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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2009/08/02

「別居」「離婚」「廃太子」以外の選択肢として立后せずに妃位・夫人位にとどめる案はどうか(1)

 国家最重大事とは皇位継承である。「廃太子」にまで踏み込んだ橋本明氏の提言について週刊朝日などのメディアが取りあげていますが、基本的には所功教授の言うように、皇太子本人に決定的な不都合がない以上、妃の病気を理由とする廃太子はありえない(ウィル9月号の橋本明氏の記事)というのが一応無難な見解のようには思える。しかしながらせっかく橋本氏が国民的議論をと呼びかけているので無視はしないし、このブログでも意見を述べることとしたい。
 これまで男帝でも子孫が皇位継承していない一代限りの天皇は多くの例があるし、朱雀・後一条・後冷泉・後光明のように、皇子がなかったために、弟の村上、後朱雀、後三条、霊元に皇統が移ったケースがありますが、皇太子と秋篠宮の関係もこれに類比してよいわけです。近世では後光明天皇の皇子女が孝子内親王御一方だったために、皇弟の高貴宮(霊元)を養嗣子としたケースがあります、このケースに類比しても良いわけです。また後伏見天皇皇弟の富仁親王(花園)が後伏見の猶子として皇位継承者とされた(これは伏見院政ののち後伏見が院政をしく立場であることを明確にするものだが)例もあります。
 
 弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)
第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)
*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です
 
 恒貞親王(承和の変で廃太子)は嵯峨天皇の甥にあたります。正確にいうと母正子内親王が嵯峨皇女ですから孫にもあたるので、皇太子殿下と悠仁親王殿下の血縁関係よりずっと濃いのですが、嵯峨天皇が恒貞親王を愛されていたことは恒貞親王伝で知られているとおりで、恒貞親王とは従兄弟の関係にある仁明天皇の正嗣として皇太子に立てられた。これは嵯峨上皇の意向によるものと考えられている。仁明皇子道康親王(文徳)は恒貞親王と年齢差はほとんどなかったはずだが、直系の孫ではなく、甥の方が優先順位が高かった例である。240年前の光格天皇から皇太子殿下まで八代直系の嫡嫡継承が続くこととなりますが兄弟継承や叔父-甥継承があってもなんの不可解なことはないから、あえて直系継承の継続にこだわって廃位とする必然性はないのである。
 しかし一般論として妃として不都合な事情があれば、むろん廃妃・妃辞職の前例があるからそれを検討しても良いと思う。
 

廃后・廃妃事件等
 
 和銅6年 嬪石川 刀子娘【とねのいらつめ】紀 竈門娘【かまどのいらつめ】 嬪位剥奪

 文武天皇には聖武生母夫人藤原宮子のほかに、嬪として石川刀根娘と紀竈門娘というキサキが知られており、文武崩後に 嬪位を剥される事件が起きている。角田文衛氏によると、首皇子の立太子の前年であること、石川刀根娘所生の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪されることからら、橘三千代又は藤原不比等の謀略である蓋然性の高い事件とされている。
 
 宝亀3年 井上内親王(光仁后・聖武皇女)廃后
 巫蠱厭魅の容疑で皇后を廃される。次いで所生の他戸親王も皇太子を廃される。大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉される。藤原百川及びその周辺の謀略である蓋然性の高い事件と言われている。宝亀六年没(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する。
 
 弘仁3年 平城妃朝原内親王(異母妹)・大宅内親王妃辞職
 薬子の変で平城上皇敗北のため。
 
 弘仁初期 嵯峨妃高津内親王(異母姉)廃妃

 理由不明。藤原冬嗣の陰謀説、姦淫説等諸説あり不確定。外戚の坂上氏は武官の枢要を歴任し有力な軍事官僚で、有力公卿の藤原内麿や嵯峨側近の藤原三守とも姻戚関係があるので不可解な事件だが、冬嗣の異母弟三人の母が坂上氏である。冬嗣にとって高津内親王が後宮で権勢を有する事は具合が悪かったとはいえる。
 
 参考芦田耕一「高津内親王の歌をめぐって」『平安文学研究』61 1979   

 清和天皇譲位後の女御藤原多美子以下の辞職

 これは、当時財政難で、清和上皇が封戸の半分を返上したことでも明らかであるが、女御藤原多美子は父右大臣藤原良相が応天門の変で失脚したことから政治的敗者である。
薨伝「徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家に従う-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」。
 
 寛平八年 廃后 皇太后藤原高子(陽成生母)廃位
 
 角田文衛によれば藤原高子の御願寺東光寺座主善佑との八年前の情事がむしかえされ、それを理由に皇太后尊号を奪った事件であり、当時高子は55歳だった。但し、前皇太后職が附置され、上皇生母たる体面を保つ生活は保障された。これは陽成上皇の復辟運動を抑止するための政治的な事件とみて良いだろう。なお名誉回復はかなり後のことである。
 参考 角田文衛『二条后 藤原高子』幻戯書房2003
 
 居貞親王(三条)の東宮に入侍藤原綏子の例
 
 居貞親王の最初のキサキは外祖父藤原兼家の三女尚侍藤原綏子が永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
 
 
 (つづく)

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