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2009/10/21

明治民法の夫婦同氏の意義その4(夫婦別姓反対下書き)

 明治民法施行前の妻の氏その3(承前)

 明治9年の太政官指令は「妻は所生の氏」とするものであったが、我が国の社会構造からすると、妻に所生の氏を唱えさせる法文化的基盤(姓が単系出自の血族概念であるという)は弱かったと考えるし、だからこそこの指令はほとんど浸透することがなかった。なぜならば我が国では厳密にいうと王朝時代(十~十二世紀)から既に姓は血族概念でも父系出自系譜とはいえなかったのである(例外は皇親であるが皇室には姓はないが父系出自系譜で貫徹する)。-今回はこれまでブログに出した切り貼りのような内容のみ-

 日本の標準的な村落の家成員交替過程の規則性については、清水昭俊(「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 197)が出雲地方の調査のうえ、現地の慣行を詳細に分析して厳密な定義を行っており、庶民の一般的な慣行を示していると思うので引用する。
 清水昭俊は家成員を実子、養子、婚入者(婿・嫁)、家成員からの排除を、婚出、養出、分家設立と定義したうえ、家の時間的連続は次代の家長(夫)と主婦(妻)を確保することによって保証されるとする。
 但し、次の二点で清水は特徴的な見解を示す。第一に「婿養子」という用語は法律用語、民俗用語としてはともかく、学的用語としては不適切とする。「嫁養子」という言葉はないから、たんに「婿」でよいのだという。なぜならば、「婿養子」はたんなる配偶者、養子ではなく、「家督相続」と学的に認識されており、婿とは家長(予定者)、嫁とは主婦(予定者)の地位である、という説明が要領をえており理屈のうえでは清水の見解に従うが、私は外孫の養取による女系継承に類比することもできるから、婿養子という言葉を用いないというわけにはいかない。
 第二に婚姻に先立って家成員である者を「家連続者」という概念を提示し、家督相続予定者の概念と区別している点。つまり通常は長男が「家連続者」であり家督相続者でもあるが、男子のないとき又は死亡したときは長女が「家連続者」になって婚入配偶者(婿)を迎える、この場合婿が家督相続者、長女が主婦となる。
 最下世代の夫が結婚後死亡し実子がなく寡婦が結婚可能な年齢である場合、生家に帰されることもあるが、家内に亡夫の弟がいれば、寡婦となった嫁が亡夫の弟に再嫁するレヴィレート婚(逆縁婚)が選択されるが、弟がいない場合には「家連続者」となってあらたに家外から婚入配偶者(婿)を迎えることもある。婚入配偶者の嫁も家成員であるから「家連続者」たりうるのである。このケースは血筋は中切れになる。清水の理論は家成員の実子、養子、婚入配偶者は全て、婚入配偶者を迎えて家連続者たりうるということで明快であり、それがまさに日本的家制度の特徴といってもよい。優れた概念提示であると思う。
 さらに出雲地方の現地調査から家連続者には優先順の規範性があることを示している。アンシャンレジーム時代のフランスのパリ-オルレアン地域が父母権が強く選定相続の慣習であったことが知られているが(エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリー木下賢一訳「慣習法の体系」アナール論文選2『家の歴史社会学』)日本の家は違う。慣習上の規範性がある。
1-最下世代夫婦の長男、2-同夫婦の長男に次ぐ長男子、3-同夫婦の長女子(婿が家督相続者となる)、4-同夫婦内の家連続者の弟、5-同じく妹(婿が家督相続者となる)、6-家外に求めた養子 
 
 この出雲地方の事例はたぶん農村における庶民的な家の標準的な在り方を示しているとみなしてよいだろう。つまり第一の規則は父系継承、第二の規則は双系的継承、第三の規則は事実上非血縁継承。もっとも家格の上の家ほど血筋の中切れを嫌う。中切れによって家格の下降をもたらす要因と認識されているという(清水昭俊「〈家〉の内的構造と村落共同体」『民族学研究』35巻3号 1970 212頁註27)。
  
 清水昭俊は日本の「家」制度を準父系とする。父系出自が原則だが、非血縁の異姓の男子にも家を継がすの是とするためである。日本の「家」の非血縁継承ないし女系継承の歴史をふりかえっておこう。

 日本の場合、既に平安時代から姓は血族概念ではない。我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、宇根俊範(律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』)147 1980)によると九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根俊範によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。同姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 関連して実務官人では11世紀には諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985)とする。博士家の門弟の改姓が非血縁継承のたぶん初期の事例とみてよいだろう。
 
 
 明石一紀(明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下)によると鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。明石が列挙されている事例は中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、非血縁継承や女系継承のある原型は院政期以前に遡ると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏である。もとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石一紀(前掲書)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。それはそうだろうが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。これは先に述べた清水昭俊のいう婚入配偶者たる嫁が家外から配偶者を迎えて家を継承する非血縁継承の原型となる重要な先例として特に記した。
 

 しかしながら、明治初年までフォーマル養子制度の観念として父系血縁者たる同姓(同宗)の男子を収養して継嗣とすべきだという中国伝来の「異姓不養」の観念も一貫して存在した事も歴史的事実と考えられるので次回その経緯に言及する。

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