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2009/10/25

明治民法の夫婦同氏の意義その5未完(夫婦別姓反対下書き)

  中山成彬東京事務所への請願書の郵送の締め切りが10月31日消印と時間がなくなってきたので、基礎研究は不十分ですがいったんこれで打ち切って次は請願書の下書きをポストします。http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-41.html

明治民法施行前の妻の氏その4(承前)

 中世においては養子がまず同姓から選ばれるべきだという中国式の原則はあったものの適当な者がいないとき異姓の養子を迎えるのが通例とされていた。徳川時代は儒学が官学とされ、儒教的な異姓不養の原則を「筋目」たるべきものとする「筋目尊重政策」がとられたとはいえ、やはり異姓不養の原則を貫徹することはなかった。
 この点については江守五夫が要領よく説明している(『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』第一篇第二章養子制度にみる二つの父系出自概念 弘文社1990)

 初期の徳川幕府は無嗣による大名取り潰しを図るべく、武家の養子に対して厳しい要件を出し末期養子を禁ずるとともに「筋目なきもの」の養子取り立てを禁じ異姓不養の原則を貫徹させた。

 元和元年(1615)の禁中方御条目「養子者連綿。但可被用同姓。女縁者家督相続・古今一切無事」と定め、寛永九年(1632)の諸士法度「跡目之儀養子は存生之内に可得御意、末期におよひ忘却の刻艱申之、御もちいあるへからず。勿論筋目なきもの御許容有間敷」と規定。

 ところが幕府は、慶安事件(由井正雪の乱-慶安四年1651)を契機として、治安対策上、浪人発生源となる大名取潰しを防止する政策に転換した。寛文三年(1663)の武家法度で異姓の養子取り立てを解禁した。これは天和三年(1683)の武家諸法度でも継承され、宝永七年(1710)の武家諸法度では付則において「同姓の中継嗣たるへき者なきにおいてハ、旧例に准じて、異族の外族を撰ひて言上すへし」と定めた。
 異姓養子解禁後のよく知られている女系継承例が出羽米沢藩主(第四代)上杉綱憲である。実父が忠臣蔵の仇役で有名な吉良義央で、実母が第二代米沢藩主上杉定勝女富子(第三代綱勝の妹)だから、先々代からみて外孫、先代からみて外甥を養子としたことになりますが、これは異姓養子だが、非血縁継承ではなく、血縁としては女を介して繋がっている事例である。このように幕府は原則は貫徹しなかったが、幕藩権力の「筋目尊重主義」政策により異姓不養がフォーマルなあり方とはされた。
 異姓養子の解禁によって儒学者と国学者による論争が展開されたが、室鳩巣、本居宣長、跡部良顕は異姓養子容認論を展開、三浦梅園は儒学者「から〔唐〕の書に見なれ、からの教にあはざる事をば疑ひあやしむ」あまり「我国のならわし」たる他姓の養子とくに婿養子を非難するが、それはまさに「学習の弊なるべし」と批判。異姓不養を説く儒学者ですら自家の継嗣に異姓養子を立てたのであり、荻生徂徠や太宰春台は言行不一致により太田錦城の非難をうけた。(穂積陳重「養子正否論」『祖先祭祀ト日本法律』有斐閣1917附録)しかしながら幕藩権力の「筋目尊重主義」政策により異姓養子は非とするのがフォーマルなあり方とはされたし、その観念は明治末期まで士族層に固執されていたとの説もある。

(乃木伯爵家絶家再興のケースが問題とされる。陸軍大将乃木希典の息子は二人とも日露戦争で戦死、三男は夭折したため、山縣有朋や寺内正毅から乃木家の旧主にあたる長府藩主の後裔、毛利子爵家の次男元智を養子を立てて相続させようとする運動があったが、乃木伯爵は明治天皇大葬の夕に殉死、遺書によりいったんは絶家とされた。これについては井戸田博文『乃木希典殉死・以後―伯爵家再興をめぐって 』新人物往来者1989という研究がある。自刃と伯爵家絶家については、西南戦争で軍旗を奪われたこと、日露戦争で多くの部下を犠牲にしたことに責任を痛感していて、受爵は一代限りとする考えを持っていたようであるが、もともと会沢正志斎『新論』などを読んでいて異姓養子を非とする考えであった。その後養子制度に批判的な見解を持っていて、長州閥による旧主家を養子とする運動に乗り気でなかった。自刃の三年後に毛利元智により乃木伯爵家が再興されるが、絶家を望む故人の遺書が報道されたことから国民の反対運動が起き、結局昭和九年に爵位を返上、姓も毛利に戻した。)

 明治維新後の養子制度については、明治元年(1868)11月28日堂上諸侯中下大夫の家督に関して法令を発し、同姓養子の原則を採用した。ところが、明治三年(1870)の閏10月17日の布告であっさり覆され、華士族の養子につき「実子無之輩ハ、年齢二不拘わり、養子願子之儀可為勝手事」とされた。
 明治六年1月の太政官官布告第28号華士族家督相続法は、男女子共にないとき「血統ノ者」を養子とすべきことを原則としつつも婿養子をとることを認めた。さらに佐賀県の伺に対して、太政官は「実子并血統者之無時ハ、他人の子弟養子致シ‥‥候儀不苦候事」ち回答しており実質的に他姓養子を是認した。
 そして明治31年民法は、養子について血統上の要件を一切付けなかった。

 なぜ日本で徳川時代に儒学が官学とされながら、異姓不養原則が根付くことがなかったのだろうか。
 李氏朝鮮は朱子学を国政の基本とし、崇儒排仏政策をとり、朱子家礼による祭祀が浸透していったが、韓国においては婿養子はありえないのであって、異姓不養の原則が貫徹される。しかも昭穆制というものがあり、これは宗廟における太祖以下代々の配置を述べたもので左側に偶数代を昭、右側に奇数代を穆。廟には木主(位牌)を安置する意味だが、養子は昭穆にそった同世代の親族てなければならない。養子資格者がなければ、その家は断絶し、位牌は山に埋められるのであって、日本の家のように他姓養子をとる事による永続性はない。
 江守五夫によると異姓養子を非とする最大の理由は、春秋左氏伝に「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、神霊は自己の血族以外の者の祀を享けないとする祭祀観念にあるとする。祖先の祭祀は父系的血族によってのみ執行されるべきであり、その祭祀の絶えざるが為に養子が取り立てられるがゆえに、養子は祖先と血縁者(同姓)であらねばならないとするものである。この思想を貫徹するなら、我が国のような非血縁養子は道義に反するものである。

実際、韓国の門中(5代祖以上の祖先を祭祀する父系出自親族集団)で重要な祭祀である時祭(年一度墓所で行われる)は単に死者の霊を生者が祀るというものではなく、親子関係に基づく尊卑の序列を前提とするものであり、子が親に尽くすべき孝の延長とみなされている。時祭は女性は絶対に参加しないものとされ、それは同姓不娶で血縁関係にないから当然のことである。
 日本は高麗のように元に支配されなかった。あるいは満洲族のように中国を支配するために積極的に漢族の法文化に同化していくこともなかった。また高麗末期から李氏朝鮮にみられる儒者による崇儒廃仏運動もなかった。徳川幕府の宗教政策は寺壇制度(家単位でどこかの寺の信徒に登録されることを通じ管理を受ける)であって、我が国では仏教による祖先供養が一般的で、儒教の祖先祭祀は普及しなかったというのは決定的差異であり、異姓不養に固執しなければならない社会構造にはなっていない。
 中国の漢族、李氏朝鮮-韓国においては出嫁女は夫宗に帰属し、出嫁女が婚家に帰属することは日本と同じであるが、夫婦別姓であるのは、同姓不娶という宗法制度の鉄則を維持する血族識別の為である。韓国では同姓同本の血族の通婚が禁じられている。朝鮮には300近い姓があるが、金氏は500、李氏は470にのぼる本貫を姓に冠して血族識別の標識としている。(李丙洙「朝鮮の「同姓不婚」制」高梨公之教授還暦祝賀論文集『婚姻法の研究. 上 婚姻制度論』有斐閣1976  )
 我が国は宗法制度による親族構造に再編されることはなかったから、血族識別としての夫婦別姓が受容される基盤はなかったのである。
 
 だだ私は、明治9年の太政官指令が「妻は所生の氏」とした社会的背景として山中永之祐氏が(「明治民法施行前における妻の氏」高梨公之教授還暦祝賀論文集刊行発起人会編『婚姻法の研究 上 婚姻制度論』有斐閣 1976)、封禄を挙げているのは妥当な見解かもしれない。「徳川時代、武士は一般に世襲の封禄によって家族の生活を維持した。封禄は武士個人は武士個人ではなく「家」に対して与えられ、家格によって序列がつけられていた。そのため家を象徴した氏も当然尊重された。武士の世界はいうまでもなく男子優位の世界であった。男子が「家」を嗣ぎ、世襲の封禄をうけたからである。」 
 したがってこの趣旨では、婚入配偶者が姓を冒すことは認めないという趣旨は理解できる。
 しかし、だからと言って徳川時代に妻が生家姓を冠称していたわけではない。これについては大藤修や柴桂子の夫婦別姓旧慣習説批判で明らかなことである。
    http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4309.html
    http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-1274.html
 
  つづく

 

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