦天長十年、従四位下、承和十一年従三位、嘉祥三年、皇太夫人(中宮職附置)、仁寿四年皇太后(中宮職継続、天安二年十一月二十五日より皇太后宮職)、貞観六年太皇太后(太皇太后宮職附置)、貞観十三年九月崩御63歳。⑧崩伝、三代実録貞観十三年九月十四日辛丑条「仁明天皇儲貳たりし日、聘して宮に入り給ひき」と見え、正良親王立太子とほぼ同時期、弘仁十四年15歳頃
藤原沢子①仁明女御 ②紀伊守藤原朝臣総継〈北家傍系魚名流〉贈太政大臣③藤原朝臣数子⑤宗康親王、光孝天皇、人康親王、新子内親王⑥生年不詳⑦承和六年六月卒後従三位、最も寵愛される。光孝即位により贈皇太后。⑧仁明の東宮時代
*1芦田耕一「高津内親王の歌をめぐって」『平安文学研究』61 1979
*2大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989
*3同上
藤原明子(染殿后)①文徳女御②太政大臣藤原朝臣良房③源朝臣潔姫[嵯峨一世源氏]④文徳からみて父方またいとこ、母方従姉妹⑤清和天皇、儀子内親王⑥天長六年⑦天安二年十一月七日皇太夫人(中宮職は天安二年十一月二十五日まで藤原順子と明子の御二方に奉事。幼帝清和擁護のため祖母と母が東宮雅院に同殿されていたため。順子が藤原良相邸に移御され皇太后宮職附置により、中宮職が独立。但し『中台の印』は順子が終身所持した後、皇太夫人藤原高子が所持、貞観六年皇太后(皇太后宮職附置)、元慶元年太皇太后(太皇太后宮職附置)、昌泰三年五月崩御73歳⑧文徳の東宮時代。『今昔物語』で知られるように物の怪気味で気鬱症に悩まれていたようだ。
藤原古子①文徳女御 ②左大臣藤原朝臣冬嗣④文徳の母方おば⑥生年不詳⑦嘉祥三年七月女御、仁寿三年従三位、天安二年十一月従一位
藤原多賀幾子①文徳女御②右大臣藤原朝臣良相④文徳の母方従姉妹⑥生年不詳⑦嘉祥三年七月女御、斉衡元年従四位下、天安二年卒
藤原多美子①清和女御②右大臣藤原朝臣良相④清和生母藤原明子と従姉妹⑥生年不詳⑦薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家に従う-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」帝最愛の寵姫であるのに子をもうけることができなかったのは結果論だと思う。清和天皇は九歳で即位して十六歳まで生母明子と東宮雅院で同居状態だったが貞観七年に内裏に遷御され、明子は東宮に止まり母と離れたののだが、応天門の変の後、皇太后藤原明子が後宮正殿常寧殿に移御されている。これは良房が内裏をミウチで固めて帝を取り込み(当時後宮を差配していたのが尚侍源全姫で、良房の義妹、皇太后のおば)筆頭女御の多美子を牽制する意図があったとみてよい。尚侍源全姫がやたらと多くの女御更衣を後宮に送り込んだのも多美子に里第へ退下を余儀なくするいやがらせとみてよいだろう。*1
藤原高子(二条后)①清和女御②中納言藤原朝臣長良③藤原朝臣乙春④清和生母藤原明子と従姉妹、良房の養嗣子基経の同母妹⑤陽成天皇、貞保親王、敦子内親王⑥承和九年生⑦貞観八年十一月頃に入内、十二月女御、貞観十三年従三位、貞観十九年皇太夫人(中宮職附置)、元慶六年皇太后(皇太后宮職附置)、寛平八年廃后(前皇太后職附置)、延喜十年薨、⑧貞観八年十一月入内26歳(帝より八歳年長)兄藤原基経が七人抜きで中納言に昇進し右大臣左近衛大将藤原良相が辞表を上ったほぼ同時期。応天門の変の背景に太政大臣良房の養女格であった高子の入内問題があった。『伊勢物語』等の二条后と在原業平の恋愛事件について、多くの学者は消極的な姿勢で史実性を認めているが、角田文衛*1は物語文学を精査したうえ、貞観元年十二月~二年正月皇太后宮東五条第西の対に業平が忍び通いをしたと断定しているが納得できる見解で、大略次のとおりである。高子は清和天皇の大嘗祭で五節舞姫に選ばれ、清和祖母皇太后藤原順子の里第東五条第に預けられていたのだが、当時皇太后は弟の良相邸(西三条第)に長期逗留、仮御所とされていた。皇太后宮は警備が手薄になっていた。しかも貞観元年八月九月の猛烈な台風で『伊勢物語』第五段のように築垣が崩れていたらしい。事件発覚後高子は良房の指示により異母兄国経と兄基経によって別の邸宅に移された。業平が『月やあらぬ‥‥』という有名な歌を詠んだのは貞観三年正月十五日頃である。いかに隠したって業平は人気者だから、極限された貴族社会では忽ち電波のように知れわたったに違いないとする。当時の太政官符の類を見れば明白なように、左大臣源朝臣信は名のみで、実際の政治は主として右大臣良相が施行していた。政権の主軸である良相が難色を示せば、いかに良房と雖も持駒の高子入内を強行できなかった。あるいは皇太后藤原順子が帝より八年も年長で派手な性格の高子を嫌って、行儀正しい多美子を推薦したとみられている。
さて、貞観八年応天門の変直前の状況について武野ゆかり*2は太皇太后藤原順子-右大臣藤原朝臣良相-大納言伴宿禰善男(国家財政担当の要職である民部卿と太皇太后大夫を兼官)の三者がむすびついていたとしているが、良相と伴善男は仁明の寵臣で同時期に参議に列し、民政重視で相通じる仲だった。しかも良相の嫡子常行は有能で、応天門焼失の直前に基経より上席で参議に列していた。むろん大納言平朝臣高棟や権大納言藤原朝臣氏宗は良房派で、両派閥は拮抗していたとみてもよいが、なんといっても良相女多美子は帝の寵姫で皇子誕生となれば、北家嫡流は良房-基経ではなく良相-常行に移行する可能性があった。しかし策謀において長じていた良房は貞観八年閏三月の応天門炎上〈真相は不確定〉を奇貨として巧妙な陰謀を企て一気に巻き返しを図った。伴善男を斃すとみせかけて、弟良相の失勢を図り、常行を挫折させ、無能だが嵯峨源氏長者たる源信を庇ってみせて賜姓源氏の信頼感を繋ぎ留め、人臣初の摂政となった。しかしこの事件は北家嫡流の権力抗争に還元できない。伴善男は嘉祥三年の任中宮大夫から貞観八年伊豆配流まで十六年間(母の服喪期間を除く)一貫して藤原順子の附属職司の長官であり御願寺安祥寺の造営などで信任されていたのである。上皇不在の状況では太后の啓令を吐納し命令を下達する職掌は重大であり、かれの貞観期における昇進と権勢は太后の政治力をバックにしていたことが大きい。従って太皇太后の発言権を封じる狙いもあったとみられている。太皇太后は仏教に帰依され(貞観三年二月出家)温厚な女性であった。しかしたんに憶測にすぎないが順子は文徳朝における良房の政治手法(文徳は内裏に常住できず、天皇親臨の政治体制ではなかった、良房は近衛府と弁官を掌握して権力を牛耳った)に疑念を持ち、行政手腕のある良相-伴善男-常行を台閣の主軸として天皇親政の構想であったのかもしれない。その気にさえなれば兄良房追放もありえたのであって、伴善男は武官を兼ねてないが良相と結託して軍事力を動員し源信邸を包囲しており、良房にとっても脅威となっていた。
班子女王(洞院后、院ノ太后)①光孝女御②二品太宰師仲野親王(桓武皇子)③当宗氏⑤是忠親王、是貞親王、宇多天皇、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃)⑥天長十年説が有力であるが異説あり⑦元慶三年二月、従三位、同年四月、女御、仁和三年皇太夫人(中宮職附置)寛平九年七月廿五日皇太后(皇太后宮職附置)昌泰三年四月崩御⑧時康親王(光孝)との結婚年齢は不明。昌泰三年崩御の年齢について日本紀略、扶桑略記、大鏡裏書等は48歳と伝えており、宇多(定省王)は貞観九年生で当時15歳になる。しかし宇多には二人の同母兄がいて、さらに忠子内親王という姉がいた可能性がある。しかも宇多の兄、是忠親王は元慶元年に次男をもうけており、班子女王は25歳で二人の孫を有していたことになり、不自然である。萩谷朴*3は68歳崩御説で、その論拠として西宮記皇后御賀事、伏見宮御記録母后賀例で寛平四年三月内裏后町(常寧殿)において中宮班子女王の六十の賀が行われたという記事を挙げているが、48歳崩御説を採る歴史家はこれを四十の賀とみなしている。父仲野親王(桓武皇子)は、頗る典礼旧儀礼に通じた博識の才幹で、親王は奏寿宣命の道を致仕の左大臣藤原緒嗣に学び、勅により藤原基経、大江音人に授けたほどだった(式部卿在職14年、貞観九年薨じた時点で二品太宰帥、贈一品太政大臣)。后は反摂関強硬路線の主導者とみられ、後述するように藤原穏子の入内を執拗に阻止しようとした。后は外祖母こそ京家流藤原氏(桓武女御藤原朝臣河子)だが北家藤原氏とは血縁関係がない。
藤原温子(東七条后)①宇多②関白藤原基経③操子女王⑥貞観一四年⑦仁和四年十月入内、ついで従四位下、女御。寛平五年、正三位。寛平九年七月廿五日皇太夫人(中宮職附置)、延喜七年六月崩御⑧仁和四年十月六日に入内が決まり、九日に女御となった。17歳。阿衡の紛議が急転直下落着する直前。この時点で藤原基経は宇多が「朕の博士」として重用した参議左大弁橘広相を厳罰に処す方針だったが*4、尚侍藤原淑子の裏面工作により事態の収拾が図られた。たぶん温子に皇子誕生となれば皇位継承者とし、橘所生の親王は皇位継承候補から明確に外すという取引により基経を妥協させたのだろう。亭子院は温子の里第である。
為子内親王①醍醐②光孝③班子女王④醍醐の伯母、宇多の同母妹]⑥生年不詳⑦寛平九年七月三日醍醐践祚及び元服当日に入内、七月廿五日三品を授けられ、妃とされた。昌泰二年女子を出産するがまもなく薨(贈一品)。
藤原穏子(「天暦太后」)①醍醐②関白藤原基経③人康親王王女④醍醐のまたいとこ、つまり醍醐の父帝宇多と穏子の母はともに仁明天皇と贈皇太后藤原沢子の孫である⑤保明親王(皇太子)、朱雀天皇、村上天皇、康子内親王⑥仁和元年⑦延喜元年三月、女御。延喜九年、従二位。延喜二十三年四月立后(中宮職附置)、承平元年皇太后(中宮職)、天慶九年太皇太后(中宮職)、天暦八年崩御
⑧正式に女御になったのは延暦三年三月で穏子は17歳であるが、それ以前に次のような経過があった。
宇多天皇の『寛平御遺誡』によると敦仁親王(醍醐)立坊も譲位のことも菅原道真一人と相談して決めたいう内幕を開かしている(但し敦仁立坊については尚侍藤原淑子も加わっていた可能性がある)。寛平九年七月三日の宇多譲位醍醐受禅は異例なことに、皇太子の元服加冠の儀と同日にセットされた。清和、陽成の元服は正月であり、七月というのも異例であるが、『儀式』では内裏の外で譲位式が行われるものだが、敦仁親王は当日東宮より内裏清涼殿に入り元服を加えたのち、譲位式が紫宸殿で行われ、譲位の詔で新帝の奏請宣行は時平と道真の輔導によれと命令を下すというきわめて特徴的な儀式になった*5。新帝醍醐は清涼殿に入御され(但し新帝の遷本宮は十月廿二日であるから、この後いったん東宮に還御されたようだ)、譲位後宇多は後宮の弘徽殿に入御された。奈良時代には元正上皇が中宮西院を居所とされた例があるけれども、平安時代は上皇が内裏に入御されるのは異例である。しかし長くとどまることはできないので、八月九日に母后班子女王とともに東院(もしくは洞院)に遷御されている。この特徴的な皇位継承はたんに摂政不設置の口実づくりだけが目的だったということではない。為子内親王入内のタイミングはこのやり方が最善だったということである。なぜならば、もし藤原温子の皇太夫人に上った「七月廿五日」後だと、後宮の第一人者は后位に准じた温子ということになり、皇太夫人藤原高子や班子女王が帝の後楯となって常寧殿を居所とした慣例からみて温子を移御させる口実が難しくなるが、醍醐養母温子が宇多筆頭女御にすぎない時点で新帝伯母の為子が後宮に入ったので、温子に移御せざるをえないようにし向けたとと考えられる。そして最大の目的は藤原穏子入内強行の阻止にあった。宇多と班子女王はたぶん東宮大夫を兼ねる藤原時平が新帝としめしあわせている疑いをもっていた。宇多天皇はそのために譲位式後にわざわざ清涼殿に隣接する殿舎(弘徽殿は温子の直廬であるから、温子は当日別の殿舎に移っていたか、里第に退下していた)に入御されたと思われる。
『九暦逸文』(藤原師輔)によると皇位継承当日七月三日の夜、皇太夫人班子女王は娘の為子内親王とともに参内した際、穏子(13歳醍醐と同年齢)がともに参入してきたので、班子女王の命により宇多上皇が穏子の参入を停めたという。どうやら穏子は寝所近くまで入ってきたので、班子女王が待機状態にあった上皇を呼びだし、上皇御自ら実力阻止行動に出るというドタバタ劇があったようだ。また昌泰二年妃為子内親王が薨じた際、皇太后班子女王は「為子の産褥死は穏子の母にあたる人康親王女の怨霊が祟りをなした」という浮説を理由に執念深く穏子入内を禁じたという。その後穏子の兄、左大臣藤原時平が謀をめぐらして穏子を参入させてしまった。宇多法皇は怒気をあらわしたという。記者の藤原師輔は皇太后藤原穏子の中宮大夫を歴任しており、太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)に納れることに成功していることからみて、これは伝承というよりも后本人か近侍する女官から直接きいた可能性もあり疑う余地のない事実である。
結果論でいえば、妃為子内親王が昌泰二年に薨じたことが、穏子にとって幸いだった。この年の二月、時平・道真左右大臣二頭体制がしかれたが、道真の奏請宣行は他の公卿が公事をボイコットする事態を招いた。焦った宇多法皇は昌泰三年正月の朱雀院朝覲行幸の折、天皇と談合のうえ道真に関白の任を授けんとしたが、道真が固辞して実現しなかった。同年四月睨みをきかしていた班子皇太后も崩御になられ、同年十一月三好善行が道真に辞職勧告の書状を送っている。そこで問題となる翌延喜元年正月の菅原道真と右近衛中将源善の追放事件だが、戦前は道真は忠臣であるから冤罪とされてきたが、近年では法皇の側近源善が醍醐退位斉世親王擁立の企てに道真を誘ったというのは事実とみるのが普通になっているようだ。法皇の影響力は決定的に低下し、同年三月穏子は晴れて女御となったのである。
この一連の事件をどう解釈するか。敦仁親王(醍醐)立坊、宇多譲位の目的についても議論の分かれる問題で単純ではない。醍醐の生母は藤原高藤女胤子で寛平八年に薨じているが、外祖父の高藤は北家冬嗣流の傍系(良門流-勧修寺流)で権勢家でなく無難な人物である。基経薨後の藤氏長者は良房の異母弟の良世で、長く藤原明子の皇太后大夫の職にあり、良房に追従し警戒されることもなく長命でもあったので、傍系でありながら廟堂首座左大臣にまで昇進したという人物である。北家嫡流の時平は有能だがまだ若年で「摂関権力」の中だるみ状況がみられる。そうしたことから、多数説は反摂関路線とみなす見解であり、女御藤原温子に皇子が誕生しないうちにさっさと譲位したいとという宇多天皇の思惑があったのかもしれないが、そうではなく摂関家との協調体制とみる角田文衛説の方が無難な見解だと思う。藤氏としても敦仁立坊は温子に皇子が生まれない以上次善の選択であり、およそ摂関家の協力なくして安定政権は望めないし、そのために東宮大夫に時平を任じたものとみてよい。たぶん角田文衛の推測するように敦仁立坊の時点でパイプ役の尚侍藤原淑子を通じて元服後の穏子入内が了解されていたと思う。ところが、班子女王がこれを反故にして娘の為子内親王を強く推した。たぶん中宮班子女王が反摂関復古維新強硬路線の主導者で宇多や道真は中宮の意向に引きづられていったのだろう。寛平八年、唐突にも皇太后藤原高子が八年も前の御願寺東光寺僧善祐との密通の疑いを口実にして后位を廃され、くすぶっていた陽成上皇の復僻運動あるいは貞数親王の擁立運動を封じたことにより、中宮は俄然強気になった。(もっともこの事件は空位をつくるための便宜的なもので、皇室と藤氏の思惑が一致した-宇多上皇は温子の皇太夫人号に当初反対したようだが、藤原氏としては醍醐養母温子の皇太夫人号中宮職附置は譲れない一線で、高子の側近、皇太后宮大夫国経は「お人好し」でもあったため后位を退いてもらった-のかもしれない)藤原氏側はまさか年長の伯母を妃となすとは思いもよらなかったが、穏子は13歳といっても聡明な女性であり摂関家の命運にかかわる事の重大さを承知していて、それゆえ果敢にも副臥をめぐって為子内親王と張り合おうとしたのだろう。
*1角田文衛「藤原高子の生涯」「良房と伴善男」『王朝の映像』東京堂出版 1970
*2武野ゆかり「中宮職補任-藤原順子・明子・高子の場合」『神道史研究』29-3 1981
*3萩谷朴『平中全講』
*4目崎徳衛「関白基経」『王朝のみやび』吉川弘文館 昭和53年所収
*5 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館 1986
藤原穏子については角田文衛「敦仁親王の立太子」『王朝の明暗』東京堂出版1977、「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第6巻』法蔵館 昭和60等からも引用している。
藤原安子①村上后②右大臣藤原師輔③藤原盛子⑤冷泉天皇、円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王⑥延長五年⑦天慶三年四月婚儀(成明親王立太子より前)、同年八月、従五位下。同九年五月、女御、従四位下。天暦十年、従二位。天徳二年立后(中宮職附置)、康保元年四月崩御38歳⑧天慶三年14歳
昌子内親王(三条太皇太后・観音院太后)①冷泉后②朱雀③女御凞子女王④冷泉の従姉妹⑥天暦四年八月十日『類聚符宣抄』 ⑦袴着-天暦六年十一月廿八日『吏部王記』 裳着-応和元年十二月十七日『日本紀略』 三品に叙せられる。入内-応和三年二月廿八日東宮憲平親王の元服加冠の儀当日*1、康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第に御す。天禄四年皇太后(皇太后宮職附置)、寛和二年太皇太后(太皇太后宮職附置)、長保元年十二月崩御50歳⑧応和三年二月皇太子が元服を加えた当日13歳(満11歳)
藤原媓子(堀河中宮)①円融后 ②関白藤原兼通③昭子女王⑥天暦元年⑦天延元年二月、入内。天禄四年立后(中宮職附置)、天元二年六月崩御33歳⑧天延元年27歳
藤原遵子(四条宮、「素腹后」)①円融后②関白藤原頼忠③厳子女王⑥天徳元年⑦天元元年、入内、女御。天元五年立后(中宮職附置)、永祚二年中宮より皇后宮(この時点で円融上皇は在世。太上天皇妻后でも皇后。実資は「往古聞かざる例」としているが、帝母でない前代以往の天皇の妻后は皇后と称するのが令意に叶ったあり方なのである。これは嫡妻権限の明確な中国、近代日本の制度と異なる。)、長保二年皇太后、寛弘九年太皇太后、寛仁元年六月崩御61歳⑧天元元年17歳
藤原詮子①円融女御②摂政藤原兼家③藤原時姫⑤一条天皇⑥応和二年⑦天元元年、入内、女御。寛和二年三月正三位、同年七月立皇太后〈女御から直接皇太后に上った初例、中宮藤原遵子と地位逆転、遵子は詮子の口さがない女房から「素腹后」とあざけられた『大鏡』〉、正暦二年后位を退き院号宣下・東三条院〈女院制度の初例。初期の女院は帝母に限られ太上天皇に准じ后位に勝るとも劣らぬ顕位で宮廷で求心力を有した〉。長保三年閏十二月崩御40歳。⑧天元元年17歳
藤原定子①一条后②関白藤原道隆③高階貴子⑤脩子内親王、敦康親王、もう一方内親王⑥貞元二年⑦永祚二年正月入内、同年二月女御、従四位下、同年十月立后(中宮)〈四后宮並立の初例〉、長保二年二月皇后宮〈転上と記すのが通例だが、中宮より非帝母の班位でもある皇后宮へ異動させられた〉長保二年十二月崩御24歳⑧永祚二年14歳、琵琶、歌をよくし、『枕草子』著者清少納言の景仰せし女性。
藤原彰子①一条后②摂政藤原道長③源倫子④一条の母方いとこ⑤後一条、後朱雀⑥永延二年⑦長保元年二月従三位、十二月入内して女御、長保二年二月立后(中宮)〈一帝二妻后の初例〉、寛弘九年皇太后、寛仁二年太皇太后、万寿三年院号宣下・上東門院、承保元年十月崩御87歳⑧長保元年十二月女御12歳
藤原妍子(枇杷太后)①三条后②摂政藤原道長③源倫子④三条の母方いとこ⑤禎子内親王⑥正暦五年⑦長保五年二月著裳、寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳⑧寛弘七年17歳
藤原娍子(宣耀殿女御)①三条后②大納言藤原済時③源延光女⑤小一条院敦明親王、敦儀親王、敦平親王、師明親王、当子内親王、⑥天禄三年⑦正暦二年十二月一日東宮に入侍、寛弘八年八月女御、従四位下寛弘九年四月廿七日立后(皇后宮)、万寿二年三月崩御54歳 ⑧正暦二年19歳。三条天皇居貞親王の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(時に太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により、東宮を去った。第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは太子の発意による成婚で、時に太子16歳、娍子19歳であった。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいたが、長徳元年、関白道隆は二女原子中姫君を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する*2。
寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に六人皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后宮に立つることとなった。
*1 河村政久史「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
*2 竜粛 『平安時代』春秋社1962
藤原威子(大中宮)①後一条后②摂政藤原道長③源倫子④後一条の母方おば⑤章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(後三条后)⑥長保元年⑦寛仁二年立后(中宮)、長元九年九月崩御⑧寛仁二年19歳 帝より九歳年長
藤原嬉子①後朱雀(東宮妃)②摂政藤原道長③源倫子③後朱雀の母方おば⑤後冷泉天皇⑥寛弘四年⑦寛仁二年尚侍、同三年従三位、治安元年東宮に入侍、万寿二年八月に19歳の若さで薨、贈正一位、のち贈皇太后 ⑧治安元年15歳
禎子内親王①後朱雀后②三条③中宮藤原妍子④母方いとこ⑤後三条天皇、良子内親王、娟子内親王⑥長和二年⑦長和四年准三宮、治安三年裳着、一品に叙される11歳、万寿四年東宮妃、長元十年二月十三日立后(中宮)、長元十年三月一日中宮より皇后宮へ、永承六年二月十三日皇太后、治暦四年四月十七日太皇太后、治暦五年二月十七日院号宣下・陽明門院、寛治八年正月崩御82歳⑧万寿四年16歳
藤原嫄子(もと嫄子女王、弘徽殿中宮)①後朱雀后②関白藤原頼通養女、実父敦康親王③具平親王王女⑦長暦元年入内、女御、従四位下、長元十年三月一日立后(中宮)、長暦三年八月崩御24歳、殊寵あり。⑧17歳
章子内親王①後冷泉后②後一条③中宮藤原威子④父方も母方もいとこ⑥万寿三年⑦長元三年十一月、一品、准三宮、長暦元年十二月東宮妃、永承元年立后(中宮)、治暦四年四月十七日皇太后、延久元年太皇太后、延久六年院号宣下・二条院〈非帝母女院の初例〉、長治二年九月崩御80歳⑧長暦元年11歳
藤原寛子(四条后)①後冷泉后②関白藤原頼通③藤原祇子⑥長元九年⑦永承五年十二月入内、女御、従四位下、永承六年二月立后(皇后宮)〈頼通は中宮を望んでいたが、聡明な章子内親王が中宮を譲らなかった『栄花物語』〉、治暦四年四月十七日庚午海やより中宮へ、延久元年皇太后、延久六年太皇太后、大治二年八月崩御92歳⑦15歳
藤原歓子(小野皇太后)①後冷泉后②関白藤原教通③藤原公任女⑥治安元年⑦永承二年十月入内、同三年七月女御、同六年頃から参内せず、小野山荘に籠居、治暦四年四月十七日立后(皇后宮)『扶桑略記』に宣命によらず宣旨によったとされ変例。承保元年皇太后、康和四年八月崩御82歳、容姿艶麗にして琵琶、画に巧み。白河上皇の雪見行幸は歓子の心尽くしの饗応で世に著聞す⑧27歳
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